辰年に北摂・竜の山三座へ 竜宮山と竜王山/箕面:堂屋敷〜鉢伏山
兵庫・大阪 北攝の山 (五万図=広根・大阪北部)
T:上杉口〜竜宮山 2000年01月20日
U:名月峠〜竜王山
V:能勢・長谷〜宮峠〜竜王山

明治の森〜鉢伏山〜引返して無名553m峰〜清水谷Pと〜堂屋敷 2000年07月02日
名月姫の墓(能勢町名月峠)
十二支の山(辰):竜宮山・竜王山(明月峠)・竜王山(長谷)
近畿の山城:名月砦



T 名前にあこがれた竜宮山は藪の中・・竜宮山399m  猪名川町 H12.01.20

173号線池田の木部町で423号線と分かれて左折し一庫ダムに向かいます。 4〜5程のトンネルの最後を抜けると上杉口バス停に出てすぐ左折・左折で ホテルセルベーヌの前を通り過ぎると、その先で右手にゲートの有る林道入り口に着きます。ここに1〜2台駐車可能のスペースがありますので此処より出発します。 車の通らない静かで細い林道終点ですが栗林で終点。

栗園の端から藪の尾根に向かいますが正面の植林の中の方が下草も無く良さそうです。
しかしズリ落ちそうな急斜面です。 軽い藪漕ぎで尾根に出れば細い踏み跡を辿って暗い山頂です。
三角点は見当たりませんが赤いテープ(川西市和田垣 95.11.26)があるだけの静かな林の中の山頂です。
(林道入り口より約40分)


U 寒天の里と名月姫伝説の名月峠から竜王山462m  能勢町 H11.06.05

豊能郡能勢町中部を西の府道104号片山側から東の106号田尻側に通じる暮坂峠・逢坂峠・名月峠・坂井峠が越える。竜宮山から能勢・柏原に出て田尻へ抜ける府道4号(茨木能勢線)が切通しの峠道を越える名月峠には玉垣内に宝篋印塔を挟んで二基の五輪塔が祀られ名月姫の伝承が遺る。峠から柏原に戻る地区道側の町営明月グラウンド脇に駐車して名月峠(バス停上 )にある名月姫墓所の横・東側から谷よりの細い道(随分荒れており所々に不明個所有り)を直上します。尾根付近で道は消えるが藪を抜けて尾根道に出る。山頂プレートを確認して引返し(名月峠より約25分 )月峰寺から城山に登り・次の竜王山に向かいます。
名月姫の墓:尼崎市・尾浜八幡神社

名月姫は尼崎市の尾浜に生まれ尾浜八幡神社(祭神・15代応神天皇)境内の一隅にある鎌倉末期の宝篋印塔は「・・名月姫の塔尾濱村大日堂<現:八幡神社>にあり・・ 」と摂津名所図絵に描かれた名月姫の墓だと伝えられています。尼崎・尾浜八幡神社の宝篋印塔の 基礎石には伏蓮華が施されていますが、総体には装飾的名彫刻は無く、鎌倉時代末期の創建と考えられています。尾浜神社の創建年代は不詳ですが、天正年間の荒木村重が滅亡時の戦火にあったと考えられます。名月姫は平安時代・久安2年(1146)8月15日(満月の夜)に誕生したので名付けられといわれます。摂津国川辺郡御園荘浜村 (現尼崎市)の荘園領主であった三松国春には子がなく日々、大日如来に子宝の願を懸け、満願の中秋の名月に女の子を授かり名月姫と名付けます。姫が14歳の時能勢の藤兵衛家包(いえかね)が野遊びの際見かけた姫に一目惚れ:能勢に連れ帰ったという。平安時代の伝承と鎌倉末期の宝篋印塔の因果関係は不明だが尼崎市内では最古のものとされます。
能勢町名月峠の名月姫の墓(中央)

尼崎市:尾浜八幡神社と同時代の、名月姫の墓と伝えられる宝篋印塔 (築造は少し新しいようだが)が北摂能勢の名月峠にもある。宝篋印塔屋蓋の隅飾りの散蓮(蓮の葉一片が刻まれている )は能瀬地方特有の近江式装飾文で鎌倉時代後期のものとされます。
明月峠の三石碑は中央に名月姫・右側に父・三松刑部左衛門尉国春【摂津国御園荘浜村(現尼崎市 )の荘園領主】と左側には夫で能勢の豪族 :柏原城主?の能勢蔵人家包の墓と伝えます。
名月峠から明月姫案内板・みどり幼稚園と明月砦 (中央奥の丘陵)

能勢明月峠の伝承では…姫は容姿豊麗で名月に譬えて名付けられた絶世の美女。平清盛が福原(神戸市)に遷都したとき・このことを聞いて側室に迎えようと 何度も召したけれども応ぜず、そこで父と夫を呼んで強いたので二人は権勢に抗し難く・承諾し実状を姫に話した。姫は悲しみ召し出され福原宮へ向かう途中・此の峠において平清盛の横暴さに遂に自害して夫に貞節を果たしました。後世にその貞節をたゝえて墓を立て弔った此の峠を名月峠と呼ぶようになったと…また別には、能勢家包が連れ帰り妻としていたが、行方不明となった娘を八方手を尽くして探したが見つからず、悲嘆にくれる三松国春は余の無常を感じて出家し西国行脚の旅に出た。
名月砦:砦手前の最高地点まで続く平坦尾根!!

大和田泊(兵庫港)の築港工事が進捗しないため陰陽師の占言に従い、人柱として平清盛に捕えられていた父の命を救うために、能勢の家包の妻となっていた「名月姫」が能勢を発ち兵庫へと、平清盛に助命の嘆願に向かったのが三草山裾の才ノ神峠ではなかったかと思われるのですが!!?、往時の主要街道の峠には「有馬道 」を示す道標が有るので 有馬から魚屋道を灘に向ったとも思えます。墓所は峠を見下ろす位置に在り、嫁入り行列を見送る形になるので、婚礼の行列は峠を通る事を遠慮し・今も婚礼に関する車は峠の通行を避けて通行しない習俗が残っていると云う。

(現地:能勢名月峠と尼崎市の尾浜八幡神社案内板参照)


V 能勢・長谷の棚田と三草山は人気の・・・竜王山 570m    H12.01.20

能勢で宿野や森上の名を耳にすると私は、いつも剣尾山を思い浮かべます。当時(昭和XX年頃)はバスの便が悪かったことも有って此方から丁仏道や野外センター経由が 主な登山口になっていました。今は能勢の郷からほぼダイレクトに登れますね

懐かしい昔の田舎の風景を呼び覚ますような長谷の棚田を眺めながら村内を西廻りに北所より林道を詰めましたが、これは間違いで点名 :牛ノ子450.8m付近の尾根に出てしまい宮峠方面へは尾根の西側を巻き気味に・・・・(この辺の説明は「山であそぼっ」島田さんのHPにMTBで竜王山を参照してください)
けっこう遠廻りさせられました。 宮峠〜三角点〜竜王山は藪漕ぎ無しのコースですが、この先三草山へは一寸二の足を踏みます。

露岩が現れ出すと山頂が近いことを伺わせます。竜王社を祭る大岩が現れると、その上部へ出て山頂です。 少し不安定な傾斜ですが岩場の山頂は気持ちの良いものです。宮峠に戻って牛頭大王社〜上所の車道へ飛び出すとバス停です。
大阪環状自然歩道の標識がありますので宮峠を北所より目指すのは難しいですね。 此処の上所からの方がコースも分かり易く竜王山へも近いですね。


猿も夏バテ・・箕面川ダム周回の山行・・・堂屋敷〜鉢伏山〜553m峰  H12. 07.02

暑い最中 それも昼に箕面の猿に会いに出かけてみましたが猿にも馬鹿にされそうなトレッキングです。 周辺には鉢伏山や最勝ヶ峰・天上ヶ岳・六個山と名のある山があるのですが、箕面川ダムを見下ろす無名の553ピーク2座を繋いで豊能自然歩道を鉢伏山まで歩いてみました。箕面トンネルを抜け1km先の清水谷の自然研究路 8号線入り口に駐車場有り(10台程度)此処からトンネルまで引き返しダムへ出るとダムの正面の山(鉄塔有)が553無名ピークです。今日目指す山は二つとも鉄塔があり553mですからヤヤこしいですね。

箕面ダムから「EXPO記念の森」への車道を進み長谷橋(12:10)を渡れば 自然研究路7号線の入口で道なりに進めばEXPO記念の森に着きます。そのまま木造の展望台をめざして進みます。砦のような展望台(12:40)から赤ちゃん広場 →夏の森→秋の森→冬の森→と辿れば自然研究路6号線入り口で鉢伏山への縦走路となっています。鉢伏山への分岐から広い道が清水谷へ下ります。自然研究路6号線で出発点の駐車場前の橋へ出ます。これより鉢伏山 (604m)へは25分位で往復出来ます。清水谷への道の他にも右に明確な道が続いていますが登山ルートとして誰も利用していないようです、しかし中々静かで良い散歩道です。展望は無いが展望台や公園からの子供の嬌声が聞こえてきます。 藪も無く553ピーク手前のピークからも清水谷への下降巡視路があるので553ピークからは引き返しこの道を下って駐車場へ帰ります。

このピークより下り気味に右へ杉の植林帯を進みますと鉄塔の先で切り開きに出ます(1:30)。 553ピークで山頂のポイントはありません。切り開きから記念の森公園を隔てて谷向こうに点標名堂屋敷553.4mが鉄塔を肩に乗せた山容を見せています。是より記念の森へは巡視路を辿って自然研究路 7号線の長谷橋からのルートに合流するはず。先ほどのピークへ戻り急下降の巡視路を清水谷の駐車場へ(1:55)降り立ち、今度は車で記念の森公園駐車場へ入ります(2:00)。五月山有料ドライブウエーですが 出口ゲートまでは無料のはず !!車道を池田方面に進みます。2年前には天上ヶ岳へ向かったコースです。天上ヶ岳は役行者が天上へ飛び立った遺蹟としての伝承地ですが同様に西国8番奈良・豊山長谷寺の参道に 西国番外の豊山法起院がありますが開祖・徳道上人もこの境内の松ノ木の上より法起菩薩に化身して去ったといわれており松ノ木に登るための上人香脱ぎの石が・・・・???修行を積めば空を飛べるんでするね ・・・せっかく空を飛べても久米の仙人の話もありますが・・・

幾つか左手に巡視路等踏み跡がありますが3っ目くらいに車道とわかれ真っ直ぐ登って行く広い道(1.5m程)があり少し上に火の用心の標(山下線No32表示記有)があります。 急な巡視路の階段状を登れば 送電線沿いの雑木林となり鉄塔横を過ぎ明るい道を西に辿り下り初めてすぐ左手に隠れるように、しかし良く踏まれた踏み跡があります。藪の蜘蛛の巣を払いながら20m程戻り気味に進めば、 藪の突き当たりに目印の赤白ポールが無ければ気が付かないかも!!?・三角点石標が鉄塔をバックに見つかります。展望も無く藪の中の点標名堂屋敷(553.4m 3等三角点 PM2:20)です。ここで記念の森公園駐車場に引き返し (2:35)ゆっくり西宮へ帰りました。途中池田〜伊丹では前が見えなくなる程の激しい雷雨に遭ってしまいました。清水谷上の553ピークの山名は分かりませんが、清水谷からは小橋を渡って直ぐ右手へ自然研究路が延びています。 私は尾根の巡視路を下りましたが登りは相当覚悟を要する急斜面です。


 名月砦

明月砦  xxx ca260m  能勢町大里 ・柏原(明月峠)

R173号(能勢街道)は能勢妙見山や摂津池田を結ぶ妙見街道・池田街道の要衝で、狭い山間を縫う街道を挟む東西にはR173号栗栖交差点を中心に四方に位置する今西・森上・栗栖・片山地区に、其々:能勢地方の豪族の山城が集中して多い!!?。此の栗栖交差点から大里で大路次川を渡って府道 4号に入ると明月峠への登り坂。
名月砦主曲輪

明月砦へは峠への西入口の大里から砦北裾を能勢町中央スポーツ公園へ 山道が通じる様ですが、判り易い ?明月峠バス停前の”みどり丘幼稚園”と町営明月グラウンド間を少し戻れば中央スポーツ公園への入口。公園ゲート前の左手から丘陵上へ続く山道を辿って尾根に出た。広く平坦な尾根上の緩斜面だけを見ていると城砦遺構に見えてくるが、明月砦の位置は小山域の最高所267mから西北下方へ降る尾根先端Ca260m程に在った。
明月砦:東斜面

埋もれ崩れて・殆んど深さを失った片堀切は西側斜面に倒木 ・枯れ枝の隠れがちだが縦に落ち込む溝に気付けば確認出来る程度。幅20mX30m程の平坦地形に砦の様相も伺えないが、北面に二段・西面にも主曲輪に沿う腰曲輪の削平段を見て確認出来た。直線距離で北に約800mで能勢町役場・西へは府道4号沿い約2kmで能勢街道(R173)の栗栖が望める筈!?の位置。大里集落を望む領内監視の砦か?、吉村氏の栗栖城関連の砦か?。
僅かに尾根の肩に架かり西斜面を落ちる片堀切

大里集落に明月城 !!?も在る様です。出自・出典について不明ながら平安時代:源満仲の四男ョ平(大江山鬼退治で知られる源頼光の弟で宝塚市の 普明寺を開山したと云う・多田庄の外なので多田源氏ではなく摂津源氏!?)の居城とも?云われます。長久2年(1401)との具体性からは後朱雀天皇の代:長久元年に発布された荘園整理令に、 能勢の地に国司として派遣されたものか?、寺社への土地の寄進や違法性のチエックや、不法占拠等の荘園取締にあたった際の代官所!!?、明月砦は其の領内監視所だったか?。
(wikipadia 等を参照)

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