香下と高平の里山羽束山三山 烏ヶ岳と行者山 上槻瀬砦〜木器城
北攝三田(五万図=広根 )
T香下寺〜さん志ょう山〜羽束山〜甚五郎山 H14年02月23日

Uつくしの里〜烏ヶ岳〜七々松新池  H14年02月24日
V羽束山〜木器城〜つくしの里 ・上槻瀬砦H16年05月11日
羽束三山(さん志よう山〜羽束山〜甚五郎山)

近畿の山城: 香下城(香下寺城) 上槻瀬砦  木器城
三田の民話から 猫間中納言と「母子草」

先に千刈水源池北部の布見ヶ岳・竜王山・天狗松・向山を巡ってきたが、 時間に余裕が有るので近場の羽束山へも寄ってみようと68号線を三田に向かう。 三田市民や関西のハイカーににとっても有馬富士・大船山と共に人気の羽束山へは香下バス停から「香下寺・羽束山」の案内標識に従って 北へ入って行きます。目前には左端にピラミダルな最も目立つ山容のさん志よう山と周辺の里や山からは目立っているのに此処からはさん志ょう山の雄姿に隠れがちの羽束山を中央に右手に小高い藪尾根をみせる 甚五郎山の羽束三山が迎えてくれます。”世のねがい 今は羽束の山に来て みつるもうれし のりの月かげ”「香下の観音さん」と呼ばれる香下寺 (真言宗御室派)・摂津国三十三ヶ所第十一番霊場で本尊の十一面観音菩薩の由来には上古敏達天皇の頃、仙人が現れ境内の異樹を指し「仏在世からの霊木、此木で本尊を刻まん」と、尊像彫刻後人知れず消え失せた。 仙人は観世音の化身で仏像から良香を放つので、里人たちはこの寺を「香下」と呼んだという。聖徳太子の乳母が羽束の里から出たと云われ又、古くから小竹の産地で宮中に矢竹として 納めていたところから羽束の地名が起こったとも。


T 香下寺〜羽束三山(さん志よう山・宰相ヶ岳・羽束山<鹿舌山>〜甚五郎山)  2002年02月23日

「時雨ふる 羽束の山の雲間より あまりて出る 有明の月」「秋はつる 羽束の山のさびしさに 有明の月を誰と見るらむ(新古今集)」 羽束山は毎年元旦には三田市長を交えて 御来光を拝しに 登山会が催されるほど人気と展望に恵まれ、しかもお手軽登山コースですからファミリーに最適です。しかも伝説では源義経が白馬にまたがり 羽束山から「福島大池(有馬富士の側)」の岩場めがけて飛んだといい、その時の白馬の足跡が両岩に残っているとも伝えられ…たった今、 寄ってきた普明寺の龍神馬(宝塚の伝説)の多田源氏の祖 ・源満仲の大蛇退治の話のといい、同・源満仲開基の欣勝寺 (三田市桑原)には、 やはり「クワバラ・クワバラ」の名の起こりの雷様伝説があり、おもしろい地域です。
千刈水源池の北部・普明寺橋(中央)から羽束山

此処では羽束山に関するお話として猫間中納言と母子草 (三田の民話)を最後に挿入しています。県道63号・川西三田線から香下寺(こうげじ)の広い駐車場へと入ります。駐車場とは反対の東側「羽束山へ」の案内標識通りに丁石の続く参道を六丁峠を経て登るのが一般ルートですが、 正面の山道を墓地の横、貯水池の横をさん志ょう山と羽束山の鞍部(山田・木器へ通じる峠)へ登る道も下山にはよく利用するコースです。今日は羽束三山を縦走するので、羽束山の鞍部(峠)から三角点(さん志ょう山)往復ではなく新たなルート ?を辿ります。香下寺駐車場東端 (AM10:50)正面の地蔵堂!!と墓地の間に貯水池からの用水路があり 山道が延びており先刻の鞍部に通じていますが、貯水池から西に見える香下寺からの林道に出てしばらく辿り南尾根への 取付き点を捜しながら行き過ぎた頃、貯水池の前に出て此処から谷沿いに立派な??山道があり、さん志よう山を目指します。此れは楽勝かと思われましたが、広い鞍部状に出てくると北側には大きな貯水池があって山道は志手原か山田や木器へ下っていくようです(AM11:00)。右手の踏み跡をしばらく辿ってみますが直ぐに消えてしまい、 薄い藪と足場はゴロゴロした岩が点在しています。30m程の階段状の岩場が現われますが此処は藪に逃げるより直接岩場を攀じ登ります。
さん志ょう山から眺める羽束山

岩場の上部に出ると三田市街や大船山も見渡せる展望地で、 僅か藪を抜けると赤白測量ポールの前に出て北方へ25m程のところが周囲を少し切り開かれ、突っ立った羽束山が迫って見えるさん志ょう山(宰相ヶ岳 点名:香下村 3等三角点501m AM11:15)は 山名プレートも無く、登山者も殆ど訪れることの無い山のようです。北攝・三田の山についての低山徘徊派MLで、此処の山名について「宰相ヶ嶽」や大阪・堂島の米相場を明治期に旗を振りで伝えたところで「旗振り山」と呼ばれ 「三四郎山」の古い山名もあるとの情報を得ました。以前は山頂は雑木藪の中、峠からも藪道を掻い潜って進むような狭い道だが随分と歩き易くなったもの。しかし枯葉に足を掬われないように注意が必要です。 降りきった鞍部は香下寺から登ってくる峠で山田・木器への降り始め箇所にはトラロープが見え、峠からは樹の間にさん志ょう山の先鋒を望みながら快適な山道ですが途中に2〜3ヶ所にロープのある露岩を過ぎれば程なく羽束山(古名:鹿舌山)・観音堂前の広場に出てきます(AM11:34)。中程には大イチョウの木が在りお堂は千手観世音・不動明王 ・弘法大師が祀られています。
羽束山「ジョウノ鼻」から甚五郎山

鐘楼の横から (羽束山最高点 524m)の羽束神社前へ出ると南に向って露岩の道となり絵図案内板のある展望台があって六甲連山や北神戸の丹生山塊、 有馬富士や千丈寺山を始め三田市街地や隣接の篠山市今田方面には西光寺山 ・白髪岳・とんがり山が一望出来るが休憩は少し先に大露岩の展望所が待っています。先着の数人が既に昼食中でしたので南端の岩場に出てみます。甚五郎山が一段と低い位置に山頂をのぞかせおり、先端には小さな 石の役行者像が祀られた脇からは千刈水源池の湖面が光って見えます。切り立った岩壁(ジョウノ鼻)の岩頭には残置の埋込みボルトが一本…その西南には大展望岩下から尾根通しに山道が続いており、此方にも小展望を楽しめそうな 露岩の道が六丁峠へと案内してくれます。六丁峠(AM11:45)の石仏からは香下寺への参道が右下に下っていくが正面にも水平道が 植林の中に続いています。この道の 15m程先の曲輪の土塁を越すと堀切があり、 堀切に沿って左下へ続く山道は「展望台!」を経て伊丹市の健康村へ下る。 堀切を越えると正面の雑木尾根にも細い踏み跡が続き、2〜3の曲輪を過ぎると5m程の高さで切岸を施した 細長い曲輪に出る。この曲輪の東端の少し高見が露岩のある甚五郎山山頂です。
甚五郎山(香下城の東曲輪群)東端ピーク

此処から先に道は無く、展望乏しい雑木の中の平坦地の中で 南端にある目立つ腰掛岩を甚五郎山到着 (432m AM11:50)のポイントと定めます。腰掛岩の先の岩は6〜7mの岩場の上部分でした。此処から降りられないものかと南の斜面を下りかけて見ると、この岩の途中に突き出た岩が ナントモ立派な男根のように見えたのは特異な 人名の山の性なのかも…しれません。分岐(堀切)に引き返して山道を下ります。この分岐の南東下には二つの水を湛えた小さな池があり石積みで加工されたが"水の手"の様で途中で三叉路があり展望台・下山・山頂を示しています(PM12:05)。このまま香下へ降ってしまうより 展望台に寄って見ようと東への道を採るが段々と下るだけの道。千刈水源池や羽束の山を間近に望む道なので疑問を持たず…しかし一気に急な降りとなり「展望台」って何処に在ったのかと疑問です。
甚五郎山西下・分岐堀切附近の池"水の手"

伊丹市の市民健康村(旧野外活動センタ!!)へは 200m程手前の車道上のザレ場にでてくると登山口のプレートが架かっていますが車道からは見えません(PM12:15)。県道側へ20m程のところにプレートがあり此処が登山口。関西学院千刈キャンプ場の門前を通り展望台との分岐から 「下山」コースを採れば此処へ出てくるだろう「登山口」標識は県道側からだと、NTT電柱「香下」159DL7Kの8m程先です(PM12:30)。県道63号・川西三田線と、伊丹市健康村への三叉路のバス停「香下峠」へは250m程の地点だろうか!!。 車道をバス停「香下」に戻ってくると、今しがた縦走してきた羽束三山のコースを思い起こしつつ香下寺へと田園風景の道を駐車場へと帰りつきます(PM12:40)。


U 香下寺〜羽束山?さん志ょう山 2002年10月13日

三田市民にとって羽束山は虚空蔵山と 共に毎年元旦に御来光登山会が催される人気と展望の山です。しかもファミリー向けの、お手軽登山コースですから今日の最期に一山稼ぐのに丁度お誂え向きの山です。西宮北インターから国道 176号線を北に向えば否応無く目を惹く妖しい!!異様な山容は印象的です。阪神間の登山者には展望と、大船山や烏ヶ岳をセットにした山行ついで寄る 登山対象にはうってつけの小山です。香下登山口八王子神社は秋祭りで「獅子舞」の笛の音が響いています(PM2:55)。
六丁峠(甚五郎山・参道・羽束山尾根の分岐点)

女の子が「もう天狗さんは終わったで」と声を掛けてくる。境内では「おかめ面」と珍しく3〜4人で 1頭!?の獅子を舞っています。 普通一人か後足役の二人で演じられるんですが!!…天狗が出てきて”おかめ”とくれば子宝・豊作祈願のようですね。遅くなりそうなので丁石の続く階段の参道山道を辿ります。羽束三山の甚五郎山分岐の鞍部が赤い帽子と前掛けをした石仏のある六丁峠(PM3:10)で広い参道は此処から途中まで緩やかな水平道が続きます。 …が私たちは此処からテープを追う様に岩場交じりの稜線伝いに 役行者像のある岩壁(ジョウノ鼻)の岩頭に向かいます。香下神社南下の大展望岩下へダイレクトに到達します。
香下神社 ・鐘楼への登り口

西面と南面に一気に展望が拡がるが其処此処の展望岩場には関心なさそうで素通りし香下神社(PM3:30)へ着きます。 観音堂には母子(もうし)草伝説があります。其処からは三角点のあるさん志ょう山との鞍部に向かいます。2ヶ所ばかりの露岩の箇所も濡れていなければ 左程でもなく通過出来、鞍部からはそのまま香下寺を目指して下ります(PM3:55)。


V つくしの里 〜烏ヶ岳〜行者山〜岩神の滝〜上槻瀬砦 2002年02月24日

香下峠の羽束山山裾から伊丹市の市民健康村を抜けて羽束川に沿って県道37号を北上します。 高平七々松の森は兵庫県と三田市によって上槻瀬の七々松新池や福谷池周辺の池や山を(H10.5)「高平ナナマツの森」として 福谷道・七々松道等の散策路としてベンチや案内板も設置・整備された数ルートのファミリーハイキングコースがあり、ベース基地の登山口には地元の名物・高平もち(今は三田もち!!)や生鮮野菜や名物の”もち・つくしうどん ”等お食事処「つくしの里」(木曜定休)も新装オープンしている。
行者山から 望む烏ヶ岳

此処から1km程先には高平ふるさと交流センタがあり、裏山一帯は観福の森ハイキングコースとして翌年(H11.5)整備されました。
つくしの里の駐車場 (PM12:35)から山側に直進する標識:七々松道・妙見道を分けて福谷道へ右折すると行者山を仰ぎ見ます。烏ヶ岳はそのほんの少し先ですが此処からは見えずに残念ですが、急登覚悟のハイキングコースです。福谷池とハイカラ洋風館別荘!! の間を抜け山道へと入っていきます。六地蔵と輿(死者を運ぶ駕籠)置場だったと思われる荒れた小屋の先には既に廃墓となっているような墓地に数本の塔婆が残っているだけ。此処を抜ければ100m程で水辺公園に出る(PM12:50)。
薬師堂二尊種子板碑

岩神の滝は帰りに寄ることにして池の上方に続く道を辿りますが、 いよいよ「金毘羅道」の急な登りとなってきます。林間道や炭焼き釜跡の前には学習用案内板も設置されています。鞍部(PM13:10)に着くと今度は行者山分岐まで木の階段道が続きます。行者山分岐からは2〜3分の快適な雑木林の明るく短い尾根歩きで烏ヶ岳(3等 点名:辻の浦528m PM13:25)に到着です。展望に優れない山頂だが周囲を潅木に囲まれ 明るい日差の中・設置のベンチに腰掛けます。行者山分岐へ戻ると10mと進まない処に行者堂(行者山展望所)があり、麓から望む優美な烏ヶ岳の尖鋒は此処から眺めだけでも想像出来ます。
岩神の滝

行者山からは「見晴らしの道」を降り続けて七々松新池(PM13:50)に出ます。 此処はモリアオガエルの産卵池だが・カスミサンショウウオ他多くの水辺の小動物の繁殖地のようです。新池から七々松の2〜3の池の端を「つくしの里」へ戻るのもいいが時間もあるので谷間の林間道を 水辺公園に向かって登ります。池の西北側に水流の乏しい岩神の滝(約5m PM13:55)が架かっているので寄ってみます。 案内図には「清流の滝」ですが滝芯部分の岩が墨汁を流したように黒い。谷を東側に移ると六地蔵からの道と合流し、少し降ったところからは荒れた階段混じりの道が左上に延びています。
上槻瀬砦主郭部

「見晴らしの道」からの下降では「つくしの里」に続く低い山塊があり尾根の最高処付近上100m程には室町期以降に 築かれたと思われる上槻瀬砦で(PM14:05)で最高所には曲輪跡を残し北西部の下方にかけては2箇所に堀切跡もみえます。 羽束川に沿ってここから1km程先・大船山西北の小山には十倉城があって、この砦を守っていた氏族や 家臣等の詳細は 不明ですが十倉城主・森本氏の同族の勢力が築いたものと推測されます。砦を南へ降ると古い鳥居と小さな石の手水鉢が置かれた広い台地にある妙見山(妙見堂)に出ます。
上槻瀬砦最南端に曲輪:妙見堂(妙見山)

平坦な小広い妙見宮は 砦の主要位置からは、最も低い位置にある曲輪跡で平常時は 居所として使用されていたのではないかと思います。案内図によると妙見堂から「つくしの里」へ降るのは遠回りのようですので、少し戻って分岐にあった案内標を見て 上槻瀬の集落に降り立つと「つくしの里」は其処です(PM14:15)。薬師堂の前には種子を刻んだ二尊種子板碑が大船山を背にして建てられています。


猫間中納言と母子草

舒明天皇が有間(有馬)温泉へ 湯治に来られたとき、帝(みかど)は北の方に聳える山を指して「あの山は何というのか」とおたずねになりました。「あの山は羽束山と申します。山上には観音さまがおまつりしてあります」従者の一人が答えました。 帝は猫間中納言定頼を使いとして羽束山の観音さまへ代参されました。すると・たちまち帝の病気が治ったので帝は感激され、羽羽束の里と近在の土地を中納言に所領として与え、中納言もこの土地が気に入って鷹原 (今の母子地区)に住むことにしました。暖かくなったある春のこと中納言は、誘われるようにして野歩きをしていて、道端に咲く色とりどりの花の中に、黄色い小粒の花が目にとまり、うす緑色の葉、茎、黄色い花。株ごと帝に献上しました。「これはこれは、なんと可憐な花ぞ」帝は大層お喜びになり、それ以来・中納言は毎年献上することになり、 この花のことを「奉公草」とも呼ばれるようになりました。
竜王山から羽束山と中央左 ・宝塚富士(たかつこ山)

その後、何年かして中納言は世を去り、あとに残された奥方と愛児のなげき悲しみは想像もつかないものでした。これを見た家臣や里人たちは、心から母子を慰めたり励ましたりしました。 母子は墓のかたわらに庵をつくり亡き中納言を弔うことにしました。めぐって来た春の風に誘われて、父の歩いた野辺を歩きます。悲しい心は、花々を見て慰められます。その時、奥方は黄色い奉公草が咲いてるのを見て、 これは夫の愛した花で帝に献上していた花であることを思い出し、あちらこちらに咲いている奉公草の中から幾株かを持ち帰り、その一株を仏前に供え、あとの株を使者に持たせて帝に献上しました。帝は奉公草を見て、 ありし日の中納言母子のことを懐かしく思い出され、母子の幸せを心より願われたことでしょう。その後、奉公草を「母子草」とも言われるようになり、そのことから此の土地(鷹原)を「母子(もうし)」と呼ばれるようになったと 伝えられています。三田・篠山線49号線は有馬富士・花山院を抜けて花の寺でも有名な永澤寺(ようたくじ)から、篠山に抜ける三国ヶ嶽近くの美濃坂峠(小川芋銭が大正15年院展に発表した「丹波霧海」はここで描いたとされています !!)この途中に母子の集落があり母子茶は高級茶としても有名です。
(三田の民話:三田市教育委員会 を参照)



 香下城(香下寺城) 上槻瀬砦 木器城


香下城(香下寺城・中田和城・田和城)
  羽束山 518m   三田市香下

城サイトのanne猫さんを誘って 2004年5月1 1日の山城案内では三田陣屋貴志城の後…有馬富士公園前を過ぎ香下城を目指します。羽束山(鹿舌山)の香下城の遺構は調査熱心なanne猫さんに 乗せられて枝尾根へも突入…思わぬ多くの曲輪群を確認して南北朝期以降にも改修され使用された事が想定できる。この後 ・縦走途中で寄った甚五郎山(中田和城??)にも堀切・水の手の池!!?数段の曲輪が確認できる。 更に東へ下る間にも砦は有るのだが分かり難い。
鐘楼から香下神社背後(最高地点)の土塁!!

さん志ょう山頂の平坦地は見張り・狼煙場には適地の様。此の後は近場の低山に木器城上槻瀬砦に向かいます。山麓の真言宗香下寺の北から東方を取り囲むように羽束三山(仮称)が尾根を連ねています。 北に位置する三角点峰のさん志ょう山(宰相ヶ岳)に出城を伴い、羽束神社と観音堂のある羽束山の山頂周辺に本城を置く香下城は、香下寺がかつては山岳寺院であったとされます。羽束川に沿っては木器(コウヅキ)から後川 (しつかわ)を抜けて丹波へ抜ける間道もあり山は急峻な要害となっています。
観音堂西下・虎口横の石積

香下寺へ下る六丁峠の分岐から南へ続く尾根上にも甚五郎山山頂部附近には曲輪群があり、甚五郎山への分岐は堀切になっており、此処から伊丹市の市民健康村へ下る尾根上Ca395m附近にも小さな堀切や数段の出曲輪跡があり、主郭部の羽束山を囲む尾根上には、 さん志ょう山(三角点峰)と甚五郎山及び伊丹市健康村への東尾根の出曲輪を含む長大な縄張りを持った山城だったようです。京都
から摂津池田・能勢・宝塚・三田を東播磨や丹波へ結ぶ街道筋の要衝を監視する重要地点に在る。主郭城域の観音堂から香下神社にかけての遺構が神社等の造営拡張によるものか 判断しかねるが観音堂北側に顕著な遺構が残る。観音堂の北側から裏手・ 篠竹雑じりの藪の中には空堀や
主郭部・観音堂

高い土塁をL字型に廻らした、かなり広い曲輪、さらに北の尾根上にも小さな曲輪が続いているようです。藪の中を彷徨いながら 西側へ帯曲輪が延びており、其方へ移動すると篠竹林の中を観音堂脇へ通じる虎口があり、 その横には一部崩れそうな石積みが残存しています。山岳寺院の城郭化は勿論の事、虎口を設け帯曲輪をつなぐ手法は技巧的で南北朝期以降の戦国期にも改修され使用され続けた可能性が有り、南北朝期には丹生山の明要
寺(神戸市)や弘浪山の高山寺(氷上郡)等と 南朝方に与(くみ)して戦略拠点ともなりました。その頃より城郭化されたようで、暦応元年 (建武5 1338)香下寺宗徒により改修補強されたと考えられます。香下寺衆は丹波守護 ・仁木頼章とも南朝方として対峙しています。
観音堂裏手の堀切

「太平記」にいう南北朝期の香下合戦では建武5年11月(暦応元年/延元3年 1338)北朝方の貴志義氏等と幾度かの交戦を耐え、旧有馬郡戦史上でも最も激しい戦いが 繰り広げられた処。多くの死傷者が出た様子は香下の山麓に幾つかの弔い塚【南朝方の戦死者の群集火葬古墳】が残されています。貴志氏の夜襲により香下寺城に篭城して戦った南朝方の湯山左衛門二郎円忍等が討たれ城は 陥落しています。しかし観応元年(正平5 1350) 足利尊氏が摂津を確保する為、瓦林城(西宮市)の瓦林平次郎に香下城の警護を命じており、この頃には北朝方の支配下に入っていたようです。


木器城(城山城)
 点名:城山U245m(4等三角点)  三田市木器字城山・字城下

JR新三田駅から有馬富士公園前を通り志手原はら県道37号線に入る。羽束川沿いを北上する高平地区の玄関口・下槻瀬の蓮華寺手前で、 大坂峠を越え猪名川町に向かう県道323号線への三叉路。左折する323号線の南側丘陵上が木器(こうづき)です。裏街道筋とは云え平安時代中期:多田源氏の祖・源満仲が領主となった多田庄の川辺郡西北部庄園で、
羽束橋南詰から木器城山(手前)と羽束山(香下城)

羽束川沿いに木器城北面は 其の入口で小柿を経て後川から丹波篠山に繋がる。北東へは猪名川町・宝塚市北部に通じ、城の南面は羽束川を正面眼下に望み県道68号線が宝塚北部・千刈ダムに流れ込む波豆川沿いを走る。源満仲の普明寺の龍神馬(宝塚の伝説)も残るように京 ・妙見・池田・能勢等の街道筋からも京都・摂津・丹波・播磨を繋ぐ要衝の地点。低丘陵の東面を羽束川が天然の要害として水濠を形成している様だが、
木器城主郭北面曲輪からの切岸

比高50mにも満たず、最高所の山頂部を除き傾斜も緩やかで、尾根筋?も林の中の様な北西域は ・平坦な幅広の尾根部分に険悪な山容とは見えない?。独立低丘陵部南部に、僅かに高低差を見せる要害とも思えない標高245mの点名城山U(4等三角点)山頂部の南北約100m・東西50m足らずを城域としています。 木器北麓の県道37号分岐三叉路の県道323号線側から、田圃の畦道を山麓側に向かうと墓地参道が見える。
木器城主郭(城山三角点)ら低土塁

参道からは墓地に向かう石段道とは別に、藪に隠れて見分け難いが・丘陵上に向かう泥濘んだ山道があり簡単に取付く事が出来る。 深く切れ落ちた溝谷に土塁を挟む二重の横掘状となって尾根筋に達し、堀切としての作為を感じるのは城山だという先入観からでしょうか!!。 鞍部から南へ延びる明るく緩やから雑木尾根上には山城へ向かう峻険な箇所も無く、見誤るにしても他に該当しそうな場所もない。違ったのかな!!??と思い始めた頃、傾斜も増した植林帯の先で曲輪と浅い堀切に出た。
木器城(南側の堀切)

目前の曲輪へは北東端を捲く様に斜上する登城路を経て辿り着く。此処が虎口のようで 浅い起伏の有る細長い平坦地に出る。防禦面では北に浅い堀切と低い土塁、南側は羽束川からの急斜面の途中に6〜7mの堀切で遮断しているだけの 単郭式の城ですが、文書等の資料乏しく城主は光月氏といわれますが確実な資料が無いので定かではありません。
南堀切から土塁曲輪外域

最高所には僅か4〜50cm程だか少し高い櫓台らしいところも有り点名城山U (4等三角点245m)を過ぎると南端は大きな 堀切が有ったが三角点のある平坦地の主郭部を除いては、此処に登り着く手前の曲輪以外は左右にも削平地もなく、狭い単郭式の詰めの山城の様ですが、 主曲輪から樹木のスリットを通して見上げる羽束山の姿からは香下城の出曲輪・監視の砦か?。南朝方が北朝方を迎え籠った香下合戦以後の築城?なんでしょうが、木器城が香下城の城塞か、香下城を含み高平・森本氏の十倉城城西群なのか ?城史不明です。  

上槻瀬砦  妙見山 Ca310m  三田市上槻瀬字エン谷

上の登山レポートV羽束山?木器城?つくしの里 ・上槻瀬砦では登城ルートが逆なので直接の訪城コースを案内しておきます。R176号「新三田駅前」交差点から有馬富士公園線で 志手原に出て、後は県道37号を羽束川沿いに北上して高平に入れば左手(西側)に「つくしの里」の道の駅風の施設・高平郷の土産や「つくしうどん…」等の食事処でもある観光ステーション!!?。
上槻瀬砦主郭部:露岩含みの櫓台状露岩マウンド

此処から七々松の森の散策コースへと山麓に向かう田圃 ・地区道・民家側には「妙見山道」「七々松道」道標が分岐点ごとに立つ。上槻瀬砦へは「妙見山」道標に従い直ぐ山道に入るか、 西寄りの道を進んで「妙見山道 」の参道から直接・妙見堂に向かう。山道の方は妙見堂背後の尾根筋合流分岐点に出て”砦跡”を示す道標を山上に向かうが南下方50m程には妙見堂の建つ。
上槻瀬砦・主郭部西面切岸と堀切

古い鳥居と小さな石の手水鉢が置かれた広い平坦台地にある 妙見山(妙見堂 )の前面は高い切岸をみせて、上槻瀬砦の尾根筋南東先端の最も低い位置に在る出曲輪!!?、むしろ砦の主要郭・番所交代要員の平常時の居所・寝小屋として使用されていた曲輪なのかも。分岐へ引返してむかう山頂への道は急斜面では無いが幅狭く荒れた尾根筋に多くの露岩が点在する100m程の間に、 数段の極小規模の平坦地形があり、室町時代後期に築かれたと思われる上槻瀬砦があります。
上槻瀬砦主郭部:曲輪を挟む尾根西端の堀切

文書等の資料乏しく城主は光月氏とも云われるが資料に乏しく定かではない。各小曲輪は幅狭い尾根上に点在する露岩を切岸や土塁代わりに取込んでいる。 埋もれ殆ど深さを失って溝状の僅かな形跡しか残らない堀切跡から風化した砂地の斜面…を登ると最高所の主郭南小曲輪の露岩部に砦案内板が、柱も朽ち倒れているが縄張図が残る。主曲輪には僅かに段差をもつマウンド状も有り櫓台が設けられていたのかも…?、露岩の目立つ尾根続きを北西部への切岸下の西曲輪を挟んで二重堀切の遺構を残している。
上槻瀬砦:尾根南側の浅い堀切

尾根筋西の最低鞍部の 墓地から散策を楽しむなら行者山・烏ヶ岳を目指すが、砦だけが目的なら右手の参道を下り福谷中池(遊歩道は池畔のお屋敷側:池堤防を抜ける)を経て地区道を”つくしの里”へ戻ってくる。この砦を守っていた氏族や家臣等の 詳細は不明ですが、羽束川に沿ってここから1km程先・大船山西北の小山には十倉城がありますので城主・森本氏か同族の勢力が築いたものと推測されます。

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