梅の香が包む小楠公最後の戦場 生駒・神津嶽〜大原山〜神感寺城・往生院城
大阪 地図(五万図=大坂東北部)
山行日 2003年02月28日  生駒山周辺ルート(今回は歴史散歩です)
 枚岡梅林〜神津嶽〜大原山〜神感寺城〜鳴川〜往生院城・四条縄手の史蹟巡り
近畿の山城: 神感寺城 往生院城 城砂山城 (未訪)
校歌・故郷の山枚岡西小学校 ♪朝日に映える 神津嶽xxx…♪ 神津嶽
♪青葉茂れる桜井の  里のわたりの夕まぐれ 木の下蔭に駒とめて…♪生駒の山並みが近づいてくると、よくは知らないが最初のフレーズを思い出します。明治32年(1899)に発表された小学唱歌「桜井の訣別(わかれ)」は、南北朝期・楠木正成が 10万の軍勢を率いて都へ攻め上ってくる足利尊氏を迎え討つ為、元服して間もない11歳の息子正行まさつら)との最期の別れをしたのが旧西国街道の攝津・島本町にある「桜井の駅」であったと伝えられているが…、
小楠公(楠木正行)像往生院六萬寺

往生院沿革によると正行が居た往生院は元桜井寺ともよばれる。此処:東大阪市ではなく・何故遠く離れた高槻市近くの"桜井の駅 "だったのか?? 占領され敵の陣地となった四条畷の飯盛山山頂に何故楠木正行の像があるのか? 何箇所か存在の正行の本当の墓は何処??幾つもの疑問が湧いてきます。四条畷神社は明治22年(1889)創建されたもので南朝に殉じた忠臣・楠木氏一族の霊を神として祀ってあるのですが!!。つい先日(H15.2)NHK「その時・歴史は動いた・足利尊氏」を見たばかりで南北朝期の史蹟・城巡りは一段と興味深いものがあります。後醍醐天皇に忠誠を尽くした楠木正成は「湊川の戦い」で討死にします。その後南朝征伐に兵を集結する高師直軍との戦いに、城には籠らず吉野から東高野街道を京都に向かった楠木正成の長男・正行の軍は河内平野で衝突します。正行が此処・河内の往生院城に本陣を敷き、凄まじい戦闘が行われた 「四條縄手の合戦」の舞台です。

枚岡梅林から市街地(東大阪市・大東市)を望む

山岳でのゲリラ戦が得意の楠木氏が兵力でも劣勢の時、北畠親房の言に従ってか!!吉野から京都を目指して進軍し、河内平野での不利な野戦を展開しています。高氏が拠る飯森山山麓の四條畷は 本陣に迫った正行軍との当初の戦場とはなったでしょうが四条の名がある東大阪市の四条の縄手が正行最後の合戦場所でしょう。(以降【四条の縄手】とします)東高野街道を北上する南朝軍の動向を 察知していた高師直軍にとって地理的に近い飯盛山や生駒山の要所に先に兵を集めて待伏せしていたかも知れません。生駒山〜信貴山に続く稜線の岩滝山の中腹にあって正成亡き後、正行が此処を主に活躍した山岳寺院・旧往生院は 既に城郭化されており其処に本陣を敷いたとされます。師直軍は山岳戦に長ける楠木軍を執拗に何度も野戦へと誘き出されて兵を失い、やがて正行兄弟は…!!


枚岡梅林〜神津嶽〜大原山〜神感寺城址〜鳴川〜往生院城〜瓢箪山H15.02.28

お城ファンというより南朝ファンの地元・河内判官大夫さんの尽力を得て往生院六萬寺ご住職直々に岩滝山中腹にある往生院金堂跡往生院城の案内をしていただく事になりオフ会に初めて参加させてもらった。 参加のメンバには熱烈南朝ファンで、今回お誘いを受けたanne猫さん・主催の河内判官さん・山城については判官さんが一目置いている佐助さんです。何処からかドロンと現われるだろうと思っていた(猿飛び??)佐助さん は待ち合せにはタイムオーバ、残念ですが三人で出発します。メインは往生院城の大楠公楠木正成の御曹司・正行 (小楠公)の本陣跡「四条縄手の合戦」ですので、南朝一色のツァーに一人敵役の北朝方(私?)が迷い込んだ形での参加です。
枚岡梅林

近鉄枚岡駅からの山歩きコースは奈良へ抜ける国道308号線の奈良街道を暗峠に出て鳴川峠へと、二つの峠を結びたいところだが、今日はその二つの峠の間にあって ・山岳寺院を城郭化した二つの山城廻り。神津嶽から神感寺へショートカットの"らくらく登山コース"舗装道路を往生院へ向かいます。駅から山側へ渡って枚岡神社境内に入ります。老杉に包まれた古社は 河内国一の宮と呼ばれており、拝殿の正面石段下・石鳥居の横には、座した鹿や子鹿を背にした鹿の石像もあるが 神鹿の伝説でもあるのかな!!。枚岡神社から比賣御神(ひめみかみ)と藤原氏の祖神(神社の主神でもある)天兒屋根命(あめのこやねのみこと)が奈良・春日神社に分祀されたので元春日とも呼ばれます。

神津嶽本宮(神津嶽山頂)

拝殿と左にある社務所の間を抜けて隣接する枚岡梅林の季節は今、 拡がる斜面に約500本の紅梅白梅が咲き淡い梅の香に包まれます。"四条縄手の合戦"と小楠公・楠木正行(まさつら)の話は後にして早速・南朝伝説の遺蹟です。梅林の入口は茶屋の裏手にある井戸で「首洗いの井戸」標札があった。 最後に訪れた往生院にも「首洗い池」があるといいます。小楠公の墓は四条畷、京都等6ケ所余りもあるといわれると伝承の真意は薄れてしまいますね。♪吉野を出でて討ち向かう  飯盛山の松風に なびくは雲か白旗か …♪明治の教育唱歌「四条畷合戦」にも様子が歌われているように、自刃した正行の首実検がされたのなら、四条の縄手(瓢箪山駅付近?)から飯盛山裾の四条畷へ運ばれたと思うし、途中此処・枚岡で首を洗っても疑問はないが?四条畷に祀られたのなら、 京都へは証拠の遺品に何を運んだのでしょうね…
大原山から生駒山頂を望む

胴塚とか髪塚があって各地に分骨されたのならわかるのですが!!鎧塚等なら後半の史跡探訪で、判官さんに案内してもらった霊光院(正行終焉の地)への道すがらに見かけた塚も密かに戦死者を埋葬し、刀や鎧が埋められ所でしょうか。 往生院周辺は楠木氏の本拠地です。地元の人々に手厚く保護され祀られる楠木氏一族の史蹟探訪も楽しみです。枚岡梅林の奥から谷に沿って神津嶽コースのハイキング道が始まります。桜木も目立ち春の散策にも良い整備された広く緩やかな道が展望台へと導いてくれます。眼下に拡がる東大阪の市街地・花園ラグビー場 ・京都西山から摂津五月山 ・六甲連山等がフレームを分割する淀川の先に並んで見えます。素晴らしいパノラマはこの後、大原山からも眺望を楽しめます。
八代龍王神感寺の山門(此処が旧神感寺址の十字路)

山歩きに慣れない判官さんにはキツイ登りが続きます。途中「枚岡神社神津嶽」への標識を見てコースは水平に先を進みますが anne猫さんとはピークを踏んで行く事にします。といっても直ぐ登りつめた所が神津嶽山頂(315m)で枚岡神社の神津嶽本宮を祀る石の鳥居と祠が有ります。すっかり明るくアカ抜けた神域は極々最近整地再興!!?されたようです。 尾根伝いに判官さんの待つコースに合流して、大阪府の「府民の森」公園事務所前を抜けて広い舗装道路に出ると標識があるのに行き先標示に迷ってしまいます。地図が無くても暗峠方向は分かりますが反対方向は鳴川へ、大原山へは直進だが道が ??少し右手に階段道があったが判官さんにはキツそうに思えたが直ぐ尾根に出て「万葉のXX」標識を見て明るい展望が拡がる草原状の大原山 (523m)に着いた。中継塔側から「ぼくらの広場」へと東へ下ると直ぐ人工池に出て池に架かる橋の先には「八代龍王神感寺⇒」の 大立看板が建っていて、檜林の間に舗装林道が続いている。 林道沿いにブロック塀が出てくると八代龍王神感寺の寺域らしいが中は植林が拡がっているだけ。
八代龍王神感寺の山門(此処が旧神感寺址の十字路)

山門が見えて来ると左手に段差をもった削平地が現れ最初に土塁が現われ林道に沿っては石積みが見えてくる。山門前に着きます。 山門を下った所が全国の龍王総社・真言宗醍醐派神感寺(八代龍王大神)です。此の山門前に東大阪市の旧神感寺跡の説明板が立てられ付近一帯が、寺名は同じですが山岳寺院の旧神感寺址です。 山門を寺域中心の交差点として、林道から右手・少し高くなっている東北部が寺の中核部です。泉池の位置が分かったので藪に分け入って神感寺城遺構探しです。 往生院さんとの約束は2時なので余り長居もできず山門に戻り"八代龍王神感寺"から鳴川コースを下る。一般車通行禁止舗装車道の"らくらく登山コース"を抜け老人養護施設付近で往生院さんの出迎えを受け一先ず六万橋まで行きます。 橋下からは旧往生院の金堂址の確認と真っ直ぐに金堂へ向かう旧参道や東高野道や、宅地となり跡形不明となったが往時の繁栄を示す堂宇跡や出土品の話を伺って、金堂跡へ向かいます。南北朝期・楠木正行が幼少を過ごし、四条縄手の合戦では本陣とした河内往生院が壮大な寺であったと同時に城郭化された 往生院城の巨大な要塞跡を確認するのが今日の目的です。
六萬橋から岩瀧山・山腹中程が金堂跡(往生院城址)

往生院六万寺へ戻って出土品や復元金堂部分を見学後楠木正行公の墓にお参りします。往生院を辞した後は地元、 判官さんの勝手知ったる界隈の楠木氏遺蹟案内をお願いし瓢箪山駅への帰りコースに寄っていきます。四条町界隈を参照してください。 今日の山城巡りは歴史探訪でもありましたが、スタート地点では粥占いの枚岡神社、往生院では銅鏡による水占の庭園池遺構の話をフィナーレは辻占で有名な瓢箪山稲荷で宮司さんのお話に付き合って延々30分、 占いが仕事!!なのでしょうが天変地異予想の暦占からダビデの星の呪力、果てはアークまで飛び出して…!!話の腰を折るのも悪くて中々退散できません…。最後に反省会⇔長居は無用ですかね


神感寺城 往生院城 (鷲尾山城(興法寺) ・砂山城は今回未訪


神感寺城    寺山 460m
  東大阪市上四条町
 
生駒山中には、神感寺・往生院・興法寺・慈光寺等々、幾つかの山岳寺院が奈良 〜平安時代にかけて造られ城塞化された寺もありました。信貴・生駒スカイライン暗峠(奈良街道)の西、大原山を東へ下ると直ぐ「八代 龍王神感寺」を示す案内柱が建っています。舗装林道を採って暫らくで八代龍王神感寺の山門前に着きます。山門を下った所が全国の龍王総社・ 真言宗醍醐派神感寺(八代龍王大神)です…が、此の山門前に東大阪市の 旧神感寺跡の説明板が立てられ付近一帯が、寺名も同じ山岳寺院の旧神感寺址です。
東北部の寺域を囲む周濠の遺構

山門を寺域中心の交差点として、 林道から右手・少し高くなっている藪一帯(東北地区)が金堂跡や多宝塔跡の主要寺跡です。林道を下ってくる途中、山門の50m程手前で見かける土塁跡や 少し篠竹の藪を分け行ってみると姿をあらわすのは、東北部をL字状に包み込む様に 寺域に廻らされた空堀が城塞化した神感寺城の片鱗を見せています。神感寺は鳴川谷に面する通称寺山(標高Ca460m)の山腹にある 平坦部に営まれて、昭和34年・40年の調査によって 規模は東西200m,南北250mに及び、 当時の大伽藍の跡を留めている事が判明し古瓦【奈良時代の文永10年(1273)の銘あり】からは神感寺の名が明らかになっています。 寺領内を南北に林道が断ち割り、山門で東西にと4分割された寺域の 東北部が伽藍の中心部で城郭化された数多くの堂宇跡が集中しています。 此の東北区域は幅4〜5m・高さ2〜3mの空掘りで囲まれて六つの土壇があり、金堂跡を中心に多宝塔・中門・鐘楼等の堂宇の跡と基壇及び礎石の他、築地塀跡や石敷きの参道・池泉等を残しています。
東北部の土塁


また谷間に突き出した南西区域は古くから「塔の台」と呼ばれ幅5m・10数段の石段の上にある土壇上には9m四方と、 塔婆と考えられる5.2m四方の室町時代の、二つの方形建物跡(安南院跡)が火災を受けた状態で発見された他、各所から奈良時代末から室町時代の各種古瓦・陶磁器をはじめ仏器・銭貨・石臼・土仏・石燈籠片等が出土し、 この寺が奈良時代末に創建され鎌倉時代に大いに栄えたことが分かります。南北朝期の中頃はに南朝方により城塞化され「四条縄手の合戦」の際は、此処を城塞化した南朝方の将:中院右兵衛督!!?か別働隊は、 生駒山の南に布陣していた北朝方・佐々木道誉軍によって、信貴山から尾根伝いに攻められ兵火により焼失しています。この時、山麓の往生院城へも背後から攻撃を加えています。室町時代に入って一時再興されています。 神感寺城址は鳴川峠の西方にある往生院六萬寺が楠正行が本陣を敷いた所ですが、その正行が見張りや伝令に少数の兵を駐屯させていたが、佐々木道誉によって焼き討ちされて焼失しています。
(東大阪市の神感寺跡説明板・中河内郡史参照)


往生院城   (金堂址)130m  岩瀧山往生院六萬寺 東大阪市六万寺町

”四条縄手の合戦”に至るストーリーは楠木正行の墓の項を参照してください。東に険しい生駒の山並みが南北に走る東高野街道沿いには鷲尾山城(興法寺)・神感寺城・他、幾つもの山城が築かれ(砦・狼煙台含む)た楠木氏の城の中核にあったのが 正行が幼少の頃から過ごしてきた往生院城だったようです。往生院城は正平3年(1348)の四条縄手の合戦で楠木正行が拠って本陣としたが
野面積み
(高約3.5m)奥の桝形部には大きな石も目立つ

勝算無き激戦のなか正行・正時兄弟は往生院下方の四条で刺し違えて討死し往生院は兵火に焼かれます。戦国時代にも畠山一族の戦いの際に砦として利用されて又も焼失してしまいます。往生院城の場所や・往生院再興については岩滝山往生院六萬寺を参照願います。多くの山岳寺院が城郭化され城として、堂宇・宿坊は兵の駐屯等に利用されたが、
石積みのテラスが何段も続く

旧往生院も楠木氏により巨大な城郭寺院に変貌していきます。寺域の北と南側は急峻な谷となり自然の要害を形成し防禦に適した地形になっています。山中には丁寧に積まれた野面積みの石垣や堀切・土塁 ・井戸跡等、城郭寺院の遺構が雛段上に続く削平地が随所に残る。最高所はCa130mの金堂址で岩瀧山を背にして、城としての防備は正面からの攻めに対するもので此処から山側の設備は手薄なようです。
井戸跡の北・谷に面する土塁


西側からの攻撃に対しては尾根伝いに修験の道が各、山岳寺院と直結しているのですが、 その修験道を逆に「四条縄手の合戦」の際には北朝方・佐々木道誉軍が、神感寺城を落としたその足で山麓の往生院城へも背後から襲いかかり、 殆んど駐屯の兵もいなかったと思われる往生院城は、脆くも兵火に包まれたのではないかと思われます。



砂山城   
東大阪市四条町

判官さんに案内の砂山城址は名前を聞くのも始めて、 調べても希薄な私のデータベースからは何も出てきません…(^^;
楠木正行が拠り「四条縄手の合戦」で傷ついた正行兄弟が最後を悟って自刃したと伝承される城には二人の墓碑銘が 建てられているのですが、此処への案内は、また何れ機会を見つけてお願い致します。



岩滝山往生院六萬寺(臨済宗妙心寺派系の単立本山寺院)  東大阪市六万寺町

近鉄・瓢箪山駅の南東約2km、東高野街道沿いに楠木正行本陣跡石碑のある往生院六萬寺がある。 生駒山系・岩滝山の山腹にあり、天平17年(745)に造られた六万寺の一院に往生院があって聖武天皇の勅願により行基菩薩の開基を伝え、桜井寺荒廃の跡へ六萬寺が再建されました。本尊の阿弥陀如来座像は平安後期の傑作で府重要文化財指定です。 朱雀天皇の長暦3年(1039)念仏聖で河内国石川の安助上人によって荒廃した六萬寺が再建され 往生院と公称されます。上人は東高野街道(京道)を開かれ、法域も護持されますが、後村上天皇の正平3年(1348)建武の中興も空しく、楠木正行が北朝方の高師直の軍と戦う「四条縄手の合戦」の抗争となり 正行が本陣を構えて拠った往生院の伽藍は兵火に焼かれます。
往生院と本陣址の石碑


その後も戦国時代には畠山一族が砦として利用する等、戦乱に巻き込まれ荒廃します。承応3年(1654)関白・鷹司信房が名刹往生院の荒廃を嘆き欣誉上人をして再興され、時の幕府も朱印117石」を寄進して明治に至ります。
旧往生院金堂址は岩滝山の山中「九輪塔」と呼ばれる削平地に土壇・礎石を残し、此処から出土した古瓦等により 時代・規模が想定され秋篠寺を参考に甍・軒廻りの一部を実物大復元されています。軒丸瓦の梵字が阿弥陀仏の種子キリークである事から鎌倉時代・往生院が金堂を中心にした浄土信仰により栄えていたことでしょう。 此処は四天王寺の東門で極楽浄土の東門に当り、夕陽を見て極楽往生を願う「日相観」(弥陀の西方浄土に生まれるための行業)を修める場所であり、往生院からみる彼岸の太陽は四天王寺に向かって落ちて行き、往生を成す為の寺院 ・往生院は早くから栄えたといいます。
岩滝山中腹にある旧往生院金堂址

金堂址の碑から西30m程には築山程の高みがあって西方を遮りますが、 この高みからはパッと西面に展望が拡がります。雑木がなければ…河内平野が拡がり四条縄手の合戦場はもとより、浪速・播磨・摂津方面の見張台、 烽火台として上々の立地条件です。往生院さんより、道々に説明していただいて内容からも城塞化はされているが極楽往生を願う浄土信仰のお寺です。臨終を迎えた人達が西方浄土へのお迎えを待って金堂から延びるテープを橋に見立てての 阿弥陀如来の来迎を待ったのでしょうか。亡骸は墓地跡だとされる金堂跡への参道西下の3段程の広い削平地に埋葬されていったと思われます。又金堂跡は此処を極楽浄土に見立てて築山風の西側高台へは50m程なので長い 掛け橋を架けて、娑婆と浄土をつなぐ来迎橋とし金堂を阿弥陀如来が観音 ・菩薩を従えて極楽浄土から迎えに来てくれるという25菩薩来迎会(お練供養)が行われていたとも推察されています。真西に遠く四天王寺を望みながら静々と歩を進める金の菩薩像の仮面や金襴の装束が西日に輝く幻想的な光景が 此処で展開されていたのでしょう!!。
岩滝山遺跡(庭園跡)
岩滝山庭園遺蹟・復元の舟形池

往生院六萬寺境内の民具供養館の前に船形の石組みがあります。此れは先に弥生時代後期の竪穴住居跡が発見された現・往生院西300m付近で平成2年 ・3年宅地造成に伴う発掘調査の際出土した庭園遺構で池の底より鎌倉時代の【菊花双鳥文】の銅鏡が出土しています。銅鏡は池に落とし・その沈み方で諸事を占った水占(みずうら)に使われたものと推定されています。当時銅鏡は寺院や有力武士・豪族しか持てない貴重品です。此処からは鎌倉〜室町時代にかけての建物跡・庭園跡・石垣・井戸・石敷きの 道等寺院関係の遺構が広い範囲で見つかっており中世・往生院の隆盛と権勢を知ることが出来ます。
往生院から岩滝山・山腹中央付近が金堂跡

庭園跡の池を貴重な遺構と考えた往生院六萬寺によって原型のまま此処に移築された他、銅鏡も実物復元されました。 遺蹟一帯が宅地開発により往時の様子を想像する事も出来ない程に跡形も無くなった現状ですが、往生院さんでは寺の歴史や遺蹟・遺構の保存・資料整理に尽力されています。
(東大阪市の案内板 ・往生院パンフレット等参照)


楠木正行

正慶2年 (1333)鎌倉幕府の滅亡後、 各地の武士団は南北朝に対立して激しい戦いが展開されます。後醍醐天皇をたてて戦った楠木正成は南河内地方の有力土豪で金剛山麓に一大勢力を有し、同族の和田氏・北畠氏・結城氏等と活躍した。楠木正成の長子楠木正行は 正中元年(1324)河内に生まれ、幼少の頃は河内往生院で 学問を学び武芸を 磨いて過ごします。延元元年(1336)湊川の戦いで討死した父・正成の後、楠木一族の頭領として南河内を中心に活躍し、検非違使となり河内守に任ぜられた。当時、細川氏・山名氏等の北朝軍と河内各所の城塞を中心に 交戦して河内の南半を制していたが湊川の戦いで勝利した足利方は、幕府の基盤を固めつつあり、楠木一族の活躍に何時決戦を挑むか機会を窺っていました。
往生院の楠木正行の供養塔・東大阪市指定史跡

そして正平2年(1347)12月26日 足利方の高師直がいよいよ南朝討伐の兵を挙げ6万の大軍で京都を発ち淀・八幡に着いて決戦の機会を待ちます。この報を知って正行は後村上天皇に拝謁し父・正成が神戸・湊川の戦いに赴く時、後醍醐天皇に拝謁したと同様、 親子二代南朝方の為に最後の決戦を覚悟して、吉野・如意輪寺の板壁に
「返らじと かねて思えば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる」と辞世の句を残して 河内へと出陣します。正平3年(1348)1月2日、正行は往生院に本陣を敷き、楠木正儀は河内千早赤坂・四条中納言隆資は大和(奈良)・和田助氏は和泉にと其々陣を構えます。対する北朝方の高師直は飯盛山に本陣を構えて、 高師泰は和泉に兵を展開しました。正行は3千の兵を率いて、6万の高師直軍に戦いを挑み、再び佐々木氏等と四條縄手で激しい交戦となり、ついに正行(25歳)・正時兄弟は刺し違えて亡くなります。 南朝方の城塞となっていた往生院六万寺にある五輪塔は四条縄手で斃れた正行の首を黙庵禅師が、密かに本陣のあった此の地に埋葬したと伝えられています。石塔は江戸時代のもので後に供養塔として建てられたものといわれます。
(東大阪市の案内板・往生院パンフレット等参照)


四条町界隈

往生院を後に瓢箪山駅に帰る道すがらは山麓の四条町界隈に点在する 「小楠公・四条畷の合戦」の史跡巡りです。楠木正行・正時兄弟が討ち死にしたという砂山城への立ち寄りは時間的にも遅くなり寄ることを残念した。しかし四条町周辺は楠木氏の本拠地だったところ・古戦場でもあって点在する楠木氏一族ゆかりの遺蹟(塚やお堂や石碑)は地元の人々によって今も手厚く保護され線香や献花が絶えない。
霊光院向かいの楠公院・楠木一族終焉の地(御墳所??)

正行終焉の地の碑がある霊光院やその向かいには通りを隔てて楠公院が…。ブロック塀や鉄製の高板塀で
厳重に囲われた広い敷地が有って、 玉砂利の広場の奥に御稜らしい築山が有り石碑が建てられています。此処へ来るまでにも見かけた古墳とも思えない塚は中世のもの。 この付近が「四條の縄手」の激戦地であったことからも、此れらの塚は南朝方の斃れた兵達を埋葬したものでしょうか。
霊光院・小楠公(正行)終焉之碑

点在する此れ等の塚や、目の前のブロック・高塀で隔離された広い敷地に立ち入ることは出来ませんが楠木氏の一族郎党30数名が自刃した所といわれ 、今も付近の土中からは武者達の折れた刀や鎧が出土するといわれます。楠公院も此れらの遺物が出土した所ですが、 丁重に埋め戻されて碑を建て厳重に護られ供養されています。
歯神さん
歯神さん・和田賢秀を祀る

四條町は南北朝期・正平3年(1348)四條縄手の戦いで討死された楠木正行・正時の古戦場で「御墳所」と呼ばれる塚も有ります。 此の祠・歯神さんに祀られている神霊は楠一族の武将・和田賢秀で、此処で戦った時自分の刀が折れた為、敵の刀を口で受け止めその刀を 歯で噛み切ったところから歯神として崇められ歯痛に効く神として古くから信仰され「歯神さん」として人々から敬神されています。

楠木地蔵
小さな五輪塔二基が正行・正時を祀る楠木地蔵

極普通の地蔵堂です。正面の地蔵尊は像ではなく板碑?の様ですが!!その前には、 左右に大小二つの石塔が納められており楠木正行・正時兄弟を祀ったものとされ楠木地蔵と呼ばれます。地蔵石碑の種子まで確認していませんが、地蔵は楠木正行、正時兄弟を祀る為のカモフラージュなのでしょうか。 つい先ほど供えられた線香の香りが小さなお堂に立ちこめています。

瓢箪山稲荷神社
瓢箪山稲荷神社は山畑古墳群中・最も古い6世紀始め頃に造られた 最大の古墳で通称瓢箪山古墳と呼ばれる瓢箪形をした双円墳を背にして西斜面に社殿が建てられていますが 「淡路島かよう千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」と呼びながら売り歩いた、辻占の総本山として知られた日本三大稲荷の一つです。
瓢箪山稲荷神社

天正11年(1584)豊臣秀吉が大阪城築城にあたり、東南の方向に金鯱を埋め伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧進したのに始まるといわれます。 享和元年(1801)の河内名所図絵には「如ト」として既に東高野街道で辻占が行われていた事が記されいます。東高野街道西側に俗称"みこの辻"は神霊が降りるところといわれ、辻占いの占場となっていて往来者の服装 ・態度・持物などを見て判じたといわれています。(東大阪市の案内板参照)

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