一帯が分譲地造成開発中の風呂ヶ谷城は平成15年頃より数回訪れながら、各郭部の遺構を 充分観察出来なかったが、平成18年秋・中央の主郭?(大堀切の北に今も藪に埋もれた曲輪が主郭)と南郭の藪が単に下刈とも
思えないほど切り開かれて土塁が姿を現していた。東50m程にある有鼻遺跡の様に公園として整備されるのかも知れません。城名も城主も不明の城ですが新興住宅地内の東端部にある遺構は古城ゾーンとして残されています。
市の調査後・雑木藪に覆われ、埋もれ・または造成により市民にも
余り知られないまま、三田盆地や丘陵部に点在したが消滅してしまった釜谷城や古墳群もある様ですね!!。
遺構の調査や保存のあり方を考えている余裕も無いほど開発のペースは速い。そんな状況下で現状維持に不安を感じ、せめて藪の中に埋る山城の遺構をこの目で見届けておきたい気持で、街づくりと公園の建設が始まった一角に残る
や堀切等の遺構は
東入口ゾーンの駐車場や広場・休憩所となって消滅するかも知れません。木々を伐採すれば北や東方に拡がる三田盆地の素晴らしい展望が拡がる事は確実なので…。
武庫川支流の相野川沿いを走る県道(黒石三田線)沿い・風呂ヶ谷城を望むJR広野駅前を過ぎた溝口交差
点の南西側集落付近に
溝口城がある。
此処はR176号線長坂中学校前交差点から真直ぐ南下する車道。相野川を渡り県道92号に合流し、次の「溝口」交差点を右折するとで「テクノパーク前」・舞鶴自動車道の三田西インターへ直進する。
溝口城北東端部:田圃の畦道の北と東側は崖状
溝口交差点から目的の溝口城へは左(西側)工業団地内の車道に入って北の突き当り。堀状の凹部車道を下り右へカーブする細い道。しかし左へ下って緩やかに拡がる谷向に見える西の丘陵上のほうが城館かと思えるような様相を見せています。
テクノパーク交差点から工業団地
を北へと緩やかに延び出し、
その先端部が相野川に落ち込む溝口交差点南西側へと県道側から集落に向かうと、広い自然地形を城域に取り込んだ溝口城の様子が見えてきます。
溝口城本郭部:左手正面奥に進むと工業団地北端に出る
高い段差をもって続く田圃・民家が並ぶ其の背後にある藪尾根は北面から西面にかけて急斜面となり、南側に続く工業団地の西面を高い崖状斜面を見せています。
東面は此処に立たなければ・とてもこんな谷がある事を想像も出来ない程、深く切れ込んだ断崖状の谷が形成されて自然の要害となっています。城域の防備として問題なのは南面。高低差のない工業団地最北端部の道路に沿う藪のフエンス内東側は深く急な谷に落ち込んでいくようです。
正面は谷に沿い・城域北側の家臣屋敷と思える広い曲輪跡か?
数段の田圃に出るが其の西側の雑木藪一帯が溝口城主郭部の様です。
尾根筋と城域を分ける様に長い横堀が東から丘陵西端まで延びており、内側には高い土塁が廻っています。途中・北へ延びる横堀(高さ約1.5m・深さ約1m・幅2.5〜3m)が 主郭と副郭を分けている様です。
溝口城:土塁と横堀 幅広く高い土塁(幅約4〜5.5m・高さ1.5m程)の大きさに比して副郭部の曲輪は狭い?様です。北への横堀を西へ続く主郭と副郭の曲輪内は
共に自然地形の緩やかな傾斜が拡がっているだけの様に見えます。城域の周囲は大きく改変されているようだが主・副から成る二つの方形郭は明確なので縄張りに沿って堀切と土塁の外周築造後に曲輪内整備を進めていく途中、造りかけ・未整地にままとなった臨戦的なものか?。
伝承による溝口氏なら丹羽長秀や秀吉に仕えた僅かの期間?阪神・
摂津にいたかもしれない時期のものとも考えられますが…?
三田市史に記されていたと思える?縄張り図等資料を手元に用意して確認していないので遺構説明も優柔不断になってしまい曲輪との全体位置関係等が確認出来ないままで要領を得ず判り辛くて申し訳ありません。
溝口城主郭北側:湿田の一部を除き土塁が北面を囲む
緩斜面を北へ下れば竹薮に変わった処で最上部の湿田に出るが、この湿田は西北端部の一角を除いて北側一面から東角にかけては下草と雑木藪で確認できない高い土塁が囲っているよう。此の曲輪(湿田)に入る東南角部が虎口の様にも思えます。
しかし城域の南は工業団地が迫り東から北にかけての田畑、西には宅地に囲まれて、遺構改変は著しく本来の城域の規模や遺構確認は難しくなっています。広大な城域スケールと遺構を残す溝口城の城史は不詳で承久3年(1221)承久の変の後:摂津守護の逸見氏が居城し
天正年間(1574-92)清和源氏
の出である
溝口秀勝が先祖の地に城を築いて居城したと云われる。まさか越後国新発田藩の初代藩主となった溝口伯耆守秀勝とは関係ないのでしょうね…?。
溝口氏は甲斐源氏の逸見氏の庶流と云われ、尾張国中島郡溝口の出とされます。
溝口城:郭:副郭を分ける横堀
此処に登場の秀勝は丹羽長秀の家臣で天正9年(1581)頃・織田信長の直臣として取り立てられ5000石で若狭高浜城主となったが 本能寺の変後は再び丹羽長秀の家臣となり天正11年(1583)賤ヶ岳の戦い(信長の後継者争いとなった羽柴秀吉VS柴田勝家)後、
長秀から4万4000石の所領を与えられて加賀国大聖寺城主となります。天正13年(1585)丹羽長秀が没して後:豊臣秀吉の家臣となり翌年には秀吉から「秀」の一字を与えられ秀勝と名乗ります。慶長3年(1598)秀吉より6万石の所領を得て
【家康にも仕え最後に10万石を領して!!】越後国新発田城を再興した人物です。秀吉の家臣として関西:摂津三田に居城し活躍した時代背景的には津符合する秀勝だが、果たして同一人物の溝口秀勝だったか?。
(三田市史 古代・中世資料 フリー百科「ウィキペディア」を参考) 中尾城
xxx 245m 三田市下相野字中尾 JR相野駅前から東へ直ぐ(約50m程)
溝口・下内神・広野駅前方面へと三田市街地に進む県道92号と分岐し
てテクノパーク前交差点の出る幅狭い車道が通じる。三田西IC出入り口に近く、直進すれば
内神城の側を抜けウッデイタウンから神戸電鉄公園都市線と並走して嶋ヶ谷交差点で三田駅・横山・長尾方面に分岐する。
左丘陵・その先の丘陵(中尾城がある)に挟まれ自動車道が走る
地図なしで城址までの案内は圃場が拡がるなか説明しづらいが護国寺手前を貯水池の堰堤が見える西上に直進する。此の貯水池側より先・車での通行は出来ないが近畿自動車道舞鶴線建設に伴う発掘調査で発見された
中尾城。
自動車道線高架を抜けると、も一つの貯水池から此の
二つの貯水池に挟まれる丘陵部の自動車道沿い北側から城域に入る。城域とはいっても30mx50m程の小規模な山城です。
調査は城域全体の五分の四を対象に実施され、出土遺物から16世紀前半頃と考えられている。
主郭西の大土塁
調査後遺構は消滅したとされ、其の位置図からも遺構の存在を絶望視・訪城を諦めていた…が 自動車道と横並びの位置に:ほぼ縄張り図通りの遺構が残されていた。土塁側に主郭・副郭が並び、西側下段は崩れ・削平も
曖昧ながら帯曲輪・東少し高み(自動車道側)に土塁かと思える幅狭い腰曲輪二つと主・副郭が田字形で構成。腰曲輪を割って田の字の中心へ 東から入る土塁残欠状が虎口…?。
全体に灌木・下草藪に覆われ目視での確認は難しい状況だが…。
主郭大土塁西の堀切上部(中央の道路公団境界標)は土橋付
発掘調査書からは礎石建物・鉄製の鍋・槍先や銅銭・備前焼壷・瀬戸や美濃焼の天目茶碗・中国産染付皿等海外の陶磁器も混じり、篠山今田に近く今田焼(立杭焼)の鉢や甕・壷塁も多く、小規模な山城ながら出土量が豊富
で・顕著な生活痕を残す点で城内で恒常的な生活が行なわれたと…。ただ県立考古博物館(平成26年)資料によると中尾城は民衆が戦乱を避けての逃げ込み籠城した…とあるが領民が今田焼き陶器類以外に、
此れほどの高価?な家財道具を所持していたか?・
主郭大土塁西の土橋堀切(南側から)
領民らの「逃げの城」とも思えず・三木方面から八上城攻略の籠城戦の付城への兵糧輸送や備蓄基地として
つなぎの城の機能が担つ。…城郭研究家T氏からも「つなぎの城」としての条件は「近道・敵からは目立たない・縄
張り簡素な臨時の城」との考察に合致する!!。三田方面の広域を遠望出来るが麓の広野 ・相野地域は正面にR176四つ辻交差点や近くの工場付近までが見渡せるが監視重要方面ではなさそう。
中尾跨道橋から中尾城域
中尾城大土塁の南:堀切り土橋を渡り南尾根筋から直ぐ東へ延びる尾根筋に入り、舞鶴自動車道に架かる中尾跨道橋を渡ると尾根続き南部には幅広い平坦地形が拡がる。兵の駐屯地・輸送兵糧の備蓄基地としての機能もあ
りそう。
三木からは北谷川沿い吉川町新田まで入り込み、上相野へ北上せず東へ(ルート不明?)抜ける間道があれば中尾城近くに出る。現状ルートだと吉川町畑枝当たりからテクノパーク(三田西IC付近)に出て下相野へと北上すれば中尾城への大手筋ともなる東を通る。
跨道橋を渡ると直ぐ拡がる広い平坦地形 八上波多野氏救援に向かった 三木別所方が横川谷?経由で小野原・不来坂へ進軍。
古市付近で交戦?で別所方が撤退したのが天正5年【先のブログ「名無し木」の蛇足を参】翌天正6年には摂津三田に付城が4ヶ所築かれた。油井
口?へは横川谷経由に築かれた
「つなぎの城」の一つが中尾城か?。横川谷が吉川町を流れる北谷川の事なら此のルートで中尾城直近を通る築城位置としても符号する。古文書(光秀書状)には休夢齋【小寺千太夫高友・甥の孝高(黒田官兵衛)に従い・
貯水池から相野地区眺望:正面左「四ツ辻」 羽柴秀吉御伽衆として仕え・三木合戦などで活躍】の名があり、付城の築城や兵輌物資輸送にも関わりがあったのかも?。
上記「県立考古博物館(平成26年)資料」にも「黒田官兵衛…が」表題か副題?になっていたようだが…
中尾城は三木合戦に三木城包囲の秀吉軍から八上城攻め明智方へ、黒田官兵衛・勘兵衛の甥:小寺高友等?による援軍や、
物資輸送・備蓄の後方支援「つなぎの城」だったか?。
有鼻遺跡
三田市けやき台 風呂ヶ谷城に寄るべく三田市の都市基盤整備公団ウッデイタウン”けやき台”の建設が進む住宅地の北端に広場・展望高台、
そして風呂ヶ谷城址が続きます。
有鼻2号墳から風呂ヶ谷城(前方の森)
其の中央部の芝生の高台が宅地開発と人口増加が進むニュータウン一帯や北摂の展望台だが、其の中央に有る円形の台地が有鼻遺跡の2号墳でした。有鼻遺跡は三田盆地の北西端の標高190〜210mの丘陵上に立地しています。
三田市内でも最大規模の
弥生時代の高地性集落地だったところ。
その主丘陵稜線上の北端に有鼻1号墳、その南(現在地)に有鼻2号墳が在ります。
有鼻2号墳から南方の吉川町方面
2号墳は長軸約18m・短軸約 16m・墳丘の高さは約1.2mを測る円墳です。
発掘調査で須恵器が出土しています。築造時期は6世紀後半(西暦550〜600年頃)で、此の地の有力豪族の墓と推測されています。
(現地:有鼻遺跡案内板 参考) 民話:嫁ヶ渕 三田市には丹波境界の藍に
丁子渕・青野川の「蛇藍」・そして井沢にも「嫁ヶ渕」という大きな渕に其々伝説がある。武庫川沿い県道141号の三田浄水場付近:武庫川と青野川が合流する地点に嫁ヶ渕があり、
突き出した岩上に残る足形の窪みが幾つかの伝説を伝える。今は河川改修記念碑と役行者像のある祠があるが切立つ断崖上に位置して露岩も目立つ。
「嫁ヶ渕」 PARTT
その昔:井沢村に、それは仲の良い若夫婦が住んでいました。朝早くから暗くなるまで働き親に対しても1つの不平不満も言わず、いつも笑顔で仕事に精をだしていましたが、姑は仲の良い姿を見るにつけ、
ねたましく息子と話す機会も少なくなり淋しく思うようになり2人を離せば息子は以前のように母を慕ってくれるだろうと思い嫁に意地悪くあたり、
つまらぬ用事ばかりを言いつけて嫁いびりをしておりました。それでも嫁は姑の言い付けを素直に聞き、いつも笑顔を絶やさず暮らしていました。日照り続きで、ようやく雨が降り田植えが出来るようになったが、父と息子は急な用事で町に出かけます。
「嫁ヶ淵」
姑は男達の留守を幸いに「川沿いにある田を今日中に植えないとなあ。すまないけれど、おまえ一人になってしまったが植えてくれないか」嫁は言われるままに家を出ました。お嫁さんは一度も手を休めず
必死の思いで植えたが、広い田は植えても植えても終わりません。陽は暮れてもまだ半分しか植わらない。「この田を植え終わらず帰ると何と言われるかわからない」常日頃非情な姑の仕打ちを思い出し途方にくれていつしか、川に突き出た岩の上に立っておりました。
川は一ときの雨で水かさが増し、ゴーゴーと流れ、崖下の渕に当たってぶきみな音をたてております「ドブーン」吸い込まれるように嫁は身を投げてしまいました。夜も遅くなって父と息子は帰ってきましたが迎えに出たのは姑だけ「田から帰ってきたと思ったが
未だだったかねえ」息子は早速探しに行きました。田は半分以上も植えてあったが嫁さんの姿はありません。空が少し明るくなりかけた頃、村人達も手分けして探してくれました。川に突き出た大きな岩に人の足型がついているという。
どうやら嫁の残していったものだろうということになり村人達は小さな祠を建て、お嫁さんの霊を慰めることにしました。それ以来この渕を誰言うとなく「嫁が渕」と呼ぶようになったということです。
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「嫁ヶ渕」 PARTU
戦国動乱の室町時代・播磨・三草山城(加東郡)の合戦て城が落ち、一人娘を連れた武士が丹波に落ち延びてきました。
疲れた上に持病が出て 如何する事も出来ず道端で身を横たえていると、そこへ通りかかった浪人風の若者がその武士を介抱してくれましたが、身につけている鎧や槍に目がくらみ殺した上で、それらを奪ってしまったのです。村人たちは哀れに思い武士をねんごろに葬り、
娘は農家に引き取られ、その家で可愛がられ、よくしてもらって朗らかさを取り戻します。それでも、目の前で殺された父の姿が思い或る日、とうとう暇乞いをして旅に出ました。一方・浪人風の若者は内神まで来ており、百姓家に世話になり仕官の機会を狙っていました。
その頃・野上城の干貝伊勢守が戦に備えて兵を集めていたので、山岡と名乗る浪人はそこで召し抱えられることになりました。間もなく、千貝伊勢守と播州の赤松藤兵衛の間で一戦を交えることになり、山岡は数人の敵を討ちとりました。
山岡の功名は世話していた農家・又兵衛にとっても家名を高めるものと喜び、床の間に山岡から貰い受けた槍を飾っていました。
さて。敵を探し求めて旅に出た娘は丹波中を探し求めたが手懸かりも得られないまま季節働きとして三田にやってきて、
又兵衛に雇われる事となり、この家の床の間に飾られている父の槍を見つけます。又兵衛の自慢話から仇が誰であるか判り、この家で待てば仇と会えるとひたすら働きます。そうとは知らない主人は、よく働く娘に感心し息子の嫁になるよう勧められ嫁となりました。
千貝氏の城は赤松氏に落とされて敵と狙う山岡も自害して果てます。その報を受けた又兵衛は我子が亡くなったかのように悲しみ、なきがらを持ち帰り盛大な法要が営まれました。娘は嫁となって苦しみにも耐えてきたのは、
幼い頃から父の無念を晴らしたい一念があったからで、仇が死んでしまった事と、その位牌に手を合わさなければならない苦痛から、生きているよりも…と思いつめ「嫁が渕」へと身を投げてしまったという。
(三田の民話 三田市教育委員会 参考)
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