二人の左近 U【嶋 左近信貴山・朝護孫子寺〜奥の院〜矢田丘陵?松尾山・椿井城
大阪 (五万図=大坂東南部)
信貴山朝護孫子寺-奥の院-下垣内城と西宮城-矢田丘陵・椿井城 2004年01月25日
近畿の山城 :下垣内城 西宮城椿井城
西宮城本郭の下(平群神社)から椿井城遠望

校歌・故郷の山
【奈良側からの校歌のみ 信貴・生駒・矢田丘陵】
王寺工業高校 ♪信貴生駒 青き山なみ連なれるxx・・♪
  〃 応援歌 ♪凝りて固しや金剛山xxx…♪
西大和学園中・高校 ♪泰然たり生駒山稜xxx…♪
信貴ヶ丘高校 ♪大和平野に光満ち 朝日に映ゆる信貴の峯xxx…♪
三郷北小学校 ♪信貴山おろし吹き荒れてxxx…♪
斑鳩中学校  ♪矢田の岡辺に聳え立つ その名も高き法隆寺xxx…♪
  〃   V ♪生駒嶺西に連りて あやなす錦の竜田川 たぎつ血潮の若人のxxx…♪
富雄南中学校 T♪みどりに映ゆる 矢田の丘陵 望みて集うxxx…♪
富雄第三小学校 U♪奈良の山々 見わたして 明日への道を つくろうと…♪

 



U【島左近】 信貴山-奥の院-平群谷(下垣内城-西宮城)-矢田丘陵南端・椿井城 H16.01.25

T【恩智左近】からの続編です)八尾の恩智城に寄った後、 往時・信貴山詣で賑わった参詣道のうちハイキングコースにもなっている 「恩智越」はとらずに、東高野街道を北へと教興寺に向かい「信貴越」の旧参詣道を高安山に登り信貴山(空鉢護法堂のある雄嶽山頂)を経て本尊・毘沙門天を祀る朝護孫子寺本堂に降りてきた。
朝護孫子寺と世界一!!の張子のトラ

此処に至るまでには諸所に旧街道や参詣道の往時が偲ばれる民家や遺跡・史跡が見られ、南北朝時代・楠木正成八臣の一人で恩智左近の城や、 八尾の豪族・秦氏の拠点となった教興寺は四天王寺と同時に建立された大寺院。此処では近松文学の道行(みちゆき)では曽根崎心中で知られる「お初・徳平衛」の話を拾ろいます。 戦乱期此処・教興寺に陣をはった畠山高政を三好氏と松 永久秀が攻めた「教興寺合戦の舞台」、 その久秀が 城主となった信貴山城と古代山城”幻の高安城”…山と歴史の周遊コースですが今日は未だ前半が終わったばかりです。
(此処までは そのT恩智左近…を参照ください)
椿井集落から椿井城遠望

本堂へ登る石段下には有名な国宝の信貴山縁起絵巻が所蔵されている霊宝館と、 その間には一切経堂があって堂内に入ろうとしていた三人のおばさん(わたしもレッキとした!!??おじさんですが)に「一緒に回しませんかxxx…」と声を掛けられた。 経堂の中には八角輪蔵(八角形の回転式の輪蔵があり、一切経が収められています)があって此れを人力で回すのですが、手が触れただけでも回りだしそうな四天王寺西大門の転法輪とは大違いですが、 四人でなら押し回せます。一回しすると一切経の全部を読んだと同じ功徳があるといわれます。「もう一回・・」の声に数回まわったが、功徳が有ったか御利益だったか後刻登った椿井城では、訪ねたが登路が判らなかったり、藪で撤退した記録が目立つ此の城で日本城郭体系にも記載の無かった石積を発見した。 ML報告により山城甚伍さんの返信で城近くにある塵埃焼却場(清掃センタ)の職員には知られていたようです。
椿井集落入口・笠石仏如来像(線刻笠石仏)

山門から奈良方面バス駐車場へも雪道となって緩やかな下り車道を超スロー運転の車が続きます。 「平群へ」の標識を見て、良く知らないままに広域道を採って平群町へ向かう山裾に沿って走る広い雪道は、思いのほかに遠回り道となりました。高安山から信貴山の間で見た「汗かき毘沙門天王」 「信貴山奥の院」の表示を此処で見る。山手へ向かう林道は高安山・信貴山へのハイキングコースのようです。信貴山奥の院(多聞院)は山の奥ではなく里の奥!!にありました。 多聞天の変身した姿が毘沙門天で 聖徳太子が自ら彫られた毘沙門天王像を本尊「汗かき毘沙門天王 」として奉祈されて当山を建立したとされますが、楠木正成(幼名:多聞丸)とも所縁のある寺のようです。山門まで続く道は此処でプッツリ切れ、竹薮の中の細道に入ります。 途中の分岐を直進するのは間違いで、川に挟まれた出口の無い棚田に出てしまいます。
椿井の井戸

引き返して道なりに進んでいくとバイパス道か?山手幹線なのか?真っ直ぐに延びてきた車道に出た。 「十三峠へ」の車道が交差しています。直進してバス停「xxx学校西門!!?」側には「剣上塚古墳」の案内板が掛かる。そのまま東に向かうと思っていた道は北へ北へと方向を変え、平群町総合スポーツセンタ前を通る。 段々と予定の椿井町とは大きくハズレてしまい福貴とか梨本の地名には、心あたりも無く!!??迷い気味に軌道修正しながら平群中央公園目指して竜田川沿いに南下し、公園内の下垣内城と西宮城に寄ってから、 もう一人の左近の椿井城を目指し矢田丘陵の南山麓に向かいます。
近鉄生駒線の竜田川駅手前で竜田川の「協和橋」を渡り川と並走するR168号線を横切って椿井の集落内に入ると 「椿井城跡」の標識を見て右折するが、此処に鎌倉時代の線刻如来立像で上部に扁平の自然石を載せた笠石仏が祀られています。腰から下部にかけて精微な流れるような襞の線彫が残るが、 お顔や胸は撫で擦られて磨耗して様相が判かりませんが 弥勒信仰の仏様と思われます。 集落内を山側に向かって進むと 黒板塀に蔵を伴った民家の側を抜けて行くと、突き当たりに「椿井」と彫られた石碑が建てられ、用水池のようなブロック囲いの井戸があり綺麗な水を湛えています。
【現地設置案内板参照 平群町指定(昭和53年 8月11日)】
宮山塚古墳と平群氏春日神社

八尾の 教興寺や信貴山・朝護孫子寺でもそうでしたが此処・椿井の井戸にも、聖徳太子と平群神手(へぐりノかみて)将軍が物部守屋征伐の際、 椿の枝を突き立て勝利を祈願したところ、 一夜にして枝は芽吹き葉が繁り、冷泉が湧き出したという伝承があり、椿井の地名の起こりともなっています。井戸の北側には高石垣が続き、常念寺の山門を仰ぎ見ながら隣の「平群氏春日神社」へ続きます。 高台にある此の一角は、山頂に椿井城が有るので麓の居館跡では無かったかと連想してしまいます。石段を上り詰めた神社境内の左手には,築造時期が5世紀中期〜末期と推定される宮山塚古墳があって 奈良県指定史跡 (昭和45年 3月31日)となっています。現地案内板は肝心のところが殆ど読み取れない程で、入り口のフエンスで玄室は窺い知れません。奉納の絵馬には京・五條の橋の上での牛若・弁慶の絵が掛かっていましたが、願賭けか御礼なのか奉納の意味はわからなかった。 古墳の上に出ると細い尾根上の山道は、神社の背後を固める土塁道のように先へ延びており、椿井城登城の際の大手道だったのかも…!
椿井城・本郭石列


椿井の井戸に戻って、城址へは春日神社裏手にある 「宮裏山古墳」側から直ぐに踏み跡も薄くなる尾根に登路を探りながら進みます。筒井三家老の一人で筒井順慶に仕え、のち石田三成には主の禄高の半分で迎えられた程の有名な人物 ・島左近清興の城ですが訪れる人は稀です。まして此の城だけは例外的に谷筋を詰めても猛烈なブッシュに追い返され、尾根も明確な道が無く、山の東側中腹にある塵埃焼却場 (清掃センタ)付近からアタックを試みる人も多いようですが、此方からも笹薮と猛烈なブッシュに阻まれて登城よりも敗退記録が目立つ難攻不落の山城のようです。 尾根を登り切った削平地にTVの受信アンテナが建っている。先ず南へ尾根を辿ってみると、 直ぐに深く抉り取られた堀切に出る。 土橋が掛かり此々ばかりはアンテナケーブルが土橋に添って地表を這って延びています。
椿井城・堀切(空堀)と土橋の遺構

左下(東側)に清掃センターの施設や山裾を走る車道と平行に、 緩やかに下っていく尾根を南に辿ってみるが藪尾根上の削平地は一本の堀切を確認出来た以外、曲輪遺構等の状況は判断できず元のTV共同アンテナのある曲輪まで引き返して北側の本丸へ進むと 直ぐに大堀切(空堀)を見る。此れは必見です。此れを登り返すと其処が主郭部で堀切側の片方に1m程の土塁がxxx…しかし雑木と倒木で写真に撮ら無かった。もし石積を見付ていなければ少し整理して撮ったのかも…(~~;  本郭部の北端は猛烈な藪でプッツリ…先へ行けそうに無いので本郭部を南に出て清掃センタ側の急斜面を捲いていたら曲輪??、犬走り(鼠走り程に狭いけど)??の藪の中・土砂と落葉と 岩表面の苔に見過ごしてしまうところでしたが、余り崩れず綺麗に石垣、土留めの石列が残されていました。新人物往来社編の日本城郭大系にも石垣遺構のコメントは無く、 過去の椿井城訪城のHPログにも石垣有りxxx…のレポートは知らないが、既に地元の広報誌・平成7年度の或る号では紹介されていたようです。



 下垣内城西宮城椿井城

下垣内城
    78m   生駒郡平群町下垣内字古城

近鉄生駒線竜田川駅の北約800m程のところに平群(へぐり)中央公園があり、その管理事務棟の側に下垣内(しもがいと)城の縄張り図付の案内説明板が建てられています。説明によると此処に廿日山弥生遺跡があり、 発掘調査により単郭と考えられていた下垣内の城はグラウンドとなっている辺りへも広がっており、深い堀や土塁で囲まれ、石組みの溝や穴が確認されています。
西宮城側から谷(今は一部が池)を隔てて下垣内城

グ ラウンドの東向こう側に少し盛り上がった場所があり植物・芝生公園になっているようで上部に東屋風!!の休憩所が見える。 此処が下垣内城の主郭部ですが公園整備により遺構は何も残りません。グラウンドの南端にも歩道を分ける小高い丘が東方に延びています。此方には廿日山の丘 陵南の緩斜面に築造された西宮古墳があって、 剥き出しの石室内には石棺に棺身だけが残されています。西宮城が有ったといわれますが、 グラウンドと歩道が取り巻く広い平坦地が谷で隔てられていたとは想像出来ませんでしたが、下垣内城南東端のある堀状の池や東端から山裾の集落へ落ち込む、急斜な谷の様子からも窺えます。
廿日山弥生遺跡・西宮古墳

此れ程の至近距離に 二つに城があったことは、能勢の今西城と森上城にも 例はあるが両城の関連も知りたいところです。古城の近くに新城が築かれる例も多いものです。下垣内城の築城時期や城主は不明ですが、鎌倉時代末期・の平群谷には在地豪族 (曾歩々々・平群・椿井氏等)がいて、城主は福貴寺荘(現在・白川神社付近)の下司職にあった嶋氏が築いたと考えられます。

(下垣内城 現地案内板等 参照)


西宮城   xxx 92m   生駒郡平群町西宮1丁目

近鉄生駒線竜田川駅の北方に見える小高い丘に 西宮城が有りました。此処は現在・平群中央公園になっており 此の西宮城のある丘陵に立つと、その先にも谷を隔てて左手にグラウンド、右正面には池がありさらに高台が見えますが、その木々と芝生の高台が此処・西宮城の古城と考えられる 下垣内城の本郭部ですが、上記の写真のように公園施 設の一部となって消滅し、城を語る遺構は何も残りません。
西宮城・西側の出城??の曲輪

西宮城址は、 その主郭部を占める丘陵の最高所に広い長方形の削平地を持っていましたが、此処も公園施設で遺構も残されてはいません。ただ南側の斜面には来寺や隣接して建つ平群神社があるので、 その寺域や神域として守られてきたようで遺構が残ります。丘陵の中央付近・来迎寺背後は主郭部から西面にローラー滑り台が設置され、下部の遊歩道が公園の北 (下垣内城跡)側にある池のほうへ延びています。この歩道を挟んだ西側にも荒れて崩れ掛かっているが空堀を挟んで曲輪と見張用か!!台状の曲輪の遺構が見られますが、この曲輪は飛鳥時代・七世紀中〜後半期の西宮古墳【奈良県指定史跡 昭和31年8月7日】を利用したもので、 空堀を隔てた出曲輪だったのでしょうか!!!物見櫓なら今でも通用しそうです。
西宮古墳を利用した西側の出城??と空掘

初期の西宮城は室町時代に下垣内城をも取込んで、在地豪族の嶋氏によって築城されたと思われますが、 永禄2年(1559)松永弾正久秀が大和に入って多聞城を拠点としていた頃には、西宮城も松永方の城となっていたようで、天正5年(1577)信長に背いて信貴山城に篭城した時には、 織田信忠に攻められ信貴山城と共に西宮城も落城したようです。西宮城本郭部の直下に位置する平群神社から竜田川に対峙して椿井城を望む時、此処は館城より、 目前の椿井城攻城の最前線のような錯覚さえした。
(平群中央公園にある西宮城 現地案内板等 参照)


椿井城    xxx 318m   生駒郡平群町椿井

丹波には「赤鬼 青鬼荒木鬼」がいたが、 奈良の平群谷にも「鬼の左近」と恐れられた椿井城主・島左近清興(勝猛)が 戦国末期には此処・矢田丘陵から南に延びる枝尾根の南西端に曲輪を連ねた山城・椿井城を築いていました。その山麓には竜田川と併走して河内と奈良を結ぶ龍田(竜田)街道が通じる要衝は、 また大和・河内を制圧する為の重要な軍事道路ともなります。
郭側からの椿井城大堀切(空堀)

天正5年(1577)松永久秀が織田信忠軍に攻め落とされ、筒井順慶が大和国に復帰した時、島氏も平群谷に戻り 西宮城は島氏が手に入れ居城としたものでしょう。大和郡山城主・筒井順慶の重臣(筒井三家老の一)筒井氏滅亡で近江国に隠棲していた左近を、秀吉から近江・水口城に封じられた 石田三成が懇願して当時・四万石の三成がその半分・二万石の高禄で召抱えた程に 名声もあった武将です。後に彦根・佐和山城主となった三成の堅牢な山城とも対比させてか 「治部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われます。

椿井城・本郭部の石垣


石田三成に仕え智将・三成に不足の武力を補強し、徳川家康をも苦しめた闘将・猛将でしたが、慶長5年(1600)秋・関ヶ原の合戦で三成本陣の笹尾の陣から討って出て、 討死したとか銃弾を受けて倒れたとか、最後まで戦ったが乱軍の中を落ちのびたとも伝えられ、出生と共にその生死も謎の人物です。
(日本城郭体系 新人物往来社等 参照)
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