京丹波町  兜山 八田城・井尻城 ・坂井城・垣内城・橋爪城・三宮城・三宮東城・井脇城・豊田城
京都丹波(五万図=園部)
八田城・井尻城 2005年12月10日  井尻集落〜兜山2009年12月20日
近畿の山城: 八田城 井尻城  坂井城 垣内城 橋爪城  三宮城・三宮東城
         井脇城  豊田城
丹波の古墳 豊田車塚古墳
八田城(点名:高畑)遠望

多紀アルプス最東端にある八ヶ尾山からR173号を東へと、 荒々しい露岩の山肌を見せ毘沙門山から櫃ヶ嶽へ続く府県境尾根の板坂峠にかかります。 トンネルを抜けて板坂峠を1km程下りきった八田集落から 上りにかかる付近には、籾井氏が拠った八田城があり、分岐左手の地区道のR9号線に短絡する井尻川沿いの
井尻城中郭段曲輪の切岸沿いに上段へ入る通路が延びる

間道を監視する様に 東へ突き出す小さな三つの枝尾根に、夫々・堀切で尾根側を遮断して曲輪を並べる井尻城主郭・中郭・南郭が在りました。R9号線側には坂井城・垣内城・端爪城・豊田城や兜山の西方を篠山市・福知山市三和町側の草山温泉へ抜ける県道711号沿いには鎌谷城が在るが相互関連は不詳です!!?。

鎌谷城から望む兜山

【井尻〜兜山(429m)へ】  2009年12月20日
兜山の山頂には明智光秀が”丹波攻略”の際、此処で兜を置いて策を練った伝えられる石があると云う。播磨 高御位山を縦走した際に有った”太閤岩”が天正期に秀吉が志方の城山(中道子山城)攻めに、 此の岩に腰掛て采配を振るったと伝えられ山崎・天王 での 秀吉の出世石の事も思い出します。
兜山山頂には伝承の岩が有ったが・・・!!?

八田城の西・高畑集落から約 1km程にあり、いつか登ってみようと思っていた伝承の兜山(429m)へは、井尻城の新情報を得て遺構確認を終え降りてきた井尻集落からの山道を辿ります。井尻城から兜山へは南へ延びる丘陵尾根続きですが地図にも・長いが明確な山道が山頂近くの尾根近くまで 延びているので井尻城中郭・南郭を探索した後、
兜山山上一帯の広く緩斜な平坦地

林道に延びる道を進み最奥の民家先で トタン板の鹿猪除けを兼ねたゲート?(横をすり抜けられる)からのダートでぬかるむ林道が、広い転回場所もないまま(気付かなかっただけか?)いつしか山道となる。谷筋を直進する道との分岐を、 赤い境界ポール側に進む道なりに緩やかな尾根に出る。尾根から先も細い道は続くが突然急登となり細い道も消える。流石に兜・富士の名称の付く山で、急斜面に立ちはだかる露岩まで現れます。
三宮東城(H23発掘調査中)曲輪5の柱穴

後ほど訪れた鎌谷城から遠望した山容が 其の名を伝えます山上は平坦地で伝承の元!!となった岩が有る。先に平坦地形が拡がり陣営地かと期待感で進むが、 自然地形のままで堀や土塁は無くとも段差を設けて曲輪を区分する仕切?らしいものも無い。繁った樹木に展望も効かないが、籾井氏の八田城攻めの陣城かとの目論みは外れた様?。 西方の鎌谷城から草山温泉へ抜け三和町へと細見氏の支配下にあった一帯ですが、天田郡に入った明智の横山城(福知山城)攻めの前線基地となったのは、
三宮東城(H23発掘調査中・道路工事で壊滅か消滅する)

草山温泉の先 ・友淵や菟原付近と思われます。兜山の北西山麓に菖蒲谷があって、合戦場ともなった”勝負谷”の名が残る所とも考えられますが、八田城よりは戦国期の井尻城に関連する伝承かもしれません。 鎌谷城近くに未訪に城跡もあり、此の辺りにも明智ではなく細見氏等の城砦が在ったのかも・・・?。
現在:京都府内で約800ヶ所・京丹波町では 25ヶ所の山城が確認されていると云う。近畿の山城 (京都丹波)のリスト見直し・追加更新が必要な様ですが未調査のまま・・です(-_-;)



八田城 井尻城 坂井城 垣内城  橋爪城 三宮城・三宮東城 井脇城  豊田城


八田城 (奥八田城)
 旗鉾山(4等三角点:高畑) 327m  船井郡京丹波(旧瑞穂)町八田小字高畑

板坂トンネルを抜けると船井郡瑞穂町の八田地区に降りてくる。高畑集落から井尻をR9号へ抜ける分岐手前に井尻城があり井尻川沿い南東・R173号の峠の先の尾根が延びていく左手に丸い頂を見せる山がある。北に山陰道が通じ舞鶴・若狭方面から篠山や摂津能勢・池田方面へ抜ける街道の要衝に位置して八田城がありました。幡鉾山の名からも山城に旗がなびき抜刀して待ち構える武者の姿を思い浮かべてみるが
八田城(東面)・山頂付近に低い段差で平坦地が続く

主郭?の旗鉾山(点名:高畑 4等三角点327m)山頂はR173号が越える東の峠側と井尻川に沿って走るR9号を望み、井尻城と呼応する西面の尾根上に残る僅か4〜5段の狭い平坦地(2x5m四方程度)が残るだけで、鉄砲や爆弾が使用された戦国時代の城とも思えません。「籾井家日記」・「織田軍記」には天正5年(1577)明智光秀の”丹波攻め”で八上城:波多野秀治の武将籾井城主 「青鬼」と呼ばれた籾井教業が築いたとされ、此処に籠もったとも云われる八田城だが?要害とはいえない広いドーム状の山上に堀切も無く・小さく狭い曲輪が尾根筋の東西に4〜5段連続するだけ。土塁も無く段差も低い(1m足らず)城砦に籠もり、柵と逆茂木・竹矢来で囲っただけの防備で明智軍に応戦し 撤退させたとは思えません。
点名:高畑山頂:八田城主郭

籾井教業は同年・籾井城を明智方の藤堂高虎の大軍に攻められ安口城と共に激戦で敗れ自刃しています。城史は不明ですが此処ではなく隣の丹波町中畑城 (北八田城・口八田城)ではなかったのでしょうか!。亀山城(亀岡市)に波多野秀治の弟:秀尚が居て、波多野氏の勢力下に有って援護に駆けつけていたのでしょう。天正7年にも細川藤孝が光秀軍と 八田城を攻めたとされます。明智方に抵抗を続ける領主もあり、此処・八田や井尻では三郡峠〜草山温泉〜鼓峠越え等で奥丹波・黒井城の荻野(赤井)氏とも繋がりが有ったと思えます。 高畑地区の旗鉾山にある船井荘の八田城について、下八田にある山王権現の棟札からは南北朝期:文安元年 (1444)以前既に城主上原久左衛門の城が有ったとされており位田城(綾部市)の乱【延徳元年 (1489)】の鎮圧に向かった守護代:上原豊前守ゆかりの一族だろうか?。
井尻城・東郭から見下す大堀切

当時のままの古い城砦遺構として、山頂の本ノ丸を軸に輪郭形式に曲輪を並べている様です。篠山市に貞治3年(1364)丹波守護となった山名時氏の 奥畑城(茶臼山城)があるが大勢力を持った山名氏が、京都を境に本拠但馬を結ぶ丹波攻略を狙うのは必定。 亀岡・園部からの山陰街道に有って、八田から板坂峠を越え藤坂峠〜川阪経由で奥畑城へ鼓峠を越えれば、もう一つの山名氏の 板井城へも通じます。此の山名氏方の”丹波侵攻”の天田郡・船井郡内の砦の一つだったとも思えます。


井尻城   城山 282m    船井郡京丹波町(瑞穂町)井尻

八田城(奥八田城)や井尻城の城史については不詳ですが船井郡誌や瑞穂町史が閲覧出来れば何か判るのかも知れません。此の八田城に籾井氏が拠り、明智軍が攻めたと云われるのは八田城の西 ・高畑集落から約1kmにあり、今回も登ってみようと思っていた兜山(429m)の伝承からでしょうか。
井尻川から井尻城主郭と居館跡(正面裾右)


八田の城が井尻城の事なら其れも納得出来る様相の城がありました。 井尻城から南への尾根続きの兜山山頂には 明智光秀が”丹波攻略”の際、此処で兜を置いて策を練った伝えられる石があるといい、各所に残る腰掛石・例えば天正年間・羽柴秀吉が中道子山城(加古川市)を攻めた際:高御位山東尾根先にある秀吉の”太閤岩”や 山崎・天王山での秀吉の 出世石の事も思い出す。
井尻城:東曲輪(北東角)の竪堀(画面中央対角線上)

”丹波・黒井城攻め”では此処より三和町に入り鼓峠〜栗柄峠の逆コースは明智光秀が、命からがら敗走した道。戸平峠を越えては日ヶ内城 ・岩倉城等を次々と落としながら黒井城に侵攻した道。其の頃のエピソードだろうか?。 北側の山麓には菖蒲谷と呼ばれる所が在り、合戦場の”勝負谷”の名が残る所と思え、八田城よりは戦国期の井尻城に関連する伝承かもしれません。
主郭北側の空掘と外側 (北)曲輪の土塁

井尻城からなら菖蒲谷も近く尾根伝いに兜山へ行けそうです。R9号線・山陰道を亀岡〜園部から観音峠 【旧道は須知城側を通る】を越え、瑞穂町に入って北に綾部、南へは篠山市へ通じる街道が交差します。八田城(砦)は 其の見張り所として利用されたのでしょうが、兜山から北に延びる丘陵の末端が9号線の山陰道に流れを落とす 井尻地区にある井尻城の方が、
井尻城・主郭東側の大堀切

格段に防備性を高め補強された縄張りで居住性もあり、山陰道に沿って由良川に流れ出る土師川上流の井尻川が城の東面を南から北へ水濠となって流れ、 要衝監視に当たっていたのでしょう。山名氏VS細川氏との勢力闘争が激化して以降・天文年間1532-55) 内藤氏や波多野氏 ・また三好氏らの丹波での戦いのなかで、其の時々でどちらについて・どう戦い生き抜いてきたのか手元資料が無く未調査のままですが、”丹波誌”に井尻城主谷垣兵部とある。
主郭西端:土塁虎口から土橋付堀切を渡る

市場の東の山で戦いがあり其処を武士谷と呼ばれ谷垣(谷口とも!)兵部は此処で討死したといいます。また井尻村は江戸時代62石余りが幕府領で、うち379石余りを旗本・柴田七九郎が知行したところ。9号線の井尻橋を渡ったところに「いねむりパーキング」スペースが有り此処から井尻地区に入ります。 地区内に重厚な門と塀に囲まれた瓦屋根・
虎口受け曲輪から東郭(南東角)への虎口

格子窓をもつ長屋門のある武家屋敷風の民家が在り、井尻川を挟んだ其の真西の丘陵に向う登城口となる山道がある。小さな稲荷社を祀る祠へ参道らしいが、城跡の東曲輪まで 続いているのですが川を渡る橋も無く、地区道を南端まで抜けて井尻公民館まで来てしまい、城跡への取付点探しはいつもの通り迷うもので此処も同じ!!。
井尻城主郭西尾根上最高ピークの3x4m程の土壇(櫓台か?)

判ってしまえば なんでもない事ですが・・・!!。丘陵裾・井尻川沿いに北へ向うと、農具置き場側に一本の杉の木が有り、山へ向かう道があり直ぐ稲荷社の小さな祠が見える。伏見稲荷の札が収めてあり、折れて上部に向かう山道が続く。 九十九折れの道が倒木と下草で切れた所が城戸口らしく斜上して曲輪に入るようだが、 其の直前に幅2m程の井戸跡らしいものがある。
井尻城中郭:大堀切外側土塁と浅い堀切 (下部)からの尾根は緩斜面

2m程の段差で越えた2段目の広い曲輪の北端に 1m弱の土塁が見える。東北部の広い台状h櫓跡だろうか。この曲輪の先は深く広い大堀切(高さ・幅共に約5〜6m程)で城域が遮断されています。堀切を尾根側に渡ると同じ様な広さの曲輪が3段ほど続く。城域の最高所の低い段差が本ノ丸だろう。
井尻城・中郭の土塁堀切

其上の四方形のマウンドが中央櫓台だろうか?余り防備性があるとも思えない本ノ丸から先は、薮で曲輪が判断出来る程度で段差に切岸加工は無さそうです【此処から南の兜山へ延びる尾根筋からも、 小谷を隔てて東へ流れ出る短い枝尾根上にも井尻城遺構が残り、下記に追加している中郭・南郭を繋ぐ通行の番小屋 ・木戸だったのかも・・】さらに緩やかな尾根上の踏み跡が兜山へと続く様ですが遺構らしいものは無さそうなので引き返して北側へ下ると此処も高さ6m程で堀切の先は小さな出曲輪があり、 此処にも稲荷社の祠が祀られている。
井尻城:居館と堀跡

堀切沿いに祠への参道を下って民家裏手に出ると、 先に登城ルートを探し歩いていて吠え立てていた犬小屋の前・・・(^^ゞ。 待っていたように吠え立てる犬の横を素早く抜けて 井尻川沿いの農道に出た。
【追加情報】井尻城中郭と南郭及び居館跡 井尻城は兜山(428m)から北に延びる尾根北末端をR9号線近く・郷土史類や過去の遺跡調査等には上記の最東?尾根上の遺跡だけが報告されているようですが、井尻川沿いの集落中程へ枝尾根を落とす末端部の 短い三尾根筋に各・堀切や曲輪等の城址遺構を遺す。
井尻城:居館への虎口!!

【居館跡!!】今回は明智伝説の兜山に城(?向城)遺構の確認も兼ねて主郭南の尾根に向います・・・。井尻城主郭への取付点目印にしている”一本杉”の側の田圃が以前から気にはなっていたが、図示されて見るとヤッパリ・・!!居館跡・・。二枚の田の間の窪地通路が居館入口虎口だが、トタン屋根付きのなる (農耕作用に使用する長い横木や杭類)の置き場で素通りしていたが、
井尻城中郭曲輪の切岸 :右手に上り土塁が曲輪を繋ぐ・・

方形館で周囲に廻した堀跡らしき溝も残る!?。”一本杉”の直ぐ数m先から丘陵へと、畦道を進むと稲荷の小祠から池(井戸跡?)を経て 主郭に向うが、直進すると【井尻城中郭】幾段もの段差をもった平坦地を谷間に見る。 谷向かいの平坦な丘陵上部の先がV字状に凹んで見える所が有り、丁度谷間も浅く・向かいの丘陵側に移ると、
井尻城中郭:東末端部の帯曲輪

土塁堀切から土塁線に沿って竪堀となって落ち込んでいるのが見える。井尻城から兜山への主尾根筋 ・主郭部の一つ南側を東の民家上に延びる此の枝尾根は・馬駆け場とも呼ばれて城遺構が予測出来る場所でしたが、 馬駆け場どころか綺麗に削平された4段続く広い曲輪が、夫々に3m程の切岸を落とし、
井尻城南郭:尾根側の堀切を越え3段小曲輪を降りて広い緩斜な平坦地となる

曲輪の北側切岸下を上段の曲輪に上がる通路が通じ、土塁で堅める大堀切は ・主郭北の大堀切にも見られるが、此処中郭にも北へ竪堀となり落ちる片側は竪土塁を伴ない、大堀切の尾根側土塁も埋もれかけてか浅い空掘状の窪地がある。此処から尾根上へは広い緩斜面が尾根まで延びている様だが、段曲輪南側を 下方から幅広い山道が城域端の堀切(空掘!)上部で合流して、 さらに尾根筋沿いの下方を通って主郭からの主尾根に出る。
井尻城南郭:大堀切はクランク状に長い竪堀となる。堀底道か?

低丘陵の山域でもあり単に山仕事用の道にしては良く踏み込まれた道!!。 元禄年間頃まで開かれていた本光寺 (廃寺)跡が此の中郭と南側の枝尾根間の谷間中程の段に在ったと云い、牛馬も通れそうな緩斜な小広い山道をもって”馬駆け場”と呼んだものか?。
井尻城南郭:広い櫓台下に広がる特大の平坦地形

【井尻城南郭】 井尻城主郭から中郭への枝尾根分岐を経て兜山への主尾根を辿ると、次の東へ向う枝尾根分岐部の広い斜面を、方向を定めて暫く下降していくと堀切を見る。曲輪とは呼べなくも無い?自然地形に近い緩斜面の先には 更に大堀切がある。北斜面(本光寺廃寺跡)へは堀切端で大きくクランク状の深い竪堀となって 藪の先に落ちていきますが、南郭主曲輪に入る堀底道の様です?。大堀切上の土塁壇から下段の曲輪に降りると、 其の下には主郭にも見慣れないだだっ広い平坦地が拡がる。居館跡にしては郭仕切区分?が無く、此処が馬駆け場・・・というより戦闘訓練場にも成りそうに思える!!?。
(丹波史年表 丹波史談会「丹波」 を参照)


坂井城
xxx山 亜Ca250m   船井郡京丹波町(瑞穂町)坂井

坂井集落の此の坂井城が別の城名で 呼ばれるのかは知らないが、 既に登録され関連の機関紙・その他に発表されているのかも知れません。船井郡誌(桑田郡と一冊に併合されている古い地方史 )では丹波町に須知城の固有の城名を見る程度!!?です。幕末頃の村単位に八田 ・和田・井尻に、竹田河内守・川勝新造が知行、大朴・坂井・橋爪・諸内に柴田河内守知行・・・・等領主名がみえる。
熊野神社側からバス停(尾根先端部)と坂井城(中央)

京都を結ぶ山陰道の要衝にあり、 坂井から井尻・八田を通ると、R173号線で板坂峠は近く、越えれば篠山市。波多野氏家臣:籾井氏は八田城に拠ったといわれ、 荒木氏は園部城主にも成っていますが、 旧瑞穂町の大部分は藩政では園部藩領だったようです。これ等の要衝に面した村々は中世・ 戦国時代には軍事的にも最重要街道監視に、夫々の在地領主の城や、 京に隣接した丹波に覇勢を競い、
主郭切岸と下段の帯曲輪

進出の機を狙う勢力の足場固めの城??等々・・・1ヶ村に1箇所以上の 「村の城」や勢力を持ってきた領主の城砦群が夫々に時代を超えて林立していたのではないかと思えます。 坂井城についても・其の創築目的や、 時代・城主等、一切資料等未調査で不明ですが、井尻川沿いの坂井集落全域を見渡せる、 街道監視にはR9号線(山陰街道)を足下に見る位置に有りました。
坂井城:主郭東角と帯曲輪間の小曲輪から帯曲輪

福知山市や京都市の様に 遺跡分布図をWeb検索等で調べられればよいのですが !!山容を見て城山かどうかが判るほどの特技・洞察力を持ち合わせてはいませんが、 兵庫丹波市内にも地元に知られず・伝承も無く ・勿論遺跡分布図に記載の無い場所に 東中城・鴨内城・瑞雲寺城〜穴裏峠城 ・新才城・譲葉山西城〜譲葉山城・井原城館(いずれも仮称 )・高見城周辺尾根上の城砦群や岩尾城の 西尾根にも城砦遺構を見つける事が有ります。一村一城・・!!?坂井城もその様な知られざる 城の一つなのかも知れません。
坂井城主郭西の二段曲輪

井尻集落に入る分岐のR173号線側に八田城 (段曲輪以外に城遺構は見なかった!!)が在り、井尻集落を抜けてR9号線に出て左折。橋を渡ると「いねむりパーキング」がある。積雪時の道路整備基地となるところ。福知山市方面へ走ると、左手に迫る丘陵尾根の山端が、此処・国道筋坂井バス停側に落ち込む。坂井集落北側の東西に細長く延びる 独立丘陵も位置的には気になるが、バス停を過ぎた先に熊野神社が在る。振り返ると坂井バス停側へ落ち込む丘陵尾根の頂部がR9号線(山陰道)要衝を真下に睥睨している様。
坂井城:西曲輪から主郭切岸

比高は然程も無い。此の後は直ぐ先の水原で R9号線を外れて府道711号(林道)に入れば草山温泉経由で篠山市に帰るだけ。一寸寄ってみるだけで取付き点探し・・・。が此の城は既に一HP上にレポートがあった。山城研究で知られるT氏は京都府側:丹波史談会・兵庫:丹波史懇話会の会員で、歴史・とりわけ中世京都丹波の山城研究に熱心な丹波史談会メンバにより、 城の位置や規模等は会員相互に逸早く情報交換され、 既に訪城済かと思えます。
坂井城主郭:主郭東北端の小曲輪から

取付き点を過ぎ、駐車スペースも無く側道も駐禁 ・熊野神社から引き返す。右手丘陵上の城跡から東へ延び出す尾根端が「坂井」バス停より東方 ・R9号線側の民家上に延び出しており、山中へ入っていく車幅狭い林道に入る。林道は高低差少なく奥に延びていく為、 稜上までの急登を考え早々と尾根筋に乗り稜線を辿る。比較的幅広く平坦な自然地形?が続いて、藪っぽい急斜面が切れると主郭の北曲輪に着く。
坂井城:尾根西端鞍部の堀切

低い切岸を北に捲くと主郭切岸4〜5m下段に帯曲輪がある。バス停からの登路があれば 激急斜面だが直接此の主郭に登り着く筈です!!?。 主郭の西に二段の曲輪が並び、斜面下の鞍部に浅い堀切が有った。鞍部を越えて先のピークまで進んでみたが、狭い平坦地形・南北に短い枝尾根が有り、物見台的な遺構が北のピークの平坦地に有りそうに思えたが、 荒れた稜上に期待出来そうな遺構も無さそうで主郭に引き返します。


垣内城  寺谷山! 312m   船井郡京丹波町(瑞穂町)和田・垣内

篠山市からR173号で板坂峠を下り京都府側へ R9号線「和田」交差点を右折しコンビニの先に高屋川を渡って南へ保険福祉センタ−や町役場へ向うT字辻 「和田みどり橋」があり、此処からR9号を東へ約80m程・鋭角に細い車道が、分譲住宅地への急斜面を直上していくが不安は直ぐ解消される。車幅は広くなり一帯に区画された新興分譲住宅用の空地の中に、 数軒の住宅を散見する。
垣内城主郭の寺谷山?三角点

宅地背後の丘陵尾根上のピーク寺谷山!?(4等三角点峰 312m)に主郭を置く垣内(かいち)城が在りました。同町内には和田城の名称の城も 有る様ですが所在不明。南方の学校マーク南の低丘陵223m三角点峰付近か?と思うが位置付近は大朴(おおぼそ)地区で、 大朴城?ならR9号線とR173号線が交差する西南部の独立丘陵上には、地元民による?城跡碑が立てられている事をM氏から聞いており、
垣内城:主郭北端の土塁

また京都丹波の城郭を調査研究されている方からも、削平地はあるが城跡と判断できる遺構や資料はなさそうです。 町名・字名からは離れているが、領主等で和田と呼ばれているのなら?、R9号線が丘陵尾根先部の鞍部を抜けて、 半独立丘陵となっている山稜部の遺構と石碑に対して和田城跡と呼ばれていたのかも知れません!!?。井尻城が一城別郭で谷を挟む向かいの尾根にも城郭遺構がある事と、
垣内城:主郭北の尾根続きからの主郭

此の垣内城についても位置だけは、中世史・城郭研究家のT氏 ・友人M氏から聞いていたので、井尻城からは近場の垣内城と先にUP済みの橋爪城を訪城した。分譲地内に入ってくると、 背後に望む低丘陵から延び出す尾根先が閑散として空地ばかりが目立つ分譲住宅地内の東北角へ流れ出てきます。宅地内車道が此の尾根末端部に接しており、踏み跡を辿ってダイレクトに尾根を北上します。
垣内城:主郭西の堀切

さほど尾根幅は 広くも無く急斜面も無く・切岸もない自然地形の平坦地が三ヶ所程有り、竪堀らしい溝状が西斜面に二ヶ所(三ヶ所だったか?)見かけるが、 曲輪らしい平坦地からして古い城の形態らしく、 曲輪に何も防備工夫も無いだけに、竪堀を構築とは思えず、そのまま急斜面となった最後の登りで最高所の寺谷山 ?(4等三角点312m)に着く。幅15m程・北に 20m程の主郭の先は1段程・小曲輪が有って真直ぐ急斜面を下るだけ。
垣内城:主郭西の堀切

尾根伝いの鞍部付近には堀切等・何の施設も無さそうで引き返す。 垣内城の見所メインは主郭の三角点から西へ藪を分け入った処から始まります。といっても藪中で判別つきにくい小曲輪を1〜2段下った処で、垣内城で唯一・築城遺構を顕著に残す土塁と堀切に出会う。堀切先には幅15m程・長さ40m程の平坦地形が有る。北面と西面は急斜面だが其の間は平凡な下り尾根が続くだけなので 城遺構に期待は出来そうに無く引き返す。
垣内城:南尾根最初の南出曲輪に見る虎口状!!?

築城時期や目的がよく判らないが、将軍足利義政に仕えた貞通が、垣内城からは東に約1.5km程しか離れていない位置に橋爪城 を築いて山内荘を領有していたと云い、其の後・足利義煕に仕えた盛通・足利義晴に仕えた山内一豊の祖父 孫太郎久豊が但馬・丹後・若狭へ通じる山陰街道(R173号線沿い)の要衝に三宮城・三宮東城が、 要衝監視の山内氏の城砦群として築かれたのでは・・?と思えてきました。
垣内城 :西尾根堀切先の最奥部に有る広い平坦地

R173号線は垣内城の西・和田の交差点でR9号線に合流します。京都から此の地へと、園部町から観音峠を越えて丹波町に入ってくると三宮城 (水戸城・三戸城)があり、鎌倉時代:弘安年中(1278-88)の城主に山内伊豆守がおり、山内氏一族が水戸城(三宮城)から、天田郡(福知山市)境の三宮城に至る一帯の船井郡内に威勢を覇っていたものか?、 城主・築城時期や山内氏の動向等の城史は一切不明なので推測の域を出るものでは有りません・・・!!?。



橋爪城    xxx240m  船井郡京丹波町(瑞穂町)橋爪

上記垣内城を後にR9号線に戻り左折して 東へ約1km「橋爪」交差点から約300m程・左手(北側)に「常照寺」の案内板を見て集落内の道を進む。 道なりにコの字に進んで、またR9号線に繋がる地区道の一番奥のコーナー部・左手の丘陵に参道が有り、
橋爪城:居館〜城を小曲輪を割いて繋ぐ竪堀は堀底道
小曲輪最上段から落ちる畝状竪堀


佛日山常照寺(高野山真言宗)の山門が見える。山門には向わず其の下方を直上する道が詣墓への参道。長く延びる平坦地の先にも墓所が続く様子だが、尾根筋に向かう左手には 土塁虎口状・空掘状の通路があって、常照寺背後の墓地に入る。墓地そのものが曲輪跡で最初の廃墓所の 西角部上に竪土塁と小曲輪がL字に卵塔墓所に向う参道に対峙して虎口を護る。
橋爪城:広い居館中程に仕切り竪土塁

丘陵東沿いに長く延びる墓地の平坦面は、家臣団屋敷跡を窺わせます。また丘陵の南斜面を上方に向けて 幾段もの曲輪を積みあげていますが、寺の真後ろ・幅狭ながら尾根幅一杯に拡がる曲輪の 南前中央には歴代住職等のものか?卵塔墓所があり、其の西端部に・西の谷間麓の竹林にまで延びる長い竪堀は、
畝状竪堀の落ちる小曲輪の上に続く段曲輪の切岸

西端部を分けて小曲輪群の最上段から落ちています。竪堀の末端部は、寺西側から北へ入り込む短い谷詰めの 広い三段程の平坦地の角に繋がります。平坦地形の南 ・西・北への三方を空掘りと高い切岸で囲まれた居館跡で、 最上部北の一角は尾根側斜面から突き出す竪土塁で仕切られて、其の端から内部に入る虎口状通路が開きます。
橋爪城:竪堀下部から居館南西角曲輪と大空掘

居館部から長い竪堀沿いの堀底道を登っていて気付かなかったが、主郭から5〜6段並ぶ曲輪の最下段に立つと、 此の切岸下の最上段小曲輪(長い竪堀の落ち口)から4m程の間隔で三本の竪堀が並行に落ちているのが見えます。 畝状竪堀と呼ぶに後の二本の竪堀が10m内外と非常に短く浅く・小曲輪の2段程を割いて延びています。2.5m程の切岸を越え上段の曲輪に入る。
小曲輪群から段曲輪 2段目の切岸と平入虎口

雑木と藪地だが削平は丁寧で次の曲輪切岸も低い(2m程)が直立する。曲輪の左 (西)端を切り崩した様に・・斜上する平入虎口を上がり、次には曲輪左右の竪土塁を上段帯曲輪に乗り 西側から主曲輪の一段前(二の曲輪)に位置する四方を土塁で囲う曲輪が在り、中央正面の土塁虎口から主曲輪に入る。北側最奥には土塁が有り、左右からの竪土塁で繋がる土塁は幅広く櫓台を備えていたのでしょう。
橋爪城:土塁囲いの二ノ曲輪

土塁により切岸が高くなる大堀切で尾根側を遮断し城域を確保しています。堀底までの高さもあり、堀切側の土塁は幅もあり櫓台 が備わっていたのでしょう。尾根側はさらに延びるが緩斜面の上りが 続くだけなので引き返したが、城史からは谷を挟んだ283mピークから南へ延びる尾根上の方が規模や防備、 同族の城?・豊田城との関連からも、城跡の可能性??が有りそうに思えた。山内氏については三宮城 ・三宮東城のレポート中程を参照願います。
橋爪城:主郭北端の櫓台付きの大土塁

承久の乱(承久3年 1221)重俊の嫡男が京方として討死し、次男宗俊幕府方で功があり摂津国冨島之庄を賜り、重俊は備後国地毘庄の安堵を受けたと云い後、重俊は宗俊に惣領職を譲ったところから 上記案内板の系譜がはじめられています。将軍足利義政に仕えた貞通が丹波国橋爪城を築いて山内荘を領有していたという。足利義煕に仕えた盛通、足利義晴に仕えた山内一豊の祖父
橋爪城:主郭北面の大堀切

孫太郎久豊と続く丹波山内氏が橋爪城の他三之宮城や、横領し拡大した領地内諸々に城砦を築いたものでしょう!!?。
「丹波の荘園」によると山内荘は元:摂関渡領が近衛家領となり、 関白道家のとき子の青蓮院門跡滋源(第77代天台座主)に与えていたらしいが、建長5年(1253)には近衛家領となり、 南北朝期:延元元年(1336)にも近衛家に安堵されているが、室町時代:応仁の乱 (1467〜)までは足利氏が領有し、乱後は幕府料所となり飯河中務丞忠資が知行していたのを、
橋爪城:主郭・二ノ曲輪間の空堀状?

文明9年(1477)須知源三が横領し、さらに文明14年(482)には 丹波守護細川政元が山内荘上三ヶ村 (森・塩田谷・観音寺!?)を勝手に自分の所領としたので、 荘民らが幕府料所にして欲しいと願い出たが、訴えは通らなかったらしい・・。「太平記」に志宇知・山内の者ども…・記されている山内氏が此の山内荘の所領を有していた事は考えられる …とされています。
橋爪城:南東端墓地の土塁虎口

足利尊氏が丹波篠村八幡で旗挙げした際:一番に馳せ参じた久下氏ら多くの丹波武士に中澤 (長沢)・志宇知・芦田・酒井・波々伯部氏等の中に 山内氏(通時か!!)も参じています。橋爪城は盛豊の孫:加賀守政俊の時廃城になった様です。 しかし足利家の起こった乱に橋爪城は焼失し、敗れた義晴に従っていた久豊は後に尾張国岩倉城主:織田伊勢守信安に仕え尾張(愛知:一宮市)黒田城代を命ぜられます。
発掘調査中の三ノ宮東城主郭からR173を挟んで三ノ宮城を望む

久豊の子 山内但馬守盛豊(一豊の父)は明応9年(1500)頃に丹波で生まれ三之宮城に住んだと伝えられます(三之宮城の案内板参照:盛豊は【永正7年(1510)-弘治3年(1557)か永禄2年(1559)とも!?】が暫く城を継いでいたのでしょうか?。久豊は大永年間(1521‐28)に卒した為、盛豊が尾張岩倉城主 :織田敏信に仕え、認められて家老として黒田城代となります。此れ以降は橋爪城にも三ノ宮城(西城)にも直接は関連なさそうですが三ノ宮東城にも寄ります。
三ノ宮東城:主郭北の大堀切側の櫓台付土塁(発掘調査以前)

三ノ宮西城は山内一豊所縁として観光整備され楽に訪城出来ます。山内一豊は此の黒田城で盛豊の三男(次男とも?)として天文14年(1545)出生しますが、弘治3年 (1557)黒田城は夜討に遭って父盛豊 ・兄十郎父子は討死したとも、永禄2年(1559)織田信長の攻撃により岩倉城は落城し、 その際に討死したか自害したとも云われます。一豊15歳の時・刈安賀城(愛知・一宮市)浅井新八郎政高の許に母や弟妹とともに身を寄せ、しばらくして美濃の豪族牧村正倫のもとに寄寓。
三ノ宮東城を望む

ついで近江国勢多城主:山岡景隆に仕え、永禄年中 (1567〜)頃織田信長・木下秀吉に仕え、天正12年(1584)長浜5000石の領主、同18年(1590)遠州掛川に6万石で移封。秀吉の死後・関ヶ原の戦いでは逸早く家康側につき、戦後この功によりは慶長5年 (1600)土佐一国20万2600石の領主となり、高知城を築城し大大名に立身しています。
(丹波の荘園:細見末雄著 Wikipedia 山内一豊生誕地案内板 (岩倉市教委昭和49年11月)等を参考)


三ノ宮西城と三ノ宮東城(両城跡の画像は上の橋爪城にも添付)
三ノ宮城(三ノ宮西城)   城山 283m   船井郡京丹波町(瑞穂町)三宮

篠山市からは菟原に出てR9号を東へ・・府道26号 (丹波三和線)に入り五条山の北方を抜けて三宮に至りR173号に合流します。R173号を綾部市への北約 3km瑞穂トンネル手前には京都府唯一の質志鍾乳洞があるので、おおまかな方向の同定は出来ますね。此の三宮交差点・R173号線を挟んだ西側の小山の山腹には「山内一豊のxxxx」がキャッチフレーズの
三ノ宮西城:二ノ曲輪から主郭東下の曲輪

大きな「三宮城跡」看板が目に付きます。山頂主郭の案内板に三ノ宮城(西城)跡」とあり、 もう一つの城が在った事を示しています。其の城が三宮交差点東側の車道に迫る丘陵上に在り、早くから所在・位置は確認されていたが未調査の 三ノ宮東城です。

三ノ宮西城 :三ノ曲輪から二ン曲輪と主郭

見張台として機能した三ノ宮城の出城程度にしか見られていない城砦だったようですが、実のところは想像を大きく裏切る?スケールの大きな縄張りの城でした。R173号線沿いの山陰街道から福知山・綾部を抜けて丹後方面や若狭方面へ向かう街道は 交通の要衝として街道筋の要所は宿場町として繁栄してきました。
三ノ宮西城 :三ノ曲輪から竪堀を見下ろす

三ノ宮は三和町へ瑞穂の峠越えを控えての宿も有ったことでしょう。R173号線交差点から府道26号へと 集落内を直進し右手 :三ノ宮小学校の裏山の城跡へは使用禁止のジャングルジム等遊具が残る高台の駐車場から、道標のある整備された 遊歩道が通じています。広い駐車場自体・何かのイベント広場だった様ですが、さらに高みへ拡がる造成地は武家屋敷跡だったのでしょうか?。此処から城址散策路が整備されています。
三ノ宮西城の大堀切と三ノ曲輪切岸

NHK大河ドラマ「功名ヶ辻」<2006年 ?>放映を契機に整備された様ですが”郷里の誇り”として大切に保存・活用して欲しいものです。 三ノ宮 東城が道路拡張工事で消滅・其の事前発掘調査が行われており、現地説明会(2011・10・16)に行けなかったが再訪の際三ノ宮城(三ノ宮西城)へも寄った。登山口となる旧三ノ宮小学校に人影は無く ・今年2011年3月で閉校になった。
三ノ宮西城:三ノ曲輪と大堀切・土塁

平日の昼間に元気な子供達の声が消えた校舎・校庭には寂しさを憶えます。
山内氏は大織冠鎌足の後裔:七世孫 :鎮守府将軍藤原秀郷より出て、先祖の九世孫:首藤(すどう )刑部丞義通の嫡男俊通が、相模国鎌倉郡山内庄を領して山内氏を称し、保元・平治の乱には源義朝に属した関東武士。異なる系図があるが三之宮城(西城)案内板による山内氏の系譜(抜粋)を参照すると俊-通網-通資 (鎌倉時代
三ノ宮東城:大堀切

:正和5年(1316)備後に下向して 備後山内氏の祖!!?)通忠‐実通-通時-通継‐通基 -弥六(郎!?)貞通‐日向守盛通-将軍足利義政に仕えた弥六!?貞通が丹波国橋爪城を築き此の地山内荘を領有していたとされ・足利義煕に仕えた盛通 ・足利義晴に仕えた孫太郎久豊(土佐山内氏の祖)と続き 橋爪城や三之宮城を築きます。三ノ宮城の案内板によると築城主は久豊(山内一豊の祖父 )とされますが築城時期は不明。子の猪之助 (但馬守)盛豊(一豊の父)は明応9年(1500)頃【永正7年 (1510)-弘治3年(1557)か永禄2年(1559)とも!?】に丹波で生まれ三之宮城に住んだと伝えられる。

三ノ宮西城:三ノ曲輪堀切と井戸?の間・南西側竪堀

久豊が大永年間 (1521‐28)に卒した為盛豊が尾張岩倉城主:織田伊勢守敏信・信安父子に家老として仕え尾張黒田城代となるが、弘治3年(1557)織田信長との戦いに戦死している。盛豊の子:一豊は久豊の後:若年ながら暫くは 三之宮城を継いでいたのでしょうか?。岩倉城の織田氏没後:一豊は織田信長に仕え秀吉の配下での功から近江長浜や 若狭高浜の城主となり、 秀吉没後は家康に付き関ヶ原の戦いも功をたて嫡流ながら土佐高知へ20万石の大大名として移封される。三之宮城には其の後:一族の山内和泉守(相模守)宗昌が
三ノ宮西城:主曲輪と山内家の家紋<土佐柏・山内一文字>

元亀年中(1570-73)居城したが病死、子孫は此の地に帰農したと云う。 只(・・)内に追記内容と異なり、主郭に立つ案内板によると宗俊の次男家俊が兄時俊との間に争いが起こり、此処丹波国三宮に備後国地毘荘(広島・庄原市)より移り住み、土佐山内家を興したとと伝えられている。
追記:時代・経緯等詳細内容は不詳ながら、丹波山内(やまうち)氏本家は久豊の先代 :盛通…?から、其の後の山内和泉守宗昌へ、宗昌が病没し子孫が山内家・家臣等菩提を弔い供養のために僧となり、分家が久豊・盛豊・一豊と続くが一豊に子が無く、一豊の弟:康豊の子が継いでいるのが
三ノ宮西城の井戸跡?

土佐山内(やまのうち)氏 …先祖:通忠の備後山内氏や、奥州に下向した山内氏一族については不詳】

主郭は約30uの楕円形で 東へ切岸を落として二ノ丸 ・三ノ丸と続き、深い堀切が刻まれて急な斜面を横切るように竪堀が落ちる。ロープ沿い下る主郭下方西南の山腹 ・遊歩道側に特大の大きく陥没した様な穴が有り井戸跡とされている様です。 遊歩道先の尾根筋は直ぐ堀切となる。
三ノ宮東城の大堀切(外側土塁から)

堀切と並走して 一条の竪堀が東下方の不断寺へ向かう車道!?に向かって落ちている。城の規模からは籠城に耐えられる城とも思えず、駐車場近辺が居館・屋敷跡と想定すれば、大手?(主郭までの比高は約30m程なので )上り口近くに井戸は不要とも思える。そういえは!!.駐車場からの取付き点にも浅く深くも無い掘り込まれた空洞が有って土取り用だったのかも?。
(現地:三ノ宮西城説明板等参照)
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三ノ宮東城(東三ノ宮城)   xxx山 Ca280m   船井郡京丹波町三ノ宮(鎌谷中西又)

三ノ宮東城登山口の駐車場に戻り三ノ宮小学校(H23年閉校!?)前の府道26号【山陰道のR9と綾部街道の R173を結ぶ】交差点を東に渡れば郵便局前・東側の高屋川を越えれば R173号の信号機付きの交差点。南への国道側の丘陵裾は ブロック・フエンス・土砂崩れ対策の砂防壁が続く様なので取付き点は・おのずと西〜北面に廻りながら進入口を求めます。
曲輪3から主曲輪に入る石積虎口と曲輪2(右手上)

幸い交差点から直ぐ、山裾を通る細い車道から植林管理用か?ピンクのテープを見つけると急斜面ながら・たいした苦労もなく城域末端を捲く様な曲輪に着く。南側の国道沿いに登るほうが藪も薄く感じられるが、何処から通じるのか南側から 登って来る踏み跡もある。
三ノ宮東城主曲輪北東端の櫓台土塁の石積と礎石建物跡(手前)

とはいえ曲輪内も藪に中で曲輪の平坦地形・切岸・竪堀等の判断が、なんとか見透かせる程度!!。それでも広い主郭の北端にある 土塁の盛上りと、背後の尾根続きを遮断する堀切は主郭側に7m程の崖状に急峻な切岸と土塁を挟んでの二重堀切で、城の背後を防備しています。(H23年再訪)三ノ宮東城は国土交通省による丹波綾部道路の建設工事に伴う
主郭櫓台土塁側の石積遺構と石段(右端)

事前調査中だが11月中旬頃には 道路工事が着手されるとのことで、先日(H23・10・16)発掘調査の現地説明会が実施された・・・が所要で行けなかったが、 あの藪中に探してみても見つかる筈もない?埋もれていた城遺構の数々を知るに及んで”矢も楯も堪らず”出掛けてきた。前回の訪城でアチコチに見かけたピンクのテープが細い雑木にも付けられていたので、
主郭櫓台から南西側:半地下式?貯蔵蔵(右)と礎石建物跡(右端は三宮城)

営林用(切出し用 )等のものではなく、事前発掘調査用だったか。またR173号線の郵便局・JA側の空き地は調査事務・作業用プレハブ棟が建てられていたが、三ノ宮東城の山麓の小屋と広い工事車専用駐車スペースも、既に東城の北側丘陵部は道路関連工事の様で先行開鑿中だった様だ。しかし此の三宮東城は城域100m足らずの中小規模だが、 虎口を初めとして通路の要所には石列や石段・石積が築かれ畝状の竪堀群・
曲輪6(南末端)から曲輪2南面の竪堀群

岩に穿かれた柱穴・五ヶ所程には礎石建物跡・貯蔵穴・主郭の大堀切と堀切を挟む外側土塁は無論だが、主郭東南面切岸沿いには 石列が櫓台土塁まで続く。小振りの石なので土留・低土塁固めに使用されたものか。 北東端の大堀切側の櫓台土塁へは石積補強された通路を利用したものか。石列と石積部分の間には北東(堀切側)から主曲輪に入る石段が4-5段検出されていた。勿論主郭側は崩れているが 切岸は石積で2-4層の残石が往時の威容を留めています。
曲輪2から曲輪6(南末端)側の竪堀群と竪土塁

発掘調査続行中の城址見学後、調査作業プレハブ棟内の出土品や発掘調査現説用に使用されていた復元図を見せてもらったが、 地表面観察だけでは判らない建物跡等の柱穴・礎石や竪堀・配水溝・石積の遺構や、出土遺物から室町時代後期(16世紀前半)に築城されたものと推定されています。 曲輪3から石積通路が此の主郭南西側へ回り込んで入る虎口となっているが、随分と幅広く石積も有り 隅櫓から続く虎口門(潜門?)か木戸が設けられていたのかも・・!?。南端から曲輪5へ入る幅約1m程の狭い通路口の急な山側斜面には態々岩盤を刳り貫いた3本の柱穴がある。
曲輪群北端切岸下から櫓台土塁・堀切(左上端)へ並ぶ段曲輪!?

通路外側なら塀・矢来を考えるが、内側なので安定した足場と急斜面を利用して、物見や警護の桟敷状施設が在ったと考えられています。主郭南端の東半面・突出し麓を走る街道筋を見渡せる位置に 有る礎石建物跡(約6X4m)は隅櫓だったか。曲輪3から石積通路が此の主郭南西側へ回り込んで入る虎口となっているが、 随分と幅広く石積も有り隅櫓から続く虎口門(潜門?)か木戸が設けられていたのかも・・!?。
曲輪3から北斜面下の曲輪群?

主郭<15X45m>には3棟の礎石建物跡が検出されているが、一辺8mの正方形建物が城主の館。此の礎石建物が寺院等ではなく山城に見られたことでも、大名クラスが治めた重要な城しかない遺構であり、岩盤を削ってのかなり丁寧な作造からも大名の家臣が普段から城に詰め、 見回りに来る上級家臣を迎えていたのではないか・・・村田修三氏のコメントは現場説明会以前に
曲輪3の石塁・配水溝・土塁

調査中に訪れた知人からも聞いていたが、日常食器類の出土遺物からは少人数ながら留守将等が常駐していた城。眼下を何鹿郡<綾部市>へと綾部街道(R173)が、府道26号を西へ抜ければ天田郡<福知山市>山陰街道(R9号)を結ぶ。山陰道(R9と)綾部街道 (R173)は南約6km程の地点で交差し、山陰道は丹波町から亀岡市へ、綾部街道は篠山市で京街道・能勢街道に繋ぐ要衝です。
曲輪3・2から主郭虎口に至る石積の通路

此れ等街道筋を使用し・京都丹波に深く関わる武将として、八木城の内藤氏(守護代)や丹波を制圧して守護となった 明智光秀が先ず浮かぶ。綾部街道を挟んで山内氏の三ノ宮城が在るが、三ノ宮城より後期の築造ながら 新城としての伝承等も残らず詳細不明だが山内氏関連の城とは思えない?。
主曲輪:櫓台の石積大土塁

現地説明資料(H23・10・16)に記載は無いが調査範囲内には伐採された曲輪5 ・4・3切岸北斜面下方の地表面に、曲輪1(主郭 ) 西北切岸下を櫓台土塁側の大堀切へ斜上する幅広い傾斜面があり、幾段もの小曲輪が連続している様に観える。堀切に通じる斜面上に曲輪が在る事は、堀切に面した曲輪端からの”横矢掛け”ならまだしも、 侵攻通路を塞ぐ為とは思えない?。時代や状況に因っては戦禍を逃れて避難する領民を匿う施設なのか?、街道筋からは判らない(見えない )城背後の谷側斜面を回り込むように張り付いており、 駐屯兵か出撃を待つ武者溜り・・・の様にも思えたが?。
(三ノ宮東城発掘調査現地説明:京都府埋蔵文化財調査研究センター 等参照)


井脇城(瀧谷の城)    xxx山! Ca300m   船井郡京丹波町(旧瑞穂町)井脇井壁谷・瀧谷

三ノ宮東城の現地説明会資料に9城の分布位置が示されており、 八幡山城と井脇城以外は訪城済だったので帰路途中にあるR173号の高屋川沿い井脇城址に向かった。 この城は昨年(H22年)丹波綾部道路建設に伴う事前調査では京丹波町では 発掘調査に最初に着手された城のようですが、城址の存在は地元で”瀧谷の城”とも呼ばれ、W氏・T氏等の個人研究調査により
公民館付近からの井脇城主郭・発掘調査されたA地区は右端尾根上だった!!

数ヶ所に曲輪・土塁・堀切が確認されている城です。 元々は京都丹波・兵庫丹波を一つの丹波として共同で歴史・民俗・文化財等の研究・研修等活動していた筈の会が丹波史談会 (京都丹波)と丹波史懇話会 (丹波市・篠山市)に分かれて(経緯は知らないが)以降、 懇話会は高齢化もあってか活動が低迷するなか、史談会の山城等の活動 ・報告を羨ましくも感じるが会報等の報告・レポートを丹波市等?の図書館で拝読出来なくなったのは痛い!!…。
主郭西端のニノ曲輪!?低土塁と埋もれ浅い堀切

さて三ノ宮東城を最後に発掘調査を終了してH23年11月中旬過ぎには道路建設工事により壊滅か?・更には消滅の運命にあるらしい !!?…文化遺産が造成等の工事により発見され、詳細に調査され解明され・刹那的に”陽の目”を見て記録に残されるだけで、 多くの人には記憶にも残らないまま!!?取返しのつかない”消滅の憂き目”を見る多くの事例に言葉もないが・存在さえ知られず消え去る遺構も多いのでしょうね?。
主郭西端の土塁虎口?とニノ曲輪!?

此れが文明社会の現実なのかも。昨年(H22年)現地説明資料等の情報を知らず、文頭の資料による分布図から井脇城の位置が分かったが、訪城後に知った井脇城発掘調査現説資料に大部分を解説されている肝心A地区【尾根筋の頂部Ca270mの三方をコの字形に低土塁(幅約2m弱・高さも70cm弱)が囲む方形の曲輪(16X18m)があり、主郭を防御する出丸・見張所の存在に気付かず未確認(地形図から判断してトレースすべき尾根だったが!!)、
井脇城主郭部:ニノ曲輪から主曲輪へ低土塁が開く段差(虎口?)を入る

城址最高地点?だけが井脇城遺構と思い井脇地区から府道447号線に入って直ぐの井脇公民館から西裏手 ・集落南山裾沿いの地区道を進み、民家が途切れる・枝尾根に挟まれた小谷の南西尾根先に地蔵尊を祀る小祠から 尾根に向かい斜上する山道(個人墓らしい小さな墓地への参道)を伝って其のC地区となる中央施設(主郭)に向かった。
主曲輪北東角の切岸と北面を囲む低土塁

此の尾根筋も平坦で緩斜・途中には段曲輪状や、主郭部の尾根近くには浅い土橋状(踏み固められた道筋の外が雨等で 崩れ残ったものか)の自然地形を見る。尾根に出て直ぐ浅い堀切を越えると、曲輪を低いが長い土塁が北面の切岸沿いに延びる。 段差1m程も無い低い主郭部本丸!!?にも低い土塁の切れ目(虎口?)を入る。此の本丸も北面を低土塁が囲っているようだが、雑木薮の中で全容・状況を把握し難い。北と東面の切岸一段下には腰曲輪が備わる。
井脇城主曲輪:北尾根側の切岸

更に北への枝尾根上は高い切岸を下って 段曲輪が並ぶ様だが、詰め上がってきた南尾根同様に自然地形なのかも?。現状からも昨年発掘調査された場所ではなく、道路建設用地となっているのがA地区の様で、改めてしかも早いうちに調査報告されている A地区を再訪する必要が有りそうです。井脇城はR173号(綾部街道)沿いの京丹波町井脇地区に在る山城で、 建物跡は無かった様ですが出土した室町時代後期の土器類の破片からも三ノ宮東城と同時期の築造とされ三ノ宮東城の南口を防備する支城か見張の砦だったと思われます。
主郭北面の主曲輪と腰曲輪の切岸

築城時期・城主等は不明ですが、高屋川沿いに北に三ノ宮城 ・三ノ宮東城や南には和田城・垣内城・橋爪城が望める位置に有り、南山麓の府道477号は綾部街道(R173)と山陰道(R9)を約3km程で繋ぐ間道が通じます。発掘調査された城域の他 ・此の間道を見下ろす真南の尾根筋にも街道監視の曲輪が有るのかも。地図に鳥居マークの見える神社からも見逃したA地区同様にトレースしてみる必要が有りそうに思われる。
(井脇城発掘調査現地説明Web資料2011年6月:京都府埋蔵文化財調査研究センターを参照)


豊田城(谷城)   清水山? 263m   京都府船井郡京丹波町 (丹波町)豊田字谷

篠山からはR173号で板坂峠を下り R9号線からR27号線へ抜ける府道446号(豊田富田線)へと、豊田の交差点を左折して豊田地区内の府道を東へ進むと、北側(左手)に低丘陵が地区の背後に迫る。前方に円錐状の似たような高さと 容の二つの山が並んで見える。
泉谷寺背山の豊田城


東奥の方に見える綺麗な富士形の丘陵上に城遺構の残る豊田城(谷城)が在り、城山を背にして山麓に
鳳尾山泉谷寺(曹洞宗 本尊:如意輪観音)が建つ。船井郡三十三ヶ所観音霊場第六番札所で札所観音の十一面千手観世音菩薩立像は 丹波町指定文化財(平成7年3月31日)となっているが、 旧清水山(せいずいざん)西王寺(廃寺)の仏像で、
愛宕社を祀る西の峰

薬師堂・観音堂は廃寺となった西王寺から移築されているともいわれます。平安時代の創建とされる西王寺は、豊田愛宕山の南山麓に広大な伽藍を有していたが、室町時代に焼失したといわれます。 丹波町は須知氏の地:豊田城も 市森城(須知城)の支城となっていたものか?。延徳元年(1489)山城国一揆では丹波守護・細川氏に不満を持っていた須知氏が畠山政長の被官:荒川民部丞に攻められて一時没落します。
広大な平坦地形に土塁囲み愛宕社を祀るだけ?の西の峰山上部

天正年中 (1573-92)”丹波攻略”による明智光秀の京丹波攻めの頃の須知氏は早くから織田信長方に協力的で ”丹波攻め”では明智方についたいたと思われます。須知元秀は八上城・波多野氏についた義父・内藤備前守と戦ったが矢傷を受けて、数日後に死亡したといわれますので、瑞穂町側の八田・和田方面からの 波多野氏勢による須知城攻めの際・支城の豊田城も攻められた際の兵火によるものか?。
豊田城:帯曲輪の二段目から一段目に上がる平入の虎口

その後樋口信濃守定光の発願により、玉雲寺十世太清玄智和尚(曹洞宗)を開山に現:鳳尾山泉谷寺が建立され、 本尊の如意輪観音・西王寺の十一面千手観世音菩薩立像は、共に泉谷寺本堂 内に安置されています。京都府船井郡誌では城名や其の歴史について何も得られなかったが・・!!?「瑞穂町誌」に坂井城や「丹波町誌」には豊田城が載っているのかも知れません(町誌未確認)。
登城口の泉谷寺:周囲は屋敷跡か?・旧山西王寺の伽藍跡か?

城主や築城時期等の城史不明ですが、樋口氏に所縁のある氏族だったのでしょうか?豊田集落内を通る府道446号から北へ入ると「ふれあいセンター」と道を挟んで大師堂?が建つ。お堂の横の立つ燈篭に彫られた観音堂が現:泉谷寺の観音堂を指すのか北に真直ぐ丘陵に向う山道 (参道)!!?奥にあり、荒れるに任せて放置されている社なのかは知らないが・・・。
豊田城:副郭(西郭)から主郭と上り土塁虎口

此の参道入口に「日置流卯西派・竹下正邦先生碑」と彫られた石碑が立つ。武芸の弓術・・・!!、 つい先程は寄り道して、車塚古墳に行き・途中に武家屋敷か?(おそらく此の地の大庄屋か旧豪商の長屋門 )を見てきたばかり。比高も僅かなので 二つ並んだ富士型丘陵の一つ目に向う。廃社の左右に墓地跡とも思えない数段の平坦地が有って屋敷跡では ?と思うが、丘陵上にも祠が在り参道 (山道)が続くが、
豊田城:主郭

途中に鉱山採鉱跡の手掘りの 抗口も在って鉱山採石・加工・運搬作業施設跡か城遺構なのかどうかも怪しくなってくる。丘陵上の南には低土塁が三方を囲む愛宕社が祀られていた。幅広い尾根筋に広大な平坦地が拡がるが、自然地形の緩斜面・最高地点は土壇状に盛り上がって見える盛土上に桧?が一本生えているだけ。
副郭から主郭への上り土塁虎口

旧西王寺の奥の院が在った所か?。話が前後するが豊田城に比べても余りに城遺構が感じられない。改変されているにしても曲輪を区切るもの・切岸・その他何も無い?。緩やかな尾根が延びていくが、豊田城からの尾根と合流して、更に後方にあるCa300m最高ピークの方が山陰道(R9号線)監視も兼ねた城跡の気配を感じるのですが ・・どうだろうか?。
副郭の中程に有る二つの井戸跡とも思える水を湛えた穴?が有る

もう一つの富士型丘陵:本命の豊田城に向う為、ふれあいセンター前の大師堂?前に降り、集落区の道を東方の泉谷寺へと進みます。背山へは泉谷禅寺山門石柱の右手から山道に入る。谷間に位置する泉谷寺周囲の山裾に幾段もの平坦地が在って、中には高い段差を持つ平坦地形もあるが、 広大な堂宇・伽藍が立ち並んでいた旧西王寺の跡なのか豊田城主等の屋敷跡か?は郷土誌史や調査を待つ必要がありそうです。
副郭南側の土塁・空掘が西端に延びる

南尾根筋を詰め上がっていくと露岩が目立ってくると目の前に小曲輪がある。越えると ・主郭を二段に捲く帯曲輪の二段目から平入虎口が斜上して帯曲輪の一段目に入る。 目前に切岸は高くないが綺麗な壇上の最高地点にある主郭だが、土塁・櫓台状の遺構は無さそう・・!!。北西下段の方形副郭とは上り土塁で繋ぎ、南面に空掘状・西端は土塁で固めています。
城域の西尾根鞍部の堀切道?を泉谷寺に下る

副郭中程には 水を湛える深さ不明の小さな池?(井戸か・穴?)が二つ並んで有る。尾根筋を少し下れば浅い片堀切?(堀切道か)で、緩斜面を西下へ下れば泉谷寺裏に出る。城域も狭くスケール感には劣る単郭の小さな城ながら、 見るべき遺構や其の残存状態は良好です。
(現地:泉谷寺の十一面千手観世音菩薩立像/丹波町教育委員会説明板 を参照)


車塚古墳   丹波町字豊田

R9号線からR27号線へ抜ける府道446号(豊田富田線)へ豊田の交差点を左折する。 入って直ぐ北側(左手)に低丘陵が地区の背後に迫る。豊田地区の府道を東に抜け出る集落内には、屋根こそ茅葺から瓦屋根に葺き替えられているが石垣塀に環濠を廻し、
豊田地区内の長屋門

物見窓を備えた武家屋敷とも思えた長屋門 ?(出入り口が二箇所あるところから ・おそらくは土地の大庄屋か豪農あるいは豪商の旧家の長屋門。 門前にロープが張られたプラ・コーンが並んでいる様子からは、改修より取壊されるのかも・・!!?集落内民家の東端・此処から前方には田園風景が拡がるところ府道南側に塚をみる。
豊田地区内の長屋門

此れが車塚古墳で・古墳の案内説明板が立つ。 北側の丘陵尾根東端の峰上には是から訪れる豊田城跡(詳細不詳)が在りました。
車塚古墳は【前方後円墳:墳長 31.5m・後円部径 19.3m・高さ 4.5m・前方部幅7.2m ・高さ 1.5m】古墳時代中期(5世紀頃)此の地を支配していた豪族の墳墓として築造され 「車塚」と呼ばれる丹波町指定文化財(平成7年3月31日指定)の古墳です。
車塚古墳

古墳の上には明治初期までケヤキの大木が有って里人から「鬼門の森」と呼ばれ、怖れられ昔の形のままで保存されたものといい、大きな古墳の在るうことから、 古くより村が開け、農耕生活が営まれていたと思われ古代丹波の成り立ちを考えるうえでも、貴重な歴史的文化遺産である・・・と。上記の全景画像を撮った位置から望む豊田城跡は西から望む姿とは異なり 緩やかな山容を見せています。
(現地:車塚古墳/丹波町教育委員会説明板 を参照)
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