夜久野高原   田倉山(宝山)・夜久野城/三谷山〜鉄鈷山〜深山〜富岡山
京都丹波 (地図 出石・但馬竹田・福知山)
T: 夜久野高原・板生川周回 2003年05月04日
 中田〜三谷山〜岸山〜鉄鈷山 〜深山〜富岡山〜三谷
U:夜久野ヶ原は京都唯一の旧火山  2005年11月20日
 茶堂〜田倉山(宝山)〜夜久野城〜玄武公園〜長者森古墳
床尾三山【西床・鉄鈷(中央かなとこ)・東床尾山】
        深山⇔テッコウ山間にて
近畿の山城 :夜久野城

【コースT概要】夜久野の山へは 竜ヶ城とその西方の居母山へ行った事がある。居母山登山ルートの桑谷には今回の山行後、登山ルートの北側に山城址があるので寄ってみる。 居母山のさらに西の富岡山は意識していなかったが、地元「居母山クラブ」の努力で新ルート!!??が開発・つい数日前(H15.4.下旬)に整備され案内板が設置されたとのこと。また深山(みやま)は夜久野町の最高峰とか !!・低山徘徊派のオフがあったばかりですが、知らず参加出来なかった事もありついでに走破、コースが短いとWeb地形図見ていると、岸山〜鉄鈷山〜天谷峠を経由しての周回コースが設定できる。 夜久野高原の宝山からなら完璧に板生川を挟んで対峙する東西の尾根縦走ですが初めての山域ですので、次回には別ルートを考えてみることにします。


T中田〜三谷山〜岸山〜鉄鈷山〜天谷峠〜深山〜テッコウ山〜富岡山〜三谷 H15.05.04

府道63号で夜久野高原温泉前のロータリーを抜け、JR上夜久野駅から府道56号に入り、板生川に沿って天谷峠を越えます。R56号線は西稜(兵庫但馬・和田山と京都丹波・夜久野の府県境尾根 )が三谷山〜岸山〜床尾三山の一つ鉄鈷 (かなとこ)山を経て天谷峠に至ります。 東稜は富岡山〜テッコウ(鉄鈷!!)山〜深山〜天谷峠に延びているので、上記の山を繋いで板生川を周回するコースです。コースの取付きを三谷の林道からと考え、最終の富岡山から西垣へ下れば二つの山城(西垣城と直見城にも寄れそうです。
岸山山頂

共に城名だけで何処か所在不詳ですが、山容や要害・要衝の位置付けで判るかも知れません。 府道63号との分岐から余り深く入り込むと帰路が遠くなるだけ??!!。駐車スペース探しながら中田バス停附近の道端余地にデポして(AM6:10)直ぐ先の三谷(さんだに)集落へ向かいます。三谷公民館(バス停)手前で谷奥へ向かう林道を 詰めてゆくつもりですが直ぐに分岐、未舗装に近い右正面の道を採って猪除けゲートを開閉して入った途端に鹿の生足が転がっています。途中の道端には白骨の頭部を二箇所で見かける。ノッケから前途を予感させ胸がときめきます・・・ (^^;やがて今度は林道の三叉路です(AM6:20)。西へは良さそうな道ですが長い道のようです。 正面の谷筋は近道のようですが尾根へは急登が強いられることは必定です。藪の手強さを考えると尾根に早く到達出来そうな北(右手 )に斜上する林道終点に着きます。踏み跡も何とか続き尾根に乗ります。藪っぽいが当初覚悟の藪漕ぎは不要で、蛇よけ・蜘蛛の糸攻撃に対処で久々にお供させた三徳!!の木杖も用不足です。尾根に出てからも薄い踏み跡と展望のない森林帯は、 三谷山迄は随分と長く感じた。黄色い山名プレートだけのある三谷山(3等三角点  点名:虫ヶ壷 679m AM7:25)は地元では小猿山の別名でも呼ばれていることは、ナンとこの日も希望者多数の為、先週に引き続き低徘・深山オフの先達「山あそ」島田さんと、深山から富岡山への縦走途中で出合って聞いた。

三谷山からは岸山間の尾根・正面の山影が岸山・・・(~0~)


三谷山から岸山への尾根は此処までの藪尾根はなんだったのかと思うほど広々とした尾根にアセビとブナの木が目立ってくる。自然林のプロムナードは播州・生野の 高星〜平石山に似た尾根です。快適尾根ですが踏み跡の薄い所もあって地形を良く見てオフコースしないように・・・最終目標の富岡山の丸い尾根が東の尾根端の高みに、西向かいには北に西床尾山が 三角形の尖りを空に向けています。この峻険・勇壮な姿は進むほどにだらしなく緩やかな姿となって東床尾山に稜線を延ばしています。しかし御蔭で!!この稜線では激登の後は庭園散歩が楽しめるんですね・・・岸山(3等三角点 点名:内海 737m AM8:15)に着いた。「榾火山の会」のプレートが掛かっている。 尾根筋を少し外れた所にあると聞いていたが!!?先に続く尾根は何処へ・・!!点名が示す和田山町内海へなら床尾三山+岸山コースも設定出来る!!
岸山を過ぎると次の目標は鉄鈷山


鉄鈷山への縦走では要注意箇所ですね。北への方位を確認して10m程戻ったところから急な道を下ったが様子がおかしい。 向かいの尾根へと谷渡り!!??"トラバースして尾根を修正し、正規尾根!!の立派な山道に戻る。木々を透かして鉄鈷山と三角点峰(点名:西谷)と、なだらかな長い尾根を拡げた深山〜富岡山の稜線が見え る。尖峰を誇っていた西床尾山はその所在さえ隠れてしまうほどに緩やかな尾根の端に存在感さえ失っています。 存在感といえば深山幽谷の奥に鎮座する!!東床尾山も山裾から山腹を駆け上ってきた林道に肩まで切り裂かれ無残な姿を曝け出しています。
鉄鈷山から東床尾山・・・(~0~)

やがてはこの肩からのお手軽登山によって無節操な喧騒とゴミの山と化す事だけは避けたいものです。岸山から鉄鈷山 (775m AM9:45)へは東西に展開する山々の展望を見ている間に着いてしまった。残雪で倒れ枯れたススキの滑り台を下って三角点峰(点名:西谷 718m AM9:58)峰へも寄ってみます。東床尾山への縦走山道が続いていますが、 鞍部へ引き返して尾根伝いに天谷峠へ向かいます。数m下には未舗装の林道が山頂直下まで延びてきています。その為か尾根伝いには テープも踏み跡もなくなりオマケに歩き辛い棘の木も多い。尾根は林道の通じる尾根を離れていくようになったのでガレた谷をトラバース気味に林道へ出て展望尾根筋から谷沿いに下りR56号線の天谷峠のホンの直ぐ近くへ出てきた。 林道は一般車通行止のゲートになっています。
鉄鈷山・右手下には林道が山頂直下まで・・

天谷峠(AM10:50)からの急登で少しバテ気味なのに、益々傾斜は強まるばかり。それに較べて右手にはブナと落ち葉だけの広々とした明るい谷が緩斜面を下っています。 この谷へ此のまま飛び込んで降りていきたい誘惑度満点のルートです。やっと激登りから開放されたところが県境分岐だが 深山へが道も明確で5分程で夜久野町の最高峰・深山(780m AM11:40-55)に着いた。真新しい「栗尾山・富岡山⇒」の標板が此れより先々に掛かる。つい先頃・地元「居母山クラブ」により設置された案内標です。
深山山頂・・・(~0~)


広々として明るいブナの尾根を下ってテッコウ山への登りで、 振り返ると床尾三山がカメラに収まる展望箇所が有りました。三谷山〜岸山へは尾根が長くて入り切りませんが・・・・(^^;  暗く展望の無い植林の尾根に入って行くとテッコウ山(3等三角点 点名:栗尾 760m AM12:25)の角の欠けた三角点標石が埋まっています。三岳山や居母山南斜面の伐採箇所を見ながら、あの辺りに寺跡が有ったのかな ・・登った時の事を思い返してみます。此処からの下り絶好の展望台地に珍しく数名の登山者の姿を認めます。アレッ!!低徘MLメンバの島田さん・たぬきさん・かねちゃん・・・向こうからも声が返ってきます。 先週の続きコースにチャレンジかと思ったが、島田ワールドの魅力に希望者殺到で同じコースでオフ会との事。次回・何処かのオフでの再会を約して皆と別れます。
富岡山

最後のポイント富岡山へ向かって尾根の南下を続け植林帯の中で此処も展望の無い富岡山(2等三角点、点名、直見 707m PM1:10) の三角に組んだ古い櫓や山名プレートの残る山頂に着いた。下りは直ぐ東の尾根を辿るつもりだったが明瞭な山道を南へ辿り「西垣へ⇒」の居母山クラブの標識に、此処から先は 間違いようも無く直見川沿いのR63に出ると思っていたが、 いつか踏み跡程度の急斜面を下って未舗装林道に出た(PM1:40)。車道が見えるので直見の何処辺りかと推察するが様子がおかしい。 車道の先に川があるはずなのに川を渡ってその先に府道が見える。川名は牧川・橋名は今井谷橋(PM2:00)此処は何処・・・(~~;
鉄鈷山から深山〜富岡山の稜線・・・(~0~)


車道へ出て電柱を見ると"イタウ"・・・尾根を分けて間違うはずもないと思った直見に降りず反対側の板生です。 しかし何が幸いか!!? 車道を歩き始めてビックリ。50m程で三谷のバス停、下手の集落道端にマイカー確認。ならば予定の西垣の山城へは車で移動。しかし場所も不確かな上にジックリ周辺の状況を観察しながら場所を検討することが出来ず ・・以前に居母山登山で利用した桑谷公民館から最奥の民家へ出て、城山への道に検討をつけて登って行きます。城は直見城Ca402m 城情報は居母山レポートに添付予定です。


U茶堂〜田倉山(宝山)〜夜久野城〜玄武公園〜長者森古墳〜桝塚古墳 H17.11.20

前日(11月19日)に山城サイトを通じて知り合った城郭フアンのメンバーと、滋賀の湖南・湖北の城を巡った際、織田・豊臣軍VS浅井・朝倉軍の激戦地 姉川合戦場を訪ねたばかり、予定していたわけではなく手軽に紅葉が楽しめる低丘陵の田倉山(宝山)に寄ってみた。 ついでに其の丘陵南端部にある夜久野城跡も気になる所なので探索がてら出かけた。丹波市青垣町から遠阪峠を越えれば但馬山東町に入ります。別に峠を越さなくても有料トンネルを利用すれば数分で抜けられるんですが・・・。
夜久野ヶ原・田倉山(宝山)から鉄鈷山

R9号線に合流して右折・東へ福知山方面に向かい「京都府 」の道路標識を見れば其処が目指す夜久野町。JR山陰線は此の国境沿いの丘陵をトンネルで抜ける。其の真上に夜久野城が有るのですが車道を走っていて 登路を探すのは無理のようです。そのまま走って「ドライブイン夜久野」に入ります。此処には見返る人もなく目立たない存在ながら、名称の様に四方を堀で囲った桝塚古墳が有ります。 背後の小公園からは田倉山(宝山)・国境尾根の遥か先に鉄鈷山が、東方には居母山 龍ヶ城の綺麗な山容が望まれます。「ドライブイン夜久野」から北に向かうと直ぐ、夜久野観光スポット「農郷の里」だ。夜久野高原温泉・町特産の新鮮野菜販売・夜久野町郷土資料館も温泉の側にある。 此処から真っ直ぐ西に向かう車道が県道63号線と合流する地点に茶堂がある。ツツジの名所でもある夜久野ヶ原高原のただ中に有って京都府の西北端、兵庫但馬側の山東町 ・和田山町の国境に またがる位置に有り、此処を中心に ”夜久野ヶ原八十八ヶ所石仏めぐり”の巡拝道があります。 茶堂も夜久野城も所在は兵庫県側山東町なのですが、京都夜久野町散策コースにいれておきます。茶堂から県道を北に進み京都府の緑化センタから宝山公園に向かう車道が駐車場迄続きます。
田倉山(宝山)山頂

錦を纏った小丘が緩やかな台地の先に盛り上がっています。この丘田倉山(多久良山は俗称:宝山 点名:倒鞍山 3等三角点 350m)が京都府唯一の火山です。三角点標石柱は小屋(お堂?)と石仏の間にありました。夜久野高原の畑地の土壌は特有の黒っぽい火山灰土が目につきますが、 黒土は玄武岩の火山弾や火山灰が降り積もって出来た噴石丘(火砕丘)の南側に山裾を拡げ、溶岩・火山弾が風化したもので田圃の土は粒が粗く、水捌けの良いことから果樹栽培には最適との事で、 車道の左右には栗や茶・葡萄等の畑が連なります。
田倉山(宝山)公園登山口の紅葉

姉川の合戦場を訪れた翌日なので、 未だ合戦模様の余韻が残り、夜久野ヶ原の裾野に繰広げられた合戦の”火蓋が切られた?(・・・未だ鉄砲は使用されされていない時代だが(^^ゞ・・)”瞬間から、優位にいたはずの大将:内藤孫四郎が討たれ、山名氏方の太田垣氏が勝利した 奇跡の勝利までの戦闘を追って見たくもなりました。其れに合戦場を眺望出来る田倉山の点標名が倒鞍山とは・・・意味ありげです。


夜久野茶堂  朝来郡山東町金浦

西国観音霊場の第27番:書写山円教寺からは播但線沿いの 但馬路を和田山に抜けて第28番:成相山成相寺へ至る巡礼道 「なりあい道」が通っていた茶堂は”夜久野八十八ヶ所石仏巡りの起点ともなり、夜久野ヶ原丘陵の黒土の台地に「石仏めぐり 」と朱記された案内標識が野や畑地 ・田倉山への登山コースに立てられています。寛政年間(1789-1801)信州稲荷山の人で武士の出であったと云われる 一道貞心禅師が、 諸国巡歴の途中・夜久野ヶ原を通りかかり、茅ススキが生い茂り・狐狼が住み、火山灰や溶岩の荒野は水に乏しく、
茶堂

旅人が難渋するのを知り、田倉山長者ヶ谷より流れる水脈を辿り・この地に庵を結んで旅の便を図り、夜久野原を旅する人々の飢えを救うため、湯茶の接待をしようと発意したのが始まりであると伝えられます。 丹波・但馬の境界にあり府県道63号の道を隔てて但馬の山東町に属するが、夜久野町民にとって我が里の寺としての意識が強く親しまれ、古くより伝わる春秋2回の茶道「大師まつり」の縁日では賑わうといいます。現堂宇:放光院は昭和24年 (1949)直見西垣の高源寺が廃寺となり、此処に移築されたもので、同寺の本尊:不動明王と弘法大師像を祀られているが、本来は一道貞心開基の禅宗寺院に属しています。
(現地 茶堂案内板 参照)
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内藤孫四郎供養碑と夜久野合戦(応仁記には但州合戦とある )

室町時代中期:応仁2年(1468)3月20日足利8代将軍義政の時に起こった応仁の乱の戦火は京の都から地方にも及び、丹波守護:細川勝元と但馬守護:山名持豊(宗全)の間にも 国境の夜久野ヶ原で合戦となった。竹田城主太田垣土佐守・宗朝親子や垣屋 ・田結庄等重臣等が、京都西陣の山名氏軍に参陣し留守の守備の弱さを衝いて、 細川方の内藤孫四郎貞徳を大将に夜久氏・足立氏・芦田氏等が丹波側の夜久野から但馬に侵入します。
田倉山(宝山)展望台から夜久野古戦場を望む(中央右が農郷の里)

竹田城の留守部隊は宗朝の弟太田垣新兵衛を大将に家臣:行木山城守は和田山楽音寺に布陣します。劣勢にあった太田垣新兵衛は細川軍の規模や戦力を見抜いて行動し、 夜久野ヶ原を主戦場として内藤孫四郎は討死にします。大将を失って細川軍は敗走しますが、孫四郎を討取ったのが中路八郎三郎といい、其の子孫が敵将:孫四郎の300回忌の追善供養に建立した供養碑が茶堂の境内に建てられています。


長者森古墳夜久野町高内    育英小学校構内    京都府指定史跡

夜久野ヶ原は 中国山地の一角に属する高原地帯にあって、京都府西北端の夜久野町・兵庫県但馬側の和田山町・山東町にまたがる国境に位置し、京都府下唯一の旧火山宝山 (地図上の宝山は地元では田倉山と呼ばれます)の噴火で, 大方は南側へ流れ出た溶岩や火山灰が風化して出来た黒土層で覆われた、東西約4キロ、南北1.5キロ、標高175m〜250m程の玄武岩の溶岩台地上に拡がっており、 由良川の支流牧川が深い渓谷を成しています。遺跡は此の牧川の渓谷沿いに分布して、縄文時代から弥生時代にかけての古代住居遺跡、須恵器の窯跡、古墳が散在し石器や土器も多く出土しています。
長者森古墳・羨道から玄室

磨製石斧や石包丁・石剣等の出土品からは由良川沿いに運ばれたルートが推定されていますが、 土器の文様からは畿内や瀬戸内地方との結びつきが窺える様で,日本一低い谷中分水界を通る”氷上回廊”をルートとして加古川沿いに丹波氷上へ、更に竹田川沿いに福知山へ由良川沿いの古代の道が考えられます。 もっとも国境界の峠越えなら最短ルートは有りますが・・・・。
長者森古墳は明治37年(1904)旧中夜久野小学校 (現育英小学校)の建築に際し整地中に双円墳が発見され、建設工事の際に一基が破壊されてしまいましたが、 残る1基を築山として校庭に保存されてきました。直径約23メートル・高さ約5メートルの円墳で、古墳時代後期(6世紀後半)頃に築造されたものであろうと考えられています。埋葬施設である横穴式石室は板状の玄武岩 (西約1km地点の小倉には夜久野玄武公園がある)を積み上げて構築されており全長約 12メートルの両袖式の横穴式石室です。羨道は長さ3.1m・幅1.2m・玄室の高さ2.7m・横幅1.8m〜2.2m・奥行5.4mで、 ともに旧状が良く保存されており、其の規模は中丹地区でも最大級のものです当時の時代状況からか発掘調査はなされず、
長者森古墳・玄室部

詳細な調査資料は残っていません、出土した副葬品からは此の地の支配者が中央政権とも 密接な関係を持つ一方で、独自の勢力を築いていた事が窺えるようで、出土品の素環頭刀子・金環・須恵器・鉄馬具片などは夜久野町郷土資料館に展示されています。夜久野はまた化石の町としても知られ、 子供たちへの化石指導にも熱心な吉井氏(!資料館前でお会いしたのに名前はうろ覚え、間違っていたら御免なさい)が夜久野町で発見された新種の巻貝「ヤクノセラス・ヌカタエンゼ」他多くの化石類が寄贈され、町内等で発見の化石と 共に展示されています。
(現地 長者森古墳 夜久野町教育委員会案内板 夜久野町郷土資料館パンフを参照)


桝塚古墳  京都府天田郡夜久野町小倉

9号線沿い”ドライブイン夜久野”の側に有りながら場を隔て反対側にある為気付いて立ち寄る人も少ない様です。此処に小さな祠があり、 背後には田倉山から南面の夜久野ヶ原や鉄鈷山・居母山・龍ヶ城を望む展望台の様な築山があって、小公園になっています。道の駅に寄った観光客には、数段の階段を上れば寄れる此処へも来る人は少ない様です。

一辺約11mを図る方形の墳丘の回りに、 深さ約1m・幅約3mの周濠を巡らせていて、築造時の形態をよく現在に留めています。発掘調査が行われていないため、築造時期等に不明な点が多く有りますが、墳丘表面に大きな石材が露出していない事から考えて、 木棺直葬による古墳時代後期の方墳と考えられています。
(現地 桝塚古墳 夜久野町教育委員会案内板を参照)



 夜久野城

夜久野城(夜九野城)   城山 Ca235m  朝来市山東町金浦

京都府で唯一の火山・地図に表記の宝山(地元では田倉山の方が通りが良い・・)から南側一帯は、緩やかに裾野を拡げて夜久野ヶ原の黒土の台地が拡がっています。 田倉山から南へ低く流れ出る丘陵の先端が、京都府と兵庫県側の山東町堺の府道63号を越えてR9号線まで流れ落ちています。 JR山陰線が金浦地区と野間地区間に位置する、此の丘陵先端をトンネルで潜り抜ける上部に位置して夜久野城がありました。
夜久野城

夜久野観光スポットとなった「農郷の里」から西に進み府県道63号と合流する地点にある茶堂前を通り稲荷山の側まで来る頃には、 南面にピーナッツ状に二つの峰の 盛り上がりを見せる小さな丘陵が見えます。・・・といっても溶岩が流れ出た末端付近の落ち込んだ地形なので、府県道からは比高も殆ど無い !が北の山側を除き ・突き出した尾根の三方は険しい崖状になっているようです。
稲荷山?


R9号線側からは 駐車場所が国道側には無さそう? しかも民家や畑地で建て込んでいて、山際は崖か藪で”取り付くしま ”も無さそう・・・と北側から検討をつけていた。茶堂をはじめ町内の観光案内板にも記されている「夜久野城跡」ですが、簡単な絵図から登城口を推察することも位置を確認する事も出来ません。 城址の説明に触れているものは夜久野町の関連パンフやホームページにも 照会はされていない様です。
夜久野城本郭から南端曲輪

朝来市史や但馬の城等には載っているのかも ?築城時期や 城主等の城史については不明です。城主も諸説有り「朝来志」に寛喜年間(1229-32)佐々木左衛門が居城したとされ、平林山教蓮寺(夜久野副谷開基は鎌倉時代:弘長2年1262)縁起には城主佐々木半左衛門丞信高が親鸞聖人 に帰依していたが夜半:攻撃を受け副谷に落ち延びて住んだとも。山名氏が攻め持ち城としたのでしょう?。南北朝期:建武3年(1336)にも 但馬南朝方に足利軍が攻め入った時にも此処が合戦場の一つとなっています。
堀切南側(本郭側)曲輪のは土塁が・・


”ひょうごの城紀行”では城主に山名氏一族磯部兵部大輔豊直の名がある。豊直は元亀2年(1571)出石の此隅山城・有子山城主:山名祐豊(すけとよ)に従って、丹波の山垣城(青垣町)に足立氏を攻め落としているが 但馬内での内紛に引揚げています。 山名氏が生野銀山の備えとして竹田城の支城として【ホンとのところは太田垣氏から取り上げた生野銀山があり、牽制する意味が強かった様です】又・丹波勢の監視の最前線基地として夜久野城に入り、 弟磯部豊次が夜久野城から南西約1.5km野間と大内地区に磯部城(磯部氏館)を建て居城とします。この事はR9号線の夜久野城西、大内地区?で「戦国武将」磯部甚太夫豊次と波多野軍曹秀光之墓の大きな看板を見かけますが、 墓所の案内版に詳しい説明がされています。羽柴秀吉の但馬攻略で山名氏が滅亡すると、竹田城には代わって赤松広秀が入っており豊直の去った夜久野城には家臣:泥(なずみ)宗右衛門が暫くは守りについていたようです。天正8年(1580)続く”因幡侵攻”に磯部豊直は山名・垣屋等諸将と共に従軍し、其の功により用瀬の景石城(磯部城)に入りますが、毛利方の山名豊国の攻撃に兵を退き、 翌・天正9年秀吉による鳥取城攻めでの開城で、因幡平定が完了すると智頭郡3000石を領して再び景石城に入城します。 関ヶ原の戦いに出陣はしていないが西軍に属した為に除封され、
郭側)曲輪のは土塁が ・・

其の後:京都で没したと伝えられるが没年等詳細は不明です。夜久野城は慶長5年(1600)竹田城の廃城と共に廃城とされました。 車道は西の野間へ下れば藤孫四郎貞徳の胴塚があり、以前 湯船山〜小倉富士の登山口として訪れた夜久野玄武公園近くには孫四郎も首塚が有り探したが絵図からは探し切れなかった。 玄武公園を見下ろす展望台へも上ってみたのですが・・(^^ゞ?。
北郭側最北部曲輪と虎口

但馬守護山名宗全と丹波守護細川勝元との長い戦の幕開けとなった応仁の乱(1467-77)では応仁2年(1468)3月20日丹波と但馬国境の夜久野ヶ原を舞台として一大合戦が行われます。この合戦の細川方の総大将が丹波守護代 八木城内藤備前守一族の内藤孫四郎でした。つい前日に滋賀湖北の 姉川合戦場を訪ねたばかりで、 合戦場の余韻が残っていますので道草してしまいそうです。時代は異なっても民衆を捲き込んで阿鼻叫喚の地獄絵図が繰広げられた事でしょう。 そんな合戦場のただ中に夜久野城があります。茶堂の西方、車道側に石仏めぐりコース標識が立つ稲荷山?の小丘がある。 本当の名称を知らないが茶堂の開基が信州稲荷山から来た人で、そう思うのですが丘の上のお堂は観音堂か ?薬師堂だったか?・・・・(^^ゞ
北郭から最北部曲輪と虎口(右端)

車道を挟んだ南200m程に夜久野城があり、 夜久野城と呼応する位置というより、城の縄張り内で大手木戸か出曲輪の様子に見えます。 但馬と丹波の西端に位置して、其の境目の城はまた・山陰道の交通の要衝に立って眼下の通行を監視する事が出来、比高こそ低いが要害の位置に有って重要な監視拠点となっていた筈です。低い鞍部を掘り切って、曲輪は少ないが南北に郭を分け、 段差は切岸高く、両曲輪の北端には土塁があり、北には虎口があり下部曲輪の横を斜上して北郭に至るので、正面からも見通せて横矢も掛かる。南北朝期龍ヶ城 が丹波守護代:荻野朝忠の持城でしたので但馬を睨む前線基地の砦として・・・また室町末期:天文年間(1532〜1555)頃にも 竹田城を攻めた黒井城主赤井悪右衛門直正(丹波市)の臣か、赤井氏に与力した土豪が居城して 改修しながら使用してきた城の様に思えます。今も夜久野ヶ原には丹波市側の持畑が多いとも聞く。もっとも西南約2km地点の野間地区と 大内地区間には磯部氏館(未訪・詳細も未詳)があり、畝状の竪堀が有るという。 山名氏十八番の畝状には稲荷山?から○○工務店の作業所横を山に向かう。道を塞ぐように正面には猪の捕獲檻が置かれている。
南北の郭を分ける堀切上の土塁曲輪(北郭側)

下草の密生した平地に回り込んで取り付いた斜面は直ぐ城域に入り、 虎口上の曲輪を捲いて斜上して北の曲輪に上り着く。進入する敵に北郭からは正面・下の曲輪からは横矢掛けや北郭に向かう背後からも狙い撃ち出来る。 南西側にも帯状曲輪が有り先端部に土塁の盛り上がりを見せる。鞍部に向かって2段程の曲輪が続いて堀切があり、北側下に連絡通路か帯曲輪が延びて堀切と高い切岸を持つ南郭側を分けています。其の南郭(此方が本郭部 !)最初の曲輪上も堀切上部は土塁で堅めている。
北郭側の帯曲輪と竪堀?


本の丸部の大方は熊笹に覆われ 全容は判らないが円形状のマウンドになっている。本の丸から国道側・南西に切岸高く、下方に広い曲輪一つ残る。雑木藪に覆われている為か傾斜は然程急とは感じないので、 曲輪遺構を思わせるものも無いので、 山裾部で更に傾斜を増して崖状を呈しているのかもしれません。
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