三田ニュータウン編 五良谷城/風呂ヶ谷城〜点名:広野/内神城
兵庫 阪神 (五万図=三田)
近畿の山城: 五良谷城 風呂ヶ谷城 内神城(オノヤ城)
 平方城 中西山城  溝口城 中尾城 有鼻遺跡
風呂ヶ谷城主郭? H18

三田のお話風呂ヶ谷の狐嫁ヶ渕

一帯が分譲地造成開発中の風呂ヶ谷城は平成15年頃より数回訪れながら、各郭部の遺構を 充分観察出来なかったが、平成18年秋・中央の主郭?(大堀切の北に今も藪に埋もれた曲輪が主郭)と南郭の藪が単に下刈とも 思えないほど切り開かれて土塁が姿を現していた。東50m程にある有鼻遺跡の様に公園として整備されるのかも知れません。城名も城主も不明の城ですが新興住宅地内の東端部にある遺構は古城ゾーンとして残されています。


貴志〜五良谷城/けやき台〜風呂ヶ谷城〜点名:広野/内神城(城山)  2003.09.27

三田市街地はニュータウンの造成開発が進み、 どんどん拓けてゆく。多くの歴史・文化遺産が眠っているが市の調査後・雑木藪に覆われ、埋もれ・または造成により市民にも 余り知られないまま、三田盆地や丘陵部に点在したが消滅してしまった釜谷城や古墳群もある様ですね!!。
五良谷城遠望

遺構の調査や保存のあり方を考えている余裕も無いほど開発のペースは速い。そんな状況下で現状維持に不安を感じ、せめて藪の中に埋る山城の遺構をこの目で見届けておきたい気持で、街づくりと公園の建設が始まった一角に残る 風呂ヶ谷五良谷城を廻ってみます。一部分だけでも明確な曲輪・土塁・堀切の遺構残る 貴志城と桑原城へも再訪しました。R176号とは武庫川を挟んで並走する県道141号側の貴志城を再訪した後、学校建設で遺構が消滅したという釜屋城と
風呂ヶ谷城(分譲地の奥の林)眺望

五良谷城のある丘陵を間近に望みながら、 先ず五良谷城址へ向かい、わかりにくいニュータウン内の車道をグルグル巡りながら風呂ヶ谷城内神城へ寄った後、 大原城の側を抜けて桑原城へも立寄る。

五良谷城 風呂ヶ谷城内神城 平方城 中西山城
溝口城 中尾城 西野上城(四ッ塚城)(未訪)


五良谷城  180m 三田市貴志字五良谷

五良谷城は貴志城の直ぐ側、慶安寺の南約400m程のところです。 すずかけ台から東へ舌状に延びる低い丘陵の末端附近にあって、城域は五基の古墳が点在する五良谷古墳群に立地しています。 登路を探して北面の裾を五郎谷に沿って進むが見つからず少し戻って藪の中に突入して北端の五号墳附近に出た。北への細い尾根は直ぐ5〜6mの断崖状となり東側は民家!!
五良谷城・南端の古墳に囲まれた附近の池

此処が城域の末端のようです。 元の古墳に引き返して西への尾根を辿ってみる。4号古墳からは広い平坦地となり 外周を低い土塁が囲んでいるようです。東端は浅い横堀風の窪地が延びていて 曲輪のコーナー部や低い土塁の状態も良く観察出来ます。南端には二つの墳丘があって、
櫓台跡!!の墳丘から主郭部を囲む土塁

城域内側に小さな窪地があって水を湛えているので池や井戸の跡だったのかも…。二基の墳丘から 1m程の土塁が3号墳へと続き主郭部をコの字に囲んでいます。 3号墳は櫓台として利用されたようで、低い土塁線上に折れを持つ点や主郭部周囲の広い平坦地には自然地形を残す点等からも織豊期の陣城と考えられるようです。



風呂ヶ谷城   206m  三田市けやき台6丁目(下井沢字風呂ヶ谷)

武庫川沿いから下井沢へ内神川沿いに少し走って吉川方面へ、平谷川に沿いに南へ進み 因幡山正行寺(浄土真宗)前まで来る。 内神川が武庫川へ流れ出る丘陵部北末端部の西斜面裾は公園化された。其の上方に点名:広野(4等三角点 211m)がある。南へ続く尾根はそのまま・けやき台六丁目として一帯はニュータウン建設用地・都市基盤整備公団のウッデイタウン”けやき台公園”建設が進行中です。
風呂ヶ谷城・中央郭から北郭側堀切(左・西面に横堀が廻る!!)

この建設ゾーンに風呂ヶ谷城も取り込まれ平成18年春の完成予定で進められている。三角点峰広野 周辺はアスレチックやローラ滑り台等遊戯のゾーンや 芝生の多目的広場有鼻古墳遺跡を保全する古代の丘ゾーンの南側丘陵一帯には弥生時代の高地性集落の有鼻遺跡がある。其の谷を隔てた低丘陵尾根の先端部に位置して風呂ヶ谷城が 昭和40年代の遺跡分布調査で発見された。

武庫川枝流(内神川)から風呂ヶ谷城(中央)遠望


北攝ニュータウン建設により展望の良い主郭部の土塁だけを保全しての山城ゾーンとなるようです。大堀切は散策道に南に続く二つの曲輪や堀切等の遺構は 東入口ゾーンの駐車場や広場・休憩所となって消滅するかも知れません。木々を伐採すれば北や東方に拡がる三田盆地の素晴らしい展望が拡がる事は確実なので…。 風呂ヶ谷城・中央郭東側間の堀切

民話[風呂ヶ谷の狐]には此処・下井沢に 風呂ヶ谷と呼ばれる所があり、 傷を負った白狐が 水たまりに入ってるのを見た百姓が翌日、同じ水たまりに行ってみると、なにやら暖かく手を入れてみるとお湯だった。 驚いて附近を鍬で掘ってみると其処は温泉が湧き出していた。それ以来、湯に浸かるのが村人達の楽しみになったが白ぎつねの姿を見かけることはなかった。
風呂ヶ谷城・東先端大土塁(曲輪跡か?)からの堀切

公園建設工事中なので車での侵入が出来ず!!「けやき台6丁目」バス停からは造成中の最奥の北東角に南西面が削られ露出している丘陵部見えるが、 仕方なく引き返して、だだっ広い造成中台地への傾斜を登り最高所の点名:広野(4等三角点)への尾根を見送り、東入口ゾーンの左コーナへ進み、 北へ落ち込む横堀状の谷を隔てて雑木藪で鬱蒼と覆われた南北に延びる細い尾根筋に向ってみます。風呂ヶ谷城は谷を隔てて三角点峰・広根の東に南北に派生する枝尾根上に三つの曲輪を三つの堀切で遮断する型の山城です。
風呂ヶ谷城・中央郭東堀切側のL字状土塁

北端の一番広い曲輪が主郭と思われ、左右には自然地形に近く狭い不整地の曲輪が有り、幅広い削り残しを土塁道としてか?曲輪の中程から稜線上の中央部を北端に延びています。 主郭南端は堀切で遮断され、周囲は覗き込んでも下部がよく見えない程で特に東側は断崖状の急斜面(藪で覆われ 良く観察出来なかっただけなのかも?)。
公園駐車場からの北郭(主郭?)横堀は中央郭間の堀切に繋がる

南へ続く二つの曲輪間を掘切(幅約5m・高さ約3m)で遮断された三曲輪から成り、南へはもう一つの曲輪が有ったのかも知れないが尾根の南端は大土塁状・崖下に宅地用地が続き …プッっりと削られ南前方には 遮るものの無い大パノラマが拡がり、此処も市民の憩いの場となるのでしょうか?。北方に武庫川に流れ出る相野川・青野川から、 東方に三田盆地から内神川流域を経て西方へは此れから向う内神城が在る。
主郭部北側は稜線部に削り残しを土塁道とし東に小曲輪が


美嚢郡(三木市)吉川・加東郡(加東市)東条町へと東播磨へ、西方には北播磨や丹波に通じる 要衝の入口にあっては軍事的にも重要な位置にあることは、武庫川対岸に下井沢城、南隣の丘陵に中西山城・平方城等。周辺に多くの城が築かれたことでもわかります。築城時期や城主は不明だが室町時代前期〜中期頃の城で、堀の改修等を加えながら戦国期にまで存続していた可能性も考えられます。
公園駐車場から武庫川沿い中央にJR架橋・遠く大船山・羽束山

【再訪H18.6.25】西面の谷寄りに 公園駐車場が出来ており「風呂ヶ谷城址」案内板が建てられ谷底(横堀!?)へ降りる階段があって底は石が敷かれた溝状の歩道になっています。城域の山裾は宅地内車道となり、散策休憩用のベンチ等が設置されているが、 遺構は今のところ整地等の手は入っておらず、旧状を維持したまま藪の中に残されていました。
(現地風呂ヶ谷城址説明板 三田市史等を参考)


内神城(オノヤ城)
 城山 211m  三田市中内神字蛇谷岡ノ勝

風呂ヶ谷城の近くにある内神城は三田市内でも一番よく遺構が残っているらしい。 何時も帰省時に通る神戸電鉄公園都市線道沿いの県道720号と、東条湖と広野を結ぶ県道316号線の「上内神交差点」北東側の低丘陵上(丘)が内神城。 周辺に路上駐車スペースは見当たらず?、
内神川から城址を望む

此処へは城址の丘陵西北の「淡路風車(かぜ)の丘」の駐車場から県道720号沿いに坂を下り「上内神交差点」手前から丘陵側へ作業道を斜上するか、県道316号線側から民家の作業倉庫から丘陵側へ50m程直進する農道から左手へ斜上する踏跡を辿ることになるが、 どちらも直ぐに藪地になり目視による遺構表面確認は困難。しかし僅か比高20mに充たない城の防備には前面を段曲輪群で・残る三方は高さ2m以上!!の二重空切と二重の大土塁を廻した、 方形の主郭にも土塁が残存する遺構状況は良好です。城域の丘陵北上部に位置する「淡路風車(かぜ)の丘」と、
内神城・本郭南側土塁

三田物流センタ間の車道を東へと、緩やかな道を登って行くと田圃と民家の前を通って工事現場?で行き止りですが、途中にKDDIの中継無線塔が建っています。この平坦な丘陵上も五良谷城や、けやき台の貴志・風呂ヶ谷城跡同様に 古墳群が存在するが中世以降の遺跡の確認はされていないようです。また此処をワザワザ淡路風車(かぜ)の丘と呼び三田市のHPにも見い出せないが兵庫淡路からの開拓者により池や田畑が開墾されてきたからでしょうか!!。此処から尾根通しに踏跡が続くが猛烈な藪地で・城域手前の高みで消えてしまい、追い返されて一端引き返し県道316号線との交差点附近から山へ入ります。
内神城主郭から東面の空堀と土塁

池に出て谷筋に続く踏み跡を追ってみるが深入りし過ぎると城域を通り越してしまう。城山と呼ばれ"岡ノ勝"の通称でも呼ばれる城址だが比高2‐30mで展望もなく藪の中の城山に人が訪れる形跡は殆んどないようです。 しかし本郭部の周囲を取り囲む大きく深い横堀と、幅広く高く長い土塁には圧倒される。ただ横堀内を埋める倒木が、そのスケールを覆い隠しているようです。 山稜北の頂にある広い主郭南と東を取囲む様に二の丸・三の丸〜五の丸の曲輪を備え全体を深さ2〜4m・幅5〜8mの
内神城主郭部南(三ノ丸?)南側空堀土塁と曲輪内土塁による虎口状

横堀(空掘)を二重に構えて此れ等の曲輪をぐるりと取巻く縄張りは、大規模な土木工事が施された山城としては旧有馬郡内で最も完備されたもので、 高い切岸や折れを伴った横堀や土塁・主郭の張り出しは"横矢掛"を意識した遺構と考えられています。主郭は南西に高さ約1m・幅広の土塁を廻らす30m四方の一番広い曲輪で、東下方の谷筋に池があり"水の手"としては充分の館城!!?。 遺構の特徴からは16世紀前半頃の状況を留め、また一貫したプランで一時期に普請完成させたものと考えられ長期間・何代にもわたって城が機能し改修された痕跡はない様です。
内神城・主郭西側横堀

文明5年(1473)頃の内神には堀江氏がいたが現状の遺構とは年代が合わない為、 永禄年間(1558)以前に内上荘の地頭職にあったものが堀江氏の城を当時の遺構を留めないほどに改築したか新たに築城したと思われます。内上荘は永正5年(1508)には山城寶鏡寺恵聖院領となり年貢を恵聖院に納めていました。永禄2年 (1559)三好長慶が河内国の安見氏を攻めた時(赤松)有馬村秀が有馬郡衆を率いて三好方に与して戦ったが、村秀がこの戦いで戦死したという史料はないが以降村秀は登場しない。
内神城・二の丸南側横堀(土塁・堀其底道?)

その村秀も永禄6年(1563)の軍記には内神城で山崎右馬助に滅ぼされた…!!。 永禄年間(1558-70)頃は有馬四郎が在城していたとも。戦国の動乱期には内神城の直ぐ南西の平野、内神川沿いで烈しい戦いがあり多くの武将が戦死し、兵火では宝亀10年(779)創建を伝える古刹・天薬寺という大寺等が焼失し廃寺となっているようですが、 内神城との関わりは勿論、内神城主や城史が何も伝えられていません。
(三田市史 古代・中世資料参考)

平方城
  214m  三田市けやき台3丁目(貴志字平方)
 
武庫川を見下ろし西野上の県道黒石三田線 ・般若山光円寺(浄土真宗本願寺派)の西側丘陵に、単郭の平方城があって西南に台地が広がる尾根続きを堀切と土塁で遮断した規模の小さな城があって、
日切地蔵尊堂の裏山・平方城

北摂三田ニュータウン建設の為発掘調査された後に消滅しました。曲輪内は平坦だが 建物等施設の遺構は検出されなかったようです。光円寺裏手から「けやき台」へ続く車道(ゲートあり通行止です)は深い南面の谷を隔てて延びている。
けやき台3丁目東から平方城


谷の入口附近に溜池があり、その下に「日切地蔵尊」を祀る小さなお堂が建っており、前には数基の五輪塔が残されていました。此の城の発掘調査では出土遺物から平安〜鎌倉時代初頭のもののみで 戦国時代のものは無かったそうです。


中西山城     214m     三田市けやき台3丁目(西野上字中西山)
西野上城(四ッ塚城・千貝城!!?)< (未確認)  三田市西野上

嫁ヶ渕の交差点を過ぎ三田浄水場を少し南下した西野上バス停の先光円寺(浄土真宗本願寺派)と天満宮があります。天満宮背後の丘稜上に中西山城があり、僅か150m程南の尾根続きに平方城がありました。 北端には中西山城があり此処が西野上城(四ッ塚城)ではなかったかと思われます。けやき台3丁目の宅地周辺は開発予定地で 更地が多く此処から直接・西山城へ行けず、迷路のような住宅地内を抜けて台地の末端部分に推定地を探していると ドングリの山公園に着きます。竹藪の急斜面が北と東側を囲っているが丘稜が続く西側は住宅地となり遺構の痕跡は何も確認出来ませんが、 公園内は二箇所小高い部分もあって、かつての古墳跡か! 土塁跡ではなかったかと思わせる高みがあります。下画像の先端部付近が単郭の城イメージ!!?ですが。
公園入口のドングリを持った子供のキャラ

貴志城の北方に西野上城址があって、小山の藪の中に「五輪さん」と呼ばれる墓があったと云い、 此れが光円寺裏「日切地蔵尊」を祀る小さなお堂の前にある五輪塔のことか?【平方城】??そして西野上の南の山頂には四つの古墳を取り囲んで空掘で尾根続きを遮断した城は【中西城】の事と思われ平方城と隣接した中西城 ・二つの城が四ッ塚城(西野上城)の事ではなかったかと思われてきました。一つの城としては規模の小さい城ですが、 千貝氏の千貝城として丘陵上を繋いだ二つの単郭の城が 一つの城として機能していたとしたら「東野上城」の赤松藤兵衛や「伊丹城」の荒木村重と戦った合戦模様も納得出来ます。
ドングリの山公園の古墳跡か土塁跡??
 
(千貝城は所在不明・何の根拠もなく仮説…、 その西野上城(四ッ塚城)は千貝伊勢守の居城と伝えられる。城主・干貝伊勢守は武勇に優れた侍で弘治元年(1555)有岡城(伊丹)の荒木村重が 三田の城を次々と落として西野上城へも迫ってきますが此れを良く防ぎ、 村重が攻めあぐねている時父の訃報を聞き、兵をまとめて伊丹へ引き上げますが二度と野上城を攻めなかったといわれます。村重もてこずった程の干貝伊勢守も、後に播磨の赤松藤兵衛(東野上城主)に攻められ討死し落城。
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「嫁ヶ渕」伝説の山城…>>??
東野上城(城ヶ岡城・岡山城)は室町末期に赤松氏一族の赤松藤兵衛吉広(東条町の 岩屋城から移って東野上に築城)が在城していたが 永禄7年(1564)2月に山崎左馬之介恒政・車瀬政右衛門・幸田半左衛門の軍に攻められ落城しています。文中の野上城は西野上にあった四ッ塚城か、けやき台3丁目にあった中西山城・僅か 100m程南にあった平方城のことかも知れません。 三田市史には四ッ塚城の所在 ・記載が無く「兵庫の城紀行」に平方城・中西山城の名が記載されていません。「郷土の城ものがたり」兵庫県学校厚生会では西野上城(四ッ塚城 )として紹介されるが 先の二つの城(平方城・中西山城)城のリストにもないので、 ニュータウン建設で発掘調査後消滅した平方城を四ッ塚砦、嫁ヶ渕に近い武庫川右岸の丘陵に有った中西山城が四ッ塚城 (西野上城 )だったと思います…!!??此の西野上城 (四ッ塚城)と東野上城が武庫川を挟んで対峙し戦っていたんでしょうか…!!



溝口城
(殿垣遺跡) 191m  三田市溝口字御城・下相野字倉ヶ坂・字殿垣

武庫川支流の相野川沿いを走る県道(黒石三田線)沿い・風呂ヶ谷城を望むJR広野駅前を過ぎた溝口交差点の南西側集落付近に溝口城がある。 此処はR176号線長坂中学校前交差点から真直ぐ南下する車道。相野川を渡り県道92号に合流し、次の「溝口」交差点を右折するとで「テクノパーク前」・舞鶴自動車道の三田西インターへ直進する。
溝口城北東端部:田圃の畦道の北と東側は崖状

溝口交差点から目的の溝口城へは左(西側)工業団地内の車道に入って北の突き当り。堀状の凹部車道を下り右へカーブする細い道。しかし左へ下って緩やかに拡がる谷向に見える西の丘陵上のほうが城館かと思えるような様相を見せています。 テクノパーク交差点から工業団地を北へと緩やかに延び出し、 その先端部が相野川に落ち込む溝口交差点南西側へと県道側から集落に向かうと、広い自然地形を城域に取り込んだ溝口城の様子が見えてきます。
溝口城本郭部:左手正面奥に進むと工業団地北端に出る

高い段差をもって続く田圃・民家が並ぶ其の背後にある藪尾根は北面から西面にかけて急斜面となり、南側に続く工業団地の西面を高い崖状斜面を見せています。 東面は此処に立たなければ・とてもこんな谷がある事を想像も出来ない程、深く切れ込んだ断崖状の谷が形成されて自然の要害となっています。城域の防備として問題なのは南面。高低差のない工業団地最北端部の道路に沿う藪のフエンス内東側は深く急な谷に落ち込んでいくようです。 正面は谷に沿い・城域北側の家臣屋敷と思える広い曲輪跡か?数段の田圃に出るが其の西側の雑木藪一帯が溝口城主郭部の様です。 尾根筋と城域を分ける様に長い横堀が東から丘陵西端まで延びており、内側には高い土塁が廻っています。途中・北へ延びる横堀(高さ約1.5m・深さ約1m・幅2.5〜3m)が 主郭と副郭を分けている様です。
溝口城:土塁と横堀

幅広く高い土塁(幅約4〜5.5m・高さ1.5m程)の大きさに比して副郭部の曲輪は狭い?様です。北への横堀を西へ続く主郭と副郭の曲輪内は 共に自然地形の緩やかな傾斜が拡がっているだけの様に見えます。城域の周囲は大きく改変されているようだが主・副から成る二つの方形郭は明確なので縄張りに沿って堀切と土塁の外周築造後に曲輪内整備を進めていく途中、造りかけ・未整地にままとなった臨戦的なものか?。 伝承による溝口氏なら丹羽長秀や秀吉に仕えた僅かの期間?阪神・摂津にいたかもしれない時期のものとも考えられますが…? 三田市史に記されていたと思える?縄張り図等資料を手元に用意して確認していないので遺構説明も優柔不断になってしまい曲輪との全体位置関係等が確認出来ないままで要領を得ず判り辛くて申し訳ありません。
溝口城主郭北側:湿田の一部を除き土塁が北面を囲む


緩斜面を北へ下れば竹薮に変わった処で最上部の湿田に出るが、この湿田は西北端部の一角を除いて北側一面から東角にかけては下草と雑木藪で確認できない高い土塁が囲っているよう。此の曲輪(湿田)に入る東南角部が虎口の様にも思えます。 しかし城域の南は工業団地が迫り東から北にかけての田畑、西には宅地に囲まれて、遺構改変は著しく本来の城域の規模や遺構確認は難しくなっています。広大な城域スケールと遺構を残す溝口城の城史は不詳で承久3年(1221)承久の変の後:摂津守護の逸見氏が居城し 天正年間(1574-92)清和源氏の出である溝口秀勝が先祖の地に城を築いて居城したと云われる。まさか越後国新発田藩の初代藩主となった溝口伯耆守秀勝とは関係ないのでしょうね…?。 溝口氏は甲斐源氏の逸見氏の庶流と云われ、尾張国中島郡溝口の出とされます。
溝口城:郭:副郭を分ける横堀

此処に登場の秀勝は丹羽長秀の家臣で天正9年(1581)頃・織田信長の直臣として取り立てられ5000石で若狭高浜城主となったが 本能寺の変後は再び丹羽長秀の家臣となり天正11年(1583)賤ヶ岳の戦い(信長の後継者争いとなった羽柴秀吉VS柴田勝家)後、 長秀から4万4000石の所領を与えられて加賀国大聖寺城主となります。天正13年(1585)丹羽長秀が没して後:豊臣秀吉の家臣となり翌年には秀吉から「秀」の一字を与えられ秀勝と名乗ります。慶長3年(1598)秀吉より6万石の所領を得て 【家康にも仕え最後に10万石を領して!!】越後国新発田城を再興した人物です。秀吉の家臣として関西:摂津三田に居城し活躍した時代背景的には津符合する秀勝だが、果たして同一人物の溝口秀勝だったか?。
(三田市史 古代・中世資料 フリー百科「ウィキペディア」を参考)


中尾城   xxx 245m  三田市下相野字中尾

JR相野駅前から東へ直ぐ(約50m程)溝口・下内神・広野駅前方面へと三田市街地に進む県道92号と分岐し てテクノパーク前交差点の出る幅狭い車道が通じる。三田西IC出入り口に近く、直進すれば 内神城の側を抜けウッデイタウンから神戸電鉄公園都市線と並走して嶋ヶ谷交差点で三田駅・横山・長尾方面に分岐する。
左丘陵・その先の丘陵(中尾城がある)に挟まれ自動車道が走る

地図なしで城址までの案内は圃場が拡がるなか説明しづらいが護国寺手前を貯水池の堰堤が見える西上に直進する。此の貯水池側より先・車での通行は出来ないが近畿自動車道舞鶴線建設に伴う発掘調査で発見された中尾城。 自動車道線高架を抜けると、も一つの貯水池から此の二つの貯水池に挟まれる丘陵部の自動車道沿い北側から城域に入る。城域とはいっても30mx50m程の小規模な山城です。 調査は城域全体の五分の四を対象に実施され、出土遺物から16世紀前半頃と考えられている。
主郭西の大土塁

調査後遺構は消滅したとされ、其の位置図からも遺構の存在を絶望視・訪城を諦めていた…が 自動車道と横並びの位置に:ほぼ縄張り図通りの遺構が残されていた。土塁側に主郭・副郭が並び、西側下段は崩れ・削平も曖昧ながら帯曲輪・東少し高み(自動車道側)に土塁かと思える幅狭い腰曲輪二つと主・副郭が田字形で構成。腰曲輪を割って田の字の中心へ 東から入る土塁残欠状が虎口…?。 全体に灌木・下草藪に覆われ目視での確認は難しい状況だが…。
主郭大土塁西の堀切上部(中央の道路公団境界標)は土橋付

発掘調査書からは礎石建物・鉄製の鍋・槍先や銅銭・備前焼壷・瀬戸や美濃焼の天目茶碗・中国産染付皿等海外の陶磁器も混じり、篠山今田に近く今田焼(立杭焼)の鉢や甕・壷塁も多く、小規模な山城ながら出土量が豊富で・顕著な生活痕を残す点で城内で恒常的な生活が行なわれたと…。ただ県立考古博物館(平成26年)資料によると中尾城は民衆が戦乱を避けての逃げ込み籠城した…とあるが領民が今田焼き陶器類以外に、 此れほどの高価?な家財道具を所持していたか?・
主郭大土塁西の土橋堀切(南側から)

領民らの「逃げの城」とも思えず・三木方面から八上城攻略の籠城戦の付城への兵糧輸送や備蓄基地としてつなぎの城の機能が担つ。…城郭研究家T氏からも「つなぎの城」としての条件は「近道・敵からは目立たない・縄張り簡素な臨時の城」との考察に合致する!!。三田方面の広域を遠望出来るが麓の広野 ・相野地域は正面にR176四つ辻交差点や近くの工場付近までが見渡せるが監視重要方面ではなさそう。
中尾跨道橋から中尾城域

中尾城大土塁の南:堀切り土橋を渡り南尾根筋から直ぐ東へ延びる尾根筋に入り、舞鶴自動車道に架かる中尾跨道橋を渡ると尾根続き南部には幅広い平坦地形が拡がる。兵の駐屯地・輸送兵糧の備蓄基地としての機能もありそう。 三木からは北谷川沿い吉川町新田まで入り込み、上相野へ北上せず東へ(ルート不明?)抜ける間道があれば中尾城近くに出る。現状ルートだと吉川町畑枝当たりからテクノパーク(三田西IC付近)に出て下相野へと北上すれば中尾城への大手筋ともなる東を通る。
跨道橋を渡ると直ぐ拡がる広い平坦地形

八上波多野氏救援に向かった 三木別所方が横川谷?経由で小野原・不来坂へ進軍。 古市付近で交戦?で別所方が撤退したのが天正5年【先のブログ「名無し木」の蛇足を参】翌天正6年には摂津三田に付城が4ヶ所築かれた。油井口?へは横川谷経由に築かれた 「つなぎの城」の一つが中尾城か?。横川谷が吉川町を流れる北谷川の事なら此のルートで中尾城直近を通る築城位置としても符号する。古文書(光秀書状)には休夢齋【小寺千太夫高友・甥の孝高(黒田官兵衛)に従い・
貯水池から相野地区眺望:正面左「四ツ辻」

羽柴秀吉御伽衆として仕え・三木合戦などで活躍】の名があり、付城の築城や兵輌物資輸送にも関わりがあったのかも?。 上記「県立考古博物館(平成26年)資料」にも「黒田官兵衛…が」表題か副題?になっていたようだが…中尾城は三木合戦に三木城包囲の秀吉軍から八上城攻め明智方へ、黒田官兵衛・勘兵衛の甥:小寺高友等?による援軍や、 物資輸送・備蓄の後方支援「つなぎの城」だったか?。

有鼻遺跡   三田市けやき台

風呂ヶ谷城に寄るべく三田市の都市基盤整備公団ウッデイタウン”けやき台”の建設が進む住宅地の北端に広場・展望高台、 そして風呂ヶ谷城址が続きます。
有鼻2号墳から風呂ヶ谷城(前方の森)

其の中央部の芝生の高台が宅地開発と人口増加が進むニュータウン一帯や北摂の展望台だが、其の中央に有る円形の台地が有鼻遺跡の2号墳でした。有鼻遺跡は三田盆地の北西端の標高190〜210mの丘陵上に立地しています。 三田市内でも最大規模の弥生時代の高地性集落地だったところ。その主丘陵稜線上の北端に有鼻1号墳、その南(現在地)に有鼻2号墳が在ります。
有鼻2号墳から南方の吉川町方面

2号墳は長軸約18m・短軸約 16m・墳丘の高さは約1.2mを測る円墳です。 発掘調査で須恵器が出土しています。築造時期は6世紀後半(西暦550〜600年頃)で、此の地の有力豪族の墓と推測されています。
(現地:有鼻遺跡案内板 参考)
 

民話:嫁ヶ渕

三田市には丹波境界の藍に 丁子渕・青野川の「蛇藍」・そして井沢にも「嫁ヶ渕」という大きな渕に其々伝説がある。武庫川沿い県道141号の三田浄水場付近:武庫川と青野川が合流する地点に嫁ヶ渕があり、 突き出した岩上に残る足形の窪みが幾つかの伝説を伝える。今は河川改修記念碑と役行者像のある祠があるが切立つ断崖上に位置して露岩も目立つ。
「嫁ヶ渕」 PARTT
その昔:井沢村に、それは仲の良い若夫婦が住んでいました。朝早くから暗くなるまで働き親に対しても1つの不平不満も言わず、いつも笑顔で仕事に精をだしていましたが、姑は仲の良い姿を見るにつけ、 ねたましく息子と話す機会も少なくなり淋しく思うようになり2人を離せば息子は以前のように母を慕ってくれるだろうと思い嫁に意地悪くあたり、 つまらぬ用事ばかりを言いつけて嫁いびりをしておりました。それでも嫁は姑の言い付けを素直に聞き、いつも笑顔を絶やさず暮らしていました。日照り続きで、ようやく雨が降り田植えが出来るようになったが、父と息子は急な用事で町に出かけます。
「嫁ヶ淵」

姑は男達の留守を幸いに「川沿いにある田を今日中に植えないとなあ。すまないけれど、おまえ一人になってしまったが植えてくれないか」嫁は言われるままに家を出ました。お嫁さんは一度も手を休めず 必死の思いで植えたが、広い田は植えても植えても終わりません。陽は暮れてもまだ半分しか植わらない。「この田を植え終わらず帰ると何と言われるかわからない」常日頃非情な姑の仕打ちを思い出し途方にくれていつしか、川に突き出た岩の上に立っておりました。 川は一ときの雨で水かさが増し、ゴーゴーと流れ、崖下の渕に当たってぶきみな音をたてております「ドブーン」吸い込まれるように嫁は身を投げてしまいました。夜も遅くなって父と息子は帰ってきましたが迎えに出たのは姑だけ「田から帰ってきたと思ったが 未だだったかねえ」息子は早速探しに行きました。田は半分以上も植えてあったが嫁さんの姿はありません。空が少し明るくなりかけた頃、村人達も手分けして探してくれました。川に突き出た大きな岩に人の足型がついているという。 どうやら嫁の残していったものだろうということになり村人達は小さな祠を建て、お嫁さんの霊を慰めることにしました。それ以来この渕を誰言うとなく「嫁が渕」と呼ぶようになったということです。
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「嫁ヶ渕」 PARTU
戦国動乱の室町時代・播磨・三草山城(加東郡)の合戦て城が落ち、一人娘を連れた武士が丹波に落ち延びてきました。 疲れた上に持病が出て 如何する事も出来ず道端で身を横たえていると、そこへ通りかかった浪人風の若者がその武士を介抱してくれましたが、身につけている鎧や槍に目がくらみ殺した上で、それらを奪ってしまったのです。村人たちは哀れに思い武士をねんごろに葬り、 娘は農家に引き取られ、その家で可愛がられ、よくしてもらって朗らかさを取り戻します。それでも、目の前で殺された父の姿が思い或る日、とうとう暇乞いをして旅に出ました。一方・浪人風の若者は内神まで来ており、百姓家に世話になり仕官の機会を狙っていました。 その頃・野上城の干貝伊勢守が戦に備えて兵を集めていたので、山岡と名乗る浪人はそこで召し抱えられることになりました。間もなく、千貝伊勢守と播州の赤松藤兵衛の間で一戦を交えることになり、山岡は数人の敵を討ちとりました。 山岡の功名は世話していた農家・又兵衛にとっても家名を高めるものと喜び、床の間に山岡から貰い受けた槍を飾っていました。

さて。敵を探し求めて旅に出た娘は丹波中を探し求めたが手懸かりも得られないまま季節働きとして三田にやってきて、 又兵衛に雇われる事となり、この家の床の間に飾られている父の槍を見つけます。又兵衛の自慢話から仇が誰であるか判り、この家で待てば仇と会えるとひたすら働きます。そうとは知らない主人は、よく働く娘に感心し息子の嫁になるよう勧められ嫁となりました。 千貝氏の城は赤松氏に落とされて敵と狙う山岡も自害して果てます。その報を受けた又兵衛は我子が亡くなったかのように悲しみ、なきがらを持ち帰り盛大な法要が営まれました。娘は嫁となって苦しみにも耐えてきたのは、 幼い頃から父の無念を晴らしたい一念があったからで、仇が死んでしまった事と、その位牌に手を合わさなければならない苦痛から、生きているよりも…と思いつめ「嫁が渕」へと身を投げてしまったという。
(三田の民話 三田市教育委員会 参考)
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