"くいだおれ"浪速の町歴史散歩  天保山〜大阪城〜四天王寺〜茶臼山〜新世界
大阪 地図(五万図=大阪西南部)
天保山〜中之島〜大阪城〜茶臼山〜新世界 2003年11月19〜25日
近畿の山城
:大阪城 野田城  天保山台場 茶臼山本陣
大阪百名(迷!!)山 天保山(日本最低山 4.5m)
名(迷!!)所 渡船場・西村捨三像・八州軒の跡・福沢諭吉生誕地
天保山渡船とUSJ(中央奥)とサンタマリア号(右端)

阪神電車西大阪線の千鳥橋駅を降りて西へ向って歩き出す。 此処もそうですが大阪市内の私鉄・JRの駅名に橋の名前が目立ちます。駅前に"此花区の梅香"道路案内標示を見ると 「難波津に 咲くやこの花 冬籠り 今を春辺と 咲くやこの花」とうたわれた詩を思い出します。昔のラジオ放送で番組は忘れたが "咲くやこの花…とうたわれた大阪の…"とのナレーションで始まる。"此の花"が梅花かどうかは知らないが!!、全日本かるた協会指定序歌として最初に詠まれる小倉百首にない歌(空札)です。 商都大阪の繁栄は昔より川と海の水運に負うところ多い。
大坂城

その水の都 ・大阪の河口には人工の山だが明治44年(1911)に三角点が設置され、その後・山土が削り取られたり地盤沈下で、名も消えていた山が再び、国土地理院に「山」として認定??され「日本一低い山」として話題となった天保山 (4.53m)があります。水都大阪のシンボルマークを天保山渡船に見て、此処より川を遡り中之島からもう一つの大阪のシンボル太閤の大阪城へ向い"ミナミ"のシンボル通天閣へ「杭倒れ」から「食い倒れ」の大阪を周回します。



天保山〜中之島〜大阪城〜四天王寺〜茶臼山  H15年11月19〜25日

40数年を経て、いよいよ大阪の街や住み慣れた西宮を去る日が近づいてきました。見慣れた風景・変わりゆく風景の一つ一つを感慨をもって見つめ直しながら 周辺の歴史散歩を続けてきましたが今回は大阪市内です。大阪湾へ流れ出る淀川が新淀川となり猪名川や神崎川が多くの支流を集め、また河口附近では安治川や中島川に分岐して中州を造り拡がる扇状地にある 築港地区はウォーターフロント計画によって変貌著しいベイエリアですが、その中にある天保山ハーバービレッジには 世界最大級の水族館・海遊館、河口と大阪湾を帆船型 遊覧船「サンタマリア」が航行し、地上高と直径100m世界最高水準のを誇る大観覧車、世界最大級のIMAXシアター、サントリーミュージアム天保山や マーケットプレースを設けての人気レジャーゾーンとなって賑わっています。
天保山渡船場

しかし私は大観覧車の東側、 高松・徳島行き案内も寂しげで人気の無い高速船乗船場を通って、緑の多い東端の一角に向います。かつては此方が新名所として 賑わった所なんですが…此処に日本一低い山として天保山(2等 4.5m)がある。登山口は南側と西からの二箇所しかなく、標高僅か4.6mの独立峰!!ですが多くの登山者は如何しても高みを狙ってピークを誤まってしまいます。 最高ピークではなくて、隣の低い峰?が三角点だという例が此処にも該当します。目印は先ず阪神高速6号・湾岸線の天保山大橋ですね。美しい斜張橋の姿を見ながら進むと、三角点標柱にしては規格外の立派過ぎるほどに高い石造りの塔が有ります。この塔は明治元年(1868)明治天皇の観艦式を記念した碑です。 天保山2等三角点は碑台の東側・天保山渡船場を見下ろす所にありますが流石に標高日本最低を示す石標柱は路面に埋まるようにあります。
天保山山頂?の2等三角点標

この山は貞享元年(1684)河村瑞賢の調査に基づき、九条島を掘り割って安治川を直線にしたので、島は二つに別れ九条と西九条の地名が今に残されています。 流砂が河口に堆積して諸国廻船の航行に支障が生ずるようになり、幕府によって天保2年(1831)から2年の歳月と多くの人々を動員して、安治川や木津川の流砂の川ざらえは「御救大浚(天保の大浚)」と呼ばれ、 河口の流砂を浚えた後の捨土を盛り上げた人工の山は18m程の小山となり標山(目印山)と呼ばれ新名所になりました。此の川浚えの様子・やがて天保山と呼ばれ行楽の場となり 賑わっていた様子、その難波津の運河を航行する船の航行 のため、水路を知らせる為に浅瀬に立てられていた 標識のみおつくし(澪標)と天保山の様子等は天保山の登山口(公園の入口)の塀に 「摂津名所図会」「浪花百景」の原画に近い復元図が説明板と共に飾られています。
海遊館

松や桜の木が植えられ、憩いの場として茶店等も立並び春秋には行楽客で賑わったようです。出船・入船の目標ともなり廻船目印(めじるし)山」と呼ばれ、 又高燈籠を建てて夜間航行の舟の目標ともなって、此のみおつくし(澪標)が大阪市のシンボル市章となっている事は、もうお気付きですね。「身を尽くし」と解して数多く古歌にも詠まれていますが、大阪府出身の沢口靖子さん主演の ドラマ「澪つくし」でも馴染みですね(少し古いか!!)江戸に八百八町、浪速は八百八橋と"くいだおれ"ともいわれますが、"みおつくし"の"くし(串)"はこの 水路に建てられた杭を意味するのだそうです。 東京の履き倒れ・京都の着倒れには大阪も"喰い倒れ(杭たおれ)"で対抗できます。


天保山台場(目印山台場)
     大阪市港区築港3

天保2年(1831)から2年をかけた「天保の大浚」により浚渫された土砂によってできた 人工の山天保山は庶民の観光地から、急遽:大阪湾警護の為の砲台が湾岸各所に築かれる事になります。 嘉永6年(1853)開港をせまるペリー提督の率いる軍艦4隻の浦賀沖来航に大騒ぎとなった 翌安政元年(1854)にはチャーチン提督のロシア戦艦ディアナ号が天保山沖に停泊して、異国船来航に危機感を募らせた幕府は、 大阪湾岸に御台場(砲台)を築きます。
天保山大橋と明治天皇観艦所の碑

安治川・木津川口:堺港にも南台場(堺浦海岸砲台?)を急造し、翌安政2年(1855)には北台場(堺新台場?)を建設しています。堺:南台場は元治元年(1864)桔梗型の西洋式砲台に改造され、 大砲18門を備えた記録・絵図が残されています。天保山台場(目印山台場)も元治元年(1864)建造・埋め立て用土として山の上部は切り崩され 整地され台場を築かれ大砲が設置されました。其の時据えられた 備砲と思える大砲が大阪城内に移され号砲に利用されているのでしょうか? 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いに、大阪城に居た将軍・徳川慶喜は天保山沖より軍艦開陽丸で江戸に去り明治維新を迎えます。 其の後・台場は撤去され昭和32年には「大阪港開港90周年」を記念して公園として整備されています。



天保山渡船場と安治川河底トンネル
三角点標の直ぐ側からは此処・天保山(港区築港三丁目)と対岸の此花区桜島三丁目を結ぶ天保山渡船場があり、 折りしもUSJ(ユニバーサル・スタジオ ・ジャパン)から勤務を終えて!!?の自転車部隊が降りてきた。明治38年 (1905)大阪市が港湾振興策の一環として開設され たもので、大阪港の繁栄につれて利用者が増え、昭和初期には桜島付近の重工業化が進んで通勤用としても利用されてきたが年々利用者は少なくなってきた。 USJやベイエリアの観光コ−スとしても、嬉しい市の無料クルージングが楽しめる。
天保山大橋の美しい斜張橋の下が目指す山頂!!

河川航行の安全の為、橋の建設が抑えられたものか!! 淀川や安治川沿いに明治以降 29ヶ所あった渡船場も現在8ヶ所残りますが、 消えていった渡船場で交差点にその名を残す「源兵ヱ渡」は阪神とJR西九条駅から安治川に向かって直ぐ。此花区と西区を短絡するのは、交通量の増加に対応して昭和19年9月に完成した世界でも珍しい河底トンネルです。 昭和38年安治川大橋開通までは車もエレベーターで河底まで降ろして対岸に運んでいたが、今は閉ざされた倉庫のような建物がその跡を窺がわせます。市の職員が毎日運転している人と自転車の専用エレベーターは 17m下の河底でタイル張りの隋道でつながる対岸の専用エレベーターに乗り込んで地上に出ることになります。渡船やエレベータを降りる際・利用者の皆さんは[ありがとう]職員に声を掛けていきます。
(大阪市建設局渡船事務所パンフ、天保山公園案内板他現地説明板 参照)


西村捨三翁顕彰碑

天保山三角点の南側・天保山公園中程に大阪築港の基石碑があり側に大阪港の開港と発展のために尽くし、大阪築港事務所初代所長を勤め、 大阪府知事でもあった西村捨三翁の功績を称えて建てられた像があり、背後には翁が愛したという[朝陽岡と彫られ彦根藩邸に在った庭石が置かれている。西村捨三は本名を得三郎といったが素行が悪く「捨三」と呼ばれたという。10歳から14歳まで彦根藩主井伊家に仕えていた頃、庭園にあった此の石[朝陽岡]の前で休憩したと伝えられ、 想い出深いこの石を藩主より拝領して自宅に移し朝夕愛賞したといわれ、昭和32年此処に顕彰碑を建てるに際して翁の霊を慰めるため当地に移されました。

「浪速百景」に見る天保山

捨三は天保14年(1844)彦根に生まれ西村家の初代同玄は直孝に召し抱えられた医師でした。 17-18歳頃に江戸の彦根藩桜田屋敷に住み20歳で京都周旋方を命じられ、戊辰戦争(慶応2年1866)では会津攻めに参加したといい、,京都の半分を焼失し・人口も落ち込んだ京都復興計画で西村が提案した平安遷都1100年記念祭が採用され、 明治28年(1895)10月25日に行なわれた第一回時代祭(京都三大祭の一)が今に続いています。その発起人が西村捨三です。鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1868)に惨敗を喫した新選組の近藤勇は江戸に戻ると甲陽鎮撫隊と名を改め、 千葉,流山に陣を移して新政府軍を迎え撃った。この時、新政府軍として近藤勇逮捕の功のあった西村は軍参謀になっています。
明治5年(1872)西村捨三は旧藩主・伊藤直憲の欧米視察に随し、帰国後の明治9年に内務省に勤務し 職員として沖縄に行き、明治16年・沖縄県令を兼任後明治19年には沖縄を訪れた山形有朋と上京し内務省土木局長として木曽川・長良川・筑後川等の河川改修工事を完成させ明治20年(1887)大阪府知事となっています。大阪では水道の敷設し ・淀川改修公園を造り大阪湾築港計画を立てましたが、明治22年頃には 四条畷神社の創建や楠木正行の顕彰を訴えてもいます。明治24年 (1891)第1次松方正義内閣の農商務省次官を最後に退職後は北海道炭坑鉄道会社・大阪築港事務所長を歴任し、大阪湾工事の陣頭指揮を執り明治36年秋に完成したが、その頃の捨三は脳溢血に倒れて彦根に戻っており明治41年1月14日66歳で 波乱万丈の人生を終え永眠しています。
(西村捨三の青春(谷口啓一著) 日本近代人物履歴事典(秦郁彦) 彦根市史(下)他 参考)


八州軒の跡   此花区春日出南1丁目

阪神電鉄千鳥橋から南、 JR桜島線(今はUSJに向うゆめさき線)のガードを潜ると春日出プールと春日出中学校の間にある公園に着きます。公園内に一本の石碑と説明板が立てられています。江戸時代・大阪でも新田開発が盛んとなり、此処に元禄11〜15年(1698-1702)にかけ雑賀屋七兵衛により大阪湾を開発して造られた春日出新田がありました。八州軒は、もと 紀州の徳川家別邸で八代将軍吉宗も 幼時を過ごしたといわれる建物を、
春日出公園の八州軒の跡

泉州堺の食野家 (井原西鶴「日本永代蔵」にも登場する豪商)が 紀州家二代光貞から譲り受け享保15年(1730)頃に移築したもので八州軒春日出新田の会所とし,その庭園は浪華名園の一つといわれ、会所の掛屋敷の二階からは紀伊・淡路・大和・河内・和泉 ・摂津・播磨・山城の八州を一望できたところから名付けられたといいます。天保10年(1839)会所は堂島の両替屋「豊島屋」の清海家の所有となったが、大正4年(1915)<明治39年??>建物の一部が横浜市の三渓園内に移築され、 昭和6年に国宝「臨春閣」の名で現存します。八州軒が移築された後も、同じ場所に在った清海邸は清海の森と呼ばれ 春日出新田の会所となっていました。市政70周年を記念して昭和37年此処に記念碑が建立されたものである
(此花区役所の現地案内板 参照)
R43号線から六軒家川の水門(遠くはキタのビル街)

公園を抜けると六軒家と安治川を跨いで R43号線が通じます。橋を渡れば港区波除でJR環状線弁天町へは徒歩で10分程。先ず六軒家川の水門が目に入るでしょう。此処の名前は、新田開拓の人家が六軒並んでいたことに由来します。さきの「春日出」は奈良・春日大神を崇敬する 雑賀屋七兵衛が、開拓当時鹿が躍り出て人夫が此れを撲殺したが、鹿は春日大神の使いであると非常に驚き、丁寧に葬りその場所に春日明神を建てた故事によるといわれます。


福沢諭吉生誕地と適塾

安治川から北区の中ノ島・堂島へと遡ってくると田箕橋北詰めの電電タウンに着く。 NTT西日本・データ通信・市外電話局が建つ一角。かつての大阪中央電報局や商工会議所・阪大病院等は姿を消し、 周辺はかつての 面影も無く明るいビジネス街へと生まれ変わりつつ建設が進んでいるようです。今は本町に移っている商工会議所が堂島にあった頃その敷地にあり、移転後はずっと西方の阪大病院側に移り、その阪大病院も取り壊された後は、 以前在った商工会議所跡地に再び設置されている「福沢諭吉誕生地」の石碑をみつけた 。
緒方洪庵の適塾

慶応義塾大学創始者でもある福沢諭吉が生まれたのは天保5年(1834)12月此の福島区福島一丁目です。当時は豊前国中津藩大坂蔵屋敷があり、父百肋はこの蔵屋敷に務める中津藩士だった。 有名過ぎる人物なので詳細は専門分野の書籍やWebサイトの紹介に任せますが、諭吉は安政元年(1854)長崎へ留学して蘭学を修め、翌年帰阪して緒方洪庵の適塾に学び、のち江戸の中津藩邸 で蘭学塾を開いて子弟の教育にあたる。 万延元年(1860)幕府の遣米使節には勝海舟らと翌年・遣欧使節の派遣では翻訳方として随行しています。帰国後・慶応4年 (1868)慶応義塾を開き子弟の教育にあたり明治維新後は新政府からの招きを断り、専ら教育と西洋事情の紹介に努め主要著書「西洋事情」「学問ノススメ」は良く知られます。自由主義を主張する啓蒙思想家で明治34年(1901)東京で亡くなった。
旧商工会議所跡地!!には福沢諭吉の誕生地碑と中津藩蔵屋敷址の碑

適塾中之島のシンボルで 大正ロマン漂う華麗な赤レンガ造りの中央公会堂から南へ土佐堀川を渡って直ぐ!!京阪淀屋橋を出た所に天保9年(1838)〜文久2年(1862)に蘭学塾を開いた緒方洪庵(1810〜63)の私邸と適塾
(中央区北浜3丁目 昭和16年国史跡指定)があり、江戸末期・大阪の船場町屋の姿を伝える貴重な遺構として昭和51年から解体修理され、修復を後は広く一般に公開されています。幕末から明治維新の 激動期に福沢諭吉・大鳥圭介・橋本左内・大村益次郎・佐野常民等・日本の近代化に貢献した多くの優秀な人材を輩出した現・大阪大学の前身です!!。
(現地 文化庁の適塾案内板を参照)
ビルの立並ぶオフィス街の中に在る適塾周辺は大戦時や火災にも遭わ無かった為、中之島公園の中央公会堂や日本銀行の大阪支店、道修町界隈には江戸時代の建物が残されています。道修町は徳川吉宗の時代に薬の町として繁栄し今は大手薬種 ・薬業企業の本社ビルが立並んでいますが、国産初のカレー粉は明治38年(1905)此処・道修町で誕生しています。カレー粉のスパイスには薬効有りですね!!


大阪市中央公会堂(重要文化財) 北区中之島1丁目

水の都・大阪を代表する中之島は土佐堀川と 堂島川に挟まれた中洲にあって、北に梅田の繁華街に近く、川の南には関西経済の心臓部北浜があります。中之島に架かる多くの橋、 とりわけ東端にある剣崎公園附近を天満橋から見るとき、高速道路やビル群を川面に映し出し、落ち着いた静けさと都市の景観美を強くアピールして溶け込んでます。
堂島川に架かる水晶橋から公会堂

赤レンガ造りが醸し出す大正時代に建てられたネオ・ルネサンス様式の中央公 会堂が残されているが40年程前だったら 北側の裁判所合同庁舎も四角四面の素っ気無い姿ではなく、赤レンガの旧裁判所が公会堂と共に 威風堂々と建っていたのですが…それ以前の明治24年(1891)に大阪市営公園の第一号として 誕生していました。ネオ・ルネッサンス様式を基調とした赤レンガ造り、屋根は銅板葺きで正面に壮大なバロック風の半円アーチを描いて建つ中央公会堂は
中央公会堂

大阪の一市民で日露戦争後の相場で巨万の富を得た北浜の株式仲買商・岩本栄之助氏から 明治44年(1911)100万円(約50億円)の寄付を受けて大正2年(1913)6月から建設が始まります。岡田信一郎氏の設計原案を元に辰野金吾氏(東京駅の設計)と片岡安氏が設計にあたり5年4ヶ月の工事で大正7年(1918)11月に開館しました。ヘレン・ケラー女史や宇宙飛行士ガガーリン大佐等著名人の講演会が行なわれた事は知られます。昭和63年(1988)永久保存が決定され平成11年(1999)から3年半の工事が行なわれ平成14年(2002)11月1日に再び開館、12月には国の重要文化財に 指定されました(建2419)。
(現地 大阪市教育委員会・中央公会堂案内板を参照)


四天王寺(天王寺さん)〜新世界〜ミナミへ

住吉神社(すみよっさん)・今宮戎(えべっさん)・四天王寺は天王寺さんと親しみを込めて「さん」付けて呼ばれます。その荒稜山四天王寺は日本最古の官寺で「大日本仏法最初四天王寺」といわれ最初の仏教伝来の地です。用明天皇の2年(587)聖徳太子が物部氏(仏教反対派)・蘇我氏 (仏教受容派)の二大豪族との抗争に戦勝祈願して摂津玉造に【増長・多聞(毘沙門天)・持国天・広目天】
四天王寺(金堂・西重門・五重塔)

四天王を祀る 寺塔を建立されたのが四天王寺の創生です。推古天皇が即位され太子が摂政となった推古元年(593)玉造から現在の地へ移された?といわれ、鎌倉期以降は天皇・皇族や武家の帰依を受け、 庶民の間にも信仰が拡がっていきました。元弘2年(1332)楠木正成は聖霊院絵堂の天王寺御手印縁起 (聖徳太子の未来記)を見て自己の行動に確信をもったといわれ、後醍醐天皇も此の 「御手印縁起の自筆写本」に自らの手印を捺し堂外への持ち出しとを禁じたといい後醍醐天皇の手印本は国宝に指定されています。
四天王寺(金堂・五重塔・仁王門)

応仁の乱・大阪冬の陣や夏の陣と度々戦火を受け昭和20年(1945)の空襲で伽藍は焼失したが六時堂は焼け残ったようです。 建物は戦後に再建されたものだが伽藍は創建当時のままです。 新西国観音霊場第一番の札所で 納経を済ませた本堂(六時堂)前は亀の池で中央の石舞台は例祭において無形民俗文化財指定を受けた舞楽が奉納されます起承転結のつもりでは有りませんが天保山から始まった水の都ですが難波津は大陸との交通・交易の中心となり、
通天閣界隈(新世界)

西方の海に面する高台に建つ大伽藍は夕日を受けて光輝いていたと思われ、 西方浄土への思想や西海に沈む夕陽の荘厳さに極楽往生を願う浄土信仰「日相観」
(弥陀の西方浄土に生まれるための行業)を修める場所として東大阪市の 往生院六万寺の項にも旧往生院の在った山上から、彼岸の太陽が四 天王寺に向かって落ちて行くのを見て往生を成したとの説明を思い出します。四天王寺から 茶臼山へ向いますが茶臼山は徳川家康の本陣や真田幸村終焉の地があり「近畿の山城」の安居神社・茶臼山に譲って通天閣を目指します。(大阪市の歴史(大阪市史編纂所編)を参照)
通天閣(明治45年(1912)にエッフエル塔をモデルに建てられ大戦中に解体されたが昭和31年(1956)に再建された91mの展望塔)の足下には 王将の碑が建ち、ジャンジャン横丁入口附近の店からは"叩き売り"の声こそ消えてしまったが将棋を囲む…や、張りぼてフグが招く庶民感覚で味わえる"てっちり"の店や
法善寺横丁

大衆娯楽の殿堂を掲げての常設芝居小屋もあります。名物"釣鐘まんじゅう"の看板をみて商店街のアーケードを抜けると関西の秋葉原 ・電気の街日本橋(にっぽんばし)のでんでんタウンです。此処を過ぎるて西方一帯は千日前・難波の繁華街です。 大阪駅周辺をキタと呼ぶのに対して難波から道頓堀界隈をミナミとも呼称されますが、浪速(浪花)=難波ナンバの方が判りやすいのかも…!!  中之島の中央公会堂に先立つこと300年・此処にも私財を投じて 大阪の発展に寄与した人物がいます。 江戸時代初期・元和元年(1615)運河として完成した道頓堀川は安井道頓により開削されましたが大阪夏の陣で戦死、道頓の意志を従弟の道ト(どうぼく)が受け継いだもので、大阪を直轄領とした江戸幕府の市街地拡張策によって 川の南岸には浪花五座
道頓堀界隈

(浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座)を筆頭に歌舞伎 ・義太夫・見世物小屋の櫓が立って賑わい、人が集まり食べ物屋が繁盛して 次第に"食い道楽"の食の街としても栄えてきたものです。映画館や寄席へと姿を変え最後まで名残を残した中座も今は無く中高年に変わって若者の街から道頓堀橋に出ると、 今年の阪神タイガーズ・リーグ優勝では前回のフィーバー!再来で有名になった橋に立つとグリコランナーや蟹の大看板が目の前に…
♪赤い灯青い灯道頓堀の川面にあつまる恋の灯に…♪と歌詞が出てくる風情です。大阪を愛し庶民の生活を描いた"オダサク"織田作之助「夫婦善哉」は 小説の域を抜けて、法善寺横町の代名詞のように一人歩きしています。
道頓堀橋


道頓堀の南・旧中座の裏手・細い石畳の路地に飲食店が軒を連ねる一角に法善寺があります。寛永14年(1637)創建の寺ですが「水かけ不動尊と夫婦善哉の赤提灯」に寺の存在が薄らいでいます…(^^;。寺の間の最っと細い路地を北に抜け出た所が 織田作之助(1913〜47)に所縁の深い割烹料亭「正弁丹吾亭」で此処に「行き暮れて ここが思案の善哉かな」文学碑があり法善寺横町のシンボル・モニュメントになっているようです。 ♪包丁一本 晒しに巻いて…此処を材題のヒット歌謡曲もありましたね。火災で危ぶまれた横丁の細い路地風情は復興支援活動もあって無傷で残った文学碑と共に以前の姿を取り戻しつつあります。


 野田城  天保山台場 大阪城 茶臼山本陣

野田城  xxm  大阪市福島区玉川4丁目11−15

JR大阪環状線野田駅の南側、地下鉄千日前線玉川駅の地下連絡道を出た所、XX銀行西野田支店正面入口に小さな花壇程のスペースに野田城跡の石碑が建つ。およそ城や館が在ったと思わせる堀・土塁・櫓台等を探すまでもなく、 現状から野田城遺構の形骸等は想像することすら無理な状況だが、此処が野田・福島の戦い主戦場で織田信長が石山本願寺(現大坂城内)を攻めた時には野田城に8千人もの将兵が籠城した拠点であり、落城後は反対に石山本願寺攻めの拠点になった所です。享禄4年(1531)に細川晴元と三好元長が対立抗争した際、近畿一円に勢威をふるっていた三好方の 浦上掃部が野田・福島に陣取り、此処に砦を築いたものだが、以後数度の合戦に際して平場の砦がどのようなものだったか興味が湧きます…!!。 野田城推定地

元亀元年(1570)織田信長が浅井・浅倉軍と対峙している隙をついて、勢力を盛り返すべく野田砦を修築して籠城した三好三人衆に呼応して 石山本願寺が信長打倒を決起し10年に及ぶ「石山の合戦」が始まります。天正4年(1576)信長軍の猛攻に野田城は落ちて後・織田方の石山本願寺攻略の拠点となり毛利水軍に対する織田方の重要拠点となったようです。慶長19年(1614)11月 ・大阪冬の陣での野田・福島の合戦は豊臣水軍と徳川水軍の戦いとなったたが一方的な豊臣水軍の負け戦となってしまいます。徳川軍の九鬼守隆・小浜光隆・千葉信親等の志摩水軍の攻撃を予想していなかった豊臣水軍は不意を突かれて、 アッサリと伝法口(弁天町附近!!?)を占拠され、豊臣軍・大野治胤率いる水軍は向井忠勝や九鬼守隆の水軍と野田・福島で戦い、圧倒的な攻撃に治胤や砦の兵は逃亡し豊臣水軍は壊滅して終結します。
(大阪市のHP 福島区・日本城郭大系(新人物往来社)を参照


大阪城 (錦城・金城)   中央区大阪城1−1・東区馬場町  H15.11.01〜

大阪城公園は市内唯一の 史跡公園で昭和6年(1931)大阪城天守閣の復興と同時に整備・造園されて開園し、昭和44年(1969)万国博覧会関連事業として拡張・整備され市内随一、大阪では数少ない緑のオアシスとなっています。JR環状線京橋駅から大阪城公園駅へ、西側には超高層のオフィスビルやホテルが立ち並ぶ一帯が OBP(大阪ビジネスパーク)でシンボルのツイン21(ナショナルタワーとMIDタワー)や「パナソニックスクエア」の他、
大阪城ホール

世界13カ国の料理が 味わえる飲食店等が集まる松下IMPビルがあり展望台・遊び・食事と楽しめる所です。大阪城公園駅の西正面には西日本最大規模のドーム型多目的ホールの大阪城ホールがあって総石垣造りの重厚さが石の城・大阪城へ向うプロムナードを演出しています。 OBPと大阪城ホールの間には古川と合流した平野川が流れ込み寝屋川を集めて淀川とに出て中之島を経て安治川となり大阪湾に注ぎます。

水上バス「アクアライナー」

此処・大阪城から天満橋〜中之島〜淀屋橋へと、水上バス「アクアライナー」が水都大阪の橋巡り観光に就航しています。 数多くの形も様々な橋を潜り抜けますので船容は平べったく天井はガラス張りです。さて石の壁に囲まれたような大阪城ホール横の連絡道を抜けると目前には、内堀が残っただけとはいえ壮大なスケールの石垣と水堀と荘厳な五層の天守閣が望めます。 水と内堀の石積の美しい調和を愛でながら大手門へ向います。「太閤さん」の城として知られる大阪城は信長の後を継いで天下統一を果たした豊臣秀吉が 築いた「惣構え」の縄張りは京橋・長堀・東横堀・空掘等、町や通りに名が残る広大でものでした。
極楽橋から大阪城

大阪夏の陣以後に外堀を埋められ夏の陣で焼亡し、あまつさえ徳川幕府(2代目秀忠)による再構築は権勢を示す為か、堀も石垣も全て新たに造り変えられ、 天守閣の位置も違い秀吉時代の遺構隠し!!??は徹底しており、天守閣さえ覆い隠させるほど高い盛土と石積みの上に3代徳川家光の時に完成した大坂城が建つ。豊臣時代の城郭遺構は 土の下に埋もれ当時の城を知る文献や図等は極端に少なく色々と推察されているようです。
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石山本願寺は明応5年(1496)本願寺(浄土真宗開祖親鸞から数えて)8代目の蓮如上人が生玉荘内の大坂(石山の地)に一宇の坊舎を建立したのに始まり 「大坂」の地名が使われた最初だといわれます。
姫門(山里丸側)からの天守閣

天文1年(1532)本拠の山科本願寺が近江の六角定頼に焼討ちされた為、翌天文2年・証如上人(10代目)により別院としていた大坂御坊に本願寺を移したので石山本願寺と呼ばれます。周囲に土塀や堀を廻らしての寺内町を形成して 戦国大名と対抗し一向一揆を指揮し、細川晴元との前面戦争では木沢長政が大坂御坊を攻めるが晴元と証如上人の和睦で終結する。 その後本願寺は織田信長との対立し元亀元年(1570)福島¥野田の戦いが始まり石山合戦と呼ばれる10年戦争に突入していきます。
西南の庭園からの天守閣

石山合戦で天正8年(1580)顕如(11代目)は信長と和解して大坂を退去し紀州 ・貝塚・天満を経て天正19年(1591)京都へ移っていきます。石山本願寺の遺構は大坂城内とされるが未だ確認されていない。一方・信長は本能寺で倒れ跡を継いだ豊臣秀吉が天正11年(1583)石山本願寺跡地に城を築き大坂城と 名づけます。慶長3年(1598)豊臣秀吉が伏見城で没すると天下の実権を握った徳川家康は、慶長19年(1614)大坂冬の陣、 元和元年(1615)大阪夏の陣と二度に渡る攻撃によって大坂城の豊臣秀頼と淀君は自害、この時豊臣秀吉の作った大坂城も炎上落城します。
金蔵

大坂冬の陣・夏の陣秀吉の死後・豊臣方の内紛は表面化し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、 慶長8年(1603)江戸幕府を開き政権を掌握するが、その後も豊臣家と徳川家の間に緊張が続き、豊臣秀頼が再建した方広寺(京都市東山)の鐘銘に難癖をつけた事をきっかけに慶長19年(1614)大坂冬の陣が開戦したが、豊臣軍の大半は浪人衆の寄せ集めで統制力に欠けていた。徳川の大軍を「惣構」の中へ一兵も入れず良く戦った。
山里丸の秀頼・淀君自刃の碑

難攻不落の堅固な守りの大坂城惣構・三の丸の堀も講和の条件で埋められ、 塀・柵・櫓は破却され、二の丸の堀まで強引に埋め立てられ、本丸を残すのみの裸の城にされてしまった。まる裸状態の城となり埋められた堀の掘り起こし等復旧工事に掛かると、対抗準備とみなされ冬の陣から僅か5カ月余りの慶長20年(1615)夏 大坂夏の陣の開戦に突入してしまいます。河内や大和方面から攻め上ってくる徳川方1 5万5千余りの軍勢に対して豊臣軍の防御は薄く
乾櫓(千貫櫓共に城内最古・元和6年(1620)

大坂城内での籠城作戦がとれず、敵の大軍が一つに合流する前に撃破しようと城を討って出て戦うこととなり、早朝・河内方面へ先制攻撃を仕掛けたが結局は城へ退却せざるを得ず翌日・大坂の町中が決戦場となり、終に大坂城は落城します。山里曲輪に潜んでいた豊臣秀頼・淀殿らも発見されて自刃、豊臣氏は滅亡します。
西ノ丸の堀

昭和34年(1959)12月本丸の地下7mに古い野面積みの“謎の石垣”が発見されました。 表面には火災の痕跡も残るといい、豊臣時代の本丸石垣の一部であり、またかなりの規模で石垣遺構が残存する事が推測されています。 目にする見事な堀や石垣が秀吉の城ではなく全てが徳川幕府による再建である事を念頭に大手門を潜りると桜門の巨石に先ず驚かされるが
秀石庭

石積・櫓・門については専門家に任せます。謎に包まれた秀吉の大坂城に関する多くの興味ある伝説や謎・櫓や門・研究課題や見所は、数多くの書籍やWebサイトの研究・調査発表や文献資料がありますので自分なりのテーマに沿って探してみてください。 聖徳太子が難波遷都の為の集石・置き場だったという石山には、
大手口から千貫櫓

元石山本願寺があり豊国神社附近だったと推定され「石山本願寺跡」の案内板が建っています。豊臣秀吉・秀頼父子と秀長を祭神として祀る豊国神社は京都豊国神社の別社として 明治12年(1879)中之島に創建され、昭和36年(1961)現在の場所に移されましたが、昭和47年(1972)京都林泉協会により奉納された秀石庭が境内隅にあり、秀吉公の馬印・瓢箪を 地割模様として徳島県・阿波産の緑泥片岩、設計・重森三玲氏の石庭が有ります。
二の丸の空掘

元和5年(1619)幕府直轄領となった大坂に翌元和6年・2代将軍徳川秀忠は徳川の権勢を示すため普請総奉行・藤堂高虎により 大坂城の再構築工事を始め、数期に渡る工期を経て3代将軍徳川家光の時完成した大坂城は豊臣時代の遺構をを遥かに凌駕する大きさとなった。万治3年(1660)火薬庫に落雷して大爆発が起き、天守は寛文5年(1665)落雷により焼失し、
本丸東の堀

天明3年(1783)にも 落雷で多聞櫓の焼失、慶応4年(明治元年1868)幕府軍が鳥羽伏見の戦いに敗れ、 慶喜が江戸へ逃れた混乱の中で失火、昭和4年(1929)鉄筋で天守閣が復興したが昭和20年(1945)戦争終結の前日に空爆で破壊された。 今・平成8年大改修を受けた徳川の!!天守閣が大阪のシンボルとして青空を背にして輝き建っています。
(大阪市教育委員会の現地各所の案内板 ・大阪市の歴史(大阪市史編纂所編)・日本城郭大系(新人物往来社)を参照)


安居神社(真田幸村戦死の地)・茶臼山(一心寺〜堀越神社)

天王寺駅から広い公園内を市立美術館前に出て通天閣を望み、茶臼山周辺にと以前は散策出来た天王寺 公園ですが、此処を会場に行なわれた天博(天王寺博覧会)後は入園が有料!となり、今回も茶臼山は丘の周辺を廻ってみるだけです。 一心寺との間の坂道やフエンス越しに眼下の池を望む位置に立つと、
逢坂下より一心寺(左奥)と茶臼山 (右奥)

園内からは判らない本陣や戦場となった場所の様子が想像できます。美術館南下を迂回するように茶臼山公園を横断し、旧天王寺動物園(廃園)陸橋を通天閣側へ抜け逢坂下の「動物園北口」陸橋から一心寺の南に続く緑地の丘を望みます。茶臼山古墳周辺は大阪夏の陣で徳川家康が秀忠と共に大阪城を攻めたとき、 一心寺から茶臼山にかけて本陣を敷いたところで、毛利勝永軍と戦い討死した本多忠朝や戊辰戦争での戦死者が祀られています。
真田幸村戦死跡碑

谷町筋には聖徳太子が四天王寺を建立した際、崇峻天皇(太子の叔父)を偲んで建てたという堀越神社がありますが、徳川家康が大阪夏の陣の際に 危機を救われたことから家康の信仰厚かったといわれる茶臼山稲荷神社が鎮座しています。逢坂と道を隔てて一心寺の向かいにある安居神社は昌泰4年(901)菅原道真が太宰府に流された際、伯母への暇乞いの途中境内で休憩されたところとされ道真の死後、天慶5年(942)道真の霊を祀るために安井(安居)神社と定めたとされる。
茶臼山の池東に位置する堀越神社

真田幸村は後藤基次、薄田兼相等と大和口を防ごうと河内の片山道明寺に赴くが 基次が敗死し、伊達政宗軍と戦い翌日には徳川家康の本陣・茶臼山を攻め松平忠直軍と奮戦するが、遂に力尽き安居神社境内の一本松の下で戦死したといわれます(享年49歳)。例年命日の5月7日に幸村祭が行なわれます。
(現地安居神社 幸村陣没の旧跡案内板 参照)

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