無名の山塊から伝説の山へ 大谷山〜千丈寺山〜青野城/千丈寺湖〜小山城
三田市  (五万図=三田)
大谷山〜上青野感神社〜千丈寺山〜青野城〜下青野感神社 H14.04.29
近畿の山城 青野城(高山城・高根山城) 小山城 H15.9.14
三田の伝説 青野城合戦(金の茶釜伝説) 千丈寺の天狗
   後光の射した万体山(ばんたいさん)

三田の古墳 岡ノ谷古墳  東仲古墳 双子塚古墳群
千丈寺湖畔・大堰橋付近から大谷山(左ピーク417m)

母子から花の寺で有名な永澤寺へ向う 308号線の東側には歴史と伝説と1等三角点の山・千丈寺山があり、今日は千丈寺湖の大堰橋を基点に二つの山塊を周回します。千丈寺湖は昭和63年6月に青野ダムが完成したが、近くに聳える千丈寺山から「千丈寺湖 」と名づけられています。周辺には大小様々な公園や湖岸道路が整備され三田市民の憩いの場となっています。大堰橋近くにも北側には下青野公園(テニスを主体の公園施設)、南側には河川の舟遊びや釣りが楽しめる 公園施設と駐車場が完備の・お誂え向きのシチュエーションです。


大堰橋〜大谷山〜上青野感神社〜千丈寺山〜青野城(高根山)〜青野感神社  2002.04.29

大堰橋西詰 (AM11:00)に戻ると食事処「夢山荘」と 309号線を挟んで道端に小さな祠が有って七宝山・本山寺 (四国八十八ヶ所札所の第70番・高野山真言宗で三豊郡豊中町にある平城帝の勅願寺)の本尊馬頭観音 石碑が祀ってあります。青野ダム完成の前年(昭和62年)この場所に移転した旨の 木札があったが西国霊場の札所巡拝を復興された花山法皇のお膝元にあって旧有馬郡内(現有馬〜三田含む)や千丈寺湖周辺に四国のミニ霊場が 設けられていたのかもしれません。
峠手前Ca410mピークのザレ場から大谷山 (奥のピーク)

この馬頭観音祠は丁度・尾根の南末端に位置しており裏手から林道のような広い山道が 延びていますが直ぐに記念碑のある広場があります。忠魂碑か何かと思っていたが、 どうやらこの後直ぐに出会う用水路の記念碑のようです。こんな所にとビックリするような場所に疎水構が走っていて西方の下須磨田方面に流れています。良く踏まれた圃場用水巡視の道が疎水に沿って通じているが 並行する青野川はだいぶ下方ですので相当上流から引かれて来ているようです。流れに沿っていけば予定の山塊の裾を辿っていくだけと判断して、疎水を跨ぎ向いの植林中(此処も公園の一角になりそうな状況になりそう !!)の中に工事小屋が有りその側から雑木の中の踏み跡を稜線に出ると明瞭な山道が現れ、共同TV受信アンテナの立ち (AM11:10)東から細い踏み跡が上がってきている。千丈寺山や振り返れば千丈寺湖が望まれる。此処からの稜線には急に露岩が目立ってきます。ミツバツツジ、モチツツジ、アセビも多い尾根の中に続く踏み跡を辿る 緩やかな尾根歩きですが左右は雑木藪の為、展望が望めません。
須磨田三山・岩倉集落近く

急斜面を登りきると再び緩やかとなり大谷山山頂(417m AM11:30)に着く。雑木で展望は良くないが樹間越に千丈寺山や、此れから向う稜線上にもう一つのコブピークが見える。西面には武庫の流れと 須磨田三山(遠城寺山・茗荷谷山・天神岳 )が時々樹間に望まれます。山麓から見た通り、 ラクダのコブのような二つのピークの間は緩やかな雑木尾根が続きますがCa410mピーク(PM11:50)も展望は望めません。西よりに一気に下る山道は明瞭で鞍部(PM12:00)からは上青野へ降っています。 此処からは踏み跡も薄くなりかけた鞍部からの稜線は雑木も少ないザレ場となり滑りそうな砂地の急斜面を登りますが御蔭で一気に展望も拡がり、辿ってきた無名ピークと大谷山・千丈寺山〜尖り山の青野城址の先は 稜線を千丈寺湖へと落として見えます。須磨田三山の天神岳が北端に尖峰を見せて緩やかな尾根を茗荷谷山へ 遠城寺山へと延ばしているのが望まれ、 この山隗唯一の展望地でも有りました(PM12:05)。此方から北へ延びる山塊も緩やかな尾根で、細いながら踏み跡も続いており行程は捗ります。
上青野・千丈寺山尾根と青野城址


大谷山以外ポイントになる山もなくて、このまま3等三角点(点名:上本庄 482m)迄行ってみようと思うが、何時も繰り返す長い車道を引き返すのは嫌ですネ。今回は青野川を挟んで対峙する千丈寺山に向いますので山塊最高ピークCa440m(PM12.25)の先辺りで適当に下るつもりです。踏み跡は西へ降るように延びていくが、須磨田側へ下ってしまえば今回の周回予定は失敗です。最高ピークからは東側へ急斜面を下降すべく適当に雑木藪の隙間を突き植林帯に入って青野側・寺谷の民家裏に降り立ち、 車道に出たところが寺谷バス停(PM12;40)で停留所2つ先が上青野感神社です。神社の鳥居が見えているので一寸寄ってみます。(最高ピークからは、そのまま西へ向うと見えた踏み跡を辿れば 峠道に出てスッキリした縦走が出来たようです)寺谷の次のバス停が上青野口。此処から乙原へ抜ける峠道を 辿ると次が上・感神社です。本殿前の石鳥居の側には対の狛犬が鎮座しているが、仲の良い夫婦の狛犬のようで、足下で戯れつく子供の狛犬が可愛いですよ。後光の射した万体山挿入写真を参照
乙原口一般登山道!!合流点にある石祠の広場

上青野感神社と下青野感神社の丁度中間の東に位置するのが千丈寺山で、 ともに千丈寺山を大権現としての遥拝所となっているようです。308号線を南に振り返ると低いながらも 青野城址の尖鋒が望まれます。千丈寺山に向う大方の登山者は乙原か、尾根南端の北浦から登られるようで青野側からの登山者は余りお目にかかりません。交通の便が悪い要因も否めませんが…上青野口バス停(PM13:00)の脇から 集落内の坂道を採って乙原(おちばら)への峠越えの道を辿りますが、進むほどに荒れた道となって青野峠(PM13:20)に着きます。錆びた道標が示す通り乙原側へは 明確な道となって降っていきます。尾根に取り付きますが雑木の中の直線的な急登が続き展望もないので疲れがドッと…ギンリョウソウを多く見かける尾根道です。緩やかな雑木の散歩道となり降り始めると、 もうそこは乙原口から祠のある登山ルートの合流地点(PM13:45)で、尾根上の広場には石の祠があり護摩壇を思わせる石で囲った焚き火跡が残っています。
南尾根・前山付近から千丈寺山

ヤッと此処で乙原側を展望でき花山院や羽束山・尖峰の烏ヶ岳や緩やかな 山容の大峰山が望まれます。樹林の続く中、時折は樹間から北摂の山が姿を見せるが次に展望が期待できるのは山頂直前の露岩の上が北攝・三田北方の山々の展望所です。その次は山頂を過ぎて南尾根を少し下ったところにある 露岩の展望所(今はロープがセットされている岩場混じりの急斜面の下降点)が六甲・有馬富士始め三田市街・千丈寺湖周辺の北攝・三田南方の絶好展望所と決めていますので山頂は 大概素通りししています…千丈寺山山頂(1等三角点 590m PM13:55)には 上部が平坦な磐座があって感神社から遥拝する権現社が祀ってあったか、雨乞いの山でも有りますので生贄を供えたところだったのかもしれない!!?? 岩上からの展望は良く天狗伝説も伝えられています。千丈寺の天狗磐座の一段南下に三角点があり此れより南尾根を 僅かに辿って南側に出ると展望絶佳の露岩の展望所に着きます。千丈寺湖を俯瞰する先述の眺望を楽しんだ後はロープさえ設置された露岩を降り下方に見える千丈寺前山に向って進むだけだが、うっとうしいビニールテープが延々続く松茸山の山道です。前山付近は崩壊の進むザレ場の奥に千丈寺山が望まれますが直ぐ雑木の中を下降し続けます。
岡ノ谷古墳(左片袖式玄室部)

北浦の天満宮へ続く南尾根を辿らず「千丈寺山」の小さな標識のある分岐(PM14:20)から細い踏み跡を尖峰が気になる青野城址へ向います。明確な山道が続くと思われたが雑木藪に戻りつつあり段々荒れてきます。赤テープも途中まで続いていたが尾根伝いに 青野城址直下の鞍部??までも行かずに途中で消え、後は一度も見かけなかったので下青野感神社辺りへ降りるように思えます。最後にブッシュと倒木の急斜面を登りきると平坦地に出てきました。青野城(高根山 362m PM14:40)山頂部だけに平坦地の残る単郭城址のようですが、此処にNHK共同受信施設 (アンテナ)が建っており千丈寺山南側の露岩展望所と同じくらいの展望が得られます。 千丈寺湖に向って南側へ降りてみたかったが踏み跡らしきものもなく、北側には受信施設巡視路!!が落城物語青野城合戦(金の茶釜伝説)を思わせる真っ直ぐな山道が定規を引いたように急斜面を降っています。両サイドの木々を頼りに下りきると 下青野感神社の鳥居が直ぐ北隣に見えるところへ出て来た。上青野の感神社に寄っているので此処へも鳥居を潜って訪ねます(PM14:52)。
青野ダム記念館:博地谷古墳出土の陶館

感の神=(素戔鳴尊)を御祭神に祀る下青野感神社は長徳元年(995)の夏、 地区内に疫病が大流行し医者や薬の効果も少なく、多くの人々が病魔におかされた。それで村内の天台宗・青葉山松林寺の寺僧が病気を消滅する為に大般若経を唱えて拝み17日目の満願の夜、枕元に素戔鳴尊が現われて 「私は牛頭天王である。村人達の病苦を哀れんでやってきた」と告げられる。寺僧はこの霊夢に感激し、村人と共に京都・祇園社の別当に行き分霊を願い受けて帰り、その年の秋この神社を創立されたとある。側に 「千丈寺山大権現遥拝所」の石碑もあり、千丈寺山が信仰の山でもあった事が伺われます。神社の大祭は、初めて素戔鳴尊をお祀りした日と定め10月6日に行なわれています。 <感神社 案内板>
下青野口バス停近くに石碑が建っていて細い山道が東奥に延びている。青野城址への虎口とも思えないが(南側から城跡へ通じる道など無さそう)城主の墓地でもあるのか、 千丈寺前山〜青野城址への尾根南裾を詰めて前山付近へ登りつめることが出来そうです。バス停から308号線に出たトイレ付駐車場のある下青野公園前を通って、大堰橋の南側駐車場へ戻り着いた(PM15:10)。


三田の伝説:千丈寺山の天狗

六甲山の奥深いところに大きな岩を根城として住んでいる天狗がいました。この天狗は唐櫃(からと)の四鬼
( 逢ヶ山・高尾山・水無山・鬼ヶ島辺りのことか?)で息を整え、有馬の愛宕山・天狗岩で腰を掛けて・お供えを食べた。次の休み場所は山口の丸山(丸山城の在る西宮市山口町の金仙寺湖・丸山ダムで春に桜が見事です) へ、其処からピョンと跳んで三田・加茂の金毘羅山(有馬富士〜城ヶ岡〜金毘羅山) の大木(天狗の休み松)に掻きついて汗を拭いた。
千丈寺山南稜から千丈寺前山・千丈寺湖を望む

加茂の次には乙原の千丈寺山へと…此れが天狗の道筋となっていました。この道筋の最後の乙原の村に吾作という 親孝行な若者がおり、 今日は朝から屋根葺きの手伝いをしていました。昼時になったので棟梁が「飯にしょう!」と声を掛け屋根から降りてきた…が吾作の姿が見えないので大騒ぎになり「神隠しに出会ったか?…天狗に拐われた?…」と吾作の家でも、もう探すのを諦め亡くなったものとお寺に戒名をもらい、その日を命日として供養する事にしました。数10年経った或る日、吾作の家の玄関に白髪・白鬚・顔中毛だらけの男が立っており、家の人が出ると挨拶もしないでツカツカと奥の仏間に上がり込み蝋燭を灯し 線香に火をつけお経を唱えて家を立ち去りました。
千丈寺山頂の磐座

家の人は驚き急いで後を追いましたが、千丈寺山の麓で姿を見失ってしまいますが、其れが吾作ではなかったかとの噂が拡がります。「この千丈寺山に来る、あの天狗の弟子入りをして修行しているのではないか!!」「それで我が家がこいしくなって帰ってきたのだろう」「そういえば、吾作の若い頃の面影が何処かにあった!!」等と村人達は噂をしあったということです。
(三田の民話には井谷山<三田西北部>にも天狗話があります)


三田の伝説:後光の射した万体山
鳥羽城の志摩水軍の総師
九鬼直隆(久隆)
寛永10年(1633)志州(鳥羽市)より三田に移封(国替え)されて間もなくのことでした。乙原天瑞寺の御本尊・十一面観音様の脇侍(わきじ)として祀られている聖観音像のお話です。もとは千丈寺に属する観音寺の仏様でしたが、つい目と鼻の先に建てられた新しい天瑞寺は「九鬼の殿様の宗派と一緒だから願い事をよく聞いて下さるだろう」と観音寺から天瑞寺へ宗旨替えする家が出てきます。明治になって「村の小学校を造れ 」というおふれが廻ってきたが、その頃には観音寺には檀家も無くなっており、学校を建てるのは大変なのでm寺を校舎として使ってはどうかということになりました。寺は廃され其の跡に学校ができました。 残された本尊の観音像はお堂が建てられ、そこに丁重に納められていました。
上青野・感神社の狛犬

新築のお堂に目を付けた盗人が、さぞかし値打ちの仏像が有るだろうと、在る夜・鍵の掛かっていない堂に入り、夜が明けぬ間にと急ぎ運び出した背中の仏さんが段々と重くなり、おい紐が肩に喰い込んで苦しくなり、腰は痛く、どうにもこうにも歩けなくなってしまいました。乙原の牛屋ヶ谷川の小さな橋を渡り、中手山の麓付近で「どっこいしょ」と道端に仏様を置いた。夜明け前なのに山の方が輝きだし、その方向が丁度観音様の光背に当たり、四方八方へ飛び散る光の様に・仏様のあまりの輝きに驚き、足腰の痛いのも忘れ、仏様を投げ出して一目散に走って逃げてしまいます。翌朝村人に発見されるが、 何故放っぽり出して逃げたのか不審がっていましたが、背負い紐が仏様に掛けられていることから、誰かが盗み出したが・此処に捨てたのだろうと・・ということになた。しか何故放りっ放しで逃げたのだろう?。「明け方・山が綺麗に光ったのを知っているか?。雷ではなかったよ・・・」「そりゃ、キッとこの仏様のご光やで」と言いながら、もとの観音堂へ戻されました。そんな事があって、体いっぱいの後光の射したお山を「万体山 (ばんたいさん)」と呼ぶようになったということです。


三田の伝説:青野城合戦 (金の茶釜伝説)

千丈寺連山の西端に城主・青野七兵衛貞政の拠る青野城があり、白いツツジが山で咲き出しました。或る日藍岡山城の山崎左馬之助が井ノ草の烏山城 (176号線相野から四辻を経て東方の西安辺り?)を攻め落とし 青野城へ向っているとの知らせを聞いて要所要所に伏兵を忍ばせて待構えていました。「こんな小さな城、何ほどのことぞ」と山崎は「敵は小勢、一気に攻込めソレッ !!」と命令しました。青野軍は多勢の無勢ながら策をめぐらし良く戦い、指図通り防戦に努めたが、新手を入れ城を囲み攻め立てられてはかなわず落城の時が迫ってきます。貞政は「僅か一日でこの城が落ちるのは末代までも恥、今日一日持ち堪えられたのは皆の働きのおかげだ。これ以上戦っても犠牲者が増すばかり、 明朝に降伏する」と城兵に頭を下げる。
青野城址から千丈寺湖・御旅橋(中央)を望む

城の将兵達は「殿 何を申されます。この城は千丈寺大権現の守護があります。明日の決戦に望みを…」と最後まで戦う事を言上します。その夜、敵が攻めてきても登れないようにと城の斜面に竹の皮を敷き詰めます。 山崎軍は昨日に倍して攻めかかって来るが竹の皮で滑って進めません。山崎は此れを見て「何を愚図愚図まごついているか。早く火をつけろ!!」…火はたちまち燃広ろがり紅蓮の炎をあげて城に燃え移ります。貞政は「もはや此れまで …」と見限って、大事にしていた家宝の金の茶釜を白ツツジの根元に埋めて猛火の中に打って出ます。後の世になって「城山に七色の虹がかかると、キラキラ光るものが出てきて、その近くの白いツツジの下に金の茶釜が埋めてある」と、誰言うともなく伝えられています。
「藍の殿さん」という言葉があるんですが・・・(^^;  藍岡山城の出雲守も実は同じ、 竹の皮戦略で火をつけられ落城の憂き目にあって、なお且つ、ありがたくない言葉まで…何かへまをしたり、頓馬なことを言うと「お前は藍の殿さんかえ」と言い返して茶化されますよ。


 青野城小山城

青野城(高山城・高根山城)  高根山(城山) 362m  三田市下青野

青野川の左岸、大堰橋の東正面に位置して千丈寺山から派生する尾根の末端に築かれた山城は眼下に青野ダムが拡がり六甲山系を一望出来ます。千丈寺山から尾根伝いで最後に藪漕ぎで 主郭部に出る手前に段差有り、帯曲輪が本郭部を取り囲んでいるようです。高圧鉄塔の建つ山頂の削平地が本丸、西隅が虎口らしいが、此処から激急斜面の巡視路を下青野感神社へ下ったが尾根上に在る平坦地はどれも浅く狭く 曲輪の特徴も薄いので、在っても見過ごしています。守備の加工もあまい遺構からは,下青野にあった青野館の詰城とも思えず、監視所の機能を担っていただけかもしれない。なお青野館は千丈寺湖に架かる大堰橋東詰めを200m程南下した公園駐車場付近にあって青野城主の家老・後藤氏の館と伝えられます。
千丈寺湖から千丈寺山と青野城
(左端の尖鋒)

城史は不明ですが大永年間 (1521-27)以前に青野氏が此処に築城していたようですが、永禄7年(1564)城主・青野七兵衛貞政が藍岡山城主・山崎左馬之助に攻められ「…我が城にも最期が来た、敵におめおめ打たれるよりは城を枕に討死しよう」と宝物を 城山の白いツツジの下に埋め、城に火をかけて自害した。家来達や女・子供も城主や家臣の後を追って煙と共に消え去りました。同じ三田の「藍の殿様」と同じ様に、北の急な斜面に竹の皮を敷いて防戦したが火を放たれて落城しています。上記「金の茶釜」の落城伝説が残っています。天正7年(1579)豊臣氏の明智光秀・荒木村重・山崎軍等に攻められ青野城、藍岡山城(三田藍本)、鳥山城(三田井ノ草)他尽く落とされてしまいます。
(落城伝説は有るが詳細不明)


小山城   加茂 270m   三田市加茂字小山

R176号線広野の上井沢交差点で 県道308号に入り千丈寺湖(青野ダム)に向かいます。の末吉橋手前で青野ダム・青野記念館の標識を見て公園内の駐車スペースに車を寄せます。暑くてもフィッシングの スポットなのでグループの釣り客や湖畔に集うキャンパーで狭い青野ダム周辺の駐車場も結構車が溢れています。青野ダムは武庫川総合開発事業の一環として築造された多目的ダムで 武庫川沿いの三田市、 神戸市、宝塚市、伊丹市、西宮市、 尼崎市の六市の水害防止の為・洪水調節を行なうとともに
小山城(千丈寺湖畔・ダムサイト公園から)

都市上水道用水・農地の干害用水 ・工業用水等の確保等を行い河川の機能維持増進を図る為昭和42年に計画が発表され昭和57年12月にダム工事に 着手、昭和63年6月に完成したもので、整備されたダムサイト公園の「水の庭」の噴水下では子供達か水を浴びて、はしゃぎ走り回っています。 公園入口の青野記念館の1階にはダム建設の資料と共に 水没地域の調査で出土した古墳時代の埋蔵品も展示され、
小山城南郭部の土橋付堀切

須恵器は此処・末の地で土器が作られ須恵器の末はこの地名が語源とのことですが…!!。千丈寺湖を挟んで東方に花山院・北方には千丈寺山や青野城の尖峰が、 また南東には有馬富士の頭が見える青野ダムは丹波(篠山市)へ峠越えで抜ける街道沿いに母子(もうし)から千丈寺山の東麓を経て流れ込む青野川と、 西方には乙原からの黒川が合流する地点にあって、志手原を経て摂津・川西や宝塚へ通じる街道が三田を結びます。
小山城南郭部:堀切土橋と土塁虎口

南に延びる緩やかな尾根の先端が北面と東西の三方を急斜面が青野ダムへと急斜面となって落ち込む。青野川と黒川に沿って丹波・摂津及び三田から播磨へと谷に沿った街道筋の通行を監視するには有効位置にあって、築城時期や城主等は不明ですが千丈寺湖を挟んで呼応する青野城との関わりが気になる城だが 城史一切不明です。青野ダムを渡り車道の北東角付近から倒木と藪を突いて
主郭部東の帯曲輪切岸 H15.10.05

侵入し直接最高地点270mの主郭に着いた。主曲輪部は狭く曲輪の削平も段差 ・切岸も甘いが四方を輪郭に帯曲輪が3-4重に段差をもって取巻いている。南への尾根続きは段差も少ない緩斜面だが、北面・西面を意識しての段曲輪。殊に西斜面の帯曲輪には低土塁が遺る。東面の帯曲輪は2-3段だが2m程の切岸加工が顕著に残る。北・西側斜面に土塁や曲輪を幾重にも積んで防備しているのに対し、緩斜面が延びる南尾根筋は、加茂からR176号線を広野・三田へ抜ける 峠の林道に出る。
小山城主郭部西斜面:帯曲輪の低土塁線

小山城は主郭を中心に帯曲輪が円状に取巻く構造で、隣国の篠山市には網掛城(丹南町網掛)・禄庄城(丹南町大沢)・垣屋城(西紀町)等があります。 南東方の有馬富士近くには室町期・赤松一族の東野上城があり、南面より北面からの守備を意識している。緩斜面の南尾根上にも幾段か曲輪を連ねるが段差も曖昧な長い (凡そ長さ40m・幅15-20m程)平坦段はある。
小山城の北尾根先端の曲輪と切岸

しかも小山城唯一の明確な城遺構!?の土橋付堀切が此の南端部にあり、堀切を渡ったところに幅狭く少し外に開く低土塁虎口となっており、登城口は南尾根からのよう。さらに南郭部からは主郭部南下にの鉢巻状帯曲輪群への 入口通路として、両サイドの土塁間を抜ける虎口を入り、西斜面側に沿って10数m続く低土塁線から西曲輪に入るものと、一段上がる曲輪から右 (東)に折れる虎口を帯曲輪群に入る通路がある。此の虎口を入った其々主郭東南面・西南面付近は比較的曲輪切岸も明瞭です。
主郭東斜面:3段程並ぶ輪郭状帯曲輪

小山城の構えは東野上城か松山弾正の茶臼山城(遺構はスポーツセンタやゴルフ場で周辺で消滅!!??)の北方を守衛した城だったのかもしれません。前回 (H15.9.14)北東の青野ダム側からだったので確認しなかった南稜を、再訪(H15.10.0)では青野ダム南廻り車道・小山城東側の公園(駐車場有り )から加茂へ抜け青野川との合流点でR176号に繋がる林道を辿り峠附近の広い土砂採取場跡地から取り付いてみます。尾根に向かう踏み跡は見出せなかったが、藪の急斜面は直ぐ尾根筋に出て城域の南端曲輪に入る。
主郭周囲の輪郭状帯曲輪(北斜面から)

下草藪に覆われた荒れた尾根上の 曲輪は低い段差で2-3曲輪がある様だが、土橋を伴った堀切(西には竪堀・東側は曲輪切岸下を空堀状)があり此れより主郭部への核深へ向うが雑木の中に幾つもの段差をもって曲輪が続くが、尾根を分ける東側と西側の切岸の輪郭の割には 削平があまいようです。小山城・茶臼山城・森本城等、 城の歴史については研究調査報告を期待したいところです。


岡ノ谷古墳
    三田市末西

有馬富士公園から花山院への道から千丈寺湖畔を走り、北方に架かる御旅橋の東詰め北側には、湖に突き出す岬状の段丘部先端に在る岡ノ谷古墳はダム建設の際 ・青野川を望む台地上から移設されたもの。再現に方向位置も考慮されていれば湖畔に開口する羨道は、明るく開ける南ではなく丘陵裾の西に開く。西方浄土の思想があったものか?。藪と雑草に囲まれた平坦地境目に「岡ノ谷古墳 」案内板が立てられている。案内板から雑木の奥を透かして見ると僅か数m先に黒く大きな洞窟が異様に大きく見えた。
岡ノ谷古墳:羨道部から失われた奥壁部

此れが岡ノ谷古墳で洞窟と見えたのが、玄室部奥壁の基底部最下段に一段ばかりの石材のみを残しただけの状態で、奥壁側の石材が失われた玄室部を露呈しています。左片袖式で玄門部からは、急に低くなる羨道部が細長く・少し湾曲し て延び、開口部の先には千丈寺湖の水面が白く輝いて見えた。岡ノ谷古墳は多量の出土品から推して、古墳時代後期のなかでも6世紀末の古墳時代終末期)頃に築造されたものとされます。横穴式石室を持つ直径約20mの円墳と推定されており、全長10.5m・玄室長は4.3m ・高さ2.7m・最大幅2.15m有り、羨道部は長さ6.3m・幅1m・高さ約1.8mの大規模なもので、 羨道部や玄室側壁には持ち送りが見られる。
岡ノ谷古墳:玄室部から片袖式玄門部と持ち送りの羨道部

昭和51年(1976)の発掘調査では副葬品として多量の土器・直刀・鉄鏃・馬具・ガラス・小玉・杯等が出土しています。 古墳の東100m程:県道308号線側に末西天満神社が建ち、御旅橋の名は天満神社の例祭に神興 (みこし)を御旅所へ渡御する橋に由来する。神社の案内板には、当地は陶部(すえつくりべ)が住み着き「須恵ノ邑」となり、後に 「末」の字が宛てられたと云われ、縄文時代から人々の往来があったところ。

(現地:岡ノ谷古墳の案内板等を参照)



東仲古墳     三田市末東    市文化財指定

千丈寺湖北方の岡の谷古墳から 天満神社側の県道308号を北上・県道309号線に入る。千丈寺山から南西へ延び出した尾根端が県道に落ち込む小峠に差し掛かると 東仲古墳の標識が見る。車道からは廏舎と藪の丘陵間の斜面・牧場の敷地と古墳の在る丘陵側に、虎ロープが侵入を拒むが、其の先に古墳の開口部が少し見えている。東仲古墳は横穴式石室で・羨道部が廏舎に向って西方に開口しているが ・羨道の側壁上部や天井石は玄門部付近まで失われています。
東仲古墳:石棚と玄室

玄門から玄室は完存しており岩室の高さも羨道部で1.9m・玄室は2.8mといい、築造時期や規模も岡の谷古墳とほぼ同じ。側壁(玄室側から見て右)の岩の間から石棚が突き出した特異な構造を持っています。玄門部に近い玄室側に岩棚を設けるのは篠山市にも唯一 ・岩井山古墳群3号墳だけといわれます。その他の例でも奥壁側に有って、 石室補強の為の突っかい棒か・祭祀器材を置く棚だったのか?、其の用途については種々の論議がされている様ですがよくは判っていないようです。
藪に蔽われ墳丘は隠され、位置が判らなければ 開口部を見るまで古墳と判別できない?

突き出す石棚は板状で反対側には此の石の受け口となる部分は無く片持ち石棚とよばれ、石室内補強用では無さそうです。灯明台や供物の置き台だったか?。奥壁側から其の位置や高さを ・また触れて実感したいところですが、頑丈な鉄格子と施錠により内部への入室は出来ない。東仲古墳の現状は横穴式石室を持つ径18m・高さ3.5mの円墳で左片袖式らしい。全長7.7mで玄室部は玄室長約4m・幅約2m・高さ2.65m、羨道部は羨道長3.75m・幅1.5m・高さ1.9m。玄門部近くで右側壁から突き出している一枚の石棚は、床からの高さ1.5m・長さ70cm・幅40cm・厚さ5cmで、 奥壁ではなく玄門部付近の玄室側にあり、突き出した形(片持ち石棚)であること等で石棚としては珍しい形態です。
東仲古墳:石棚と玄室の位置関連等は入室出来ず確認出来ない

三田市史の再編纂を期に石室は2004年に調査され、築造時期は石室全体が1m程度埋没し2m近い巨石を使っていたことが判明。此の巨石を運ぶ技術が発達した古墳時代終末期(6〜7世紀初)のものとされます。また羨道部の床面も1m程埋没しており、此処もかなりの巨石が使われていたと推察されていますが、調査後は安全のため一般公開されないとも、埋め戻すともされ施錠されています。心無い悪戯で石棚が壊される心配はなくなるが市指定は取り消されているのかも知れません…!!?
(ガイドマップ:わがまちさんだ<青野川・黒川 みんわのふるさとを訪ねて> 三田市教育委員会 等参照)


双子塚古墳群   三田市末野

「青野ダム記念館 」には発掘調査により 出土した須恵器や須恵質の陶棺【昭和26年:青野川右岸台地・東山の古墳から出土している(県指定文化財 )】などが常時展示されているので、古墳フアンならビギナー・マニアを問わず必見です。地名の末(=須恵器の須恵や陶)が示す様に千丈寺湖周辺(水没地区も含め)には 古墳や多くの窯跡が発見されている。
双子塚古墳:1号墳

双子塚古墳は「青野ダム・記念館」前:県道308号を西50m程のところ。車道南側民家の傍 12m程の間隔をもって2基の円墳が並んでいる事から双子塚古墳の名がある。2基共に墳丘部は大きく崩れているが南側の民家傍に位置する1号墳 【Webの県埋蔵文化財行政地区の文化財分布図による】が羨道部から奥壁部までの天井石等は破壊され石室が露出しています。
双子塚古墳:1号墳奥壁に残る石材

側壁や奥壁底部の石材も一部を残して抜かれているようです。盗掘をうけているようですが岡の谷古墳・東仲古墳 と同じく古墳時代後期(6世紀後半 )頃の築造によるもので、成人の人骨が二体確認されています。北西面から見ると横穴式石室を持つ円墳(径16.5m・高さ2.5m)で有ることが判ります。石材が抜かれ藪っぽい空掘状の内部ですが、玄室奥壁の石組が残っており、石室は全長7.2m・玄室長4.6m・幅1.9m・高さ1.8m、羨道長は約2.5m・幅1.3m・高さ約1.2mで左片袖式とみられています。
双子塚古墳:2号墳

道路傍(北側)のある同規模の2号墳は主体部が不明で石材等はなく竪穴式石室のようですが、 改変著しく…近世墓として二次使用されていた様で、頭髪とともに布に包まれた寛永通宝5枚が発見されてる様ですが「ガイドマップ:わがまちさんだ」には昭和55年調査で排水溝をもった横穴式古墳で、盗掘に遭って出土品は僅かしか残っていなかったが出土した須恵器等から築造年代を6世紀後半と推定されます。
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