摂丹境界三国嶽(点名:天井畑)〜天狗岩・峰ヶ畠〜扶美ヶ岳・美濃坂峠〜三国ヶ岳
北攝   (五万図=篠山)
 T:永沢寺展望所〜三国嶽(点名:天井畑 3等 698m)〜天狗岩 2000年09月10日
 U:銀水バス停〜峰ヶ畠(乙原岳660m)〜扶美ヶ岳(641m) 2000年09月10日
 V:美濃坂峠・母子の茶畑〜三国ヶ岳(2等 648m) 2008年06月21日

三田のおはなし 比僧山感應寺  竜神池の金の鶏

T三国ヶ嶽(点名:天井畑)〜天狗岩     2000年09月10日

丹波茶所の味間茶と並ぶ 母子(もうし)茶の里は攝津・丹波境界にあり、 此処から二つの三国岳を目指します。 篠山との国境:美濃坂から向う三国ヶ岳は小川芋銭(うせん)の「丹波霧海」 で有名となったところです(そのV)。先ずは永沢寺(えいたくじ)【寺は永澤寺(ようたくじ)】から三田乙原側への峠道から、此のコース1番のビューポイント天狗岩まで辿ってみる。
美濃坂峠〜三国ヶ岳へ・母子の茶畑

駐車スペースは 永沢寺を見下ろす位置に展望所がありここにも数台駐車可能です(AM8:10)。乙原からの永沢寺を結ぶ峠最高点に柴田ファームの看板と「花とみのりの里 永沢寺」のポールがあり電柱の横から踏跡に入ると 「永沢寺国有林」の錆びた看板と火の用心・山火事注意の横断幕が足元の下草に隠れるように落ちています。途中には明治33年"山"の境界石柱も有る古い道ですがMTBでも楽々道はこの先感応寺への 下降尾根コース分岐まで続きます。分岐は、つい感応寺への右手へ尾根に入ってしまいそうです。今の感応寺は参道への入り口に大きな駐車場がありますので、此方からのコースも要検討です。 寺も車道からだと見えませんが雰囲気良さそうです。感応寺が昔山頂に有ったということですが、この分岐付近ではなかったでしょうか。此処なら水場は南の尾根少し下れば得られます。 雑木と植林の広い尾根筋です。踏み跡薄い正面を辿れば三国ヶ嶽 (3等三角点 点名 :天井畑 698m)山頂ですが展望皆無です(AM8:30)。峠から高低差約100mはこの時期楽勝です。 右手に踏み跡がありますが正面の左よりの薄い踏み跡を辿って直進して東に下降します。鞍部からは藪の中の踏み跡に露岩が目立ってきます。久方ぶりの丹波の岩の感触を楽しみます。 乾いた白い岩場に変わるとそこが天狗岩です。後ほんの数mです。岩に手をかけ越えようとして思わず手を引っ込めます。岩の先で2匹のマムシが重なってとぐろをまいています。危うく掴んでしまうところでした。 天狗岩の北側は切れ落ちていますが藪の中の岩場では高度感もさしてありません。しかし展望は良く、多紀アルプスの全貌が望めます。狭い場所だが展望を楽しむ岩椅子まで用意されています。 これより摂丹国境のp545〜p366(三角点)まで一気に下降トレースしたいが、此れよりは細い踏跡さえ消えて藪漕ぎの為・駐車駐車場へ引返す(9:45)。


U 峰ヶ畑(乙原岳)〜扶美ヶ岳     2000年09月10日

永沢寺からの峠を乙原へ向かって下り始めると送電線と赤白鉄塔の 峰ヶ畑が顔を出しています。萱葺き屋根の"わらび茶屋"とバス停銀水前の中間辺りに広い駐車スペースがあります(AM9:35)。スペースの南端には何か祀っつてあるようで何かが彫られていたような 痕跡の有る岩が鎮座しています。これより僅か30mほど永沢寺方面に戻りますと「あの黄色い看板ナニ!!」…(乙原公園造林地)の表示とその前にNo23の巡視路が伸びていきます。峰ヶ畑と扶美ヶ岳を結ぶ 尾根に続いており送電線下辺りは露岩累々の目立つ急騰が続きますが道は整備されています。但し露岩帯前後は蜘蛛の巣砦からの攻撃すざまじく、小枝もすぐに丸みを帯びてきますし,うっかりすれば顔面にへばりつきます。1つ手前の鉄塔横を抜けて稜線の分岐へ出れば 10分ばかりで峰ヶ畑の反射板と送電線鉄塔ですが目前のアンテナ鉄塔が最高点のようですので金網を回り込んで行ってみます。アンテナ塔へ向かう細い藪道とは別に明瞭な道が南に下降続いています。稜線分岐 (10:15)から峰ヶ畑(乙原岳 660m)・15分程で分岐に戻り、これよりは不明瞭なところもある細い踏み跡を辿っての暗い道を、扶美ヶ岳へ向かうが山頂付近以外展望は望めません。
永澤寺の花菖蒲園

踏み跡は一旦尾根を外れ左の谷筋へ向かいますが谷出会いの湿地帯 ・ヌタ場!を過ぎると右へ戻り気味に元の稜線に・・古いテープが有り消えかかった踏み跡はやがて尾根の端の最高地点の平坦地に着く。ここが扶美ヶ岳(641m 10:55)付近に三角点等探してみたが見当たらない。 この先下りで明瞭な道が現れるが藪の中なので時々外れながら古い峠道(3m幅)に降り立つ。左へは永沢寺・大根川沿いの何処かへ出るようだが乙原側へ出るため右への道を採るが炭焼釜のある谷へ出て行き止まりとなる。突き当たりの尾根を這い上がっても元の稜線に出れば好い方なので…いつもの谷渡りです。谷筋を下りながら右手へ右手へ尾根筋〜谷筋〜…藪のトラバースを重ねます。濡れた谷筋で滑り、木に掴まって転倒を避けましたがまたしても…すぐ足元にマムシです。止まらず滑り込んでいたら…と思うと冷汗ものです。どうやら尾根北東端の641mピークから南へ延びる尾根末端を巻いたようで小さな藪の 谷筋を下ると萱葺き屋根の"わらび茶屋"の前の車道に飛びだしました。(11:40)駐車場所へはゆっくり歩いても10分時間は十分有り余っているのですが、この暑さで中止・早々に帰りました。 いつもの私ではありません。


V 三国公園「ふきのとう休憩所」〜三国ヶ岳   2008.6.21

県道 49号線(三田篠山線)の美濃坂峠(駐車スペースと、景観は余り期待出来ないが東屋展望デッキのある休憩所)から少し三田市側に坂を上る最高地点(Ca495m)には三国公園「ふきのとう休憩所」 (駐車スペース2〜3台)があり三国ヶ岳登山口となっています。江戸時代後期:嘉永6年(1853)の刻印の「馬頭観音」の石碑からは、厳しい峠越えの情景が浮かびますが、道標石には「右:中野村・左:永澤寺三田街道」とあり、県道拡張工事等で峠を下った 母子の三叉路に在ったものが此処に移されたものか? 道路標識を見て中野村とは有馬郡中野村(三田市広野)ではと思ってみる。
美濃坂峠〜三国ヶ岳へ・母子の茶畑

此処から三国ヶ岳までは約 0.5km・高級茶葉で知られた母子(もうし)の茶畑に沿って広く緩やかな 旧峠越えの間道(作業林道?)。此の道が下り始める地点から分岐して茶畑に沿った山道に分岐するが、近畿自然歩道の大きな道標・良く踏まれた迷うこと無い道が三国ヶ岳(2等三角点 648m)山頂へと 続く片道20分程度のお気軽コースです。ただ松茸山と狩猟期にかかる11月中旬〜2月中旬までは止山としての入山禁止・狩猟期では安全のため入山を控えるか注意が必要です。肝心の霧海展望所となる 山頂に立てないのは残念です。小川芋銭(うせん)が院展(大正13年)に出品した「丹波霧海」 【正式画題はなんだったか?・・西山泊雲(西山酒造)の客人として 丹波市島の石像寺の逗留していた時の作品と思っているのですが?】で有名となったのが美濃坂峠なら篠山・小枕側に下った展望所の有るところ!!。
三国ヶ岳山頂からの 篠山盆地

三国公園「ふきのとう休憩所」に立つ 「丹波朝霧のみち」の説明文からも、此の位置からは三田側の母子へ下っていく 車道を見るだけで丹波側は望めない。以前は藪ひどく三国岳に着いても展 望皆無でしたが、 今では山頂部を広く切り開かれ、景観図も設置されています。山上からは北摂・丹波の山々の展望が開けます。 北正面には多紀アルプス ・佐仲三山(夏栗山・黒頭峰・三尾山 )右肩に高城山(八上城)を・真横一列(東西)に流れる篠山川沿いに小さな島が点在するように般若寺城 ・勝山砦(ゴルフ場)・塚の山砦等数多くの向城群や篠山城と城下の市街地、東には弥十郎ヶ岳・大野山、 南には白髪岳・松尾山・正面に千丈寺山の尖がり峰と羽束山の丸い頂部も頭を見せています。
永沢寺花しょうぶ園

南から東へ鉄塔を追って見渡すと間近に乙原岳(峰が畠)、永沢寺側の三国ヶ嶽が見える。西への峰続きには愛宕山・中尾の峰があり 此の三国ヶ岳を併せて太平三山とも云われます。太平山を山号とする龍蔵寺の修験:回峰行の山々であったとされます。R372号(デカンショ街道)からの近畿自然歩道は小枕川沿いに県道49号を美濃坂峠 ⇔三国ヶ岳を往復して母子から県道308号側から愛宕山へ向かい龍蔵寺を経て元のR372号(龍蔵寺口)へ下る周回ルートが紹介されています。愚図つく天気だが・短時間での立ち寄り可能で、 何とか雨が降り出すまでに県道49号の「ふきのとう休憩所」に戻って母子へ下り、今日の主目的地・永沢寺(えいたくじ:地名)に向かい、花の寺で知られる永澤寺(ようたくじ:寺名)の花菖蒲園に入る。


青原山永澤寺(曹洞宗)      三田市永沢寺82-3

丹波:篠山市からは 篠山城の傍を抜けて真南へと走ると県道49号(三田篠山線)があり、前方に立ちはだかる様に聳え立つ山並みに向かっていく。小枕川に沿って谷間の集落を抜け狭い九十九折れの急斜面を登り終えると、摂津 :三田市の母子(もうし)の茶畑が拡がる。「母子草」の名の由縁となった地名には、猫間中納言の奥方と姫が夫の菩提を弔うために手向ける 「奉公草(母子草)」の母子の伝説がある。母子からは尼ん滝の横を通って青野から千丈寺湖(青野ダム)へ出る県道308号線沿いの道と、 関西花の寺第11番札所で、春は芝桜の花のじゅうたん ・夏は回遊式の本格的な庭園。
永澤寺

「永沢寺(えいたくじ)花しょうぶ園」・冬は牡丹の名所としても有名な摂丹境の古刹永澤寺(ようたくじ)を通り、乙原から花山院 (西国33ヶ所霊場番外)に出て三田市街地に向う県道49号線沿いには、天狗・大蛇・落城悲話・観音像に関する多くの伝説や昔話が残る一帯で、永澤寺にも伝説が残されます。開祖となった通幻禅師の出生 (諸説有るようですが大分県国東市説が有力か?)自体が身籠って死んだ母親が葬られた後・墓の中で生まれたが、乳をあたえてやれない母親が幽霊となって夜ごと菓子屋に 飴を買いにやってきて、乳の代わりにあたえていたと言う。全国各地に残る「子育て幽霊や飴買い幽霊」伝説の中に、幾例か伝えられる「土中出誕の僧」として、京都丹波福知山(下川口)の牧氏居館に近い永明寺(曹洞宗)「乳授け寺」で知られ、開山の僧 ・大獄禅師【正平3年 (1348楠木正行が四条畷の戦いに戦死した頃の話として伝えられる)】も其の一人で、鹿児島の福唱寺の墓地が出生地とされます。その子が後:我が出生の話を聞き、母の菩提を弔う為に僧となり、 高僧として派を称えるに至った通幻禅師も大獄禅師も同様。「子育て幽霊や飴買い幽霊」伝説は曹洞宗の説法・布教手段とされたものでしょう。
永沢寺花しょうぶ園

禅師の説教を聴き通う怪女がいて「元の姿にかえりたいとも思うが、迷いが晴れず業に苦しんでいます。 どうか助けてください…」と懇願。禅師の教えによる千百十一日間の厳しい修業の末・満願の日を迎え、禅師が呪文を唱え一喝すると怪女は隆の姿に戻った。苦しみから解放されたお礼にと、鱗を9枚渡して (1枚残した…とも)、此の鱗に蛇淋水(じゃもくすい)を掛けて雨乞いすれば、どんな旱魃のときにも雨が降る…と伝えられる「通幻禅師と竜のうろこ」のお話しは市教育委員会の「三田の民話」等に紹介されています。この話しは通幻禅師を開祖とする永澤寺の末寺で、猪名川町の景福寺にもあり、同寺には8枚の龍のうろこがあったと伝えられており、 そのうちの一枚が永澤寺の[竜のうろこ ]伝説として逆流入したもの だろうか?永澤寺は応安年間(1368-75)【猪名川町の景福寺が 応安2年なので翌応安3年か!!】南北朝期(室町時代初期)の足利幕府管領職:細川頼之が後円融天皇の勅願を受けて七堂伽藍を建立し通幻寂霊禅師(元亨2年:1322-91:明徳2年)を開祖として開山された曹洞宗の禅寺です。
弁財天の北背後には永澤寺の金鶏門・茅葺の勅使門・玉兎門が並ぶ

禅寺なので本尊:釈迦如来(室町時代末期:享禄年間1528-32の作造)はわかりますが脇侍?に大日如来、阿弥陀如来を釈迦三尊として?祀られるが、曹洞宗では釈迦如来の脇侍には、二つの本山宗祖・永平寺の高祖 :道元禅師と總持寺の太祖:瑩山禅師を祀られるのですが、元々が大日如来・阿弥陀如来だったものが、後に二人の宗祖の置き代えられたのでしょうか!!?。他にも秋葉大権現、地蔵菩薩、観世音菩薩、生駒:信貴山本尊の御分霊毘沙門天が祀られています。昭和40年の台風で崩壊したが再建された勅使門は茅葺きでは全国で2カ所だけといわれ、徳川家康から勅願所として十万石を与えられる等・格式は高く、 玉兎門・金鶏門・山門(仁王門)の四つの門、本堂・開祖堂・妙高閣(平成6年に建立され薬師堂・観音堂を備えている)等の七堂伽藍が建ち並ぶ。勅使門の東側・玉兎門を出ると、車道を渡った正面に 「永沢寺花しょうぶ園」がある。寛文4年(1664)に描かれた図によると 一帯は大きな沼で、ノハナショウブが自生していたという。永澤寺が開かれた応安年間から池の守護神として弁財尊天が祀られていたとされます。しかし農業の発達とともに池は全て埋め立てられ田圃となり、 弁財尊天は寺庭に移されていました。
永沢寺花しょうぶ園

明治初年:此の地に 一家が耐えてしまう程の奇病が流行した。ある夜・村の長老の夢枕に弁天様が立たれ、「私を元の沼に返してほしい…」という。早速村人を集め、村の中心部だと思われる此の位置に池を掘り、弁天尊天を元の様に お祀りしたところ、不思議に病気も治り・奇病にかかる人も無くなった…と。花菖蒲園の改修に伴い弁天池の改修が行われ、新調された宮殿には元禄13年(1700)永澤寺住職の時に納められたとされる弁財天尊が祀られてます。 南方に拡がる3万3千uの「永沢寺花しょうぶ園」の敷地には、約650種300万株の花菖蒲の花が咲き、梅雨期の下で艶やかさを競っています。
(現地:永澤寺略縁起  及び花しょうぶ園内の弁財天案内板を参照)


比僧山感應寺と竜神池の金の鶏

小柿の地名は古くは小垣内といわれ元亀天皇(1570〜1591)頃は八上城主・波多野秀治の領地でした。感應寺は小柿渓谷の景勝地を前に三田市立野外活動センタと県道を挟んだ向かいから参道が続きます。桧の樹林が続く中、急勾配の長い自然石の苔むした石段が比僧山山頂の本堂・観音堂にと誘います。法道仙人開基の大化2年(646)創建で本尊は千手観世音菩薩像。その昔は母子(もうし)の三国岳648m山腹の通称 「龍神の池」辺にあったが織田信長の丹波平定の折、丹波の波多野氏援助の兵糧を感應寺から密かに永沢寺村を経て(篠山市)小枕から八上城に送っていたため光秀の夜襲にあって本堂焼失、本尊は寺僧により「こうもり岩」の洞窟に難を逃れたといわれ、寺宝であった金の鶏の置物が 池に投げ込まれたままで見つからなかったが何百年か後「龍神の池」からその金の鶏の鳴き声が聞こえた…。現在の感應寺は清運法師(第一世)によって今の地に再建。仙海法師(第七世)が目病を患った時、本尊・聖観世音菩薩に願をたて日夜祈念すれば、夢に気高い女人が現われ自ら手をとって光明加持の秘法を授けたとされ「眼が悪ければ感應寺へ」と今でも眼の仏様として地元では崇拝されています。寺宝の弘法大師行状図絵八巻は文政4年(1807)から三ヵ年を費やして完成した空海の一生を描いたもので毎年4月21日弘法大師の日に拝観することが出来ます。絵師・武田春祥作といわれ三田市指定(昭和62年)文化財となっています。


竜神池の金の鶏
 
小柿の奥に感応寺山(*補)があって、かつて数多くの塔頭があったそうで、 金の鶏の置物が寺宝として大切にされていました。天正3年(1575)頃から始まった丹波攻めで八上城の波多野秀治は明智光秀の軍勢を、一度は有名な「赤井の呼び込み戦法」で撃退したが天正6年(1578)八上城包囲作戦では 6ヶ月に余る篭城で落城しています。この頃のお話です。
明智光秀の軍勢は三田の寺々を攻めながら進み感應寺も波多野秀治の支配下にあったので攻められ焼かれてしまいました。寺の坊さん達は宝物が 光秀の手に渡るのは悔しいし、焼けるのは勿体無いと井戸の中や池の中へ投げて隠しました。その後、寺は山裾に移り新しく建て返られた為、寺宝も少しずつ探し出していったが金の鶏はどうしても見つかりません。 その後感応寺山へ入って山仕事をしていた若者が鶏の声を聞きつける。「はあて、こんな里から離れた場所で鶏の声が聞こえるはずがないのに!」と耳をすませます。なんと池の底から鳴き声がする。 空耳やろか…気味悪くなり早く山を降りることにしたが、妙なことにその声を聞いてからは仕事もはかどり、町に売りに行ったら何時もはあまり売れないのに直ぐ売れてしまう。 若者はもらった銭を大事にしまいこみ母親の好きなものを買って帰り今日のはなしをすると、昔に戦いがあった時、金の鶏を池に投げ込まれた…話しをする。それからも若者は山に入ったが度々鳴く声を聞いた日は 仕事がはかどり薪も良く売れた。このことが村人に知られていくうちに誰が言い出すともなく、鶏の鳴く池を「龍神池」と呼ぶようになったということです。 (三田の民話から)

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