二人の左近 その1【恩智左近】 恩智城〜教興寺〜高安山〜信貴山〜 (広域林道)
大阪 (五万図=大坂東南部)
恩智城〜教興寺〜高安山(467m)〜信貴山(437m)〜広域道/平群町 2004年01月25日
近畿の山城(奈良) :高安山城信貴山城
近畿の山城(大阪) :恩智城
校歌・故郷の山
【校歌には金剛・葛城に次いで生駒・信貴を詠ったものが多い】
大阪側の校歌だけを選んでみた…此処から山と人々との関わりが見えてきますか??

信貴山(雄嶽山頂・空鉢堂)

三ノ瀬小学校 ♪信貴 生駒 山なみ晴れて光る窓xx…♪
 生野区・鶴橋小学校 ♪東に遠く信貴生駒…♪
 意岐部中学校 ♪朝空遠く 信貴生駒xx棚引く雲も匂わずや…♪
 東大阪市 市歌 ♪西に浪速のxxx東にのびる 生駒 信貴…♪
 長瀬東小学校 ♪生駒に信貴の 峰晴れてxxx…♪
 柏田中学校 ♪あしたに望む 信貴生駒 聳ゆるしろき 学舎に…♪

 松原第四中学校 ♪山脈青く信貴生駒xxx…♪
 曙川中学校 ♪遥かに仰ぐ金剛や 間近に迫る信貴 ・生駒…♪
 八尾中学校 ♪浪速の東 信貴のもと…♪
 山本小学校 ♪東に信貴の嶺高く…♪
 曙川小学校 ♪山見れば 名も高き 信貴に生駒は わが窓にxxx…♪
 南高安中学校 ♪仰ぐ信貴生駒 生駒の峰や河内平野はxxx…♪
 高美中学校 ♪緑に映ゆる信貴生駒 仰ぐ高美の若人のxxx…♪
 中高安小学校 ♪信貴の連山 河内の平野xxx…♪
 高安中学校 ♪信貴と生駒の 秀麗をxxx…♪

 八尾高等学校 ♪高安山に照る月をxxx…♪



恩智城〜教興寺〜高安山〜信貴山・空鉢護法堂(信貴山城)〜広域道を奈良・平群町へ  H16.01.25

寒い朝だが今日は昨日ほどにも青い空が望めそうにもない。 どうやら雪になりそうだと思っていたが教興寺から高安山に向かう頃にはサラサラと音たてて振り出し信貴・雄嶽山頂では吹雪となっていた。 四条畷市の飯盛山辺りから競り上がってくる山塊が、大阪と奈良の県境を南北に断ち分けて生駒山から信貴山(生駒郡三郷町)を経て 高尾山(柏原市)付近で大和川にその山裾を落とす生駒連山は日毎 ・真近に望む地元の登山愛好家のみならず、
東高野街道・恩智神社との辻にある民家

四季折々の姿を身近に感じている人も多い人気の山だが、歴史的にも古代から二つの文化圏を結ぶ因縁の山域で古い道・宗教・山城等には興味の尽きない地域です。前回は北端の飯盛山・今回は南端の高安山・信貴山をターゲットに近鉄大阪線恩地駅の改札を出れば早速 ・菊水紋が目に入る。河内は大楠公さんの土地柄。そして恩智は大楠公(楠木正成)の武将で八臣の一人といわれた恩智左近満一の城があった。 其処へ行くのが第一目的ですがどちらに進めばいいのか判らないまま、それでも恩智川を渡り自然と山手への一本道に足が向きます。子護(こもり)地蔵の辻を過ぎると天理教会の向かいの広場??に出る。
恩智城の目付石「目無地蔵」


玉垣の祠があり天王の森・祇園社とある。また「恩地旧石器時代遺跡」の碑も建っているが空き地か殺風景な広場のようだったが注連縄が飾られた「お旅所」で有ることで納得。元は此処に建っていた社殿は 恩智城の築城に際して、社殿が城山より下にあるのをはばかって城主・恩智左近が現在の地に移したとされる話は、時代は違っも京都園部城と良く似た話です。 ほぼ一本道は車の往来が多い坂上の十字路に出てきた。十字路と言うより正面には大鳥居が有り「河内二の宮」恩智神社の境内の様です。この横断する車道が 河内・大和・紀州高野を結んで多くの歴史を秘めた東高野街道です。白河法皇が弘法大師300年遠忌に参拝の際、 河内石川の「安助上人」が開いたといわれる京都と高野山を結ぶ参拝路で京街道・高野道ともいわれます。
教興寺の山門

平安時代から鎌倉時代にかけては歴代天皇・諸公家達が往来し、 南朝最後の決戦場となった四条の縄手に向かった楠木正行軍も恩智左近を加え、この辺りでは未だ隊列を崩すことも無く進んで行ったことでしょう。 戦国時代には畠山一族の内紛や三好一族等の軍事通路となっています。この東高野街道にも一里塚が残されている垣内一里塚へは後ほどのコースで寄ってみます。さて正面・鳥居近く、広い参道の中程には鎖に囲われた高さ1m程のずんぐりした大きな石が置かれています。恩智城の目付石で、何処にも石仏の姿は見当たりませんが地蔵さんに見立てて「目無地蔵」「目付地蔵」と呼ばれ、 目付地蔵尊としては慶応元年(1865)にお堂建立の寄付を募った記録が残されているそうです。目付石を南方へ細い坂道を登って行くと楠木正成の臣・恩智左近の墓から、今は公園となっている恩智城に行き着きます。
垣内の一里塚(一里松)


正成に付き、その子・正行と共に「四条の縄手」合戦で散っていった楠木一党 ・恩智氏を偲び供養されている(恩智左近の墓と恩智城)花筒には真新しい花が添えられています。元の「東信貴山道・西大阪道」の石標のある東高野街道に戻り、街道から高安山を正面に見て、目無地蔵から恩智神社を抜けて信貴山朝護孫子寺へは参詣道として賑わった 信貴山詣の「恩智越え」道で、今では登山者に知られるハイキングコースですが、私にはもう一ヶ所寄って見たいところが出来たので、恩智城からの帰路は東高野街道を北に向かい岩戸神社への分岐、垣内地区に入ると自然石に 「法華塔」と彫られた高さ150cmの碑は江戸時代・文化7年(1810)建立のもので街道の脇にあるが「一里塚」の案内標があるので周囲を見回すと 石積み築山風の上に一本の松が植えられており 「垣内の一里塚」の石碑がある。丹波八上城下の京街道にも「一里松」があって篠山城から一里毎に設置されているものだが 此処・東高野街道も京街道で河内から大和・紀州を結ぶ要衝は高野・熊野への参詣する信仰の道や軍用道路としても重要な街道。

東高野街道を教興寺地区に入ると権現堂・教興寺への石標が建つ四辻に着いた。数人のお年寄りに「高札場」の所在を聞いたが 誰も御存知無いよう!?そんなものがあるのかと…・キョトンとされるだけなので自分で見当をつけて捜してみることにしたが所在は知らない。 先ず教興寺を訪ねた後、路地のような狭い地区内の道を進むが道も狭くなり山道に向かうようなので諦め、此方からも古い丁石の続く信貴道を高安山に向かって歩き始めた途端、名前は控えなかったが或る寺の近く権現堂の手前で偶然 ??にも見つけた。
黒谷地区の高札場

屋敷の石垣と白い築地塀の間には瓦葺の屋根付きの高札場が設けられています。下方から少し見上げる状態ですが高札板等何も置かれてはいません。北摂 高山右近生誕の地へ行く途中にある高札場には慶応4年(1868)太政官令のキリシタン禁止の高札が残こされていましたが・・。高札場は人の目に付き易い通りや広場に設置されるものなので山裾にあることを奇異に感じますが、 当時は信貴山口方面への間道として通行者が多かったのかもしれません。江戸時代〜明治初年頃まで使用され、幕府や在地領主の触れ書や御達し(禁止条令や年貢の免定等)を高い所に掲げ示して民衆に周知したところから 高札場と呼ばれます。順序が前後してしまいましたが恩智神社からの「恩智越え」でなく「信貴越え」の教興寺にコースを変えたのは幾つもの理由がありました。獅子吼山大慈三昧院教興寺(真言律宗・西大寺の末寺で 河内西国観音霊場の第16番)は 別名・高安寺、俗に藪寺で知られ八尾の豪族・秦氏の拠点で秦寺とも呼ばれます。寺の創建は古く、 聖徳太子が物部守屋の討伐を祈願し、崇峻天皇の元年(588)秦河勝に命じて四天王寺と同時に建立させたのに始まる大寺院であったといわれます。
教興寺・湯川直光(紀州 亀山城主)勇戦地の碑

永禄3年(1560)飯盛山城に入城した三好長慶が 畿内制覇に乗り出すが永禄5年(1562)3月の「久米田合戦」では 長慶の弟・之康が戦死する等、此処・教興寺に陣を張っていた河内守護畠山尾張守高政に飯盛山城を攻撃され危機にあった。三好義興と松永久秀の軍勢が押し寄せ長慶と合流して 三好軍を立て直し5月には羽曳野や教興寺に畠山軍を攻めた教興寺合戦で寺は焼かれてしまいます。境内には 和歌山・御坊市の亀山城第11代城主「湯川直光公勇戦の地」の石碑が建っています。湯川直光は天文年間(1528-54)にも細川氏に与して三好長慶と戦い、この永禄5年(1562)にも長慶に対抗して挙兵した畠山高政に従い飯盛城攻めに出陣、 教興寺の戦いで三好勢に敗れて討ち死にしますが、顕彰碑は天文9年(1532)湯川直光が細川氏に付いて三好軍との河内の戦いで苦戦し、本願寺証如に加護を願い大和・河内の門徒の援軍により窮地を救われ亀山城に帰ることのできた直光が、 このことに深く恩を感じ一宇を建立したことに起因するようです。
信貴越えの登山口


大阪北・曽根崎飲食店街の中に「露天神」(お初天神の名で知られますが)があり「この世の名残 夜も名残 死にに行く身をたとふれば あだしが原(墓地の意)の道の露 一足ずつに 消えて行く…」浄瑠璃 曽根崎心中で語られる「お初・徳兵衛」道行冒頭の名文は、そのまま情景が目に映るような近松門左衛門の名作ですが、その題材が此処・教興寺の寺男徳兵衛と教興寺村のお初を祀る大通寺境内の「夫婦塚」にありました。飯盛山に遠くない野崎観音には女殺油地獄「お染・久松」が祀られます(題材は反対に大阪市内)。丹波市柏原町にはおさんの森があり大経師昔暦「おさん・茂平衛」の道行を伝えます。さて教興寺の境内を抜け・高札場を過ぎ山裾の車道に出ると、正面に石段が現れ朝護孫子寺に向かう信貴山道の石碑が建ち丁石の残る旧参道です。工事中で荒れる急斜面は直ぐ上で公園となるが、崖を横切る場所もあり少し危険かも…!!車道を50m程先の直接公園への入り口があるようです。公園の滑り台の先で、いよいよ高安山・信貴山への 登山道に入りますが直ぐに「イノブタ出没注意」の看板が立てられています。多少藪っぽいところはあっても旧参道で、八尾市の案内標もあるのでコース詳細は不要ですね。登りはじめて直ぐに雪が舞い始め、やがてサラサラ音たてて降り出 し信貴山公園墓地西側へ着くと薄っすら道が白くなっています。墓地へ続く細い参詣車道を抜けると日本で一番最初・昭和5年(1930)に開通したケーブルカー・信貴ケーブル高安山駅に着く。
高安山城・本丸東端の曲輪

高安山への登山口側に高安城の縄張り図付きの案内板が建てられています。開運橋を渡るが此の橋下を信貴山口へ下る一般コースも有る様です。此処からは東高野街道から見えていた 白いドームの大阪管区気象台のレーダ観測所は此処からすぐ。施設のフエンス側には「高安山城跡」の石碑が建つが果たして此処は??…!!すぐ先で両サイドが迫り道として切り割られた峠状の所が高安山城址で、左手の大阪側に本丸があり藪が切り開かれた中、西北部の崩れた土塁の上部に僅かに頭を出した高安山(点名:峰山 2等三角点 487m)標柱石が埋まっています。 古代高安城の烽火台があったところは後世・堂島の米相場を伝える為、同様に狼煙か旗振り山になった様です。…が期待の展望は余り良くない。 返して東の二ノ丸側は空堀が曲輪を取り巻き、その曲輪も小さいながら グルリと土塁に取り囲まれています。堀底道はアッサリ車道に出てしまい興醒め…交差する信貴生駒スカイラインを横断して車止めゲートを抜けて 信貴山への縦走コースを辿ります。
高安山の三角点

雪道になってしまったコース途中 「高安城倉庫跡」案内板を見て倉庫礎石群への枝尾根に入ると程なく、二段の小広い平坦地に出ます。倉庫の礎石群発見により古代の山城研究に拍車が掛かったようですが、未だ明確な城域の中核部が不明のようですので当分は "幻の高安城"として持続していくようです。目指す信貴山は雌嶽・雄嶽の2峰から成り雄嶽山頂の空鉢護法堂の位置を本丸として、特に永禄2年(1559)以降・三好長慶に付いて大和の支配を目指した松永久秀が拠った信貴山城址で、雌嶽山頂にも曲輪を持ち大和三大山城の一つとされています。中腹にある朝護孫子寺は用明天皇の2年(587)聖徳太子が信ずべき、貴ぶべき山(信貴山)として物部守屋を討伐の際、守護神とする毘沙門天に戦勝を祈願して奇瑞(目出度い兆候等)を得たのが寅年・寅の月・寅の日・寅の刻だったとされ、此処は阪神タイガース・フアンならずとも!!??寅グッズ、中でも「世界一!!の張子のトラ 」には泣かされる事でしょう…(~ё~)

高安城倉庫跡を戻って尾根を下り鞍部状に着くと分岐がある。右下方「弁天滝を経て信貴山」への標識を見て左へ尾根筋を辿ればダートで急斜な道に出る。社務所兼茶屋への専用車道の様で、 雪が積もり始めた頃の轍が残っていた。人事ながら如何して下るのか心配してみる…(~~;。車道!?が消えた白い台地(本丸下の腰曲輪)に「信貴山城址」石碑と縄張り図付きの案内説明板が建てられています。空鉢護法堂へは雪の石段と・赤い鳥居と・風でハタメク幟が続き、 真っ白な展望が拡がる空鉢護法堂には物好きな人の気配もない。信貴山城本丸に当たる 空鉢堂の裏手・西側下に曲輪が見えるが10m程の切岸を施した下方の腰曲輪は見た目ほどに広くも無くブッシュに悩まされる。鳥居や祠の残骸が散らばって捨てられ見るべきものは何も無いよう?。
朝護孫子寺と世界一!!の張子のトラ

山歩きでは何度か訪れた信貴山ですが 山城を意識しての今回の山行には縄張り図も無く、雪による防水準備を怠ったばかりに 登ってきた道を引き返して藪の中に飛び込む気にもならず、長い上に急斜な雪の階段道を朝護孫子寺に下ります。弾正の屋敷(松永弾正久秀)だけでも見ておきたかったのですが…!!。此処は近場の城フアン??甚伍さん・まよいさん・上杉(AK)Iさん達の情報を待って、 出来れば信貴山城オフでも企画していただければと再度リベンジすることにし、ダイガ−スグッズの並ぶ山門から雪道となって超ノロノロ運転の車が通るスカイラインからの道を途中から、良く知らないままに広域道に採って平群町へ向かいます。 高安山から信貴山の間で見た「汗かき毘沙門天王」「信貴山奥の院」の表示を此処で見て進みます。信貴山「奥の院(多聞院)」は山の奥ではなく里の奥!!にありました。 多聞天の変身した姿が毘沙門天で、聖徳太子が自ら彫られた毘沙門天王像を本尊 「汗かき毘沙門天王」として奉祈され当山を建立されとされますが、楠木正成(幼名:多聞丸)とも所縁のある寺のようです。 この後・予定の椿井町とは大きく北にズレてしまい福貴とか梨本の、地名には心あたりもなく !!??迷い気味に軌道修正しながら南下して、西宮城から次の、もう一人の左近を訪ねて椿井城を目指します。(そのU【嶋左近】平群谷の椿井城へ)


 恩智城 高安山城信貴山城

恩智左近の墓と恩智城
   xxxm   八尾市恩智中町5丁目

「目無地蔵」と呼ばれる目付石から正面の恩智神社へは行かず、南方へ細い坂道を登って行くと城徳寺 (恩智城や左近に縁のありそうな寺院の様ですが!??)を過ぎ城山への登り口手前の西奥に河内平野と真下には、 恩智左近が楠木正行に付いて最後の戦場・ 四条の縄手に向かった東高野街道を見渡せる高台にあり、此処に 「恩智左近之旧跡」の石碑が建っています。楠木正成八臣の1人とされる恩智左近の墓が展望の良い河内平野に背を向けて 東の山側に位置する恩智城に向かって七重?の石塔が建てられています。
恩智城二ノ丸??に建つ城址碑

墓石なら空〜地を現す五輪塔なので、別所に有った供養塔か後世に顕彰碑として建てられたものかもしれませんが目無地蔵同様に、新しい献花が成され今もなを土地の人達に 手厚く祀られていることに変わりはありません。城の西面の急斜面に張り出したような場所ですので、城域の中で物見・出曲輪等の施設だったとも思えます。 もと恩智神社社家の後裔で在地豪族の恩智左近満一が南北朝期 ・此処に恩智城を築き、楠木正成が北条氏と戦った時には正成に従って、元弘年間 (1331-34)の千早籠城戦や翌・建武元年 (1334)の飯盛山城攻撃にも参戦して戦功を立て、 建武年間・楠木正成八臣の一人として活躍します。 楠木正成が湊川の合戦に討死した後は、 嫡子・正行(まさつら)を助けて足利氏に抗しましたが延元2年(1337)7月熱病の為に急死したと伝えられるのですが!!?
恩智左近の墓

貞和4年(正平3 1348)正行に従って 四条畷の合戦に出陣して討 死し、恩智城も左近の戦死で廃城したものともいわれます。 圧倒的多数の北朝・高師直の軍に対して、決死の正行軍の行軍に老齢の左近が死に場所を得て喜んで参戦したでしょうが、恩智城に留守部隊を残しておく余裕があったとは思えず、 ましてこの城で戦いが有ったとも思えません。 左近の墓からもとの細い車道??戻れば直ぐ側に城址公園の道標があって、 正面の石段道を登れば後方に信貴・高安の峰を望む 自然地形の高台に出た所が本丸跡で此処に恩智城址碑と小学校の跡地を示す石標が建てられています。西面南側は切岸を思わせる急斜ですが 北から東にかけては石垣積みの台地になっています。
恩智城本郭部の土塁残欠??

一段下の平地の先は段々と高くなって、民家が建つているので城としての遺構や様子がわかりませんが、その間にある万葉植物園側にある土盛が曲輪を分ける土塁跡とも思われます。 恩智城址は明治7年(1874)小学校が建てられていて、今は城址公園となり桜の名所ともなっているようです。万葉植物園等の公園化やその先に続く民家の連絡路のため、土塁や堀跡等遺構の形状は大きく崩され山側に堀切跡と思われる 残土が城址らしいを偲ばせますが此れとて、公園化前の状態が残ったものかどうか判断出来ません。
(恩智城現地案内板等 参照)


「幻の高安城」と高安山城 高安山(鉢伏山) 488m   奈良・平群町久安寺字金ャ塚

大阪府と奈良県の府県境を南北に分ける生駒山脈の南端に位置する緩やかな 山容を見せる高安山は、山麓からも目立つ白いドーム【大阪管区気象台の高安山気象レーダー観測所】が目印。此処に「高安城跡」石碑が建てられています。
高安山城・二ノ丸を囲む土塁

高安山城の曲輪の一部だったとは思われますが、高安城は此処・高安山の山頂付近から信貴山にかけての 広大な山地の何処かに営まれていたようですが、未だ遺構等による位置確認は出来ていない「幻の城」が高安城です。高安山城のある山頂部は西に大阪平野を一望出来、 東は平群谷を眼下に大和・飛鳥を見渡せ眺望良く、 高安城(砦)の見張所・烽火台がおかれていたのかも知れません。高安山の東方の尾根上で 昭和53年(1978)八尾の市民グループ「高安城を探る会」が高安城址倉庫跡と思われる礎石群を発見されましたが、橿原考古学研究所の発掘による出土品等の調査結果から、この礎石建物は奈良時代初期・天平年間 (729-49)で高安城廃城後の遺構であることが判明したようです。
倉庫礎石群跡は高安城遺構とも推定される

「高安城を探る会」は更に"幻の城"高安城発見の夢を追って調査を続けられていることでしょう。その後も幻の高安城は城壁と見られる石垣の一部が七ヶ所で発見され、 城域の規模は南北 2.1km・東西1.2kmとの推定がされています!!。斉明天皇の660年・親交のあった朝鮮半島・百済の救援要請を受けた天皇や皇太子の 中大兄皇子は九州へ向かったが天皇は急死。天智天皇の2年(663)百済へ向かった日本軍(大和朝廷)も初めての!!!!外国軍隊との戦い方が稚劣だったようで、白村江(はくすきのえ)の戦いにおいて百済・日本の連合軍は、 唐・新羅の水軍に大敗し百済は滅ぼされます。
高安山城・本丸虎口部!!と腰曲輪

日本軍は帰還しますが、唐・ 新羅に敵対し緊迫した状況で今度は日本が侵 攻に対して防備すべく、天智天皇はその6年(667)近江大津京に遷都する一方で、九州大宰府を守るため筑紫には 大野城と椽(き)城・対馬の金田城・瀬戸内では讃岐の屋島城等大規模な 古代山城が日本防衛のための築かれていきました。高安山に築かれた高安城は王城としての飛鳥を守る最後の砦として重要な位置を占めていたので、 極めて堅牢な城塞防備の遺構が見つかるのでは「高安城を探る会」による新たな発見に期待出来そうです。非常時に備えての倉庫群も壬申の乱(白鳳元年 672)では戦場となって炎上するが、その後も天武・持統天皇の時代に修築されたようです。 幸いにも大陸からの侵攻も無く高安城は文武天皇の大宝元年(701)には34年間の城の歴史を終えて 廃城となったようです。発見された石垣遺構や大規模ながら城の縄張りもしばらくは推定の域にある”幻の高安城”から、中世期の高安山城に移ります。

高安山城・二ノ丸を囲む 横堀遺構


高安山山頂にある高安山城は古代高安城の狼煙台が有ったとされるところですが、 今残るのは中世の高安山城遺構で、戦国末期・松永久秀が拠ってから大規模要塞となっていった信貴山城の出城として築かれ機能したようで、古代高安城の遺構大きく改変されられており、そのうえ高安城址碑のある気象台の レーダ観測所と其処に通じる車道に破壊され、城域が真っ二つに分断されてはいますが、中世山城遺構が良好に残されています。
(高安城を探る会現地案内板H8.3等 参考)



信貴山城(信貴城) 信貴山 437m  生駒郡平群町信貴畑 町指定史跡 (平成 5年 4月12日)

信貴山城は河内と大和を分ける生駒山系の南端に位置する信貴山の雄嶽(437m)の信貴山朝護孫子寺の空鉢堂が建てられている場所を本丸として北方に向かって 放射状に伸びる尾根に多くの曲輪を連ねて、東西550m・南北700m程の城域に120以上もの曲輪が配される大和でも最大規模の山城です。南北朝期には大塔宮護良親王や楠木正成が鎌倉幕府軍との対抗拠点として此処に拠ったとの 伝承や天文5年(1536)河内の木沢長政が入城し 最初に本格的な築城を始め天文10年(1541)山城の笠置城に移るまで居城としたが翌11年3月・河内太平寺の合戦で長政が敗死すると 二上山城と共に信貴山城も落城します。大和・河内両国を統制、監視する出来る戦略上重要な位置にある山城を大規模な要塞としたのは、 永禄2年(1559)三好長慶に与して力をつけてきた松永弾正久秀で、大和に入って南都の支配は多聞城を拠点に、大和と河内を合わせて支配する 要塞として信貴山城を拡張・整備していきます。
信貴山城・本丸(空鉢堂)下に建つ城址碑

永禄11年(1568)三好康長に攻められ信貴山城は落城するが、足利義昭を奉じて上洛してきた織田信長に付き、その加勢を受けて大和一国を安堵されるが元亀2年(1571)には武田信玄に通じて信長に叛するが、天正元年 (1573)信玄の病死や義昭が追放され足利幕府が滅亡すると信長に降伏し許されるが天正5年(1577)またも信長に背いて、上杉謙信の上洛軍に合わせ石山本願寺攻めの陣を退いて籠城します。織田信忠を大将の大軍に包囲されて 10月10日に落城し、このときの伝承がよく知られるところです。即ち・久秀は信長が熱望していた名器で、譲れば命を助けるとまで言わせた「平蜘蛛の茶釜」と共に68歳で爆死したとされる件(くだり)です。 今回は寄れなかった松永屋敷をはじめ、空鉢堂の北方に拡がる城域内の遺構を今度は、もっとジックリ見て廻りたいと思いながら朝護孫子寺本堂前の舞台から平群谷側に拡がる雪景色を眺めていた。

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