北摂・宝塚北部の山  布見ヶ岳〜布見竜王山〜天狗松/向山/大岩ヶ岳
兵庫 北攝 (五万図=広根 )
T:波豆竜王山〜布見ヶ岳〜布見竜王山〜天狗松  H14年02月23日
U:普明寺〜向山  H14年02月24日
V:光明寺〜千刈ダム〜大岩ヶ岳〜丸山湿原 H18年5月3日

大岩ヶ岳山頂は360度展望:周辺の山を同定
普明寺参道の文化財・ 普明寺の龍馬神

猪名川の一庫ダム側から三田へ抜ける県道68号川西三田線を走って、 千刈水源地に近い大原野辺りに来ると南方に二つの形の良い山が並んで見えてきます。取り立てて登行欲をかきたてるほどの山でもないが頭にテレビ中継アンテナを突き立てた天狗松と(大原野Or布見)竜王山です。この山へは、もう一つの竜王山から布見(ふみ)ヶ岳を経ての縦走計画は、 天狗松への取り付きがわからず勝手知ったる千刈水源地北端の清之瀬橋から辿る事にした。
神戸市の水甕:千刈水源地

この地一帯は平安時代以降に摂津多田源氏の祖・源満仲が治めて鎌倉時代以降の文化財が数多く残されています。これらの山だけでは時間が余るので、 ダム湖を挟む向山へも普明寺の文化財を訪ね登ってみます。千刈ダムは大正8年竣工した兵庫県市民の水瓶で、武庫川の源流部・波豆川と羽束川が流れ込む上流部は釣りの禁止となっていないので、 ブラックバスやへら鮒釣りの人気スポットとして、春〜秋の頃は釣人で賑わっていますが今の時期は殆ど人影も見ず、静かな湖畔に風が波紋を投げかけています。



T 波豆:竜王山〜布見ヶ岳〜布見:竜王山468m〜天狗松  2002年02月23日

千刈水源池東北端の清ノ瀬橋手前から東へ抜ける間道は、大原野の宝山寺側へ出るが一方通行で宝山寺側からは進入禁止で千刈ダムへの近畿自然歩道ルートです。民家の前に広場があり釣人達の車が止めてあるが、此処は私有地なので遠慮して(以前所有主?!に悔やみごとを言われた )(^^; 峠の中ほどに駐車して引き返す。清ノ瀬橋付近(AM7:45)から南への尾根は(波豆)竜王山を経て布見ヶ岳へと続いています。その尾根の取り付きは車道から直ぐ右手です。今の時期を外すと笹薮で道が隠れ取付き点を見失いがち、僅か4〜5m先から尾根道となり、よく踏まれた山道に枯れ落葉を踏む音だけが響きます。右下に湖面が広がり羽束山 ・たかつこ山・大船山の姿も見えるが、総じて展望はあまりよくないが、尾根道は明るく歩き易い巡視路です。
大原野から天狗松〜(大原野Or布見)竜王山

広場正面の道は谷沿いの道で入り口付近には、朽ち苔生したキンマ(木馬:材木や薪の切り出し運搬に使用する木橇 )を見て、深くえぐれた溝状を辿って登って行きます。寺や屋敷跡とも思えないのに竹薮の続く処もありますが、山道は布見ヶ岳と布見竜王山に続く尾根の鞍部「K865」に出ます。峠を下れば直ぐ貯水池を通って酪農センタ ・境野へと続く神戸市水道局の巡視路で千刈水源池周辺はKXXXのコンクリ標が比較的狭い間隔で続いています。斜も度を増し露岩が目立ち始めると程なく尾根の最北端のピークに到着。波豆の竜王山(Ca330m AM8:00)で山頂には朽ちかけた祠があり、以前此処を訪れた時は、祠の柱が朽ちて宙に浮いていたので落ちていた瓦の破片を柱の下にあてがったのですが今は、 その横にコンクリ製の新しい??祠が並んで祀られています。此れよりは起伏の少ない尾根筋です。展望さえ良ければ足下に水源地を、左右に北攝の山々を望む極楽尾根なのですが。荒れた砂地の明るい場所に出てくると東面に湖を隔てて、この後で登る予定の向山が緩やかな山稜を・正面には丸い頂部の布見ヶ岳が顔を出しています。左手の砂地の尾根の先には、もう一つの竜王山(大原野Or布見の)も樹間に姿を見せる。

布見竜王山への縦走は此処からです。布見ヶ岳から南への稜線の急斜面を降った為登り返さず、東側下部の貯水池目指して下ってしまったが、このザレ場「K875」の端から東に向って水道局の「Kxxx」のコンクリ標が続いています。降りきった鞍部は先程の(参考1)に着きます。ザレ場からは布見ヶ岳目指して正面へ降っていきます。登り返しの最後は少し急になりますが雑木の先に羽束山・大船山は見えています。尾根上の丸く狭布見ヶ岳山頂(4等三角点366m AM8:10)からは、さらに快適な山道が南へのびているので、つい釣られて進んで行くとドンドン下降していきます。 このまま大岩ヶ岳への縦走に切り替えようかとも思ったが次回にでもと思い留まります。かといって登り返しても目的の竜王山は谷を挟んで東の奥!!。
布見 ・竜王山からの羽束山と波豆富士(たかつこ山)

竜王山へ続く稜線目指して一旦谷へ下降、貯水池が見えるので付近から最低鞍部への踏み跡は有るだろうと 適当に藪を掻き分けて斜面を駆け下ると、案の定、水道局のコンクリ標が続く道となり「K865」の峠に着く(AM8:20)。尾根には「布見ヶ岳」・「八大竜王社へ(竜王山)」のプレートと踏み跡が有ります。低い潅木の尾根を辿りますが 「K412」標杭からは露岩の尾根が続き「天狗松」から飛んできた天狗の遊び場のような処を抜ければ、2〜3分で朽ちかけた木の小さな鳥居前に出て来ます。直ぐ上部が八大竜王社の石灯篭(文化13年<1816>建立)のある山頂で 布見・竜王山(368m AM8:48)です。祠の左裏手(南側)に階段まである山道が 尾根を降って境野集落へと続く道です。天狗松への踏み跡を見出せず (無かったかも!!)境野から貯水池を経て、竜王山と天狗松間の尾根へと続く踏み跡を見つけるため谷筋へ下り、登りなおしますが境野からの道は比較的辿りやすい道と思う。北側の清之瀬橋からの車道を経て宝山寺側へ少し降った右手現われる林道を採れば、小さな貯水池から竜王山への参道取り付き(テープ有り)がありますが、 正面に続く山道を詰めれば竜王山と天狗松の鞍部「K453」で天狗松山頂のNHK施設まで10分程 ・踏み跡は続いています。竜王山からは鳥居から降っていく参道を採ります。
天狗松山頂をバックに天狗松と妙見さん

途中からは大船山や羽束山、その前には波豆富士(たかつこ山)が小ぶりながらも尖鋒を見せてくれます。参道とは言っても今はただの山道。未舗装の細い林道が延びる貯水池の前に飛び出しますが(AM8:20)、 取付きにテープが無ければ気がつかないほどです。県道68号・線清之瀬橋から峠を越して県道33号線・宝山寺側を結ぶ間道に出てきます。千刈ダム〜宝山寺〜・・・を結ぶ近畿自然歩道の一部です。続けて水源地対岸の向山へ向います。 天狗松山頂(3等三角点 340m)にはNHK宝塚大原野中継放送所のアンテナが建ち、六甲や三田の山を飛び回った千丈寺山の天狗は近隣の此処・天狗松へも遊びに来て腰を下ろして休んだかもしれない。 その名の起こりの天狗松は枯れ木となって祠と並んでいます。半ば開かれたままの祠の中には北極星を神格化した 妙見菩薩像が鎮座しています。小さな菩薩様は能勢妙見と同じ岩に座って剣を剣をかざしています。亀に乗って剣を杖にして立っていたり、龍に乗っている妙見像もありますが、四天王等の武神とは異なり、 目は美しく澄み切って、物事の真相を見極める力を持っていて国土を守り・厄除け・諸願成就や眼病平癒に功徳があるとされています。
天狗松山頂


天狗松からはプラスチックの階段の続く雑木林の中の妙見参道を降って行くとNHKケーブル埋設XXXの標柱の建つ、小さな貯水池のある麓の田畑の道に出てくる。 直ぐ目の前が西谷の丁字辻で、古い(旧西谷村)道路元標と道標が並んで建っています。道標に彫られた多田院は此処が多田源氏の祖・源満仲によって統治され、 妙見はいま下りてきた天狗松の祠が妙見堂でもあり、西谷地域が北攝の政治・文化の街道の要所でもありました。清ノ瀬橋方面に戻るには 近畿自然歩道を千刈ダムの案内標識を見てバス道を西へ進むと宝山寺の山門前を通ります。珠光山・宝山寺は十一面観音菩薩を本尊とする真言宗のお寺です。このお寺に残る奇祭 「ケトロン(燈籠)祭り」は中世以降の念仏踊りを伝える貴重なもので、宝塚市の無形民俗文化財(昭和51年11月15日指定)になっています。8月14日の夜(お盆の前夜)に宝山寺の境内で行われる灯籠会の一種で、 疫病除けとして続けられているもので江戸時代に宝山寺の呪文が伝わらなくなって、鉦・太鼓を叩く燈籠祭りになったといい、ケトロンの名称も念仏衆の持つ鉦や太鼓の音に由来しています。 本尊へ献ずる燈籠を先頭に、ヒュー・ケー・トンの音頭で始まり山門から参道を通って本道まで念仏を唱えていきます。


U 普明寺〜向山(339m)    2002年02月24日

千刈水源地の北端には二つの川 (波豆川と羽束川)が流れ込んでおり、その中程には赤い橋(普明寺橋)が架かり、水源地を巡って千刈ダムまで近畿自然歩道が通じています。布見ヶ岳〜竜王山〜天狗松を縦走した後で西側の普明寺から向山へも登ります。向山の稜は三田・宝塚市の境界尾根で南端のダム湖畔からは神戸市との境界にもなります。普明寺橋を渡り湖畔を普明寺に向い、寺域を示す石標からは参道を登り始めて直ぐ右手・宝篋印塔への案内標柱の先に六地蔵が並んで見えます。
普明寺参道からの向山

この一角には兵庫指定文化財の 宝篋印塔と小型の五輪塔が凄然と並んでいます。その隣には宝塚市指定文化財の笠塔婆も。笠塔婆は板碑が流行りだした以前のものか !!南朝方の「正平」年号が記されているのは非常に珍しいとのことですので訪ねてみます(AM9:15)。
普明寺本堂への参道手前から霊園への道進みますが此処で白い犬と遭遇し、おとなしく見送ってくれていると気のも留めていなかったが、霊園最奥部から藪の薄い尾根筋に踏み跡らしい処を探して山道に入り進み始めると、先程見かけた白い犬が後ろから突然、私の足元を擦り抜けて駆け上がってきて先を進み始めます。しかし先導不要で直ぐに明瞭な山道となりましたが、先行する犬は私が来るのを待つている様で側まで行くと更に先へ進んで行きます。
普明寺側・近畿自然歩道から布見ヶ岳

向山山頂から先の藪道を千刈のダム湖へ降り、元の普明寺参道入り口までの周回コースに付き合ってくれます。「山を駆ける風・・」織田さんにも付き合い先導してくれたおとなしいイヌです。 落葉樹の多い雑木林は冬枯れの今の時期が最適のようです。展望の無い尾根筋を山頂まで白いイヌとは追いつ追われつのデッドヒートを繰り広げあっという間に到着してしまいます。雑木藪に囲まれた狭い向山山頂 (4等三角点 339m AM9:45)からは赤白測量ポールの先、樹間を通して羽束山頂部が望まれるだけ。山頂から南へと三田市との境界尾根には「関大」のコンクリ標柱を見受けます。羽束川沿いに新大橋空続く尾根筋は、 この辺りも関西大學の用地なのでしょうか!! しばらく続いていた稜上の道も大岩ヶ岳の姿が見えなくなってくると段々あやしくなって来て、歩きやすそうな所を拾って降って行くと千刈カントリーゴルフ場の端に出てきた。猪のように方向転換して藪の内側へ戻りつつ先へ進みます。ゴルフ場のグリーンの先には310mピークが「此方へは来ないのか !!」といわんばかりの山容を見せて突っ立っているのですが・・イヌは私の動向を伺いつつもドンドンあらぬ方向へ進んで行っては駆け戻ってきます。
向山山頂・樹間に羽束山山頂部が望まれる

藪の中に現われた荒廃した山道を辿って進むが猛烈な藪の中に消えていく。 雑木藪の中の薄い処を拾ってダム湖畔に降り続けて小道に出て来た。普明寺からの近畿自然歩道の千刈ダムに続くハイキングコースです。雑木林の中に続く道はダム湖の対岸に落葉樹の樹間を通して布見ヶ岳を望み、 大岩の横を掏り抜けて快適な散策道が続きます。普明寺も近い下丁集落(4〜5軒の民家)近くにで突然竹薮が目立ち始め平坦地に石仏も見かけます。『奉大峯山上三十三度供養 左あたご 延亨二年乙丑(1745年)八月 』と彫られた石碑が建っているのは、ダムに沈んだ集落の寺の跡だろうか。また石標は此処から愛宕社へ参代する人達の出発点ともなっていたのでしょうか。普明寺参道で我が家へ?帰るイヌを見送って普明橋へ戻ります。


V 光明寺〜千刈ダム〜大岩ヶ岳〜丸山湿原   2006年05月03日

ゴールデンウイークに入ると、例年なら向山や三尾山・鋸山近辺のヒカゲツツジも見納めで、山里や峠に見かけるシャクナゲも山では未だ少し時期が早いのかも。残るツツジの花見にでも出掛けようかと思い真っ先に思いつくのが、名所の大和葛城山ではなく此処・大岩ヶ岳です。特にツツジの目立つ処でも ・名所という訳でもないのですが・・・山行当時の思い入れが強いからでしょうか。
西のピークより大岩ヶ岳を望む

眺望の良さで人気の大岩ヶ岳への登路の多くは、JR道場駅から千刈ダムを経るコースの様ですが、 北方の布見ヶ岳から縦走し時間が有ればダム西側を普光寺を経て周回するコースも考えられます。藪尾根を丸山に出て北へ境野の牧場へ降りるか、西への明るい砂尾根を不動岩東の浄水場(配水施設?)側の橋に降りてくるコースも 以前通ったのですが、
フエンスとトンネルが続くゴルフ場内を抜ける

今回は千刈ダム下から大岩ヶ岳山頂へ・山頂からは直接南の枝尾根を降って丸山湿原から千刈ダム下へ戻るコースです。 今日のスタート地点は三田市の光明寺からです。光明寺”滝ヶ城”探しが本来の目的でしたが、城砦があったらしい・・!という情報だけで場所も定かでない、城史も不明ですが近在に有る城からは室町時代初期 :南北朝期頃の蒲公英城か桑原城関連の城砦の様なので、遺構も確認できないかも・・・結果は推察通りで成果無く・・・・・登山に切り替えます。
千刈ダム

大岩ヶ岳へはホームページ開設以前より幾度も色んなルートで歩いていながら、未だログに無かったので此処に千刈ダム〜大岩ヶ岳最短周回コースを載せておきます。光明寺へは道場駅北方にある古刹鏑射寺から鏑射山〜砂尾根の展望台からゴルフ場を光明寺へのコースを先に紹介しています。鏑射寺は南北朝期の砦跡と古戦場、光明寺付近には「三田市史」の遺構が不明な城館の欄にも記述されていないのですが、光明滝のある事から”滝ヶ城 ”という城砦があったと云い、三田市内の学生さん”ぼんくら”君に聞いて、一度一緒に光明寺から砂山の展望所までトレースした事があったのですが・・・!。
千刈ダムを眼下に向山(中央)を挟んで羽束山 ・大船山を望む

此の光明寺から「太陽と緑の道」ルート標識が立ち、 ゴルフ場敷地内を通過して(途中2箇所トンネルを潜る)「近畿自然歩道」の千刈ダム西側を 向山〜普光寺へ向う分岐標識の立つ砂防ダムが有って堰堤を対岸に渡ると普光寺方面への自然歩道。堰堤下へ降ると直ぐ湖畔に沿って 千刈ダム取水口への遊歩道です。千刈ダム下の橋を対岸に渡り水路脇の導標に沿って沢沿いに進むと、右手の谷に踏み跡やテープを見かけます。 この道が大岩ヶ岳と丸山間に入り込む谷で、明確なルートになったがまだ荒れた場所や藪・倒木が多いが流れを追って丸山湿原から、直登に近く露岩の目立つ急斜面をとって大岩ヶ岳山頂に直接登り着きます。
丸山湿原

展望が良いわけでもなく・湿原に花を期待も出来そうにないので?、 短絡の下山ルートに使用するとして道なりにダム湖の周遊道を進みます。ダム湖が足元に見えてくる明るい尾根筋に出ると手前西のピーク。大岩ヶ岳の狭い山頂よりは殆ど同じ眺望の此処で、湖の借景に拡がる羽束山や大船山・有馬富士や遠く、白髪・松尾の山々を同定しながら休息するのが良いでしょう!!。大岩ヶ岳へは鞍部へ少し降って 登り返しに現れる露岩部をワザと選んで登ると山頂に2等三角点標石が埋まり、立木に山名札の有る大岩ヶ岳(384m)に着く。阪神間からは近くて展望の良い山として知られるようで、今日も登山者は多いが狭い山頂にユックリ腰を落として休めるスペースは少ない。
大岩ヶ岳山頂

尾根通しに丸山へ・・とも思ったが犬連れの一行がコースを塞いで談笑中・犬も絶え間なく吠え立てているので気が滅入る。三角点から南への枝尾根上に良く踏まれた道が有り此れを降る。丸山湿原から谷沿いに千刈ダム下に出るルートです。 急斜面を降り丸山との鞍部に登り直す谷筋道の合流地点に道標が立つ。下降ルートは倒木も多く泥濘の為、道は荒れて踏み跡程度となるが、一本の谷筋を降る”丸山湿原”コースは、雑木林の中に湿地も続きますが利用者も増えているので 下りに迷う事は無いでしょう。



 ♪(*~ё~)  普明寺参道の文化財

慈光山・普明は阿弥陀如来を本尊とする曹洞宗のお寺で、 源満仲の第四子・頼平の開祖と伝えられ、源満仲の武勇伝・龍馬神伝説が残されています。
千手観世音菩薩を祀る摂津国三十三ヶ所・第十二番霊場でもあります。
『ながきよのやみ路をてらすこの山の慈悲の光をかねてたのまん』

宝篋印塔 総高165.7cm兵庫県重要文化財指定(昭和51年3月23日)
室町時代・応永2年(1395)建立されたもので基礎部の南面には開花した蓮を他の面には格狭間(こうざま)を彫りだしている。また塔の基段は普通一段か二段であり、三段のものは珍しいとの事です。
笠塔婆

笠塔婆 総高136.7m  宝塚市指定文化財(昭和46年11月3日)
南北朝期・正平19年(1363)両親の供養の為に子供達が建立したもので「正平」は南朝方の年号になっており、当地方が政治情勢において南朝方であったことを示す資料としても重要です。 兵庫県下の笠塔婆の中でも南朝の年号が使用されている例は此処だとの事です。

♪(*~ё~)   普明寺の龍馬神<宝塚の民話から> 

宝塚の北部波豆の里は平安時代以降、北摂の源満仲(913〜997年)が多田源氏を名乗って治めていた所領です。満仲は多田に居を構え、狩猟を好み、勇猛果敢な武将であったと云わています。多田院・現在の多田神社〔川西市〕)を創設し、そこに葬られています。木々が紅葉し果実が熟れ、山の香が漂うなかを、 若き源満仲が家来を連れて秋の野山を駆けぬけていきました。満仲は数々の手柄を立て、武勇とその名は遠く各地に知られていました。自分の領地のまつりごとにも熱心で、いつも決まった時間に巡視の馬を走らせていました。
普明寺の宝篋印塔


その日は多田の里を離れ渓流に沿って山から谷へと馬を走らせているうち、 気づくと家来とはぐれただ一人、山の奥深く迷い込んでいました。日は暮れ、あたりは薄墨を流したように、もやに包まれ始めました。しかたがないので此処で野宿としようと大木の根元に馬の鞍を降ろし、 昼の疲れでぐっすりと寝込んでいた満仲は、女の声で目を覚ましました。この付近に住む龍女で「大沼に凶暴な大蛇が住みついて困っている。武勇の誉れ高い源満仲様とお見受けし、お願いがございます」と大蛇退治の要請を受けます。 そのためには「どうぞ私の馬をお使い下さい」と言うなりスッと姿を消してしまいました。目を凝らして見ると闇の中に一頭の立派な馬が立っていました。何とその馬は長い尾を持ち、 二本の角を持った有馬馬(=龍馬)という珍しい馬で、満仲の意のままに走り、身も軽やかで宙を駆けることも出来、満仲はたいそうこの馬が気に入り大蛇を退治する勇気がわいて来ました。 馬に一鞭当て、大沼の上に来た満仲は水面を見すえて弓をしぼるや、沼の中央をめがけヒュッと矢を放ちます。 沼がパッと赤く染まって大木のような大蛇が、ものすごい水しぶきと共に宙に舞い上がりました。右の目をめがけて矢を放ち、続けざまに左の目をも射抜きました。有馬馬が大蛇の頭の上を飛び越えた瞬間、満仲は喉仏をめがけて、 もう一本の矢を放ちました。とどめに、頭上をめがけて力いっぱいに太刀を振り降ろしました。 さすがの大蛇も、悲鳴を上げて沼の底に沈んでいきました。
大原野(布見)・竜王山(八大龍王社)

何処にいたのか龍女が現れ「お礼に、この龍馬を差し上げましょう。 この摂津の国を守るため、御役立て下さい」というなり何処かへ消えてしまいました。心配しながら満仲の帰りを待ちわびていた家来達は、龍馬を連れて帰って来た満仲を見て驚きかつ喜びました。満仲の話を聞き、 益々すばらしい自分達の主人に誇りを覚えました。満仲はその後、龍馬を大切にし、領内の視察もこれまで以上に熱心に行い、政事(まつりごと)にも心をくだきましたので、波豆の里は実りの多い平和な里として栄えました。 満仲の武勇伝も彼の武将としての人柄と共に、広く人々に語り継がれていきました。しかし、満仲もよるとしなみには勝てず、84歳でこの世を去りました。家臣達は主人を失った龍馬を昔住んでいたといわれる多田の聖山に放ちましたが、 長い尾をなびかせ木々の間を駈けめぐるのは不便であろうと尾を束ね、短くしてやりました。ところが・あれほど強くすばやかった龍馬は、いとも簡単に野生の馬に食い殺されてしまったのです。家臣達は龍馬の亡骸(なきがら)を、 滝の落ちる美しい場所に丁重に葬り塚を建てました。その塚を「駒塚」と呼び、近くに落ちる滝を「駒が滝」と言うようになったそうです。

それから500年ほどの年月がすぎたころのことです。 波豆の普明寺の住職に、玉岩和尚という人がいました。 ある夜のこと、異様に思われるほどの風が吹き荒れ、寺の見回りをしていた和尚は駒塚のある山の方で不思議な光が射しているのを見て 「これは何かのお告げかも知れない」と、光を求めて山中に入り、駒塚の前に来ると供養のため、お経を唱え始めると大粒の雨が降り始め、またたく間に大地を叩きつけるような激しい雨に変わりました。 玉岩和尚は、負けじとばかり大地を踏みしめ、お経を唱え続けました。すると突然、馬のいな鳴きにも似た落雷と共に、駒塚が真っ二つに割れ、龍馬の首が飛び出しました。「この馬の首は、満仲公の武伝に伝えられた大蛇退治の際の、 龍馬の首に違いない。雲を呼び、嵐を起こして天に昇ろうとしたのであろう」と寺に持ち帰り丁寧にとむらいました。そして、龍馬の首を本堂にお祀りし、里の安泰を祈願しました。その翌年のこと、 波豆の里はひどい旱魃にみまわれ此れ以上、雨が降らなければ作物は全滅してしまうところです。「あれほどの雷雨の中から飛び出した龍馬が普明寺にある。雨乞いをしてみよう」と里の人達はすがる思いで普明寺に行き、 雨乞いの呪文を唱えました。すると、たちまち雲が湧き、大粒の雨が降り出し、枯れていた田畑は潤い、青々と生きかえりました。「これぞまさしく八大龍王の使いと言われた雨を呼ぶ龍馬神に違いない」と喜び合い、 龍馬神に対する信仰を篤くし、里の宝にしたそうです。この龍馬神の霊験はあらたかで、その後、雨乞いの神事にもしばしば使われ、近年では昭和13年と23年の旱魃にも行われ、必ず雨が降り村を救ったそうです。 <宝塚の民話から>

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