河合寺城・烏帽子形城/旗尾岳〜府庁山〜十字峠〜ブンダ谷
大阪 (五万図=大阪東南部)
烏帽子形城・旗尾岳〜府庁山〜十字峠〜西の行者堂〜ブンダ谷 2003年03月19日 
ふるさと富士 :旗尾岳(天見富士) 548m
校歌・故郷の山   石仏小学校 ♪山削り谷を埋めて築きたる城山の…♪
近畿の山城 :烏帽子形城 河合寺城  旗尾山城 石仏城・左近城 未踏


和歌山県と大阪府を南北に分けて峰を連ねて長く延びる金剛・和泉の山脈はダイヤモンドトレールとして登山 道が整備されているが金剛山や 岩湧山周辺以外は静かなコースです。まして其処から南北に 延びる枝尾根の突起に足を向ける登山者は少ないようですが河内と大和国境の金剛〜葛城周辺や、河内と紀州国境の岩湧山周辺の交通の要衝は当然ながら
旗尾山(天見富士)千早赤阪 ・清水付近から

南北朝期・楠木氏の支城 ・砦も多いところ。金剛・和泉の山脈を二つに分けてR371が走る西高野街道)が 大阪(河内長野市)と和歌山(橋本市)をつなぐ大阪側玄関口からふるさと富士天見富士(旗尾岳)と、 名も大阪府の府庁山へは山城への寄り道。河内長野市が市内の歴史・文化財や景勝地を結ぶテクルートとしてコース設定され道標・案内板は勿論、路面にも起点・直進・右左折の指標まで徹底整備された 自然歩道があるが登山ルートは滝畑ダム〜岩湧山〜タンボ山までのダイヤモンドトレール部分だけのようです。



烏帽子形城・旗尾岳〜府庁山〜十字峠〜西の行者堂〜ブンダ谷〜天見  H15.03.19

国道309号線で富田林市に入ると何時ものごとく富田林駅前附近の道路分岐で道を間違う事も多く、今日も170号線東側を走っていて310号線に入ってしまう。此処も拠る所があるので先ず北辰妙見堂前から長野温泉前に出て 長野公園の展望台へ登ってみます。目的の烏帽子形城の山塊が市街地の上に黒い姿をのぞかせていますが、山名の烏帽子の形はどこなのか確認出来ない?。在地土豪の城主・橘長治/正房の別名:烏帽子形氏が山名と思いますが後刻・此処を訪れた山頂本丸の案内板には 甲斐庄正治/正房とあって、今度はキリシタン大名・高山右近と甲斐庄氏との姻戚関係に興味が出てきます。
河合寺城址・奥の院の曲輪跡

展望台へ向かう山の斜面を見ていると此処も山城かと思えてくる。烏帽子形城を西に見て千早赤坂村の本城への街道筋 310号線沿いの河合寺城とは石川支流に高く急斜な崖を挟んで対峙しています。長野公園(河合寺地区)は車道隔てて直ぐのところ。河合寺城 は寺を城塞化した城は遺構が何も残っていないという事でしたが、河合寺手前から展望台へ向かう途中も展望台から先も峻険な気になる様相の尾根でした。帰路の奥の院には広い削平地があり城址ムードを高めます。 371号線を南下して南海高野線・河内長野駅と三日市駅間の中間付近の西側にある烏帽子形八幡神社に寄って行きます。此処も進入箇所が判らず三日市駅まで行き過ぎてから戻ったが、看板が欲しいところだ。 一帯は烏帽子形公園となっていて駐車場(参詣者以外使用禁止!!今日はチェーンが張ってあった)からなら烏帽子形八幡神社への石段横から「シイの木道」を採れば烏帽子形古墳の遺跡広場前に出て西への尾根「古墳の道」を辿れば烏帽子形城址です。「堀の道」に沿って本丸を目指すのも良いですね。 烏帽子形城の豪快な空掘りの遺構は山城ファン必見です。
旗尾岳山頂


烏帽子形城から次の予定旗尾岳〜府庁山へと高野街道を石仏南から天見に向かいます。南海千早口駅近く、清水集落に来ると「天見富士」旗尾岳が 優美な姿を現わしてきます。朝陽の陰になり山容がシルエットなので写真は帰りに撮る事にしたが車道沿いに駐車スペースはありません。石仏城と左近城 へも寄りたいが・地理不案内のうえ所在位置さえ未確認。様子も歴史も分からないところへポツリと(雨)来たので諦めます。左近城址の真下!!??車道脇にマンホールの蓋があり清水井戸と彫られた石標があったが 目立たず、車窓から気付く人は殆んどいないでしょうが…。集落内に地名の標示はないが清水井戸が清水の由来か。城山をパスして千早公民館近くの駐車スペースへ 車を寄せて引き返し(AM9:05)、千早駅から天見駅へは天見川と南海の軌道に沿って続く廃線跡を辿る遊歩道には天見の名産・南天は赤い実を殆んど落としているが、それでも赤い枝葉が民家の庭先や畑に目立ちます。 薬用として植えられるようになったといいますが "のど飴"ならご存知ですかね。旗尾岳へは天見駅から直ぐの 北谷道か千早口の中間点にある採石場からの送電線に沿って其々に山頂へ直登するルートは標識も有り判り易いが、採石場の5分程手前"火の用心No.92和泉線"標識の谷沿いの道(AM9:15)から取付く。
才の神谷下降点附近の尾根から府庁山

このコースは以前(H9.01)伊谷峰から 学文峰を経て千早口に降りて登り返した時と同じで鉄塔No92までの巡視路は歩きやすい。ただ此処からの尾根伝いは前回同様の藪雑じりの急登りです。鉄塔No92(AM9:25)に出ると眼下に371号線と採石場から絶え間ない騒音が 聞こえてくる。細々とした尾根道は踏み跡から藪っぽくなり消えてしまう。倒木等で荒れた主尾根の西北端近くに出ても(AM9:45)急斜面の登りですが程なく採石場からの登山道に出ると直ぐ先に旗尾岳の山名標識のある 木の根が見えてきます。杉の植林に囲まれた平坦な広場のような旗尾岳(天見富士548m AM9:52)山頂は展望も無く、遺構もよく判らないままの通りすがりピークが旗尾山城で元弘3年(1333)の安満美合戦の主戦場だったとは想像も出来ない。 何処まで続くのかと思える程の単調な展望のない登り降りの尾根筋ですが 才ノ神谷への下降点から少し登り返すと鉄塔に出た(AM10:28)。
府庁山の三叉路

峰を連ねる金剛の峰々や北面には鉄塔を載せる田山が見える。府庁山から田山〜クヌギ峠を千早口へ戻れば駐車地を通るので便利なので、 十字峠と島ノ谷集落の石積みの棚田が続く風景も懐かしく思い出されてきます。送電線鉄塔を30m程下ったところが正規の!?才ノ神谷への下降分岐のようです。周辺で植林伐採のチェーンソーの音が響いてきます。 西面がスッカリ坊主頭となった 尾根筋の先に府庁山が見えています。境界尾根筋には「府」の文字を彫った石標が埋まっています。 此処は山名の通り大阪府の山・府庁山ですね。個人所有の山林を府が借りて植林しているとか!!?。尾根上に府庁山三叉路(AM10:40)の標示板があって十字峠・タンボ山と田山への分岐を指しています。
十字峠

最高所を府庁山とするなら、ほんの少し田山(542m)側へ進めば 府庁山の山名プレートが有る様です。展望のない三叉路分岐からはせっかく稼いだ高度を一気に吐き出すように下降すると10分程先には展望と草地の休憩地(送電線鉄塔下)があり腰を落として休憩する(AM10:53〜58)。 北東へは金剛の南尾根が転じて西南方向に岩湧山への山稜を望み、一呼吸して下り始めるが直ぐに前方に白い真っ直ぐな道が現れる。左下手からも同様のセメントを流し固めた舗装林道が先へ延びており鞍部が十字峠(AM11:03)です。名ばかりの峠道ですが以前は右下の登山道を島ノ谷集落から石積みの長閑な、 棚田の風景を楽しみながら此処に登り着いたので、今度は下降してみたいが未だ時間があるのでダイトレへ抜け送電線の走るタイ谷か、ブンダ谷を採ろうとタンボ山(763m)への尾根に向かう。金剛南尾根も近くなった頃、 山道は捲き道と尾根を辿る分岐となった。捲き道を採れば直ぐ其処がタンボ山だったが尾根を辿ってダイトレに合流。
西の行者堂

タンボ山へ往復する気はなく、そのまま西の行者堂(AM11:35)に着いた。フトン谷とシオン谷に挟まれた屋根で桂本道の出会いにあるポイントだが 行者堂へは此処から20m程小道を進む。直ぐ祠が見えるがダイトレ側なのに余り寄る人は居ないようです。祠は行者杉を背に岩場を前にして祀られています。金剛トンネル近くの東の行者堂と共に、祠には役行者石像が祀られています。 ダイトレからタイ谷コースの下降なら巡視路なので間違う事も無いだろうと思っていたが (AM11:45)分岐に着くと"出来れば通行を控えて 欲しい"とのコメントが添えられているが ダイトレコースの直ぐ先(約1分)でブンダ谷の下降点です。なみはや国体(H9)山岳競技コースとして整備され歩きやすく、この道を推奨されていますので、 ブンダ谷下降点から島ノ谷へ下ることにします。尾根上からは辿ってきた山並みに府庁山が大きく眺められる。谷筋へ蛇行しながら下り始めると黙々と杣道を辿るだけ。ブンダ谷道から府庁山

島ノ谷集落内の舗装道に出たところが「火の用心No.187御抜線」ブンダ谷入口です(PM12:10)。 ほんの10数m?で十字峠への道路分岐だ。奥へ奥へと石積みの棚田が続いています。以前・十字峠へ向かった時は何処まで車で入り込んだか思い出せないが、狭いが殆んど車の通らない集落内の道は歩きも楽しいものです。 川と山とに挟まれた谷に拡がる田園風景と農家の石垣に沿うように庭先に、赤い実はもう無いが赤い葉を残して天見の名産・南天の木が目立ちます。南海電車のトンネル上(PM12:25)を越せば 蟹井神社の前。天見は中世「甲斐の庄」と呼ばれ蟹井は甲斐の転訛だという。朝寄った烏帽子形城の城主や千早口駅近くの石仏城の城主・甲斐庄氏が在地の土豪だったと考えられますね。車騒が耐えない国道371号線と天見川を挟んで旗尾岳の山裾を平走する旧軌道跡の 水平遊歩道を今度は千早口へ向かって戻ります。
十字峠への道(島の谷集落)


採石場関係者の 駐車場向かいに旗尾岳への直登の巡視路コースがあり登山コース(PM12:45)は此方が一般に利用されるんでしょうね。ほんの3〜4分先で私の入山した火の用心No92への標識があります。前方に駅が見えてくると 左近城址と石仏城址の二つの山が見えてくる、もう一度山と取り付きを確認したかったが曇ってきたし、今日は平日なので早めに切上げないと帰宅に時間がかかりすぎるので今度・一徳防山〜阿太庫城址(旗倉山)の時にでも、 も少し調べてと…時間が惜しいが引き上げます。
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蟹井神社
 祭神(神倭磐余彦命、品陀和氣命、息長足比賣命、玉依比賣命)

天見は中世「甲斐の庄」と呼ばれ、蟹井は甲斐の転訛だと云われます。また天見川に蟹井の渕という 深渕があって、蟹井神社の御神体が出現した事からとも伝えられています。天喜2年(1098)8月の創建と伝えられる。南北朝期は南朝方・楠木氏一族の崇敬も篤く祈願所(戦勝祈願等)となっていた。延宝4年(1676)焼亡し 荒廃していたが一部再建されたのが今の社殿だそうです。


烏帽子形城 河合寺城 旗尾城  石仏城・左近城は今回未訪


烏帽子形神社と烏帽子形城  烏帽子形山 182m  河内長野市喜多町  指定史跡

近畿地方でも原生林の姿をとどめる烏帽子形神社の「シイの森」は神域として伐採等が禁じられ守られてきた為、樹齢200年を超える 椎の大木が残っている貴重な存在です。第二次大戦の頃には烏帽子形山に砲台が設置されていて終戦直後、多数の砲弾が山中に埋められた為、公園に造成する際にも地形には全く手を加えず自然公園として保存することになったといわれ城址の遺構が荒らされずに残った事は幸いです。烏帽子形公園一帯には烏帽子形八幡神社 ・烏帽子形城址・烏帽子形古墳の遺跡や史蹟があります。創建年代は不明ですが現在の社殿は棟札から室町時代・文明12年(1480)に建立されていることが判ります。烏帽子形八幡神社本殿

素盞鳴命・足仲彦命・神功皇后・応神天皇を祭神として祀る烏帽子形八幡神社の本殿は室町時代 ・文明12年(1480)に建立され、国の重要文化財(昭和25年8月29日)、本殿の向かいには楠公武威の松がお堂の中に納められています。此れは楠木正成が延元元年(1336)湊川の合戦に赴く時、武運を祈願して 植えたとされる老松の巨木だが昭和9年((1934)の室戸台風で倒れ600年の樹齢を閉じたもの。幹の輪切りが納められ祀られています。烏帽子神社の駐車場から参道を本殿に向かわず右の山道を辿ると 烏帽子形古墳広場に出ます。西への尾根を辿ればダイナミックな空掘りが幾重にも本丸を囲む様は、山頂の案内板にデフォルメされて書かれた城の復元図が誇張ではなくリアルにさえ感じられます。ところで展望台のある古墳広場(Ca150m)には円形(経17mX高さ3m)に土盛された6世紀後半頃の横穴式石室形式の古墳が有って、 外形測量しか実施されていないが、 昔地元の人が掘って石室があることが確認されているそうです。
烏帽子形城本郭

駐車場から遊歩道「堀の道」を15分程、空掘の底を歩き経塚が建つ山頂の本丸に登り着きますが、此処が楠木七城【千早城 赤阪城  小板田城 金胎寺城 桐山城 竜京城 】の一つ烏帽子形城です。西から北側への石川と東に加賀田川(天見川 )が合流する要害の地点にあり、同じく楠木氏の支城群の一つ。 千早城・赤阪城の西の守りとなった河合寺城と対峙しています。東山麓の天見川に沿っては西高野街道が走る交通・軍事の要衝に位置しており、 街道に沿って石仏城・左近城・旗尾岳の 塞城等の城砦群があります。烏帽子形城址の本丸は東・南・西を空掘りが囲い、曲輪は其々に土塁等の遺構が比較的良く残されており、 堀切で遮断されており北側は急斜面になっています。山麓の烏帽子形八幡宮の境内には井戸があり歴代城主の居館があったとされます。西高野街道の要衝は交通・政治・経済拠点として烏帽子形城は中世以降も 修築されてきたが、普段は見張り所程度の「詰の城」だったのでしょう。南北朝期・元弘2年(正慶元年 1332)楠木正成が 赤坂城の出城として南河内に築いた城砦群の一つ。争乱の時期でもあり、 この城をめぐっての争奪戦が繰り返された。元弘3年頃(1333〜34)には楠木正成の部将:高向氏が、正平年間(1346〜70)には楠木氏の正儀・正勝・正秀等が拠ったといわれます。大永4年(1524)河内守護・畠山氏の内紛に伴って 城の附近は幾度と無く戦場となっています。応仁の乱以後は畠山義成方の城となり北朝方の畠山国清も一時拠っていたようで畠山義深も河内守護の後、当城下で亡くなったとも言われています。 戦国期の天文年間 (1532-1555)には甲斐庄隆成が城主となったが畠山定国に攻められ落城後碓井氏が入城した。元亀年間(1570-73)河内の土豪でキリシタンの橘長治(別名:烏帽子形氏)が城主となっています。橘氏は甲斐庄氏の別名でしょうか。烏帽子形城本丸にある地元の案内板には城主を甲斐庄正治 !!・正房で説明されています。中世の河内の天見は"甲斐の庄"と呼ばれていたので橘氏は石仏城の甲斐庄氏一族なのでしょう。

烏帽子形城主郭を囲む周濠の遺構

織田信長は仏教を抑える為キリスト教を奨励したので、 城周辺にも多くのキリスト教信者が集まって南河内のキリシタン文化の拠点となり、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの天正9年(1581)日本史に烏帽子形城の記事が出てきます。烏帽子形城主の妻と高山右近の妻が 姉妹だとする姻戚関係の話もあるようです。天正年間(1573-92)には徳川家康の命で河内を離れ浜松城へ入ります。天正12年(1584)豊臣秀吉の命で中村一氏が修築して今の近世城郭に生まれ変わっています。 小田原・関ヶ原で参戦した橘長治の子・正房が元和元年(慶長20年1615)の「大坂の陣」で河内案内者として従軍、その戦功により烏帽子形城主として返り咲いたが元和3年(1617)正房を最後に廃城となっています。


河合寺と河合寺城    XXX山 190m   河内長野市河合寺町

宝珠山河合寺
真言宗御室派 十一面観音

飛鳥時代・皇極天王2年(643)天皇の命により蘇我入鹿 【大化改新で中大兄皇子に殺された】の創建を伝える 市内最古の寺院で、歴代天皇や武将の信仰も厚く、寺宝の千手観音・不動明王等が国指定の重要文化財となっています。南北朝期には観心寺や金剛寺と同様に南朝の味方となって 楠木氏との関係も深くなっていました。
長野公園(河合寺地区)展望台附近

元弘2年 (1332)楠木正成や河合寺衆が寺院の伽藍を城郭化した河合寺城は楠氏の塞城の一つとして、和泉、河内方面や紀伊方面の防衛線となっています。 石見川に沿った上流に在る楠氏本拠:千早城の西の守りともなる支城群の一つです。金剛山脈の神福山近く、金剛トンネルを越せば奈良県五條市に出る大沢街道の街道筋にある 河合寺城は河合寺奥の院横の広い削平地や、其処から展望台へ向かう尾根道に城址の曲輪や竪堀・土塁跡の片鱗を窺がえる箇所が有ます。
河合寺

正平3年(1348)楠木正行が四条畷合戦で戦死した後は足利氏に寺を焼かれ、畠山義就・政長兄弟の 相続争いによっても多くの文書・記録が焼亡したが、護良親王(鎌倉幕府に対抗した後醍醐天皇の子)の文書が焼失を免れています。城跡は現在・長野公園(河合寺地区)の遊園地となり、境内は桜の名所ともなっています。 山頂部にかけての植樹等で遺構は不明瞭。その地形に要害の面影を見るだけ…


旗尾山城  旗尾岳 549m河内長野市上岩瀬町

天見富士とも呼ばれる秀麗な山容の旗尾岳の山頂に有り、西高野街道を抑える要衝にあって紀見峠砦・石仏城と共に紀伊方面からの 侵攻に備えた山城のようです。山頂付近に平坦な地形を残すのみで城の遺構は見当たらないが、元弘3年(1333)の安満美合戦の主戦場となったところです。


左近城と石仏城

共に楠木氏の支城で天見川の西岸・城の越谷を挟んで左近城と石仏城が対峙しています。371号線(西高野街道)から登路を捜しますが地理不案内で様子が分からないところへポツリと来たので諦め退散します。左近城址の真下!!??車道脇にマンホールの蓋があり、 清水井戸と彫られた石標がある。集落内には地名の標示がないが、この清水井戸が由来のようですね。
千早口駅付近からの左近城(中)と石仏城(右)

左近城  XXX 250m  河内長野市清水町
石仏城の支城で元弘3年 (1333)今出四郎が拠り安満美合戦に参加したという

石仏城   XXX 238m  河内長野市石仏町
西高野街道を抑える重要拠点で 楠木正成の属城。烏帽子形城と同じく在郷の土豪・甲斐庄氏のものか!!

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