京都・美山町静原の山城  島城・中村城・今宮城
京都丹波 (地図 五万図=四ッ谷)
島城(城山 )〜中村城/今宮城  2005年04月14日
 山行レポートは下記の”近畿の山城”に含めます

近畿の山城 : 島城 中村城 今宮城
美山町役場背後にある島城


小浜・高浜から県境の堀越峠を越えて京都府に入る若狭街道(周山街道)沿いの棚野川が、 和知町や綾部市方面への街道沿いの由良川に合流する、R162号と県道12号線の合流地点でもある美山町静原(旧・市場村、中村)は、若狭と丹波国境に位置する交通の要衝にあって物資の流通も盛んに行われ、 旧市場村の字名が示すように菅原神社の門前市が形成され繁栄してきた所です。 在地領主・川勝氏(下田氏)の支配下にあって市で栄えた城下町も、八上城下が篠山に移ったと同様に、 静原城下の商家も園部城等・城の中心が変わると、商人達はそれらの城下に移され、農民達だけが残され 寂びれ往時の姿は見る影も無く消えてしまいます。
R162号沿いの畦道に有る夷岩

若狭街道 (国道162号)棚野川沿いには菅原神社や領主・川勝豊前守光照の木像が安置されているという菩提寺臨済宗光照寺があり、その中程には高さ1m足らずの小さな三つの岩に注連縄が掛かった夷(えびす)岩が有って、若狭湾から運び込まれた海産物のセリ台に使われたとも伝えられます。嘗て門前市を成した菅原神社は国道162号を挟んで西側に本殿、東側の空地!に鳥居と小さな護神の牛像が布製の手綱を附けられてポツンと残されています。山間の細く南北に通る若狭街道の出入り口を抑える 位置にあるので木戸が設けられていた場所だったようで、国道と並行して民家の並ぶ細い車道は静原公民館前までの短い間ですが、旧街道の面影が残ります。黒い塀や木戸門が建ち、空地に玉砂利でも敷いてあればピッタリ街道を堅める関所のイメージです。
島城の中枢に位置するU郭

川勝氏は聖徳太子の侍臣:秦河勝の後裔と称し子孫は代々足利氏に仕え豊前守光照の時・この地を横領して今宮城を築いたとされます。天正年中は明智光秀に、序で羽柴秀吉に属したが敗れた後は徳川家康に従って領地を安堵したが、其の後:旗本となって一族は江戸に移った者も多かった様です(北桑田郡誌:大正12年)。此の市場を保護し、其こから得られる収入を確保する為の経済的支配と、外敵から市場を守る為には軍事力を強める必要から市場の出入口には島城と今宮城を、中央には中村城を築いて 若さ街道の防禦に務めたものでしょう。川勝氏の築城とされるものには棚野川の流れに沿って、他に殿城や棚城があるようですが位置も城史もよく判らず未訪です。




島城 中村城 今宮城

島城(紫摩城?)
 城山(点標名:静原 404m)  北桑田郡美山町島字桂ヶ谷

綾部市からR27号で和知町へ入り由良川に沿って府道12号(綾部宮島線)を走り、美山町の西の玄関口野ダムに到着します。寒い日が続いたせいか少し遅いと思っていた桜は今が(H17.4.14)満開なので立ち寄り小休憩します。長老ヶ岳の南登山口の岩江戸辺りでは、 付近で熊の目撃情報があり注意喚起の立て札を見かける。
美山町の西玄関・大野ダム


府道12号がR162号に合流する所が静原です。此処・美山 町役場の直ぐ背後の丘陵上には道路地図にも城山と記される島城が有ります。由良川が蛇行していて半円形を描く所に、北から棚野川が合流する 美山町島の東丘陵上に城山(標高404m)があるが、由良川沿いに取り付を探すのは時間の無駄のような気がします。取付きがわからない場合は神社や寺・墓地を探せば大抵は山道や踏み跡が見つかるものだが、役場側に有る寺や墓地からも道は無く傾斜も急で藪も相当手強そうです。
島城の中心曲輪(U郭)から美山町役場(中央部)付近


地元の人なら一度は登った事が有るようで、 かつて菅原神社の門前市として栄えた若狭街道 (周山街道)を見下ろす北側から、ハイキング道が城山へ通じて登山口には城址説明板や山頂まで案内板も整備されている事を聞いてコースを修正。美山町役場から和泉交差点をXXXX銀行側へ右折して、R162号線側へ約50m程歩くと xx電器工業の表示があり、其処を右折して棚野川に架かる渡橋(わたはし)を過ぎると城山登山口で縄張り図付の城址案内板や道標も 立てられています。谷筋の入口近くで島城W曲輪下部に通じるハイキング道は降りに利用する事にして、道を外れて此の谷筋に沿い直接主郭となる城山(点名:静原 3等三角点 404m)のT曲輪(本郭部)と無線中継塔の建つ東峰 (428m)の中程から北へ延び出した枝尾根に取り付いた。
主郭と東峰中間の枝尾根にある コの字状堀切と曲輪!

細い踏み跡も消える尾根は稜線直ぐ下方40m程のところで、深く長い溝に出た。尾根上を掘り切って、向い側へと続くU字形の堀切?(幅/深さ共に1.5m〜2m)が有り、 2方向に竪堀となって延びているのが見え段差をもった曲輪らしい平坦地も・・・案内縄張り図では範囲外で未記入部分ですが、主郭東面の防禦施設が曲輪もなく藪に隠れた浅い堀切や竪堀だけでは防備手薄ですが、 一応・背後の備えはされているようですが、 一帯の調査はされていると思われます。…東峰からの稜線は明るく南北に展望が拡がる 緩やかな尾根で、上り始めて直ぐ浅い堀切を過ぎ踏み跡は藪中の曲輪を避けるように南側を捲いて、枡形状に折れる虎口に通じ・此処でハイキングコースと合流して主郭本ノ丸に上がります。
島城の主郭(T郭)と点名:静原の三角点標


主郭(東西50m x 南北20m)は部分的に石積みが見られ様ですが気が付かなかった。 西側に3段程・自然石が段差を持った曲輪の切岸を形成しているようで、石積は此処に有ったのか、其れとも主郭曲輪端に土止め石として残っていたのかも(-_-;)・・?島城の縄張りはU郭を中央にして四つの曲輪に分かれています。 三角点名:静原の最高所に有るT郭(主郭)、東側 ?には地形に合わせ竪堀や堀切を設け背後の備えとしています。UはTから堀切を挟んで西尾根にあり広い面積を持っている。ほぼ三角形のU郭が城域の中心に有って、三方向に張り出して西尾根に張出すV郭へは西北中程から斜めに降っていき、西端の三方を土塁で囲い込んだ曲輪に着きます。本ノ丸の南東端一段下の曲輪に 三角点石標が埋り、更に一段東の小曲輪の高い切岸で城域を終える様ですが、切岸下には藪に隠れながらも敷設されている2本の竪堀は見える。
島城西端(V郭)竪堀群上部の落とし穴!

西面は自然石で仕切られたような3段程の曲輪から西郭部を仕切る堀切を越えて、真直ぐ続く60m程の干渉地?南西側に土塁状の高い盛上りが有る?) を抜けると展望広場のU郭に入る。島城で一番広いU郭(東西60mx 南北50m)も展望が拡がり、美山町役場や 森林組合等の中心街を眼下に眺望出来ます。藪っぽく雑木が繁茂して全体をスッキリとは見渡せないが、北西端側は少し張り出ししており、此処へは島集落側からの登城道があったのか?斜上して曲輪に入る虎口が開かれているが、張出し部からは横矢が掛かる様に工夫されています。此の西端部のV郭外側には大小4〜5本程の竪堀が放射状に敷設されているが、方向や幅・長さに規則性が無いので畝状竪堀遺構とは云えないようです。
島城北端(W郭)切岸側の落とし穴!

潅木や篠竹・下草に邪魔されて良く見えないが、竪堀3本が集中する張出した土塁曲輪の北側を捲き気味に竪堀群の頭に出ると犬走り状の道が竪堀上部に延び、中程に落とし穴(幅1.3mx深さ2m程!)がある。ほぼ同様の穴はW郭の土塁曲輪の切岸外側にも一つありました。 どちらの穴も城域末端の曲輪の外側に有るので井戸では無く落とし穴なんでしょう?。中央のU郭に戻って北への尾根を降り出すと途端に城域を抜け出て行く様な気がする。ハイキング道が尾根の東山腹を谷寄りに降り始めるが、 尾根通しU郭から40m程先で急斜面を降ると平坦地に出た。目前の右肩に土橋のある小さな堀切(幅約1.5m深さ1m程)が有って、其処から正面に真直ぐ延びる曲輪は先端の北に向かって三方を低土塁が囲っています。此処が北端のW郭(南北約40m X東西15m程)で北先端の曲輪中程の切岸下にも ”落とし穴”が一つあった。城の特徴が此の”落とし穴”だとされ、無数に掘られていると云われますが余り気に留めていなかったので二つしか見ていない。城山ハイキング道は此のW郭に登ってきますが、 登山口から此の曲輪に至る尾根筋等には何の防備施設等も無さそうです。
W郭の土塁を囲みの曲輪(北端から)

主郭TからはW郭の有る北尾根に遮られて見えない、市場村(静原)を眼下に見下ろすことが出来る筈です?(植林の成長と雑木藪で展望は無い)。 U郭とは太い連絡道で結ばれ隣接し畝状に近い?竪堀を備えたV郭、反対にU郭とは干渉を断った出曲輪の様なW郭は、共に土塁囲みとながら下方から防備施設が無く、主郭側への背後さえ堀切で遮断していて、其々の役割分担が異なっていた様です。野々村荘と呼ばれた当領地を支配していた川勝氏は北桑田郡下田(現在の地名は不明 !)に居住して下田氏を称していたが、天文16年(1547)〜18年頃に?下田氏から川勝氏に改称したようです。
V郭の土塁を囲みの曲輪

秦河勝を祖とする川勝氏は・室町時代初期には足利氏、後期の天文〜天正期には丹波攻めの明智光秀に抗した宇津氏に加担していた川勝氏も、織田信長や豊臣秀吉に従っています。 島城は室町時代・天文16〜18年(1547-49)頃には川勝越後守政行が居城していたと考えられ、天正年間(1573-92)今宮城主川勝光照の子・川勝大膳亮(備後守)継氏の時にも修改築されたものと思われています。 子の秀氏(大阪夏の陣に参戦して敗れた光忠か?)は秀吉に仕え、丹波何鹿郡(綾部市)に所領を与えられ、其の子孫は徳川家康に仕えて江戸幕府の旗本となっています。
(現地 島城の登山口案内板 等を参照)


中村城    xxxx山  290m     北桑田郡美山町中村

美山町役場からは162号線に出て右折し棚野川の架かる静原橋を渡り、静原ロードパーク東角・右手の潅木の陰になって 見難いが”歓楽寺”への案内板があって寺への参道が有りますが、向かうのは162号線を挟んで反対側です。 民家の先で棚野川側に出てしまいますが、其処から下草に覆われた幅広の参道が山側に沿って続き、やがて谷筋を登り始めます。倒木の逆茂木・大雨に崩壊し削られた竪堀・空掘状の弊害に難渋しながら乗り越えれば、 また参道が現れて、 旧歓楽寺の仁王門跡に着く。
中村城(静原ロードパークから望む)

旧・歓楽寺(真言宗)は延暦年間(782-806)の創建で桓武天皇の勅願所であったといわれますが、度重なる火災によって現在は先述の九鬼坂へ向かう国道162号線の西側の移っています。旧仁王門跡から直進する広い平坦地は歓楽寺境内に向かう様ですが、右手上部に続く踏み跡が墓地跡を経て鞍部に出る。右手(北方)に向かって登っていく尾根が中村城へ続きます。
最北郭土塁曲輪に向かう竪堀の一つ

既に鞍部から城域に入った様で此の広く 尾根筋もよく判らないが、登りはじめた東側の斜面には扇状に拡がって、ほぼ等間隔に浅く(1m未満)短い(2〜30m程)が6〜7本の畝状竪堀が敷設されています。上部の曲輪から覗いて見ても崩壊して埋まって浅くなり、筋目程度で不確かなのも有るが 竪堀は上方の土塁曲輪から方状に数条がある。 竪堀上部で凹角が切れる所で曲輪の切岸に行きあたる。其の曲輪全体が上方に向かって大きく斜傾していて、曲輪かどうかが訝しく思える形状になっていますが三方は土塁で囲まれている様です。 大手道が旧歓楽寺の仁王門からの尾根筋なら、此の土塁囲みの傾斜した曲輪状?内部の広い窪地は竪土塁が”横矢掛け”を可能にした 枡形虎口の様相にも思えてきます。
W郭の土塁を囲みの曲輪(北端から)


只この曲輪?は袋小路の様で、突当りの切岸 (1.5〜3m程)からの登り口が無 いので、 梯子でも掛かっていたのかな?此処から約60m程は段差のハッキリしない削平地が続いて、主郭部(南北50m・東西20m程)の低土塁を越えると、内側には何か良く判らないが低く小さな台地(2x3m)があり裏(南側)には 水の溜まった歪みの無い、長方形なので庭池ではなく水濠?(幅2mx長さ15m程、高さは数10cm程なので空堀では無いでしょう?)らしい遺構が有る。主郭の小さな台形へは土塁囲みの東側からの虎口を入るが、南側へ広く長い曲輪が延びていますが、傾斜も緩く・段差をもって別曲輪を形成する縄張りにもなっていない平坦地です。西の尾根にも主郭部から一段曲輪があるが、 其の先は雑木藪に隠れて状況も確認出来ないので今回は此処で引き返します。
V郭の土塁を囲みの曲輪

川勝氏の領有地・周山街道(若狭街道)筋の南方からの監視には島城が、北方(R162号)からの通行監視及び守備する役割をもっていた今宮城との中程にはR162号を東の九鬼坂を越えて京北町から京都市北区への通行監視機能を有する中村城が有り、 市場村の中心に位置して、市場周辺の防禦の中心的な城として位置付けされます。・・・三ッつの城は共に室町末期・天文年間(1532-55)島城城主・川勝越後守政行の頃に築城され、元亀・天正期(1570-92)頃までには主郭部や、北端曲輪の虎口 ・畝状竪堀等今に残る遺構が修築されて機能していたようです。



今宮城    津向山  420m    北桑田郡美山町今宮

R162号線(若狭街道・周山街道)の菅原神社から北に向かって歩き始めると、左手の田圃の側溝の注連縄で祀られた三っつの小さな岩がある。 夷岩と呼ばれ商売繁盛を祈念してのものか、此の岩を競(せり)台にしたか!静原に”市”がたっていた名残です。 街道筋は光照寺前から棚野川の流れに沿って屈曲していきます。光照寺(臨済宗)は領主・川勝氏の菩提寺で川勝豊前守(大膳大夫)光照の木像が安置されてるといいます。
今宮第2号橋付近から今宮城遠望

棚野川が大きく廻り込んでいくR162にバス停や”高野”の標識を見て行き過ぎたと引き返したら、 直ぐ元の寺前に戻ってきた。 引き返した地点が今宮集落で、点在する民家北方の丘陵上に今宮城が在り、 川勝豊前守光照や子の大膳亮(備前守)継氏の居城として今に残る特異な?四重堀切(二重〜三重までの堀切なら見た事が有るのですが)等の改修も元亀3年(1572)頃に行われているようです。
西端の山側は四重堀切で遮断される

この年・明智光秀は君王山光明寺(綾部市)を攻めた際、僧達は今宮城に退いて防戦したが落城し、光照は自刃し其の子 (川勝大膳亮継氏!?)等は若狭へ逃れたとも云われます。点名:高野(3等三角点550m)から南東へ延びる丘陵の先端山裾が落ち込む場所は若狭街道(R162号線)と棚野川が流れる要衝です。幅30m・長さ200mの細長い尾根上の標高420m付近に主郭(東西30m・南北15m程)を置く今宮城がありました。登城口が判らないので山裾に鳥居の見える神社に寄ってみます。 小さな神社は境内に広場も無く、鹿避けフェンスが続くので、猪避け用の堀なのか?古い引水用の溝?に沿って山裾を西へ向かってみた。
今宮城主郭

途中倒木が多いが上方に行けそうな場所はあったが、 上方で雑木藪になれば結構疲れるので少し移動してます。【結局・最後は此の谷状になった 倒木の多い場所に下りてきますので、思い切って此処から詰め上がれば良かった】神社と・西側の民家から谷を墓地に至る林道の中間点付近に降ってきたわけですが、取付きを探して墓地から続く林道から谷を詰め上がり、三角点峰(点名:高野 )との中間付近の稜線に出て尾根を降っていくと、城域西北方の山側尾根続きに幅8m以上・深い4本もの堀切が連続して 尾根を遮断している今宮城の城域に入ります。
細長く続くU郭


二重堀切は左程珍しく無いのですが、 此れほどに堀切が連続する縄張りも珍しい。堀切・土塁の間には小曲輪を置いて堀切越の敵に対する構えも厳重です。 幅のある土塁(櫓台!)を越えて主郭(東西30mx 南北15m程)からは、 20m程の長さで土橋で繋がった 細長いU郭の南側の細長く 狭い通路を兼ねた帯曲輪に入る。 東西60m・南北10〜15m程のU郭南斜面には5段ばかり小曲輪が連なり、土橋を伴う幅10m程の大堀切を越えると切岸も明確で丁寧に 削平された4〜5段の小曲輪が連なる。 北側はほぼ真下に若狭街道(R162号)が見える。
南郭の大堀切〜竪堀

北側の若狭街道を監視・防禦すると共に、主郭からU郭〜V郭へと曲輪を繋ぐ通路(土橋・帯曲輪等)は南側の今宮集落側に有って、 曲輪間を移動する川勝方の兵士の動き見え難くする工夫がされています。 最下段の曲輪(城域最南端)は中央部に平入り虎口が有り、虎口の左右を囲むように突き出しており”横矢掛”が意識されたた縄張りになっています。虎口を出ると踏み跡が続いているようで、 尾根筋を伝って此処に至る大手道らしいが急斜面で途中から踏み跡は薄く、変わりに真直ぐに降って行く随分と長い竪堀状の凹角が続きます。最初は竪堀かとも思えたが、 深い溝が続くので伐採林の搬出に利用された”木ずらし”か木馬(きんま)道ではないかと思えてきた頃、左右から谷に落ち込む倒木に見覚えを感じてきたら、 案の定・神社と墓地への林道中間付近だった。
南郭・南端中央の虎口


溝状の道から少し東の神社側に戻ると 猪避け電線フェンスの門があり、開閉して外側へ出ると今宮集落内の道に出て、今宮第二号橋からR162号バス停のある今宮橋に下りたった。川勝氏の周山街道(若狭街道)筋の市場(静原周辺)を監視し守備する三つの城は、 其々に重要な位置の在って防禦を固めていますが、島城は三方を土塁囲みにした曲輪を持ち、中村城は放射状に畝状竪堀を持ち、今宮城は尾根背後を四重の堀切で城域を遮断する等、三城三様の趣を異にした訪城が楽しめます。 島城以外は取付き地点が分からず初めてだと苦労させられますが・・・(^_-)-☆
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