三田民話の里の城:雷除の里と大原の里 桑原城・天神ノ尾城・大原城 ・下田中城・貴志城〜御霊神社 |
御霊神社は貴志神社または貴志宮と呼ばれ祭神に大彦命・伊弉諾尊を祀るが鎌倉時代に相模国の鎌倉御霊社より鎌倉權五郎景政の神霊を勧進合祀して御霊神社と改称されています。
御霊神社
貴志五郎四郎義氏の祖・義茂は源頼朝に仕えおり、此の地に来住の頃に勧進されたもののようです。子孫の五郎四郎は楠木正行と共に戦った南朝方の武将ですから。延文4年(1359)本殿を焼失した為、文明2年(1470)貴志惣内の浄財を集めて造営され、神仏習合の信仰を反映した彫物が有ります。殿は兵庫県下でも類例の無い正面三間・側面二間社入母屋造りで、屋根は桧皮葺きで入母屋の妻側の庇を延ばして角柱を立て向拝としている。牡丹に唐獅子・戎大黒等の透彫絵模様や、神仏習合を表したものとして向拝上に十一面観音を表わす種子(キャ)があり本殿は昭和25年(1950)国指定重要文化財になっています。
貴志のぬけ石「陰陽石」
境内の「貴志のぬけ石」二基は形状から陰陽に例えて「夫婦石」ともいわれます。陰陽石の側に変わった形の黒っぽい石があり「茶臼石」と呼ばれ「夜啼き石」といわれる伝承が残ります。関ヶ原の合戦の後、全国に名を知られた九鬼水軍が力を盛り返すのを恐れた家康によって志摩の鳥羽城主九鬼久隆が寛永10年(1633)海の無い三田に移封された際、九鬼の殿様が気に入った「茶臼石」を庭石として献上した。しかし夜も深けて辺りは物音一つしない静かな庭の方から、女のすすり泣くような声が、お殿様の寝室にまで聞こえてきます。
「夜泣き石」
空耳かと思ったが次の夜も「貴志へ帰りたい。貴志へ帰りたい」と訴える声が聞こえてくるようになった。気味悪くなった殿様は、その石をきれいに清めて、貴志の元の場所へ返させたところ、すすり泣きは聞こえなくなったという。そのことから、茶臼石のことを 「夜啼き石」と呼ぶようになったそうです。この茶臼石は酒船石であって御霊神社の祭礼に用いるお神酒は全て、清浄なこの石によって造られたものといわれています。神聖な酒船石・伝承の夜啼き石ではあっても、石面に穿かれた数多い盃状穴の痕跡は異なる強い信仰による思入れからか…?、
(御霊神社の案内パンフ 三田市観光協会 現地案内板 参考)
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