「太閤道」から天王山へ 金竜寺跡〜若山〜若山神社〜離宮八幡〜天王山(山崎城)
大坂・京都 高槻から京都西山 (五万図=京都西南部)
若山(太閤道)〜西国街道〜天王山 (秀吉の道) 2003年12月18日

近畿の山城 : 山崎城(天王山城・鳥取尾山城)
校歌・故郷の山島本第一中学 ♪・・天王山に立つ雲の・・・♪
          島本町第四小 ♪・・見上げてみれば天王山・・♪
校歌・故郷の山
大山崎中学校♪・・・天王山に こだまして…♪
京大農場附近から梶原山〜若山の山塊

明智光秀により[本能寺の変]において主君・織田信長の訃報を聞いた豊臣(羽柴)秀吉が、急ぎ京を目指した「中国大返し」では、山崎の地で明智軍し合戦に及ぶが、秀吉の辿った「太閤道」に金龍寺跡の遺構や、北摂随一の展望台にも立ち寄ります。前回は高槻駅から北と南に向ったが、東に「八丁松原」を見残しているので此処から先述の太閤道コースの低山を縦走して、西国街道に出て天王山に至る山と歴史を廻る初冬の山旅です。歴史スポット!!?は索引として「近畿の山城」の後に訪ねた順に記述します。


「太閤道」から「秀吉の道」へ 若山〜西国街道〜天王山  H15.12.18

高槻駅(AM10:50)から5分程で東の八丁松原へ出て八丁畷を北へと車道を進んだが、 ハイキングコースへは更に阪急沿線沿いに進んで名神高速道路を目指してください。私はこのまま北への道を直進しJRを跨ぐ陸橋から、 目指す太閤道が通じる若山(3等三角点)の緩やかな丘陵を望み明石本町の高台に向います。名神高速道路の直ぐ南にあり、明石本町と紅茸町境にある高槻市立第八中学校の正門前に 紅茸山遺跡の案内板が建っています。
金龍寺跡・本堂下の参道

学校前の 坂道を下って本来の?ハイキングコースのプロローグ!!・名神高速道路の高架を潜れば登山口の磐手橋バス停(AM11:25)は直ぐです。4年前と寸分変わらない!!風景が拡がります。 案内板は完備していますので金龍寺跡を目指します。 ただ最初の分岐は 橋を渡って〇△電測器会社の敷地横を抜けると 正面の落葉の続く坂道に「太閤道・金龍寺」の標示板がありますよ。谷に沿った道に滝音が聞こえてくると三好大明神(AM11:30)の祠がある滝の行場に着きます。 谷の行場を左手に捲き上がり落葉を踏み締める足音と瀬音だけが聞こえ静かな水平道に「白馬石」がある。高槻での三好姓や白馬石には何か伝承がありそうです。参道の十一丁石附近前後には石段が残され上部がまったいらな「座禅石」を見る頃には金龍寺も近く参道脇に続く石積の先には庭池があり石階段を登ると 金龍寺本堂跡(AM11:50)の広い境内の削平地に出る。
「太閤道」磐手橋の登山口

水を湛えた池の側には瓦の残片もみられた。導標に従って金龍寺跡を後にして山道に入るが尾根に出ても起伏の少ない緩やかな雑木の散歩道が続きますが、淀川線や西京都線等の送電線が走る稜上の道は 「火の用心」標識の巡視路の他にも、 何処に向うのか行先の書かれない矢印やテープ類の枝道がやたら目に付きます。コースから少し外れるが「北攝一の展望地」の標識に騙されて寄って見ます。案の定 ・ススキや雑木に展望は遮られますが、何面に180度の展望です。 西に 流れる淀川に沿って東へ転じれば此れから向う 天王山麓の大山崎側には木津川、宇治川、桂川の三川合流の珍しい景観が見られます。登山道へ戻り関電の反射板を過ぎると若山(3等三角点 316m PM12:20)が登山道脇の藪の中にありますが標示が無ければ 素通りしてしまいそうです。
桂川を隔てて天王山を望む

展望の範囲は狭くなるが私は此の先、 三角点峰・若山から下って林道に出た所からの三川合流の景色が好きだ。巡視専用車道を新大阪ゴルフ倶楽部の見える四辻(今は?T字辻)の川久保分岐(PM12:35)に降り立つが、 若山神社への道が有名な??!!「馬の背曲がり坂 」で滑りやすそうな粘土質の急坂が暫らく続きます。ゴルフ場敷地のフェンス沿いに長く続く下り坂は秀吉方の武将が、強行軍の疲れから此処で落馬した事恥ずかしさから切腹して果てたという話が伝わりますが、 実際は秀吉が通った道では無いのでしょうが山崎に先行していた明智光秀軍を挟み込むように天王山を目指した一軍が 通った道ではあったのでしょう・・・・・!! 一向に治まらない急坂が途切れた所が若山神社の「太閤道」登山口です(PM1:00)。
「太閤道」コース・若宮の三角点

水無瀬川に沿って西国街道へ出て水無瀬神宮により山崎八幡宮(PM1:40)を経て 天王山のハイキングコースに向います。 天王山山頂までは「秀吉の道」歴史ハイキング道として、道々に建てられた陶板画が秀吉の天下取り物語を解説してくれますので、天王山合戦絵巻(日本画家・ 岩井弘)と解説 (作家・堺屋太一)の「陶板画めぐり」だけでも楽しめそうです!!。 天王山ハイキングコース「秀吉の道」は登山口の山崎宗鑑冷泉庵跡から宝積寺(ほうしゃくじ PM1:55)を経て、山崎の合戦布陣図付きの案内板があり、 それらが一望できる展望台のある「旗立松」までは、 ハイキング道として整備されてはいますが結構キツイ登りです。 酒解神社の鳥居が立ち山崎城の城域に入り、直ぐに削平地と土塁遺構が見られます。 山崎合戦後にも天王山を舞台に戦いがあって、尊王攘夷派の 烈士17人が無念の自刃をしています。
「旗立場」の展望台から山崎合戦主戦場を望む

天守台があつたという 天王山山頂(270m PM2:20〜40)から周囲の曲輪を順次廻って井戸跡や土塁、南下の竹薮に隠れた石垣遺構を確認していると時間も遅くなり 小倉神社へ向う竹林の道を進む。この辺りも家臣団の居住したと思える削平地が多い。 十方山(点名:天王3等三角点304m)や水無瀬滝方面への尾根を分けて(PM3:00)小倉神社(PM3:18)へ降りてきた。 阪急長岡天神と大山崎駅の中間点なので、も少し時間に余裕があれば"佐野さん"から先日メールで 問合せのあった長岡天神駅近くの開田(かいでん)城へ寄ってみたかったが、 カメラのバッテリーも切れてしまい小倉神社の写真も撮れないまま帰途についた。


 山崎城(鳥取尾山城・天王山宝寺城)

山崎城(天王山宝寺城・鳥取尾山城・財寺(たからでら)城) 天王山270m  京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王山  (国指定史跡)

摂津と京都の国境にあって眼下に山陽道(西国街道)が通じ、桂川・宇治川・木津川と三つの川が合流して淀川となる地点は、 最も山が迫る狭路にあって摂津国から入京する入口を扼(おさ)える要衝の地・山崎の背山にあって北摂・京都西山の最南端の(旧・八王寺山)天王山山頂に(旧・鳥取尾城 )山崎城があり、南北朝期の初め・建武5年(延元3 1338)播磨守護赤松則村の子・則祐が山崎警護の為1ヶ月程拠っていたといわれます。
天王山山頂天守閣は三角点標の位置か!

その後・摂津守護赤松範資が三川(木津川、宇治川、桂川)合流地点を挟んで天王山と対峙する男山城(八幡城)に篭城する北畠顕信に 呼応する摂津の南朝方から京都を防禦する為、宝寺城を築城して以降も度々、 軍事的に重視されてきました。 応仁の乱(応仁元年1467〜文明9年1477)の頃には山城守護・山名是豊が畠山義就や大内政弘らに対抗するべく修築したと推定されています。
天王山山頂天守閣は三角点標の位置か!!

天王山山麓の山崎八幡(離宮八幡)には油座があり、油の専売権を持ち山崎八幡の許可なしで 油の売買は出来なかった。その油神人(じにん)が一方では武士団として、京都の権力者の要請でしばしば派兵したようです。 山崎の地は此処から全国へ油商人が出かけますが、油売り商「山崎屋」から稲葉山城主となり 美濃を統一した斎藤道三の所縁の地でもありました。さて要衝の地は軍事拠点としても重要で且つ要害だった天王山の城は、豊臣秀吉VS明智光秀「天下分け目の合戦」舞台となって知られるところとなりました。天正10年(1582)「本能寺の変」明智光秀によって織田信長と、二条城に居た長男の信忠が共に討たれた。 織田方の諸将は強敵 ・毛利方を攻めて遠くに居てすぐには動けない、古い伝統を尊ぶ武将や寺院が立ち上がり、自分を支援してくれると思い込んでいた。
主郭部南・竹薮中に残る石垣T

その間に畿内を制圧するつもりだったが、頼みにしている親戚の細川藤孝や大和郡山城主・筒井順慶の来援もなく、 組下大名たちも離れていったことは光秀にとって大きな誤算となった。備中高松城を攻め陥落寸前だったが、 すぐさま高松城主:清水 宗治・毛利軍との和議を成立させ、驚くべき速さで京都を目指し中国街道を駆け抜けて2日後には約70キロ東の姫路城に戻り【中国大返し】軍備を整えた。秀吉の下した的確な判断と 迅速な行動が天下争覇の勝負を決したといえます。
「山崎の合戦絵図」の陶板画

秀吉と光秀による天下分け目の合戦舞台となったのが大山崎の天王山で此の城と、 対岸の男山を占拠して優位に立っていた明智光秀が、合戦前日に淀・勝龍寺城へ引き下がる消極策をとった為、 天王山を占領した秀吉軍が明智軍の後方に回り込むことに成功し、挟み撃ちの格好となっした。天下分け目の合戦は城ではなく天王山東側の湿地帯で展開され、淀川沿い(高速道路工事中の山崎JC附近か!!??)の戦いで 明智勢は総崩れとなり、日暮れた後には勝負を決し破れた光秀はやむなく勝竜寺城に逃げ込み、 夜が更けるのを待って少数の近臣と共に城を抜け出し近江・坂本城へ向かう途中、山科・小栗栖村で落ち武者狩りの土民の竹槍にかかり「三日天下」に終わったとされるのが通説ですね!!。しかし秀吉は織田信長に代わる 「次の天下人」と期待され、 織田家の家臣の大多数は秀吉の命令に服するようになります。
主郭部南・竹薮中に残る石垣U

これに対して柴田勝家は、滝川一益らと組んで信長の三男の神戸信孝を担ぎ、秀吉の天下取りを阻もうとした。しかし丹羽長秀や池田恒興らと結んで 次男の北畠信雄を取り込んだ秀吉の優位は揺るがず翌・天正11年(1583)4月の賤ケ岳(滋賀県)の合戦で柴田勝家軍に圧勝した秀吉は、天下統一の足掛かりとして此処・山崎城(宝寺城)に入り天王山山頂に城を再構築し天守も造られ たとの記述が残る。同・天正11年には大坂城築城が着手され完成後に移るまで2年足らずで山崎城は廃城となりましたが 此処を本拠に城下町が整備され、千利休も屋敷を構えています。
天王山・井戸曲輪西北の土塁

天王山山頂へはJR山崎駅をスタートして東の「山崎宗鑑冷泉庵跡」石碑の登山口から宝寺(宝積寺)か観音寺を経由して山頂まで遊歩道が整備されていますので 道案内は不要ですが何分にも山城への登りは少々きついと思われます。酒解神社の鳥居付近から宝寺城の城域となり突然土塁の残る広い曲輪に出ます。山頂には本丸・二の丸・土塁の残る井戸曲輪・本丸の 三角点標のある少し高くなっている台地は天守閣の在った跡でしょうか。井戸曲輪の南側へは竹薮の中に数段の曲輪があるが、石垣の遺構が残ります。
(現地案内 山崎の合戦絵巻陶板画解説 参照)


八丁松原 慶安2年(1649)7月・山城国勝龍寺より 高槻城主として移封された永井日向守直清が、 当時京口より西国街道に通じる八丁の間に道路を新設し松数百本が植えられ、明治維新に至るまで永井氏代々によって保護されてきました。 その後・鉄道や道路建設等によって往時の名残を僅かに留めるところとなっていましたが昭和32年(1957)高槻市によって史跡公園として 保勝されることになりました。
八丁松原

紅茸山遺跡  明石本町と紅茸町境にある高槻市立第八中学校の正門前に紅茸山遺跡の案内板が建っています。 名神高速道路を挟んで日吉台から延びる低い台地にあって、中学校建設の際に発掘調査が行なわれ、二世紀後半・弥生時代後期の集落と5〜6世紀の古墳群が発見されています。此処には4家族程が斜面地を移動しながら何度も建て直されており、 その度に捨てられた土器が多数見つかっているようです。
八丁松原

また石斧にかわって鉄製品が普及していたこともわかり、鉄の道具を支えに夏場は平野で米を作り、冬場は山野に鹿や猪を狩って暮らしていたと考えられます。 古墳時代の中頃・この地は別所一帯を治めた豪族の墓地となり、 尾根上からは17基の円墳や方墳が見つかっています。
金龍寺(旧・安満寺) 太閤道の登山口となる磐手橋に金龍寺への導標や金龍寺についての案内板があります。 金龍寺は此処から北北東約2km、低い山並みが続き若山(316m)を最高峰する尾根から西南へ延びる中腹の尾根上に、 邂逅(たまさか)山紫雲院(天台宗・本尊:普賢菩 薩)と号したが、昭和58年(1983)心ない ハイカーの火の不始末から消失してしまいました。延暦9年(790)阿部朝臣兄雄(あべのあそんあにお)が創建し安満寺と称した。 一時衰退したが康保元年(964)千観が入って再建し金龍寺と改称したといいます。
金龍寺参道

千観は延喜18年(918)に生まれ園城寺で天台密教を修業。内供(ないぐ=諸国から十人の名僧を選抜して任ぜられる)に選ばれて、 宮中での仏事に携わる等・栄達の道を歩んでいたが、市聖として民衆に慕われていた空也上人と出会って後、仏法の民衆化を志して金龍寺に入山。日想観(落日の彼方に西方極楽浄土を想う信仰)に適した此の地で、 阿弥陀教を七五調に和訳した「極楽国弥陀和讃」をつくり、
金龍寺の広い境内跡

浄土信仰の拡がりに大きな役割を果たしています。天正年間にキリシタン大名・高山氏の兵火で焼失したが慶長年間(1596-1615)豊臣氏の加護で再建され、江戸時代には千観や能因法師ゆかりの地や 桜の名所としても親しまれました。明治時代以降は本堂の移転や無住化による荒廃・火災によって当時の隆盛は今に残る参道の石段や石垣・礎石によって往時が偲ばれます。
(八丁松原保存会 現地案内石碑: 高槻市教育委員会 現地案内板参照)

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若山神社  大阪府三島郡島本町広瀬

大宝元年(701)僧・行基の創建を伝え祭神に素盞鳴命(すさのおのみこと)を祀り、広瀬・東大寺・桜井・神内地域の氏神として崇敬された若山神社は:社伝に「古木が繁り、鶴が巣を作っている清らな地があり、 其処の巨木で神体を刻んで祀れ」との御託宣を受けて、この巨木で御神体を彫り社殿を建てたとされます。 当社は西八王子社 ・牛頭天王社・ 西天王社・上の宮・広瀬神社とも呼ばれたが明治の神仏分離により若山神社と改称されています。西に対する東八王子社・東天王社は水無瀬川を挟んで対峙する東の天王山にあたりますので、 同じ祭神を祀る「天神八王子社」と呼ばれた酒解神社が該当するのでしょうか。
若山神社

社宝として伝わる聖徳太子七歳の座像は作者不明ですが、貞観時代(859〜77)のもの。神社脇から始まる「太閤道」登山口となる階段側に神社絵図の案内板があるが説明によると、 周辺は秋の紅葉・春は桜の名所としても知られ、境内に聳える42本のツブラジイの林は平成14年1月大阪府の指定天然記念物になっています。
(太閤道登山口 ・若山神社現地案内板 参照)

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水無瀬神宮  大阪府三島郡島本町広瀬3-10-24

若山神社から南下して 旧西国街道に出て来ると、楠公父子の別れで知られる 「桜井の駅」へ600mの案内標識を見るが向う方向が逆なので寄らず、東への道を暫らく進んで西国街道を離れ水無瀬神社に向います。 夏・美味しい水を求めて ポリタンの列が並ぶTVニュースの取材地になるのが此処・水無瀬神宮の「離宮の水」です。淀川の支流で天王山を源とする水無瀬川の伏流水が境内より湧き出す「離宮の水」は昭和60年7月 ・全国名水百選としては大阪府下唯一、環境庁より選ばれています。此処・水無瀬野は風光明媚で、また良い狩場でもあったので 離宮や別荘が建てられ、鎌倉時代初期には 後鳥羽上皇が此処に離宮【水無瀬殿「寛永8年(1631)焼失」】 を造営されました。
水無瀬神宮

鎌倉幕府打倒の挙兵「承久の乱」で敗れた後鳥羽上皇は隠岐島へ流され、其処で亡くなりましたがその霊を弔うため、生前愛された水無瀬離宮の跡に建てられた 御影堂がはじまりと伝えられています。似絵(にせえ)の名手・藤原信実に後鳥羽天皇像(国宝)や豊臣秀吉が家臣・福島正則に造営を命じ寄進したと客殿(国指定重要文化財)や後水尾天皇が愛好された茶室「燈心亭」 (国指定重要文化財)が伝えられています。
(現地案内板 参照)
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離宮八幡宮(山崎八幡宮)と山崎 (河陽)国府跡

水無瀬神宮から西国街道に戻ると旧街道筋の面影を残す大きな旧家を見かけます。 JR山崎駅近くの丁字交差点に由緒有りげな神社が・・・!!その筈です。平安時代・嵯峨天皇の河陽 (かや)離宮の跡に貞観元年(859) 清和天皇の勅命で奈良大安寺の僧行教が、九州宇佐から宇佐八幡を勧請し、鎮座したのが始まり奈良大安寺の僧行教が、九州・宇佐八幡を勧請して 鎮座したのが始まりの離宮八幡宮 (山崎八幡宮)です。 惣門は寛永12年(1635)に徳川家光によって再建されたもので大山崎町の指定文化財になっています。 祭神に応神天皇・酒解大神・端津姫命・田心姫命・市杵島姫命を祀る 離宮八幡は河陽離宮跡で山城国府が置かれた所といわれます。
山崎国府跡

山城国府は何度か移転しており奈良時代は相楽郡山城町・平安時代には京都・太秦(西京極)附近に移転・延暦16年 (797)長岡京附近を経て、貞観3年(861)此の地に移されたものと考えられますが場所は確定されていないので社殿の横に石碑や、西国街道沿いの山崎八幡宮東に案内板が建てられています。離宮八幡は 「油座」の本所があって油の宮としても隆盛を極め、胡麻油や魚油等、燈油の独占的販売権を持った山崎八幡宮の許可無しで油の売買が出来ない程に権威があり、此処から全国へと油商人が出かけていった。 その油神人(じにん)が一方では武士団を組織して京都の権力者の要請でしばしば派兵したようです。秀吉が城下町を整備する以前から西国街道の要衝にあって油座があり、地方政庁の国府が置かれ繁栄していた 大山崎の姿が少し見えてくれば・・・・幕末に長州軍の屯所となっていた社殿ですが元治元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)で焼失し、現社殿は昭和4年(1929)に再建されています。
(大山崎教育委員会・離宮八幡宮現地案内板等 参照)


山崎宗鑑冷泉庵跡

JR山崎駅東側の踏切を渡った所が宝寺を経て天王山への登り口に宗鑑の石碑があって、此処からは見上げるばかりの急坂を登ることになります。山崎宗鑑(本名:範重)は寛正6年(1465)滋賀県栗太郡常盤村志那 の生まれで、 彼の家は志那地区を支配した支那氏で将軍足利義尚に一族で仕えていたが、 将軍義尚が佐々木高頼との合戦に敗れたため、世の無情を感じて剃髪し入道となって生地を離れ大山崎に隠棲して山崎宗鑑を名のります。

八幡宮社頭で月例会として開かれていた連歌会の指導や、 彼が此処・観音堂霊泉庵で連歌講を主催しており俳諧独立の祖といわれます。世に知られた『犬筑波集』の編者として、また書も宗鑑流として人々から珍重されたといいます。句碑には代表作 【うつききてねぶとに鳴や郭公(ほととぎす)】が彫られています。



宝積寺(宝寺)

山崎宗鑑の石碑の側からは見上げるばかりの急坂を登り詰めると銭原山寶寺【宝積寺(ほうしゃくじ)】の仁王門に行き着きます。 金剛カ士像は鎌倉時代の作で重要文化財に指定されています。行基菩薩の建立とされている古刹ですが、童話・一寸法師の「打出の小槌」伝説が伝わっています。 一寸法師が京都へのぼるのに、あの淀川を「お椀の舟と箸の櫂(かい)」で遡る途中、 山崎で降りて宝寺で修行したというのですが、一寸法師にとっては宝寺に辿り着くまでが大変な修行だったと思われます・・・(~0~)
宝寺の崎三重の塔

宝積寺(真言宗智山派)は智積院の末寺で養老7年 (723)聖武帝がまだ文武帝の太子の時、夢に龍神が現れ打出小槌を遣わされ75日後に、元正天皇の御譲を受けて神亀元年に聖武天皇に即位されたとき、天王山の中腹に行基菩薩を開基に寺を創建 ・打出小槌を御神器をして奉納され宝積寺、宝寺と称するようになりました。天正10年(1582)の山崎合戦では羽柴秀吉が宝寺を本陣とし、その後1年余り此処に留まっています。母屋造本瓦葺きで慶長11年 (1606)改築された桃山風の彫刻を持つ三重塔(桃山時代・重要文化財)は「豊公一夜の塔」といわれ、織田信長の弔合戦となった山崎の合戦で勝利した秀吉が、織田信長の霊位を弔うと共に毘沙門天の加護による 戦勝に対して一夜のうちに建てて礼を尽くしたと伝えられます。元治元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)には尊王撰夷派・真木和泉守とその同志の本陣となったが、敗れた真木和泉守等十七烈士は 天王山山中にて自刃します(下記・17烈士墓を参照)。


酒解神社【自玉手祭来(たまてよりまつりきたる)酒解神社】

急坂を喘ぎ登ってくると「酒解神社」の扁額が掛かる大きな石の鳥居が建っている。此処には展望台もあって「山崎合戦」の布陣を見ながら各陣営を俯瞰出来るようになっているのですが??桂川や宇治川 ・木津の三つの大きな流れが川の字に寄り集まって来る眼下の様子に想像を逞しくしてみてください。 ただし激戦地は此処から見えない南面の高速道路工事が進む山崎JC附近のようですが・・・そして此処には秀吉の存在を誇示する千成瓢箪の馬印が立てられたのでしょう。その旗をたてた「旗立松」(当時のものは枯れ現在 5〜6代目)が有り、 山崎合戦の旧蹟を示す石碑も建てられています。
酒解神社鳥居と合戦絵図の説明板

奈良時代の創建で神名帳によると旧名を山崎社と称し、元正天皇の養老元年(717)建立の棟札があったといわれます。また延喜式では月次、新嘗祭を受ける名神大社であることが記されています。 中世には山下の離宮八幡宮の勢力が強大となり、同社は山崎山(天王山)上に遷座し、山上の神「天神八王子社」はやがて天王社と呼び、山も天王山と呼ばれるようになったといいます。祭神に酒解神・素戔鳴命 (すさのおのみこと)他九柱を祀り、例祭の5月5日には神輿が山麓迄練り降りてきますが、その神輿庫が非常に珍しく一般によく用いられる正倉院の様な三角形の校倉形式ではなく、厚さ約14cmの厚板を積み上げて 建立した板倉形式と呼ばれるもので、切り妻造りの本瓦葺きの板校倉の遺構は非常に少なく、奈良・春日大社にあるものが唯一ですが江戸時代のもので、現存する板倉としては此の神輿庫が最も古く貴重なものとして 重文に指定されています。
(天王山ハイキングコース・現地案内板 参照)


十七烈士墓 (維新の史跡)
山崎の合戦以降にも此処・天王山を舞台の戦いがあり尊王の烈士17人の無念の自刃の後、明治維新を迎えます。 幕末・文久3年(1863)8月政変で王政復古の運動を推進した長州藩や、 尊皇攘夷派の公卿達は共に薩摩藩・会津藩の公武合体派に排除された。三条実美以下七卿(三条西季知・東久世通禧・四条隆謌・壬生基修・錦小路頼徳・沢宣嘉)は 長州藩兵に守られながら京都を脱出し、 竹田街道を伏見へと逃れます。このとき筑後水天宮神官・真木和泉守初め尊皇攘夷派の志士達は、 長州藩の京都回復運動に同調し「清側義軍」を編成して元治元年(1864)夏・長州藩軍兵と共に上京し、 此処山崎に布陣した【禁門の変・蛤御門の変】。その強硬な上京軍に対し幕府側は此れを追討することを決した。

上京軍は伏見の長州藩邸を本陣に嵯峨天竜寺及び山崎の天王山の三方から進撃を開始し島津・会津・桑名藩が警護する御所の幕府軍との激戦は、長州側上京軍が京都御所の蛤御門・堺町御門において敗れ退却を余儀なくされた。 激戦地から此処・山崎に退いて長州藩主力兵の国元引き揚げを見送った真木和泉守 ・久坂玄瑞・宍戸左馬介・寺島忠三郎ら十七名は宝積寺で休み翌日天王山に登り、幕府の追討軍の来襲を前に、烈士そろってこの地で自刃し果てた。 その直後・敗兵掃討の兵火に大山崎の離宮八幡・神宮寺等社寺、民家200余戸が焼失しています。十七烈士は今日、その志を偲ぶ人々の手によって祀られ毎年墓前祭が挙行されています。
(天王山十七烈士奉賛会の現地案内板 参照)
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