梅の香が包む小楠公最後の戦場 生駒・神津嶽〜大原山〜神感寺城・往生院城 |
判官さんに案内の砂山城址は名前を聞くのも始めて、
調べても希薄な私のデータベースからは何も出てきません…(^^;
楠木正行が拠り「四条縄手の合戦」で傷ついた正行兄弟が最後を悟って自刃したと伝承される城には二人の墓碑銘が
建てられているのですが、此処への案内は、また何れ機会を見つけてお願い致します。
岩滝山往生院六萬寺(臨済宗妙心寺派系の単立本山寺院) 東大阪市六万寺町
近鉄・瓢箪山駅の南東約2km、東高野街道沿いに楠木正行本陣跡石碑のある往生院六萬寺がある。
生駒山系・岩滝山の山腹にあり、天平17年(745)に造られた六万寺の一院に往生院があって聖武天皇の勅願により行基菩薩の開基を伝え、桜井寺荒廃の跡へ六萬寺が再建されました。本尊の阿弥陀如来座像は平安後期の傑作で府重要文化財指定です。
朱雀天皇の長暦3年(1039)念仏聖で河内国石川の安助上人によって荒廃した六萬寺が再建され
往生院と公称されます。上人は東高野街道(京道)を開かれ、法域も護持されますが、後村上天皇の正平3年(1348)建武の中興も空しく、楠木正行が北朝方の高師直の軍と戦う「四条縄手の合戦」の抗争となり
正行が本陣を構えて拠った往生院の伽藍は兵火に焼かれます。
往生院と本陣址の石碑
その後も戦国時代には畠山一族が砦として利用する等、戦乱に巻き込まれ荒廃します。承応3年(1654)関白・鷹司信房が名刹往生院の荒廃を嘆き欣誉上人をして再興され、時の幕府も朱印117石」を寄進して明治に至ります。
旧往生院金堂址は岩滝山の山中「九輪塔」と呼ばれる削平地に土壇・礎石を残し、此処から出土した古瓦等により 時代・規模が想定され秋篠寺を参考に甍・軒廻りの一部を実物大復元されています。軒丸瓦の梵字が阿弥陀仏の種子キリークである事から鎌倉時代・往生院が金堂を中心にした浄土信仰により栄えていたことでしょう。
此処は四天王寺の東門で極楽浄土の東門に当り、夕陽を見て極楽往生を願う「日相観」(弥陀の西方浄土に生まれるための行業)を修める場所であり、往生院からみる彼岸の太陽は四天王寺に向かって落ちて行き、往生を成す為の寺院
・往生院は早くから栄えたといいます。
岩滝山中腹にある旧往生院金堂址
金堂址の碑から西30m程には築山程の高みがあって西方を遮りますが、 この高みからはパッと西面に展望が拡がります。雑木がなければ…河内平野が拡がり四条縄手の合戦場はもとより、浪速・播磨・摂津方面の見張台、
烽火台として上々の立地条件です。往生院さんより、道々に説明していただいて内容からも城塞化はされているが極楽往生を願う浄土信仰のお寺です。臨終を迎えた人達が西方浄土へのお迎えを待って金堂から延びるテープを橋に見立てての
阿弥陀如来の来迎を待ったのでしょうか。亡骸は墓地跡だとされる金堂跡への参道西下の3段程の広い削平地に埋葬されていったと思われます。又金堂跡は此処を極楽浄土に見立てて築山風の西側高台へは50m程なので長い
掛け橋を架けて、娑婆と浄土をつなぐ来迎橋とし金堂を阿弥陀如来が観音
・菩薩を従えて極楽浄土から迎えに来てくれるという25菩薩来迎会(お練供養)が行われていたとも推察されています。真西に遠く四天王寺を望みながら静々と歩を進める金の菩薩像の仮面や金襴の装束が西日に輝く幻想的な光景が
此処で展開されていたのでしょう!!。
岩滝山遺跡(庭園跡)
岩滝山庭園遺蹟・復元の舟形池
往生院六萬寺境内の民具供養館の前に船形の石組みがあります。此れは先に弥生時代後期の竪穴住居跡が発見された現・往生院西300m付近で平成2年
・3年宅地造成に伴う発掘調査の際出土した庭園遺構で池の底より鎌倉時代の【菊花双鳥文】の銅鏡が出土しています。銅鏡は池に落とし・その沈み方で諸事を占った水占(みずうら)に使われたものと推定されています。当時銅鏡は寺院や有力武士・豪族しか持てない貴重品です。此処からは鎌倉〜室町時代にかけての建物跡・庭園跡・石垣・井戸・石敷きの
道等寺院関係の遺構が広い範囲で見つかっており中世・往生院の隆盛と権勢を知ることが出来ます。
往生院から岩滝山・山腹中央付近が金堂跡
庭園跡の池を貴重な遺構と考えた往生院六萬寺によって原型のまま此処に移築された他、銅鏡も実物復元されました。
遺蹟一帯が宅地開発により往時の様子を想像する事も出来ない程に跡形も無くなった現状ですが、往生院さんでは寺の歴史や遺蹟・遺構の保存・資料整理に尽力されています。
(東大阪市の案内板
・往生院パンフレット等参照)
楠木正行
正慶2年 (1333)鎌倉幕府の滅亡後、
各地の武士団は南北朝に対立して激しい戦いが展開されます。後醍醐天皇をたてて戦った楠木正成は南河内地方の有力土豪で金剛山麓に一大勢力を有し、同族の和田氏・北畠氏・結城氏等と活躍した。楠木正成の長子楠木正行は
正中元年(1324)河内に生まれ、幼少の頃は河内往生院で
学問を学び武芸を 磨いて過ごします。延元元年(1336)湊川の戦いで討死した父・正成の後、楠木一族の頭領として南河内を中心に活躍し、検非違使となり河内守に任ぜられた。当時、細川氏・山名氏等の北朝軍と河内各所の城塞を中心に
交戦して河内の南半を制していたが湊川の戦いで勝利した足利方は、幕府の基盤を固めつつあり、楠木一族の活躍に何時決戦を挑むか機会を窺っていました。
往生院の楠木正行の供養塔・東大阪市指定史跡
そして正平2年(1347)12月26日
足利方の高師直がいよいよ南朝討伐の兵を挙げ6万の大軍で京都を発ち淀・八幡に着いて決戦の機会を待ちます。この報を知って正行は後村上天皇に拝謁し父・正成が神戸・湊川の戦いに赴く時、後醍醐天皇に拝謁したと同様、
親子二代南朝方の為に最後の決戦を覚悟して、吉野・如意輪寺の板壁に「返らじと かねて思えば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる」と辞世の句を残して
河内へと出陣します。正平3年(1348)1月2日、正行は往生院に本陣を敷き、楠木正儀は河内千早赤坂・四条中納言隆資は大和(奈良)・和田助氏は和泉にと其々陣を構えます。対する北朝方の高師直は飯盛山に本陣を構えて、
高師泰は和泉に兵を展開しました。正行は3千の兵を率いて、6万の高師直軍に戦いを挑み、再び佐々木氏等と四條縄手で激しい交戦となり、ついに正行(25歳)・正時兄弟は刺し違えて亡くなります。
南朝方の城塞となっていた往生院六万寺にある五輪塔は四条縄手で斃れた正行の首を黙庵禅師が、密かに本陣のあった此の地に埋葬したと伝えられています。石塔は江戸時代のもので後に供養塔として建てられたものといわれます。
(東大阪市の案内板・往生院パンフレット等参照)
四条町界隈
往生院を後に瓢箪山駅に帰る道すがらは山麓の四条町界隈に点在する 「小楠公・四条畷の合戦」の史跡巡りです。楠木正行・正時兄弟が討ち死にしたという砂山城への立ち寄りは時間的にも遅くなり寄ることを残念した。しかし四条町周辺は楠木氏の本拠地だったところ・古戦場でもあって点在する楠木氏一族ゆかりの遺蹟(塚やお堂や石碑)は地元の人々によって今も手厚く保護され線香や献花が絶えない。
霊光院向かいの楠公院・楠木一族終焉の地(御墳所??)
正行終焉の地の碑がある霊光院やその向かいには通りを隔てて楠公院が…。ブロック塀や鉄製の高板塀で 厳重に囲われた広い敷地が有って、
玉砂利の広場の奥に御稜らしい築山が有り石碑が建てられています。此処へ来るまでにも見かけた古墳とも思えない塚は中世のもの。
この付近が「四條の縄手」の激戦地であったことからも、此れらの塚は南朝方の斃れた兵達を埋葬したものでしょうか。
霊光院・小楠公(正行)終焉之碑
点在する此れ等の塚や、目の前のブロック・高塀で隔離された広い敷地に立ち入ることは出来ませんが楠木氏の一族郎党30数名が自刃した所といわれ
、今も付近の土中からは武者達の折れた刀や鎧が出土するといわれます。楠公院も此れらの遺物が出土した所ですが、
丁重に埋め戻されて碑を建て厳重に護られ供養されています。
歯神さん
歯神さん・和田賢秀を祀る
四條町は南北朝期・正平3年(1348)四條縄手の戦いで討死された楠木正行・正時の古戦場で「御墳所」と呼ばれる塚も有ります。
此の祠・歯神さんに祀られている神霊は楠一族の武将・和田賢秀で、此処で戦った時自分の刀が折れた為、敵の刀を口で受け止めその刀を
歯で噛み切ったところから歯神として崇められ歯痛に効く神として古くから信仰され「歯神さん」として人々から敬神されています。
楠木地蔵
小さな五輪塔二基が正行・正時を祀る楠木地蔵
極普通の地蔵堂です。正面の地蔵尊は像ではなく板碑?の様ですが!!その前には、
左右に大小二つの石塔が納められており楠木正行・正時兄弟を祀ったものとされ楠木地蔵と呼ばれます。地蔵石碑の種子まで確認していませんが、地蔵は楠木正行、正時兄弟を祀る為のカモフラージュなのでしょうか。
つい先ほど供えられた線香の香りが小さなお堂に立ちこめています。
瓢箪山稲荷神社
瓢箪山稲荷神社は山畑古墳群中・最も古い6世紀始め頃に造られた
最大の古墳で通称瓢箪山古墳と呼ばれる瓢箪形をした双円墳を背にして西斜面に社殿が建てられていますが
「淡路島かよう千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」と呼びながら売り歩いた、辻占の総本山として知られた日本三大稲荷の一つです。
瓢箪山稲荷神社
天正11年(1584)豊臣秀吉が大阪城築城にあたり、東南の方向に金鯱を埋め伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧進したのに始まるといわれます。
享和元年(1801)の河内名所図絵には「如ト」として既に東高野街道で辻占が行われていた事が記されいます。東高野街道西側に俗称"みこの辻"は神霊が降りるところといわれ、辻占いの占場となっていて往来者の服装
・態度・持物などを見て判じたといわれています。(東大阪市の案内板参照)