県立一庫自然公園・知明山/向山・山下山(山下城)/高代寺山
兵庫(北攝)  (五万図=広根)
T高代寺山 高代寺〜高代寺山〜吉川城(長棚城)  2001年04月27日
U知明山 県立一庫公園 ・丘の駐車場〜知明山   2001年04月27日
V山下城 188m 向山〜242m峰〜古城山(山下城) 2001年04月27日
近畿の山城 : 長棚城(吉川城) 山下城(龍尾城・一蔵城)
一庫ダム(向山北山麓から)


T高代寺山 北摂の高野山「良寛さんも立寄った古刹」

H9.8.11妙見・天台山〜吉川〜高代寺〜高代寺山を歩いたが今回は逆の一庫ダム側から。登路は殆ど車道なので周回出来るよう 途中でデポすることを考えて知明山から降り、りんどう橋を渡って右折すぐ左折して保ノ谷へ向かう。高代寺山は東側・能勢妙見山と対峙する独立峰で、一庫公園から望む堂々とした山容には魅せられます。
七宝山高代寺は名の示す通り高野山 (和歌山)に代わる寺として昔はかなり栄えた真言宗の寺で天徳2年(958)創建で本尊・薬師如来、摂津守源満仲の本願で寛空僧正(京都・仁和寺)開基とされています。女人高野として賑わっていた。良寛もこの寺を訪れ 「津の国の高野の奥の古寺に杉の滴を聞き明かしつつ」の良寛歌碑や由緒を記した石板が寺内に有った。写真の五輪塔は高代寺から黒川・吉川城址への山道途中にあり一番右手の大きな塔は 源仲頼のものと伝えられています。各輪の四方に四門(発心門・修行門・菩提門・涅槃門)の梵字を刻んだ本格的なもので、基礎正面には文和3年(1354)甲午2月20日とあり「高代寺日記」に記されている吉川源仲頼(82歳で没)とは一日違い。南北朝期の五輪塔は豊能町内ではこの塔のみ。五輪塔は密教の五大思想に基づくもので下から地・水・火・風・空を表しています。

保ノ谷の住宅街の手前から左折して高代寺への林道に入ります。周回するつもりですので新光台高区配水場前付近に駐車して(AM11:45)自然歩道川西コースの標識に沿って林道を北上します。ときわ台ゴルフ場の下を巻く様にして舗装林道終点?近くになります。がこの先行き止まり表示の先、もう少しで高代寺山の最後の登り口に着くのではと期待しながら進んでいましたが、なんとこんな所に民家が、しかも放し飼いの犬が二匹 吼えながら迫ってきます。そういえば先の行き止まり看板に犬に注意の書き込みもありましたが…蹴飛ばしたい思いですが余りにもうるさく、飛び掛らんばかり…仕方が無いので引き返しますが、例の看板のところまで、 しつこく付いて来るのには閉口です。
吉川・高代寺の五輪塔(源仲頼の塔と伝える)

途中に道は無さそう。藪漕ぎなら行けそうだがゴルフ場に行き当たったら、その先が厄介なので元の配水場まで引き返し表示の無い正面のダートな林道に入ります。30分以上ロスしてしまったが結果的にはこのコースなかなかグーでした。 妙見山の星の殿堂?建物も見えますが澄み渡った五月晴れ(未だ四月ですね)の空に妙見山〜天台山が綺麗なスカイラインを浮き上がらせています。この林道を抜け出ると舗装林道に出ますが、六地蔵を経て妙見口へ下る分岐のほんの15m程手前です。 水場はふたがかけてあったが柄杓が何本か有るので使用できるかも知れません。高代寺入り口には良寛の歌碑や由緒?の未だ新しい御影石の石板が立つ。本尊を祀る薬師堂の庭には菩提樹の大きな木があり大切に育てられているようです。 竹垣に沿い標識にある黒川・吉川城方面へ山道を辿ると五輪塔の前に出来ます。

三界萬霊塔が建ち多くの磨耗した石仏が集められています。右下にも六地蔵がありその先は墓地ですが稜上からしか通じていないので歴代住職の墓でしょうか。 黒川と吉川城・八幡神社の分岐に着きます。正面は広い林道となって黒川へ左へはゴルフ場の上部から霊園に出て高代寺へ左折すれば NTT無線中継所横を抜けて高代寺山山頂(489m 二等三角点PM1:20)です。残念ながら展望無し。 能勢テレメータ中継所・猪名川工事事務所が建っている。三年前の反対コースが思い出せず適当に踏み跡は無いが下り続けて先ほど 辿った林道に10分程で降立った。黒川と吉川城分岐へ出て今度は城址を往復するつもり。 高代寺山は分岐から林道へ出ず尾根の細い踏み跡を追って登ったほうが山頂へ早く到達するかもしれません。(未登)


U・知明山(349m)
 「自然と人との出会いの場」!!?というが、北摂の自然は消え・・・

北攝 ・一庫ダム(知明湖)に「自然と人との出会いの場」をテーマにした県立一庫公園が整備中です。遊歩道が整備され、水辺のゾーン・山のゾーン ・丘のゾーンがあり面積は一庫ダム周辺の48ヘクタールは阪神間では 二番目の広域公園とのことです。 私も一年前(H12.4.16)に一度訪れたが未だ整備中。今回は山裾から一気に石段や木の階段が山頂までダイレクトに続いています。 尾根筋コースも道の端に展望台や休憩所が準備中、もう山の自然は失われ山行の山としての対象でもなくなり二度と訪れることは無いだろうと見納め山行になりました。
山下城の縦走路242m峰(三角点)近くから知明山を望む

向山トンネルからは、先の山下城址への登山口として選んだ一庫ダムへの入り口分岐を過ぎて 県道野間出野 ・一庫線の知明りんどう橋を渡ります。右折して暫らく湖岸のカーブの続く道は左手にゲートがある。自動遮断機のある一庫公園への入り口だが無料なのでご自由に。・・・進入防止柱の手前右手に丘の駐車場があります (AM10.50)。この駐車場奥からは見晴らしの丘からの山裾を廻って知明山に向う遊歩道と合流します。 明日から始まるゴールデンウィークには通行可能でしょう。通行止めのゲートを外すだけのようですから!!!!。駐車場先の作業現場は管理棟を此処へ移設する工事です。
県立一庫公園 (此れが自然との出会いの場・・?)

これより芝生とポンプで還流しているらしい、水の流れる丘のゾーン(見晴らしの丘 )に向いますが終始、高代寺山がまばゆいばかりの新緑を晴れ着に着飾って精一杯の容姿を誇示しています。工事中で一目もあり前回登りにとった尾根コースは降りに残しておいて、右手に続く綺麗に整備された遊歩道を辿ります。 遊歩道が左へカーブして石段そして木の階段の連続登りが始まります。所々に休憩のベンチ等が設置されています。階段を上りきると尾根に出て頂上まで20m程。平の石を敷き詰め、滑り台にも雨宿りの屋根にもならない木製の三角型のモニュメントが二箇所設置されていますが知明山山頂(349m AM11:10)4等三角点は何処へ行ってしまったのか??探す気もないまま先へ延びる遊歩道を辿ってみます。 所々に3m四方くらいのベンチが設置されピクニック用にシートを敷いて休める場所が提供されています。
向山トンネル北口::一庫川と高架柱の先にダムが見える

山頂から10mくらいのところには鉱山の竪鉱跡か深い穴が口を開けている。 周囲は境界尾根でもあり頑丈な金網で仕切られています。 岩の壁は緑青が目立つようですので銅の採掘用鉱口のようです。山頂から今度は尾根筋を進みます。落葉を踏みながらの 快適な道でしたが随所に休憩設備なかには展望台まで二箇所設置されています。 見晴らしの丘へ降りて来たが 工事人がうろうろしているので??!!休息出来ず其のまま駐車場に戻り(AM11:30)ます。



V山下城 (龍尾城) 向山(甘露寺山181m)と古城山(山下山188m)に城郭を持つ双頭の山城⇒山下城(龍尾城)

山下城は向山と古城山の頂部に城郭をもつ双頭の山城です【一城別郭とするか、一山別城なのか・はたまた古城と新城なのかは知らない!!?】登山口近くの川西市郷土館(下財町4番1号)は 銅の精錬を業としていた旧平安邸を利用して昭和63年に開館・続いて市内小戸にあった洋館の旧平賀邸を平成2年に移築して 絵画等コレクションの常設館になっています。
山下高架橋:向山トンネル南口と向山(甘露寺山)

美山台の 深山池公園内には一庫ダム水没地(国崎)にあった江戸時代の家が 移築復元されています(此方は無料ですが土日・祝のみ開館です)。川西市郷土館からは150m程か ?・能勢電鉄山下駅の北西700m下財に登山口があるが、山下駅周辺は勿論のこと山下町から下財周辺は住宅内で道は極端に狭く駐車場所など皆無、 R173号一庫ダム入り口の駐車スペースが利用できそうですが、向山トンネルを歩いて戻るには歩道が無く危険な為、トンネル南出口(山下町側)の路側空スペースに車を置く(AM9.35)。
山下城(向山)主郭を囲む低土塁

トンネル上部の向山には山下城の別郭で単郭の城跡が在る。古城山と呼ばれる山下山が大規模城郭の山下城メインの本城なのでしょう?。 しかし城遺構としては単郭ながら向山の方が縄張りに長け、観るべき遺構が残る。両城ともに比高や城域へは僅かな高離なので 登り口さえ見つかれば ・・・幸いトンネル右脇にコンクリート階段が見えます。ほんの数段で藪にぶち当たってしまいますがトンネル上部に続く獣道ほどの細い踏み跡が在ります。
山下城(向山)主郭西南角 :横矢の突起土塁と空堀(横堀)

暫らくで左手からしっかりした山道が現れます。といっても山頂部を目指していく道ではありません。
【再訪では日生中央へ向かう県道68号線の前川橋前交差点から(向山の尾根筋西先端部が落ち込む所)から一庫川沿いにR173号高架下部を ダムサイトに向かう地道 (バス道)を進み料理旅館?「かに工房」看板を見て一庫ダムの下部へ向かう道?。「かに工房」前で一庫橋を渡ると左方にダム関連作業車用!?、右下には釣り客用か?小公園に
山下城(向山)クランクする空堀と土塁:正面突起の主郭部は横矢掛!!

駐車スペースがある。小公園先へ延びる小道は作業小屋の先で途切れるがR173号向山トンネル北側出口下方から直登して山上の城址に向う、細く急登だが明瞭な踏み跡がある】 何本か交錯する踏み後を跨ぐように軽い藪漕ぎで向山(別名:甘露寺山181m AM9:45)に着く。展望は望めないが藪中に有って結構広い平坦地です。 西側にあるのは堅掘り跡でしょうか。結構深い・・東へ続く尾根側は1〜2mの土塁で高くなっています。藪の急斜面は途中で堀切りを越えると右手から道が現れ、後は静かな落葉の散歩道となります。
山下城(古城山)の二重堀切:堀切土橋を渡り大土塁から主郭側堀切に降りる

10分程で「一庫ダム建設工事ハッパ作業・・ 」の看板が在りコースは大きく右へカーブします。直進の道は直に行き止まりで此処はダムの堰提正面の南上部です。知明湖が樹林の間に青い水面を覗かせ知明山が姿を現わします。
途中で二分する道はどちらを採っても4等三角点 (242m AM10:05)に出ますが左の道は一庫ダム・須張付近へ続いているようです。此処の三角点が山下城・双龍の首根っこのような所です。 明瞭な一本道は途中空き缶等散乱する途中の平坦なピーク(此処が本丸跡かと思ったが )を通過してドンドン降っていく道が山下城へ導いてくれます。 深く長い堀切が大土塁を挟んで二つ続いて現れるところがある。
大手登山口付近の広い段曲輪から望む山下城(古城山)

最初の堀切の間には 「土橋・龍尾城」(AM10:15)の案内プレートがあった。二重の堀切が本城を遮断し防備していたのでしょう。最後の土塁を登ると2〜3m下に広い平坦地が現れ木々のベンチや椅子が置かれ、 桜の苗木が植えられている山下城 (龍尾城 188m AM10:20)に着く。北側奥には知明山が顔を出している。樹木が向山の全貌は見せてくれない。 南へ降るが急に広い参道のような道になり、3〜4段の結構広い曲輪跡を過ぎて愛宕神社前に出ます。多田・山下の街並みが眼前に広がります。
山下城(古城山)愛宕神社(曲輪)から川西市街地を望む

愛宕社のすぐ下にも吉秀大神の社があった。目の前の高台は川西市郷土館で重厚な塀のある屋敷と洋館二件程が並んでいます(AM10:35)。 降立った処は山下町16 南側にカラオケ喫茶キロロ・・・・北側にはお地蔵さんが地蔵堂の中に納まっています。上記の高架下からの写真は登山口直近くかにです・・・・山下町側へ戻って高架橋を向山へ向って駐車場へ戻ります。(AM10:40)



 長棚城 山下城(龍尾城)


長棚城祉(黒川城・吉川城 )  吉川山? 367m  大阪府豊能町吉川   川西市黒川

緩斜で殆ど上り下りのない静かな細い落ち葉の細道が続くので西の竪堀通過は殆ど存在を感じないまま少しアクセントに斜面が少し急になったかと思うと直ぐ鞍部になり登り始めると、そこはもう長棚城 (吉川城址)の西の曲輪跡です。3〜4幅の平地があり東側にはぐるりと主郭部分を取り囲むように腰(帯)曲輪がとり囲んでいて南側の土塁へ抜けていきます。西の曲輪跡を越せば主郭部の平坦な山頂部が現れます。この上に高台はないので本丸のない長棚城は山下城(龍尾城)城主塩川伯耆守国満(淳直あつなお)の支城の一つとして 機能していたようです。

吉川の地は清和源氏発祥の地:多田院から近く、源満仲が多田院を開いた頃には既に北方の妙見街道筋を守る砦としての吉川城(井戸城)が機能していたとされ、其の高代寺の至る尾根筋に位置する吉川城 (長棚城)も、平安〜鎌倉時代初期から続いてきた古い時代の城と思えます。延々と此の地を領していた吉川氏も天正元年(1573)11月豊前守定満のとき、塩川国満の子で山下城主長満に攻められ多紀郡(篠山市)の八上城主 :波多野氏を頼って敗走し、吉川城は押領した塩川氏によって改修されたものでしょう。

塩川氏の山下城も多田源氏:源満仲の多田・新田城の支城として築かれ多田院御家人の筆頭にあって能勢郡一帯に勢力を張っていたようです。 城跡に示される築城・天正元年(1573)とある案内板が、吉川氏ではなく塩川氏となっていることが、其れを物語っているのでしょうか? 山下城もその頃には 戦国時代の城の補強工事がなされていたことでしょう。しかし東隣の能勢郡 ・地黄城を拠点に能勢氏との領地争いが絶えず、武力衝突があり秀吉の怒りをかって天正12年11月塩川氏は討伐されたことになっており、このときが長棚城跡も 廃城となったと思います。城跡には吉川城跡と八幡神社への案内道標とともに 近くの木には長棚城跡の縄張り概略案内図が掛かっています(PM1:55)。いま来た道へ引き返し黒川への分岐から五輪塔を経て高代寺へ戻り(PM2:25)、再度妙見山〜天台山の稜線を望みながら新光台高区配水場前の駐車位置へ戻ってきました。


山下城(龍尾城・一蔵城・塩川城)  古城山(山下山) 188mと城山(甘露寺山)181m 川西市山下・一庫・下財

登城ルートは上記の古城山・山下城山行レポートを参照願います。山下城(龍尾城・一蔵<庫>城・獅子山城・塩川城・多田城)は猪名川源流(大路次川と田尻川)が知明湖<一庫ダム>に流れ込み一庫川となり 流れ出る川沿いに延びるR173号東側のトンネル真上の向山 (城山・甘露寺山181.4m)と尾根筋は東に 242m三角点峰を経由して繋がるが・南側に谷を挟んで古城山 (山下山188.4m)に二つの城郭をもち北東の能勢方面に対する防御に備えるとともに後期(天正年間)は南山麓の下財(げざい)に居館が在って、
山下城(向山)主郭西南の横矢が掛かる突出す曲輪部と土塁

織豊系築城技法を採用することで支配拠点を目指したもので、山下町は城下町が形成されていた可能性も指摘されています。 野間城余野城 ともに能勢三城の一つ山下城は築城時期に次の三説あり天禄年間(970〜973)に源満仲 (多田源氏の祖)の女婿塩川刑部丞仲義が多田新田城(川西市新田)の支城として築城した説。南北朝期に塩川伯耆前司仲章が築城したとする説。天正7年(1579)塩川伯耆守国満(淳直あつなお)が織田信長から与えられたとする説です。

山下城(向山)クランク形状の空堀(横堀)と外側土塁(曲輪?)

「山下城」の名称は江戸時代以降に使われたもので 「龍尾城」の名も資料には登場しないということから城史の詳細は不明で今後の調査研究成果を期待します。「多田雪霜談」<軍記物 成立年代不詳>に登場する塩川伯耆守国満の活躍や塩川氏滅亡の事情が虚飾も多いが記されています。同様「高代寺日記」には天文年間(1532-55)中庸期 :獅子山<山下山>に築城(改築か?)された越後守の古城跡とも云う。
山下城(向山)主郭西南尾根うを跨ぐU字状の堀切(竪堀)

山下城を本格的に整備したのは多田御家人筆頭で、能勢氏とともに北摂有力国人領主塩川氏で塩川国満の代で最盛期を迎えている。永禄11年(1568)9月26日織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、 その勢いで摂津を支配していた松永久秀や三好三人衆等を一掃したがこの時、 国満も信長に帰順し旧領2万石安堵と共に改めて山下城を本城とすることが認められています。天正6年(1578)播磨攻めに出陣していた有岡城(伊丹市 )荒木村重が信長に離叛すると、丹波八上城の波多野氏攻めに参軍していた!?国満も一時は婚姻関係にあり村重に従ったが、村重の与力:高山右近 ・中川清秀等の降伏に国満も信長に降り有岡城攻めの陣を敷き、八上城波多野氏・三木城別所氏攻めに参加している。
山下城(向山)東の尾根側に土橋付き堀切

なを村重に同調した地黄城主:能勢氏は勢力を大きく失墜させている。東隣:能勢郡能勢町 地黄城
(丸山城)を拠点に能勢氏が支配しており 天正8年(1580)塩川長満が謀略をもって能勢頼道を殺害した。 能勢家は次弟頼次が家督を継いで塩川氏と対立し、 両者は合戦を繰り返し其の関係は決定的に険悪化していった。豊臣秀吉の時代には能勢頼次が一族の頭領で、塩川国満と同程度の勢力を有して常に領地争いが続いていた様です。天正12年 (1584)11≪天文18年(1549)か?≫ついに川辺 ・能勢郡境の農民同士の争いが「枳根 (きこん)之宮合戦」へと進展し、天正14年(1586)能勢頼次が 九州島津征伐に派遣されていた留守中を狙って塩川国満は能勢乱入を企て居城地黄城を攻撃。
山下城(古城山)二重堀切外側の土橋

秀吉は「行為不届き」と激怒して、 同年12月15日には、片桐且元・池田輝政・堀尾吉晴らを将とする塩川氏討抜軍が山下城(一蔵城)攻略に向かい、若干の戦闘は行われたものの秀吉の許しを得る手立ての 無いことを知った国満は山下城を開城し切腹して果て、廃城となり頭領を失った多田御家人も禄を失って没落していきます。 しかし天正12年以降は少なくとも畿内が完全に平定されていた段階で、 しかも大坂に近いこの地で武力衝突があったこと自体が疑問視されています。さらには徳川VS豊臣の最終決戦となった元和元年(1615)大阪夏の陣で塩川長満の子・頼面が能勢氏を攻め、 能勢氏が松平康親・岡部宣勝ら幕府軍の助力を得て 撃破し塩川氏は滅亡したとも伝えられます。
山下城(古城山 )主郭から:大土塁を分ける二重堀切

城下には塩川国満が平野から勧進した平野神社や平野から移築した塩川氏の菩提寺善源寺があり、境内には国満夫婦供養の五輪塔が祀られています。また正月元旦に城山(山下城 )で金の鶏が鳴くというので、大晦日に登山して城山で初日の出を拝み、金の鶏の声に耳を澄ますといわれ・・・城主・塩川伯耆守国満が大切にしていた金の鶏が落城の時、放されたが毎年正月に帰ってきて城山の千畳敷で鳴くとの金鶏伝説 もある。R173号線向山トンネル南出口や北出口上部の城山(甘露寺山181m)に在るの城遺構は、山名が示す山岳寺院跡に山下山より 以前に築城されていた古城なのか?、今に残る遺構から判断すれば山下山(古城山188m)の大規模城郭が古城なのか・・・?。
山下城(古城山):木戸曲輪側から主郭と大土塁

塩川氏の城史や消息は能勢氏以上に謎も多く不明・不詳ですが、便宜上:地名から向山を新城の一庫城・山下山(古城山)を古城の山下城としておきます。 両城が塩川氏の持城として、戦略的には別名:龍尾城からも双頭の龍の城として最期まで機能していたか、廃城後も一庫城が陣城等の別用途・別勢力により改修されたものかは史誌・城郭等の研究者に委ねます。山下城を開城し 自刃した塩川国満を弔うという首地蔵堂の傍らから、城山へと下財の山下城登山口が大手道。南尾根沿い左右に段曲輪を分けて進むと 大空掘状の自然地形を右手に見る。 空堀の端が吉秀大神を祀る小祠(稲荷社)の曲輪。人名なら秀⇔吉気になる祭神ではあります。此処でルートは屈曲する急斜面上をああた後神社を祀る展望良好な曲輪に着く。
山下城(古城山):大堀切上部の主郭大土塁櫓台

此処からは尾根幅 (40m程)広く・切岸高く(下方の2段は特に高く6-7m程)、広い曲輪群が5-6段続くと網や柵でフエンス囲こいの蕨場所取り合戦?を呈する広い(東西幅30m程)曲輪。此の先北へ2段目が主郭だが、曲輪東下部を北へ廻込むと城中最大の見所:二重大堀切と堀切を分ける大土塁・土橋を見る。【二重堀切の内側は北に片堀切・少しズレ食違い状に南に竪堀を落とす】主郭は北から東面に大土塁が囲う。 二重大堀切を見る北の土塁低部分に拳大の投擲用か、石積みの栗石とも思えないが、土塁堅めや補強なのか他所では少ない?石材を見掛ける。土塁上部は櫓台か?。主郭から西南尾根を下方へ尾根幅は狭いが・ 割と広い数段もの曲輪が 吉秀大神の祠を分ける二方の尾根上に並ぶ縄張りから、尾を巻く龍を例えた龍尾城の名の起因か。
山下城(古城山):愛宕神社曲輪から川西市街地の展望

尾根を挟んだ北方の一庫城と共に南と西を見据えて呼応する双頭の龍の城イメージの方が強いのです・・・!!。 土橋を渡れば、尾根通しに最高所の三角点峰242mを経由して 以前は藪尾根だったが一庫ダム工事で踏み跡が明確になったトレース跡を向山の一庫城に通じるが、山下城の大堀切を越えると一庫城東端の土橋付き堀切まで両城に関連する城遺構は無さそうです。一庫城は主郭周囲に土塁を築く単郭構造の城ですが、西南尾根側に大土塁を築き主郭側に切岸を立てた横堀を持たせるが、横堀と大土塁は横矢が架かるクランク形状の構造になっている。
山下城(古城山)大手門近くの広い曲輪:正面をR173号高架線っが走る

南西下には尾根を跨ぐU字型の堀切・トンネル北口 (一庫側)の尾根には左右に竪堀と思える溝が有る。東の尾根続きは高い切岸下部を土橋付き堀切で遮断し、三方の尾根筋を防備しており、山下城に比べても新時代の工夫が見られます。 段差の小さな主郭内東南側一段下曲輪には建物の礎石らしい石材が散存しているが、古山名の甘露寺山からは寺坊跡かと思わせる。

(兵庫の城紀行 神戸新聞出版センター参照)
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