京都・丹波町の山城畑城・須知(市森)城・上野城・上野砦
山域:京都丹波 (地図 五万図=園部)
中畑城/琴滝〜須知城(市森城)/上野城 2004年12月27日
近畿の山城 : 中畑城 須知城(市森城) 上野城
         玉雲寺と琴滝
校歌の山 丹波ひかり小学校 ♪丹波の丘に緑映え 美女の山を 仰ぎ見て・・・♪
須知城本ノ丸から望む美女山

氷上郡が丹波市(H16.11)として発足した。全国的に兵庫丹波は篠山が代表!?、名産・丹波栗の生産高は京都丹波の方が多い。京都から老ノ坂を越せば既に丹波の地・丹波市の名をおこがましく感じながら、京都府の中央部に位置する丹波町を訪ねます。美女には振られたが(雨で美女山を撤退)織豊系の素晴らしい縄張りが残る須知の山城・須知城と丘城・上野城には寄ってきました。どちらの城も町の案内板や標識が無い。須知城は城下町が形成されていたという市森側に案内標や登城口があるのかも知れませんが、上野城については案内板もなく市街地として 宅地開発が?進んでいるのでしょうか、整地された台地の奥に畑地跡の曲輪や通路としての掘割が残ってはいるのですが、開発の波に呑み込まれ丹波町の貴重な史跡が、知られる事も無く失われる事が無い様に理解と保存が望まれます。
琴滝

美女には琴の音が良く似合う・・・此の琴滝から須知城(市森城)へ寄った後、直ぐ北方に美しい美女の眉の様子から名付けられたという美女山に登ろうと思っていたのですが・・・!美しい女性にはトゲが有ると聞かされていた山です。其の上に今日は機嫌を損なって大泣きされ(音立てて降る雨に)てタジタジ…引き返す。天気予報では今日までは機嫌が良いはずだったが?。オマケに府道702号から往時に下ってきた703号を分けて府道453号を園部町経由で帰ろうと中山峠に向ったが、土砂崩れのまま未だ復旧していなかったので一車線の細い峠道を バックで戻る羽目にも…。其れでも予定外の中畑城(事前未調査・丹波町指定史跡になったばかりで偶然、幟旗が立っていたので分かった)と、玉雲寺・琴滝・上野地区の車道近くにある上野城へ寄れた。本来なら今年最後の山と山城は此の上野城近くの上野砦と美女山へと思い訪ねて来たのですが・・・・・




中畑城須知城(市森城)上野城 /上野砦(未訪)


中畑城(北八田城)  城山 Ca 55m  船井郡丹波町中畑

R372号線 【デカンショ街道(京街道)】から R173号で細工所の荒木城や福井城下を通り、福井交差点を右折して市野々からは R703号(篠山丹波線)を 中畑へと下って来ると「中畑城」と書かれた案内板や幟旗が目につきます。車で通り抜けてきた狭い林道のような道が、 かつては中山峠〜園部〜京都へ・須知へ出て奥丹波の和知〜綾部へ・また福井〜細工所 〜篠山〜氷上(丹波市)へと中丹波を結ぶ街道は、播磨や山陰を繋ぐ間道として軍用路としても利用されたと思われます。【丹波を区分する説は幾つか有るようですが、此処では園部・亀岡付近を口丹波として口・中・奥に分けてみます】
登山口から中畑城遠望

丹波から城名は聞いた事が有るが 何処に有るどんな城か未調査だったが”登山口”の案内に早速登城の準備。長屋門の奥に内門まで備えた由緒深そうの民家の前を通って車道から見えていた丘陵の裾に向います。山際の民家の納屋裏手が既に大手道の城門跡!尾根沿いに良く踏まれた道が続き、金毘羅宮を祀る祠か有る。この先で猪・鹿避けフエンスを開閉して愛宕社、 秋葉社の祠を抜けるが小社は全て城の曲輪跡に建てられています。
幅の狭い尾根の左右には幾つも”落とし穴”らしい凹部が有る

尾根筋の登城ルートは急斜では無いが幅が狭く、遠目に見た感じとは異なり尾根の左右(東西)は急峻です。丹波の城では余り例が無い様に思うのですが?珍しいのは!その狭い尾根筋の左右の肩に 1.5m程の穴が幾つも彼方此方に掘られています。 踏み外せば左右の谷に滑り落ちるのではないかと 思われる”落とし穴”の様ですが?。最後の秋葉社から道の左手には小曲輪が7〜10程?階段状に連なって、直ぐ上方の本ノ丸に着く。
梯子状の連郭帯の上部が本ノ丸

中畑城築城の経緯は分からないが、鎌倉時代中期・承久年間(1219-22)丹後志高庄から來住した北市ノ正(かみ)が此処 ・中畑に築城して、授持してきた観音像を安置したといわれます。其の後・南北朝期に入り北道氏 (みちうじ)に代わると此の地域の重要拠点として城は本格的に堅固な山城として改修・補強されていったようです。 中畑城は尾根上に数多くの曲輪を連ね、頂上の西北部には天守台跡と思われる所がある。城址碑の立つ主郭からは東南に八木城山から遠く愛宕山まで見通せ、西は尾根伝いに篠山市との境界尾根に繋がり櫃ヶ嶽 〜雨石山への縦走も考えたいところですが、間には篠山ゴルフ場があるので稜線が私有地なら一寸厄介かも知れません。
本ノ丸跡の城址碑

寛永年間(1624-44)北万(ばんかく)時宗の代の廃城になったといわれます。また北氏には号を 「八田」と称した子孫が居て此処を”北八田”呼ばれています。天引峠に至る京街道の亀岡市東本梅町との境付近には南八田があり 野々口氏の埴生城が近くに有り、 また北方・瑞穂町の篠山市境界近くには八田があって、此処にも 八田城(奥八田城)が有るんですが、共に口・中・奥丹波の要衝に位置しています。
城域の最高所は天守台跡といわれるのですが?

信長”丹波攻め”による明智光秀との関連では、 早くから明智方についた須知氏と違い、南八田の埴生城も北の八田城等も波多野氏の勢力下に有ったのではないかと思うのですが!?。 北氏に付いても中畑城についての城史を知らず、南北朝期は勿論・天正期に明智と、または明智に付いて八上城や黒井城侵攻に参戦したかも資料未調査ですが、 本ノ丸の更に西北に続く尾根上にも曲輪を連ね、
天守台西に続く曲輪・南面を土塁が囲む

少し高みには天守台とされる曲輪があり、 土塁囲いの曲輪や帯曲輪・竪堀を備えて防備を固め、臨戦的な”詰め城”では無さそうです。天正期以降も使用された城のようですが、天守台が有ったとは思えないのですが其の祖形が認められたのかも知れませんが確認出来なかった。 ”丹波町史”等で再確認にして再訪したい山城です。府道702号から須知川に沿ってR9号に向う途中”ひろば橋”の東に葛城神社が有るので立寄ってみた。
(現地 中畑城案内板参照)


葛城神社

京都丹波に”葛城神社”の名も珍しい、何か謂れが有るのかと寄ってみたが、 其れに関する由緒は解らなかったが、珍しいというか奇怪な社紋が気になる所です。 キツネなんでしょうが犬か狼のような頭を持ち、胴は亀の甲羅で鶴の羽が舞う社紋については「丹波の神社」サイトの高坂さんに確認しておいた方が良かったかな。鳥居の狛犬と社殿内の木彫りの狛犬(一寸変わった唐獅子風)の雌雄までは見分けなかったが、これは神社サイト” のりちゃんず”の今後の楽しみにしておきましょうか・・!
葛城神社の社紋

弘仁時代・清和天皇の貞観元年(859)3月高岡小字平松に鎮座、南北朝期の室町時代・応安3年(建徳元年1370)12月現在地に移されました。今残る社殿は元禄15年(1702)再建されたもので、御祭神に”一言主命”を祀る。 境内は狭いが八幡宮・貴船神社・大宮神宮・厳島神社・愛宕神社・天満宮・稲荷神社 ・加藤麻呂神社・八坂神社の小社が並び、戦勝・交通安全・火伏せ・学業・五穀豊穣と、なんでも此処で間に合いますね。
葛城神社

10月(17日に近い日曜日)に行われる例祭の【八朔祭】が知られるようです。太鼓山・囃子曳山・送り山・船山・御殿山等の曳山や神輿が賑やかに繰り出されて各地区を巡行し、また醜男を競うというユーモラスで勇壮な祭で、 丹波町の無形文化財となっています。この神社の東の丘陵に水戸城が有ったという!!?。
(現地 神社案内板 H16年10月吉日 参照)


玉雲寺と琴滝

葛城神社を後に水戸の交差点から R9号線に入り京都縦貫自動車道の丹波IC出入口を過ぎると直ぐ”琴滝 ”の案内看板を見て右折して京都縦貫自動車道高架を潜り、名勝・琴滝を目指します。 静かな初冬の集落の先には美しい曲線を描く”美女の眉”を準 (なぞら)えた美女山の姿が横たわっています。集落に囲まれた小さな丘は”猫山”と呼ばれますが直ぐ南側には須知城へと峰続きです。
霊樹山玉雲寺

猫山は”根小屋の山”の意味も有るようで 城主の居館跡だったとも考えられます!。”殿屋敷”の字名が残るのは猫山南東、須知城からの山麓尾根端にありますが、 家臣団の武家屋敷跡と思われ此処から尾根伝いが大手道とも思えます。
猫山・美女山・天守台西に続く曲輪・南面を土塁が囲む

霊樹山玉雲寺
(曹洞宗 )  船井郡丹波町字市森小字滝見
玉雲寺(別名・滝見峰)は室町時代初期(1338?頃〜)太容梵清禅師が諸国巡教で、此の地に来て衆民を教化の際、市森城主・須知出羽守慶(景)吉が禅師に帰依し、応永23年(1416)堂宇を建立し、 出羽守の懇請を受けた太容梵清禅師を開山としたことに始まります。【梵清禅師は薩摩・島津氏の出で当・玉雲寺開山住持のほか大和の補厳寺(奈良県磯城郡田原本町)・石川県の加賀・仏陀寺や能登の總持寺(羽咋市)にも住職されています】以来・寺運隆盛していたが天正7年(1579)織田信長”丹波平定”の命による明智光秀軍の市森城功略の際、 其の兵火によって堂宇宝物など 悉 く焼失した。現在の堂宇は明智光秀が開祖・太容梵清禅師の遺徳を尊崇し、
琴滝への途中にある"兵(つわもの)の塚"と銘された五輪塔群

翌天正8年には境内地を1,500メートル西南の 山腹に移して再建したものであるとされています。しかし須知氏は織田方の丹波攻めには協力的だったともされ、 須知城や上野城の縄張りが天正期初期の織豊系で有ることや、天正4年(1576)の黒井城攻めでは”赤井の呼び込み戦法”に破れて、辛くも光秀は此処・須知に逃れたと云われます。須知氏の諸城の落城が明智軍に攻められてのものかどうか ?は疑問が残ります。もし攻められ落城したとして、縄張りの特徴からは後の須知城・上野城に明知方が城を改修・最構築して居城したかどうかも併せて検証する必要は有りますね。なを現在の境内の開山堂・山門は江戸時代中期の、 本堂・庫裡は天正年間の数少ない建物遺構です。山門前の石段からは目前に須知城山を望みますが、 此処から名勝・琴滝も近いので寄ってみます。
須知城の織豊系縄張・石積の内枡形虎口

琴滝探勝路入口からも林道が更に琴琴滝上部にある貯水ダムサイトの公園駐車場まで延びています。 薄暗い探勝路から少し入った辺りの平坦地が当初の”滝見峰玉雲寺跡”なんでしょうか?”つわものの塚”碑が建つ五輪塔群が祀って有るが、 寺跡にあった五輪塔や石仏が集められたものなんでしょう。”碑”からは明智”丹波攻め”での落城を匂わせているように思えますが・・・(^_-)-☆ 須知氏や此処・市森城(須知城)については通説の見直し確証なり、其の(落城!?)後の須知氏と城についての城史等の追求・研究をお願いしたいところです。琴滝は高離約40m・1枚岩を流れるように 滑り落ちる美しい女性的な滝で、流れ落ちる白い糸状の水を琴糸に、静かな樹間や岩壁に反射するようなサラサラ響く水音が琴の音と例えた滝なのでしょう。
琴滝

滝音を背にして滝落口に出て琴滝公園遊歩道をダムサイトまで登り、京都縦貫自動車道の新観音トンネルが此の足下を抜けているが、枯れ草の擦れ合う音しか聞こえない静けさです。 北西に採る尾根筋は幅が狭くもなく左程急斜面でもない。須知城域の東寄りを土塁・堀切・高石垣で防備を固めている構成からは主に観音峠等、園部方面からの侵攻を想定して成されているようです。


須知城(市森城)  xxx山 384m  京都府船井郡丹波町市森

中畑城からR9号水戸に出て”京都縦貫自動車道”丹波ICの出入口を越えると直ぐ信号機の有る三叉路を 右折して丹波町の名勝「琴滝」の案内標識に沿って縦貫自動車道を市森地区の山里に入っていきます。両側から山が迫る狭い谷の入口近く ・民家に囲まれる様に比高40m程の小さな丘があり猫山と呼ばれます。城主の居館(根小屋 )が有ったところから”根小屋山”と呼ばれていたのでしょう。猫山の南側から東側に開ける谷間(たにあい)に殿屋敷 ・百町・城下・古市・堂の下の字名が残り城下町が形成されていたようです。此の猫山南側は市森城への尾根続き。
石積みが見られる東郭の主部

城跡からは此の尾根の最低鞍部から玉雲寺に下ったが、 分岐から北方の猫山方面には明確な道が続いており大手道だったのでしょう。市森地区に入ってくると、なだらかな山容を大きく見せる美女山を背景にして明智光秀ゆかりの玉雲寺からは東側正面に低山ながら、城山の風格を漂わせるは須知氏の城・市森城が有りました。玉雲寺から琴滝までは近いので見物がてら滝上方に貯水池のある公園に出て、 北西への尾根を辿って須知城(市森城)を目指します。
須知城東郭:自然石を取込んだ切岸上部を土塁で囲む

須知(志宇知)氏は元弘3年 (1333)後醍醐天皇の令旨を受けた足利尊氏が北条氏の六波羅軍(京都)を攻めるため丹波・篠村八幡宮(亀岡市)での挙兵には久下氏・荻野氏等と駆け参じています。 南北朝期・観応3年(正平7 1352)在地領主須知景光は、尊氏が篠村”旗挙げ”で北朝方だったが南朝方となった丹波守護代・荻野朝忠(丹波市・後屋城主)に属した中津河 (遠山)小次郎秀家等に攻められ落城した(遠山家文書)と云われます。其の後の経緯がよく判りませんが応仁の乱【応仁元年(1467)〜文明九年(1477)】前後には 国人として台頭してきたようで、
須知氏の古い城塁!!

文明9年 (1477)飯河中務丞忠資の塩田村(?)を須知源三が押領して近隣へ勢力拡大をはかっています。延徳元年(1489)の山城国一揆では丹波守護・細川氏に 不満を持っていた須知氏は畠山政長の被官:荒川民部丞に攻められ一時没落します。天正元年(1573)須知元秀・須知忠長の頃”丹波攻略”による明智光秀の京丹波攻めの際には、上野城や市森城の須知氏は早くから織田信長方に 協力的だった筈です。
織豊系縄張が色濃く残る本郭部・東側の高石垣

”丹波攻め”では明智方についた須知元秀は、 八上城・波多野氏についた義父・内藤備前守と戦ったが矢傷を受けて、数日後に死亡したといわれます。二つの城の縄張りが天正期初期の織豊系で有ること。天正4年(1576)の黒井城攻めで”赤井の呼び込み戦法”に破れた光秀は此処 ・須知に逃れたと云われますので、須知氏の諸城が明智軍に攻められて落城したものかどうか ?は疑問が残ります。須知氏一族には天正期の波多野七組頭の一人に須知主水影氏(景俊)がおり、何処かの城で抵抗していて、その余波を受けたのかも・・??
本郭U郭の野面積石垣・右手に枡形虎口がある

もし攻められ落城したとして、縄張りの特徴からは後の須知城・上野城に光秀方が城を改修・最構築して居城したかどうかも併せて 検証する必要は有ります。須知城は天正7年(1579)波多野秀治・秀尚の兄弟を安土城に連行して殺害し、 義弟・二階堂秀香らの籠城する八上城を攻略した光秀によって攻められ落城したことになっています。 しかし此の八上城の向城として丹波町から篠山市側の抜けると藤坂集落の南には、多紀アルプス東端の峰・八ヶ尾山(678m)があり天正5年(1577)頃・明智光秀が多紀郡(篠山市)北部の要衝にもあたり、夜討ち用心の為と城砦を築いたと云われており、
本郭の高石垣

山頂部に小さな平坦地が有るだけ?ですが、井尻信濃守と須知出羽守が奉行となって築城したと「丹波志」に記されます。兵庫丹波・京丹波制覇を足掛かりに、 光秀の地盤固め構想の一環だったのでしょうか?琴滝近くにあった”つわものの塚”五輪塔群と、城攻めの際に焼かれた玉雲寺、其の同年には玉雲寺を光秀が再建している事、本郭部には光秀が改修したと思われる織豊系の特徴である 石積み虎口と枡形や高石垣が残っている事等、「玉雲寺」の項で記した須知城落城の疑問は、光秀攻城によるものとすれば全て解決!ですが、須知氏滅亡の悲運の原因は何だったんでしょうか?

主郭部(城戸口櫓の石組跡?)からU郭

”応仁の乱”前後・山名氏に付いた訳でもないが延徳元年(1489)の一揆で細川氏に疎まれ、明智の”丹波侵攻”では、毛利方のついた訳でもなく、むしろ協力的で八木城の内藤氏と戦って落命さえしているのに。ところで須知城の縄張りは高石垣の見事が目立つだけに、その一貫性の無さも目立ちます。城域の中央部に主郭を置き 本ノ丸の東側には屏風折れを伴う約4m程の高石垣が残っています。 本ノ丸と西側のU郭にある石垣積みの枡形虎口部が織豊系城郭の特徴を見せており天正初期に光秀か、其の指示で須知氏が改修したものでしょうか?。本郭部の東に続く尾根は不整地な曲輪を堀切と土橋で区切られ様相が一辺する。土塁囲いに低い切岸を持つ曲輪や一部に野面積の低い石積みをのぞかせる元に須知氏の縄張りと思えます。
西郭群の平坦地は寺院跡!

本郭部から更に西に続く尾根上は、広く長く削平された曲輪が続くが防備施設や石列・石塁 ・土塁等で区画されたところは無さそうで、此処は寺跡(高見山真礼寺)だと云われ井戸の石組みも残るという事ですが気付かず見残してしまった。曲輪西端からの稜線は最初、急斜面だが明瞭な尾根筋が末端・明石(あげし)の猫山との鞍部へと続きます。私は途中から玉雲寺側へ2分程で下る。近くには石のベンチがあり、 頭にリボンを付けた女の子の石像が、谷間の田園風景ではなく、目前の山側を見るように置かれています。
主郭部西土塁の石積!

公園というには狭過ぎ・休憩所にしては殺風景ですが何か謂れがあるんでしょうか?明石集落から玉雲寺〜琴滝へ整備された”ふるさと歴史のみち”の畔道を通って 玉雲寺に戻ります。円墳のような小さな猫(根小屋)山の先には、今から行こうとする美女山が横たわっていますが、今まで薄日が射していたのに空は白く、向かう須知市街地の東方に雨雲が流れてきた。例年なら雪が降ってくるんですが、 目的の上野城と上野砦から美女山を目指すべくR9号線へ出ます。
(日本城郭大系 新人物往来社等 参照)


上野城と上野砦
上野城
  xxx Ca190m  船井郡京丹波町(丹波町)南上野
上野砦
  xxx Ca260m 府船井郡丹波町南上野

琴滝〜須知城(市森城)を縦走して玉雲寺へと戻ってきた。さて主目的の美女山(482m)へは上野砦から登ってみようとR9号線の京都縦貫自動車道・丹波IC出入口へ戻る。片側2車線の快適直線道路は直ぐ府道80号(日吉丹波線)須知の交差点に出ます。 此の周辺では最大規模のサン○○ショッピングセンターと”道の駅・丹波マーケス”が分岐点にあります。

須知川から美女山の北尾根末端:上野城と上野砦(正面寺院背山)がある


交差点を右折すると目前には美女山山頂から北西方へ延び拡がる枝丘陵が 舌状に突き出し、其の先端部を丹波町上野地区に落としています。この尾根突端部の丘陵上に上野砦が在り、 此処から道が有っても無くても・・藪でも今の時期なら登れるだろうと美女山を目指して意気込んでいたのですが、急に音立てて降り出した雨に撤退を余儀なくされた。道の駅に寄ったが休業のようで、 ショッピングセンター内で遅い昼食を済ませていたら雨も上がり晴れ間も見えてきた。
上野城の横堀 ・左右の曲輪には高土塁が・・

濡れた道無き山での藪漕ぎは不快と苦痛だけ…山は諦めるが美女山の北山麓・南上野にはもう一つ上野城が在ったと5万図(地図)に付けていたマークに気付いて、そぼ降る雨の中を再度・上野地区に向かった。上野城の詰め城:上野砦へは道端に有った大円寺(?)霊園からだろうと思いながら裾を通り抜けたが、上野城の位置が判らず緩やかな登り坂を走っていくと左右に”太閤担(たいら)ゴルフ場”のグリーンが続く。名前が気になるゴルフ場ですが上野地区を通り過ぎているので、 引き返し”道の駅”が見える丘陵北末端部の坂道途中にある宅地整備?の空き地に車を寄せた。
上野城:造成が進む西東側に空掘と数段続く小曲輪は消滅寸前の居館跡か?

雨後でぬかるむ足元を気にしていては先に進めない。更地になった広い丘陵部左右は山側に数軒の民家と田畑が有るが谷状に低くなっている。 整地された高みに立つと山手に棚田のような土手が見える。土手の東側は段差を持った田畑は無く、谷寄りを真っ直ぐ南山側に切岸をもって延びています。西側へは段差をもった田圃が 横堀状の通路を隔てて西側の谷へ数段有る。土手(土塁)と横堀で城域を区画しているように思えます。左右の谷に挟まれた自然地形の丘陵部に段差で区画された方形居館…では!。早く先が見たくて走り出したい興奮を抑えて、畔道を進み”藁葺き屋根の民家 ?に出た。周囲は小公園風で表札も無く個人の家ではないようです。

上野城の横堀と高土塁が城域の曲輪群を区分する

店なのか丹波町の施設か不明ですが、そんな事より民家の裏手の切岸・土塁や、その横に見える高土塁と横堀に圧倒されそうです。横堀中程から民家裏手側の曲輪に入ると 50〜70cm程の段差で2曲輪あり、北側にL字形の大土塁(約3.5m)が・西へは幅広い土橋が空堀に架かる。一段高みに出たが曲輪ではなく此れも大土塁で下方に広い平坦地が有る。どうなっているのか・・・?!。造成が進む平坦地にも地形や面積からは同様に堀切や空掘で仕切られた方形居館が横並びに存在していたのかも?。
曲輪群の東南端の石列土壇に五輪塔が並び祀られている

民家?側の堀切から東南方の斜上すると広い曲輪が数段続く。高い土塁、南の谷側には横堀も有るが山側は溝を境に集落内の田圃やお堂が建ち、フエンスで囲まれていて、出られない・・・方形居館としては城外なんでしょうが、末端の一画には二重に囲われた石列の土壇の中に10数基の五輪塔群が 並び祀られています。琴滝・旧玉雲寺境内付近に在った市森城落城を伝える”つわものの塚”同様に、上野城も明智軍により落城し須知氏は滅亡したと伝えるものでしょうか?、”丹波平定”後の歴史の舞台からは、またも消えてしまいます。市森城(須知城)は城下町が形成されているので須知氏の本拠と考えれば、上野城(居館)が”詰め城”とも考えられないので上野砦や上野城は其の支城だったのでしょう?
高土塁から土橋付き空掘を渡ると2方を囲む高土塁(3.5m)がある
 

須知城と同じ須知氏の城は、どちらも織豊系の特徴を残す縄張りで築城時期も同時期と思われます。天正期初めの明智光秀の丹波攻略頃、織田方についていた須知氏か、光秀の指示による須知氏の前面大改修によるものかは判らない。須知城(市森城)には元々、須知氏の旧遺構が城域東部に残っているのですが、上野城は大きく改変?されていて、旧遺構は残っていない様です。丹波町の小領主達が南北朝期以降・丹波守護代の荻野氏・波多野氏・内藤氏等の翻弄され戦乱のなか衰退・復興してきた城史が分かれば・・・(^^ゞ
上野砦から大圓寺と須知平野の眺望

特に須知城・上野城については織田方にいた筈の須知氏ですが、天正3年頃は園部城主荒木氏綱・綾部城主江田義行・山家城主谷重衛等と共に八上城波多野氏配下に須知城主須知景氏が居たともされ、 須知氏滅亡と明智光秀との関連等、不明部分を地元の郷土史や研究資料で確かめてみたいものです。上野城の築城年代や築城者は不詳ながら、戦国時代山崎加賀守の古城・屋敷跡とも、須知氏の城との説がある様です。



上野砦   xxx Ca260m  府船井郡丹波町上野寺ノ奥

上野砦についての情報は船井郡誌や 遺跡調査等の資料に載せて有るのかも知れないが未調査。当概名称が見つからないので上野砦とするが、 此の名称は其の城跡遺構からして妥当とも思えません?。しかし既に土塁囲みの集合居館の様な上野城が此処に在り其の名で良く知られています。同じ上野に存在する山城については・其の存在さえ殆ど知られていない様です。
大圓寺から上野砦(正面丘陵)

美女山(482m)から西北山裾へ扇状に丘陵端を落とす上野地区にあって、 佛日山大圓寺(臨済宗天龍寺派:本尊に釈迦如来脇立千手観音を祀る)と上野城の位置する間に、地図上からも枝尾根が流れ出ているのが判ります。なお大圓寺は第88代後嵯峨天皇の第二皇子(第89代後深草天皇)で佛国広済国師を開基として延慶2年(1309)に建立されたと云う古刹。
配水施設?横の竪堀:は上部の上野砦中郭に入る

後深草上皇は正応3年(1290)出家されたが政治には関係していたと云われ、嘉元2年(1304)7月に 62歳で崩御されており、年代に少しズレがあります・・?。また経緯は不詳ですが寛文8年(1668)に卒した初代園部藩主小出伊勢守吉親の位牌が仏殿に安置されている様です!!。 (当山由緒:案内板参照)
R9号線の「丹波マーケス」から右折して府道80号 (日吉丹波線)に入り、須知川を渡る正面前方丘陵に建つのが大圓寺で、美女山から北西へ流れ出す尾根先近く・寺背後の丘陵部に上野砦が在り、寺と霊園の間から末端の曲輪跡に在る配水施設まで階段道がある。
上野砦:中郭と南郭の切岸

階段道の右横には大手の堀底道か?後世のものかは不明ですが、竪堀が有り少しカーブした先で尾根上の中郭 (18X18m程)部に入る。左手は北先端部の円形曲輪で外周を二段程の小曲輪・帯曲輪が捲いています。円形曲輪は上野やR9号線沿い須知の北方ヶ隠微の物見台か?。石列が残るが愛宕社でも祀られていた基壇跡の様です。 中郭から南への尾根側へは一段曲輪に乗ると土橋付堀切が在り、其の先に20X25m程の曲輪、
上野砦中郭部の土橋付堀切

5〜6m程の切岸上は祠が祀られる櫓台跡か?、その先には幅広い堀切があり 土塁道が先クランクして先の曲輪に繋げます。此の堀切は深く更には長い竪堀となって落ちているが、東斜面の下方へは谷ではなく枝尾根上に堀底道として延びている様だ。上野城側から通じているのだろうか?。 堀切を渡ると南郭部(中郭より少し大きい 曲輪先は同様に5m程の切岸をもった櫓台。 此処も土橋付で掘切られ、東へ竪堀・さらに尾根続き平坦尾根の100m程先にも東下へ長く大きな竪堀が落ちる。山道は延び明るい山稜部からは美女山へもそう遠くは無さそうです。
中郭堀切からの竪堀は下方で尾根上の堀底道で延びるが近世の改修か?

琴滝〜須知城(市森城)を縦走する以前から、美女山のネーミングに登山計画した事が有ったが「低山徘徊」の兼武さんレポートに藪 ・しかも棘の多い山と聞き「美しい薔薇に棘」の例え・・から敬遠がちだった。琴滝分岐・市森集落からの登山ガイドが有るようで、2〜3のウエブに見るレポートも此のコースを辿るようですが、山頂には地元学校の案内板も有り、別ルートが有る様ですが、其れが大圓寺から尾根コースかと思える程よく踏み込まれた山道が上野砦内の曲輪 ・堀切を越えて美女山に向って延びていく。登山としては山名の由来の美しい眉を意味する尾根上をトレースしたいものです!!。
上野砦:南郭と土塁櫓台(祠が建つ)

上野城からは南の谷筋から、または直接此の尾根に取り付けば直線距離で約・・mの地点・尾根上に上野砦が在り、 居館と詰めの山城セットの構成を考えてしまいます。上野城が空掘・大土塁・虎口形状からも織豊系縄張りで、造成された平坦地形にも遺構は延びていたようで城館としての体裁を整えた大規模なもの。上野砦も二本の堀切・二本の竪堀(もっと多いかもしれないし、後世の山道としての改修かも知れないが?)・堀切側には櫓台状の土塁曲輪。 物見台か円形の壇状曲輪は中規模の山城!!?。城域中央部の深い堀切は長い竪堀となって延びるが、下方で細い尾根上に刻まれた溝となり続いている様子。
南郭櫓台からクランクする土橋堀切を出る。緩衝帯の様な尾根側にも竪堀2本程ある

上野城に通じているなら登城道か連絡通路か?。上野城の城史自体が不詳ですが、山崎加賀守か須知氏の詰め城か?。須知城の城砦群としては京北町・日吉町と丹波町を繋ぐ街道と、 八木町・園部町から観音峠を越えてくる山陰道の要衝監視の重要地点にあります。織田方に付き、明智に協力し、親戚関係に有った八木・内藤氏をも攻めた須知氏に、何があったのか!!明智によって滅ばされた後、 丹波地堅めの拠点として須知城と同様・上野城を改修し、上野砦は殆ど未改修のまま監視の砦としたものか?。
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