湯の花温泉の山と山城 堂徳山〜とこなげ観音/牛松山城/高岳城/穴太城
京都丹波 (五万図=京都西北部)
T 瑞厳寺〜堂徳山445m(千手寺砦)〜独鈷抛観音〜行者山/牛松山城 2005.02.20
U 神蔵寺〜丁塚山〜高岳山(高岳城)/小幡神社〜長谷山(穴太城)  2005.02.27
近畿の山城 : 牛松山城(柿花城) 千手寺砦  丸勘城(鹿谷城) 大田城と大田山城 高岳城 穴太城

関西で堂徳山といえば神戸・再度山に向かう途中「市章山・錨山」の(錨山の電飾巡視路?)側にポツンと有る、この山を目的に訪れる人も無いだろう三角点峰を思い出します。同様に藪で殆ど訪れる人も居ない、 踏み跡も途切れがちの堂徳山が京の奥座敷「湯の花温泉」近くに有り、周辺の山城探訪で寄ってみます。共に弘法大師の伝承地に近く、堂徳は「独鈷」の名に起因しているように思えます。 此処へは2000年4月にも来た瑞厳寺からの再訪です。
とこなげ観音(千手寺)から望む亀岡盆地

(注)ただ地図に山名が記されていない堂徳山の位置を、神前(こうざき)方面から ?千手寺へ通じている舗装林道の峠から取付いて行者山との間に有るCa.440mの平坦な三叉分岐ピークとされているレポートが多いようですが、昔から!弘法大師開創を伝える 独鈷抛(とこなげ)観音・千手寺の背後の445m峰が堂徳山だと思ってきました。町(丁)石=六町のある鞍部より向かう行者山手前のCa440mが堂徳山か?、 千手寺の背後の445m峰の小字名:古山が其れなのか?ご存知でしたら教えていただければ幸いです。行場のある行者山は役行者を祀る修験の山、山岳寺院と行場が近いとはいえ僅か 500m程離れた位置で錫杖が独鈷に変わるものなのかも!?・・・其れに445m峰には中世の山城千手寺砦がありました。 湯の花温泉側・篠山街道沿いに在る牛松山城(柿花城)の二つの山城を訪ねます。


T:瑞厳寺〜堂徳山・千手寺砦〜独鈷抛 (とこなげ)観音〜行者山/牛松山城 H17.02.20

篠山・八上城下を走るR372号(デカンショ街道)を一路亀岡市を目指します。天引峠を越えれば園部町(京都府)に入り、 東本梅町の標識を見れば半国山も見えてきます。今までは能勢側から越えて訪ねる事が多かった亀岡市へは篠山街道を通って訪れます。ホームページ開設以前でレポートの無かった山と山城探訪は、 亀岡市の西の玄関口?湯の花温泉周辺を歩いてみます。
旧瑞厳寺・山門跡垣

何時もなら湯の花温泉入口からは南面の温泉街中を通る道を亀岡市内に向かうのですが、道が細くなる北側を廻るR372を採って奥条の瑞厳寺に向います。登山道は瑞厳寺と墓地の間を直進する旧瑞厳寺への参道です。昭和35年(1960)旧瑞厳寺が現在の地へ移転されるまで 使用されていた道ですので、 山門跡を直進して寺跡に入れば廟が有り、竹薮の中の広い境内跡には堂宇跡や崩れかけた土塀が高石垣の上に残り、石段・鐘楼跡や廟も残る。ハイキングが目的で「とこなげ」や行者山へは「瑞厳寺跡」石碑の側から右手へ大きく折れて続きます。
現在の瑞厳寺

ハイキングコース脇にも僧坊跡らしい削平地を見かけ墓地に出て簡易舗装車道が独鈷抛観音へ続きます。明るく前面が空けてくると高い総石垣上に、立派な山門や本堂が並ぶ独鈷抛山千手寺が見えてきます。其の奥に緩やかなスカイラインを見せる稜線の末端が行者山です。この姿からは山頂や直下に岩壁・巨岩を抱えている事等は想像も出来ません。独鈷抛観音(千手寺)の山門に続く石段下にハイキング・イラスト案内板があり「堂徳山・行者山」の案内標が建つ。しかしイラスト案内板に堂徳山の表記はなく、瑞厳寺跡から行者山山頂までに有る道標で堂徳山を示すものは 町石の十町を示す此処だけ。
独鈷抛観音・千手寺と行者山(中央奥)

後は「とこなげ=千手寺」と行者山を示す道標だけです。千手寺からも舗装林道が宮前町神前(こうざき)方面に延び、峠の六町石鞍部から東へ行者山、西へは「とこなげ」です。神前集落の北の丘陵上には八木の城山があり、 丹波守護・細川氏の下で130年の間ほんの一時期を除き・代々丹波守護代を務めてきた内藤氏の居城があったところ。独鈷抛観音の丘陵に城があったとすれば亀岡盆地を望む八木城の南約3kmの此処には其の出城があったか、 反対に八木城を攻める向城が有ったのかも!。独鈷抛観音の背山には千手寺砦が有って、八木城〜神前〜千手寺への町石道沿いに、 六町の行者山分岐鞍部から尾根伝いに堂徳山の千手寺砦(出城)へ連絡道が有ったのかも。今は緩やかな舗装林道が通じて歩く人もいなくなったと思われる「とこなげ」の標識は藪となり道も消えた堂徳山へ向かわず、 尾根沿いに千手寺に下るだけ。其の道も最高所の稲荷社付近は倒木と藪に塞がれて歩き辛い....
役行者を祀る洞窟

峠の鞍部東の登り口に「行者山」の標板が有り、緩やかに続く山道は共同アンテナ側を過ぎ、白い石英?の露岩や小石が足元に目立ちます。小広い平坦なピークに境界道標石が立つCa440m峰が神前方面と行者山の分岐に着きます。 この峰を堂徳山と記されているレポートが有るのですが私は前述の理由で、今のところは只Ca440mピークとしておきます。高低差も無く少し下り気味に行者山(2等三角点 431m)山頂に着く。 山頂の岩から谷筋へ急斜面を下っていくのが行場を経てJR山陰本線の千代川へのハイキング道です。急斜面を谷底に向かって下って行くようで木樹の中・累々の巨岩怪石に囲まれた道は、真昼にも関わらず直ぐに辺りが薄暗くなって、 山頂直下の大岩の基部に下りてきます。正面に「守護荒熊大明神」の石碑が立ち、背後の巨岩には真四角に彫られた枠がある。以前はお札を納めた祠が埋め込まれていたのでしょうか?窓のような枠内には 「八大竜王」と彫り込まれている。 ジグザグに此の岩下部へ下ると更に大きな岩場が二箇所有り、共に洞窟があり入口に祠が建ち、上部の岩洞は奥行3〜4mだが 縦横に少し拡がり左上方は岩が重なり合っているようで、陽光が斜め上方から射し込み、此処に祀られている前鬼と後鬼を左右に従えた壮年期の役行者石像を神々しく照らし、自然と人工の絶妙の雰囲気を醸し出します。
荒熊大明神を祀る大岩

下部の祠も洞窟の入口にあり内部は不動明王を祀る。 行場を更に下っていく行者道(ハイキングコース)の直ぐ下にも露岩の側には 菩薩が不動の石像が見えています。以前は此処を千代川へ下り瑞厳寺まで戻ったが余りに迂回が過ぎる…(~_~;)ので行者山へ引き返し 千手寺〜旧瑞厳寺跡経由でSTART地点へ戻った。瑞厳寺を出て坂道を下りながら正面の丘陵上にある牛松山(柿花城)へ登るべく柿花の集落へ向かった。歩いても其れ程遠くない。丘陵の南側麓は直ぐ「湯の花温泉」街? で車騒が下方から響いてきます。以降・牛松山城のレポートは「近畿の山城」で…


U 神蔵寺〜丁塚山〜高岳山(高岳城)/小幡神社〜長谷山(穴太城)  2005.02.27

京の奥座敷「湯の花温泉」近くにある西国薬師霊場の神蔵寺へは過去に何度か訪れた事がある。 16〜7年前には車幅一杯の細い参道の両側から伸び出た笹の葉がシャラシャラと車のボディに擦れる音を聞きながら(^_-)-☆赤い橋を渡り、山門脇から鋭角に折れ小橋を渡ってガランとした草地の駐車場に入った。
神蔵寺本堂前から高岳城跡を望む

息子が震災で他界する6〜7年前 (平成1年頃!)2人でドライブして亀岡まで来た。他に何処へ寄ったのかは忘れたが此処にお参りした時の事を思い出す。其の後・朱印のお軸を携えての西国薬師や観音霊場巡りや、 背後の朝日山へも神蔵寺から登ったが、登山者が訪れることは余り無いだろう朝日山の東北尾根だったと記憶しているが?、 雑木藪の中で見なれない”京都・・・城跡探索会(名称は忘れたが)”の標札が落ちているのを見付け、珍しい会も有るものだと興味を持った。
穴太・小幡神社付近から丁塚山

”亀岡市史”にも此処に城跡は示されていないので場違いだったかも知れないが、今は自分自身・そんな城主も城史も不詳で、 人知れず其の存在も所在さえも不明確な城砦を、今は山旅ついでに一人訪ねています。先週牛松山城(柿花城)、 千手寺砦を訪れた”湯の花温泉”篠山街道沿いですが、今日は直ぐ南側神蔵寺から高岳城へと丁塚山(高熊山)から縦走して訪ね穴太城へも寄っていきますが、山レポート等は下記の ”近畿の山城”の当該城レポート内に収めます。



千手寺砦 丸勘城(鹿谷城) 大田城と大田山城  牛松山城(柿花城)
 高岳城  穴太城


千手寺砦
 堂徳山 445m  亀岡市]稗田野町奥条古山・鹿谷・宮前町神前大見ヶ谷

宮前町神前(こうざき)と、くさかんむり・の"稗"が変換できないが稗田野町奥条や林道で通じている鹿谷との間に行者山432m〜堂徳山445mが境界を小さな丘陵尾根が分けています。 市のハイキングコースとしても整備されている行者山〜独鈷抛(とこなげ)観音ですが、堂徳山を記した道標は有っても 其の山頂を示す表示は無く山レポートに記した様に、行者山近くのピークを堂徳山とされているようですが、私は独鈷抛山千手寺 (独鈷抛観音)背後・北西の445m峰を想定しています。
旧瑞厳寺 ・鐘楼跡から石段と高石垣

林道の峠から東尾根が行者山、西側に「とこなげ」の表示は有るが山道は途中で消えかかる道を辿って独鈷抛観音へ稜線伝いに降りる道、 直接林道が通じたので此処を歩く人はいないでしょう。コース案内板も独鈷抛観音の山門への参道石段下に「堂徳山・行者山→」とあるが、他に「堂徳山」表示は見なかった。まして堂徳山とされている Ca440mのジャンクション・ピークにもありません。しかし此の様な場所に中世の城跡千手寺砦があります。高石垣の重厚な山岳寺院千手寺の右端・大きな宝筺印塔横から稲荷社まで行き、 上方に続く藪尾根の稜線を伝えば堂徳山です。稲荷社上部の丘陵末端部からは眼下に亀岡盆地が拡がり、後で登る予定の牛松山城(柿花城 )と京都西山の牛松山(元愛宕神社で丹波富士でも知られる金毘羅宮を祀る山)や 愛宕山、北摂国境の明神ヶ岳や半国山方面まで眺望が効く。千手寺砦に関しての伝承等は無いようですが、 此処より北方約3km地点には丹波守護職 ・細川持之に付いて永享年間(1429〜)頃、内藤備前入道が守護代となってより細川氏綱が没し、
千手寺砦・本丸へ数段続く曲輪

管領や守護が消滅する永禄年間(〜1570)頃まで一時は上原氏の時もあったが、代々丹波守護代を務めた内藤氏の居城 八木城が在り其の出城か砦として呼応出来る位置にあり、京都から老ノ坂等を越えて口丹波へ入る要衝の監視や 連絡の任にあたり機能していたと思われます。千手寺砦へは独鈷抛観音・または行者山への林道鞍部から尾根通しか、墓地の裏手から道は無いが南に突き出した尾根伝いでも行けるが、 瑞厳寺跡から浅い谷状を辿って城域東端部の浅い片堀切状に出て尾根に登り着きます。僅かな高まりをもたせた低土塁と、切岸を感じさせない段差で2〜3の曲輪が尾根南北に続くが尾根幅約 25mの両端は急斜面でもなく切岸も無く削平しているだけのようで、堀切等で尾根を遮断する施設は無さそうです。 城遺構が比較的明確な!西端が主郭部の様で、曲輪の南角には巨岩(高さ約2m程)が4〜5個固まっているところが切岸を補強している様に見え、段差も約2m〜2.5mと一番高く櫓台跡を想定させますが岩部以外は切岸も崩れている。
旧瑞厳寺・山門跡付近の石仏群

さらに西へも不整地だが平坦地が続くようです。 東端は2段目曲輪の北を捲くような腰曲輪があるが堀切や曲輪の段差の低さ等々防備施設や補強の無さ、其れに天正2年(1574)明智光秀の丹波侵攻が始まった頃には600m程南下に有る山岳寺院瑞厳寺の方丈等が 亀山城築城用材に使用されている事や八木城の落城から考えれば、八木城の砦が一時期・明智方の向城になったのかも?・・・遺構の不確かさと藪に閉口、神前へ下る北へ延びる尾根筋も雑木藪の中へ踏み跡は消え、 鞍部から行者山へ戻る林道へ下るのは止めて此処から引き返します。
========== [瑞厳寺] と[千手寺] =====================================

龍峰山瑞厳寺 (臨済宗東福寺派)は享徳元年(1452)伊勢の朝熊山で虚空蔵菩薩のお告げを受けて大通和尚が開創された寺を、 延徳元年(1489)此処に開山遷化されたといい、明智光秀が天正2年(1574)亀山城(亀岡城)築城の際には方丈を移築して城中の広間にしたといわれます。慶長元年(1596)の地震により堂宇は全壊し、 復興に尽くされたようですが衰微していった様です。寛永13年(1636)曹洞宗の僧・萬安英種が来山して一時は栄えたが萬安が宇治 ・興聖寺に退くと主宰者を欠く事となった。明暦2年(1656)東福寺の僧・xxがにより中興成った。昭和35年(1960)旧瑞厳寺から現在の地へ総合移転されましたが、切開かれた広大な旧蹟地の竹薮の中の彼方此方には、 高石垣の上には崩れかけた土塀や石段が残り、山門・庫裏・本堂や各僧坊・堂宇・鐘楼跡や廟・石塔・石仏が点在しています。
千手寺山門

独鈷抛山千手寺(臨済宗妙心寺派)は本尊の千手観音が眼病に霊験あらたかな寺として、 独鈷抛(とこなげ)観音の名で親しまれ其の伝承が残ります。大同2年(807)空海(弘法大師)の開創を伝える真言宗の寺でしたが、其の後・建長寺の蘭渓道隆の法孫にあたる止庵により中興され臨済宗となっています。 弘法大師の”独鈷投げ”による聖地開創と、 観音信仰の霊験譚が伝承される独鈷抛山千手寺です。弘法大師・空海が唐から帰朝の途中、明州の海上から独鈷を天に投げ、帰朝後・其の行方を春日明神の神託により ”丹波佐伯の当山・娑婆の松の枝に掛かっている”と、大師を此の地に導いたのは神使の白鹿であったので、此の地を鹿谷・山号を独鈷抛山と呼ばれ千手観音を本尊とするので千手寺といい、 次のような眼病の霊験譚が伝わります。霊場の高嶺に毎夜・怪しい光が現れるためxx某が疑いをかけ矢を放って射た。其の血を辿って行くと矢は観音様の左目に刺さっていた。 彼は罪を悔い・末代まで弓矢を捨てる事を誓ったといい、これにより観世音は眼病に苦しむ者に霊験を示したと伝えられます。また独鈷抛寺への参道の岩に白鳩が止まっているのをxx某が何の分別も無く弓で射たら 白鳩の眼に当たった。鳩は飛び去ったが、血の滴りを辿っていくと本堂まで続いている。白鳩は観音様の化身で為に片目の観世音に眼病の霊験有りと云われます。 弓を射たxx某は間もなく神罰で死んだというが気の毒なのは?その子孫代々眼を病んだといわれ、兄が弓を射ると・きっと弟の目に矢が当たると…いつの頃か一族は死に絶えたという…
亀岡市史 及び現地 瑞厳寺の由緒碑 京都の伝説(丹波を歩く) を参照)

丸勘城(鹿谷城)  xxx山?  136m  亀岡市稗田野町鹿谷丸ヶ条

篠山市から京都の奥座敷「湯の花温泉」を抜けて稗田野町へ下り、 左手に「地酒の酒蔵見学xx」の案内看板を見て左折して直進して稗田野神社の細い車道角を左折して北上する直線道は、 八幡宮・竜譚寺(此の背後には太田城が在る)への道を右に見送って左へ進むと鹿谷の丸ヶ条集落に入って直ぐ、車道右手に竹藪混じり?比高20m程・極小規模の独立低丘陵が車道と民家の側に迫ります。
丸勘城(中央の低丘陵部)左に先手寺・とこなげ、 右に行者山

丘陵南端部の民家前・路地道を入り、次の民家の間から丘陵部に入っていく細道を辿って 丘陵部に入る石段?道は、廃屋前の平坦地に入ると、既に丸勘城(鹿谷城)の城域に入る。南面の切岸下方に曲輪が見えるが、地区道裾からは石積を残す高い切岸の曲輪が突き出している。
丸勘城主郭南一段下帯曲輪の廃屋から高い切岸下の南端郭


鹿谷集落入口付近に「とこなげxxxx 行者山xxx」の道標石柱が立ち、丸勘城の西側集落から西北へ分岐する車道の先には先手寺への道標が、 直進する車道には愛宕宮の石碑が立つ。集落奥の左手に堂徳山・貯水施設の様に白っぽく見えるのは先手寺の石垣だろうか?。右手のピークは行者山か?。
鹿谷地区・車道からの南端郭から突き出す櫓台!!?

丸勘城域の南端に有って「とこなげ観音・先手寺」の峠を越えて神前 (こうざき)へ降れば、丹波守護代:内藤氏の八木城は近い。峠から行者山を東へ降れば千代川町 (山陰道の要衝 )へ繋がる間道の入口監視所の櫓台でも有ったものか?。鹿谷集落内に有る、平山城というより・鹿谷の領主の居館の様。
丸勘城内(社への参道から見る 主郭切岸に残る石積・石垣内の栗石か?)

南北に延びる小さな 独立丘陵上の丘城(平山城)は、東から南へ・更に西から北へと 主郭を帯曲輪が捲くが、特に広い西側は畑地に利用されていたようです。東に田圃・西に道路に面して宅地が並ぶが、 此の住宅地一帯から丘陵北に三つある貯水池付近まで武家屋敷や出曲輪等を備えた、広範囲を城域の持っていた様です。
丸勘城内:鎮守の小社

丸勘城と北方の田圃や雑木林の中の屋敷跡らしい台地【城跡に続く北・田圃の先にも2段程の薮化した平坦地があり、 一段低い帯曲輪状西端の低い切岸に2-3段の土留め石列が見られる、其の北続きには更に広い平坦地があり、 大石垣を積む高い切岸をもつ曲輪・曲輪端の土塁を積んだ様に見える田圃の畝?の内側が、曲輪だったか水濠跡の様にも見えてくる。
丸勘城(祠から入る虎口

最上部曲輪の先は車道を挟んで新興住宅地が建ち並ぶが更に…其の先・田圃と丘陵部東端の間に道が延び、畑地から山道に入って 直ぐ右手角に大きな倉庫?があり、左手に石垣を見る。石垣からは奥に向って数段広い 平坦地となるが、 山道に沿って土塁で囲まれ、二箇所程は土塁が空いて土塁虎口を形成しているようで気になる。西端は空掘が延びているが、其の西側は貯水池です】
城域の東裾を縫う細い側溝は、三つの大きな貯水池の水を抜き流し込めば水濠になる!!。
丸勘城:東の帯曲輪

愛宕社への参道?入口付近に見る土塁囲みの最奥部の遺構が丸勘城関連の居館と考えられなくもないのが、とこなげ・行者山を越えて 神前や千代川等の八木城・内藤氏の領内に繋がる間道の監視所?。むしろ近世の大谷鉱山【タングステン鉱山の採鉱・作業関連遺構】なのかも?。明治末期に銅山として開発され、 大正期に入ってからはタングステン鉱に移行した様で、 昭和の中頃まで採鉱されていたそうです。ただ此の谷筋ではなく・集落西側の先手寺に向う車道沿いに工場 ・社宅・事務所・店舗等の建物(廃墟)が残り、先手寺山腹には4ヶ所程、其の抗口が残っていると聞いた。 丸勘城北方の出曲輪・屋敷跡!!からは、東方の太田城の背山(太田山城)に続くようなので、出曲輪際北の土塁囲み郭は、
丸勘城:東から南郭側へ逆走して入る堀底道
(此処から直進して祠のある大手虎口!?に向う堀底道もある)

太田城〜太田山城の山塊に豊富な花崗岩の石材切り出し作業用だったか?。…また愛宕神社の他にも天神宮が祀られているらしい。 石碑があるというが確認していない…?。なぜこんな所に天神さんが祀られるのか?解らない…が、 丸勘城最後の城主も竹岡氏一族だったかは不明ですが、城跡に畑地を持つ山主さんの話では、 明智の「丹波攻め」の際と思われますが、此処に籠城して最後まで抵抗したといい、多くの戦死者を出た様で、
丸勘城:廃屋から廻り込んだ帯曲輪西側(畑地だったか?)

死者を弔う寺院の他・霊を鎮める為か社も建てられ、天神社も其の一つの様?。城の東は水濠で固められるが、 住宅地側の西面は…?切岸の高さだけが防備の鍵!!と思えたが、相当の石垣積みにより、堅固なものとなっていたようです。 今も僅かに石積跡が曲輪の切岸に・土砂に埋まるように残るが、「城割り」によるものか殆ど抜かれています。亀山城(亀岡)の築城石材として運び出されたものか?、後世・圃場整備や建材として持ち出されたものとも思えます!!。
丸勘城北方の二段!?曲輪:貯水池の引水溝は城遺構か?。2〜3段の石列も残るが?

丸勘城へは南郭側の廃屋前から主郭へ向ったが、西側の住宅内から細い路地奥から、鎮守の祠を祀る社へ入る石段参道(大手道!!)が通じ、往時の石垣曲輪の一端が窺われます。社から斜上する平入り虎口が、広い薮化が進む雑木林の中に在る主郭平坦地に入る。西側に一段低く幅狭い帯曲輪状は通路か?。
丸勘城北方:更に溝の先にある大曲輪・切岸に大石垣!!

その西端は高く (約4〜5m)急斜な切岸で幅も3〜4m程の帯曲輪が南面へと廻り込んで続きます。帯曲輪の中程を低土塁が曲輪を区分する様に、突き出ています。 其の下段曲輪の東北側は墓地となり、社の建つ北下の小曲輪も墓地で、石積跡の残石が覗く。 墓地下方には堀切道が東へ向かい、田園が拡がる農道へ、堀跡だった?と思える溝谷を越えて出る。 堀切道は、此の溝谷から主郭東の帯曲輪下部の広い平坦地形に出て来る。
更に・更に北方:山道に入って直ぐ二方を土塁で囲う曲輪!?

「丹波志」にも古来より城主姓名知る人なし…と城史の詳細は不明ですが、南北朝期:竹岡近江守為信が創築して居城したと云われます。 在地土豪の竹岡氏が荘園管理にあたったものか、関東からの来住者か?。篠山街道沿いの南に位置した柿花城(牛松山城)、 北に太田城が在りますが、天文年間頃には内藤氏勢力も衰微し、 篠山・八上城主:波多野氏の台頭により、其の管轄下に置かれたものか…?。
其の一方は空堀? (旧鉱山の引水や配水処理施設か?
側の貯水池から引水すれば下方の丸勘城西裾の溝は水濠に・・!!

亀岡市街地に近い篠山街道の東入口を護る最前線基地にあって、神尾山城の援軍もとどかず?城に籠もり最後まで戦って落城したと思われる丸勘城主は、鹿谷集落の在地領主とするより、波多野氏一族の重臣が此処に出っ張ったものでしょうか?。

太田城(太田館!)と太田山城
大田城(大田館!)    xxx山?   136m   亀岡市稗田野町太田狐塚

篠山・八上城下から淀山城を過ぎ、福住の籾井城・安口城の側を抜けるR372号線【京街道(デカンショ街道)】は天引峠を越えると京都府側に入る。園部町へ向うR477号線を左に見送り直進すると亀岡市に入る。市境尾根に大平山城が有って帰路に立寄る心算ですが、 丹波守護代内藤氏の勢力が衰微していくなか、
大田城(右手山裾)と大田山城

八上城:波多野氏が台頭してくると京街道筋に八上城防備の城砦群でを堅め、其の中心となった支城が神尾山城(本目城)なのでしょうか?。神尾山城を望み猪倉城側を過ぎて小峠を越えると、京都の奥座敷「湯の花温泉」を抜ける。
大田城(大田神社):神社間を深い堀底道を通じる

此処に在った柿花城にも波多野氏一族の重臣:畑氏が入っており、柿花の北方約1.5km程には丸勘城があり、城将は不明ながら勝算無き平山城に籠城して死守したといわれます。明智光秀の「丹波攻略」に抗しては八木城の内藤氏方とするより、波多野氏方八上城最前線の城の一つだったと思えます。
大田城(王田神社):堀切に挟まれた曲輪と堀底道

丸勘城の400m程手前右手 ・三つの貯水池の北側丘陵一帯【王田神社と松井八幡宮付近に太田城・及び松井八幡宮背山で龍譚寺からの尾根続き稜上に 太田山城】に城遺構が残ります。亀岡市史の遺跡分布地図には太田城の東方:集落内に太田館跡が記され、土塁を廻す掻き上げの居館があった様で、南に土居・西には外堀もあったと伝え。大田城は其の詰め城と思えますが、 山側の防備手薄を感じますが、居館性も高く、当面(太田館!)としておきましょう?。
大田城(大田神社):堀切は堀底道に落ちる。<石材運搬道だったか?>

「丹波攻め」の明智光秀軍に抗戦して憂き目に遭った太田城主もまた、 丸勘城と 同様に波多野氏方に付いて篠山街道を死守したが、早い時期に落城していたのかもしれません?。築城時期や城主等・城史の詳細は不明ですが、太田城・太田山城ともに室町時代:松井肥後守宗治の居城と云われます。
大田城(松井八幡宮)参道から空掘が延びる東曲輪

太田城の主郭は15m四方の台地に 祀られる松井八幡宮の境内で、此処に宝永2年(1705)「松井庄右衛門尉藤原宗知寄進」の銘が刻られた石燈籠が有った。 城史不詳ですが天文2年(1533)篠山八上城主:波多野秀忠(稙通!?)配下の大西弥四郎に 「大田村之内松井公文分」を遣わしており、当時:大田村に松井氏在住が確認されています。【天文2年正月11日付「波多野秀忠書状・・」】
大田城(松井八幡宮)主郭の堀切を挟んで左右に土塁を盛る東尾根曲輪

太田城跡へは湯の花温泉の東案内ゲートを出たR372号線・左手に「地酒の酒蔵見学xx」の案内看板を見て左折して直進し、 稗田野神社の細い車道角を左折して北上すると丸勘城への鹿谷と、八幡宮・竜譚寺への分岐を示す自然道ハイクの道標が立ち、右手前方の丘陵先端部を目指し龍譚寺への道を進みます。
大田城(松井八幡宮)主郭切岸と東面の堀切

標高288峰から南へ延び出す丘陵尾根の広い稜上の緩斜面に太田山城 が在り、南麓に太田城の在る太田集落 ・尾根筋を東裾に辿ると龍譚寺境内に降りてくる。太田集落北の丘陵裾に二つの貯水池が並び、 中央北に鳥居が立ち・其の奥にも貯水池の堰提がある。
大田城(松井八幡宮):東尾根東曲輪の北から入る虎口部!!

此の貯水池を挟んで東西に神社が在る。西側は貯水池側からの山道を進むと大田地区名の所縁らしい?王田神社が建つ。 凄い切岸上の神社へ急な石段参道があるが、此の参道を登る人は有るのだろうか?。殆ど上まで石段は半回転して石積の斜面と化しているので、岩登りの要領で登ることになります!!。稲荷社との間を深く高い堀底道が廻り込むようにして 猶も延びていきますが、神社背後からも土塁の側壁を延ばす空堀状の山道が続きます。
大田城(松井八幡宮)東尾根:窪地曲輪?は土取りによる掘削か・・!!

堀底道沿い西側の細長い尾根上に曲輪段と堀切が二本あり其の先・左に竪堀を見て堀底道と合流します。竪堀上を左手に山道、右手には堀底道からの山道が更に延びていきます。城遺構かと思えた空掘り道は城遺構から離れていくように思える部分です・・・果たして?。石鳥居に戻って今度は東側の貯水池沿いに堤防を進みます。深い側溝を挟んだ北側の丘陵に石段を見て、貯水池東端から側溝に架かる石柱の橋を渡り、石階段の参道に入り、石鳥居を潜り城域の最高点!!?に建つ八幡宮(約15u)が主郭。参道に沿う西側にも三段程の段曲輪が続き、参道の東へは尾根筋の南側に空掘状を挟む様に長い曲輪が延びる。石段参道が主郭への切岸にかかる東側は堀切で、 尾根筋両サイドには幅のある低土塁が延びて空掘状の通路となり、北方から入る虎口に合う。
大田城(松井八幡宮)北尾根:崖状の堀切(曲輪上から)

此の東には土塁で囲まれ大きな方形の窪地の曲輪が在り、土塁道を通って此の窪地曲輪を形づくっている東の曲輪を廻り込んで、 窪地曲輪に入る。南に開く出入り口は左右から突き出す土塁が 食違い虎口を形成している様に見えます。 ただ後世の土取りによる掘削による地形の改変とも推定されています。再び八幡宮社殿の建つ主郭に戻り、北へ尾根続きに浅く幅広い空掘状と一つの曲輪を越えると、鋭角に落ち込む深い堀切が待ち構えています。
大田城(松井八幡宮):北尾根の崖状堀切(堀底から)

堀切は東方の春日神社へ通じる通路として幅を拡張 ・深さは掘り下げられる等、改変されているのかもしれないが。堀切を越えると櫓台が在ったと思える台形曲輪に着くと、 西に武家屋敷跡だったと思える広大な平坦地となり、西尾根筋の端が一段と高くなる。段曲輪となっている様だが確認していない。 ただ大きな石が並んで切岸となっている様だが、大岩・石垣積みの曲輪が山上に向う斜面一帯に次々現われて山容が一変する。
大田山城への斜面一帯に残存する石材 ・石垣は亀山城築城の採石跡か?

いたるところの石材が露出しており、石堤や石塁状に集積しているところや石垣積みの曲輪が丘陵の尾根側まで続く。尾根上に残る岩にも矢穴の残る大岩が残置されており、 大田城から大田山城に至る背山一帯に散在する花崗岩も残石・石垣が砂防堰提等の土木工事ではなく花崗岩採石場だったのでしょう。これほど豊富な石材が身近に手に入るのに、大田城にも大田山城にも石積・石垣を利用しての 曲輪補強等は見受けない。丸勘城の様に城跡の石材が抜かれた?様子も窺えません!!。
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太田山城   城山 Ca240m   亀岡市稗田野町太田東谷・鹿谷清水谷

大田城は周辺に広大な屋敷跡と思える平坦地が多く 居館もこれ等いずれかに在ったと思えるのですが、 遺跡分布図を見ると大田城城域外の東南・春日社の南に大田館 【掻き上げの土塁を廻す居館】の存在があり、 大田城は領主:松井氏の詰城とも考えられています。しかし松井八幡宮の建つ大田城主郭から北へ尾根筋を辿り、空掘・堀切を越えて進む山上には大田山城が有り、其処を目指します。縄張りからは大田城と直接関わり無さそうな?陣城の様です。
大田山城:主郭部虎口からの堀切・折れを持つ土塁

大田城背後の城域を出た辺りから、突然の様に大石や岩が堆積する場所が目立ち始めます。登るにつれて次々と・しかも不規則にアチコチに石垣積みの平坦地が現われる。土砂崩壊防止の堰堤でもなさそうです。 残石?と石垣積みの平坦地は山稜まで続き、稜線上の露岩にも 「矢穴」を残す巨岩を見かけます。大田城や大田山城には、 此の場の豊富な石材を石垣や石段等に利用されている遺構を見ないので、亀山城(亀岡城)築城石材として、丸勘城の石垣が抜かれた様に・・?、大田城落城後には大規模な石の切り出しが行なわれていたのでしょうか・・・!!?。
大田山城:土塁の折れ (横矢掛)から正面の堀切道を窺う!

大田山城遺構は大田城とともに城主不明だが、 天正年中(1573-92)松井宗治により使用されてきたものでしょう!!。 城域とされるCa240m付近の尾根幅は広く、 緩斜面で尾根筋以外は雑木藪で見通し悪く、尾根筋の状況から察しても、更に内部に入って確認したいと思えない。 遺構を見極める知識・見識眼も無いので諦める。北西端と思える位置の尾根(城域外の北にも曲輪状は有ったが良くはわからない?)。 浅い堀切!!?沿いに折れを伴う長い土塁(高さ1.5〜2m程)が延び、尾根端山道が土塁虎口の通路。 谷筋(清水谷)を登ってくる敵に対しては横矢が掛かる構造にもなっています。
大田山城:緩斜面上の小曲輪群?と空堀

尾根筋は東方に向って北側を切り落とし、 緩斜面の小曲輪内を区画する為だけの?浅い空掘と低土塁で段差を持たせているところが城域南端なのでしょう。なんとも・だだっ広く、尾根上に長く延びる?単郭の城。臨戦時に大人数を駐屯させる陣城として、 折れを伴う堀切・土塁虎口・区画設定した空掘等から、十六世紀の中〜後期遺構と考えられています。後は徐々に傾斜を増す斜面に緩斜面の踏み跡を追って下ると龍譚寺の南端墓所を抜けて、京都府文化財指定の庭園 (涸れた池側)に降りてきた。
(亀岡市史の鎌倉・室町時代 参照)
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金剛山龍譚寺(臨済宗妙心寺派)    亀岡市稗田野町太田東谷40

龍安寺(京都)・龍興寺(八木町)と共に妙心寺派の三龍寺と呼ばれる龍譚寺 (本尊:聖観世音菩薩)は、妙心寺四派の祖:京都龍安寺の僧雪江和尚が当地に大梅寺を創建したのに始まる。
大梅寺は延徳元年(1489)火災により焼失し、弟子の特芳が数年後:此処に来住し、 細川氏の家老松井宗信も当寺に隠棲するに及んで、 細川政元の後援を受け明応6年(1497)堂宇を再建して金剛山龍譚寺と改称し特芳を開山と定めた。
龍譚寺山門

引き続き名僧巨匠が住山し皇室や徳川家の帰依厚く寺運大いに栄え、天正5年 (1577)光秀の兵火に焼かれた後も漸次復興し、 享保14年(1729)には現:三宝殿(教堂)を、庫裏及び方丈は文化・嘉永年間(1804〜54)に夫々再建されました。 特芳の弟子大休の筆になる松井宗信の寿像と、 特芳禅傑頂相隠元禅師直筆の墨跡、徳川家康から下賜された陣羽織でつくった袈裟等は当寺重宝中でも最も貴重な資料といわれています。
龍譚寺庭園の矢穴石

境内(方丈の裏山)の庚申堂には細川政元の念持仏であった青面金剛童子像が安置されています。 奇岩老木の中国天目山に比される龍譚寺庭園は名勝に指定され(平成2年4月京都府文化財指定 )現存の建物は名刹の寺観をよく伝えています。龍譚寺の石庭〜丸勘城の有る鹿谷地区を通って、花崗岩の行者山へ向うと?思われる「亀岡の自然100選」の標柱が立つ。
龍譚寺山門前の石仏群

藪山に同化していきつつある行者山へのハイキングルートが有るのか知らないが、 太田城から山上へは稜線まで諸々累々と続く石垣積みが残り、矢穴の残る大岩も見かけるが、土砂崩壊の砂防工事では無さそうで、これ等:花崗岩の石材切り出しの為に作業用平坦地確保の為なのか?。 行者山は先手寺から続く尾根上の行者山ではなく、これ等:花崗岩山塊の太田城背山を指しての呼称なのかも!!?。龍譚寺庭園内にも豪壮に、矢穴の残る大岩をデンと配しての石庭が創られています。
(現地:龍譚寺の説明板を参照)

牛松山城(柿花城)   牛松山(芦山?) 266m  亀岡市稗田野町柿花芦ノ山

千手寺砦から奥条の瑞厳寺へ降りてきてR372号(篠山街道)、次の目的地 ・牛松山への取付き点・柿花の桜天満宮に向かって、国道の石標を見てヘアピンカーブを右折して直ぐ、小さな神社前の駐車場に車を寄せます。 地図では神社と寺マークのある桜天満宮と積善寺が取付きの様ですが狭い車道が続くので、名前は知らないが此の小さな稲荷社?から尾根を辿る心算で取付きます。R372号の南側にある牛松山のある小さな丘陵帯は京都の奥座敷をフレーズにした山間の「湯ノ花温泉」背山で、此処には桜花の紋がある珍しい”桜石(菫青石仮昌)”産出地が有って大正11年 (1922)国の天然記念物に指定されています。菅原道真が太宰府に左遷されるとき、鹿谷村の某氏が京へ送別に行った際・道真が一株の桜を贈られたと言う。
柿花城の東端曲輪の切岸

持ち帰り其れは牛松山に植えられたが某氏の死により桜木も枯れた。桜の下にあった小石に桜の花紋が映っていたという”桜天満宮”の伝承と共に、此の神秘的な桜石の霊力により、妖気の方向に投げると山が割れ、その深い穴に鬼が呑み込まれていったという鬼退治伝説も有り (創作か?)其の後・山の麓からは鬼の涙が温泉となって湧き出しそれに身を浸すとあらゆる怪我や病気は快癒したという湯の花温泉は、万病の治癒と除災除厄の湯と親しまれています。温泉街では車道に鬼が出迎えてくれます。戦国時代・武士達が刀傷を癒したというが武田信玄の”隠し湯”的伝承が残るかは知らないが八上城の波多野氏や明智光秀等も訪れたと事でしょう。牛松山城(柿花城)の築城時期や城史についての詳細は不明の様ですが、在地豪族の岡村氏一族が居城してと考えられています。其の後畑弾正忠(篠山市・波多野氏の配下か?)の砦として、 または畑牛之丞が拠った砦ともされます。当初は室町期・丹波守護代内藤氏の城として築城され、岡村氏が入っていたものか?天文年間頃には内藤氏の勢力が衰微し、変わって篠山 ・八上城の波多野氏勢力が台頭してくると、篠山街道沿いの神尾山城等が波多野氏方の城に組み入れられたか、はたまた三好長慶側に付いて波多野氏を攻めたのでしょう?。湯ノ花温泉の北東、柿花との間に有る丘陵上に有って、R372号線の旧山陰道(篠山街道)が通じる交通の要衝を抑え、雑木潅木が無ければ遮るもの無く亀岡盆地の眺望が効く立地に陣城とも考察されています。この距離なら亀山城でしょうが光秀に対峙する程の勢力が有ったとも思えない?。八木城攻めの後方支援の城なら、 まだ判りますが!!・・・。
柿花城・主郭部西の片堀切?か腰曲輪?

東西に延びる尾根上の城域は高低差も少なく幅も余り広くは無い。2〜3曲輪の段差も、土塁の高まりも余り感じられ無いまま進んで幅のある堀切を見る。堀底は幅も広くて尾根を遮断しているようだが曲輪部端までで、 斜面にまで切り込まれていない。堀底となる部分は帯曲輪となって延び遮断されているが、曲輪を区分しながら通路としても利用されていたようです。主郭より少し高所に有る西の曲輪からは西尾根に 二本の堀切をもって城域を出る様です。主郭から東へは小さな曲輪が並ぶが東南部端には虎口と・此れを防備する土塁線が廻らされているという。石垣も有ったらしいがこれらを見過してしまったようだ。縄張り図を用意して再度の訪城が必要なのかも… ?!最高地点より少し低い位置にある主郭は、篠山へ通じる街道筋を抑えつつ東の亀岡盆地の眺望を意識している様で、尾根の微妙な高低差よりも 眺望を意識した立地には陣城であったとも推察されています。
(亀岡市史を参照)


高岳城(高岳砦・大石大和守古城)
 高岳(岩谷山? 371m)  亀岡市稗田野町佐伯岩谷

篠山市からR372号(デカンショ街道)天引峠を超えて亀岡市の西 の玄関口?湯の花温泉を目指します。湯の花温泉から先週はR372を直進して北側から牛松山城へ向かったが、 今日は右折して南側の湯の花温泉街を抜け出たところ、佐伯の”グリーンハイツxx”看板から神蔵寺へと赤い幟を目印に参詣道を進みます。稗田野町佐伯地区南方の丘陵丁塚山(高熊山)から西の高岳城跡へと高低差の少ない稜線が目前に迫ります。
藪の中の丁塚山山頂

神蔵寺参道前には大正池があり堤防沿いに直接・高岳城へも行けそうですが、池西側から鉄製遮断ゲートを越えて引谷 ?の専用林道伝いに丁塚山の南尾根に取り付いて 高岳城を周回して神蔵寺へ戻るコースを考えてみます。大正池から高岳城跡の山裾を廻り込んで丁塚山の南尾根を林道が越える辺りには?、高座(たかくら)と呼ばれ岩窟があり、出口王仁三郎の修行地として大本教の霊場の一つとなっています。高座山が転訛して 高熊山となったのが地図上の丁塚山です。高座(高熊山)には” 朝日照る夕日輝く高倉の 三ツ葉ツツジの其の下に 黄金の鶏 小判千両いけおいた”と昔から時々・名も知れぬ鳥が鳴いて里人に告げたという埋蔵金伝説がある。
高岳城・東郭部から4〜5段の帯曲輪が西へ延びる


高岳城に合戦・落城の伝承として残されたものか?、 其の後陣城等の臨戦的な城として利用されたか等は不詳です。もう直ぐ峠と思える手前でショートカットして丁塚山に向かったので良く分からないが、岩窟は此の近く?、 林道は穴太の小幡神社に通じ、 此処には後で寄る穴太城が有ります。雑木の中の緩やかな尾根筋には細い踏み跡が続き、高岳城と丁塚山を繋ぐ稜線に出る。広く緩やかな尾根筋のうえ・踏み跡も不明確になってくるが山頂は近かった。 展望のない殺風景な丁塚山 (高熊山 357m)頂部には黄 色い山名標が掛かっていた。分岐へ引き返して西方へ延びる緩斜面の尾根を辿って、 いつの間にか高岳城(371m)の最高所に着いた。
高岳城・東郭部から4〜5段の帯曲輪が西へ延びる

東郭部 は切岸が不明確だったが尾根に沿って西南側に 3〜4段の随分と細長い帯曲輪が築かれいる。削平も粗く高低差の低い尾根上の曲輪・長い帯曲輪・堀切や土塁等の防御補強も目立たない城ですが、築城当初は大正池上方に位置する北西部に郭を置き山陰道の 要衝監視の城として牛松山城と呼応していたのかも知れません。北西郭部の方は切岸・空掘・竪堀に竪土塁が曲輪を区切り、 城域末端に堀切も有るようですが、今回は南北・二つの郭部を結ぶ長い削平尾根から北郭部を、細かく確認する余裕が無く北西郭の稜上付近から岩谷側へ下り、大正池東下の工場敷地を経て神蔵寺へ戻ってしまった。
高岳城・東郭部から4〜5段の帯曲輪が西へ延びる

地理的には尾根を下って穴太城に通じており丹波守護代・内藤氏方の城だったと思えるし、現状に見る縄張りからは臨戦的な向城として、牛松山城 ・法貴山城に関連した兵の駐屯地とも考えられます。室町末期には在地領主大石大和守と其の子・大石与三(惣)の拠った城といわれ、高岳城の北山麓(湯の花温泉を下ってきた平野部 )の向条や佐伯には四方に堀を廻らせた居館が有ったといわれ其の堀跡・武家屋敷跡が残っているようです。大石氏は明智光秀に従って天正10年(1582)山崎の合戦に於いて親子共に討死しています。
(亀岡市史 及 大本70年史(昭和39年版)を参照)
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朝日山 神蔵寺(臨済宗妙心寺派)
  亀岡市草田野町佐伯

佐伯のお薬師さん(佐伯薬師・稗田野薬師)と呼ばれ、 西国薬師霊場第四十三番札所となっている朝日山神蔵寺は桓武天皇の延暦9年(790)伝教大師最澄の開基を伝えます。最澄が延暦寺根本中堂を建立された頃、比叡山より此の地に来られて寺を建立して 朝日山神蔵寺と号し、根本中堂の薬師如来と同木で薬師瑠璃光如来像(国重要文化財指定)を刻んで安置し天台宗の一大道場として開創されました。一条天皇の正暦年間(990〜995)には堂塔伽藍・塔頭を造営し隆盛を極めたと云われます。その後・源氏一門の崇拝も篤く治承4年(1180)5月・源頼政が以仁王を奉じ 平家討伐の兵を挙げた際には、当寺僧徒も三井寺(大津市・長等山園城寺)と呼応して宇治川に馳せ参じたが、源頼政は戦いに敗れ平家に寺領を没収され堂塔は荒廃した。
神蔵寺山門

嘉禎元年(1235)天台宗・達玄僧都の再興により旧観を復し、女人結界の道場だったが 女人禁制は解かれて遠近老若男女の篤い信仰を得、室町期の管領・山名氏から細川氏に丹波守護が変わった明徳 ・応永年間頃(1390〜1428)細川頼元・満元等の加護もあって栄えたが、天正3年(1575)明智日向守光秀の ”丹波攻め”による兵火で再び寺は焼亡した。この際には本尊薬師如来は信者達の手によって菰(こも)で巻かれて山中に埋め隠されて難を逃れたと云われ、其の谷に菰谷の名が残っています。 以前に朝日山へ向かった谷かどうかは分かりませんが!其の後・承応2年(1653)浄土宗・願西法師により本堂・阿弥陀堂・鐘楼等が再建され、延宝7年(1679)亀山城主松平伊賀守源忠昭の帰依により妙心寺派の 高隠玄厚和尚を招いて中興開山されて現在の臨済宗となっています。本堂前の賽銭箱には駒返しの大桜の由来が記されていました。天正10年夏「明智の戻り岩」で知られる丹波・摂津国境に近い法貴谷に、 光秀の軍勢を見下ろす山桜があった。伝教大師開創以来1200年目の平成2年、この桜の大木が伐採される事となり有志縁者によって賽銭箱として奉納されています。
(亀岡市史 及び現地 瑞厳寺の由緒碑 を参照)


穴太城(穴穂城・長谷山城・長谷山堡)   愛宕山・長谷山(点名:3等・穴太) 167m  亀岡市曽我部町穴太宮垣内

高岳城から神蔵寺へ戻って少し時間も有ったが、”明智戻り岩”と法貴山城を訪ねる程の余裕もなく…西国33ヶ所霊場第21番札所の菩提山穴太寺に程近い穴太城に寄って行きます。 佐伯からは京都縦貫道の亀岡インターチェンジ手前の運動公園で右折するか、R423号の南条や穴太口から穴太寺に向かい、山門前を左折して犬飼川(長谷川)を渡ったところに小幡神社があります。神社駐車場から西に続く路地のような細い集落内には 長屋門の民家が何軒か有って、先程登ってきた丁塚山(高熊山)〜高岳城の峰が目前に望めます。
柿花城の東端曲輪の切岸

駐車場横から北には金剛寺(応挙寺)があって此処も穴太出身の大本教の聖師 ・出口王仁三郎が夜学に通い、江戸時代の画家・丸山応挙が9歳で仏弟子として入門したゆかりの寺です。穴太城は小幡神社(式内社)の西、丁塚山から南へ延びる尾根続きから東北へ突き出した 細長い丘陵突端部に位置して、 犬飼川(長谷川)の流れに沿った長谷山(愛宕山 点名:穴太3等三角点167m)の低丘陵に有って、 小さな三つばかりの 頂部に曲輪群を並べた城址は穴穂城・長谷山城とも呼ばれます。丘陵の東面は犬飼川に崖状に落ち込む自然の要害を成し、尾根上には十数基の円墳や前方後円墳が有って、 其れ等のマウンドを利用しての曲輪も残っているようです。
柿花城・主郭部西の片堀切?か腰曲輪?

神社の本殿から裏山に続く尾根道に出ようとして先ずオヤツ…尾根の延長上・神社境内と犬飼川の間には高さ1.5m程の堤防状の 土塁が延びていて、 神社境内自体が城郭遺構で土居に 囲まれた曲輪内は居住空間の様相なんですが・・?曲輪間を区分する土塁の様です。山道も直ぐに”松茸山”の表示が木に巻きつけられた穴太城の城域に入ります。 穴太城の築城時期や城主は不明だが、のようですが、天文2年(1533)丹波守護・細川晴元が此処・長谷山での合戦に於ける 田所藤左衛門の忠節に対して感状が与えている。丹波守護代が上原氏の頃か内藤氏に変わった頃には、既に城砦が有ったようです。此処で合戦があった史実の詳細は知らないが、
穴太城・東郭の土塁付曲輪

細川晴元の先代・高国の頃には波多野氏(篠山市)が京都丹波へ侵攻して 一時この辺りを支配した事もあり、長谷山合戦は内藤氏が波多野氏に対抗した其の折の事だろうか?。丹波守護代内藤氏自体も細川澄元に付いたり高国方に走ったり、晴元に背いて波多野氏や三好長慶に付いていますが、 管領や守護が消滅した後も内藤氏の領地支配は持続しています。穴太城は永禄8年(1565)備前守宗勝の敗死等で衰微していく中、 その臣:赤沢加賀守義政の居城だったとされています。赤沢氏についは在地の土豪だったか?!京都丹波の山城(平山城含み)には何故か?天守台や其の祖形といわれる遺構が多いことに驚きと疑問を感じるのですが?、
穴太城・東郭の土橋付大堀切

この城も 笑路城長沢氏と親戚関係にあったと考えられ、同時期の築城・修築されているようなら縄張りに 天守台らしいものがあってもおかしくないのかも!。其の長沢氏もまた大山城 (篠山市)のように?もとは中沢氏だったのかも知れません?。 亀岡市内に天文年間(1532-55)頃まで中沢因幡守正綱の丸岡城(余部城)があり、 天正年間初期(1573-)波多野氏傘下に入っていますが、 丹波に侵攻した明智光秀に対し波多野氏方として当初は抗したと思われますが、笑路城の長沢氏と共に光秀に従い本能寺へ、そして山崎の合戦に運命を共にしたのでしょうか?京都への西玄関・口丹波に拡がる亀岡盆地は山陰道 ・摂津池田街道・篠山を経て有馬山陽道への要衝の交差点で軍事的にも重要拠点ですので高岳城や穴太城等は臨戦時には格好の兵の駐屯地として活用されたと思われます。 小幡神社から登り始めて直ぐ土塁を廻した三段ほどの、居住性の強い広い曲輪遺構が続いて土橋を伴う 大きな堀切を越える。尾根筋には3〜4程の小さな曲輪を乗せ東面を広く長い帯曲輪が繋いでいます。
穴太城の天守台跡?!と帯曲輪の境目!に石仏が一基

曲輪群との城域を分ける堀切を越えるがこの2ブロック目の曲輪群南端付近には高さ1mばかり、 円墳のマウンドを思わせる台状の高台があり、石仏が一基祀られている。本ノ丸や天守台にしては低い段差・枡形等を駆使した虎口等の防備施設らしいものは無く手薄です。更に緩やかな尾根は南側にある 3ブロック目の曲輪群へ続くが、倒木が多く荒れて段々と遺構の状態さえ不確かになり、小さな曲輪が階段状に並んでいるだけのようなので此処で引き返す。 石積みの階段が残り天守台もあったという本郭部は、 この縄張り遺構が薄れていく?見残した南曲輪群の最南端・最高所に在ったのでしょうか?先に訪れた高岳城では西端の主郭部を見残し、此の穴太城では南曲輪群を確認しなかった。 大堀切を挟んで陣城的な遺構が 明確な東の曲輪群ばかりが目立ったが、共に再訪・再確認の城ですが共にドチラモも松茸山ですよ・・・・
(亀岡市史を参照)
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小幡神社  曽我部町穴太

西国33ヶ所霊場第21番札所の穴太寺からは、犬飼川を西側に渡った左に(式内社)小幡神社の扁額を掲げる鳥居が有り、 低い丘陵地が川に沿って延びています。此の丘陵上に穴太城(長谷山城)が在りました。 江戸中〜後期の画人・円山応挙や大本教の出口王仁三郎の生誕地が此処・穴太です。円山応挙の絵馬も珍しいもので全国に三幅といわれる一つが社宝として保存されます。 神社の駐車場近くには円山応挙が 9才の時入門し仏弟子となった福寿山金剛寺(臨済宗 天竜寺派:応挙寺)があり、出口王仁三郎も此処で勉学に勤しんでいました。小幡神社も共に所縁の神社ですが、 王仁三郎が此の神社で神示を受け、修行したのが高熊山の中腹にある岩窟でした。小幡神社の奥宮とされる高熊山が先程登った丁塚山だった事を後で知りました。
小幡神社

小幡神社の創祀は、崇神天皇の命により派遣され 丹波地域を治めた丹波道主命が(其の祖父)皇祖・開化天皇(若倭根子日子大毘毘命)を主神とし、其の御子・彦坐王(ひこいますのみこと)、其の御子・小俣王の三代を奉斎したことに始まります。天平時代・和銅元年 (708)丹波国司・大神朝臣(おおみわのあそん)狛麻呂が此処に社殿を造営され、天平8年(736)小幡神社の奥宮が高熊山(丁塚山)中腹に勧請されたといわれ、延長5年(927)に編纂された「延喜式」に記載されている古社です。 案内板には”棟札によると文和元年(1442)管領細川政元?・・・本殿造営・・・”と記されているが、文和年代は1352〜1356で丹波守護は仁木氏の時、1442年(嘉吉2年)は細川持之が死去し細川勝元の時 ・・!細川政元が丹波守護となっていた頃は文明(1469〜)??と分からなくなってきますが、いずれにしても山名氏との政権交代後・細川氏の崇敬・加護を受け其の後、明応元年(1492)を始めとして造営 ・屋根の葺替え等修築が行われたようです。現在の社殿は江戸時代・天和3年(1683)に造立され、一間社流造・桧皮葺きで亀岡市内では妻飾りが二重紅梁、大瓶束を用いた早い時期のもので京都府の文化財の指定されています。
(小幡神社の現地案内板 及 大本70年史(昭和39年叛) 等を参照)
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