須磨田三山と幡尻の二山 武庫川(曲がり)周辺の山々と本庄丸山城と森鼻居館
阪神・北攝  (五万図=三田)
駒宇佐八幡宮〜天神岳〜茗荷谷山〜西鎌倉山 2001.03.11

日之詰橋〜城山Ca290m(本庄丸山城)〜森鼻居館 2004.01.12
   (山行レポートは近畿の山城・本庄丸山城で)
近畿の山城 :本庄丸山城(森鼻城)と森鼻館
焼山からの天神(正面左)と茗荷谷(右のピーク)

三田市のJR相野とJR藍本の東に位置する不思議な山域です。丹波もそうですが、 この周辺の山々も殆ど山名がありません。しかしこの一角だけは低山なのに山名が地図にも載っています。またこの山塊の裾を流れる武庫川は穴口山の北裾で極端に大きく(130度程)曲折して上本庄に向かい、黒谷山・遠城寺山 ・茗荷谷山・天神岳へ続く稜線の落ち込む先でコの字形に方向を変え須磨田へ南下する「曲がり」です。朝日・夕日伝説は此処にも曲がりには「 曲り城」堀相模守の居館の砦跡があったといわれ、その砦に塚があり盛り土の下には 「朝日受け 夕日輝くベラ(ペロ・馬酔木)木の下に 小判千枚縄千束…」との歌が伝えられている。
それぞれの山は450m足らずで頭を並べていますが遠城寺山・茗荷谷山・天神岳を多田繁次氏は須磨田三山と命名されています。武庫川を挟んで対峙する目立って 尖峰を突き出す焼山にも向かいます。メインは私の郷里に帰る途中R176からいつも眺める焼山ですが八幡宮側の川沿いにある「的石」と天神岳も気になっていました。


駒宇佐八幡宮を基点に武庫川の大曲折部分南北に聳える?気のなる低山へ
駒宇佐八幡宮〜天神岳〜茗荷谷山〜遠城寺山〜黒谷山 / 焼山〜西鎌倉山  H13.03.11

三田を抜け相野の四辻を右折して駒宇佐八幡宮につく頃には又強く雪が舞っていた。神社参道下に駐車場があり(AM8:20)武庫の川沿いの的石が此処からも見えるが 川向いの的石へ直接は行けない。車道の赤い欄干橋を渡り少し戻り気味に田畑の中の集落に向う幣の島橋の南詰めから川沿いに的石を訪ねた。昭和53年の河川改修までは神社側にあったのが今の場所に移された。 とりたてて深い由緒は無さそうだが、流鏑馬の的石であったといわれます。そういえば神社山門の守護神二対も弓と矢を携えています。 天神岳へ取付きを北山さんは生寶寺の裏からですが…此の的石裏から詰めても・たいした藪漕ぎでは無さそう?。私は駒宇佐八幡との中間点付近の泰養寺への看板を見て歩きだす。
的石

5〜6軒の民家の先の田の畦の先・猪垣を越して山道があるように見えたのでそちらに向います。左に天神への尾根がはっきり見て取れる位置。 案の定道はあったが谷筋に向かい岩のごろごろした道が続いています。いずれは藪に突き当たると思い左の尾根にコースを変えたら大正解。細いが踏み跡は山頂まで続きます。この山塊最高峰ながら低いとはいっても急登りは免れません。 天神岳(440m AM9:00)「T.B.G」のプレートが懸かる山頂からの展望は期待できない。北へ降るテープのある山道は「的石」のズット西の方、旗尻集落の向かいあたりに降り付くようです。 茗荷谷山への尾根道は登ってきた道に比べれば極楽・快適な道は15分程で生寶寺へ降る鞍部に着くと山頂へは5分程。茗荷谷山(点名:天神谷428m 3等三角点 AM9:20)は少し先(南)へ進めば山頂付近に岩場を露出する焼山の勇姿と 北面の山々の展望が拡がってきます。茗荷谷山から西南へ伸びる尾根末端のピークには本庄丸山城があるが此処は後日。さて少し白くなりかけた道を下りかけて左方のピークが気になり細い踏跡を辿る。 ツツジが多い様だがその季節では藪で通行困難かも?!!周辺の山々の展望は効かず・茗荷谷山だけ頭を出しているのが見える。引きき返して先へ…中継用簡易アンテナのある向山(389m AM9:40)を経て遠城寺山(4等三角点 374m AM9:48)に着く。城の名がある山だが、此処より対峙する黒谷山の平坦なピークの方がズット山城の感じがする。 この先はしばらく続く細い踏み跡も直ぐに途切れてしまいます。
本庄丸山城と森鼻館居館(民家が推定地)

急斜面から谷筋に向って下り始めるとテープが現れるが谷筋を降り黒谷山への峠に続く谷筋に向うようである。私はテープ無視して池の近くの舗装林道終点にあるロッジ風の建物前に出て来た。此処には4〜5基の風変わりな 創作風車がクルクル廻っていた(AM10:00)。猪垣を跨いで踏み跡に入って行くと自然に尾根に取り付いている。相当に荒れた道で遠城寺山からの稜線より一つ西の稜線伝いに黒谷山に向かっている。道は合流しても代わり映えのしない 踏み跡だが平坦な山頂に出て歩きやすくなるが此れも黒谷山(4等三角点 374m AM10:30)まで。わずかに頭を出した三角点標が埋まっている。326mピークに行きたかったが方向を少し違えて北へ雑木の中を谷に降り岩倉への古い林道 ?へ下る。

この後は焼山〜西鎌倉山〜駒宇佐八幡宮へ戻る周回の予定です。林道は殆ど自然にもどって雑木の中の山道と化しています。池の側を通りかかりましたがマタマタ雪が舞い始めています。折角の焼山の写真は 木々の向うに霞んでいます。田畑を抜けて車道と並行する武庫川に出ても橋の間隔が長くて岩倉橋に出ます。北山さんコースの点名・岩倉へは 取り付き点も検討が付きませんので曹洞宗・五葉院と焼山の間の谷をめざすことにします。車道から民家の間を山に入る道を取りますがことごとく民家の庭で行き止まり(AM11:10)。思 い切って直接焼山への尾根道を探したほうが良かったのかも?、 地図なし山行なので・急斜なこの尾根が見かけ倒しなのかも知れないと考える余裕も有りません。
此処にも猪垣があり結構広い山道が続いています。寺跡のような石垣の綺麗な平坦地に椿の木が並んで植えてあったり、 その上部では大きな石積み後などが見られます。NHKケーブル埋設…の白いプラ柱のある分岐の左にテープが有るが、直進する急登コース?にもある。素直に左を行けば良かったが・焼山側に近い直進の急登コースを採ったが 一歩前進二歩後退のところも??稜上の20m程左下がTV中継アンテナ施設だった(AM11:35)。此れより焼山へ向う雑木の道には、こまめにといおうか、にぎやかなほどに赤テープが目立ちます。この手のテープは本当に必要なところには得てして無く、 無くても良いところに矢鱈目だって付けてあります。そしてその先を、行こうとする処では突然消えてしまったりするものです?? うんざりするテープを辿って西鎌倉山への主尾根分岐(AM11:55)から焼山の山頂 (455m 4等三角点 AM12:10〜15)此処には「山想同人」のプレートがあります。R176号線の虚空蔵山がみえる手前・坂を下りきって武庫川を渡る交差点で右手奥に姿をあらわす小さいが秀麗の焼山に心惹かれていましたから、 その頂からの展望も大いに期待していたのですが、いま辿ってきた須磨田三山の展望はありません。わずかに木の間越しでは余り喜べません。山頂から南へ岩倉への道があります。登り口が判明すれば次回はこのコースが良さそうです。 東側への下降ルートもありました。縦走路に戻って引き返し西鎌倉山は頂上付近の鉄塔手前に 幾つかの露岩がありこの辺りから今回初めて展望良好の場所に出ます。白髪岳も顔を出してきます。虚空蔵山と手前には 海見山から続く太平三山の山並みが、またも降り出し風で流れる雪に霞んできます。西鎌倉山最高地点(460m PM12:38)は鉄塔No36南側の藪の中です。早々に退散して巡視路No35のプラ階段で整備されているところもある道を 下り続けると小さな祠がある狭い平坦地がある。直ぐに車道と並ぶコンクリート壁に沿って巡視路から車道に降立つと一頭足で幡尻川の奥田橋を渡りバス転回所に着く。ゴルフ場SPRING FIELDの看板が見える。 右下手へとってハーブガーデンはたじ愛采園の看板(PM1:10)が建つ車道を駒宇佐八幡宮の駐車場に向う。積もりもしない雪がまた舞ってきた(PM1:20)。


本庄丸山城(森鼻城)と森鼻館
 
本庄丸山城(森鼻城) 城山 Ca291m  三田市東本庄(田中字城山)

篠山市から三田市藍本へと流れ出た武庫川が 穴口山山塊の北麓で極端に屈曲する「曲がり」に堀出雲守 曲り城がありR176線に架かる波田橋を経て北上する武庫川が東本庄附近で三田盆地の広野へと流れに出る辺り、 武庫川に囲まれた須磨田の山塊の南端に位置する茗荷谷山(点名:天神谷428m)から南へ派生する尾根の末 端のピークには、
本庄丸山城と森鼻館居館

北側を堀切で遮断した主郭部と南斜面には幾つもの段差を持って曲輪を並べる連郭式の三田の城の縄張りでは 最大規模(東西に幅80m・南北に走る尾根上に250m程の長さで続く)の山城の一つといわれ森鼻一族が居城した本庄丸山城が有りました。
民家西端(尾根先端)の曲輪跡?土塁切岸

本庄丸山城へは駒宇佐八幡宮に寄ったので、 上記の波田橋交差点から武庫川沿いの県道310号で向かったが、JR相野駅からの車道と交差するR176号「四ツ辻」を県道309号に入る。 武庫川に架かる”日之詰橋”北方に丸山城の在る城山と其の山裾に森鼻居館跡と推定されている茅葺民家が見える。
本庄丸山城 :主郭西切岸(深い激急斜面)

橋西詰めを武庫川沿い・又は更に西から北へxx工場に向かう車道は、貯水池(遠城寺池!!)側から武庫川へ流れ出る茗荷谷川に突き当たる。谷向かいが森鼻居館に比定の茅葺民家で、西側(左手 )の堂!?が建ち・手前を更に延びる道が其のまま藪っぽい尾根通しに丸山城に向かう。お堂?背後の高い切岸上には地神の五社大明神を祀る祠が在り、 一帯から西の尾根筋に!拡がる平坦段は屋敷跡とも思える。
城域中央部の大堀切

東本庄の武庫川を挟んで日之詰橋の南東には森本城が、本庄丸山城に呼応する位置に在る。城史についての詳細は不明ですが城主は赤松家一族の在地領主:森鼻氏といわれ永録年間(1558-70)頃には存在していたようです。城主・森鼻氏の居館跡と比定されている石垣・水堀をともなった民家側から行けそうだが、前回にも登城の大手道が確認できなかったので
第一曲輪群?の土塁虎口(左)…正面は櫓台?大土塁

東側の谷筋を詰めるべく集落最奥部に入っていく。 ただ山道は城址への枝尾根を外れて北方の茗荷谷山に向かうようなので、何時ものように二つばかりの谷筋の斜面をトラバースして 城山への尾根に取り付くと、 堀切に出て丸山城の城域に入り城山最高所(Ca291m)の主郭部!!??削平地だが数段の曲輪は浅く段差も不鮮明で土塁も無い。削平された尾根を100m程南へ進み主郭部の城域では最も広い曲輪に出た。
城域中央部の堀切土橋?から土塁虎口を…

方形で三方が土塁で囲まれ東側に上り土塁虎口を設けた通路。 踏み跡を辿って地神さん(五社大明神)を祀る祠の前に下りる。祠のある場所と其の左右に数段の曲輪跡。4‐5m程の切岸状の段差下の 広場西端にお堂が建ち東側が森鼻居館と推定される茅葺民家前。居館跡裏手の五社大明神は城の鎮守だったのでしょうか。林の離れた西端にも一基の石塔があった様ですがウッカリして確認していない。
第二曲輪群?:曲輪左右の肩に上り土塁

城主の供養碑だったかも知れないのに。元亀元年(永禄13年 1570)6月森鼻 越前守重頼・森鼻左衛門大輔が在城 していたようで播磨・清水寺へ藍庄之内曲村等の田地を寄進したことが「清水寺文書」に記されます。 城主・越前守の妻は赤松一族の藍岡本城主藍出雲守房清の妹という。
尾根南部の藪地を 抜け出ると直ぐ現れる土塁・堀切部

Ca290mの山頂に主郭部を置き、尾根の北端を堀切で分け、南側に続く尾根上に 曲輪を連ねる典型的な梯郭式山城で、堀切で区分された四つ程の曲輪群を独立させ、其々に土橋付堀切や堀切土塁虎口で上段の曲輪を警備している。中程に約5m近い切岸で他の曲輪と区画し、南端部には石積み補強?の竪堀もある。



森鼻居館175m  三田市東本庄

茗荷谷川が武庫川へ流れ出るところ 本庄丸山城のある城山から南へ延びる尾根の末端に接するところには遠城寺池が有って東側の高台周辺は「森鼻城居館跡」と呼ばれ本庄丸山城を 詰めとした豪族・森鼻氏居館跡と推定されている民家があり、居宅の南側には石垣を伴った2m幅の水堀があります。
森鼻氏の居館推定地

ただ民家の背後から城山へと続く部分には 傾斜も急になって城域に入るまで、堀切等の城の防御や生活遺構は確認出来ず、また民家の南側にある石垣を伴う水掘りも防備・補強の施設と 考えられる程のものでもない。また居館城としての伝承や地名は残されていないようなので、この居館と山城が同時に機能した施設であったのかどうかは検証されるものも無く不明のままです。
(三田市史 古代・中世資料 を参照)
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