大阪の富士と南北朝期の山城  泉州小富士 / 土丸城〜雨山城
大阪(阪南) (五万図=岸和田)
水呑地蔵〜泉州小富士山〜稲倉池/土丸城 〜雨山城〜土丸  2002年11月02日
近畿の山城 : 土丸城・雨山城
ふるさと富士 :
泉州小富士山 
校歌・故郷の山:熊取南小学校 ♪友よ 雨山の空に朝は明るくxxx…♪
         
熊取中央小学校♪眉にりりしい 雨山の松に立つ風…♪

雨山側から土丸城を望む

数少ない大阪府の富士に 泉州小富士山があります。小粒ながら円錐形の山容を稲倉池に映す独立峰はソックリ、 ミニ富士山のシチュエーションを整えています。和歌山龍門山〜飯盛山縦走の帰路、 62号線に対峙する小富士山と雨山(土丸城と雨山城)へも寄るのは当初の計画です。HP開設以前に歩いた同じコースの再訪で、関西空港を一望できる二つの城(雨山と土丸)へ最初に訪れたのは熊取の 花見客の姿も消え桜花の散った永楽ダムの駐車場からでした。「熊取」とは…紀泉を分ける県境の山地、丘陵で囲まれクマドリされた谷・盆地の地形から名付けられた と云われれば納得出来る名称です。登山から20数年遠ざかっていた私が再び山歩き・まして馴染みも無い和泉・阪南・和歌山の山を歩くことになろうとは考えもいませんでしたが、 兵庫南部地震(H7.1.17)に被災し県外疎開してきた処が泉佐野市でした。熊取から犬鳴温泉〜和歌山側の神通温泉〜打田町へ抜ける62号線は、高野・吉野・和歌山の霊場から霊峰廻り、山登りの再開ルートとして 随分利用した道でもあります。以来・第二の故郷への里帰り気分で毎年岸和田ダンジり祭りが終わった後の、山手ダンジリ(泉南・熊取等)頃には訪れています。ダンジリファンになった妻を残して私は近辺の山歩きですが…。


コース 水呑地蔵〜泉州小富士山 〜稲倉池/新前川橋〜土丸城〜雨山城  H14年11月02日

土丸交差点手前の大池辺りからは富士型の頭部を見せてくれますが逆方向からの登山口到着です。 最短距離で山頂に立てる水呑地蔵の駐車場(AM11:30)をお借りして鳥居を潜ぐり西国三十三カ所観音霊場巡りの急な石階段を登っていきます。此処で鳥居と石仏のミスマッチ!!?に気付いた方は…龍神竜王(役小角)と 清水 地蔵が 共に祀られているんです。中程に休憩展望所とお堂があり、さらに続く石段の先は奥の院で突き当たり 此処で参詣道は終わリます。奥の院手前にテープと「登山マナー」が記された標板があり、立木を頼りの急な登りとなりますが直ぐに露岩の尾根に出てきます。

南稜から望む泉州小富士山

府道を挟んで土丸と雨山二つの山城の峰が荒々しく露岩の肌を見せて、 鎧武者の様相で起立しています。登り付いた花崗岩の風化した砂地の頂上からの見晴らしは良く、大阪湾に浮ぶ関西空港や六甲の山並みが望まれますが…此処は北峰で目の前 3分弱の行程で行き着くピークが小富士山 (3等 泉州小富士山 260m AM11:50)です。山頂から見える稲倉池の水量が非常に少なくて水面に浮ぶ泉州小富士の姿を撮らえようとの期待は少し難しいようです。稲倉池を目指して南尾根を辿りますが小富士展望尾根コースですので振り返り、振り返り全山岩肌を剥き出すアルプス的風貌の 富士を見ながら下ります。
稲倉池からの小富士山

送電線鉄塔(PM12:10)から先も踏み跡がハッキリしていて、稲倉池への車道・沖崎組の第3資材置き場の西側のロープとテープが目印の取り付点へ下りて来た(PM12:15)。前回は巡視路を辿って沖崎組の資材置き場の 崖のような東側に降り立った。折角なので「大阪みどりの百選」のひとつ稲倉池へ向かい歩き出します。10分程歩き池側まで来て途中から藪を着いて貯水量の減ったダムサイトへ下りて一枚だけ記念写真を撮って 引き返します(PM12:25)。水呑地蔵のすぐ近くに江戸時代の民家が移築されており、雨山コースに向う途中でもあり寄って見ます。旧向井家住宅で 泉佐野市の指定文化財になっていて一度訪ねてみたいと思っていたところです。茅葺屋根を通して間近に土丸城の峰がズッと見えています。関西空港を一望できる大阪の富士山から駐車場に戻り、 向井家住宅にも寄ってから同様に関西空港を望む二つの山城・雨山と土丸に向う為、阪和自動車道の高架下の橋を目指します。樫井川に架かる新前川橋 (PM12:45)を渡ってすぐ右への道を辿れば 「雨山ハイキングコース・土丸城址へ」の小さい標識やテープが土丸城址から雨山へと続いており、ガイド不要の整備された歩きやすい道です。コナラやウバメガシの混ざる薄暗い樹林帯の急な登りも、送電線鉄塔の下に出てくれば目指す土丸の山頂は直ぐ其処。 振り返れば西側には小富士山が見える。
向井家住宅と土丸城

此の先は露岩帯、 瘠せた山肌は小松や低潅木の為、登るにつれて三峰山からボンデン山へ・犬鳴山や和泉葛城の山々へと展望は拡がってきます。程なくして広い台地に出てきます。簡易ベンチも設置された 土丸城(280m PM1:10)の曲輪跡です。最上部の本丸には石の鳥居と菊水紋の石造りの小祠があって楠木一族の)橋本正高(正督)を祀り「忠烈」の顕彰碑が 建てられています。もと日根野氏の城ですが、鳥居の下に捨てられたように立てかけられた土丸城址の 説明にのみ日根野氏の名が残る。鳥居・祠と雨山城の築城主・橋本氏の顕彰碑。日根野氏が逃げず全滅・討死したとしても、 結果は同じ南朝方の城ですね。小祠から一段下の曲輪端へ降りて削平された尾根筋を雨山に向います。直ぐに急坂となり鞍部からの登り返しで露岩の尾根に変わると、永楽ダムを取り囲むように雨山からの稜線が 色付き始めた山肌を南へ延ばしていきます。その先には緩やかに 東西に稜線を延ばす和泉葛城を望みます。粉河ハイランドの展望台が目立ちます。振り返ると土山城址は 見上げるばかりに鋭く三角錐の山容をそそり立たせています。雨山を東へ捲くように進んで井戸跡 (今も満々と水を湛えています)に着きます。

土丸から雨山南尾根と和泉葛城山系

此処から東へ向えば「月見の亭」を経て永楽ダムや南への尾根を辿って上永楽池の斎場や奥山ハイキングコースへ続きます。永楽ダム入口からは駐車場脇から「雨山城趾」への標識を辿れば此処に出てきます。 藪っぽく荒れた山道は整備され良くなったように聞いていますが!!雨山城(314m PM1:20)の 井戸跡上部が千畳敷と呼ばれる広い削平地 ・二の丸で 曲輪を北の熊取町へ丁石が続く大手道で雨山へは一番歩きやすくて最短コースで、山頂下付近には馬場跡や射場の跡があって展望と休憩適地でもあります。取付き点に2〜3台駐車スペースがあって便利だったが数年前には 進入禁止になっています。さて千畳敷から最期に高い曲輪を越して本丸に登り着きます。玉垣で囲まれた雨山神社(竜王社)の前の身悶えている大木は何時見ても気!!になるところです。雨山城址の説明を呼んで 休憩小屋の西の曲輪に降りて見ます。此処は小富士山と関西空港を見下ろす絶好の展望所です。帰路は先述の大手道でも良いが、井戸から土丸城側へ戻って土丸城・雨山城を分ける谷筋を下ります。 この道は土丸城ヘの大手道だったかも知れません!!が非常に荒れていて藪とガレた踏み跡不明瞭で急坂、案内標は勿論残置のテープ類も有りません。両城との分岐の下り始めでは右(雨山側)に数段の曲輪跡らしい場所を見かけるが、 後は何もない暗い樹林帯を黙々と下るだけ。阪和自動車道の貝塚No17(PM1:55)トンネルを潜り、永楽ダムや貝塚市へ繋がる車道を成合口(大阪体育大学・浪商学園)へでて62号線の土丸経由で水呑地蔵(PM2:30)へ戻り着きます。
========================================================
旧向井家住宅 泉佐野市指定 【平成6年(1994)3月】文化財

阪和自動車道の高架下を潜り犬鳴温泉の大看板を見て62号線(泉佐野打田線 )水呑地蔵の手前で、左手に 茅葺屋根が見えるでしょう。其れが泉南地方の江戸時代の農家の特色をよく残した民家 ・旧向井家住宅です。関西空港連絡道路建設により上之郷机場(泉佐野ジャンクション付近)から此処へ移築し 復元されたものです。

向井家住宅・玄関

間口7間、奥行き5間の大きさで間取りは台所を土間に半間突き出す「食い違い」4間取り、構造的には桁行梁(けたゆきはり)と指(さし)鴨居の間に 梁を入れるところに特色があります。屋根は茅で葺かれ棟には幅1mの大きな雁振瓦を乗せています。建築年代は土蔵の梁に江戸時代後期の享和2年(1802)の墨書があることから、主屋もこの頃に建てられたと考えられます。
<泉佐野教育委員会案内板参考>


土丸城・雨山城<


土丸城と雨山城
は 南北朝期から紀泉(紀州・粉河と泉州・和泉)を結ぶ粉河街道の要所は戦略的にも重要な位置にあって 幾度となく争奪戦が展開されました。麓を樫井川が流れ下大木側からは急峻な岩山が望まれる 天然の要害となっています。 僅か400m 程の尾根を隔てる二つの城の間にある深い谷が市町境界線となって雨山城は熊取町、土丸城は泉佐野市と所在地は別々になっていますが、両城を合わせて雨山城とも呼ばれます。築城時期は異なり始めに土丸城があり雨山へと城域が拡張され、時代変遷の中で中世期には規模からいっても雨山城が主郭となり、土丸城はその一支城として機能していたようで、 雨山城の三の丸とも言われています。
泉州小富士山側から土丸城(前)と雨山城

土丸城へは土丸の阪和自動車道高架下の新前川橋から、道標があって土丸城〜雨山城二の丸下の井戸・月見亭(永楽ダムへ向う尾根コース分岐)に出て千畳敷へ着きます。此処へは北側から 町石の続く大手道!!があって最短コースですが登山口にあった 2台程の駐車スペースへも進入禁止ポールが立てられてしまいました。登城道を永楽ダム入口の駐車場に「雨山城趾」標識があって遊歩道も整備されており、 ハイキングには適当な距離だが、訪城には遠いですね大阪体育大学前から永楽ダムへ続く車道脇から雨山と土丸の間にある谷沿いの道は、下りも止めた方がいいですね。藪や踏み跡探しが楽しみな方は別ですが。

土丸城(槌丸城)   280m 泉佐野市土丸

紀伊と和泉を結ぶ粉河街道を押さえる交通の要衝にある土丸(槌丸)城は南北朝期には南朝方の一大拠点で、山頂には橋元正高の顕彰碑が建っています。 城を廻って両勢力による合戦が行われ、南朝方の橋本正高・楠木正勝らがこの城に籠もったが落城しています。戦国時代・明応2年 (1493)には畠山政長の家臣が守っていたが、細川政元は香西備前守に命じてこれを攻め落城させた。その後、根来寺衆の拠点ともなった時期を経て元和3年(1617)廃城となりました。

土丸城

正平元年(貞和2 1346)地元の豪族日根野氏によって 築かれた城で、正平3年(貞和4 1348)11月・足利尊氏の命により和泉国守護に着任した高師泰(こうのもろやす)に命じて日根野盛治、その子時盛等に土丸城を警護させたが、その後足利尊氏・直義兄弟の争いから 高師泰は追われ正平7年(文和元年1352)に南朝方の軍に攻められ、正平8年(文和2 1353)南朝方・楠木氏一族の橋本正高(正督)が 時盛を追ってこの城に入り日根野氏は城を捨て、楠木氏や橋本氏などによって雨山へと縄張り(城域)を整備・拡張していったと言われ、南朝側の和泉の重要な拠点となっていきます。
土丸城

この時から土丸城は雨山城の一角で土丸砦とも 三の丸もしくは雨山城の支城として機能していくことになります。 その後、正平24年 (1369)南朝の総師楠本正儀が北朝に帰順、やがて橋本正高(正督)もこれに従ったことから雨山城は落城・再び北朝の手に帰す。永和4年 (天授4 1378)橋本正高・和田正武らが雨山城・土丸城を奪い返し て再度南朝に復帰し北朝方を迎撃するが、細川頼元・山名氏清らの軍勢に破れて城を捨てて吉野に逃れます。橋本正高は翌、 永和5年(天授5 康歴11379)再び土丸に拠ったが、その翌年(1380)山名氏清等の 大軍に攻められ3月には陥落、 正高は敗死しています。さらに弘和2年(永徳2 1382)楠木正勝が籠城し山名修理大夫義理と戦ったのですが、 大内義弘の大軍の前に敗れて城を捨て去ったといいます。
雨山城本丸

その大内義弘が土丸 ・雨山の山頂から延びる尾根の東800m山頂部の小屋谷山(大小屋山城)に土丸城の一郭を形成して拠っていたといわれます。文明16年(1484)畠山政長は畠山義就と土丸城に戦いこの時、日根野景盛は宇高大和守の命を奉じて土丸城を守り、 明応2年(1493)畠山政長の部下が城に拠ったが細川政元は香西備後守に攻めさせこれを陥しています。南北朝時代、この城は両朝の激しい戦いの舞台となっていました。江戸時代初期まで重要な戦略的拠点として機能していたと考えられる。 土丸城の遺構としては一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪とはっきりと残っています。


雨山城  雨山 314m  泉南郡熊取町野田・成合

雨山城跡は熊取町の南端に位置し、雨乞いの山として山頂には雨山龍王社(雨山神社跡)がある 南北朝期の山城で正平元年(貞和2 1346)楠木一族の橋本正高(正督)が築いたとされる南朝方の和泉地方の拠点で嘉慶2年(元中5 1388)南朝方の広橋経泰らが兵を起こし雨山城に拠ったが山名義理の来攻で落ち其の後、根来寺衆の拠る処となった時期もあったが元和3年(1617)に 城郭が取り払われたといわれます。

雨山城本丸

山頂には橋本正高の顕彰碑(平成4年)が建てられ、城址説明板もあります。遺構としては登城道に残る堀切 ・千畳敷の広い削平地・今も満々と水を湛える井戸・月見の亭・馬場跡・射場などが本丸周辺にあって往時を偲ばせています。 南朝方の橋本正高の埋蔵金伝説も残しています!!。和泉山脈や大阪湾に浮ぶ関西空港等が一望出来ます。雨山は今も生活に密着した美しい山は山城としても歴史的に有名で、文化財保護条例により 名勝として熊取町の指定文化財(平成8年3月13日)となっています。雨山神社は明治41年(1908)に大森神社に合祀合併されています。
  丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system