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御影山城(出雲城)
御影山城(出雲城・出雲山城) 御影山(御蔭山) 335m 亀岡市千歳町出雲
亀岡市の北方5km・JR千代川駅の東3km地点に元出雲大社の”丹波一の宮”出雲神社があります。 三郎ヶ岳(614m)から南へ派生する尾根の途中・510mピーク附近から西に延びる枝尾根が出雲神社の背後に迫る西端近くのピークの下方には深く長い二重の堀切で尾根を切断し、尾根に沿って7〜8段の顕著な削平地を残す山城跡があります。
御影山城主郭1段下の帯曲輪
出雲神社から望む(此のページトップの写真参照)穏やかな山容からは想像出来ません。山中へ入ると巨岩が随所にあって傾斜の増す尾根近くには露岩が点在しています。 此処に山城があったことは、
丹波八木城の内藤氏関連から三好長慶関連に行き着きますので"池田の勝正さん
"や"つい先日・北河内の飯盛山城案内でお世話になった"まよいのすけさん
"其れに此処の城主となった柳本賢治では"YORIさん"もご存知ですね。
御影山城帯曲輪内の井戸跡
城址は出雲神社の背山にある御影(陰)山(御山 335m)と呼ばれる御神体山にあって、境内周辺の多くの巨岩には神々を祀る注連縄が飾られます。此れ等は出雲石と呼ばれ愛石家の間では
有名なようですが、溶出したマグマが地表で固まったような黒ッぽい岩が庭石や観賞用になるのかと素人の私には意外な感じがするのですが。本殿前には御影山から湧き出す「真名井の水」を求めてポリタンを持って
平日も訪れる人が絶えず、行き帰りに見かけた取水場は順番待ちでした。さて此の上手から神々を祀る岩場巡りの参道を経て城址へは大手道と思える山道を入るには、此処が神体山ですので本来なら「入らずの杜」かも!!…御影山(御蔭山)は信仰心無では立入り難い感じです…敬虔な気持で
!!不敬にならないように。丹波一の宮出雲神社は元出雲・出雲大神宮と呼ばれる島根・出雲神宮の本宮だとされます。
本丸2段下の石列は平虎口跡か?
縁結びの祭神・大国主命と三穂津姫命が祀られます。大国主命は沼地だった此の地一帯を保津峡を切り開き、
水を排出して干拓した丹波の国造り神としても祀られます。出雲大神宮から極楽寺へ通じる林道だろうか?山に向う丁字辻にも注連縄をした大きな磐坐がある。暫らく辿る山道の分岐はどちらを採っても急斜面となって
攀じ登る状態になると踏み跡も消えてしまいます。 冬場で藪が薄い上に露岩が多いので傾斜はキツイが登り易い。しかし此れ程の険しい山の尾根に城が築かれたのかと驚かされる。永正年間(1504-21)末期には八木城
(船井郡八木町)の丹波守護代・内藤備前守国貞(弾正忠・)の出城として柳本伊予守賢治が拠ったとされます。 内藤国貞は細川氏綱や三好長慶に与力し天文22年(1553)木目城(神尾山城)において討死します。その後は篠山・八上城主・波多野元清が細川高国に味方して
丹波一円に勢力を拡大していたので、波多野氏の出城となったとの見方が出来るのかも・・・!!??。
本丸東の空掘りと土橋
「桑下漫録」にも"西南二方は壁立にして直上は山獣にても不可登…もし一足過まれば谷底まで止事なからん…"と記されている天険自然の要害の地。柳本賢治は享禄3年
(1530)播磨で討死しており、その後は丹波守護代内藤国貞の支配下に置かれ広瀬但馬守等が拠ったと考えられます。東方から西端にのびる尾根上に階段式に曲輪を連ねる御影山城はその東上部へ続く尾根を深く長い二重の堀切で
断ち切って土橋で繋いでいます。東西に長く深く掘り進んだ二重の濠は堀切というより武者隠しを兼ねた空掘のようで、 二つの空掘りに挟まれるように出丸が配されています。本丸から北方へ3段、西方へ6段続く曲輪は
何れも比較的よく遺構が残り井戸跡や石塁、土塁も見られます。
(日本城郭大系・新人物往来社 を参照)
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