京都・亀岡の山城 鴻応山・湯谷ヶ岳・霊仙ヶ岳 笑路城・犬甘野城・犬飼城
京都丹波(五万図=京都西南 ・京都西北)
鴻応山 〜犬甘野城〜霊仙ヶ岳〜犬飼城〜笑路城〜湯谷ヶ岳 2002.12.01
近畿の山城 犬飼城 笑路城(松尾山城・松尾城)  犬甘野城(名倉城)
牧集落からの鴻応山

北攝と京都亀岡の府県境にある鴻応山(こうのやま)は以前、寺田集落の奥にある豊能町のキャンプ場付近から鴻応山往復、湯谷(ゆうや )ヶ岳へも府県境尾根を半ば藪漕ぎで抜けると突然、急坂に建つ新興住宅地に飛び出して来て驚かされたが、当てづっぽうに宅地の中を湯谷ヶ岳に登り着き、帰りも尾根を辿ったのに、又この住宅地に降りて来てしまい切畑への道から 尾根に登り直して駐車位置に戻った事が有りましたが、今回は山城探しのついで山行に霊仙ヶ岳を加えて京都丹波の山を訪ねてみます。


京都丹波・亀岡市の山へ 鴻応山〜霊仙ヶ岳〜湯谷ヶ岳   H14.12.01

鴻応山 国道423号線で北攝・豊能町を京都丹波の亀岡市へ入る府県境に牧の集落があり農道のような狭い道が寺田に続いていた。以前・この寺田集落内の神社から鴻応山へ登った事があったが、亀岡側の 2〜3の山城址を捜すついでに、行きがけの駄賃・最短ルート!!で登ってもみます。起点は神地バス停です。御手洗弁天社が祀られる 前の池へ流れ出る水は、昔よりお乳の出が良くなる霊水乳の泉として遠くからも朝早くから水汲みに来る人も多い名水です。地元の生鮮野菜等を売る店が出来て 駐車スペースも有るので営業開始前の小1時間程この場をお借りして(AM7:10)出発します。容姿端麗な鴻応山は遠くから望む山ですね。
神地の霊水「乳の泉」

西北方の小和田山や歌垣山、東のこんぴら山やポンポン山からはスッキリした三角形の綺麗な姿を見せてくれますが、お膝元の山裾からは緩やから稜線上の1ピークです。 豊能町の最高峰・鴻応山は境界尾根で隣接の湯谷ヶ岳共に人気薄で登山者の少ない山域です。鴻応山への取付きは寺田側にするのが一般的らしい??のですが神地の「乳の泉」からですので直接、民家脇の竹薮や田を抜けて牧集落から 一つ二つの池が有るだけで谷筋もはっきりしないおしょう(和尚!!?)谷から向います。刈り入れも終わって何も無い休田には白く霜が残り民家の前では焚き火の煙が上がる、朝の長閑な山間の小さな里から登り始めます。 一般車道が突然切れる四差路!!にある電柱「牧No37」(AM7:20)から左の民家脇を抜けて行くのですが分かりにくいです。実は電柱下に道標があるが雑草に埋まって見えやしない…この後は寺田からの尾根コースと合流(AM7:32)するまで、 道標もあるが広い山道ですが枝道も多く、分岐の側に道標が無いと、道がはっきりしているだけに間違い易いコースでもあります。テープでも有ればいいなと思うのですが、静かな里山として、このままが良いとも…それだけに歩く人も稀なのか、 深すぎる落ち葉の絨毯は足首も埋まるほどに沈み込みます。サクサクと小気味良い音を発てる枯葉の道を抜けると、展望はないが自然林に囲まれ其処だけが妙に明るい平坦な山頂に着く。京都綾部の鴻ヶ嶽(甲ヶ岳) ・京都城陽の鴻の巣山と共に十二支の山でその名のようにコウノトリが飛んで来たことに由来し、地元の人も 「こうの山」とよぶ鴻応山山頂(3等三角点679m 点名:こうの AM7:45)です。
鴻応山山頂

山頂から先へ続く道は柚原へ延びているようですが、同じ道を引き返しては面白くない。直接国道423号への府県境尾根を辿るが踏み跡もなく密生した篠竹を分けながら車騒の音を目指して下り、檜の植林帯に入ると杣道が現われて バス停神地の150m程北側の国道に出てきました(AM8:05)。この後は国道・柚原から「亀岡スポーツ振興カントリクラブ」看板を見て左折。犬甘野の山城探しに向います。犬甘野城を参照ください 。犬甘野城から霊仙ヶ岳⇒犬飼城⇒笑路城⇒湯谷ヶ岳と廻りましたが、山城の項を下記に纏めましたので、ついでに今日最期に寄った鴻応山の隣の湯谷ヶ岳をレポートします。
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湯谷(ゆうや)ヶ岳へは寺田集落から先へ農道とも林道ともつかぬ道を採って 府県境のキャンプ場側から続く山道を辿ったが、今日最期のコースは帰りがけの駄賃にしては時間の余裕が無いけれど余野の十三仏 を見ついでの立ち寄りで切畑のバス停湯谷口(PM2:40)から出発します。前回に尾根を外して下ったコースなので勝手は分かる・・(^^;。バス停から登り始めた道の端には石仏もあり、摂津の切畑から湯谷・南掛から穴太寺 ・京都丹波(亀岡)へ抜ける古道だったのでしょう。「甲陽窯」を抜けると静かな古道の雰囲気ですが、欅の植林の続く山道は石積で 整地されているところもありますが、だんだん山道も薄暗く感じられてきます。その薄暗い林を抜けた途端、目の前に現われる住宅地(PM3:00)には今でも驚かされてしまいます。住宅地の最高所に向って歩き出し「ローズタウン35 湯谷 101W35」の電柱(PM3:12)、湯谷ヶ岳山頂

大きな無線アンテナ塔が建てられた住宅側の小道を、 ほんの10数mも行かないうちにクヌギやコナラの自然林の中を歩いている自分に気付きます。静かで平穏な自然林の続く緩やかな尾根筋ですが、山頂近くなると稜上付近に奇岩・怪石が目立ってきます。其処には石積みの上に熊野権現 (PM3:20)を祀る祠が建てられています。湯谷集落の山の神であり、雨乞いの神として祀られる社の前には二基の石燈籠と石の手水鉢、基部だけを残して立派に石の鳥居が建っていた事を物語っています。しかし直接此処へ下から登ってくる 山道も踏み跡もありません。祠から5分程で湯谷ヶ岳山頂(3等三角点 点名:湯谷 622m PM3:25)です。薄暗い檜の植林の中に有って三角点位置を表す白い標柱だけが目立ちます。薄暗い山頂の直ぐ横に小広い草地があって此処に 関西電力マイクロウェーブ用の反射板が建てられています。山頂から反射板横を通って尾根通しには万願寺方面へ下る道が有るようです。
時間が有れば湯谷ヶ岳へは南掛から東掛(とうげ)城址や 石田梅岩の生誕地を訪ね、西国札所の穴太寺へと梅岩の道を歩いても見たいものです。(注)石田梅岩は此処・東掛で生まれ士農工商の封建社会にあって、庶民に「商い」の基本を説き、その教えは石門心学として 町人農民に大きな思想的影響を与え、京都商道の開祖・心学の開祖といわれています。「負けるが勝ち」の言葉を説いた人といったほうが解かり易いですね。
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京都の霊仙(れいせん)ヶ岳は鈴鹿山系の霊仙山等と違って人知れず登山のガイドブックやホームページで紹介される事も少なく、ひっそりと佇む静かな山です。国道423号線で豊能町から京都・亀岡市へ入って来る。笑路山城を右手に見て国道は九十九折れの法貴坂を下ります。坂を下った法貴集落からは北へ真っ直ぐ延びる道に 代わり左右に田園風景が広がってきます。
犬飼・山王寺北から霊仙ヶ岳

西に緩らかな特徴の無い山容の 霊仙(れいせん)ヶ岳へは集落への道から直進して慈雲禅寺から登り始めたが出だしから辟易する藪っぽい踏み跡を辿るのを止め 山裾を捲くように溝のような沢を渡ると参道のような踏み固められた山道に出て下山時にはこの道を使って降りてきた。集落内を北に進む車道を通して犬飼城 のズングリした山容を 此処から眺めて今日はこの後、山城めぐりに犬飼へ向います。
法貴・北条から霊仙ヶ岳

今回はこの山道を利用しますが、山頂からの稜線道は造成工事が続き!!立入り禁止 「にのうみゴルフ倶楽部」 に出るようなので同じ道を戻ることにしました。「法貴」姓の立派な門構えの邸宅北側から(AM9:45)山に入る広い山道は平峠直下の分岐まで続いています。暫らくで竹林も切れる辺り!!?道の端にある石室が目に入ります…といってもロープが引いてあるのに気付き、 土塁のような側壁に立つと法貴古墳群の一基がありました。上部を覆っていたと思われる蓋石はなく四角に囲われた石積みが残るのみですが、これら古墳群には亀岡市の文化資料館に移設されたものもあります。
霊仙ヶ岳山頂

山道の分岐で道幅も半分になり傾斜も増してくると一部足下不安定な細いトラバースを経て、名前通り平坦な広い尾根筋に出てきたところが 平峠(AM10:25)です。平峠ですが峠を越して降っていく道はなく5分程、緩やかな尾根を辿ってその先への道がなくなるところに 霊仙ヶ岳山頂(536m AM10:30)の3等三角点標柱が埋まっています。人声がする西側の尾根を辿って下っていけるのですが、のうみゴルフ倶楽部「造成工事中」の看板があります。
法貴登山道にある古墳

人声から察して工事は既に終わりプレーするゴルファーと思われ、踏み込んでいくべきコースでは無さそうです。 東面に展望が無くもないのですが、山容から山名を判断出来る程、未だ馴染みがない京都丹波です。登ったことのある山も遠望するだけでは思い出しません・・・・(^^; 山城巡りついでの山行なので山頂からの展望には余り頓着しないのかも知れません。 法貴の慈雲禅寺前から北条へ出て犬飼城へ向います。


乳の泉 亀岡市西別院町神地 (説明板等より)<此処より鴻応山へ>

弘法大師が勧進したとも伝えられる 御手洗弁財天社(市杵島姫神社)左脇にある、この清水は二つの水の出口があり丁度乳房の形に似ています。この清水を頂いて乳の出ないご婦人に飲ませると、必ず乳が出るようになると言うことで多くの人が貰いに来ると云い、こんな話が伝わっています。その昔、嵯峨御所に心優しい皇女に男の子が出来たが乳の出が悪く乳母も見付からない為、日々に弱っていくのを 嘆き悲しんでおられました。或る日:庭に出て「丹波の弁天さん」という声を聞きます。
乳の泉

その声は、かつて牛車に轢き殺されそうになっていたのを助けた白蛇でした。皇女は藁をも掴む思いで丹波路に向かい、やっとのことでこの弁天さんを見つけ引き寄せられるように湧き水をひと口、ふた口と飲むうちに忽ち、 両方の乳房から乳が溢れ出しました。やがて皇女の男の子は元気になり健やかに成長したということです。この話は都中に拡がり以来この水は「乳の泉」と呼ばれます。今では各種疾患に効果があるとして水を求める人達が朝早くから訪れています。湧き水には乳房を模(かたど)った鉄製の枠が取り付けられています。この水はどんな旱魃の時でも涸れた事が無いとも言われています。


犬飼城 笑路城(松尾山城・松尾城)犬甘野城(名倉城)

犬飼城(福地城)
  227m  亀岡市曽我部町犬飼北山

国道423号線で笑路城址を右に見て九十九折れの坂を下ってくると北正面左にズングりした円錐形の小山が見えてきます。其れが犬飼城です。小さな城ですが集落に近づくにつれて急峻な山容を現わしてきます。北部を除く三方は断崖で囲まれ露岩さえ覗かせています。そのうえ東から南側の山裾は犬飼川(大杉谷)が流れていて自然の要害となっています。犬飼集落側から取り付くには山頂直下に祀られた山王社?? への参道が唯一の登城ルートのようだが羊歯で覆われた踏み跡は荒れていて、取り付き点を捜すのはもっと厄介です。
犬飼天満宮参道から犬飼城

応仁元年(1467)に築城された福智氏(上原氏)の城がありました。落城は天正年間(1573〜92)で、天正10年 (1582)に城は壊され福智氏(上原氏)は亀岡の城(亀山城か!!)で切腹し果てたと伝えられます。犬飼集落の北・犬飼川に架かる橋を渡り、天満宮左手の山王寺から西北の低い鞍部手前の霊園の奥から棘の目立つ藪に突っ込んで鞍部に抜け出て、犬飼城へ稜線伝いに細い踏み跡を拾って進みますが 道の西側(墓地)側は4〜5mの切立つ崖が要害を成し、北方の尾根筋の細い緩斜面の 尾根に沿う谷は深く落ち込んでいて自然の空掘りを造っています。先ほど登ってきた霊仙ヶ岳が姿形良く大きな山容を見せています。遺構らしいものは山頂付近まで見かけなかったが、浅い堀切を認めてヤッと着いたと思った。 尾根筋から北面の廻り込むように直接主郭に着いた様だ。
犬飼城本郭南下にある祠

平坦だがはっきりした曲輪を見なかったが南へ下り始めると顕著ではないが、段差の少ない2〜3の曲輪があって、その下に壊れかけた祠が見える。何をお祀ってあるのか分からなかったが、明治6年・神仏分離令(廃仏希釈 )で麓の犬飼天満宮に戻される以前のままの状態で残された山王権現社ではなかったかと思います。古い参道と思われる踏み跡を辿って下ったが犬飼川の藪の平地で道は消え、橋も無く・・・・石材置き場に何とか出てきた。

犬飼天満宮と山王寺  由来について(案内板より)
菅原道真公を祭神とする犬飼天満宮は天保元年 (1830)の火災により記録類が焼失したため創祀等の詳細が不明ですが、口伝によると貞享2年(1685)に比叡山安楽院より法任和尚が隣接する山王寺の住職として来られた時、当地に祀られていた天満宮を犬飼丸尾へ遷座し、 その跡地に山王権現を遷し祀られました。総欅造りの本殿は江戸期の建築として精巧な造りの社殿です。

貴宝山宮寺山王寺は弘仁年間(810〜824)弘法大師の開山で建立された真言宗の寺ですが正徳年間 (1711〜16)比叡山の高僧であり律僧でもある霊空、玄門の両師の御巡杖で天台宗に転宗、幕末には延暦寺末寺となり法燈が受け継がれてきた由緒寺院です。明治6年の神仏分離令を受けるまで山内には、天満宮、 山王大権現の御社を奉祀する神宮寺として、通称「宮寺」と言われ広く一般参拝を受けていました。

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笑路城(松尾山城・松尾城・松尾之城)  松尾山 414m  点名:笑路  亀岡市西別院町笑路風呂ヶ谷

摂津・池田と亀岡を経て京都を結ぶ交通の要衝を眼下に治める 西別院町笑路(わろうじ)の東の峰に松尾山古城がありました。三角点は城域を分ける尾根上の大堀切を東に向かった所に点名 :笑路(3等三角点 399m)があります。中世末期に築城された中型梯郭式山城で国道423号線の犬甘野口バス停から農道を採り「丹波笑路城跡⇒」案内標識のある山道に向 かい、後は「火の用心」を送電線の通る山頂に向って 巡視路が通じていますので楽に登れます。
笑路城本郭の石積みと東郭西端の井戸跡

関西電力が公共事業とし て福井・大飯発電所の電力を京阪神方面へ送る為の高圧架空線鉄塔新設にあたり昭和52年に発掘調査が行われた結果、礎石・石列が発見されており、枡形虎口には石垣を伴う櫓台が有り 横矢が掛かり防禦を強めています。 京都丹波の山城の幾つかに見られる「天守台の祖形」も認められており注目されています。山頂部は本丸と西の郭(関電の高圧鉄塔が建っている)から成っており、西の郭には天守台 ・桝形・中央櫓・櫓門・多聞櫓・北石垣・北櫓等があり、それらは近世城郭の祖形と考えられています。三期に渡り改修された跡は古記録類とも共通点がみられ、土師器・須恵器・陶器(天目茶碗含む)・磁器・古銭(北宋銭等)・金属器 (刀の部分等)・石製品等の遺物が発見されています。天守台が見つかっていますが、其れに先立って中央櫓が構築されていて長沢六郎正綱が此処に入部した後・永享年間(1429〜41)頃の普請と推定され、その後明応・永正年間にも補強修築・増築されてきたようです。天守台(祖形)が建てられたのは松永久秀との抗防が想定された弘治年間 (1555〜1558)と永禄年間(1558〜70)の頃と考えられます。
西郭の石積み・細長い馬掛郭から

松永久秀は三好長慶没後の永禄8年(1565)13代将軍足利義輝を暗殺したことで知られますが、織田信長に忠誠を誓い大和の支配を許されていましたが、後信長に背いて信貴山城に攻められ 天正5年(1577)67才で自刃しています。高山右近親子も、その配下で榛原の沢城主となっています。 天正5〜7年(1577〜79)頃・城主長沢家綱は法貴坂戻り岩(明智の戻り岩でハイキングコースがある)で明智光秀と相対したが後に、光秀の和平作戦に賛同して行動し本能寺に軍功をたて山崎に討死している。
(昭和54年3月 亀岡市教育委員会の山頂 城址説明板等参照)
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犬甘野城(名倉城) !!無名ピーク 364m・点名:西別院南(4等三角点 420m)   亀岡市西別院町犬甘野

府県境尾根の鴻応山から神地へ下ってきて国道 423号・柚原で「亀岡スポーツ振興カントリークラブ」看板を見て左折して犬甘野へ向います。大杉谷(犬飼川上流)に懸る橋を渡り府道732号線に出た三叉路の駐車スペースから登城口探しです(AM8:25)。東側には中ノ谷集落の寺マーク (廃寺で石垣側に五輪塔の頭部・石仏が残り)から山頂のNHK放送受信施設への巡視路を辿り、西側背後の山頂へ登れるが府道を西に向かい、 犬甘野浄水場辺りからは山城らしい山容に見えてきます。湿地のような畑から墓地の奥へ廻って小谷に沿って鞍部 を目指しますが畑の先に道がない。雑木藪を掻い潜って進むと直ぐに山道が谷に沿って伸びています。 低山で谷に水は殆ど流れていないのに湿地帯の中を歩いているようです。
??犬甘野城??帯曲輪から主郭

尾根に出ると(AM8:40)南方へ緩やかな広い尾根が続くので暫らく辿ってみたが城の遺構らしいものは曲輪も堀切も見当たりません。段々斜面も勾配を増し露岩も現われる頃1〜2段積みの 低い石積みを見ます。作業用でもなく石仏や祠跡とも思えない長方形のものですが、此処を通らなくても回り込めば何処からでも通過可能な尾根ですので用途不明。折り返して尾根を北に採って進むと4等三角点(点名・西別院南 420m)の側を通って最高所に着くとNHK放送受信施設のアンテナが建っていて、此処が主郭?? 2m弱の段差でこれは曲輪?? どうにもはっきりしないまま受信設備巡視路を下って廃寺らしい石積みの残る場所に下りてきた。東側から見る台形の 尾根筋が気になり再度、当初予定の寺!!から谷を隔てて卵塔も混ざる墓地から尾根に登りつくと先ほど歩いた靴の跡が残っている。結局なにも目立った成果も無く府道に降りてきた。この一角しかない山域で堀切や土橋、井戸、屋敷跡等何の遺構らしものが見出せなかったので、もっと情報収集して、後で知った法貴山城(明智の戻り岩付近か ? 場所未詳)と共に再訪予定です。
主郭への巡視路口にある寺跡と石仏。五輪塔頭部

法貴山城の法喜から 法喜坂を通らず笑路城の北方を小今・犬甘野口を経て犬甘野から池田方面へは万寿越え(満仲越え)の中世の古道が通じていて、道筋の犬甘野城・法喜山城が共に笑路城の支城として機能していたのでしょうか。越中国長沢出身の中沢氏は 後に長沢氏とも称し大山城でも城史を複雑にしていますが・・(-_-;)?丹波国の弥勒寺別院荘(西別院周辺!)や大山荘(篠山市丹南町)・三井庄(丹波市春日町 )の一部を一族で領していました。犬甘野城は長沢氏(中沢氏)一族の居城となっており長沢右衛門尉重綱の弟豊後守兼綱の築城で、天正期の城主・長沢家綱は法貴坂戻り岩(明智の戻り岩の伝承がある)で対峙したが明智光秀に従い、 本能寺に参戦し山崎の合戦に討死している子孫は名倉姓を名乗っているので名倉城とも呼ばれます。

     
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