三田陣屋〜九鬼家住宅〜金心寺/三輪明神〜城山 (茶臼山城!!?)
阪神  (五万図=三田)
T陣屋(三田城)/九鬼家住宅/金心寺等の歴史散歩 H15年06月29日

U三輪神社・明神窯跡〜茶臼山(丸山)〜城山運動公園 H16年02月21日
V 三田陣屋・金心寺〜屋敷町・カトリック教会  H16年05月11日

三田城址碑
近畿の山城:三田城(三田陣屋 (旧 )車瀬城、滝山城)茶臼山城 松山城
  九鬼家住宅(家老屋敷) 金心寺(下屋敷・黒門)
三田のお話  松山弾正と甚五郎

T三田市内歴史散歩  2003.06.29

赤松(有馬)氏の領有地で播磨へ進出を図って三木市三津田城、 神戸市北区の淡河城や隣には萩原城を築き、有馬氏・淡河氏との間で戦いが繰り返えされています。今日は先に、 此れ等の城を箕谷から呑吐ダム経由で先ず三津田城、淡河へ出て淡河城、石峰寺城へも寄ってから三田へ入ります。 九鬼邸や三田歴史資料収蔵センタでは、案内ボランティアの方は一様に「三田城には天守閣がなくて」とおっしゃいます。
三輪神社東上の展望台

幕府から築城を認められなかった九鬼氏の陣屋ですが・・・三田陣屋の前身には車瀬城があって此処には天守閣が存在していたんですね。九鬼氏が10代・隆国の時には城主格になり、 陣屋は三田城と呼ばれました。その時の計画では大阪城・姫路城・名護屋城よりも大きな大天守閣が設計されていました。幕府は陣屋として取り扱っいた為、幕府に遠慮もあったのでしょうが経済的な問題もあり実現されませんでした・・・
V 天満神社〜金心寺〜三田陣屋〜九鬼家住宅〜旧金心寺跡〜  2004.05.11
城サイトを運営のanne猫さんを誘って三田市内の山城廻り。 前夜まで降り続いた雨の為、朝から藪漕ぎの山城は敬遠して先は市街地の三田陣屋から、古城にある天満神社から三田の名の由来と武家屋敷の黒門が移築されている金心寺や、屋敷町の長屋門や屋敷門を見て九鬼邸に拠ったが、 春の開館時期は過ぎていて外観だけ見て、喜志城に向います。また三田城址碑の建つ小学校の正門前も石垣積み替えの工事中で、期間中何処かへ移設か保管中のようで現地にはなかったが平日なので有馬高校の正門は開いているので、 2〜3m内に入って水掘りの写真は撮らせて頂きました・・・


U三輪神社〜史跡・三輪明神窯跡〜城山(茶臼山城)〜三輪神社 (三輪砦!!?) 2004.02.21

JR三田駅の北・R176号線の 三輪交差点から更に北へ志手原・ 有馬富士羽束山裾の香下から 猪名川方面へ通じる県道37を少し進むと、東側に城山運動公園の標識があります。 城山の名があるのですが"バイブル"としている日本城郭大系に城の名は無く「三輪大明神縁起」に記載されている茶臼山城を「三田の民話」からも推察して、三輪交差点側の三輪神社の鳥居から尾根通しに辿ってみます。 当地に来住の松山弾正が築いたとされる茶臼山周辺の高地には多くの砦もあつたと聞いていますが、その代表的なのが此処・三輪神社裏山と思われます。本城の茶 臼山城からは尾根続きの南端にあって 三田盆地を見通せる絶好の場所なので 見張台か出城が有ったと推測出来ます。只・当時は播磨・摂津・有馬郡(三田も有馬郡の一部)一帯に勢力を誇った赤松氏範の領地なので、 赤松配下の臣として三輪周辺のみを松山氏が領していたようです。しかし茶臼山城と一部の支城や砦以外、周辺に防備増強の松山氏の築城が許されたとも、 勢力が有ったとも思われません。
(大道ヶ平・大堂甚五郎の三輪砦跡か!!??)

後世 ・陣城も多い三田市街地周辺に南北朝期の遺構はおろか、歴史や所在さえ不明の松山氏や赤松氏の砦跡を捜す無謀さを御勘弁ねがいます。三輪神社の裏山は起伏も緩やかな神域で入山も出来ませんが東西に平坦な高見があり 東は展望休憩所が設けられ、尾根筋は此処が終端なので展望良く、真下にR176の丹波街道を見下ろし天神山や後世の三田城とは武庫川を挟んで対峙し、絶好の見張り所となります。此処から神域の山を捲くと裏手には、 右(東)下へ明神窯史跡へ出る道と左(神社真裏手)に大きな空池を見て堀底道に居るようです。 正面は切岸を思わせる10m程の崖となり、木戸口を思わせる斜上する踏み跡が有って崖上の平坦地に出ます。此処こそ三輪砦跡??西北側は急で深い谷となり其の向こうに城山運動公園が見えています。比較的緩やかな Ca220m程の尾根が此の先ズッと続きCa240mピーク手前の広い山道に出ます。こんな所に一軒の民家が!!と思ったが直ぐ右30m程下手には県道37号・兵庫中央病院へ抜ける細い車道があって、この道を下れば明神窯史跡公園前をへて 三輪神社下へ戻ります。この道は「道祖神」の石碑が有る旧街道で花山院への道標も残る遍路道だが、藩主:九鬼氏がお狩り場へ向かう道で「殿様道」とも呼ばれていました。山道を北に向かうと右手に畑地が有りその下に??池が有る。 の下方に畑地は無さそうなので、池を堀とした居館が畑地に有ったのでは・・と考えてしまいます。左手は城山と呼ばれる運動公園内に一箇所だけ残されたグリーン・スポッ。運動公園として大広場と化した高地に「三輪大明神縁起」の 茶臼山城があったとされるが、遺構が残されているとすれば此処だけ?。西のグラウンドから見ると如何にも城山風情。しかし山上は細く狭く藪が酷いうえに、尾根の山頂近くまで 山肌が削られての何かの工事中で、体育館側からだと当然「工事中・登らないで・・・」の看板が立ててある筈ですね。


旧九鬼家住宅 三田市屋敷町7-35  兵庫県指定(平成10年4月7日)重要有形文化財

室町時代以降城下町が築かれていた三田に江戸時代・九鬼氏が3万6千石で入部してからは三田藩陣屋が置かれました。 水堀を挟んで陣屋に対峙する屋敷町は金心寺門前町だった処で家臣団の屋敷が建ち並んでいたことでしょう。緩やかな坂道に武家屋敷が残る閑静な住宅地。 その屋敷町の入口の一角に、三田藩の家老職を代々勤めた旧九鬼家の2階建て住宅があります。また戦時中は疎開されてきた方が使用されており、台所・水屋・竈等の常時使用されている部分には些少の改修がなされたかもしれないが、
九鬼隆継の家老屋敷:車道から

明治初期・8年(1875)頃に建てられた全国でも数少ない 擬洋風建築は兵庫県指定重要有形文化財に 指定されています。2階のベランダ部分と窓が洋風の作りで母屋と道路に沿って建つ土蔵からなっていますが、 消防法等で2階の見学が出来ないのが残念です。商家の佇まいと洋風の造りが一体となった建物は、当主の九鬼隆範が自ら住宅として設計したもので、
九鬼家住宅:内庭から

手作りの製図用具や定規・設計図用の絵の具や絵皿・絵の具の原料となった鉱物・製図板・この住宅の彩色された設計図も残されています。九鬼隆範は幕末の天保6年 (1835)越賀六兵衛隆影の二男・範三として此処に生まれ、明治3年(1870)三田藩家老・九鬼伊織隆継に養子縁組で迎えられる。翌年には神戸に出て砲術や測量術等を学び、東京横浜間鉄道工事や東京高崎間鉄道線路の測量等に従事して日本の鉄道開発に貢献しています。
(三田市教育委員会・旧九鬼家住宅資料館の案内資料参考)


●日本の科学の父「川本幸民 」と日本の近代心理学のパイオニア「元良勇次郎」
三田小学校の校内に建てられていた「史跡:三田城跡」の記念碑は、石垣積み白壁塀を巡らせた城址イメージで今・新しく小学校正門前に移設されました。正門左側に側溝が有って藩主:九鬼家の紋から名付けられた九曜橋が架かる。側溝上には水軍で名を馳せた九鬼氏が海を離れなお水練に勤しんだという三田御池が有ります。
元良勇次郎の顕彰碑

川本幸民= 三田御池と正門の横に 忠魂碑か銅像礎石かと思えたが蘭学者であり科学者でもあった「川本幸民」の顕彰碑が建てられています。三田藩主・九鬼隆国から20歳の時に江戸遊学を命ぜられ、蘭方医学を修めた其の西欧文明の知識を活かしマッチの試作・写真機・電信機を試したり、 ビールの試醸など、いずれも我が国で最初の試みでした。また「舎密(せいみ)」と言う語に初めて「科学」と言う訳語をあてた。 幕府の学問所に教授として招かれ活躍し、維新後は三田に帰り英蘭塾を開き故郷の子弟の教育に当たり、 明治4年(1871)東京で63歳で亡くなりました。
(現地 三田市郷土先哲顕彰会案内板参照)
川本幸民の顕彰碑


元良勇次郎=三田小学校正門と車道を挟んで浄水場側への車道堀側に 「元良(もとら)勇次郎」顕彰碑が 建てられています。東京英和学校(青山学院の全身)設立にも参画し、明治16年(1883)米国(ボストン大学等に)留学後・明治23年(1890)東京帝国大学教授に就任し、日本における近代心理学の基礎を築いたが、 大正元年(1912)54歳で病死しています。二人の出生地が九鬼家住宅の南方に在って、元良勇次郎は屋敷町の元:金心寺の廃寺跡(現:さんだ歴史資料収蔵センター)近く、川本幸民は足軽町に在り武家屋敷跡が残り寺町の落着いた風情の町並みでしたが、 武家屋敷も維持保存の問題をかかえ改築では姿を消し、つい1〜2年前駐車場側に残されていた長屋門続きの?長塀も危険との事で取り壊され殺風景な駐車場に様変わり、市街地区画整理で消える運命にあった”屋敷町”の名が住民の反対で 残された事がささやかな救いかも!。 すぐ近くにある三田カトリック教会に残された屋敷門も、最近礼拝に訪れる信者も増えて駐車場が出来ていましたが、保存に危惧を感じます。


●三田カトリック教会(聖ヨハネ・ビアンネー教会)
ローマ教皇日本司教団の指導のもとに集まるキリスト信徒の礼拝堂で、正式にはフランス革命で 荒廃した教会を独力で復興した聖人の名をとり 「聖ヨハネ・ビアンネー教会」と称されます。教会は信者達の求めで昭和27年(1952)に献堂された時、 保護(守護)の聖人を頂き、その聖人を模範として 信仰生活に励み神の恵みを取り次いでいただくのだそうです。カトリック教会は”三田藩の家老・九鬼兵庫の屋敷跡”に建てられ、その名残は礼拝堂南の司祭館や門構えに伺えます。
三田カトリック教会に残る武家屋敷門(家老・九鬼兵庫の屋敷跡)

聖ヨハネ・ビアンネーは1786年・フランスはリオン近くのダルデイリー村の農家に生まれます。 両親は勤勉で熱心な信徒でした。彼が5歳の時・フランス革命が起こり人々の信仰心は廃れ、教会から離れ熱心な信者はミサにもあずかれない状態が続きます。彼は早くから司祭になる希望を持っており1805年神学生となり苦学の末司祭となり 1815年リオンに近いアルス村の主任司祭に任命されます。フランス革命の余波で教会は荒廃し、働く意欲も少なく享楽にふけり道徳は地の落ちていましたが、聖堂を自分の手で改修し苦行に励み誰一人来ない聖堂で毎日ミサを捧げます。 やがて彼の生活を見て訪れる人が増え、やがて聖人に「ゆるしの秘跡」を受ける人々がアルス村に殺到します。41年間の苦行と祈り・厳しい生活を終え1859年帰天された彼に、教皇ピオ11世は聖人の位を挙げられました。
(三田カトリック教会 三田市教育委員会現地案内板 参照)

==============================================

●三田天満神社    〔祭神 菅原道真・大歳大神・伊弉諾命 等〕三田市天神3-34-5

学問の神様といわれる 菅原道真を祭っている神社。 現社殿は7代藩主・九鬼隆由の寄進になるもので全国25社天神の一つとされ、25年ごとに正遷宮(しょうせんぐう)と呼ばれるお祭りがあります。社殿右奥には古城稲荷神社が祀られています。
三田天満宮

天文14(1545)領主赤松民部少輔村秀が三田神祠を再建して後、寛永10年(1633)三田藩主九鬼久隆の代以降、代々藩主の御祈願所となった。なお、 随身門に九鬼隆一男爵の「遺徳燿萬春」の額がかかっています。境内の東側には芝生の広がる天神公園があって東屋・トイレ完備。河川段丘の上にあって三田盆地を眼下に北摂の山々の展望が拡がる。
=============================================

金心寺・三田の地名・三田青磁  現在の金心寺(三田市天神3丁目28番45号)

●金心寺屋敷町のほぼ中央部 三田市立歴史資料収蔵センタ(屋敷町12-27)附近にあって、明治2年(1869)に現在の天神町の如意山 金心寺 (金剛不壊心寺 真言宗御室派)に移るまで存在したが、兵火による消亡等で 創建当時の伽藍配置や寺域は不明ですが、発掘調査によって、堂宇寺域を示す溝の一部が検出されています。
九鬼藩下屋敷から移築の黒門

出土する藤原宮系統の古瓦から8世紀前半の寺院が想定されます。古代寺院の礎石は有馬高校の正門横と、 現在の金心寺境内に保管されています。また山門は
九鬼藩下屋敷を法務省に建て替えの際に移築された黒門がある。飛鳥時代・天智天皇の7年(668)に唐より帰朝した定慧上人が父・藤原鎌足と実兄で悲劇のプリンス、 有間(有馬)皇子の菩提を弔う為に建立したと伝えられます。
(三田市教育委員会・三田市観光協会の案内板等参考)

●三田の地名
本尊弥勒菩薩像:金堂には薬師仏が祀られていたが織田信長の摂津・播磨攻めの際、荒木村重と秀吉との戦いの兵火に堂塔伽藍は焼亡したが仏様は寺の近くの池に沈められ難を免れました。 その後、引き上げられ弥勒菩薩像は、明治になって国の重要文化財に指定されたが、仏像の胎内に「当地は松山の庄というが、これを金心寺三福田により三田と改む 」と記されていました。「三福田」とは敬田=人を敬う心の田・恩田=恩を忘れない心の田・悲田=困っている人を助ける心の田のことで、このことから「三田(さんだ)」の地名が起こったと言われます。
三輪神社・仮社の横から明神釜〜有馬富士へ
三輪神社   三田市三輪3-5-1
JR三田駅の北500 m商店街をR176号線に出たところに鳥居が有る。天平神護元年(765)三輪神社は我が国最古といわれる大和国一宮の大神神社(三輪神社)から分祀されたもので三田市内でも最も歴史のある 神社のひとつとされ、御祭神に大己貴命を祀ります。「日常生活が楽しく豊かになるように、お守りいただける」大神様ですが、本殿は平成17年4月「平成大遷宮」を古式に倣って実施する事と、其の為の葺き替え中である旨・社務所前、 正面石段下に掲示がされていて、拝殿横に仮社が置かれています。此処から裏山の神域を捲きながら東に抜けると此処・三輪で始まったという「三田青磁 」の古窯跡がありますが参道には、その創始者・神田惣兵衛や内田忠兵衛などが奉納した石燈籠が建てられています。
三輪神社拝殿

此処はJR三田駅から酪農センターを経て有馬富士への人気コースになっているようで、 史跡[三輪明神窯跡]から逆コースで此処に降りて来るまでに既に数人のハイカーとすれ違っています。また社務所から路地を三輪の交差点に出る本の数10m手前に、こんな場所が有ったとは今まで知らなかったのですが、お堂が建ち、 堂の内部には長い柄杓が置かれた神社の御霊水・綺麗な清水の湧き出る池となっています。三輪神社は南北朝期・文和年間(1352〜56)大和国城上郡(桜井市)より来住の領主松山彈正が天神山からこの地丸山に勧進して遷座し、神霊・社殿を設け奉祀したと伝えられ、その後は代々三田藩主・九鬼氏の崇敬も篤く、二代藩主隆昌が神鏡一面、五代藩主隆方も元禄14年(1701)「三輪大明神縁起」一巻を奉納。 歴代藩主も拝殿の再建や石鳥居・神輿等の寄進をしています。
三輪神社御霊水

三田青磁
屋敷町の旧金心寺遺蹟址に建つ三田市立歴史資料収蔵センタは江戸時代後期に 三田で焼かれていた三田焼 (三田青磁)を中心に(というより三田青磁の特設館のようです)について紹介しています。江戸時代後期(1750年頃 )に三田で焼かれていた焼物 (三田焼)の中でも特に特徴のある「三田青磁」が三輪神社裏手に有った明神窯で昭和初期(1935年頃)まで、民窯として赤絵、染付、青磁などが焼き続けられてきました。三田焼の流通には江戸・京都・大阪に販売所が有ったことを 裏付けるような資料が発見されており、その特定された販売所も分かってきて流通経路等を調査されているようです。三田青磁とともに、篠山市の王地山焼の白磁や今田の古丹波等、古陶巡りにも食指が・そろそろ丹波路への歴史散歩も!!…

●史跡「三輪明神窯跡」

三輪神社の裏手の明神窯は昭和47年(1972)から2ヶ年にわたり三田市教育委員会の手で窯跡の発掘調査が行われ、江戸時代後半の3号窯を 始め明治〜昭和始めの1号窯は、焚口から煙出し迄良好に保存されている登り窯で昭和49年(1974)3月に県史跡に指定されました。3号窯は3基ある 登り窯の中では最初に築かれたもので、江戸時代後期・最も盛んに操業していた文化・文政(1804〜1829)頃のもので窯跡の大きさは全長推定52m・最大幅9.2m山の斜面を利用して階段状に14部屋以上もある、 かなり大きな登り窯であったことがうかがえます。
第3号窯跡

三田焼の草案者・小西金兵衛(志手原窯)に入門した三田本町の内田忠兵衛は 三田焼きを郷土産業にと注目していた本町の豪商・神田惣兵衛の経済援助を受け、天明9年(1789)天狗ヶ鼻窯を開窯し志手原窯と同じ陶器が焼かれ、寛政11年(1799)青磁を中心とする三輪明神窯の開窯を果たします。 忠兵衛が書き残した釉の調合資料や下絵等は内田家の秘伝書として代々伝えられたが孫・久吉の死で昭和8年 (1933)三輪の明神窯は閉ざされました。
第1号窯跡

特に三田青磁を有名にしたのは京焼きの名工「欽古堂亀祐 」の技術指導によるものといわれ、 三田市教育委員会には亀祐の型物が保存されています。三田焼きには染付けや青磁、色絵等が焼かれていますが、殊に青磁は複雑で、豊かな造形や色調に魅力があって三田青磁の名で全国に知られました。 三田焼き・特に三田青磁の中心的な生産地として営まれた三輪明神窯の此れ等遺構を保存し市民に開放する為、平成15年12月2日「三輪明神窯史跡園」として開園されました。
(三田市教育委員会現地案内板 三田歴史友の会情報 歴史資料収蔵センタ パンフ等参照)


三田のおはなし松山弾正と甚五郎

此の話は大和国から来住の松山氏が善政を布いたのに対し、この地の土豪・大堂甚五郎の悪政に苦しめられた領民が、 甚五郎を盗賊として松山氏を讃えた話のように思えます。私には甚五郎が大道ヶ原(三輪山)から丸山(城山運動公園となっている丘陵地)及び其の北に位置する志手原や香下辺りを領していた土豪と思っています。羽束山山頂には香下城があり、 羽束三山と仮称している甚五郎山山頂に曲輪跡があり南朝方の拠点ともなったとされますので、大堂氏を落とした松山氏方が此れら三輪・丸山・志手原 ・甚五郎の各山城を居城したのかもしれません?。後醍醐天皇による天皇政権復権を目指す吉野南朝と、室町幕府が擁立した天皇を中心としながらも武家政権を樹立しょうとする京都北朝との、動乱期には各地の豪族達がドチラかに付いて戦っていた。 其の頃・大和国(奈良)三輪の大神神社から分霊を移して祀られた三輪神社の麓は門前町を成していました。 その三輪周辺の人々から暴れ者と恐れられる大堂(大道)甚五郎が三輪山の後ろの大道ヶ原(三輪山山頂付近・丸山)に住んでいました。 甚五郎は手下を集め報償金の多いほうに味方し、時には町へ降りて来て婦女子に手をかけ家々からお金や食料を強奪していた。建武年間(1334-36)頃、 大和国城 上郡松山(桜井市?)より宮方代官として松山(三河守!?)弾正がこの地へ来て川除(三輪神社西方)に来住しました。茶臼山に城を築く以前の松山城(松山古城)の所在が何処か分かりませんが此処を拠点としています。
(大道ヶ平・大堂甚五郎の三輪砦跡か!!??)三輪神社裏

松山氏には土木工事等領民の為の治績もあって、 川除の南・武庫川を挟んで約1km地点、県道黒石三田線で貴志城に向かう途中松山堤の標識を見るが松山氏の治水工事「松山の堰」の名残でしょうか。 先の川除にも治水の名残でしょうか・此方は三田の伝説では「行基さんの杖あと」として行基が築いた伝説話があります。貴志城にも「五郎四郎池」「御内儀(おなぎ)池」のはなしがあって、武庫川の氾濫や水飢饉に領民の苦しみがつたわってきます。 さて、話を戻して・・・甚五郎が代官への年貢や神様へのお供え物まで持っていく。隣接する「大原城や貴志城はどちらも堅固な城で、 警備の家来いて此の様な暴れ者はいない。其れに比べて代官様(松山氏)の川除の城は何の備えも無く、屋敷住まいの新米と馬鹿にしているのでは」村人達は、攻守に良い所は無いかと探して三輪の茶臼山に決めます。ところが困ったことに此処には、 この山をご神体とする大神神社があった。村人達は相談の結果「御神領に住む盗賊を退治するため止む無くお移り願うので、お怒りになりませんように」・・・と【三輪神社は天神山にあったとものを、このとき現在の場所に勧請されたとも・・・!!】 やがて城が出来て家来も募集して雇います。此れを見た甚五郎が戦を仕掛けてきます。茶臼山に陣取る松山弾正も受けてたち長期戦になります。甚五郎が早く決着をつける為に茶臼山に火をつけるかも知れないと思った弾正は先手を打って、 大道ヶ原の麓に火をつけ、山は天を焦がして赤々と、その火は三田盆地にまで燃広がり、山上に城を構えていた甚五郎と一味は逃げ場を失い残らず焼け死んだそうです。三輪神社も此の時焼けたが御神体は難を逃れ、寛永10年(1633)社殿が再建され 三田藩の領地となった。
(三田のはなし 参照)



三田城(車瀬城) 茶臼山城  松山城

三田城(三田藩陣屋 ・旧車瀬城、滝山城)   三田市天神町2丁目 ・屋敷町

摂津・播磨・丹波を結ぶ要衝の地にある旧有馬郡三田は、南北朝期に赤松一族の有馬氏の所領で、三田盆地の南西部・武庫川右岸に張り出した河岸段丘綾に、始め赤松円心の四男・氏範が築き有馬氏の祖赤松(有馬)義祐が修築村秀が改修したとも荒木平太夫が拠ったともされます。
有馬高等学校正門前の堀跡(校内は旧車瀬城)

また織田信長の臣・荒木村重が天正2年(1574)元主君の池田城主:池田勝政・伊丹城主 伊丹親興(?伊丹治部兵衛景親)・和田惟政の摂津国三守護を滅ぼすと有岡城(伊丹城)主となり摂津守護となって、丹波侵攻の足掛りか?三田に侵攻して 山口丸山城(山口五郎九衛門)・岡場城(西尾備前守) ・深田稲田城・藍岡山城を陥落させ北摂地方を強引に平定すると、三田城主有馬出羽守国秀も村重に従い・村重は妻の妹を国秀に嫁がせるが、 不穏な動き有り!!と有岡城に呼び出し糾明され自害・国秀に子が無く赤松有馬家嫡流は此処に跡絶えます。丹波国の押さえであり北摂の要となっている 三田の地には伊丹:有岡城主荒木摂津守村重一族の部将・安都部弥市郎(荒木平太夫重堅と改名 )を配して車瀬川畔に天守閣をもつ三田城(車瀬城)を築いたともされますが、
大手道の三田小学校正門(七曜橋側)の城址碑

天正6年(1578)平太夫は因幡若桜に転封されています。…が天正10年(1582)には羽柴秀吉から 山崎源太左衛門堅家が此の城を受け家臣車瀬政右衛門に修築させたともいわれます。この時期・山崎左馬之介や車瀬政右衛門が同じ三田領内の諸城を攻め落としていました。いずれにしても此の頃には金心寺の門前町や三田の町並みが 城下町として整備されていきます。三田陣屋の二の丸(県立有馬高校敷地)が車瀬城の跡だといわれ、此処に幻の「天守閣」が建っていたのでしょうか!!? 此処に築かれた平山城が三田城の前身です。車瀬城の天守閣が建っていれば三田警察署や郵便局辺りからは、丘陵上から睥睨する天守の威容を眩く仰いだ事だろうと想像できます。
三田陣屋の水堀(三田御池)

堅家のあと慶長6年(1601)有馬少輔(法印)則頼が三木淡河から入ったが 翌慶長7年(1602)三田城で没し除封となり、其の子有馬豊氏【関ヶ原の合戦に東軍として参戦し福知山城主となり、父:則頼の遺領有馬郡 2万石を併せて領して大名になった。則頼は大阪の陣の戦功により九州久留米 21万石を領して赤松氏一族として唯一・有馬氏が明治維新まで続いています】が継ぎます。其の後松平重直を経て九鬼氏が入封されて車瀬城は有馬高校附近に移って陣屋を構えます。三田小学校附近が本陣・九鬼藩主 の居館跡で、現校舎の校長室地下には御台所跡が保存されています。城址碑の建つ正門!!下には 七曜橋が掛かり此処が大手門筋で、 九鬼氏の定紋が七曜(七つ星)から名付けられた七曜橋が大手門にあたります。
屋敷町に残る武家屋敷門


第8代九鬼嘉隆は織田信長に付いて天正6年(1578)大阪・石山本願寺の攻撃では、毛利水軍を抑える為に日本で始めて鉄張りの船を造り其の軍功により鳥羽の城主になり、 後に豊臣秀吉の朝鮮征伐では水軍の大将とし手柄を立てています。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでの九鬼一族は、嘉隆が石田三成の西軍に長子・守隆は徳川家康の東軍に付き二つに分かれて戦います。敗れた西軍の嘉隆は自刃し寛永9年 (1632)守隆の他界で後を継いだのが九鬼久隆です。全国に名を知られた九鬼水軍が力を盛り返すのを恐れた家康は、志摩の鳥羽城主九鬼久隆が寛永10年(1633)海の無い三田に移封されるがその後、 国替えもなく明治になるまで13代隆義まで200年余り三田藩は存続します。第10代隆国のとき城主格となり陣屋は城と呼称されたが幕府は陣屋として取り扱っています。
(三田市教育委員会・三田市観光協会の案内板・ひょうごの城紀行 参考)


茶臼山城(松山城)  城山 Ca230m   三田市三輪字丸山


R176号線三輪交差点の北にある三輪神社や来迎寺の裏山一帯の茶臼山(丸山)、 それに城山の名が残る運動公園周辺に建武年間(1334-36)頃、大和国城上郡松山(桜井市?)より 三田市川除に三輪神社の宮方代官として来住し三輪町周辺を領していた松山弾正が防備増強の為、茶臼山に城を築いたとされるが、その頃は播磨・有馬郡全域を領していた赤松円心則村の四男・氏範が車瀬城(三田城 )を築いており 松山弾正は南朝方として氏範の配下に与していたと思われます。
第グラウンドから見る城山は・・!!?

松山氏が単独で本城の茶臼山城防備の為の築城を許されたとも思えず赤松氏の車瀬城(三田城)の支城や 砦として増設され、 松山氏が北面の警護を固めたものではなかったかと考えます・・・南朝方が京都を占領していた康安元年(正平16年1361)頃を最後に足利幕府の体制は安定し、南朝の敗戦も濃くなってきた頃には落城しているようです。 戦国期には車瀬城 (荒木村重築城時の三田城か九鬼氏の三田陣屋の前身)の支城として、武庫川に対峙する茶臼山城は市街地の中に位置して門前町・城下町の監察等に 機能していたのではなかったかと考えられますが遺構は残っていないようです。茶臼山?周辺の丘陵には多くの砦が有った様で、それら城や砦を総称して 茶臼山城と呼ばれたのかもしれません。
城山山頂付近

当城の本丸は旧街道や地形的に見ても、 此れ等丘陵部の中心となる城山運動公園で三輪丸山(三輪神社裏 ・来迎寺裏山)は出城か物見の砦と思われます。松山氏等の城史については不詳なので 松山弾正と甚五郎を引用しながら推察してみます。三輪神社〜城山に遺構を捜すことは無謀に近い試みかもしれません。特に城山は野球場・テニス場、さらに南端の谷に面する辺りも建設工事中、 そして僅かに残された最高所にある、本命の城山と呼ばれる藪の丘も立入り禁止で城山の名が消えるのさえ遠くないと感じさせる・・・風前の灯火です。三輪神社の北に天正元年(1573)慧善により創建開基された 来迎寺は茶臼山城主・松山氏の菩提寺でもあります。
(北摂三田の歴史:北康利著 参考)


松山堤と松山城    位置不明・・!   三田市川除

三田消防署〜貴志へ向う武庫川沿い県道141号(黒石三田線)は”松山堤”交差点で吉川方面に向う県道356号と交差します。此の約2.5km程の間に三田城・稲田城・大原城・貴志城・釜谷城・五良谷城・中西山城 ・平方城等多くの城館跡が在る。 多くはニュータウンや圃場整備により消滅し位置も定かでは有りません。 伝承の松山堤も昭和62年?平成元年頃迄の河川改修により武庫川の湾曲部がほぼ直線的に流れを変えるショートカットが行われ、往時の流れが偲ばれるものは残っていません。
現在の松山堤:県道沿い西方から消防署

蛇行部分が改修され其の跡地に三田市総合福祉保険センター ・JAXXXが整地され建てられています。此処は”川除”の地名が示す様に、 毎年にように武庫川の氾濫による被害に悩まされた処のようです。三田領内に於ける松山氏の領地や勢力はよくわかりませんが、 有名な?松山弾正が三輪(運動公園)に茶臼山城を築いていますので、川除から北の三輪神社近辺の領主だったのでしょう。 松山城を居館(代官所)として残して茶臼山城に移ったとも考えられますが、治水事業を行った松山堤の名が残ります(此処でも伝承には行基が築いたとする伝説もあります)。
現在の松山堤:消防署から県道越しに三田城方面

位置は不詳ながら川除を在所とした松山城(別名を中城とも呼ばれた)は、 蛇行する武庫川を堀として取り込んだ居城が築かれて松山三河守が在城したと伝えます(松山弾正と甚五郎)。 これ等の建物横にか武庫川に架かる”御殿橋”が有り、欄干には瓦模様を・親柱には常夜灯が施されています。武庫川が嘗て此の辺り、深田側に蛇行して流れており、九鬼の殿様が三田城(陣屋)から川除の豪商 :福井家に出掛ける時に武庫川を渡る為だけに、殿様専用の橋が架けられ庶民が利用する事が出来なかったので殿様橋と呼ばれたといいます。
   本誌丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system