上山谷〜猿子城山〜ボテ峠〜施福寺 / 平石峠〜岩橋山〜大和葛城山

大阪 和泉(地図=五条・岸和田) T上山谷〜猿子城山〜ボテ峠〜施福寺往復〜滝畑 2001年09月09日
大阪・奈良 (地図=大阪東南部) U 平石峠〜岩橋山〜持尾峠〜大和葛城山〜葛城の道 2003年02月01日
関西百名山
近畿百名山  大和葛城山 960m
近畿の山城(奈良)
: 布施城楢原城吐田城 玉手城 国見山城
近畿の山城(大阪)  持尾城 平石城(平岩城)  猿子城(鬼ヶ城)
十二支の山:  猿子城山
霧氷の大和葛城山

校歌・故郷の山

富田林市
金剛高等学校♪xxx…東の金剛・葛城 仰ぎ見て…♪
南河内郡河南中学校  ♪鉾杉こぞる 葛城の xxx…♪
 〃   太子中学校   ♪緑なす葛城山は xxx…♪
和泉市 信太高等学校 ♪金剛 葛城 山なみ遠くxxx…♪
桜井市  関西中央高校 ♪葛城金剛 望み立つxxx…♪

国道170号線を藤井寺から 河内長野市へ走ります。震災疎開で泉佐野市に居た6〜7年前まではこの国道を利用して 金剛・葛城の山に通った懐かしい路線です。関西サイクルスポーツセンタ横を抜けてトンネルを抜けて滝畑ダムへ向います。 滝畑から光滝寺や岩湧山周辺へも何度か来たけれど、 岩湧山登山口にある新関屋橋から下の 河原を横切って樹木に覆われた対岸の小さな溝谷が、これほどのスケールを持った谷とは今まで知りませんでした。
新関屋橋と赤い屋根?の見える下辺りが上山谷入り口

上山と猿子城山 ・槙尾山から三国山・経塚山へと続く桧原越えの尾根に囲まれた急斜な谷に興味は有りました。 山頂がツツジで彩られる 春の大和葛城山は冬場も金剛山と同じく霧氷見物や雪遊びに訪れる親子連れや グループでく賑わっています。ダイトレの平石峠を越せば大和葛城山への稜線上に名有るピークは、目立たない岩橋山が有るだけなので人気薄、静かな尾根歩きコースです。 金剛山で代表されるダイトレですが金剛山・葛城山ともに修験道の山ですが、これから向かう岩橋山も点名「葛城山T」で、
上山谷

山名に由来の「久米の岩橋」は 役行者の橋掛け伝説として残っています。 稜線上の経塚は金剛山周辺のほうが多いようですね。奈良時代、山岳仏教が盛んだった頃、平石谷の入口から奥にかけても堂塔伽藍が点在していたといい、柿ノ木谷の出会いの広い削平地は いかにもと言える雰囲気です。 平石峠には役行者と不動尊像が祀られ名残を留めているようです。今日のスタートは大阪・南河内郡平石から・集落中程に 平石城があるので立寄ってから平石峠に向かいます。



Tゴルジュの谷はスリル満点上山谷〜猿子城山〜ボテ峠〜施福寺往復〜滝畑
2001年09月09日

滝畑ダムの龍胆橋近くのトイレ付き駐車場から出発です (AM7:35)が今日は日曜日・駐車はJAの前でも良かったと後で気付く。スポーツ店が上山谷に 初級沢登りツアーを組んでいるのを知って、沢登りを始めたばかりの「山と小箱」(=^・^=)★さんを伴い半年振りに大阪の山に来てしまいました。 滝畑の石川の支流・ゴルジュの谷はスリル満点です。前日までの降雨量が心配で一日延して上山谷への入谷です。谷を詰め上げて上山(778m)を往復し、猿子城山から西ノ村へ下るのが 今日の予定です。
橋から上山谷入り口を見る

新関屋橋から河原へ降り(AM8:25)広場で準備を整えます。 私にとってXX年ぶり、彼女も始めてのヘルメット姿なので少し照れ気味、恥ずかしがって正面を向いてくれません。 太目の3mシュリンゲをダブルにしてゼルブストの代用にしてカラビナをセット、 2本ばかりのカラビナとシュリンゲを彼女に持たせてイザ出発です。ブーリンノット【もう30数年前のロープワークで 近年:岩に摺れて外れる事もあり危険な為ロック・クライミングとしては使用されないと聞いたが】はもう忘れちゃったようです。簡単なエイトやフューラ結びも今は未だ不要。 正面の上山谷へは何時もなら底の見える処ですが流れも強く深いので、少し下手の浅瀬(膝上まで)を探し渡ります。
準備OK正面の岩が上山谷入口
み〜とさんの勇姿!

彼女は流されそうだと不安そうですが 泳げない私が大丈夫だと…安心させて渡りきります。山谷は既に入り口の石造り?の導水路を頭上に見て直ぐに、黒っぽいゴルジュの中に2〜3mの小滝が次々と現れてきます。ハジメっから今日はドンドン濡れていこうとの意欲ですから滝は出来るだけ捲かずに行きます。 短いへつりにもザイル確保。 小さな滝場も頻繁にシュリンゲとカラビナ組み合わせの、お助け縄で切り抜けていきます。岩は硬くしっかりしているので思った以上に安心して登れ、連瀑の滝を次々と突破して
(=^・^=)★さんは、もうスッカリ岩と水の感触にも慣れスリルを満喫されているご様子。
暗いの上山谷・飛沫でイメージが伝われば (^^ゞ

 やがて両岸が20m近い岩壁でゴルジュに懸かる大滝 (2段約15m)が現れて此処の突破をどう感じたかは聞けなかったが「死ぬかとおもった」との当夜のメール内容からは 真意は推し測れませんが滅多と無い緊張感に陶酔?された事でしょう。取り付き点から頭上のロープで一旦ビレーをとって垂直の岩場を抜けて草付きに出、立木を伝って捲き道に達します(AM10:00〜10:30)。 谷も岩も慣れない彼女にこんな所を登らせてしまいました。 ロープを伝って大滝上部の河原に降り、暫らく休んで落ち着いたら出発。谷筋には快適な小滝が続きます。またも前方には深く切り立ったゴルジュの奥に恐ろしい程の迫力を見せる険悪な滝が現れます。 煙突を縦割りにしたような チムニー滝の上部へは右岸にロープのある高捲きルートが有ります。
大滝左岸の岩を直上

戻れば左岸に山道が続いているが…何処までも谷遡行にこだわります?しかし大滝の岩場で体力消耗気味の彼女には此処のロープ伝いの直上のあとの 高度感ある!!トラバース気味の乗越しに一寸躊躇して先に進めませ〜ん。ザイル確保で捲き終えます。此処を過ぎると、なんだか気が抜けたような比較的穏やかな流れとなり谷も明るくなってきたように感じます。 勿論またまだ小滝は続きますが快適にこなして行けます。取り水口と導水路のある山道の側で 谷を離れ山道を採ります(AM11:05)。沢筋は藪や倒木に覆われて面白みが無いように思えたが、 1〜2mの小滝ながら楽しめそうなところが続いて古い索道跡の残る集材所の搬場を通ります。 狼谷の出合いの丸木橋を渡って本谷沿いに暫らく進むと、 山道分岐が有り右方向に猿子城山・施福寺方面を示すプレートが有り(PM12:50)上山谷沿いに直上の山道も明確です。
遡行を終えて猿子城山山頂へ

上山へ出て往復して猿子城山への計画は
(=^・^=)★さんの「槙尾山へ行きたい」の一言で決まり右の谷よりにテープを拾って急登です。 谷筋を忠実に詰めるのが正解だったようですが私たちは枝尾根に向います。枝尾根に登りつめ昼食にと座った途端・スポットライトのように明るい日差しが差し込んできます(PM1:20)。 三国山へと続く桧原越えを望みながら狼谷源頭へ向かい 桧原越えのトラ尾の分岐に出る。(PM1:35)。この尾根は西国第4番札所の施福寺へ通じる旧巡礼道で、丁石地蔵が有り通過ポイントの確認価値も有りそうですね!! 上山は諦めていますので此れより猿子城山から施福寺を目指します。
施福寺本堂

10分程で尾根の最高ピークは樹木に囲まれ展望には恵まれず通り過ぎようとして猿子城山の標識を見つけます(709m PM1:45〜1:55)。 山道を少し降った平坦地に城址の標識を見つけます。南北朝期・楠木氏の城塞跡のようです。緩急の降り続ける山道をボテ峠に降り立ちます(PM2:25)。此処からはダイヤモンド・トレールの 広くて歩きやすい道。槙尾山:施福寺までは結構な道程ですが此処から往復することに…槙尾山の露岩とその直下に施福寺の屋根が見え始めますがそう簡単には到着できません。
まだ此の先で番屋峠(PM2:40)から谷に沿い谷を離れて北山谷林道に降りてきます。追分(PM2:50)と呼ばれ此処からは嘗て施福寺が隆盛時の寺跡の石積みが其処此処に見られ丁石地蔵も立ちならぶ道ですが、疲れた身体には結構きついフイニッシュの登りとなります。施福寺に着いて今日始めて人に逢い、 ダイトレ道は参道と合流して施福寺本堂前(境内の東側)に茶屋があり金剛 ・岩湧山の展望台になっています(PM3:10〜3:25)。
施福寺本堂前の展望広場にて

緑に映える岩湧山の草原尾根等眺めてホッ…しかし時間も遅いので余裕がありません 。茶店の前を抜けて元来た道へと引き返し、番屋峠(PM3:50)〜ボテ峠(PM4:00)へと引き返し滝畑への道を下り続けて西ノ村集落の登山口(PM4:30)に出てきます。前日まで降り続いた雨も滝畑ダムの水位を上げる程ではなかったようで、 釣り人も何時もと変わりないのんびりムードです。龍胆橋の駐車場も数台が残っているだけで登山者など影も見えません(PM4:55)。狭山から堺市に向って帰りの車を走らせます。
       


U平石峠〜岩橋山〜大和葛城山〜クジラの滝・行者街道{葛城の道}  H15..02.01

近鉄富田林駅から河南町に向かう。 ぷくぷくドーム(河南町立総合体育館)前から府道を平石へ向かうと、竹内街道や太子温泉への分岐に地名標識「平石」が立ち、片道500程で左手民家の裏山に 平石城(鎮守山242m)が有るので先ず立寄る。早朝で辺りは未だ薄暗い感じですが見逃す手はありませんよね(AM6:35)。今日の山へのスタート地点はも少し先。此処に戻ってくるが集落内での長時間路上駐車で 迷惑をかけるわけにはいかないので高貴寺下(AM7:10)まで進みます。寺の専用駐車スペースも有りますが、登山口の空きスペースに車を寄せる。高貴寺参道側の道標には「平石峠⇒」の木製プレートが付けられ 頭部の欠けた古い石の道標が建つ。その側から峠に向かう舗装林道へは左に 「金剛生駒国定公園」の大きな案内標識、右に国定公園を示す石碑が建っています。谷川に沿って湿気た簡易舗装林道は流れ出た水と残雪が凍って滑りやすい状態が暫らく続き、やがて杉林の続く山道となります。
高貴寺(正面)下から始まる平石峠への道

柿ノ木谷出合い(AM7:25)は広く削平されており、 山岳信仰盛んだった頃は此処にも堂宇が建っていたと思われます。岩橋山への近道!分岐道標が建っていますが、面白みの無いコースなので降り道には良いかも知れない。柿ノ木谷出合いからは約10分で役行者と不動尊像を祀り第24経塚のある 平石峠(AM7:35)に到着です。
ダイヤモンド・トレールとして整備された金剛・葛城山系の縦走路ですが、二上山〜竹内峠〜平石峠までは「葛城古道」を巡る登山者を見かけることはあるが平石峠〜大和葛城山間に 目立つピークは岩橋山くらいなので、葛城山系縦走路特有?とはいえ杉林に囲まれ展望に恵まれないうえ、 長い木の階段が登り下りと人気の無さに拍車をかけてのマイナーな山域になっています。しかし登山道は広く道標も完備していて意識して脇道に逸れない限り迷う事も無いハイキングコースですので、 前回の二上山同様、コースのトレース案内は控えます。
平石峠

峠の数段の階段道を登れば 後は緩やかな道が続きます。岩橋山の前後は急階段が連続します。その前に西面が切り開かれてPL教団の白い塔が一際目立つ富田林の市街地や関空(関西国際空港)が望まれる休憩適地!!が有るので、 立ったままでも暫らく休んで行きます。杉林の中の登山道に木のベンチを中心にした、広い空き地?に出てくる。展望はないがホッとして落着ける場所ではあります。其処が岩橋山山頂 (3等三角点点名:葛城山T 659m AM8:16)です。山頂から西の尾根筋には岩橋山の由来「久米の岩橋」を始めとする名石を巡るコースがあるようですが、 随分荒れているらしく??以前・久米の岩橋から「胎内くぐり」へ降りてしまい、此処まで延びてきていた長い林道を 平石降った事がありました。名石巡りの尾根コース・今は 整備されたか、ますます廃道化して踏み跡も消えたかわかりません…山頂から岩橋峠(AM8:20)へも急斜面に階段が続きます。次の目的地は布施城です。 30分程で「布施城址・新庄⇒」の分岐に着きます(AM8:40)が、新庄に降る雪道に靴跡は残っていません。それでなくてもマイナーな縦走路の、そのまた枝道ですので利用者は推して知るべしです?…。
平布施城・階段状に連郭はまだまだ続きます

分岐からの道は直ぐに細い溝状の其処に付けられた急斜な下降が続き、緩やかになってくると右手から降りてくる道と合流して程なく、 剛友会20周年記念と書かれた「布施城址」案内板があり10段程の木の階段がある。広くなり、 また深く侵食された溝状の登山道は真っ直ぐ東に下って行きますが、登山道の左側には尾根の斜面を削平して、幾段も曲輪を連ねる城の遺構が残っています。登山道から曲輪へは、急斜で崩れかけた側壁に突破口を見つけなくとも、 案内板のある階段を登り切ったところが最高所にある布施城(寺口山 484m AM9:00)の本丸跡で、見晴台か櫓を連想させるようなベンチ?があります。 本丸からは下降する尾根には堀切もなく、単純に曲輪の段差が続くだけなので10数段まで降ったところで引き返したが、も少し降った曲輪には櫓台や城址碑が立つ様です。

曲輪に沿って溝状の登山道へ降り立つ場所を探しながら登り返し、 再度タイトレの分岐に戻り(AM9:30)大和葛城山を目指し10数分で持尾辻(AM9:43)です。此れより先への行程も、いずれ此処に戻ってきて持尾城経由で平石へ戻るのです。前方の急な尾根筋に木の階段が見えてくる頃には 登山道側の雑木に霧氷が輝き出します。雪道の階段を登り切ったところで、弘川寺からの道と合流すれば葛城山も直ぐのビジターセンタ(AM10:30)横に出てきます。売店前を通らず手前から直接山頂へ向かいます。 積雪は余りないが斜面には残っていて其処此処でプラのスノーボートで滑りを楽しむ子供の嬌声が聞こえてきます。大和葛城山山頂(2等三角点959m 点名:篠峰山 AM10:40)に到着です。点名では通過してきた岩橋山が葛城山で、葛城山は篠峰山です。金剛山を含めて葛城三山とも呼んで見たいところです。 南葛城や和泉葛城もあるのでヤヤこしだけかも…(^^;空模様が怪しくなってきて、金剛山稜線は雲が舞っていて雄大な山容を隠しています。
布施城の曲輪群

この後、御所に下ったPM12:00頃から、 ほんの暫らくだったが雪が降って来た。山行の計画は此処までですが、も一つ寄って見たいところがあるのでロープウェー駅へ向かいます。 葛城天神社手前からクジラの滝経由で葛城登山口へ降りますが、 千早〜金剛山のコース程ではないが登山者の多い道は、雪も固く凍って歩き辛く、登り降りでは立ち止まるとズルッと滑るので走らず・止らずの要領です!!?。 コース横の二ノ滝(行者の滝)を経て櫛羅(クジラ)の滝(AM11:35)に寄って見ます。コースから僅かしか離れていないのに今の時期、山頂の雪遊びに急ぐ為か訪れる人が少ないのは 側にあるベンチの上に残る雪の状態でも、ザックを置いた形跡が少なくてわかります。登山口駅から猿目を経て葛城の道を九品寺に向かい 楢原城址へ寄るのが最終目的です。 この後は同じ道を引き返し持尾辻から持尾集落へ此処では僅か「200m先・持尾城」(PM5:00)の標示に遅くはなったが立ち寄ってから、広域農道を平石の高貴寺下の駐車場(PM5:50)へと戻ります。


「岩橋山の岩橋」伝説

岩橋山山頂の西面の立石原周辺に有名な!!久米の岩橋・鍋釜石・鉾立石 ・胎内くぐり等名石??を巡るコースが平石集落の間にある。以前:岩橋山から岩橋と胎内くぐりの岩場を通り直ぐ其処まで延びてきていた林道を辿り、 モミジ滝谷コースで平石へ降った事があったが、今回も他の岩を見る為には立寄っていません。岩橋もオヤッ・此れがっ…と思うほど小さいですが底の板状や 両端が僅かに高くなっていて石橋の体裁は残しています。葛城山系の二上山〜葛城山〜金剛山にかけての山々は 全て葛城山と呼ばれていたのですが岩橋山(3等三角点は点名:葛城山T)は、ズバリ葛城修験の山です。

大和葛城山山頂

しかも役行者が修験の苦行が辛くなったのか ?神様を使役して葛城山から吉野の金峯山の間に石橋を架けようとした山です。 神様を動員して架橋工事をさせますが一言主神は顔が醜かったので夜しか働かず、為に石橋は完成しなかったといいます。岩橋が南東の金峯山へ向かず、南西の河内長野から高野山や伊都郡かつらぎ町を 向いているのはご愛嬌ですか…!!。これら石橋の一部が山中に残っていること、使役された神様・一言主神は顔が醜くかった為、夜しか働かなかった事、どこか兵庫・中町の妙見山と笠形山の間に橋を架けようとした 「あまんじゃこ(天邪鬼)の忘れ石 」の話と似ていて伝説の微笑ましい一端が窺がえます。
=========================================================
「葛城の道」

ロープウェーの葛城登山口から楢原城跡へ行って見ようと御所市猿目に降りて来て 「葛城の道」の道標を見かけます。何処から何処まで続く道なのか知らないが 役行者が御所市茅原 (生誕地と伝えられています)から葛城山(葛城山がどの山を指すか分からないが「葛城の道 」行程からいけば金剛山になるね!!)に修行に通った道が整備されたもので、葛城山麓を南へとって 九品寺方面に幾つもの古代遺跡や寺社仏閣を訪ね歩ける散策道となっています。 奈良盆地の三輪山を中心に三輪王朝を築いた春日・物部・三輪氏等に対し金剛・葛城連山を中心として葛城・平群・巨勢・蘇我氏等が葛城王朝を形成し
二の滝(行者の滝) H15.2.1

大和朝廷成立以前の葛城氏の古代主要道路が「葛城の道」です。 猿目の車道脇の広場に石碑とお堂が祀ってあり石碑側には葛城第23経塚とあります。 お堂の中に六地蔵でも祀ってあるのではと覗き込みますが、内部に地蔵尊はおわしません!!。民家の路地とも田圃の畦とも思える細い道を南に採って進むと六地蔵に着きます。 六体の地蔵尊が浮彫りされた
大きな石も、この地が度々災害にあっており室町時代・土石流により現在の此処櫛羅に流れ着いたものと言われます。葛城山を急激に下る土砂崩れの「崩れ」が語源となったといわれます。 そうだとすると、ロープウェー横から葛城山への登山道途中にある櫛羅の滝の名の由来は:
番水の塔(時水の塔)H15.8.30

弘法大師・空海が此の地を訪れて 「天竺のクジラの滝によく似ているので供尸羅(くじら)と名付けられた」意味とは違うようですね…!!説明板には、 その後領主の永井信濃守が「供尸」という字は、「供に屍」と書くので良くないと云って「供尸」の2字を「櫛」に改めたとあります。 長閑な農道の道も民家の側にくると途端に屈曲して進む方向を見失いがちになりながら九品寺を目指します。 九品寺は聖武天皇の勅願によって僧・行基(奈良時代)が開基したお寺です。 寺の周辺に数多くの石仏があることで有名ですが千体石仏とよばれる石仏群は南北朝期・この地を支配していた豪族、楢原氏が南朝方について北朝方と戦ったとき、 人々が身代わりとして奉納したものと伝えられ、 身代わり石仏とも呼ばれています。 駒形大重神社と九品寺の間で、木製の燈籠のような不思議なものが田圃の畦道に建っています。
葛城の道・楢原から大和三山遠望

「葛城の道」案内にある番水の塔(時水の塔)が此れだったんですね。 余り聞いた事も、 まして見たことも無い珍しい装置で、柱の上部にはアナログの時計が置かれ、切り替え時間表が横に貼られています。時間を決めて水路の堰を切り変えるものだそうです「番水の塔」後から駒形大重神社の石鳥居に向かいます。 駒形大重神社は駒形神社と葛城大重神社として、別々に祀られていましたが、明治40年に駒形神社に合祀されたそうです。 駒形神社の祭神は、名前からも馬や牛を祀る農業の神様でしょうか。大重神社の祭神には葛城雅犬養連網田が 祀られています。この人物は大化元年(645)6月・伝飛鳥板蓋宮の大極殿で中大兄皇子と 中臣鎌足によって蘇我入鹿を暗殺したとき、入鹿を殺せと命じられた人物だったそうです。
駒形大重神社  H15.8.30

「葛城の道」を辿った目的は九品寺西の背山にあった楢原城に行ってみることでした。 おおよその城域に見当をつけただけで出かけ、林道を終点の酪農民家!!まで行ってしまったり、引き返して入り込んだ谷筋の最奥からは藪漕ぎを強いられながらも奥城に行き着きますが、た尾根上は猛烈な篠竹の藪です。 時間切れで、又も藪漕ぎで谷へ何とか滑り降りて帰路を急ぎます。 此れからダイトレ葛城尾根に登り返して平石まで戻らなくてはなりません。今回の報告で、城ファンの八尾"山城さん"や、低山徘徊MLメンバの"NORIKAさん"からも貴重な訪城情報を頂きましたので、 城の中枢部を狙って再挑戦してみます。取付きとなる貯水池の工事が終わる頃に出かけてみたいですね…(~~;



平石城布施城 持尾城楢原城 吐田城玉手城 国見山城

平石城(平岩城)
 鎮守山(城ヶ塚) 242m  大阪府南河内郡平石町 

集落の地名標識から左折して竹内街道へ抜ける分岐から平石城への標識があり 約500mで山頂本丸に到着します。民家の裏手へ抜けて山裾を捲くように道が続きます。出曲輪に続くと思われる本城への分岐まで は雪道だったが、緩やかな傾斜で単郭の本丸をぐるりと取巻く恰好の腰曲輪へ続く登城道や本丸には雪は消えていた。 朝早かったのと展望の無さで周囲は未だ薄暗かった。元の分岐の直ぐ先は出丸ではなくゴルフ場になっていましたが、この城は赤坂城塞群のひとつで、葛城二八越え「平石越え」の入口に位置しています。
平石城本丸跡

平石(ひらいわ)は:元弘の乱【元弘元年(元徳3年・1331)】楠木正成が後醍醐天皇に拝謁し、赤坂城(下赤坂城・上赤阪城 )を築き挙兵したが、その呼び掛けに応じて河内の在地豪族・平岩左衛門尉茂直が此処に築城しました。同年、赤坂城攻撃に向かう関東軍が平石峠を越えて大和から河内に進入してきたが、 茂直はこの城に拠って防戦していますが、翌元弘2年(正慶元・1332)茂直は関東軍との合戦に此の城で戦死しました。建武の中興(1334〜38)で鎌倉幕府の滅亡後の正平14年(1359)赤坂城落城後、 楠木氏の根拠地となった千早城城主が正儀(まさのり)の時、平岩一族は楠木正儀の武将として足利軍が河内に攻め入った時には茂直の子・茂幸が防戦し討ち死にした所でもあります。平石城は府指定史跡になっていて 山頂の本丸には城址碑、当時の合戦状況図絵・説明看板があり、正四位平岩左衛門尉茂直の石碑や石の祠(平石大明神)が並んでいます。なを東700m程の地には役小角の開基で、文武天皇の勅願による高貴寺(高野山真言宗 ・府指定史跡)があり、平安時代初期の弘仁年間(810-824)空海が 「この山は香華が多い」と感嘆して香華の山と呼んだのが寺名の由来とか。南北朝時代には南朝に属した為、平石城攻めの際に寺は焼失してしまいましたが、 平石峠は大阪(河南)と奈良(當麻・大和高田)を結ぶ交通の要路です。高貴寺も平石城の出城・城砦としての機能を持っていたのかもしれません。



布施城(二塚城)   寺口山 484m   北葛城郡新庄町寺口字布施

この城へは近鉄新庄駅から西方へ寺口を経てダイヤモンドトレール葛城山縦走路(岩橋峠と持尾辻の中程 )へ登山道が延びていて、その尾根の中腹に布施氏が築城した布施城が有ります。階段状に曲輪を延々と300m近く連ねる 中世の山城は北面を大坪谷、南面は柿本川の上流の谷が深く切れ落ちて天然の要害を形成しています。
平石城本丸

曲輪に沿って横堀状の深い溝となったところが登山道で、 城址上部にある本丸へはこの溝状登山道を抜け出た尾根から階段を数mで到達出来ます。 布施城は「平田庄の八荘官」の一人で興福寺一乗院方国民・布施氏の居城です。本丸から下の郭へ降りる東端の土塁道内壁をはじめとして、 多くの場所に石積みの跡が見られるようです。
高い切岸の曲輪群と北側側面

なを布施城は山麓に二塚古墳があり、二塚城の別名がある。戦国時代の末期には大和の統一を争った筒井順慶が松永久秀に攻められ際一時・布施氏を頼りこの布施城に逃れ、葛城地域を支配するための拠点としています。


持尾城  
茶臼山(城ヶ塚)336m  南河内郡河南町持尾

葛城の山脈を越える竹内峠 ・平石峠・岩橋峠等は、大阪(河南)と奈良(當麻・大和高田)を結ぶ交通の要路ですが、大阪側の持尾城から持尾辻を経て布施城の側を抜けて新庄へも「葛城二八越え」のひとつ「布施越え」の古道が通じていました。 赤坂城塞群のひとつで元弘2年(1332)に楠木正成が築き、平岩氏が拠った砦です。その平石集落にある平岩城址と、持尾集落の持尾城は平石越えの古道を挟んで対峙している。

ダイトレ・コースの持尾辻から古道「布施越え」で 平岩へ通じる広域農道を辿るつもりで持尾集落の峠に来た時、弘川寺〜高貴寺等を廻るハイキング道標があって、此処から僅か200m先が持尾城址と案内されています。時間は遅くなってしまったが、折角なので寄っていきます…(^^; 民家横の細い坂道は、直ぐに真念寺本堂前に着きます。舗装の小道がこの小さな城を取り囲むように周回しているようです??。寺横に上に向かう道が有り、休憩・展望小屋が見えれば其処が山頂です。休憩小屋からの展望は良く、 河内平野が拡がり大阪湾が日没前の僅かな輝きを見せています。広くもない削平地の頂に城址碑と説明板が葛城山脈を背にして並んで立てられています。



楢原城(楢原山城)  城山(奥城・最高地点)380m   御所市田口字城山・サオンジ

御所市楢原の西方にある九品寺 (くほんじ)や駒形大重神社の背後・葛城山の山腹に、室町時代後期・興福寺の大乗院方の国民・楢原氏の居城がありました。駒形大重神社の石鳥居から九品寺の霊園裏手の林道を辿った。 貯水池(御鏡池 )が工事中だったので遠慮して、さらに林道を詰めて終点の果樹園と酪農農家まで行ってしまい、引き返して最初の谷を詰め上がり、最高所にある「奥城」へ倒木と藪を突いて辿り着いたが、「中城 」へは猛烈な篠竹の密生地で 行軍を諦めたが、地元の金剛山系の登山同好会のレポートで、駒形大重神社から葛城山トレースの記録を戴いたので、取付きとなる池周辺の工事終了時期を狙って再度、訪れて見たいと思います。池の少し先の沢筋に道があるようです。エアリアマップの城記号と違って、 今回戴いた楢原城の縄張図のおかげで、中城の土橋や連続する堀切や 畝状竪堀が見事だとも聞かされてますます興味が増強します。
「時水の塔」から楢原城の遠望

今年二月に西端の奥城に行ったが本城の前城・中城に行けなかったので今回(H15.8.30)リベンジ訪城です。吐田城址の山裾にある一言主神社の駐車地点から、 九品寺に向けて葛城古道を歩きます。在地豪族の楢原氏が南朝方について 北朝軍と戦ったとき、 人々が身代わりとして奉納したものと伝えられる、千体石仏群のある九品寺前から北へ抜けると田圃の中に立つ「番水の塔」と、その北西には駒形大重神社の石の鳥居が見えます。前回は行き過ぎて取り付いた林道からの道は、 工事も終わりフエンスに囲まれた貯水池の先へ林道を進み不法廃棄物が入口を塞ぐ小谷からです。谷左岸(右側)に沿って中城の中郭部へ詰め上がりますが、途中右手の急斜面に踏み跡があり、前城のサオンジに出ます。さらに中城に向いますが、この時期・冬場に訪れた上に藪もひどく難渋しますが奥城の時と同様・古い赤テープを見かけます。 剛友会が葛城山へ尾根トレースされた時のものでしょうか!!。
楢原城・土塁道の先には帯状曲輪群が・・

楢原氏は応仁の乱(1467)中に越智方から筒井方に転じて南隣の吐田氏と争っています。後に越智氏とは婚姻関係を結んで一門となり、 南大和では越智氏に次ぐ勢力となっており、城の規模からもその実力が推察出来ます。 三区画に分かれている楢原城址は、其々に縄張りが異なっていおり、最奥・西端の奥城は単純な連郭式の古い縄張りで 本来別の城だったようですが、中城が 築かれた頃には奥城も取り込んで共に使用されたと されます。中央部の中城は北側斜面に竪堀が土塁道に沿って10本も切られて(畝掘)います。 東の前城には七段の曲輪が続く一角で、段差は明確では有りませんが長く広い尾根上の削平地に堀切等の防護設備は無く、 左音寺(サオンジ)を利用して城郭化したもので城主や家臣団の居館として利用されたようです。
楢原城・土塁道の先には帯状曲輪群が…

中核部へは倒木や藪がひどくて中城東端部の曲輪は確認出来ないまま北側よりに捲きながら堀切に出てしまいます。細い稜上の土塁道も藪に覆われ前進を阻止されそうなので、堀切から南斜面へ降りましたが実は此処から先が核心だったのです。 反対側の西北へ、少し進めば畝状に何本も続く竪堀群の事を聞いていたのに見る事が出来ず残念です。中核部へ続く土塁道と南側の曲輪へ続く土塁道に挟まれるように谷の上部で階段状の帯状曲輪が数段続きます。余り見かけない形状の縄張りで、 規模の大きさからも此処は駐屯部隊の居住区域だったのでしょう…!!このまま帯状曲輪の下方へと谷を下っていくと足下に素焼き瓦の破片を見かけ、程なく・先程サオンジへ取り付いた踏み跡に合流します。室町期の屋敷か、 それ以前(鎌倉期!!)に在った左音寺の伽藍のものかは時代考証が必要かも…

(新人物往来社 「日本城郭大系」参考)



吐田城(オニガ城) 城山 280m   御所市関屋字城山  未訪

吐田(はんだ)城址は水越峠の口を押える要衝の地にあって北方の楢原城とは1km程しか離れていない。応仁の乱中に楢原氏が越智方から 筒井方に転じ吐田氏と対立していた。吐田氏や楢原氏も永正年間(1504-21)の国判衆十二氏の一員になった有力国民だったが、戦国時代に入ると楢原氏に圧倒されるようになり、この城も楢原氏に使われた可能性もあります。 一言主神社から歩き始めた方向が違っていた。葛城の道を北の九品寺(楢原城側)へ進み小川(観音谷)の先に見える台形丘稜を吐田城址と見誤った。反対に南側を進み知谷を遡っていけばよかったのだが…(^^; 城址は尾根の形状を有効に使った 放射状式の連郭で曲輪には食違い土塁が残っていると聞きます。楢原城との関連や楢原館・吐田館・葛城の道案内図で見かけた吐田城主・吐田越前守の子孫中村正勝が慶長年間の代官屋敷として建てたといわれる中村邸等へも場所は知らないが …!機会があれば寄ってみたいものです。
(新人物往来社 「日本城郭大系」参考)


玉手城   玉手山 156m   御所市玉手

09号を高取町や明日香への懐かしいコースを走ります。 富田の標識で国見山城へ寄るつもり、浄水場からは行止り標識で不安・・稲宿でJR和歌山線を越え今住から西方にある鳥居マークからと思ったが、今も変わらぬ今住の恐怖に近い??細い車道は結構交通量も有ります。山も其処に見えているが此処を諦めて玉手城址へと、JR掖上駅から池之内へ出る病院マーク(鴻池会)へ向かいます。 病院手前の峠に指しかかる頃、田圃の中に掖上鑵子塚(下記参照)古墳を見て、ゲートのある空地の奥へ入っていきます。
掖上側から玉手城址遠望

池を抜けて此処も倒木や、棘の木の多い雑木を潜って進みますが城の遺構らしいものさえ見出せず 藪の頂部に立って始めて、平坦地が曲輪跡だと感じられる程度、尾根通しに南へは小さな堀切を隔てて曲輪があるようですが、確認に向っていく戦意も消失し、あまつさえ曲輪等の遺構を期待して下降を北の尾根筋に採った為、 反対の考安天皇稜(玉手古墳)側へ降りてしまった。玉手城は越智氏傘下の玉手氏の城で、山上の本郭部は空堀を挟んで二つの曲輪があり南側の腰曲輪、北から東へ帯曲輪が捲いていると説明があるのですが…!!



国見山城(富田城)    国見山 229m   御所市富田・今住  未訪

玉手から富田・大口峠を下って下市や吉野へと何度も走った309号ですが、 此処周辺は山も城も関心のないまま通り過ぎていました。思い出すのは明日香への近道だろうと此処から向って今住の細い車道を抜けた事…国見山(点名:原谷 229m)は日本武尊白鳥稜の東にあって 玉手へ続く短く低い丘陵地帯にあり、 山としては金剛葛城山系が北に控えていて目立ちませんが、周辺に山が無いのと、低山ながら最高峰なので山麓からは目立つ存在です。今住集落からの登城を目指したが取付き不明、浄水場への車道が麓へ延びているのですが …気弱になっている所に「此の先・行き止り」標識に今回は諦めます。掖上鑵子塚古墳から原谷にかけて山への道があるかも…

====================================================================

掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳
  御所市柏原字鑵子山

御所市の東部に位置し、 国見山から北に延びる丘稜の谷間に築かれた前方後円墳で前方を南西に向け全長150m・後円部径102m・高さ17.5m、 前方部の幅88m・高さ12m。後円部は三段・前方部は二段に築成され、葺石と埴輪列が確認されていす。墳丘の周囲には幅30m程の周濠を廻らせています。
掖上鑵子塚古墳

内部主体についてし実調査ですが、古くに盗掘を受けており、江戸時代の文献には長持形石棺の存在が記され、 遺物の形象埴輪(冠帽形・水鳥形・家形・太刀形)や琴柱形石製品等が知られ、此れ等から5世紀後半期の築造と見られます。南葛城の地域では御所市室の宮山古墳(南西約2kmに存在)に次ぐ規模の、 この地域における有力首長墓といえます。 (現地説明板 参照)





猿子城(鬼ヶ城) 猿子城山 709m   河内長野市滝畑町

南北朝時代の山城で 楠木氏の南河内の城としては、金剛山周辺の城と同じ様な城砦群の一つ。猿子城山(709m)は四方が断崖となっていて馬の背状の狭長な地形を利用して細長く造られています。 東端部は幅広く三段に削平された平坦地が残されていますが詳細不詳。

丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system