上杉荘の城 弾正屋敷・宮の谷砦(仮)・今北砦・八田城・久保城
京都:綾部市 (五万図=綾部)
近畿の山城上杉弾正屋敷  宮ノ谷砦〈仮称〉 今北砦  八田城 久保城
      治部ヶ尾城・一之瀬城は未訪

上杉弾正屋敷から望む久保城

綾部市街地を抜けR27号線を舞鶴方面に向う。車道沿いに並走する綾部市北部:JR舞鶴線淵垣駅の北に迫る丘陵上に 中山城が在る。国道傍に足利尊氏像が立つ安国寺 【足利尊氏が全国に建てた安国寺の筆頭・足利尊氏の母(上杉)清子は上杉荘の上杉頼重の娘】入口を過ぎ京都縦貫自動車道(丹波綾部道路)高架を潜り・八田川沿いのJR梅迫駅から約400m程で ”梅迫口”分岐。 此の付近より北方の上杉町一帯が何鹿(いかるが)郡八田(やだ)郷だが建長年間頃より一時期上杉荘だったところ。以前:高城山 (高城城)への取付きを探して此処を左折しJR梅迫駅側に戻ったが車道は狭く駐車スペースも無さそうで諦めて、 反対の西方・七百石町側から登った事があった。
上杉弾正屋敷から望む今北砦

高城城への都城ルートが 日吉神社を挟んで下記宮の谷砦(仮称)の在る尾根筋一つ南側の枝尾根からも通じていた。平安時代の八田(やだ)郷は東八田・西八田・上八田地区等、何鹿(綾部市)郡内十六郷あった荘園の一つで鎌倉時代から南北朝期の荘園 上杉荘は東八田の一地域に属するようだ。上杉荘と上杉氏については下記上杉弾正屋敷の項に譲るが、此の頃より勢力をもつ 高城城の大槻氏との関係は不詳(未調査)ながら足利幕府の関東管領で上杉荘を所領にもつ上杉氏と、 足利氏に付いて所領を安堵されてきた?土豪:大槻氏との間に荘園横領等の抗争はなかった筈・・?。
上杉荘南玄関:日吉神社は高城城東尾根先に位置する

なんせ足利尊氏の母清子は、幕府の第6代征夷大将軍として宗尊親王(嵯峨天皇の皇子)が鎌倉へ下向した際に護衛役として従った勧修寺(上杉)重房の孫娘。 其の功により上杉荘を賜り上杉弾正朝定が上杉町小嶋に屋敷を構えている。室町時代には其の中に本郷<上杉氏領>・上村(七百石町・上八田町<安国寺領>)・高槻保等が上杉氏(足利高氏の執事・関東管領で 山内家の租?)や安国寺領等の分領地があった。


上杉弾正屋敷 宮ノ谷砦〈仮称〉 今北砦  八田城 久保城

上杉弾正屋敷  Ca120m  綾部市上杉町小嶋

R27号(舞鶴道・丹後街道)は丹波綾部道路「綾部安国寺IC」への高架を抜け安国寺町からJR舞鶴線梅迫駅側 を北上、上杉町に入り「上杉交差点」で右折する府道481号は 以前蓮ヶ峰への入山口とした施福寺を経て上林川沿い の府道1号線に出る。上杉交差点からの直線道を約350m程・路肩に”弾正屋敷跡・上杉天満宮”参道のサインボードが立ち、田圃と民家に間の丘に小さな鳥居を見る天満宮一帯が弾正屋敷跡
上杉天満宮(上杉弾正屋敷)

祖父:勧修寺盛憲・父を勧修寺清房とする勧修寺流藤原氏一族?(村上源氏土御門流とも!!?)重房は、 鎌倉(北条氏)幕府の第6代征夷大将軍に就任する宗尊親王(嵯峨天皇の皇子)が京・山城国から相模国の鎌倉へ東下り(下向)の際:建長4年(1252)其の護衛・介添えとして従って以降、公家:勧修寺重房は鎌倉にとどまり武家に転じ鎌倉御家人となった。 また其の功により丹波国何鹿郡八田郷の?上杉荘(高槻保(安国寺領等…)の分領地!!?)に所領を賜ったことで上杉姓を名乗っている。上杉弾正少弼朝定(ともさだ:1321‐1352)が館を構えたので”弾正屋敷”と呼ばれています。 【注】上杉氏の始祖:重房の曾孫で上杉氏嫡流朝定は、 同名の人物が複数いるが現地”弾正屋敷跡”説明板による朝定は二橋上杉家の当主で南北朝期の武将【朝定は他に室町時代中期越後国の武将:山本寺上杉家の当主/戦国期武蔵国の大名:扇谷上杉家の当主がいる】
上杉弾正屋敷跡

室町時代に関東に割拠した上杉氏諸家の一つ:山内上杉家が関東管領を殆ど独占していたようです。 重房の孫娘叔母の清子(足利尊氏・直義の母)の庇護を受け尊氏・直義兄弟に仕え、何鹿郡・天田郡の分郡守護であったとも建武4年(1337)丹後守護に任せられ康永3年(1344)足利尊氏の姪・高義の娘を妻としており、後に上杉氏の菩提寺 光福寺(現:安国寺)に所領を寄進している。
(現地案内板 丹波の荘園 Wikipedia 参照)


宮の谷砦〈仮称〉 Ca120m  綾部市上杉町横縄手

梅迫口からJR舞鶴線踏切を渡って直ぐ府道485号に右折すると目前丘陵上の日吉神社に通じる石段・鳥居 がある。境内の祠南隣には径15m前後の二基の円墳【上杉古墳2号・3号】が遺る。横穴式石室だが盗掘跡・石材は抜かれ塹壕状か炭焼き窯跡の様。 背後の尾根筋に向かう山道への入り口付近は果樹園?、
日吉神社内の上杉古墳2号墳

藪の東端部は空堀状…?。 尾根筋末端まで日吉神社から比高20m程なので登ってみることにする。此処に城塞遺構が在れば!!…上杉町西縄手の今北砦と共に八田川流域西北に並び舞鶴若狭街道(府道R27号 )の要衝監視と府道485号の七百石町・高槻町・上八田町方面へと 高城城の山麓を東から北へ抜ける間道出入り口を呼応して監視警備出来、なにより高城山(高城城)299mから東に延び出す東尾根続き先端部に位置して北面を家の谷、日吉神社側の南面を宮の谷に挟まれる
尾根東端の二曲輪間の浅い空堀状!?

長い平坦な尾根筋に、曲輪地形とすれば三段程(段差に切岸は無く段差も小さいが )・先端部の2曲輪は殆ど高低差もないが尾根左右が少し窪んで見える埋もれた空堀状・其の先端が比較的急斜で麓の民家・畑地まで落ち込む。 尾根側3段目?の段差は2m程で尾根幅いっぱい約30m程の平坦地形が続き北面東下方(家の谷側)へ急斜ではないが竪堀?状の溝が落ちるが山道と思える。
二曲輪の西へ曲輪の段差をもち長く延びる平坦地…

先端部の二曲輪だけでも荘園監視の物見砦として利用出来そうです。府道485号を挟んで東北東方向の 今北砦とを比較しても、二基の古墳のマウンドを使用した同規模の二曲輪から成り、 似たような縄張りなので…!!?是も砦跡と推定する。足利氏に付いていた土豪大槻氏が後:旧領地を安堵されたものか?。大槻氏は南北朝期:正慶元年(元弘2年1332)大槻左馬頭(右馬頭)清宗が足利尊氏に従い、
三段目?の長い曲輪西外れ付近に長い竪堀状をみる

何鹿郡・天田郡の地頭として貞和年間(1345ー50)頃に入部し 【貞和5年(正平4 1349)城主:大槻清政の子・左京進清三とも?】綾部北部の高城山に城を築いたと云われます。上杉弾正屋敷の上杉朝定が建武4年(1337)丹後守護に任せられ 康永3年(1344)足利尊氏の姪・高義の娘を妻とした時期に近いだけに、高城城支城群よりは今北砦とともに上杉荘領内監視の上杉氏の砦なのかも…?

今北砦  Ca135m  綾部市上杉町今北・後野・西縄手

上記:横縄手の宮ノ谷砦(仮称) と上杉町西縄手の今北砦が八田川流域西北に並び、舞鶴若狭への丹後街道(R27号)の要衝監視および、宮ノ谷砦(仮称)と今北砦が八田郷の上村(七百石町・上八田町)・高槻保 (高槻町)方面へと高城城の山麓を東から北へ抜ける間道出入口の府道485号を挟んで呼応しる位置にある。 田郷安国寺領から梅迫を過ぎれば高城城(大槻氏)から東へ延びだす尾根末端を山麓のJR宮津線・R27号 (丹後街道)・八田川に落とす。
宮ノ谷砦側からの今北砦

僅か西200m程の街道筋を挟んで東方は上杉氏の支城久保城から西へ延びだす西尾根山麓。 極狭い上杉荘入口部を抜けて八田川源流部の上杉荘内に入る。今北砦の城砦遺構の現状は宮ノ谷砦(仮称)同様に明確な曲輪の切岸・空堀や土塁・竪堀等もなく、遺構判断に迷う状況。鎌倉-室町時代初期に築城され城砦の遺構は改修しながら使用され続けた 城でなければ、まして自領荘園内監視の砦なら此の程度なのかも…?。しかし今北砦は上杉荘のほぼ中央部・八田川左岸に在って、丹後街道を挟んで南東に 久保城・北東の「上杉」で施福寺を経て上林川沿い の府道1号線に出る府道481号と交差する。
古墳(今北1号・2号)墳頂部を 削平したマウンド利用の曲輪

交差点から 東約350m程に上杉天満宮・上杉弾正屋敷が在り、背後の丘陵尾根続き北西端のピークに八田城が在り、弾正屋敷の居館と詰めの八田城<上杉氏の本城 >セットの遺構と思われます。今北・久保・八田の三城砦が上杉荘領内中央部でトライアングルを形成・本城?八田城よりの尾根続き東の241mピークには上杉氏支城治郎ヶ城が在る。今北砦へは宮ノ谷砦(仮称)から 府道485号を渡り東北・横縄手の大石公民館付近から八田川沿いに西縄手の半独立丘陵南西ピーク上に見える「J-PHONE梅迫局」の無線中継施設を目指すが R27号沿い「東八田小学校」バス停から北200m程西北で踏切を渡る
二古墳の間が空堀状!!?

正面が中継施設のアンテナ塔。橋を渡った左手端民家から山裾の道を進み 丘陵上を目指すが、正面の藪を突いて進んでも比高40m程・直ぐ踏み跡は見つかるが激急斜面ではある。丘陵上には今北1‐3号墳の古墳群が3基あり1号墳(円墳)と2号墳 (方墳)の墳頂部を削平したマウンドを利用した切岸の無い曲輪は、二つの古墳間を浅い空堀状で分けているだけで、城砦としての防御施設を他には未確認。


八田城(小嶋城)   180m   綾部市上杉町小嶋谷城ノ段

八田川源流部の上杉荘内の中央部西方丘陵上に位置する今北砦の東にJR舞鶴線 ・丹後街道(R27号)を挟んでは「上杉交差点」を右折して府道481号が施福寺 を経て上林川沿いの府道1号線に出る。上杉交差点からの直線道を約350m程”上杉天満宮”境内一帯が上杉荘を領した 上杉氏の居館弾正屋敷跡。其の東北に丘陵部先端付近ピーク180mに主郭を置く八田城が上杉氏の本拠城という。
上杉氏居城の八田城

府道481号を挟んで南側の山塊には上杉氏支城の久保城が、八田城からは府道481号に沿うように延びる尾根続きの 241m峰にも上杉氏の支城と思える治部ヶ尾城が在る。此の三城砦もまた府道481号を中央にしたトライアングルを形成し、 中央府道側には上杉荘(上杉・大石・久保・小嶋・施福寺・能勢・遠路)の総社:八坂神社が鎮まる。 八田城へは小嶋の弾正屋敷(上杉天満宮)から向かう方が
堀切と主郭側切岸

よかったかのかも?。路肩駐車が迷惑になりそうで少し先の府道と八坂神社間の丘陵裾を捲くように北上する地区道から小嶋谷の奥へ詰め上がり鞍部から 先端ピーク180mを目指すことにする。鞍部の堀切から8-10m程の切岸を駆け登って篠竹・矢竹の多い荒れた尾根上を進むと三方の角を綺麗に切り落す曲輪に着く。 広く長い曲輪だが曲輪内に土壇等・本丸を示す様な部分は見なかった?が曲輪先端は一段下方に空堀?を廻した曲輪か大土塁部がある。レポート用に簡単な縄張り略図でも書いておけば
空堀と櫓台土塁?(小曲輪?)

思いおこせたが、同規模の平坦段には竪堀も見うけられ中世戦国期にも再使用された可能性が窺われた?。ただこの後:東南部の ”治部ヶ尾城”までトレースしてみようと尾根伝いを辿っていくと、直ぐ先に祠を祀るピークまでは踏み跡が続く。 足の足の踏み場も無いほどの藪もあるが尾根上に次々土橋状や溝状(堀底道)が現れる。古い踏み固められた山道と崩れやすい地質による自然地形なのでしょう。
きれいな切岸をみせる主曲輪

オマケに何処で見失ったか治部ヶ尾城の在る三角点241m峰をすっかり通り過ぎて蓮ヶ峰へ向かう複雑な尾根筋395m峰 (施福寺背後の峰)を進んでいた。為に引き返し下った尾根筋が治部ヶ尾城手前(北東)ピークだった。降る方向は合っていたが!!?、 海上自衛隊舞鶴システム通信隊…近く上杉町と於与岐町の境界:府道74号に降り立った。遺跡地図と国土地理院等地図をチェックしておれば、
竪堀

於与岐町側の一之瀬城までは1q程の距離。同時に此の二城を落とせれば東八田地区の全城砦を制覇出来たが残念ながら時間切れ。上杉氏本拠とされる八田城も今に残る遺構は、 明智光秀”丹波攻め”の天正期始め八上城:波多野秀治の武将 「青鬼」の異名をもつ籾井越中守教業が此処に籠もった?という 「籾井家日記」・「織田軍記」による軍記ものでは真意を推し量れないが、籾井氏の籾井城や一族の 安口城・安口西砦等遺構からみても、城砦の改修無でそのまま利用されていたものとは思えない。
城域外の尾根に延びる土橋状(自然地形:踏み固められた古山道!!)

籾井氏一族が城を討って出たが …丹波八上城攻略の明智の大軍によって”本明谷合戦”に殲滅されたのが天正5年(1577)。 この頃:教業が拠った伝承の八田城は篠山市境の中畑城(北八田城)<船井郡京丹波町中畑>・ 八田城(奥八田城)<京丹波町八田字高畑>であったか?。波多野氏ではなく黒井城主・赤井氏の家臣なら何鹿郡内の城に籠っていても 不思議ではないのだが…此処は!!??。

久保城   Ca190m  綾部市上杉町久保・清水奥・布垣・石子

JR舞鶴線沿いR27号(舞鶴道・丹後街道)で安国寺・梅迫を過ぎ上杉町に入る。上杉交差点で右折し府道 481号に入って約350m程の所に上杉天満宮が在る。境内を含む一帯には何鹿郡八田郷のうち、上杉荘を領して上杉弾正少弼朝定が此処を居館とした弾正屋敷 跡がある。
主郭傍まで続く堀底道?状の溝

その東北方の丘陵端ピークには上杉氏本城?の 八田城が在る。天満神社前から府道481号を東へ約200m程には上杉荘(上杉・大石・久保・小嶋・施福寺・能勢・遠路 )の総社八坂神社が鎮まる。上杉居館と詰城の八田城・八坂神社を中核として、西に丹後街道の要衝監視の 今北砦・八田城からは府道481号沿いの尾根続きに治部ヶ尾城(今回は未訪だが府道1号沿い上林荘に繋がる間道の監視砦?) 、天満宮と八坂神社の南側丘陵上には上杉氏の支城と云う久保城が在る。
単郭の南東面を切落す自然の要害地

4つの城砦群により四方を囲まれる上杉荘の中心地!!?。建長4年(1252)宗尊親王(嵯峨天皇の皇子)の介添えで鎌倉に下った功に寄り賜った上杉荘は、其の後:上杉氏等とともに足利氏重臣:仁木氏(仁木義員<よしかず>:伊勢や和泉<大阪府>の守護でもあった)の領有地となっていたが、足利尊氏の死で後ろ盾を失った 仁木氏一族は没落し、
腰曲輪からの主曲輪切岸

応永5年(1398)足利義満により再び上杉氏に充行われた 「八田郷本郷」が上杉荘の地と考えられる・八田郷本郷は応永19年(1412)にも将軍義持により安堵されている。久保城は上杉氏居館・本城の八田城に府道481号を挟んで呼応しする半独立丘陵の山塊の最高所201mより東方の尾根上に在り、梅迫・安国寺川へ抜ける間道の監視には有効?だが、南から西・北へ山麓に延びる丹後街道の要衝監視には無理な位置にある。 丘陵尾根西先端が街道に落ちる所・梅迫口には
主曲輪

宮ノ谷砦〈仮称〉山裾を廻りこんだ北西の今北砦三城砦が呼応し、 補助し合えば街道監視・荘園監視も可能だ。現状の遺構からは長方形状の単郭(約10mx40m)だが、切岸加工・曲輪両端の腰曲輪や腰曲輪から 主曲輪への虎口状や上り土塁・尾根続き側にも低土塁が遺る。城史詳細は不詳だが何鹿郡国人領主大槻氏が、丹波守護代八木城の内藤氏郡代として 高城城の支城として改修され?、
腰曲輪からの上り土塁

永正3年(1506)細川政元の丹後守護一色氏攻めには丹波守護代:八木城主:内藤氏と、以降若狭の逸見駿河守( 砕導山城)との交戦もあり、丹後・若狭側の最前線基地ともなって使用されたものか?。登城ルートは今北砦からだったので八田川からの正面・JR舞鶴線踏切・R27号を渡った(東八田小学校一筋北?の)幅狭い車道を進む。「札の辻」北方の禅徳寺からの取付きも考えたが
主曲輪北西角の低土塁から吊り尾根の西峰に続く

出来るだけ緩斜面の尾根筋を探して 東への車道突き当り住宅地手前の交差点から、南方の墓地横から尾根筋に向かう 山道が見えるので 此処を辿る。尾根上の主郭が近づくと 堀底道状(大手道?)の溝が腰曲輪の傍近くまで続く。 R27号側の梅迫町と府道481号 坂神社を結ぶ山道?から久保城南裾まで延びる作業林道から谷筋沿い直登の詰めが良さそう?。
主曲輪と腰曲輪

但し主郭側へは(木々が伐採されているので)激急斜面の切岸を立てる自然の要害に面して吊り尾根向かい(梅迫側)物見の 出曲輪の見えたピークは平坦な頂部以外、不整地で傾斜した5段程の段差を持つが主郭側が単郭なだけに城砦遺構とも思えず、物見台としても前述の如し…!!?。

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