三田民話の里の城:雷除の里と大原の里 桑原城・天神ノ尾城・大原城 ・下田中城・貴志城〜御霊神社
三田市 (五万図=三田)
桑原〜大浪山(点名:小屋ヶ腰) H15年04月09日
大原城 (お姫山城・烏ガ森城・小原城・福島城) H15.05.03 ,06月22日
貴志城 〜点名:貴志 H15.9.20
貴志城 御霊神社(夜泣き石)H16.5.11
ウッデイタウン中央公園奈良山古墳群・七号墳
三田のお話くわばら/ 大原のお姫様夜泣き石
近畿の山城:
桑原城  下田中城 大原城(お姫山城) 大原千ヶ坂城
      天神ノ尾城貴志城 釜屋城


『くわばら』は雷除の共通語!!桑原城(大浪山)  2003年4月09
JR三田駅の東約1.5km三輪地区の 桑原集落の北に低い尾根を東西に延ばした丘陵南の末端に緩やかな台形の小山が見えます。その山頂一帯に南北朝期 ・赤松氏の桑原城がありました。R176号線の武庫川に 架かる広瀬橋から東に向かい鉄屋橋を渡れば正面に見えるのが城山です。羽束山有馬富士附近・志手原からの水を集める 山田川が此処・武庫川に合流する地点へと、北から張り出してきた丘陵の南山麓には桑原城主の菩提寺:
桑原城中郭西側の仕切土塁上に見る石積み

欣勝寺や氏神の感神社(三田市には多い神社なのか!!此処に2箇所、千丈寺山西の青野川沿いにも2箇所あり、他には!!?) が有ります。感の神が素戔鳴尊(すさのうのみこと)を祀り、農耕や病苦を救う神様なので同名の神社が地区ごとにあっても不思議ではないが…桑原は【雷伝説クワバラ・クワバラ】と【寺宝!!の大蛇の頭】がある事で有名な欣勝寺があって、桑原城への取り付きを最初は欣勝寺からと考えていたが、 城域に至る尾根の東鞍部にグラウンドが見えており此処からが最短コースのようです。
大浪山城(桑原城)と羽束山遠望

集落内の道路の終点(進入禁止ゲート有り)からグラウンドの横を抜けて続く山道はズバリ大浪山 (点名:小屋ヶ腰 4等三角点213m)山頂に着き ます。三角点から西へ進むと直ぐに深く大きな堀切に断たれます。此処から桑原城の城域に入り林の中には土塁に囲われた曲輪が現われます。曲輪から曲輪へは何れも段差の少ない平地の中に区画されたスペースあり、尾根を南北に遮断する二つの空掘りがあります。
桑原城中郭西側の 仕切土塁と空堀:中央突出部(横矢掛)の折れ

空掘りで囲われた曲輪が主郭の最高地点 Ca219mと思われますが主曲輪にしては狭い。広いが高低差も少なく防塁施設の無い最奥の西部分が主郭なのかな…!!?。尾根伝いに城山公園へとも考えたが藪尾根を彷徨するだけか、車道歩きを強要されるだけのようなので引き返して次の山城へ向かう。

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点名::貴志と貴志城は別!!  奈良山!!(点名:貴志)の奈良山古墳群 H15年9月20日

JR新三田-三田市民病院への車道からウッデイタウン中央公園に向かう。けやき台へ向う峠の南側にも開けた広大な芝生が拡がり、噴水や遊戯施設・公園管理事務所には三田市内の遺跡図や農耕具、居住跡などが展示されている【むかしといまの資料室】があります。12号墳近くには展望塔【風の塔】があり中央公園のシンボルゾーンとなっていて有馬富士・虚空蔵山・六甲の山並みや三田市街地の展望が 360度楽しめます。
ウッデイタウン中央公園「風の塔」

今のところ三田で二番目に広い公園の中だが蜘蛛の巣突いてまで三角点に向かう奇特な人は殆んどいないでしょう。附近には30幾つもの古墳が点在する古墳公園の様相で西端の展望台側12号墳から東端7号墳まで丘陵尾根に遊歩道が整備され、途中の尾根から公園管理事務所へ戻る周回散策道もあります。古墳は其々奈良山XX号墳と呼ばれ、点標名貴志(4等三角点 206m)を奈良山と呼称したいが、貴志から見て西山とも呼ばれるようです。古墳の側にはメガネをかけ屈み込む姿勢の石像が7号墳(6世紀中頃造営の円墳 )の説明書を持っています。この石像の側から 左へ蜘蛛の巣祓いながらの踏跡を辿れば平坦な山頂部5〜6m手前に4等三角点標柱があります。
ウッデイタウン中央公園奈良山古墳群・十二号墳

展望塔【風の塔】のある西方への散策道に12号円墳を見ます。三田盆地では最後に築造された7世紀中頃〜後半の12号墳 直径10mX高さ1.5mの円墳で、凝灰岩質砂岩を使った横口式石棺墓が見つかっています。埋葬主体石棺部は長さ 1.1m×幅0.85m×高さ0.97mで天井石・周囲壁は各1枚・底石2枚の切石で組み合わされた横口式石槨(古墳時代終末期の埋葬施設ですが 横穴式との差違はよく知らない)。南壁には縦37cm・横35cmの入口があって全長110cm・幅90cmの羨道が続いていた。 此処からは須恵器の台付きで首の長い長頸 (ちょうけい)壷が出土しています。7号墳は 6世紀中頃〜後半に築造された直径16.5mX高さ3.5mの円墳で、3ヶ所から木棺直葬の跡が見つかっています。
ウッデイタウン中央公園奈良山古墳群・七号墳

棺からは直刀・鉄鏃(てつぞく/鉄製の鏃 )・刀子(とうす/小型ナイフ)、外から馬具と多量の須恵器が蓋杯・高杯・堤瓶 (さげべ)の各グループに分けられて納めてありました。堤瓶のなかには土の玉3個を入れた鈴の様な土器も出土しています。 共に現在は埋め戻されていますが、画像で見る通り常駐の学芸員により説明(案内板)を受けられますよ。周囲をニュータウンに囲まれ必然的に!!緑地公園となるか宅地開発で削平され消滅する運命の独立低丘陵の中のピークです。



 桑原城 下田中城 大原城 大原千ヶ坂城  天神ノ尾城
 
貴志城 釜屋城(消滅!!参考)


桑原城(大浪山城)
  大浪山三角点 213m 最高所219m    三田市桑原字大浪

JR三田駅から東約1.5km・桑原欣勝寺の東、感神社を背にして東西に延びる丘陵の末端に緩やかな台形の小山があります。大浪山城の城域へは欣勝寺と感神社の中間附近の集落を尾根の東鞍部に向う車道の車止めゲートの先にグラウンドがあり、此処から尾根に向かう山道を採って大浪山(4等三角点 213m)山頂に着くと、その先(東端)は尾根を分断する深く大きな堀切に出る。
南郭・主郭を分ける大堀切

此処から西への尾根上が城域で途中2箇所に、 尾根を土塁と空掘りで遮断して南北に走り、三つの曲輪群に分かれています。山頂一帯は遠望した山容通り各曲輪の段差は低く西端の広い削平地に浅い段差はあるが曲輪を形成する境界も判然としない 緩やかな傾斜をともなって西へ延びており、城域の面積のほぼ半分を占める広い曲輪は居住スペースだったとしても井戸のない!!?用途不明の空間です。
南郭の数カ所には石積 ・石垣を見る

詰城としての機能なら居館は此処への取り付きに選んだグラウンド附近が絶好の位置にあります。大浪山を背に三方に展望が効き、広い居住空間は山麓の感神社や長昌寺の上方とグラウンドの南下方にも拡がっていますから ・南北朝期の康安年中(1361-62)摂津中嶋郡や有馬郡を支配していた赤松弾正少弼氏範(円心則村の四男)が三田城を居城として大浪山城を築き次男の家則を入れて三田城塞群の一つとしています。
桑原城の仕切土塁:西側の横矢が掛かる土塁と空堀

赤松氏範は父(円心)則村や兄弟が北朝方にあったが、ひとり南朝方に与(くみ)して戦い、その功により摂津国中嶋郡・有馬郡等を領して、天神山城(加古川市志方町)より有馬郡三田城に居城を移し三田城を取り囲むように嫡男(孫次郎)氏春に道場河原佐々城・次男の孫三郎家則に此処大浪山城・三男祐春に船坂城・四男(孫五郎)季則には 福島岡山城(東野上城)を構築して三田城の基盤を警固なものとしています。
桑原城の仕切土塁:東側の土塁と空堀


永徳3年(弘和3 1383)8月には山名・細川の軍勢に追われた父・赤松氏範(享年57才)と共に播磨の清水寺に立て篭もり同年9月・兄弟共に一族137名と自害しています。また室町時代末期:弘治元年(1555)には桑原左衛門清正が居城したが、攝津伊丹の有岡城主荒木吉三郎村重が摂津国を平定し、永録7年(1564)山崎左馬之助恒政(藍本の岡山城主!!?)等と 有馬郡を平定すると、家臣の畑某、矢田某が金心寺の本陣にいた山崎方の車瀬政右衛門に降して許されています。いずれも戦わずして!!降伏し事なきを得ているが翌永録8年には清正が病死して、子がなく桑原家は絶えたと伝えられます。
桑原城の西側仕切土塁の残存石積と空堀

家来達は 今更二君に仕えるのも心外と皆、百姓になったといいます
(摂北軍記)。荒木村重は摂津・京都・播磨の玄関・丹波国への侵略に執着し機会を窺っていた様にも思えるが三田を城下町としても整備しています。天正2年(1574)北摂伊丹城(伊丹治部兵衛景親)を滅ぼして後「伊丹荒木軍記」によると丸山城(西宮市)・岡場城(神戸北)を次々落とし北上、三田平定時に三田城主:有馬(赤松)出羽守国秀が 村重に下りて臣従するが、出羽守に「不義」有りと、村重が有岡城に呼んで詰問したところ自害。
桑原城中郭東側の切土塁南端に付く短く急な竪土塁にも石積を見る

理由不明で謀殺とも思える !!?が国秀に子は無く赤松有馬家の嫡流は途絶えたと云う。天正6年(1578)信長の中国征伐中に村重は、三木城の別所長治に呼応して毛利方に付いて信長に背き、三木の荒木氏一族も金心寺の籠るが落城する。グラウンドからは比高30m足らずの低丘陵で、広い平坦な尾根上の南郭(グラウンド側)には、曲輪としては不整形ながら薮っぽい急斜面に石塁・石列を見る。石材が撒存する土塁状もあるが長さ5〜6mの直列石積からは炭焼窯・造林用や古墳の葺き石等には思えない。
主郭南側大堀切と竪土塁の先に櫓台への切岸

石列は曲輪端や上り土塁か?登城道等に使用された土留用とも思えるが、多くの石材を使用して虎口を固めたものなのか・・?。グラウンドを西から踏み跡を辿ると南郭の北端付近・4等三角点石標柱を見て主郭との間の大堀切を見る。真上には大土塁・櫓台・櫓台から西下へは、主郭に向かう帯曲輪を遮る形で竪土塁が延びる。主郭部の広い平坦尾根には空堀を伴う二本の土塁 (高さ1.5〜3m)があり、どちらも中程が2〜3m程だが突起しており、空堀左右からの侵攻には横矢は掛かる構造にもなっています。
桑原城西側仕切土塁:中央突出部の折れと空堀

いずれも空堀側に突起する部分は石積されていたと思える残存石片を見る。中郭を挟む南側仕切土塁の西端は、短く急な竪土塁だが此処にも石積が見られ、西側仕切土塁にも突起部や土塁西側には、北に延びるひろい北郭側の土塁端にも石積が見られた。南北に曲輪を分ける仕切土塁と空堀だが曲輪端で大竪堀となって落ちる。曲輪は大堀切と二本の仕切土塁で四区画に分け独立性を持たせていますが、桑原城内では一番広い北郭は土塁・堀・切岸を持つ曲輪等による防備施設を見ない。播磨赤松氏が石塁・石垣を多用することは知られるが此処:三田の赤松関連の城に限り?、羽束山の香下城他一部を除き 石積を見る山城を外に知らない!!。
桑原城西側仕切土塁北端の大竪堀

南には 武庫川を挟んで池田氏の下田中城が在る。摂津の実権を池田氏から奪った荒木村重は、天正1〜2年・三田の池田氏の城をも攻め落しますが、 三田支配を目論み丹波への侵攻も視野に入れての基地として、石積・横矢掛・竪土塁…等、他の三田の城に見ない遺構は桑原城を改修して使用したものとは考えられないだろうか・・?。なによりも三木合戦時に信長に背いて別所方に付いた三田荒木氏の城を包囲した付け城と考えられる立石城が、武庫川を挟んだ南方の丘陵に在る。
桑原城主郭北端の櫓台

立石城の西に赤松有馬氏の蒲公英城、その西に位置する宅原城も消滅した釜屋城とよく似た陣城。立石城も宅原城とともに赤松氏の城を荒木氏が三田攻略の付け城とし、更に其の城塞群を落とした織田軍が・三田荒木氏攻めの付け城・陣城として神戸市北区と三田市境に立地する宅原城・立石城を改修し、蒲公英城(道場城 )等を使用して三田城・桑原城等を包囲していたものか?。


下田中城(田中城!!)  xxx 145m   三田市下田中字城内(遺構なし)

立石城の北山裾、正面に桑原城(大浪山城)のある大浪山を望む武庫川右岸(R176号線・広瀬橋の東約400m)の神明寺 (曹洞宗)・神明神社附近に下田中城が有ったと推定されています。武庫川は昭和50年代に 河川大改修されて神明寺や神明神社を祀る集落の北を流れていますが、以前は大きく蛇行して下田中付近も神明寺や新明神社の直ぐ南側を囲う様に、一端は南側の山裾に達して現況の武庫川へ流れて天然の水濠となっていました。其の河川跡は農道となって寺と神社南を縫って付け替えられて 僅かに其の跡を留める旧福知山線(坂鶴鉄道 )廃線へ延びていきます。
神明寺から神明神社を望む 【この間付近が推定地】

下田中城は神明寺の東・新明神社西に位置した字名「城の内」の田圃:畑地に郭を置いた方形館であった可能性が高いとされています。永正4年(1507)香西元長等による細川政元暗殺に始まる細川一族の後目相続による内紛では細川澄之の自害により澄元と高国の争いとなり攝津の武将の多くが高国方に付くなか、澄元に味方した池田城主(大阪府池田市)池田貞正が永正 5年(1508)高国方の攻撃と池田正盛の高国方への寝返りで池田城は落城し貞正は切腹し正盛が城主となった。
神明寺南側の旧武庫川河川跡と推定地

下田中城(田中城!!)は北畑重政の居城だったとされますが 永正年間(1504〜1521)の北畑氏の動行・城史不詳。 永正16年 (1519)阿波から態勢を立て直して三好之長が細川澄元を奉じて上洛し
兵庫に上陸。澄元に呼応した貞正の嫡子 ・池田三郎五郎(後の久宗・信正)が有馬郡【松山庄の一部・福嶋(有馬富士公園付近 ?)を領して入部していたらしい!】で挙兵し池田城を奪回しますが、この時先陣を務めるべく布陣したのが下田中の城だとされ有馬氏も澄元方にあったと推測されます。高国方は河原林正頼(鷹尾城瓦林城越水城主)・池田民部丞・塩川孫太郎等は、池田城落城の際・逃げ延びていた 池田三郎五郎が拠る下田中城に夜襲を掛けます。しかし事前に此の事を知って待ち受け返り討ちにする。
武庫川(下田中橋)側から神明寺南へ回込む旧武庫川跡を望む


この功により池田三郎五郎は澄元より豊島郡を与えられ、弾正忠に叙されたと「細川両家記」にあります。永禄年間(1558-70)には 池田勝俊が居城していますが詳細未調査。その後・再び北畑氏に復帰したようですが元亀・天正初期に織田信長方として台頭してきた伊丹城主:荒木村重が、池田氏に代わって実権を握り天正元年(1573)信長から 「摂津守」の官位を受け、摂津からは播磨と丹波の口となる三田地方の横領をもくろむ村重の攻撃を受け滅亡したといわれます・・・。

(三田市史 参考)


大原城・大原千ヶ坂城・大原天神ノ尾城
大原城(お姫山城 ・烏ガ森城・小原城・福島城)
 城山 168m  三田市大原字堀切

JR三田駅と新三田駅の中程 、南西に延びてきた低い尾根の末端がR176号線 【摂津三田から丹波へ通じる街道 】直ぐ側まで延びてきた三田工業団地手前の大原地区から青源寺への標識を見て 右折すると田圃の向こうに見える竹林の丘陵が大原城です。丘の上部に社が見え、直ぐ先には民家が有る比高わずか
大原邸・大原居館跡!!?

15m程・うっかり通り過ぎてしまいそうな民家の東の高みも気になり近寄ってみます。三田の城はニュータウン辺りの下井沢城 ・溝口城・稲田城か、此方の市街地側に大原千ケ坂城・大原天神ノ尾城・杉ケ丘城を探しているのですが‥?未だ位置未確認。 調査され縄張り図もある大原城へ向かう。
大原城:左の竹薮に主郭・Uノ丸・民家と圃場の三ノ丸跡?

大原地区は平安・鎌倉・室町時代を通じ摂関家の領地として、 鎌倉時代の文永年中(1264-75)紀伊国近衛家の公卿で藤原上野守 宗隆が大原村・川除村を所領とする 在地豪族として来住して大原の里に住み、姓を大原と変え大原城(小原城・お姫山城)を築き、当領地を開発した城主(藤原)大原上野守宗隆
畑地・民家で途切れるが東に三ノ丸?と続く

先祖とする居館跡か?、長い黒塀に囲まれた豪壮な旧お屋敷(一代前も料亭だったという築 100年!?)の内部を改装した特別仕様の店で、悠々の時を越えての庭園を眺めながらのレストランとして利用されています。 大原城近くに残されている重厚・壮大な大原邸が、その下屋敷跡だったとも思えそうですが、
主郭東の堀切側の石塔群と大土塁

隣接する大歳神社背後の丘陵端にある大原天神ノ尾遺跡(城か?)が大原城主の下屋敷か隠居所だったのかもたのかも知れません!!?。室町時代末期には大原勘介・大原掃部助らが城主だったか!天正年間(1573〜92)初期:摂津三田方面に触手を伸ばしてきた織田信長の家臣 ・荒木村重(伊丹城主)と村重に付いた山崎左馬之介に攻撃されて落城。
大原城・本郭と東郭を分断する堀切 H15.4.09

敗れた大原氏は播磨地方へ落ちていったともいわれます。姫山神社が建つ主郭は西南へ低い土塁と礎石が残ります。 東南側には3m近い大土塁となり其の上部 が当城の最高地点(168m)です。土塁は東から北へと主郭を取り囲みますが一挙に低くなり 4〜50cm程の真東の土塁には 8〜10個程の石仏・石塔が集められています。此処から切岸を降りると竹林の中の大堀切が南北に曲輪を分けているが、 北へ抜ける堀底道は後世に掘り下げられた作業通路か?。
主郭西南端の櫓台土塁跡?

主郭と東の副郭(二ノ丸?)は土塁が開く主郭東端の石仏群のある付近から 木橋で繋がっていたとも考えられています。副郭(二ノ丸?)も主郭同様の広い平坦地形だが、雑木藪の中、土塁の残欠部が一分残るだけ ?・東部は切開かれた果樹園跡・・?。東郭の南面西側には高さ70cm‐1m程の低土塁の残欠が残り、南外側に開くコの字形状の箇所もある?が、全体が竹林の中。
大原城東郭:南西にコの字状屈曲部をもつ土塁

近世に手が入って?地形が改変されたものか。現状では姫山神社を祀る主郭と 堀切を挟む東郭(副郭・二ノ丸)の二郭構成が城域ですが、削平された畑地 ・民家の平坦地が6‐70m続く民家の南面と 東続きは一段と高くなった田圃地が民家を囲む。外観からも城域は三ノ丸(屋敷跡か?)へと延ばしていたと思われる地形。主郭部の西下にも数段の曲輪跡が確認出来ますが、ネットが張られて進入禁止です。
大手の西側曲輪と土塁

鹿も猪も居ない筈ですので対人間除けなので遠慮しますが、 そうでなくても畑地か果樹園にでもなっているのか遺構状態は 壊滅的かも知れません。主郭から西面を切岸下の帯曲輪と其の下 (此処も切岸高い) を民家裏手側の大手門まで下ってみた。 主郭の南と東にL字に明瞭な土塁が残ります。南西の櫓台はやや不明瞭です。主郭部の西面の高い切岸を帯曲輪に降りると、
大原城主郭西:高い切岸と枡形土塁で護る大手口

二段の広い曲輪がS字状に民家裏手の先端部にかけて続く。此の二段で形成され ・背後を高い切岸で前面(西側)を土塁で囲う曲輪に見えた。…が城史の詳細も不明の地方領主の小さな城にしては、 最下段曲輪から狭まった土塁の切れ間抜ける大手口の”食違い土塁虎口”を入る(木戸門跡か?)と、西側の分厚い土塁沿い(特に西南端土塁は高く幅広く櫓台跡か?・
大原城主郭西 :正面から左手土塁沿いに折れる大手枡形土塁

丹波街道を目前に監視出来る)に南に折れ北へ斜上する帯曲輪を経て主郭に入るが、 兵庫県埋蔵文化財保護(行政地区)遺跡分布図の 備考欄には遺構として”枡形”が挙げられているので、下二段の曲輪で・枡形土塁虎口が残されている例のようで、関西圏でも少ない?貴重な遺構です。
(三田市史 参考)

大原・千ヶ坂城  219m  三田市大原

大原城には大原のお姫様伝説があり、其の姫を祀ったのが大原城主郭に鎮まる姫山神社です。主郭・東郭(二ノ丸)・三ノ丸 ?(民家背後の圃場)から、 さらに尾根続きの東方には大原氏の菩提寺:松養山青原寺(曹洞宗)があり国道筋から僅か 500m程の境内からはウッデイタウンをはじめ三田盆地の眺望が拡がります。貴志城主のもとに嫁いだ大原城主大原(藤原)上野守宗隆の一人娘は、不図した事から離縁となり戻されますが、 程なくして父とも死別。
大原氏の菩提寺:青原寺

父の菩提を 弔うため写経したと伝わる大般若経600巻【実際のところは鎌倉中期:文永7年(1270)・鎌倉末期の元享2年(1322)・南北朝期の応安5年 (1372)・室町時代中庸の永正8年(1511)等に跨る600巻から成り若干の欠巻もある】と宗隆の念持仏 「十一面千手観世音菩薩像」(室町時代の作造らしい…)が安置されている 松養山青原寺大原氏の菩提寺!!)が大原城から 東に延びる舌状台地に在る。
広大な平坦地形に時々藪地が空ける曲輪遺構?

青原寺から 東へは低丘陵上に続く起伏も少ない緩斜な藪尾根の端は高台の友ヶ丘住宅街に接して消え、そのまま少し東へ下るとR176号「三輪交差点」から志手原へ北上する県道37号線の城山運動公園近くに出る。城山の名が残る運動公園周辺には建武年間 (1334-36)大和国松山(桜井市 ?)より三田市川除に三輪神社の宮方代官として来住し三輪町周辺を領した松山弾正が築いた茶臼山城(松山城)が在った。大原・千ヶ谷城へは青原寺の東側:北上に貯水池・
大原千ヶ坂城の低土塁線

南側に数段ある 畑地の間から東の丘陵へ上っていく作業道があり、侵入ルートとしては判り易いが、大原から青原寺へ入らず ・友ヶ丘住宅街へ向かうバス道を辿ると直ぐ車道南下に谷ヶ所池・丘陵側の墓地背後を斜上する山道から 直接丘陵上に出た。 比高10m足らず。雑木藪の中だが尾根上は駄々っ広い平坦地形が、時々?低い起伏を伴い車道と 粗平行に東へ延びてゆく。広大な尾根上の平坦部は曲輪を段差や堀・
大原千ヶ坂城の低土塁線

土塁で仕切り分けされていないので、城址か?・畑地跡なのか?判断できないが、車道側の南は激急斜面。辛うじて浅い谷側の北端沿いに 低いが長い土塁線が延びている。小谷を挟む西北方には天神ノ尾城があり大原城の東背後に在って、三城が粗三角形状の其々が頂点に位置して呼応した大原城の城砦群なのか?。幅広い尾根筋を何処まで進めば …?城域に東端が何処なのか?決めかねて途中で引返した。井戸跡も有る様だが発見できなかった。



「大原のお姫様」
 大原城内の姫山神社にまつわる伝説

文永の(1264-73)頃大原の里に住む大原上野守宗隆には、それは美しいお姫さんがおりました。 大きくなるにつれて益々美しさが際立って家来達もうっとりと眺めるばかり…。お姫様の話は武庫川を挟んで川向こう貴志の里の豪族 ・貴志五郎四郎の耳にも入り、うちの長男にうってつけではないか・・背が高く美男で武芸に も優れている。「是非 我が息子の嫁にもらい受けたいが…」「貴志氏のご子息は立派なお方。娘も承知するだろう 」貴志の豪族に嫁入りすることになり、
大原城(左端に主郭・正面の東郭(二ノ丸))

持参した田圃 「姫田」は三町歩 (約三ヘクタール)もあったという。初めのうちは仲睦まじく、大原と貴志の里人も以前に増して仲良くなるほどでしたが、不とした事から夫婦の仲が次第に不和となり、姫様は大原へ返される事になり、 持参した「姫田」も戻されましたが大原の田になったからには貴志の水は貰えないので同情した大原の里人は三田川 (武庫川)の底に管を通して大原から水を送るようにしました。此れが「姫田の送り水」の始まりだということです。不幸な出来事は 両里人の和をも持ち去ったようで、 それ以後仲も悪くなっていきました。
畑地・民家を挟んだ東側も城続きの三ノ丸?

大原に帰って間もなく父が歿し、 世の儚さに打ちひしがれている姫の様子に、菩提寺・青原寺の和尚が仏の道を説き慰めます。少しずつ気を取り直し父の菩提の為、大般若経六百巻の写経を始めますが、力尽き亡くなってしまい、村人は姫の死を悼み、 父の大原城主郭に社を建て姫の霊を慰めました。其処が姫山神社で、此の森には沢山の烏が夕方になると集まってくるので 「烏の森」とも呼ばれ【入り日射す 朝日輝くウコン三つ葉の木の下に 烏が三羽に縄三把 困った時に 掘り起こして再興せよ】…と埋蔵金伝説も残り、姫山神社伝説にもPARTUがありました。
大原城(東郭より青源寺・千ヶ坂城方面

戦国時代・大原のお姫様は東野上城(城ヶ岡城・岡山城)城主 ・赤松氏の長男と恋に落ち夫として迎えます。岡山城側では不埒者として勘当していたが或る日・勘当を許すので一度城に帰るよう勧められ姫が止めるのをなだめて城に向かいますが、騙し討ちで殺されてしまい姫も子供を道連れに 自害してしまいます。



大原天神ノ尾城
  xxx Ca180m  三田市大原字天神ノ尾

大原城に近い大歳神社の背後に在る城跡は山道もあり・薮漕ぎすることもなく立ち寄れる。 武庫川左岸沿いに走る R176号線新三田駅前交差点を過ぎると、大原城を左側(北)直近に見る大原交差点手前に、大歳神社の 案内標識と鳥居を鳥居を潜って直進する狭い車道の突き当たり・大歳神社が大原天神ノ尾城の取付き点です。大歳神社は永録3年(1560)の再建で、現存する本殿は ・棟札から江戸時代前期の貞享4年(1687)大原の氏子等の 浄財寄進により改修されている。
大原大歳神社の黒木鳥居

柱上斗挟出組や軒支輪 ・木鼻等の彫物に室町末期の優れた様式を残しており県指定重要文化財となっています。私には社殿と同様に・樹皮をつけたままの 古式の黒木鳥居を遺す事に興味を覚えますが‥。大原地区・東北背後の尾根続きは次第に高さを増しているが、尾根先端部に人工的に手が入っていると思われる平坦地形が見られ、
大歳神社背後に続く土塁沿いの登城?道

現状のみからでは 城であると断定するには、其の性格等が不明で困難であると云う。 遺構部分には現在土地所有者により不動尊が祀られていると云われ、宗教施設に伴う遺構の可能性も指摘されており、三田市史には城としてではなく「大原天神ノ尾遺跡」として載せてある。遺構は背後の尾根続きを堀切と大土塁を築いて 一線を区画している様に見え、此の堀切・大土塁で囲われた尾根下部の西南側一帯が居館としてなら 主郭部と思えます。
主郭の北に続く緩斜な尾根上にも櫓台状土壇?

尾根筋上部は:堀切道から尾根筋へ現状では土塁・曲輪の切岸等により進行を阻む様な弊害もなく、其のなな山道が尾根筋東端沿いに続く。山道の西側には緩斜面の登り、北郭の曲輪群とも思える平坦地形も30m程。此の曲輪群最高所 ?に8X10m程の櫓台状土壇!?を見るが、緩斜面の登り尾根は更に延び・平坦地形も見かけるが途中で引き返す。
主郭尾根側を囲う土塁と堀切(北側尾根筋から)

加東市・加西市・阪神(摂津)・三田市の広い 平野部を持つ地域では、築上目的が領内・街道監視か、知らせ(通信)の砦か!!?把握していないと、無駄な低丘陵の縦走だけで 徒労に終わることも多い!!。此の土塁・堀切北側の曲輪?等を城遺構とするには 不明確な部分も多い。堀切・土塁を含めた下部の遺構だけを主郭とした、単郭の城砦と考える方が無難な様ですが、そう考えると 南から東面沿いの通路は、
主郭尾根側を囲う土塁と堀切(東南端から)

民家上から個人墓?や 祠を祀る小場から木戸か虎口状を抜けて、帯曲輪に入り、曲輪切岸下から東急斜面沿いに細く急な通路(虎口)を経て、大土塁 ・堀切沿いまでは 城の縄張りらしいが、主郭北上の尾根上に出る。西の大歳神社裏からの広い山道は山中の貯水池手前から右手上に延び、城域側に高い数段の切岸高い曲輪を乗せているように見える。
南面の虎口?から主郭を左右に囲う帯曲輪?に入る

山道は短い竪堀状の溝と、 主郭の間から主郭北側の尾根にのり、 東から堀切を抜けてきた山道と合流する。何れにしても主郭背後の北側に廻られると土塁の上等からは、狙い撃ちされると逃げ場もなく不利な主郭の位置。簡単に簡単に廻られる事で居館・山城の遺構としては不可解に思えるところです。堀切から1〜2m幅の大土塁が西〜北面を囲い、 4〜5m低い(北側は高低差 5〜7m程は有りそう!?)i位置から南・西方へ15〜20u規模の曲輪状の平坦地がある。
尾根上から東面を囲う土塁と 粗れる主郭内部

内部は削平があまい傾斜面なのか?、低い段差で2〜3区画されているのか?不明ですが、北東側には土塁を背にして・ほんの少し高い部分がある。崩れ埋もれているが本丸に該当する区画の様です。東西に走る土塁上部も東端のコーナーは広く櫓台設置も可能な部分。 西面・南面は急傾斜で竹薮に落ち込む切岸加工されているような 一画をつくる。
背後の北側尾根側土塁から主郭と大歳神社上部の西郭部?(右手)

西北部に大歳神社 (約50m程で神社に降り立つ)からの山道が登ってきており、主郭へは入らず背後の尾根上に延びている。大原城から東への丘陵続きに大原氏の菩提寺:松養山青源寺があり、その東方位置に、遺構も不確かな 平坦尾根上に大原千ケ坂城(未訪)が在り、天神ノ尾遺構とともに大原城守備・警固の城砦関連施設とは思われます。土塁・空堀状遺構だけで城砦とは思えませんが、古代〜近世にかけて市史等に一切現れない宗教施設が 在ったとも思われず!!?。発掘調査報告を待つまでは「遺跡」の名称が妥当かも。

貴志城 (XX城) 169m   三田市貴志字坂ノ下  H15.9.20

三田盆地の武庫川右岸・三田工業団地近くの丘陵上(ウッデイタウンが拡がる台地)には釜屋 城(開発で壊滅)や五良谷城、貴志城が有りました。JR新三田の 西方・貴志の御霊神社(下記の夜泣き石参照)や慶安寺が建ち田園の拡がる長閑な丘陵の北端に貴志城があり、 削平地や空掘と土塁が残っています。
貴志城と奈良山(点名:貴志)・鏑射山〜光明寺コース途中の枝尾根から

姫山神社に纏わる大原城のお姫様と近くの貴志城主・貴志五郎四郎の息子との「大原のお姫様」の話もあって此処に紹介…。西上方のニュータウンすずかけ台から,細く深い山谷川が武庫川に合流する地点の東に延びる台地の上に 貴志氏の菩提寺の慶安寺があり館城が有ったと考えられていますが、伝承等が無く城史は不明です。暦応2年(1339)淡河の石峰寺城三津田城等の合戦には赤松則祐、河原三郎等北朝方に従軍したが貴志五郎四郎義氏の 弟次郎左衛門吉行の討死で、
民家上の曲輪??は曲輪Tと堀切に接する

深く意を農事に注ぎ日照りが続くと直ぐ水の枯れるこの地に、谷を堰止めて二つの大きな溜池を造らせ多くの田畑を開拓して住民の豊饒を図ります。水に困る事も無くなった村人が恩を忘れないようにと義茂・光栄夫婦の徳を称え「五郎四郎池」「御内儀(おなぎ)池」と呼ばれたが、周辺は墓地や寺・住宅地等で改変が進み、池や釜屋城もニュータウンの開発・小学校の建設で消滅してしまったよう?…。南北朝期・貴志の豪族で五郎四郎義氏の祖先・貴志義茂も 村人を大事にして尊敬されていた人物です。義茂は家来や村の主だった者を連れ鎌倉の源頼朝に仕えました。

W字形の張出しを持つ土塁

子孫の五郎四郎も建武5年(暦応元年/延元3年1338)香下寺の戦いでは北朝で参戦し武功をたてている。「平崎麓の戦い」で奮戦した道場町の唐崎城立石城訪城の際・事前に気付いていれば立ち寄れたかも…。五郎四郎は翌・建武6年(暦応2年1339)淡河方面での参戦 (先述)で弟次郎左衛門吉行の討死等が原因の一か?「大原のお姫様」伝説が本当なら鎌倉幕府の家臣の貴志氏と近衛家の公卿の家臣・大原氏の縁談話しも関係したのか…等はわからないが、なんらかの変化があったようで楠木正行の金剛山
貴志公民館端・堀跡?側に立つ「貴志五郎<四郎?が埋もれる>」碑

挙兵に一族挙げて参戦し吉野の南朝方について楠木正成一族の正儀等と共に、最後まで北朝方と戦い正平10年(1355)討死します。慶安寺の先にある御霊神社の駐車場から北方の山谷川へ下り、城域西端から荒れた竹藪の中の空堀から1曲輪を形成していた小墓地に出て田圃や民家の点在する 貴志集落の台地上部に出ます。武庫川に並行して走る県道141号と山谷川に挟まれた貴志城のある台地の最東北の突端部附近が主要曲輪部分で、僅かに此の周辺にのみ遺構の曲輪・堀切・土塁が遺る。
石碑と五輪塔を祀る居館の土塁跡(貴志公民館)

私有地の奥にあり民家の主人が裏手の山の草刈で遺構を発見され、三田市教育委員会に報告され調査されたようだが、発掘調査まではされていないようです。 伝承が少なく貴志城が釜屋城と混在されているようで情報等はますます希薄になっているようです。大木のある民家脇の一角に残土があり石碑と小さな五輪塔が数基埋まるように祀られています。貴志氏の居館跡に僅かに残る土塁跡のようですが此処 ・貴志公民館の改築で大方は消滅したらしい。
貴志五郎四郎の菩提寺・慶安寺

土塁は公民館や薬師堂を囲う形で残っていたらしく、その片鱗は 東側の田圃へ出る境界にも見られますが、貴志五坊の一寺院遺構かも知れない?。田圃の先は深い竹薮に遮られて踏み込むには二の足を踏む状況で、貴志城の本郭部に続き、急な高い崖となって山谷川へ落ち込みます。村人を大事にし人々からも 尊敬されていた五郎四郎義氏は、貴志の慈豊山慶安寺(曹洞宗・本尊十一面観世音菩薩)に祀られ寺に参った人々は、位牌堂の正面に祀られている五郎四郎の位牌に手を合わせ、それから自分の家の仏に御参りするとさえいわれるほど。
竹薮中の堀跡を抜けると水田(田圃)に出た

山号ともなっている慶安寺は慶安2年(1649)の創建:貴志五郎四郎の戒名(慈豊院殿貴山玄郎居士)の菩提寺です。県指定重要文化財の十六善神画像三幅対や大般若経600巻等の仏画・典籍等寺宝は、鎌倉御家人・貴志一族の檀那寺・万松山長楽寺が廃寺になった後:塔頭の金性密院から受け継がれたものです。
(三田市観光協会・貴志区 現地案内板参考)


釜屋城 221m  三田市すずかけ台2丁目(貴志字奈カリ与)    消滅・遺構なし・・!!

この城は上記・貴志城に比定された記述を見かけますが、築城は出土遺物から16世紀後半と考えられる山城で単郭の周囲を1m前後の低い土塁で囲み東の尾根続きを堀切で遮断するが、 他には周囲に明確な堀切はなく、曲輪内の造成は行なわれずも生活の痕跡も認められない等の特徴から陣城などの臨時的な遺構だったと考えられています。貴志集落背後の丘陵部にあって三田盆地の眺望良く、 北東の谷の開口部に五良谷城、南東の平地に稲田城、南東斜面には弥生時代の高地性集落・奈カリ与遺跡が立地する釜屋城址ですが、 三田ニュータウン建設に伴う調査で発見され、調査後すずかけ台小学校の建設で遺構は消滅したようです。(三田市史 参考)



三田のお話
「くわばら・くわばら」
 欣勝寺に伝わる雨を呼ぶ"大蛇の頭"と雷除"くわばら"伝説・全国の"桑原"という地名には雷除けの言葉「クワバラ・クワバラ」のお話があるんですね・・
此処・三田市の大宋山欣勝寺(曹洞宗)は、天禄年間(970-973)清和天皇より分かれた源満仲の開基を伝える真言宗の道場で桑原山欣浄寺と称された古刹でした。 寺宝には大きな口を開けた大蛇の頭が厨子に納められており、大蛇の頭を厨子から出すと大雨が降るといわれ、旱魃には雨乞いに大蛇の頭を出すと奇瑞 (その不思議な兆候!!)があると伝えられています。
T 大蛇の頭
鳥羽天皇の天仁期 (1108-1110)密教の大徳絶海上人が寺に居住していたある夜、庭先に佇む女性がいて毎夜同じ時刻に同じ容姿で現れるので、上人はその理由を尋ねると「私は此の裏山の池に棲むもので、その昔・丹波の山奥の百姓の一人娘として生まれ ました。年頃になり養子を迎えましたが夫は放蕩三昧で家にも帰らぬようになりました。私はその仕打ちに怒り逆上し池に身を投げましたが、生き変わり死に代わり・遂にけだもの(大蛇)の世界にまで堕ち地獄の苦を受ける身になりました。どうか此の苦悩をお救い下さい」と涙ながらに話します。上人は「自分が悪かった事を心底より懺悔して我を捨てよ」と諭します。

桑原の里と桑原城

上人に感謝し来世は必ず人間界にと生を誓い、本態の大蛇の姿を現わし山へ帰り安心して特脱 (三界の生死の苦界から脱して悟りの道に向かう)往生していた。その頭骨は寺に留め安置したのが寺宝の大蛇の頭です。安貞2年(1228)道元禅師(永平寺の開祖)が 28歳で支那留学から帰朝、保養で有馬温泉に入湯の折り桑原に立ち寄り、この山が宋の不老山に似ているところから大宋山欣勝寺と命名・曹洞宗に改宗されました。桑原城主の菩提寺でも有ります。
U くわばら・桑原
建長年間(1249-56)の頃の話。或る日・大雷雨があって井戸の中に何かが落ちた。済用禅師は袈裟をもって井戸を覆って、 その井戸底にうごめく物に「お前は誰・何処から来たのか」と訊ねると「私は雷神の使いのものです。何とかして人間界に生を替えたいと苦悩していたが禅師の法話で輪廻転生の教えを聞き、雷雨に乗って報恩の為に参りました。 雷の災難から現世の人々を守りたいのです」と言い誓いの証文を書いたと言い伝えられます。それからというもの桑原に雷は落ちなくなったという欣勝寺の雷除の物語です。雷鳴には必ず「くわばら桑原 」と唱えて線香を焚いたり、蚊帳の中に入り子供が裸になれば「雷がおへそを取りに来る」と腹掛をさせられた事を思い出す人など、このHPを御覧の殆んどの皆さんは無いと思いますが…三田の民話での紹介では、 雷の子が古井戸に落ちて外へ出られず「助けてくれ〜」と大声で叫んだが和尚さんは、井戸に蓋をしてこらしめます。雷の子は、「桑原へは二度と雷を落とさないので助けてくれ〜」と言うので助けてやった。 雷の親は和尚さんに感謝し、雷達を集めて「これからは欣勝寺や桑原には絶対に落としてはならないぞ」ときつく戒め・それ以来、欣勝寺や桑原に雷が落ちたことがないといいます。



「御霊神社と 夜啼き石」  三田市貴志字美内

御霊神社は貴志神社または貴志宮と呼ばれ祭神に大彦命・伊弉諾尊を祀るが鎌倉時代に相模国の鎌倉御霊社より鎌倉權五郎景政の神霊を勧進合祀して御霊神社と改称されています。
御霊神社

貴志五郎四郎義氏の祖・義茂は源頼朝に仕えおり、此の地に来住の頃に勧進されたもののようです。子孫の五郎四郎は楠木正行と共に戦った南朝方の武将ですから。延文4年(1359)本殿を焼失した為、文明2年(1470)貴志惣内の浄財を集めて造営され、神仏習合の信仰を反映した彫物が有ります。殿は兵庫県下でも類例の無い正面三間・側面二間社入母屋造りで、屋根は桧皮葺きで入母屋の妻側の庇を延ばして角柱を立て向拝としている。牡丹に唐獅子・戎大黒等の透彫絵模様や、神仏習合を表したものとして向拝上に十一面観音を表わす種子(キャ)があり本殿は昭和25年(1950)国指定重要文化財になっています。
貴志のぬけ石「陰陽石」

境内の「貴志のぬけ石」二基は形状から陰陽に例えて「夫婦石」ともいわれます。陰陽石の側に変わった形の黒っぽい石があり「茶臼石」と呼ばれ「夜啼き石」といわれる伝承が残ります。関ヶ原の合戦の後、全国に名を知られた九鬼水軍が力を盛り返すのを恐れた家康によって志摩の鳥羽城主九鬼久隆が寛永10年(1633)海の無い三田に移封された際、九鬼の殿様が気に入った「茶臼石」を庭石として献上した。しかし夜も深けて辺りは物音一つしない静かな庭の方から、女のすすり泣くような声が、お殿様の寝室にまで聞こえてきます。
「夜泣き石」

空耳かと思ったが次の夜も「貴志へ帰りたい。貴志へ帰りたい」と訴える声が聞こえてくるようになった。気味悪くなった殿様は、その石をきれいに清めて、貴志の元の場所へ返させたところ、すすり泣きは聞こえなくなったという。そのことから、茶臼石のことを 「夜啼き石」と呼ぶようになったそうです。この茶臼石は酒船石であって御霊神社の祭礼に用いるお神酒は全て、清浄なこの石によって造られたものといわれています。神聖な酒船石・伝承の夜啼き石ではあっても、石面に穿かれた数多い盃状穴の痕跡は異なる強い信仰による思入れからか…?、
(御霊神社の案内パンフ 三田市観光協会 現地案内板 参考)

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