「観福の森」から小柿渓谷へ 堂山~奥山(鎌ノ尾)~西奥山~羽束川発電所/点名:小柿
観福寺~堂山から奥山~西奥山/点名:小柿  H13年12月02日
観福寺背後の堂山「とりで広場」より大船山・羽束山(中央に霞む)・烏ヶ岳

近畿の山城 川原砦 十倉城と十倉館 酒井砦と酒井北砦
三田の民話 十倉城異変

観福寺(摂津国霊場第15番札所):羽束川に沿う此処高平は小柿を経て丹波の日置・曾地に通じる 丹波街道筋にあたり多田源氏の時代から開かれた文化の中心地が光明山観福寺。孝徳天皇の大化年中(645頃)法道仙人開基を伝える真言宗の古刹(本尊・十一面観世音菩薩)で酒井<羽束川を挟んで西>の延喜式内社売布神社の別当寺。長元元年(976)大地震で伽藍が大破・寛和2年(986)頃より源満仲(多田源氏の祖)が伽藍を造営し高売布神社の別当寺とした。
観福寺山門

天文10年(1541)に火災で焼失したが翌11年には十倉城主森本備後守が 再建に着手し天文17年(1548)落成した山門(県指定重要文化財)は、入母屋造り三間一戸八脚門で単層だが上部木組みは楼門・弘治2年(1556)には伽藍が完工。河原観音と称され参詣者を集めている。明治18年に本堂と本尊を焼失した為、 庫裡を本堂とし新たに聖観音を本尊として今に至り平成2年本堂・庫裡等が再建されました。山門の金剛力士像は天文17年の棟札には運慶作とある三田市指定文化財。
(三田市資料 観福寺の案内板を参照)


観福寺-堂山-奥山-西奥山-羽束川発電所/野外活動センタ-点名:小柿 2001年12月02日

観福寺背山から奥山(鎌ノ尾)さらに北へ延びる紅葉の稜線をトレース。高平ふるさと交流センタを少し戻った県道507号(島・川原線)分岐に観福寺・方広寺(黄檗宗の唐風の山門や紅葉と枯山水の石庭で知られる)の案内標がありセンタから5分も歩けば観福寺の山門(AM8:50)に着く。「観福の森」はセンタを基点に裏山の堂山から峠を経て一巡する整備(H11.5)されたコースは交流センターからも直上する道もある。
ふるさと交流センターと川原砦の堂山と水平尾根右端に出曲輪?

正面石段の左手から始まるのが 三十三ヶ所のミニ霊場巡りの道です。10分余りで交流センタ側からのコースと合流する尾根筋の西側に突き出た台地状の小山(Ca250)には周囲を崩れかけた土練塀で囲まれて金毘羅宮(AM8:58)が祀られています。 分岐へ引返して尾根続きのミニ霊場道を「砦広場」に向かう。山稜の最奥に見えるのが奥山(鎌ノ尾)のようです。尾根を辿り南方に視界の広がる展望台「とりで広場」光明山=堂山330mに着く。羽束川流域左右の山々、 とりわけ大船山・羽束山・烏ヶ岳の三山は写真に収めたいところです。北への稜線は快適なコナラやアベマキの 雑木尾根が続く遊歩道で鞍部から西方へ 「みずべ広場」公園を交流センタに戻れる。
観福寺山門と川原砦(堂山330m)

此処は布木峠?(AM9:10)で東方の末吉への踏み跡もあるが 稜線を奥山へと辿る道は!!一休禅師の言葉「迷わず行けよ 行けば分かる」が頭をよぎる。思案に及ばず数mも進めば境界ポールの明瞭な道が現われる。雑木藪で通行困難となってきても 足下の道はハッキリしていますので踏み外すことはない。359mピークからは雑木を通して少し展望もある尾根となり期待したがやっぱり 藪と植林帯の中、緩やかな登りが続き 露岩が目立ち始める。尾根の西側に幾つもの岩が並び、布木や小柿を見下ろしている石仏が並んでいるように見える。
小柿からの奥山~寺山/大船山

樹木がなければ里から見上げる岩が稲刈り鎌の目のギザギザに見えたので鎌ノ尾の名があるのかな…うがった考えは間違っていたかも。 山頂直下は急斜で深い落葉に足を取られて何度も滑るのを立木で支えながら登る。奥山(3等三角点は別名?:鎌ノ尾 点名:非相山447m山頂は展望がない。少し先に将棋倒し状の岩(5~6枚の将棋の駒を倒したような高さ1m 程の岩場がある。平坦だが藪っぽい尾根を抜けると 狭い平坦地に出た東の稜線 ?に沿って末吉へ道は続いているが辿る西奥山への稜線は北へ向かう。 少し迷ったが北へは峠に向って一挙に下降するだけの道。
観福の森:堂山(川原砦)

目標の赤白鉄塔が見える方向確認して下降布木谷峠(AM10:10)はどちらも倒木等で相当荒れているが小柿の東村と末吉への踏み跡は続いています。峠から10分程登れば突然ザラ場の尾根に出る。展望良く三国ヶ嶽から南への稜線・ 大船山~昼ヶ岳へと今日一番の三田の里山展望台ですが展望尾根は30m程で再び植林帯の中へです。此処からも10分程で送電線鉄塔。手前が最高所だが平坦な藪中で展望の無い行止まりが西奥 592mです。赤白鉄塔の東播線No15から三角ピークを突上げる三国ヶ嶽が美しい姿を見せる。尾根に沿っての巡視路はNo14をとって 北へ回り込むように進む…興味ある快適尾根だが何時かの機会を待って西へ下る。
観福の森:堂山から 丘陵を二分する切通道に降る

尾根を辿ってそのまま野外センタまで行けないものかと思案しながら巡視路を進みNo16へ出て更に下り沢に降り立ちNo17へ登り直す。この沢を下れば小柿東口へ出る道です。 稜上に出て1~2分でNo18鉄塔で尾根続き南は野外センタのはずが侵入箇所が見つからずどんどん西に向かう。三国ヶ嶽の岩場と山様に見惚れての仕業です。No19鉄塔へ来てしまい結構行き来する車音が耳に響きます。 鉄塔奥に見えるのが君ヶ尾なら稜線上の岩場の大きいのが天狗岩か?!!鉄塔No19の直ぐ下は送水構・その先は砂処理用施設があり長い(116m)水圧鉄管が延びています。
東播線鉄塔No19から三国ヶ嶽と君ヶ尾!

此処は羽束川発電所の中。水圧鉄管に沿って降りても金網フエンスを乗り越えて…とも行かず水神を祀る祠から川に出たが今度は渡渉点が見つからず川中の飛び石は遠かったり近くても濡れて滑りそう…なんとか渡り終え発電所前バス停に着いた (AM11:55)。羽束川渓谷に沿って高平に戻る途中に感應寺と川を挟んで野外活動センタがある。釣りファンには知られたスポットらしく閑散としたセンタとは対照的に小柿渓谷は盛況振りです。小柿の県道を挟んでは点名小柿に対峙する野外センタ側の小柿に寄ってみる。 橋を渡るところから見えているピークが小柿だとばかり思っていたのだが…管理棟で入山の旨ことわって正面の「登山道」標識に沿って左端の尾根を登る道は正面のバンガローからも右側へ掲揚ポール⇒時計柱⇒ロッジの脇からもあるが結果は右端のロッジから登れば三角点探しで迷うこともない。
野外活動センターと点名:小柿(最高所ではなく稜線中央部の突起)

管理棟(PM12:10)から広い施設内のハイキングコースは中央からのコースと合流して天体観測所(PM12:25)へ出てくる。 此処から階段登りで稜線最高所の木製展望台に着く(PM12:30)。羽束川に沿って三国ヶ嶽・小柿山?・行者山等西面の山々の起伏が見渡せ、展望所から北のピークに向かおうとしたが「これより私有地につき」立入禁止札がある。 小道は続いてはいるが先に鉄塔 No18付近から此処へ降りようとした尾根道が判らないようなのでピークから先は藪だろう。ピークハンターも寄らない無名の山・しかも立入禁止では仕方がない。ハイキングコースを南へ下って行くと左手に三角点の標識と標識がなければ 判らないほどの藪の中・石に囲まれて土に埋もれた標石がある【点名:小柿(4等三角点359m)】下り始めてコースは西下に向います。
点名:小柿

尾根を直進すれば東村辺り迄稜線を辿れるのですが此処も「これより私有地につき」です。 西下には第二展望台があり最高所展望台と私有地ピークが見えます。下方に拡がる野外センタに向かって下りロッジの横から時計柱のある芝生に出てきました。管理棟に帰着の報告(PM12:55)に行くがセンタ利用者もいなくて職員も手持ち無沙汰のよう!! 其れに比して小柿渓谷で釣りに興じる人の多いこと。感應寺前の広い駐車場は満車状態。高平に帰る途中、橋から覗き込んでみると大きなニジマスやイワナが釣り師の前を悠々と泳いでいます。 見えてる魚が釣れないなんて…と素人の私は思ってしまうがフライだ・ルアーだ・餌付けだとポイントや釣り方も指定されているようです。高平の交流センタに帰着(PM13:35)して三田の里山を後に県道を南下します。


川原砦 十倉城と十倉館  酒井砦と酒井北砦

川原砦
堂山330m 三田市川原

羽束川に沿って県道37号線を北上・大船山の裾を走り高平ふるさと交流センタに着きます。 交流センタの裏山一帯は高平の里
金毘羅宮(川原砦の西出曲輪!?)

「観福の森」として里山ハイキングコースが(H11.5)整備されました。ふるさと交流センターからも登れるが、観福寺墓地から山頂に至る散策 道には 江戸時代頃?の西国三十三ヶ所の石仏が並ぶミニ観音霊場巡礼路を「とりで広場」の堂山(光明山!? 330m)山頂に向かう石仏道は尾根筋の西側に延び出す水平尾根の稜線道に出る。
”とりで広場”堂山山頂の川原砦主曲輪

高平ふるさと交流センターからの遊歩道も此の尾根に直上してきます。県道37号線に突出す丘陵尾根先の小ピーク付近・突き出た台地状の小山250mには 周囲を崩れかけた土練塀で囲まれた金毘羅宮が祀られている。領内と直下(高平の南入口:木器<こうづき>と後川<しつかわ>を繋ぐ羽束川沿い)の間道通行監視には絶好の見張り台となる川原砦の出曲輪跡か?。
主郭尾根曲輪群北端の低土塁

小祠は一段低く三方を帯曲輪が捲く。休憩用のベンチ等が設置されているが祭祀の為や展望休憩所として公園整備されたスペースとも思えない?。霊場石仏は 尾根筋東に続き、直ぐ上方に望める堂山山頂へは少し傾斜を増す上りで南方に展望が拡がるとりで広場に着く。ミニ巡礼路も此処が終端になっていて西国三十三ヶ所の別格:花山院(花山法皇)と長野・善光寺各本尊の石仏が有ります。
主郭尾根北端低土塁下:階段遊歩道横の土橋付堀切?(遊歩道側は壊滅?)

切岸上に建物屋根が見えてくると砦の櫓台を連想するが直ぐ山頂広場の東屋休憩所と判る。とりで広場は本当の砦!!のあった処で室町後期には堂山330m頂部に主曲輪を置き・北尾根続きを深く分ける切通しが 丘陵部を二分する半独立状丘陵北尾根続きに掛けて築かれた川原砦は城主等の城史詳細は不明だが山麓の川原にある観福寺が十倉城主・森本氏に 縁があり「川原砦」は其の一族・同族の勢力による十倉城!!?の出城(砦)と推測されます。
川原砦を半独立丘陵に分ける大切通道

西500mの集落内には多田荘の御家人・森本氏の居館高平田中城(田中字二ノ坪)と伝えられる通称「裏門」と呼ばれる場所には井戸跡が残り、平安時代初期~鎌倉期初期の水路や掘立柱跡等の遺構が確認されてるが発掘調査後は宅地や水田で未訪ながら 下記・十倉館と同様に推定するだけの状態なのかもしれない…?

十倉館と十倉城
十倉館(十倉城居館)
  三田市十倉字中屋
十倉城(森本城)  城山(三角山) 396m 三田市十倉字城山
長慶寺(左)から十倉城を遠望

長慶寺への地区道を登山口へ向かう右手に高く望む大船山を前に左手(北)に見える三角垂状の山容を見せる小山が三角山(城山)の十倉城(森本城)。三田の民話には城主と奥方に纏わる話が伝わる。篠山市後川から三田市木器へと抜ける丹波街道の間道を南北に流れる 羽束川に沿って県道37号線を北上する高平地区の東に連なる峰には一段と高く空に突き出す 大船山が迫って見える。
十倉館跡推定(圃場整備等で消滅?)長慶寺南西約150m付近

その大船山へは高平地区中央部の十倉集落の十倉登山口<十倉バス停>からの長慶寺への道を辿ります。曹洞宗・見高山長慶寺の東南には鎮守の森があり南側に小さいが溝の深い米山川を挟んで拡がる段差の多い耕地の中に十倉城居館がある。平安時代中期頃:森本氏の祖となる源満仲の嫡孫福田陸奥守(源)頼遠が 居館していたと考えられる。
林道入口近く:杣道沿いにみる低土塁囲みの曲輪?<木戸口・番小屋!!?

羽束川同様に宝塚北部・千刈ダムに流れ込む波豆川沿い県道68号にも 普明寺の龍神馬(宝塚の伝説)が伝わる。高平地区は多田源氏の多田庄に属しており、福田氏は多田氏の庄園領主・代官として此処に赴任していたものか。明治29年(1896)有馬郡【三田市・西宮市北部・神戸市北区の東部】に移管されるまでは摂津国川辺郡(現在の猪名川町の他・伊丹市・川西市や宝塚市等を含む)に属していた。
十倉城西曲輪に至る小曲輪群・右手に帯曲輪?・犬走りが城域東端まで延びる

発掘調査後の一帯は圃場整備で消滅し遺構が残らない!?。田圃の畦沿いに深く屈曲する溝谷と其の川筋近くの段差を水濠や土塁跡を推測するだけだが十倉館の直ぐ背後に十倉山が迫り、構居と詰の城の関係が窺い知れます。昔・穀物を納める代官所の官倉が数多く 建てられていたのが十倉の地名の由来です。
十倉城西郭から主郭(櫓台!?)南側を帯曲輪が東郭(手前)まで捲く

十倉城へは長慶寺の先の民家から谷筋に続く 大船山への林道・登山コース入口のチェーンゲートを越して直ぐ(20m程)の処から尾根に取り付ける踏み跡を見つけた。
十倉城大船山から 上カイホへと連なる尾根から西に派生する小尾根の末端ピークCa396mに主郭を置く 梯郭式の山城です。西山麓の 林道から急斜面に踏み 跡を辿って曲輪群の西端へ出てくると細く険しい岩尾根上に5-6段の小さく 削平もあまい曲輪が続きます。細長く狭い曲輪を繋ぐ為か尾根の左右に通路兼用!!の腰曲輪・帯曲輪が付属しています。
十倉城西曲輪(三ノ丸)

城山の最高地点 Ca396mにある主曲輪の西面には残置石塁とおもわれる露岩が目立ちます。主郭東端には整然と並べられた石列があり、西の急斜面に竪堀を見てさらに尾根の鞍部左右の竪堀を経て少し先のピークに行ってみると4~5個の岩が山頂の半分を占める程の狭い場所があり此処から先は何も遺構は無さそうです。有事の際の落し岩なんでしょうか!?。
十倉城主郭東端の石列

十倉城居館の森本氏は源満仲の嫡孫で福田陸奥守(源)頼遠とされ森本氏は福田氏の子孫にあたるといわれます。観福寺の仁王門棟札には天文17年(1548)頃の領主?森本備後守信正の名が十倉今宮神社の棟札には天文22年(1553)頃の十倉城主森本近江守孫兵衛光房の名前が 残っています。永禄年間(1558-70)頃に城主森本備後守入道道賀の奥方は:三田の民話十倉城異変として登場する。


十倉城異変!! (三田の民話 三田市教育委員会発行から

大船山北の小山に十倉城があり本丸や曲輪が残るが城史詳細は不詳…十倉城主森本備後守入道道賀は奥方を赤松一族の別所氏から迎えていました。奥方は哀れみ深く、身も心も美しく憐れみ深い人柄は城中でも評判でしたが、 何時の頃からか奥方は敵対することとなってしまった別所氏のまわし者らしいとの讒言(噂が立ち)から、何かにつけ奥方を悪く云うようになり無実の疑いをかけれた奥方は強く否定したが
十倉館附近から十倉城遠望:此の神社付近の方が居館跡の雰囲気だが?

城主道賀も疑いを抱くようになる。正直に答えるほど道賀の怒りをかい"主人に向かって口答え"したと逆上した道賀は、奥方の首をはねて首と胴を別々にして埋めてしまいます。その後、首塚や館には 毎晩のように亡霊が出はじめ夢にうなされた道賀は無実を訴える奥方を疑い打ち首にした自分の仕打ちを悔いて首と胴を一緒にして法要を行ない丁重に供養しました。それ以来・亡霊は出なくなり元の平和な十倉に戻ったと…

酒井砦と酒井北砦
酒井砦
   行者山!? 294m  三田市酒井
酒井北砦
 xxx  Ca280m  三田市酒井

高売布神社:背後の神南備山?は酒井砦
JR三田駅前から市役所前を抜けR176号「三輪交差点」を直進する県道37号線は志手原を木器(こうづき)に・此処から羽束川沿いに 北上する高平地区「つくしの里」に上槻瀬砦を訪ね、十倉集落に十倉館・十倉城を先に訪れたが、高平小学校の直ぐ北方で県道から左折する地区道を進むと酒井集落内に創建時期は不詳ながら推古天皇(在位554-628年)の代に勧進されたと伝えられる延喜(延喜式神名帳の編纂は延長5年(927完成)式内社 高売布(たかめふ)神社(三田市酒井字宮の脇)前を通る。
酒井砦:左端に高売布神社

高平地区は上記十倉城と十倉館にも記した様に、明治29年(1896)有馬郡【三田市・西宮市や神戸市一部】に移管されるまで摂津国川辺郡 (現在の猪名川町や伊丹市・川西市や宝塚市等を含む)に属した。平安時代中期になると多田源氏の祖源満仲が 当地の領主になると多田庄に属した川辺郡西北部庄園の鎮護の神として高売布神社を崇め惣社と定め天永2年境内に槻の木を50株植えたと伝えらる。天正13年(1585)摂津麻田藩初代
酒井砦主郭の役行者像と 一段下の帯曲輪

藩主:青木一重が豊島郡内等に1万石を与えられ、近世(江戸時代)には豊島郡麻田<豊中市蛍池に陣屋が置かれた(麻田藩領;摂津国川辺郡13ヶ村を領した)に 属し寛永3年(1626)には藩主青木家の祈願所として累代藩主の崇敬をあつめ庇護されてきたが、いつの頃からか神仏混合し?荷月大明神と称されたが 江戸時代中期 :元文元年(1736)並河誠所(儒学・地理学者で地誌<五畿内志の編纂>や延喜式内社)の調査によって高売布神社に比定され、改めて社号を高売布神社としています。
酒井砦:土橋付き堀切から主郭の切岸

祭神に下照比売命【大国主命と市杵島姫命の子】を奉る延喜式内社:永正10年(1513)越前守小野時家が社殿を再建した棟札が残る。一間社流造桧皮葺きの 本殿(国指定重要有形文化財)は美嚢郡吉川町(現:加東市)の播州日原大工集団により棟梁は藤原光吉・宗次。本殿彫刻装飾は草花を主題にしたもので、再建された時代ともに貴重な建築物。
酒井砦主郭と一段下の帯曲輪

明治6年(1873)郷社として酒井・十倉・田中・川原・布木・末吉各村の神社【應神天皇・倉稻魂命・闇山祇神・國玉姫命・菅原道眞 ・市杵嶋姫命・大年命・若年命】が合祀され兵庫県観光百選地に指定されている。高売布神社前の地区道を50m程北・道を隔てた東側に石鳥居と正面に 岩座と思える大石が大船山を望む位置に一つ置かれている。大船山は丹波(摂津?)修験の山だったはずだが…?神南備山だったか?とも思えたが”皇祖遥拝所”石碑が立つ。伊勢神宮に祀られる皇祖:天照皇大神の遥拝所の様ですネ!!。
酒井北砦(正面)

神南備山なら高売布神社の北西背後の標高294m(比高80m程)の低丘陵なのでしょう。 しかし此れから向かう此の山の頂部が
酒井砦です。丘陵南末端からと向かった工場内奥へは立入り禁止・引返し東正面集落北寄りに見える墓地か祠参道らしい取付きもあるが、集落を流れる溝谷奥の貯水池付近の北尾根先からが良さそう。短いが比較的緩やかな上りが傾斜し始める辺りに土橋付の浅い掘切があり一気に駆け上る斜面上方が 主郭か!切岸を立てる北末端の低土塁が開く虎口か?溝状通路を曲輪に入る。
酒井北砦の登城口は友松寺から

丘陵最高所の主曲輪(25㎡程)と其の一段下(段差1.5-2m程)周囲を帯曲輪(幅5-7m程)がグルリと一重するだけの単郭だが残存状態は比較的良い。小さな丘陵頂部の自然石の上には 一帯の小山にも観る石佛が一基祀られている。「山上講中」素朴な!?石彫像は石座の左右に前鬼・後鬼が従っている様にも見えるが杖を持たず瞑想する役行者像?・此処も地元では行者山と呼ばれているのかも。
酒井北砦堀切(尾根続き北側から)

羽束川・県道37号線を隔てる東正面には修験の山大船山が、其の北隣りに集落近くに見える三角山が当地領主:森本氏の 十倉城。酒井砦が十倉城の呼応する城砦群の一つとは他に領内有力勢力はなさそうで 森本氏一族 ・配下の城とは推測出来ます。南尾根筋を辿って灌漑用水池に降り、高売布神社北40m程の民家庭先に出てきた。酒井北砦は高売布神社前から地区道を北へ進むと酒井公民館前交差点を右折すると羽束川を渡り県道37号線酒井・十倉側へ向かう。
酒井北砦堀切(主郭側の土塁は塹壕・竪土塁・上り土塁を兼ねている!!?)

直進すると北方からの低丘陵尾根末端が地区道に落ち込む裾を回り込み進むが、 手前左手から民家側を山手に入る幅狭い車道が案内標識等は無い ?が友松寺(曹洞宗)に向かう。山門に向かう石段参道には春には見事な花の門になるだろう桜木が立つ。山門の奥には左右・正面を苔生す高石垣が囲う枡形虎口を想わせる重厚な参道の奥2-3段上に本堂が在る。 酒井北砦へは車道を詰め駐車スペースの本堂1段下(庫裡手前)に入る車道右手、丘陵裾を走る溝谷を渡る丸木橋が架けられた所から踏み跡を辿ると直ぐ丘陵上からの谷筋は砦尾根続きを 遮断する堀切から此処まで落ちてきている様子。
酒井北砦堀切:右手の土塁は塹壕・竪土塁・上り土塁を兼ねている!!?)

尾根続き北西へは 緩斜な幅狭い尾根筋が延びるだけだが友松寺側からの山道がある様子?。城域は堀切【尾根筋部分は深さを失い土橋付きの様にも見える?が左右の堀切は長く深い・主郭側堀切上部は土塁で一段下の帯状曲輪から堀切東面を伺う竪土塁と上り土塁を兼ねているよう・更に土塁内側の小曲輪は土塁に囲まれた 塹壕状だが、西南側を帯曲輪へ回り込み主郭に入る】から最上部の平坦地形が主郭 (20X25m程)で愛宕社の他毘沙門か金毘羅の二社が祀られている。
酒井北砦主郭

南東からの参道は 友松寺山門手前の建物跡の石垣が遺る処から通じている。参道からの主郭部も切岸は 5-6mと高いが、 単郭の砦なので参道筋の正面が登城道とは思えず、切岸加工に見える部分も祠建設に伴う改修整地なのでしょう?。酒井北砦は南に約800mを隔てた酒井砦と共に領主:森本氏の十倉城に呼応する城砦群なのでしょう。
(高売布神社案内板 Wikipedia等参照)
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