亀岡の山と城  半国山〜滝ヶ峰城 / 神尾山城 / 数掛山城 / 八木城 
京都:亀岡市・南丹市 (五万図=園部)
井手農協前〜三ツ石〜半国山〜中野・滝ヶ嶺城 2003.05.10
宮前(半国山登山口)〜金輪寺〜 神尾山城 2003.12.23
井手農協前〜半国山林道〜本梅山(数掛山城)  2004.04.16
春日神社〜東雲寺〜内藤ジョアン顕彰碑 〜八木城 2004.04.16
近畿の山城: 滝ヶ嶺城数掛山城 神尾山城 千ヶ畑砦 大平山城
         八木城・内山城・川関城
校歌・故郷の山 畑野小学校
♪・・半国剣尾 山裾に…♪ 半国山・剣尾山
半国山塊・三ツ石と数掛山城址(右の尖峰)

【亀岡市】北攝の山々を望みながらR477号を北進して京都・亀岡へ入ります。府県境「亀岡市」標示の立つ所に 幾つかの石碑を見ます。国境石碑も建つ此処が「ひいらぎ峠」吉野の関跡です。亀岡側へ僅か数m先に藪が左右に少し割れているところが有りますが鹿の通り道です。白昼でも飛び出して来ますので運転注意箇所ですよ。 峠を下ってくると加舎の里。東加舎バス停付近からは正面奥に緩やかに ・しかしドッシリとした大きな山容の半国山山隗・三ツ石を最高点に
数掛山城址(本梅山)

東南に 高度を下げながら延びる尾根の先には姿、形が富士型の登行欲をそそる尖りを見せる山が見えます。山城の数掛山城がこの山頂にあったといわれます。目指す半国山は最高地点の三ツ石の背後に有って見えませんが、 亀岡市の最高峰といわれますが丹波と攝津の国が半分ずつ眺められるところから半国の名がありますが、此れに播州まで加えるには少し無理が有るかも!!・・・



南丹市 東雲寺〜内藤ジョアン顕彰碑〜八木城
 H16.04.16

府道73号宮前千歳線を丹波八木城に向う途中、 JR千代川駅近くの千代川小学校に立ち寄った。校門として利用されている長屋門新御殿門は亀山城(亀岡城)の遺構としては数少なく亀岡城に残されているもの以外の建造物としては、此の新御殿門と千歳町の民家に残されている旧藩士宅の門くらいといわれます。
八木城本丸東尾根先端の展望岩場(曲輪)からの眺望

移築されている長屋門は天正5年(1577)明智光秀により亀山城内の御殿門として建てられたもので全長23m・門間 2.8m ・高さは2.9mもあって乗馬のまま通れるよう背高く、総ケヤキ造りで堅固に出来ています。国道R9へ戻りJR八木駅手前で”東雲寺 ”の案内板を見て細い集落内の道を西方の山手に向います。
北から東へ廻す帯曲輪(東先端部は土塁囲みに虎口状)から本丸(正面)

細川氏の丹波守護代として口丹波(亀岡市・南丹市付近)一円を領有した八木城主・内藤氏の屋敷だったと伝承される八木山東雲寺(臨済宗妙心寺派)は元和8年(1622)仙令宗円の創建を伝え文政7年(1824)火災により焼亡したが現存する本堂は天保3年(1832)再建され往時の姿を彷彿とさせる城郭造りの石垣や石段の 重厚さが圧巻です。
八木城二ノ丸(U字状に土塁で囲まれ、内藤五郎の居館とも!?)

東雲寺の先で京都縦貫自動車道を潜るトンネルは、タイムトンネルを意識したものか!!城門風で北側に抜けた所が八木城への登山口。京都の自然200選(歴史的自然環境部門)城山自然遊歩道が整備されており城山 (八木城)を経て妙見宮や春日神社へ降るコースは歴史ハイクが楽しめます。丹波の三大山城、また丹波三強の居城として 丹波市の猪ノ口山黒井城(荻野直正)・篠山市の高城山八上城 (波多野秀治)・口丹波:南丹市の八木城(内藤有勝)の三城共に一度は明智軍を退けているが
新御殿門 (千代川小学校・亀山城遺構)

、明智光秀の”丹波攻め”に落城した。登り始めて直ぐ治山堰提が続谷筋に沿うが此処に一合目の標識があって山頂本丸に向って十合目まで続く。一石五輪塔が倒れている。二合目の登山道の傍らには 内藤氏一族を供養したものか小さな数個の五輪塔と墓石も見かける。斜面に沿って左右には幾段もの削平地があり、家臣団の武家屋敷が建ち並んでいた里曲輪です。
家臣団屋敷跡に倒れた一石五輪塔

薄暗い杉・ヒノキの植林帯もクヌギ・コナラ等落葉の雑木で周囲が明るく感じられてくると七合目で「対面所跡」表示のある左への小道が分岐する。 2〜3の小段差をもった削平地は明るく展望も良い出曲輪は使者との対面所となっていたのでしょうか。日本人伝道士ロレンソが 八木城に派遣された時、此処で洗礼を授かった家臣もいたのでしょうか!!。
”内藤法雲(如安の父:宗勝)郭”の大堀切側土塁切岸の石垣

元の戻って二の丸の東肩に着く。 一段と高く土塁で防備した本丸は広く、ベンチの置かれた南下に続く曲輪の先にある岩場からは、大堰川を挟んで口丹波の盆地、正面にはJR八木駅と京街道(山陰道)の展望が拡がります。内藤氏の屋敷があったといわれる東雲寺近く ・城山登山口となる新御殿門には、戦国時代にキリシタン大名として高山右近等と名を馳せた内藤ジョアン内藤飛騨守忠俊 ゆかりの地としての顕彰碑(詳細は八木城レポート)が建てられています。


亀岡市の山城へ 井手〜三ッ石〜半国山(774m)〜中野・滝ヶ峯城 H15.05.10

冬場にお誂え向きと思っている半国山へは何故か蒸し暑くなった 6〜8月に出かけています。千ヶ畑口からは小和田山往復をプラスして、赤熊からは音羽渓谷沿いの道を辿り金輪寺へ下れば、およそ代表的な半国山への 登山ルートを走破した事になるのかな!!?。そして今回は5月・ツツジ咲く山頂附近も魅力ですが本梅町に二つの山城を訪ねるのが目的ですので、新たに井手からのコースが加わります。 豊能郡能勢町と亀岡市の府境界「ひいらぎ峠」を越えて東加舎へ下ってくると左手奥に大きな山容を見せる半国山塊の三ツ石を望みます。南北朝期の烽火場だったといわれ、 此処から見る限り随分と高所にあり展望も烽火通信の効果も大きい場所のようですが、今は雑木と植林に囲まれた台地で展望は有りません。
宮川・井手の分岐近くの山上池

半国山へのハイキングコースも此のピークを避けて僅か下方を捲いて通ります。山頂には大きな露岩が点在していています。 最高地点附近の大きな岩に囲まれた一角に烽火場(狼煙台!!)があったと思えますが、素人の私には遺構の跡か単に自然地形かは判断もつきません。三ツ石から南東へ緩やかに下る峰の端に三角形の秀麗な山容を見せるピークが目指す 数掛山城ですが・・・・(^^; 湯の花温泉と千ヶ畑を経て瑠璃渓へ向かう交差点に井手農協があり (AM7:15)本梅川に掛かる水車橋を渡って集落内を山手に向かいます。左手に加舎神社の森を見て正面の数掛山城址のピークを目指したのですが・・!!。山道を広くしたような村道と合流して林道の終点 (AM7:40)になり、奥へと続く踏み跡を追って植林帯を抜け出るとまた林道に出た。
半国山山頂・わかばえのツツジ

この林道が井手農協から出雲神社(境内には大きな露岩があって天岩戸の伝承をかたち造っているのか !!)脇の道(廃車置場!!がある)に出て竹薮を抜け、 神社の背後から続いている本来!!の井手コースの様で 墓地下の常時開いている!!??ゲートを通って貯水池を見て取付点の堰提(AM7:50)に至る道です。集落内を直進せず、小川沿いの右手にある出雲神社からが井手コースの正解ルートのようです。 境内には地中から突如として噴出してきたような "天の岩戸"を連想させる雰囲気の大岩があります。林道終点から堰提上に出ますが正規ハイキングコースは堰提下からです。コースを左へ捲き上がる地点、谷詰に直進すると幾つかの小滝を見て6m程の滝で行き詰まり、 藪と激急斜面を抜け出ると三ツ石(711m)近くのハイキング道に出ますが疲れるだけの藪道です。 正規コースで導標のある尾根(AM8:10)に出ると緩やかな快適尾根を辿る事になりますが、この分岐を反対に下って行けば目的の数掛山城址だったのかな・・!!?よくは判らないまま三ツ石に着きます。南北朝期(足利尊氏が二度 ・京を追われ再起を計っていた時代か、 それ以後のものか・・??)此処は狼煙場だったといわれます。
数掛山城北端の堀切と土橋

平坦な山頂附近に点在する多くの露岩は何も語らず、素人の私には痕跡さえ分かりませんが、R477からは見通しの良い位置と山様から想像は出来ますね。 ハイキングコースは此の山頂を捲く水平道をとって植林帯を抜け、 明るい自然林へと急ぎます。金峰寺からの道と合流する「宮川 ・井手別れ」分岐10m程手前に山上池があり(AM8:40)静かな湖面に樹々の鮮緑を映しこんでいます。一斉に鹿の走り去った雑木の間に、開きかけたツツジ花が目立ちます。瑠璃渓へのコース分岐からは300mで山頂です。 最後100mの急登で芝生の半国山山頂(3等三角点 774m AM8:50)に着きます。 線刻の不動明王と"日本大小神祇"の石碑を祀る石組みが展望台なら、少しは見晴らしも良い所でしょうが・・・・
虎渓谷千軒の僧坊跡・武家屋敷跡か

往時を"三ツ石"迄引き返し東への藪尾根を辿り中野の廣峯神社へ降りてきたので、目途を付けていた桂林寺から滝ヶ峯城を訪ねたが、今回主目的の数掛山城は何処だったのか ?後で調べた結果・秀麗の富士形ピークがそうらしい。時間に余裕も有って再度・加舎神社の西側から山に向かい放牧場の奥で数段の石積み平坦地を見かける。猪除けの石積みが平坦な訳もなく、砂防・植林にしては丁寧に積まれている。 次回の宿題だが此処周辺が苔谷仙軒(虎渓口千軒)と呼ばれたところなら中国の虎谿の由来の寺跡なのかもしれない。勿論・詰め城を背に溝居・家臣団の屋敷跡とも思えます。資料や縄張り図でもあれば・・・この後・コース取り違えて ??ハイキングルートの林道に出てしまった。
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吉野の関跡
R477号線は右手に 歌垣山を見て暫らく走ると大阪府豊能郡能勢町と亀岡市東加舎の府境界の「ひいらぎ峠を越えます。丹波と攝津の国境にあたる此処 ・吉野タワ(峠)はひいらぎ峠:吉野の関:関の明神:一本松と、多くの呼び名が残されます。摂丹を結ぶ最短路として摂津からは京・亀岡道、丹波からは池田・妙見道としての要衝ですが、摂津には中世・都の皇室や公家の荘園があり、
摂丹境界・「ひいらぎ峠」吉野の関跡

戦国期には摂津・丹波の攻防が激しく、 軍道として関所の機能が存在したと考えられます。此処に関所跡の碑と国境石標が並んで建てられています。此処・関所跡には関ヶ明神の祠があって往来者の安穏を願う道祖神が祀られ、人々は能勢路へ・丹波路へと向かったことでしょう。峠にあったヒイラギは摂津国側の葉には針が無く、丹波国側の方には針が有って鬼が入って来ないようにと 願ったとの伝承があります。(能勢町教育委員会案内板参照)
加舎神社


加舎神社(本梅町西加舎)は平安時代の長徳2年9月(996)神明社として創祀されたもので天正5年 (1577)頃・明智光秀の「丹波攻め」の兵火により焼失し徳川時代に再建され文政2年 (1819)改築されています。明治の神仏分離政策で明治3年(1870)地名の賀舎荘を取って加舎神社となっています。御祭神は天照大神 ・誉田別命(応神天皇)・神産霊命(神代最初の神) 
加舎神社説明板参照



 滝ヶ嶺城 数掛山城 神尾山城  千ヶ畑砦 大平山城 八木城・内山城・川関城

滝ヶ嶺城(加舎城・滝ヶ嶺古塁) 442m   亀岡市本梅町平松滝ヶ谷

東へは亀岡市を経て京都へ、南へは能勢から大阪へ西は篠山市へ通じる 交通の要衝に築かれた滝ヶ嶺城は半国山から東へ延びる尾根筋の東突端部の要害に位置して桂林寺西の裏山山頂にありました。南北朝期の永和3年(1377)森美作守頼永の築城だといわれます。永禄年間(1558-70) 八上城波多野秀治の勢力下にあったと 考えられますが 天正期(1573-92)には城主森美作守氏就!!が明智光秀軍の先鋒となつて、光秀に対して最後まで戦った丹波八木城の内藤備前守国貞を攻め、 近くの宮川町金輪寺の神尾山城(木目城)に討死させています。
桂林寺下より滝ヶ峯城の遠望

平松公民館前からは山麓に桂林寺の屋根も見え、此処を目標に参道に入ると青々とした草地に、立木や露岩が目立つ高原の雰囲気が漂う一角が有る。山門を潜り本堂横から墓地の最奥から取り付き植林の中へ入り込むと 直ぐ踏み跡がある。比高200m程の山ですが、遠目には緩やかな稜上の姿とはうらはらに急登が続く。周囲が明るく傾斜も緩やかになると 堀切に出て城域に入ります。数m上方の低い曲輪は石積で補強されています。
滝ヶ峯城の石積

次の低い曲輪に出るとその前には、藪の中に2m程の高い曲輪の切岸が立ちはだかります。前方に現われた曲輪が本郭部です。本郭部を今、立っている曲輪がぐるりと周囲を取り囲んでいて 犬甘野城や法貴山城と同形の典型的な輪郭 式の小型山城です。朽ちた倒木と足探り状態の密生した藪の中では帯曲輪や本郭部の切岸を補強する土塁の高まりも、先刻の僅かに残る石積み遺構ほどには確認出来ません。 足下さえ定かにならない藪と下草に覆われた差ほども広くない本郭部ですが、 一部低い盛土状が周囲を囲っている様子です。
滝ヶ峯城・輪郭より本郭部


土塁で囲まれた急な山城に石積み跡が多く見られるのは、輪郭の東側を覗けば分かります。崩壊もあってか足下からスパッと切れ落ちるような谷筋を見ると、石積み用の採石に困る事は無かったようです。 南北朝期・森氏によって築かれた城も、堀切・主郭を取巻く帯曲輪や、石積みの補強、L字状の虎口の構造や虎口受けの曲輪等、 いま見る縄張りは比較的新しく元亀・天正期に明智光秀傘下の土豪・森氏により織豊系城郭の構造を取り入れて 改修された城と考えられています。南西面に横堀(幅3mx長さ約40m)があるが猪倉城や法貴山城と共に口丹波(園部 ・亀岡)の城では余り例を見ない珍しいもののようです。
(日本城郭大系・新人物往来社 参照)


数掛山城(本梅城・加舎城・数掛山堡) 本梅山(ほんめやま)538m   亀岡市本梅町平松西山・中野

半国山774mの東南方に三ッ石(711m)が聳え、 そこには中世の狼煙台があったといわれます。その下方(見当違いで下った東の尾根では無さそう)東南へ延びる枝尾根上に 富士型のピークを載せる山頂が見えます。加舎神社の北方に虎渓谷千軒があり其処が大手口と聞いていたので、 加舎神社を起点に城を捜して見つからなかったが、現在の加舎神社ではなく以前の加舎神社との事で、スッカリ振り回され其の上 、 遠目に目立つ山も山腹に入り込むと踏み跡も無く、谷筋の急斜面に藪漕ぎで向かうには体力勝負です。
数掛山城主郭

ハイキング道や東尾根を下るマイナールートに赤テープを追っても肝心の数掛山城はこれ等の 踏み跡ルートからも外れています。今回3度目でやっと本城に辿り着いて岩で囲まれた本郭の櫓台や土塁 ・堀切に架かる土橋等を縄張り図を参照しながら確認してみます。何故この様な場所に城が・・・・!!と思われますが中世・室町期以前に既に 数掛山城から尾根続きの711mピーク・三ッ石には狼煙台がある。能勢方面から亀岡・園部へ通じる街道筋を監視し亀岡盆地を望む要衝の展望所。尾根の左右は城域の北部を除き尾根筋さえも急峻な要害。
数掛山城主郭

此処に室町時代・波多野与兵衛尉秀親の数掛(かずけ)山城が築かれていました。波多野氏は、いわずと知れた丹波の雄・永正5年 (1508)細川家の内紛では高国に味方して郡奉行難波氏を追放してからは八上を拠点に勢力を張り、名実ともに丹波国主となった波多野秀治とは婚姻関係を持って深く同盟関係を保ってきたようです。天文21年(1590)細川晴元に 西加舎の領地を認められた波多野与兵衛尉秀親か!!滝ヶ嶺城と同じく波多野氏の勢力下にあった森氏の城だったのでしょうか。数掛山城へは西加舎から虎渓谷千軒 (苔谷仙軒)を上がると大手の城戸口があって、左右には城戸郭の削平地や石垣・土塁の遺構が残っており、中世の寺院跡で多くの僧坊が 建っていたといわれます。 城が築かれてからは波多野一族の家臣達の屋敷が建ち並んでいたことでしょう。福井・朝倉氏の一条谷を彷彿させる中世家臣団の集住屋敷があったのでしょう。
数掛山城本郭南側の曲輪と切岸

山頂の山城には先に寄った滝ヶ峯城のように岩の多い山頂附近なので、自然石を利用して野面積みの石積み遺構は城域のほぼ中央部、 北の丸!!の広い削平地への虎口門のような所にも見られます。また此処には数段登り切った所に大きな岩が数個あって枡口を形成しているように思えます。自然石は本丸跡に集中しており 結構大きな石も有るので自然石をそのまま石垣として巧みに利用したものようですが、東面に残る多くの石は積まれていた石積みが崩れ落ちた跡のようで残念です。
数掛山城北の丸!!?の城門跡?

一段東下には帯曲輪が並び、北の丸!!の北西端には幅広土塁の高みが有って櫓台のようです。 その櫓台を北側に抜けるように降る道は土橋のある堀切を経て尾根通しの山道(余り利用されていないようですが、以前城を捜しながら僅か10数mで行着く此の場所を知らず降りに利用した道でした)に合流します。 山道は土塁道を通って 三ッ石へ向かいますが、この間にも削平は甘く切岸の加工も無い数段の狭い (3〜4段)曲輪が10m程の高みの頂に続きます。この山頂付近の削平は不確かで北側末端の岩場で遺構は消えます。 居住スペースではないので兵の待機場所 ・武者溜として機能していたのでしょうか!!?
(日本城郭大系・新人物往来社 参照)


神尾山城(本目城・神尾城・神尾寺城・本梅城・本免城)  神尾山 434m  亀岡市宮前町宮川・太尾

宮川バス停から 「金輪寺・半国山ハイキングコース」案内板に導かれて向う金輪寺へは集落内の丁字路で左右に別れ、山頂近くの金輪寺駐車場 (広場に7〜8台のスペース有り)へ向う参拝者用林道を左に見て右折し宮川神社へ向います。 此処から車道2.5km ・徒歩では20分なので、急斜面のほぼ直登コースであることが想像出来ます。ハイキングコースは宮川神社前から、 西国三十三ヶ所巡拝の石標が建つ金輪寺への石段道から始まります。延喜式内社:宮川神社は祭神に伊賀古夜姫命・誉田別命の二神を祀り、文武天皇の大宝年間(701-704)創建で、山上に伊賀古夜姫命を鎮めたのが起源とされ古くは神野山と称し 延喜式にいう神野神社に比定されます。
金輪寺本堂

また誉田別命(八幡大神)は欽明天皇 32年(571)に宇佐八幡宮より神野山山中に遷し祀られたと伝えられ、此の地を八幡平といいます。天正5年(1577)明智光秀と波多野秀治の合戦の際、兵火で両社とも焼失しその後落雷・不作が続いたので正保4年(1647)山麓の現在地に社殿を移して 二神を合祀し名称も宮川神社と改められています。参道から参拝者用林道に出て駐車場を抜け金輪寺本堂に出ます。参道や本堂周辺には石垣造りの堂宇・僧坊跡の削平地が随所に見られます。金輪寺の敷地から城域のようですが 本堂の右手から続く 平坦な登城口を進むと数基の天台宗 (大阿砂利xxxxの銘があるので!!?)の僧墓が並ぶ広い削平地に出ますが 往時は右手の山道を辿ったので 墓地やその先の広い削平地(池か井戸跡があった?)を見下ろしての山道は 尾根筋に残る遺構を通り過ぎてしまう可能性が大きい。
参道脇には旧金輪寺の僧坊跡の石垣が残る

道を外して左上方の尾根に向い南端の曲輪に出ますが削平以外に遺構が見出せず1〜2段の削平地を過ぎ堀切らしい窪地を過ぎると段差の明確な数段の曲輪を経て 主郭部に到達します。雑木と藪で判然としない主郭部ですが下段の曲輪との間の切岸や周囲を土塁で固めた高まりもあります。笑路城(亀岡市 西別院 )ほど明確ではないが此処にも 天守台の祖形が見られるようですが、小さすぎて私にはよく分かれません。櫓台だったかも・・!!南よりに廻ると先ほどの山道が登ってきていますが、その山道の側に土砂や雑草で埋りかけた数段の石積が見られます。 主郭に出る最後の平虎口の木戸跡だったのでしょうか!!?。此れより北へも曲輪は長く延びていきますが、防備の施設(土塁・堀切・曲輪の切岸)は殆んど見受けられませんが削平地には 建物跡の礎石を見ます。山麓にR372号線(旧山陰道 )が通り池田街道や 能勢街道にも通じる交通の要衝に位置する神尾山(神野山)には、僧墓所の先に続く井戸や溜池のある曲輪から天狗岩に至る平地の南北200m ・東西20m程が八幡平で此処に誉田別命(八幡大神)が祀られていました。霊地として巨岩怪石が露呈する辺り、天狗岩と呼ばれるのは神岩で注連縄で飾られた 神域だったのかも知れません。
天狗岩手前・八幡平の石積

此処には天台密教(山岳宗教)の霊地として大規模な金輪寺が営まれていたようです。 僧墓から天狗岩までにも曲輪が続き当時(570〜700頃の創建)の祠跡か寺か武家屋敷跡かは?定かでないが土留め等の列石や石垣が残っています。これら神域・寺域をも取り込んで築城された山城は南北約 400mに及び山稜に15〜16の郭が並び、 丹波五大城の一つともいわれます。築城年代は定かではないが大永6年(1526)頃、丹波守護・細川尹賢の中傷によって細川高国が、家臣:香西元盛を殺害した為八上城の波多野備前守稙通が細川高国に叛し、弟の柳本(弾正)賢治も此処 ・神尾寺城に挙兵した。一時は京都で勢力を得た柳本賢治も享禄3年(1530)播磨に出陣中、細川高国の被官 ・中村助三郎に討たれたといわれます。 天文15年(1546)には細川晴元が入城しているが、その後も内藤氏との抗争に利用されたと考えられます。
八幡平の長く広い曲輪には井戸跡有り

賢治の主君で八木城主・内藤備前守国貞も細川氏綱や三好長慶に与力しており天文22年(1553)此処・本目城(神尾寺城)の滝ヶ嶺城主 (本梅町平松)森美作守等に攻められ討死しています。天正7年(1579)"丹波攻め"において籾井城籾井越中守「丹波の青鬼」を討ったが、 八上城を攻めあぐねた明智光秀が八上城波多野氏攻略のため、母親を人質に八上城に送って和議を図り、波多野氏方だった 荒木山城荒木山城守「丹波の荒木鬼」と本目(神尾山)野々口西蔵坊を仲介にして城主波多野秀治・秀尚の兄弟を本目城(神尾山城)に招き入れて捕え安土城に連行して殺害した舞台ともなったところです。
(日本城郭大系・新人物往来社 等参照)


千ヶ畑砦(千ヶ畑城・千ヶ畑構) 古城山 320m   亀岡市畑野町千ヶ畑・広野城山

兵庫丹波篠山市福住からR173号で大阪・能勢町に越えた天王地区に 吉良居館が在って城史は不詳ですが先に立寄ってきた。天王から”はらがたわ峠”に向う池田街道(R173号)のトンネル手前で瑠璃渓へ向かい大阪・京都府道54号(園部能勢線)の分岐を右折して土 (どん)ヶ畑から大路次川沿いに畑野町公民館前に下りて来ます。広野の分岐を右折すると能勢町の宿野へも近い。直進する車道は、広野で大路次川に合流する支流の千ヶ畑川沿いに緩やかな登り坂が続き、小和田山から北西に延びる尾根筋の北山麓には 棚田が拡がっています。さて広野の交差点(三叉路)を直進して直ぐ、此処から岩石峠へと登り始める長い坂道の最初の峠状の場所。
千ヶ畑砦への登城口

右手の小さな独立丘陵の東側に柱石を並べ、鳥居は無いが神社か 稲荷社が有りそうな真っ直ぐで急な石段が続く登り口があり、其の横には奥にあるゲートボール場への案内板が立ち、見ると「城山xxxxx」と書かれてある。丘陵頂部へは此の一本の石段参道が直上するだけで、比高こそ25〜30m程ですが 周囲は急斜面に囲まれ、南面を千ヶ畑川が流れ西を大路次川に囲まれ、府道側は崖状の天然の要害を成す此処が千ヶ畑砦です。頂上部は途中2箇所に2〜3段の石段をもった段差が有るだけの20mx30mの削平された台地で、 造成の為もとの遺構は窺えないが短い尾根や斜面に堀切等で曲輪を遮断する施設は無い。単郭の縄張りに大きな改変はないと思えます。最奥部に昭和3年5月建立の忠魂碑が建てられ、背後の南側2m程の段差で雑木藪に緩い斜面をもって突き出す 不整地の二つの曲輪があるだけの小規模なもの。展望が効けば大路次川沿いの能勢方面や土ヶ畑からの通行監視の見張台になるでしょう。 此処は東方の 亀岡市本梅から、南方は能勢宿野から、西方の天王を経て篠山市への丹波・京都・摂津を結ぶ裏街道として利用されていた様です。 天王からは籠坊温泉にも通じ三田市へも抜けられます。広野に三方からの街道が交差し、 これ等間道を抑える砦として、監視出来る位置に在った千ヶ畑砦は、波多野氏勢力側に有ったと思われます。
千ヶ畑砦・頂部の忠魂碑から剣尾山〜大平山府境尾根を望む

畑野町は波多野に通じる名称なのか?。亀岡側から摂津豊能郡や篠山への間道を押さえる任務を負った砦だったのでしょう。八上城に通じる裏街道の畑野町に千ヶ畑砦が在り、 表の京街道(R372号)宮前には猿倉城(井内城)はじめ多くの城砦が在るようですが、猿倉から中野へ向う車道の電柱にも”ハタノ”の文字が・・・。丹波攻略を目論んで執拗に奥丹波の黒井城の荻野氏・赤井氏や、 八上城の波多野氏を攻めていた天文23年(1554)〜永禄8年(1565)頃、 波多野氏勢力と三好長慶+八木城の丹波守護代:内藤宗勝の抗争で、京都府側に在った波多野氏勢力下の領主等が此処に立籠ったが、内藤氏方が此れを攻め落城させたものと 「湯浅家文書」より推察されます。此の前後の記録等、在地領主が築城したという 城史や伝承は無く一切が不明です。千ヶ畑から岩石峠に向かい、峠付近から”加舎の里”ゴルフ場を経て本梅町に下りてきます。本梅と聞けば山は半国山、 城は八上城:波多野稙通の弟:柳本賢治が挙兵した本梅城 (神尾山城)が良く知られます。其れ以上に明知光秀の策謀によって八上城主:波多野秀治と秀尚の兄弟を、神尾山城に招き入れて捕え安土城に連行して 殺害した舞台となったところとして有名です。


大平山城 大平山 470m   亀岡市東本梅町東大谷七ッ岩・赤熊山ノ神

以前(・・・といっても!!もう10数年以前)山城には、まだ今程の関心も持たず・城跡の尾根を・ただ通り過ぎるポイントの 一つとしていただけの頃・東本梅町赤熊から音水渓谷を半国山へ(H9.8.30)登った事がありました。下山コースをハイキングコースになっている東側の金輪寺へ下るか、 亀岡市と現:南丹市薗部町との市境尾根を東大谷へ採るか検討し、 時期的にも暑い盛りの折だけに、
屋敷跡を思わせる浄光寺前駐車場からスタート

藪漕ぎの心配の少ない 一般コース?を下山と決めて宮川へ降りた。此の音水渓谷の東尾根側に、丹波八上城主:波多野秀治兄弟が、 明智光秀の策謀により 捕らえら安土城へ送られた舞台として有名な?神尾山城が在り、直線距離だと西北方に僅か1kmと離れていない・・・
山道は曲輪の間を通る土塁虎口!!?を抜けて稜上に着く

半国山主尾根から北へ派生する枝尾根上には 大平山城が在る事を後年になってから知った。大平山城へは篠山市方面からR372号線を走るが、埴生からは・東大谷 ・宮前町へのバイパス道を軽快に走っていると、つい行き過ぎてしまうので、埴生集落内の街道筋の面影を残す旧道に入り、 城域を二分する土橋は「山抜け(山崩れ)」による自然の要害か?

埴生城下から山裾道を走ると東大谷地区内の右手・丘陵沿いに舗装林道が登って行く分岐点に、浄光寺参道を示す門石柱が立つ。 林道終点が大平山城へのスタート地点・浄光寺と墓参用の駐車場が有る標高Ca200m地点。市境界尾根筋を山上迄続く大手道?かと思える程の良い巡視道?。
二ノ丸土塁虎口!!・主郭へは間に{山抜け 」の土橋が待っている

しかし急な九十九折れ道が城跡まで比高270mと結構高い。 半国山〜神尾山城へと周回できる歴史ハイクの登山コースが整備されればと思いますが、生憎と大平山城を語れる城史については一切不明。 九十九折れの山道も最後は、斜上して稜線上に延びる細長い曲輪の間を抜けて到達する。城内に入る唯一の虎口?から山上部に長く延びる3段程の平坦地(殆ど自然地形に近い?)は、いずれも尾根幅一杯に長く、 三段100m以上はある。
主郭:石を利用しての切岸補強加工!!?


自然の大岩を切岸とする曲輪(主郭西側・二ノ丸!!)から、更に東方への尾根筋は 「山抜け(山崩れ)!!?」となっていて巨大な土橋付・擂鉢状に落ち込む急峻で長い大堀切状を呈した天然の要害。自然の土橋を渡ると、切岸加工されている主郭の広い曲輪に入る。東端の曲輪へ降りる土塁北側に短いが空掘り状の窪地をみるが、腰曲輪との区分か?、土塁虎口とするための施設なのか?。
主郭の切岸(西面から)

大平山城の長い城域内に堀切を見ない。 摂津・播磨・山陽道に通じる篠山街道(京街道)の要衝を見下ろす位置に在るが、篠山街道の入口?湯ノ花温泉付近に有る大田山城が陣城と推察されるように八上城支城の 神尾山城に対する陣城なのか、市郡(旧船井郡)境尾根に築かれる「境目の城」なので、口丹波にも勢力を持った波多野氏方の城なのかも・・?。
主郭東面:上り土塁虎口?と右手切岸側の空掘状窪地形

大規模な城域にしては「亀岡市史」に:縄張り遺構からは在地勢力というより、臨戦時の外部勢力による 構築とも考えられ、縄張りの古さ!!??から :大永6年(1526)頃、丹波守護・細川尹賢の中傷によって細川高国が家臣:香西元盛を殺害した為、八上城・波多野稙通が細川高国に叛し、弟の柳本賢治が神尾寺城に挙兵した際のもの・・・との推察も残されています。
(亀岡市史  神尾山城は日本城郭大系・新人物往来社 等参照)

八木城と内山城・川関城
八木城(神前北山城)   城山 330m   南丹市八木町本郷

JR山陰本線千代川駅・八木駅の南西に連なる山塊に一際目立つ標高330m峰が城山で、山頂部に本丸を置き・四方に延びる尾根筋にも其々に多数の曲輪群を積み並べ・堀切・土塁等の防備施設は石積みによる補強もされた城郭施設は広大で、山全体を要塞化した複合梯郭式の巨大な山城。
城山山麓の屋敷群跡

其々の曲輪群に守将を置いて主郭を守備する一大城砦群を形成しており、丹波国内でも有数の規模を誇っており 八上城・黒井城と並んで丹波国三大城郭の一つとされる要害の中世山城です。 牛松山・三郎ヶ岳へ市郡境界の山々に囲まれた亀岡盆地の田園風景が拡がり、亀岡を保津峡(嵐山)京都市街地を縦断して流れる桂川 (大堰川)や京街道 (山陰道)を眼下に望む口丹波随一の要衝にある。
茶屋跡側から空掘・土塁の先が対面所跡

R9号線 八木駅南で府道 452号に左折し踏切りを渡り東所川を越える西南方に内山城、東所川が大堰川(桂川)に流れ出る位置には川関城が在るので、 二城については八木城訪城後に寄ってみる。府道452号で東所川を渡り右折して地区道を進み八木小学校前から春日神社に向かう。

本丸東曲輪群:奥方屋敷曲輪!!?から・先端曲輪は露岩を切岸に取組む

縦貫道高架上の丘陵が八木城 ・其の山麓 :前方に見える春日神社前からスタートして 70m程 ・内藤ジョアン所縁の地を示す十字架の顕彰碑が建てられている。地区道を直進すれば細川勝元(嘉吉?文明期の守護で守護代に内藤入道・之貞 ・元貞が継ぐ )の創建とされる龍興寺や東雲寺【内藤家屋敷】が有る。
本丸東下段帯曲輪は尾根筋左右に土塁を積む虎口状

城山 ・天神口の登山道は京都縦貫道路高架下の城址等・・案内板を見て石垣積城門をイメージした隧道を西へ抜け出た所から山道に入る。1−2合目には幾段もの家臣屋敷跡の土塁や石積を遺す曲輪群が続く。自然崩壊による溝が堀状に見える?曲輪も有る様。6合目には土塁と堀切で対面所と茶屋跡を分けた使者等を待たせた曲輪。訪問客には ルイ・フロスイ宣教師も内藤ジョアンと 此処で面会したのかも・・。
本丸”金の間!?”側から西南端の土塁

守将大八木但馬・波々伯部中猪の郭が在るところからも、此の登山ルートが大手口と思われます。6合目の対面所分岐から登山道は 10合目 八木城本丸に延びるが東尾根筋(藪っぽいが踏み跡有り)を詰め上がると土塁・空堀を廻す曲輪下に着く。起立する大岩を切岸に取込んだ二段曲輪の上には削平も丁寧な本丸北(東尾根)曲輪群では一番広く綺麗な曲輪がある。
本丸:手前”金の間”入口部の石積跡と左端に虎口や天守の祖形!?を見る

陽当たり・展望絶佳・居住性もあり 城主家族や家臣の奥方屋敷曲輪は此処ではないかと思われ、其の上段(本丸下)には東先端へと左右から土塁を突出す曲輪が有る。 本丸から対面所の至る南東曲輪群5段程は何れも切岸加工され高低差5−6mは有る。本丸の北下段へ帯曲輪を延ばし登山道を見下ろす足元には石垣が遺る。
本丸西南端の石積・虎口・天守の祖形!!?

此の帯び曲輪端は本丸西を南北に積む石積土塁の北端に繋がり、大手・西や北方の曲輪群から 馬場跡?を本丸に入る虎口部を櫓・門・塀で厳重な防備が施されていた様。本丸周辺に石垣跡や土留の石積跡、其れ等に使用されたと思える 崩れた石材が散残する。本丸(連続するが西や北には其々に守将が護る曲輪群が在り・其々に主郭を持つので、八木城全体の主郭は本ノ丸が妥当!か!?南西に金之間曲輪と呼ばれる特別な石組みが成されていた一郭が有る。
本丸西土塁切岸下部:上り土塁虎口側にも石垣跡が遺る

半地下式貯蔵倉の様にも見え、 南尾根筋からの虎口受け郭にも思えたが名前からは金蔵との見方か?。其れよりも”天守台の祖形”とも指摘されている様です。”天守台の祖形 ”は長沢正綱の笑路城(亀岡市西別院町)がよく知られるところですが・・天下取り:明智光秀の改修では?との思惑も・・・。ただ此処へは 内山城西麓から京都縦貫道路高架を潜る踏み固められた山道は
U字状に分厚い土塁が囲む二ノ丸(内藤五郎の居館!!?)

堀切状の鞍部を越えるが、此処から辿る南尾根は本丸虎口の下部や岩場雑じりの 急斜面下方に数段の平坦地形が有るだけ?。主将(家老)藤土佐の郭(宗貞の弟:土佐守家盛?)。急斜面だが堀切・竪堀 ・土塁等顕著な防禦施設を見ないまま?尾根筋を登り切る。直接本丸を目指すには此のルートが近くて楽?かも。
”内藤和泉郭”西端の土塁

本丸土塁から登山道と合流して西へ長く広い尾根が厩曲輪(馬場跡?)。南端に土塁が走り、其の先に楕円形に分厚い土塁を廻す曲輪(二ノ丸)側か ら西下方への通路が露岩切岸を見せる堀切に通じる。堀切を越えて北方・妙見宮からの登山道に向かう広い帯曲輪の左正面の尾根筋は二段程の曲輪が有り土塁で行止り。此処も広く 削平も丁寧で綺麗な守将内藤和泉の郭(宗貞の弟:和泉守房綱?)。
二ノ丸からの北尾根”内藤五郎”北堀切下に清水を湛え岩を穿いた井戸が!!

馬場跡曲輪の北端一段低い幅広通路は二ノ丸(楕円形の土塁囲み曲輪 ・内藤五郎の居館ともされる)北面切岸下を通り北尾根上に展開する段曲輪群に入る。三段程続く曲輪の北端部には幅広いU字状土塁があり 先端部分は随分と幅広く櫓台と思われる守将内藤五郎の郭(備前守有勝の嫡男?)。石積跡も残る虎口を降ると露岩の多い堀切には露岩を穿いた井戸?跡が二箇所有り・何れも清水を湛えている。
二ノ丸からの北尾根”並河重朗郭”(露岩左は帯曲輪・倒木右上に土塁)

ただ内藤和泉郭付近からの西尾根や北尾根にはマンガン鉱等の 鉱石採取跡の抗口が開いている。・・其の縦堀か?自然地形なのか足元に垂直の深い穴もある。同様に自然陥没と思える溝・窪地もあって惑わされる・・!!?。 堀切を越えると切岸加工された4−5m段差の曲輪を越えて、削平状態は良くないが 広く奥行のある北の丸の守将並河重朗の郭(十郎とも?)に入る。
烏帽子岳北西曲輪末端土塁から堀切への下降点(虎口?)石積

主郭部西角のL字状土塁があり、西北への尾根沿いに4段程の曲輪を重ねるが、 主郭一段下曲輪は西東面を南端<内藤五郎郭を分ける>の堀切側曲輪迄を繋ぐ帯曲輪。内藤和泉郭へ戻って、主郭北西下の帯曲輪を廻り込み ・妙見宮への登山道を 降り切ったところに天水受け池跡か横堀か?、水の溜まった窪地がある。尾根東端が土橋状?。
同上:石積土塁下方の土橋付き堀切

緩斜面の先に段曲輪が見えてくると主将は家老で内藤ジョアンの義兄八木玄蕃の郭。曲輪以外に顕著な遺構は無いが広大な城域中央部に位置して参謀本部だったか?。 鞍部に降ると妙見宮への登山道を分けて急斜面を登り切った峰が【烏帽子岳:略して烏嶽とも呼ばれる”】最高所で7代城主内藤法雲 (如安の父 :宗勝<松永長頼 >)・家老:大八木蟻若左衛門・波々伯部兵庫の郭で三ノ丸ともされる。尾根筋は西北方へ二分するが先ず西南尾根に進む。末端の大土塁櫓台から高低差約10m程の大堀切は土塁下部堀切側に面して石垣 ・石塁での切岸補強され、亀岡市神前方面からの攻撃に備えた 防禦体制の意識が感じられる。
”内藤法雲郭”の大堀切側切岸の石垣

堀切底の南側に二ヶ所・不気味な深い穴を見せてマンガン鉱の抗口が開く。西へ続く荒れた広い曲輪にも岩石類が残存する溝や井戸?状の穴を観るが、城遺構とは関係なさそうで試掘の跡か?。”烏帽子岳”に戻って西北尾根へは鞍部を挟んで10数段の小曲輪群の北末端に広い曲輪に着く。 此処も土塁が大堀切側に切岸を立て土塁西端部に石積みを見て土橋付き堀底に降り立つ。
”内藤法雲郭”土塁石垣からの大堀切:左端はマンガン鉱の縦穴か?

内藤氏は藤原氏秀郷流とされるが丹波八木城(但馬にも八木氏の城で但馬攻め山名氏滅亡後は別所重棟が入った但馬八木城がある)の城史自体に不明な所が多い為、 以下は通説として・・!!?室町時代初期・元弘3年(1333)足利尊氏が丹波篠村八幡宮での挙兵に応じた内藤顕勝(定房)が戦功により船井郡を賜わり、建武2年 (1335)八木に城を築いて拠ったのが始まりといい、 永享3年(1431)香西豊前守元資が守護代を罷免されると内藤信承(備前守入道)が丹波守護職細川持之の被官となり守護代として口丹波 (京から丹波路に入る亀岡市・南丹市等)に勢力を張って活躍します。
馬場曲輪から本丸石積土塁:左に下山口 ・正面に上り土塁虎口?

嘉吉3年(1443)には之貞・宝徳3年(1451)頃には内藤元貞へと細川勝元・政元の政権下で内藤氏が守護代<奥丹波・何鹿郡 物部城の上原元秀・賢家父子(文明14?明応4:1482−95)の時代もあったが>を継承していきます。 明応4年(1495)上原氏の後:再び元貞に戻り丹波守護:細川勝元から政元の代:文亀元年(1501)頃から元貞の嫡男貞正が永正5年(1508)細川澄元に背いて高国に属し、澄元が没し高国政権に戻る永正17年(1520)国貞に譲って隠退します。
本郭部の牛蒡積み石垣

大永6年(1526)国貞は高国が重臣香西元盛を細川尹賢の讒言によって殺されたことから 守護代を放棄して離反。一時守護代の地位を失っていた内藤氏は天文2年(1533)足利義晴に赦免され:高国に代わり畿内の主導権を握った細川晴元に属した国貞は守護代に返り咲く。天文22年(1553)八上城波多野秀忠勢が口丹波地方へと侵攻し始めた頃、国貞は松永弾正久秀等と晴元側の 波多野晴通を攻めるが本梅での戦いで滝ヶ嶺城(本梅町)の香西元盛・森美作守等に攻められ国貞は討死し八木城を護っていた内藤定房 (宗勝の義父)も討死して落城します。
本丸南西側土塁西端(上り土塁虎口側)下部の石積

その報を聞いた松永久秀の弟:長頼(内藤宗勝)は八木城に引き返し其の日のうち??に八木城を奪還します。この功により三好長慶の重臣となり丹波守護代内藤国貞の娘婿となり内藤氏を継ぎ内藤宗勝を称して内藤氏の名籍・守護代を継承します。最後8代城主でキリシタン大名内藤如安<ジョアン>(内藤飛騨守忠俊<貞勝とも、 幼名を五郎丸>)ゆかりの城でよく知られますが五郎丸<如安>の出生は不詳・父同様に文献により判然としない。
八木城域中央”八木玄蕃(内藤如安の義兄)郭”の段曲輪

ジョアンの父:八木7代城主内藤備前守宗勝(松永弾正久秀の実弟松永甚助長頼:法雲を号す)細川晴元方に属して丹波守護代を安堵していたが、 細川氏綱 ・三好長慶が晴元と対立すると長慶方に与力して 信頼も篤く・軍功を立てているが、八木城は幾度も危機に立たされています。 その後も奥丹波黒井城の赤井(萩野)悪右衛門直正が天田・何鹿(いかるが)へ侵攻・争奪し始めたので永禄8年(1565)8月丹波守護代内藤宗勝は七百余人の兵を率いて天田郡へと出陣し、山家(綾部 )で寺に宿陣していたが其の際:黒井城へ密告され夜襲をかけられたとも、園部町の「腹切り峠」の名が残る徳雲寺谷に落ち延びたが此処で自刃したとも。<
小山館(荘林館)を参照してください>
内藤ジョアン顕彰碑

また天田郡(福知山市)和久郷の合戦(和久合戦)に直正の反撃に遭い…内藤勢の壊滅的な大敗を喫し宗勝は敗死し鬼ヶ城へ脱出した貞勝等も、赤井氏方に降した横山・和久・牧・桐村氏等に攻められ、内藤氏勢力は大きく衰微した。此の年:飛騨守忠俊は京都・南蛮寺において ルイ・フロスイ宣教師より「ジョアン」の洗礼名を授かりキリシタンとなっています。 三好氏勢力が衰退するなか ・代わって黒井城主・赤井(荻野)悪右衛門直正が 天田郡全域をほぼ掌握して勢力を拡大していきます。 その後・子の内藤如安(ジョアン)が城主に復帰すると、天正元年織田信長に追放された将軍足利義昭に仕え、
八木小学校側から内山城の北先端部

織田信長との戦いに際しては自ら十字架とイエズス会のIHSの文字を施した兜を頂き、二千人の将兵を率いて二条城へ出陣したと云う。天正3年 (1575)織田信長の天下布武号令のもと明智光秀による丹波平定に八木城は攻め落とされ内藤氏は没落します。落城後は足利義昭と共に鞆の浦に隠棲したとも ・・天正13年(1585)頃にはキリシタン大名:小西行長の客将として・また重臣として取立てられ 小西飛騨守と小西姓を名乗ってもいた様です。
内山城の主曲輪?と東面切岸

秀吉に従い文禄の役(1592)には朝鮮出兵に加わり、小西行長の命により講話使節として朝鮮を経て明国北京に赴き交渉に当たり、文禄の役を終結させた。其の後:行長は慶長5年(1600)関ヶ原合戦に西軍方として敗れ処刑され、高山右近等と加賀金沢城の前田利家に仕えるが、キリシタン弾圧が激さを増した慶長19年 (1614)幕府のキリシタン禁教令によって改宗を迫られますが仰を貫く 高山右近と共にマニラ(フィリピン)に追放され、
東所川(明神橋)からの川関城

信右近は翌年死去・如安はマニラ市サン ・ミケルに益々信仰への道を究める傍ら、中国の医学書や 宗教書を翻訳・日本人町の指導者としても活躍したが、寛永3年(1626)マニラの地に 73歳?の生涯を終えました。八木町は内藤ジョアンの眠る墓地のあるマニラ市と姉妹都市提携されて種々交流を深められています。現在も 山頂本郭部等には牛蒡積みの石垣を残し四方に延びる尾根伝いや谷間にも曲輪群や土塁、堀切・山麓には家臣団の屋敷跡の遺構が残り、中世丹波の土豪・内藤氏の壮大な山城であった事を伝えます。
川関城桝形状に左(祠跡)から尾根に上がる鞍部前方は露岩を削った切岸?


主郭の周辺や北尾根・西尾根へと拡がる 城郭遺構には石積みを覗かせている。堀切にも残る石積跡や、切岸を高くした幅広の土塁等・長塀で囲った城門(櫓)でも建っていた様子等、光秀が亀山城(亀岡市)に移った後も亀山城の支城として存続し改修が成されたものか・・?。
(現地 新御殿門案内説明板/内藤ジョアン顕彰碑 日本城郭大系・新人物往来社 参照)
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内山城と川関城
川関城(川関砦)  一丸山? Ca165m    南丹市八木町八木・亀岡市千代川町川関カミ

行政上は亀岡市の城址ですが、 八木城訪城の際のスタート地点:春日神社からも見えている内山城は近く、更に東所川沿いの東方丘陵部に在る川関城へも、 其れほど遠くは離れていないので(訪城にあたっては土地勘無く・取付き地点の駐車スペース探しに苦労するので・・・)徒歩で廻ります。城址位置説明の為・先ず川関城から。R9号線八木駅南で府道452号に左折し踏切りを渡り・東所川を越える。
川関城:櫓台土檀?

東所川が大堰川(桂川)に流れ出る河口に、南方から伸び出してきた丘陵尾根が其の先端を落とす Ca165m峰付近の山上部に川関城が在る。内山城から東所川沿い右岸を東へ向かい・西端の民家側から続く参道は”一丸山の一之宮” ?神社への露岩の 崖状斜面に付けられた石段参道を登る。9号線から此処への分岐点は知らないが、東所川沿いは直ぐ下方で民家側の橋が9号線からの進入ルートになる。川関城への神社取付地点と其の先:河口近くに水門調整施設との中程に橋がある。
主曲輪への上り土塁?

神社の上り口に灯籠が見えるので水防施設と神社(祠)前に 数台の駐車スペースは確保出来そうです?。民家の背後から神社に向かうが”かずない彦の命:はやさと姫の命”・・余り聞き慣れない祭神名の石碑が露岩上に建つ。神社か社務所?の瓦紋は中央が「金]ではなく九曜紋。建物側には”一丸山の一之宮”の石碑。石段を登りきった高い自然切岸上の広い台地にxx塚や不明の”こんこう・・・xx美天之命:かんなから・・ xx?とこよ姫之命”の石碑文が建つ。
川関城主曲輪東下段の低土塁

”かんながら・・ ”どのような神道なのかは不詳だが、城址としては眼下に見る山陰道要衝監視の出曲輪跡と推察します。この先は急斜面でもない尾根筋に踏み跡が続き、尾根上の櫓台土檀に着く。踏み跡は土檀下を捲いて斜上し、尾根筋北側半分は 露岩を削り出した段差1.5m程の切岸状で、土檀との間・虎口にしては広過ぎる枡形状から尾根に上がる。技巧的にも思えたが造成された祠跡でもあり 遺構としてはパス!!?。幅広く長い緩斜面(約20x70m程)の先の最高所に主曲輪(幅約12mx7m程)があり、主曲輪を抱き込む様な帯曲輪を割る一本の上り土塁が、尾根先の東に突き出す。
内山城主郭部の段曲輪切岸

此の帯曲輪東端には低土塁が築かれている。一帯は植林の中にあるが風化・水流による崩壊から曲輪段差は切岸さえ曖昧。 市誌や遺跡情報による城史は不詳ですが、単郭の砦規模の城砦は尾根続くに、内山城や京都縦貫道の拝田トンネル上を八木城へと繋がる。山陰道要衝から八木本拠城へ通じる北方を内山城と呼応して警戒に当たった城砦群か?、 八木城を巡る歴戦のなかで、敵の向城として利用されたものか?
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内山城   内山? Ca155m  南丹市八木町八木内山

府道452号が拝田トンネルを越える丘陵上の尾根筋が八木城へ通じでいます。R478号(京都縦貫自動車道)拝田トンネルの北出口上部付近を西北へと、舌状に延び出す低丘陵尾根上に内山城が在りました。城址についての情報は川関城以上?で旧船井郡誌や八木町誌にも八木城関連城としても、遺跡分布図にも 指示されていない様?なので更に不明です。
内山城北曲輪から主曲輪に入る上り土塁虎口?

八木小学校から 八木城登山ベースの春日神社へと車道が北に向かう粗中間部から西方の谷間へ延びていく車道が京都縦貫自動車道の高架下に向かう。その谷を挟む左手 (東側)の丘陵先端部が地区内道路に落ち込む急斜面を砂防コンクリート壁が覆う所。側に建つ民家の側道裏手・コンクリート壁横の高い切岸下を縫う小さな流れ(溝)から急斜面を丘陵上へと踏み跡を伝う。
内山城北曲輪の北西面虎口と虎口受け曲輪?

広い二段曲輪は畑地跡か?、宅地裏手の南西斜面から耕運機か造成工事の 重機が入った思える幅広い坂道が上がってきており、大きく改変されているが大手道だったか?。曲輪1段目から2段目へ上がる虎口?や、 3段目の城中最大の曲輪(幅約30X長さ80m程)へも、登城道?から西北側の虎口状から直接入れる堀切道があり、虎口受け小曲輪(2x3m)とも思える平地に上がる。
内山城北側:三段の曲輪

曲輪1-2段ともに表面は荒れ遺構は有っても破壊されており旧状態を推定出来ない程。三段目は格別広く南北(尾根筋)に長い曲輪で、立木は全て伐採されており・とりわけ山裾迄落ちる東斜面の比高約25m程は削り落された切岸なら見事な程!!。尾根続き背後から植林帯に入るが、上り土塁虎口状から切岸を立てる3段程の曲輪の上が主曲輪か?。
内山城主曲輪?背後の空掘状?

櫓台か?低い土檀の背後に 浅い空堀状の窪地の先には、更に風化し砂地のフラット地形が深い藪の先に延びていく。尾根が狭まってくる割には変哲の無い尾根筋だけに 城域は外れていく様で引き返す。背後が浅い堀切状だけの防備手薄が気になるが、 八木城の至近距離に在って・内藤氏勢力が衰退していくなかで、八木城を巡る歴戦中・攻撃側にとっての前線基地として・広過ぎる北側曲輪は兵に駐屯地 ?・上り土塁上の南側3段ほどの曲輪部は作戦の陣所?、八木城の出城か砦は更に向城として使用されたものか?。
内山城南:城域外の緩衝帯?(平坦尾根)

関城・内山城共に取付きからの全面防禦は激急斜面を切岸として一応は充分?かも、ただ尾根続きは・ひたすら長い緩斜面尾根を進むだけで、此の尾根筋を遮断する堀切や空堀は無く?有っても浅く、 城址側に高い切岸も見られず城域の前後を確保する遺構を見ない。

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