四條の縄手・小楠公最後の戦場U  野崎城〜飯盛山城〜四條畷神社/田原城
大阪 (五万図=大坂東北部)
(東高野街道) 野崎観音〜野崎城〜飯盛山城(314m)〜四条畷神社  2003年11月01日
(古堤街道) 十念寺〜正行墓所〜飯盛山城〜田原城 (城オフ)2003年12月21日
校歌・故郷の山
四條畷南小学校 ♪飯盛山に吹く風がxx…♪
四条畷市  四条畷南中等学校 ♪飯盛山より吹く風は…♪
       四条畷高等学校  ♪飯盛の山を仰げとxx・楠の香りよxxx…♪
        四条畷学園短大♪xxx…飯盛山にこだまして…♪
枚方市
  樟葉小学校   
♪楠の葉かおるxxx…まぢかく仰ぐ飯盛やxxx…♪
寝屋川市
 西小学校    ♪飯盛山の峰青くxxx…♪
大東市
  [市民のうた]   ♪飯盛山の 四季を伝えるxxx…♪ 他…小楠公(楠木正行)像

近畿の山城
野崎城 飯盛山城 田原城

以前から気になっていた北河内の短時間で登れ展望も楽しめる城山へ”昼までには帰って来るよ”と急ぎ家を飛び出してきます。本年2月末に初めて城サイトML仲間とオフで 生駒・神津嶽〜大原山〜神感寺城・往生院城 を訪ねた「四条の縄手」合戦場ですが此処を抜いては語れません。…と言う訳で歴史街道は東高野街道の河内・飯盛山です。楠木正成が神戸・湊川で討死、 その後南朝征伐に兵を集結する高師直軍との戦いに、城には籠らず吉野から東高野街道を京都に向かった楠木正行の軍が北河内の平野で衝突します。
四条畷の合戦場「古戦田 (現・公園とグラウンド)」から望む飯盛山

正行が飯盛山の西方・大東市の往生院城に本陣を敷いて「四条縄手の合戦」は始まり、 此処が楠木正行最後の舞台となりました。東高野街道を北上する南朝軍の動向を察知していた高師直軍にとって地理的に近い飯盛山や生駒山の要所には 先に兵を集めて待伏せし山岳戦に長ける楠木軍を野戦へと誘き出し、 その都度多くの兵を失い、やがて正行兄弟は破局をむかえます。




東高野街道  野崎観音〜野崎城〜飯盛山城址〜四条畷神社 H15.11.01

JR野崎駅前の案内板を見て「野崎まいり」で知られる野崎観音へは門前町風!!商店街の通りを 山手へ10分程で着く。野崎観音(慈眼寺)の背山にある野崎城〜 飯盛城へと「野崎の山」を辿って四条畷に出る約1:30余りの山行で、ファミリー向けの山城と展望の三角点峰を廻る里山ハイキングです。野崎観音や野崎城址についてはプロローグや別項(下記)に説明していますので此処では省略して早速出発します。 本堂の左手脇から北に向かいます。
飯盛山城主郭からの眺望

此処には宝永4年 (1708)鋳造の鐘楼があり、こ の横から飯盛山や野外活動センタ・ふれあいの家へと道標完備で整備された登山コースがあります。 私は緑豊かな雑木林を縫って飯盛山から四条畷神社へと抜ける約4kmのハイキングコースです。直ぐ尾根への分岐ですが腰曲輪風の台地を20m程先に進めば展望台ですので寄ってみます。眼下には東大阪市 ・大東市・門真市・大阪市街地へと眺望が拡がります。ハイキング道に戻って案内板設置・コースも整備された 飯盛山城址への道は 平日でもハイカーで賑わう手近な人気コースです。直ぐにコースは左右に分かれ山腹を捲く様に吊橋を経て飯盛山・野外センタへ向う道と尾根を伝って野崎城址を経て野外センタの道と合流する分岐点です。
千畳敷側からの飯盛山

勿論・野崎城址コースを進み石造九輪塔・休憩東屋 ・最高所の台地(本郭部)に立ちますが、其々のポイントは曲輪跡地ですが城址を示す説明はありません。説明板が設置出来ない程にコース整備等で遺構が壊されたとも思えませんが 城主や城史が不明の城の宿命でしょうか。 名が知られていても近在では三箇(さんが)城の様に所在さえ不明 (城址碑はあるが)のものもありますが。 野崎城本郭からは正面間近に飯盛山を望みながら 東に延びる尾根の鞍部(堀切跡)へ下って、野崎観音から吊橋を経て此処でつながるくるハイキング道と合流し北の沢筋へ下ります。表示のない尾根筋にも山道があるが 室池方面に続いてるようです。
御体塚丸南下の石積

沢筋に下ってからは飯盛山方向を示す広い道を採らず正面の細くなった尾根筋に取り付きます。フィックスロープも張られた急斜な中尾根(つつじ新道)を採って北条への分岐・野崎観音から 竹林コースを登ってくる道と合流して本来の桜池からの一般道と合流すると程なく南丸下に着く。南丸では他の城域ではあまり明確に見られない土塁が巡らされています。千畳敷南端への登り口が虎口で、 此処から東下にある日蓮宗の楠公寺(旧・飯盛山妙法寺)へも数段の曲輪を下って降り立てます。 「四條の縄手」で散った南・北朝の将兵等の冥福と菩提を弔う為、 この地!!に開山された新しい寺で馬場と呼ばれるところが有ります。
本郭部腰曲輪東下・屏風折を伴った石垣(約5m)


虎口を抜け出た千畳敷周辺の曲輪には 飯盛桜園と書かれた 札があり大東市のボランティアグループでコスモスが植えられたり、桜の木の植林等が進められているようだが、河内最大の山城遺構なので観光面や趣味趣向だけでなく、景観・保存とともに考えて欲しいものです。 千畳敷の最高所にはNHK飯盛山FM放送局 FM-OSAKAの送信所があり北の主郭へ展望が拡がり山歩きの楽しさと開放感を満喫しながら、目の前に飯盛茶碗のような飯盛山を見て進みます。最後の登りで喧騒の別世界に突入です。 此処だけは多くのハイカーで賑わいユックリと周囲の信貴・生駒の峰々の景色と大阪平野から高槻・寝屋川・京都へと淀川沿いに拡がる絶景を楽しみながら休みたいところです。飯盛山山頂(4等三角点 314m)が飯盛 山城の本郭部で楠正行(まさつら)の銅像が建つ。正行像とは 往生院を訪ねて以来・再度逢うことになりました。城遺構を探して早速主郭部に残る石垣を・…と東の腰曲輪に入って直ぐ、雑草に隠れ気味だが数段の石積みが続く。
高櫓郭南下・鞍部の土橋と堀切を経て千畳敷へ向う

北へ続く公園のような腰曲輪を過ぎ御休塚丸へ向う。 此処で病死した三好長慶の塚があるので御体塚の名があるという。 此処にも高石垣が残るのだが…急ぎ帰る必要もあり旧山道を採って四条畷へ下ったので気付かなかった!【翌月H15年12月21日の城オフにて確認した】…!(^^; 一端緩やかに尾根になるが此処が又季節には 素晴らしい桜のトンネルになる処で僅かの間ですが桜並木が続きます。四条畷神社へ下る道も神社から駅に至る住宅地の道々の風景も 数年前と変わらぬ、 安心感と懐かしさに包まれながら、ついつい四条畷駅に向いてしまったが、 そのまま踏切を越して直進し楠木氏一族を祀る 「小楠公の墓所」へも寄ってみるべきだったかと、 帰ってから残念に思っていますが、四条の縄手(苗代の縄をうつ土手のことで水田の広がる場所でないと不自然!!)がなぜ平野部が狭まる此処なのか!!?、
飯盛山上・楠公寺(旧・妙法寺)

楠木正成が正行と最期の別れをした桜井の駅が何故、 正行が幼少を過ごしていた往生院(元は桜井寺と呼ばれた)ではなく、西国街道筋ではあっても遠く離れた島本町にある「桜井の駅」であったのか、また正行兄弟が自刃した場所は四条町の砂山城址で、飯盛山は高師直の本陣 ?に首実検で持ち寄られたもの、此処に正行の像が立つ事等々の勝手な疑問で「小楠公の墓所」に寄らなかった事を弁護してみます…(^^;




古堤街道 十念寺〜正行墓所〜飯盛山城址〜田原城址
H15.12.21

今回の城MLオフは北河内・四条畷市周辺です。南朝方とりわけ正行ファンにとって参加しないわけにはいかない楠木ファンのanne猫さんとは毎度…、南朝派「河内判官さん」とは10ヶ月振り、この時のオフで逢えなかった佐助さん・熱烈:正行ファンの碧さん・大和国から参加の”なおさん”や「さすらいのプ〜太郎さん」(HNは此れでいいのかなァ??)とは初顔合わせ、飯盛山城と三好氏については、この人おいては語れない"まよいのすけさん"と、前回の飯盛山城(上記)以来MLで知り合った地元"上杉さん"と・此れ以上ない強力な地元ガイドを得ての”四条畷歴史と城めぐりオフ”は、総勢10名プラス1の大盛況となりました。3名の女性参加を得て2x?〜4x?歳台の若い連中の中で私一人・同化出来るか心配 !!・・何事も無く スタートから最終ゴールまでお付き合い出来た様な気がします????。
十念寺・小楠公菩提寺

上杉さんにより参拝手配・連絡済の十念寺 (融通念仏宗)に向います。十念寺は京都市上京区にある嘉吉の乱【嘉吉元年(1441)】で播磨守護:赤松満祐に殺害された足利幕府6代将軍義教の菩提寺で知られる寺ではなく、此処は南朝方一色の町!! ・十念寺は大東市北条にあって四条畷市との市境です。住職に用意していただいた版木に残る十念寺の再建俸加帳によると【正平3年(1348)四條啜の戦いで討死した武者の霊がこの地を彷徨い、永禄年中(1558〜69)頃迄人々を200年にも及び悩まされたといわれ、この戦いの戦死者を弔うために建立され室町時代に融通念仏の功徳によって飯盛山付近で戦死した人々の 霊をなぐさめたといわれます。本堂内には飯盛山山上に建つ正行像と同じ姿の正行像が納められています。寺を後にして古名に「古戦田」(楠公1丁目)が残るの公園やJR線側の駐車場になっている「ハラキリ」(錦町1番地)を通って、朝集合時間までに一度廻った歯神さん・歴史民俗資料館・小楠公墓所へと廻ります。
【融通念仏 = 平安時代中頃の僧・良忍上人(1073-1132)によって始められたといわれ、 一人が唱える念仏の功徳と、衆人の唱える念仏がお互いに融通しあい、それが浄土する縁となるという教え】
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和田賢秀墓所
   大阪府指定文化財 史跡)
狭くて車の多いバス道を避けて民家の路地を抜けて脇塚バス停前にある"歯神さん"に着く。 四条畷合戦については東大阪市と同じ由緒のものが重なりすぎてホンとはどっちなのかと懐疑的に成ってしまいますが先ずは、楠木正行の重臣(従兄弟):勇将で知られた和田賢秀は、正行の戦死後も1人で戦い高師直の首を 狙ったが果たせず首を刎ねられますが、そのとき賢秀の首は敵の喉に噛みつき離れなかったとか、敵の鎧に噛みついて離れなかったとか、 いずれも相当な強い歯の持ち主だったので、東大阪の祠に祀られる歯噛みさんは刀を歯で折ったというのですが…。
和田賢秀の墓

此処の古字名は"薬師"と呼ばれており、いずれも歯神さんと言われ歯の神様として特に、歯の痛みに悩む人々の参詣をあつめ信仰されています。此方は高さ1m程の墓石「和田源秀戦死墓」と記されているのですが …!!天保2年(1831)信奉者による寄進・建立のようです。此処から旧東高野街道を通って近くの四条畷市立歴史民俗資料館へも今日再び訪れます。考古・歴史・民俗資料展示室があり、田原城址や近くの千光寺跡から発掘の キリシタン墓碑や銅製のクルスは必見ですね。 「飯盛山は如何でしたか?天気が良くて何より…」係りの人に声かけられたが「いえ・・(^^;今からこのメンバで登るところです…!!」上杉さんは此処でも馴染みのようで 飯盛城の資料コピーをお願いして戴いた。
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正行一族の合葬地と楠の巨木   どちらも史跡・天然記念物として大阪府指定文化財

楠木正成の嫡男・正行が正平3年(1348)四條啜の戦いで足利尊氏の部将・高師直軍と戦ったが、大軍を前に劣勢は明らかで力尽きた正行と弟 ・正時は刺し違えて自刃します。 此処に正行は一族とともに合葬されています。正行の死後約80年経って此処に小さな石碑が建てられていたが、 その後・何人かが碑の近くに楠木を2本植えたが、その2本が合わさって小さな古い石碑を挟み込み1本のような大木になっています。樹齢約580年幹周り12mの楠の巨木になり大阪府の天然記念物に指定されています。

石碑を抱いた大楠木
供養塚の石碑は明治11年に建てられ、 大久保利通自筆の銘が刻まれています。ヒーローを死なせたくない伝承は義経伝説のように、正行にもあって正行の墓(楠木左金吾正行)は遠く鹿児島にもあるといいます。飯盛山オフに参加の"碧さん"から聞いた話は面白い。 正行と最後まで行動を共にした南朝方の熊野水軍や和田家(菊水の定紋)に守護されての甑島(鹿児島県薩摩郡)での生存説は、内容の用意周到さもあり不思議と納得させられそうです。
随分道草してしまって、 勧進の飯盛山城へは登山口の四条畷神社で遅い食事を済ませてからになってしまった。飯盛山山頂までは前回の逆コースなので案内は割愛しますが流石・飯盛山城を徹底探索済みの"まよいのすけさん"のガイドなので見逃した 石垣遺構については、土留め石を含めても、此れ程多くの石積みの跡が点在していたのかと驚きですが 7m近い高石垣や屏風折を施した石垣には感動しました。本丸千畳敷には何故か人目を避けるかのように NHK 飯盛山FM放送局FM-OSAKAの送信所の登山コースとは反対側の、それもフェンスの中に数ヶ所・文字までズレた大東市教育委員会の飯盛山城址説明板が建てられています。本日最後の訪城となった田原城ですが、四条畷神社まで戻ってきた道草の付けが廻ってきて迷います。15分位で行けるだろうと車で向います。既に夕暮れでPM4:30を過ぎれば周囲はもう薄暗くなりかけています。 丘城の麓・月泉寺駐車場からは本丸に建つ白い看板「田原城址」の文字が何とか読み取れるのですが、北谷川を渡って城域に入ると暗い。 さいわい"まよいのすけさん"の言っていた、五月蝿く吼える犬が居なくてなりよりでしたが、女性も居て「怖い・怖い」の声が背後から聞こえる。
飯盛山城本郭帯曲輪下方の石積


流石に!!?男性陣は痩せ我慢か??。堀底道を詰めるが途中の数段の曲輪は広く、其々の切岸は随分と高い。も少し早く到着していれば、小ぶりな城ながらダイナミックな堀切・切岸・土塁等遺構の確認や写真も光量不足、主郭に立つと遠く奈良方面の街の灯が…w(≧0≦)w。暗く、 寒くもなってきたので最後に反省会…の会場探し。交野市私市の磐船神社近くの"おじいさんの古時計"へ向った。瀬音が聞こえる谷川の側に建つオーナー自ら手造りのログハウスは素朴さと、こだわりの店。 朝の待ち合せ場所への集合から今迄夢中で探索・歩き回って和気藹々とML・掲示板での延長で、親しい会話を交わしながら・最後の最後が・・自己紹介!!。
(畷古文化研究保存会等の現地案内板 参照)


 野崎城  飯盛山城
 田原城

野崎城   xxx 114m  大東市野崎

野崎の地は東高野街道を経て北河内から中河内方面に入る場合、西に深野池が入り込み東は飯盛山の支脈が突出ていて 平地が最も狭くなった位置にあり戦略上の要地でした。 16世紀頃の城では近くに三箇(さんが)頼照(三好長慶家臣で集団洗礼を受けキリシタンとなり サンチョの洗礼名を持つ)の三箇城や北条・御稜等の飯盛山城支城 ・出城がありました。JR野崎駅の慈眼寺(野崎観音)への案内板に野崎城跡も描かれているので寄ってみる。
野崎城・右上が本丸

野崎城の城主等城史は不明だが河内守護・畠山氏の内紛では畠山尚順が拠っていて永禄5年(1562)畠山義豊が 此処を攻め落している。!野崎城は野崎観音(慈眼寺)東北の裏山一帯にかけて数段の削平地を残しています。 慈眼寺本堂西のハイキング道取付きから直ぐに「展望所」で西面の展望が拡がります。 展望所手前からの急斜面を登れば最初の曲輪跡。 右手へは吊橋を渡って本郭東鞍部へ出る飯盛山や野外活動センタへのハイキング道です。
本丸東の鞍部が堀切(ハイキングコース)

勿論最初の西南の曲輪へ出ると 石造九重層塔(大東市指定文化財 第2号)が建っています。この石塔は昭和初期まで九層だったが、最上層と相輪を失って高さ287cmの八重層塔になっています。昭和9年(1934)の室戸台風で倒れたとき、篤志家によって組み直されたものといわれ方向の違いが専門家によって 指摘されているが、創建年代の古さから考えても何回か建て替えられているようです。永仁2年(1294)汐弥入蓮と秦氏が主君と両親の追善供養の為に造立した旨、74文字の金石文を礎石に刻された北河内最古の層塔です。
石造九重層塔

なを此処の曲輪南下には慈眼寺の忠興開基・江口之君を祀る江口之君堂や 「お里沢市」の碑がある。江口之君・光相比丘尼は淀川の対岸にある 江口の里の長者で藤原時代の末期、 思い病気にかかられ当山の観音様に御参りして病気が治りました。 同じ病気に悩む人達に霊験があるとの事で特に婦人病や子授けに、沢山へ御参りしてお堂を左から年の数だけ廻るとご利益がいただけるとされます。
野崎城本郭から飯盛山城を望む

さて九輪塔の先に休憩東屋の建つ当城域では 一番広く削平された曲輪に着くが公園施設造営もあって遺構は良く判りませんが、此処から本郭に向う下の曲輪の様子はハイキングコースで割られていますが良く判ります。本郭は飯盛山支脈と10m以上の堀切をもって築かれており山頂 ・標高114mの最高所に本郭があり、慈眼寺の江口堂裏・登山コースの休憩東屋のある附近とその北西方向に出曲輪を持ち、尾根上に続く九重層塔のある曲輪からは二段の腰曲輪を経て本曲輪へ辿り着きます。此処からは正面に飯盛山城が迫ってきます。
(大東市教育委員会現地案内板 昭和58年7月 日本城郭大系 新人物往来社 参照)


飯盛山城   飯盛山 315m  大東市北条/四条畷市南野

河内平野の東・大和と国境を分ける生駒山系の 北西に延びる支尾根上の飯盛山(314m)に城を築いたのは建武年間 (1334-38)北条氏方の佐々目憲法といわれます。 しかし大阪府南端の阪南にも同じ北条氏方の拠った飯盛山があり、また和歌山県那賀郡にも飯盛山城がありますが、北条氏方の佐々目憲法僧が拠った飯盛山城は 紀伊の飯盛山で、此処で河内の楠木正成に攻められ落城しています。
千畳敷南下曲輪から虎口と南丸の切岸を望む

山麓を東高野街道が通じ、京都と河内・大和や高野山・紀州に至る要衝の地は重要な軍事・戦略上の拠点ともなっていました。 近畿でも山城・砦が築かれた山名に飯盛山とか茶臼山と呼ばれる山が多いようです。一時的には南朝方の楠木八臣の一人恩地城(大阪八尾市)の恩地左近満一が飯盛山の砦を攻め、 此処に拠っていたのかもしれません。
飯盛山城南丸・虎口から東側を土塁が囲む

正平3年(貞和4年1348)1月・高帥直軍が四条畷の野崎に着陣し、縣下野守等が飯盛山城に布陣した四条畷合戦では足利軍の臨戦的陣城となっています。楠木正行が往生院城 (東大阪市)を本陣にして勝算無きこの激戦で楠木正行・正時兄弟が自刃しています。飯盛山の砦を居城として大改築したのは戦国時代・享禄4年(1531)北河内に勢力を張った畠山義宣の臣で在地豪族の木沢長政だが細川晴元に寝返って飯盛山を攻めるが天文11年(1542)長政は三好長慶の軍によって滅ぼされる。
千畳敷南下曲輪の虎口門跡

木沢氏滅亡後は交野城の安見美作守直政、ついで永禄3年(1560)三好長慶が入城し飯盛山城・芥川山城(高槻市)・高屋城(羽曳野市古市)の三城を中心に畿内制覇に乗り出し飯盛山城の全盛を迎えますが永禄7年(1564)42歳で 病死してしまいます。城域北の御体塚丸にある石碑と塚が三好長慶の墓といわれ、 御体塚の名の由来ともなっており此処には高石垣の遺構が残っているらしいのですが今回知らず、旧道を下ったばかりに発見出来ず…!!。
主郭腰曲輪東下の石垣

永禄11年(1568)織田信長の入洛では三好三人衆(三好長逸 ・三好政康・石成友通)も信長に降りて、摂津・河内の平定により飯盛山城は畠山昭高の所有となるが天正4年(1576)信長に攻められ落城し廃城となります。 飯盛山城は高櫓台を標高315mの山頂部に置き、今は四條畷(四条の縄手)合戦で自刃した楠木正行像が建っています。その北にある本郭部からの展望は絶景で、その眺望を楽しみにハイカーが訪れる人気の山ともなっています。千畳敷の南端(飯盛桜園)には虎口が開き、峰続きに5m程の切岸をもった南丸がある。
飯盛山城・本郭東下に残る石積

虎口から南丸の南端迄東側には1〜2mの土塁が続きます。普段だと笹薮の中で状況が判らないところですが幸い、下草が刈り込まれていたので土塁が観察出来ました。土留めの石積みは随所に見かけますが本郭東側の腰曲輪に残る数段の 石垣の遺構確認も最重要。本郭を北へ下れば永禄7年(1564)42歳で此処で病死した 三好長慶の塚があるので 御体塚(身体塚)の名があるという御体塚丸。此処にも高石垣が残るのだが>…急ぎ帰る必要もあり此処で旧山道を四条畷へ下ったので気付かなかった!…(^^;旧道から上部に石積みらしいものを見つけ、
飯盛山城・本郭東下に残る石積

南端の三本松丸の 史跡碑が建つ場所への(踏み跡も無い道では有りませんので危険ですよ)激登りでハイキング道へ出てきて 登山者をビックリさせてしまったついでに御休塚丸まで往復して、今度は新道??を飯盛山城へは最短距離の四条畷神社に下ったが、 此処三本松丸は本郭からは良く見えない西方向の大阪湾に展望が得られます。

(日本城郭大系 新人物往来社 大東市教育委員会現地案内板等 参照)


田原城     xxx山 180m  四条畷市上田原字八の坪

城MLのオフで最後に寄った田原城へは東高野街道からは生駒山系を横断して 河内・大和の国境に位置しており、両国を結ぶ清滝街道(大和街道清滝越え)に出て古堤街道・中垣内越えの古道を目指しますが、 丘陵帯に建つ四条畷消防署の田原分署の側近く、時間が有れば是非寄って見たい千光寺跡の側を通って旧道に出ます。千光寺は田原城主一族の菩提寺で、その跡地か らは安土桃山時代「本能寺の変」前年の天正9年(1581)に亡くなった三好長慶の家臣:田原城主田原対馬守(洗礼名:レイマン)の墓碑や キリシタン墓碑が出土し、
月泉寺駐車場附近から田原城址遠景

千光寺跡の発掘現状を残したまま見学できる遺跡公園にして整備され、温室のような建物を見て通り過ぎるだけ。此処からは北谷川に対峙しては既に陽は沈みかけ、最後の残照の中で「田原城址」が望めます。 もう薄暗い城域に向かうのは何故…!!?古堤街道を南田原へ抜ける、中垣内越えの道。月泉寺駐車場付近から前方の小山に「田原城址」の看板文字が見えます。城址への登城口を目指して天野川に合流する支流の北谷川に沿って 緩やかな坂道を進むと二つの川が小丘の北・東・南の三方を囲む外堀となって 深い谷となった山裾は崖となって 切立つ要害となっています。ただ本丸帯曲輪の北に延びる尾根筋には、何等堀切等の防備施設が無い事はMLで"上杉さん !!??"が指摘されていましたっけ。
田原城址本郭部の住吉神社

古堤街道を監視する北側は河内平野や清滝街道が飯盛山から河内に通じ東高野街道に出る。 東には山城・木津へと通じる街道の要衝となっています。月泉寺足下暗くなりかけた城域へは鉄板を渡した橋を渡り、竹林の中・空掘りのような貯水池を回り込めば、深い堀底道が住吉神社を祀る本丸へと続きます。海に近くない此の地に 住吉神社とは!!??何か伝承があるのかも知れません。祠と燈籠を"コの字"に1m程の土塁が囲んでいます。その燈籠横から竹薮の中の急坂を皆が下降してくる堀底道へ下って "二の丸"間の堀切へ出る。とっても小さな丘城と聞いていたし、暗くてほんの一部分とか見学できなかったが、堀切から本郭・堀切から下の曲輪にかけての高い切岸には圧倒されます。縄張り図に見る井戸郭や西出丸にある櫓台、奇妙なほどに細く延びる土塁道等々の見所も多くて興味尽きない処ですが、とっくに行動限界・時間切れで諦めざるを得ません。
田原城址本郭の夜景??

また城域の南西面は中腹にある曲輪の先まで民家が迫ってきているようなので、民有地なら近いうちに宅地化されて消える運命かもしれません。月泉寺に伝わる田原氏の位牌には南北朝期のものがあって、 田原庄を領した土豪だったようです。正伝寺の西方に字名「古城」と呼ばれる附近に居館を構えていたと推察されますが戦国期・永禄年間(1558-70)に田原対馬守は、三好長慶が飯盛山城に居を移した頃よりその配下に属して、 より軍事的な拠点として現在の地に、飯盛山城の支城の一つとして築いたのが田原城で、防備の手薄な東方・大和方面に対する最前線基地の役割を果たしていたと思われます。 田原氏も三好氏没落後に滅亡し、 城も天正期(1573-92)廃城となったとされます。

(日本城郭大系 新人物往来社 大東市教育委員会現地案内板等 参照)


野崎観音(河内国第5番札所 曹洞宗・福聚山慈眼寺)   大東市野崎2丁目7番

飯盛山西の山麓にあって「野崎観音さん」と昔から親しまれてきた慈眼寺は本尊・十一面観世音菩薩(平安前期)創建は奈良時代後期・天平年間(729-49)行基菩薩と伝えます。忠興の開基は平安時代・ 一条天皇(986〜1011)の頃、 西行との歌詠みで有名な江口之君(光相比丘尼)で、 淀川の対岸「江口の里」の遊女が信心から当山の観音様に御参りして病気が直ったということで、低地の嶋頭にあったお堂を現在地に移して寺坊を再建したので、中興の祖と呼ばれるようになり、縁結び・安産・子授け・厄除け等参拝者が増えた。
野崎観音(慈眼寺)

江口之君堂には彩色された 官女姿の座像が祀られています。慈眼寺は室町末期の永禄8年(1565)兵火で焼失したが天和2年(1616)に青巖和尚によって再興され、元禄2年(1689)大阪の豪商・平野屋五兵衛が再建した。寛文〜元禄時代(1661-1704)頃に始まった 野崎参りが盛んになり、古典落語や♪野崎参り〜は 屋形船で参い〜ろ…♪東海林太郎の「野崎小唄」の歌詞にうたわれているように、 屋形船で川遊びを楽しみながらお参りをする人と、土手の参道を歩く人達で賑わっていたようです。長閑な風景は何処へ行ってしまったのか?駅前に案内板がなければ想像も出来ません。♪…何処を 向〜いても 菜の花ば〜かり…♪の 歌詞にある春の祭り「無縁経」5/1〜5/10が「野崎まいり」として賑わいます。近松半二の浄瑠璃「新版歌祭文・野崎村の段」や近松門左衛門「女殺油地獄」で有名な「お染・久松」の比翼塚が境内にあります。本堂北横には宝永4年 (1708)鋳造の鐘楼があり、その間に飯盛山へのハイキングコース取付きがあります。 登山コースの分岐先には展望台があり、その裏手一帯が野崎城跡です。ハイキングコースには城址を本丸へ辿るコースと、吊橋から本丸南側の堀切を経て 飯盛山を目指すコースがあり、どちらも道標完備です。
(野崎観音パンフ及び現地案内板 参照)


四条縄神社(別格官幣社・小楠公社)   四條畷市南野

四条畷神社は生駒山系 ・飯盛山の西山麓にあって南北に東高野街道が通じ大阪から京都・奈良・高野山や、吉野方面を結ぶ交通の要衝でもあり軍事戦略的な要地です。正平3年(1348)1月京都へ向う南朝方の楠木正行(まさつら)軍と待ち受ける北朝方 ・高師直の大軍と勝算無き四条の縄手の激戦で、戦いに散った正行の天皇への忠誠を顕彰するために、主祭神:楠木正行 (大楠公・楠木正成の嫡男正行は小楠公と称される)配祀神として楠木正時・楠木正家・和田賢秀ら一族の将士24柱が配祀されたもので、 脇殿に正行の母を祀る御妣(みおや)神社がある。明治維新の思想的原動力として国家の忠臣・小楠公墓所に神社創建を願出され明治22年(1889)勅許がくだり楠木正行墓所に四条畷神社の社号と 特別な神社(別格官幣社)に列格されています。
四条畷神社

創建場所は墓所ではなく 飯盛山山麓に移され翌年 ・明治23年(1890)4月に社殿が完成、御鎮座したもので、正行の命日にあたる2月12日には毎年例祭が行われます。合戦の主戦場は東大阪市「四条の縄手」・正行兄弟が自刃した場所が四条町の砂山城と伝えられる。 国家発揚の意義と正行首塚を祀り創建の地ではあっても四条畷に神社が有り正行の母を祀る「御妣(みおや)神社」も有り、北朝方の陣城だった飯盛山山頂には小楠公・楠木正行像が建てられて、 少しばかり奇異を感じてはいるのですが…(^^;

(現地案内板 参照)
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