東近江・天下武布の城と商人の町を訪ねて 繖山・観音正寺〜安土城/日牟礼神社〜八幡山 |
観音寺城(佐々木城)安土城八幡山城
箕作城
観音寺城(佐々木城) 繖山(観音寺山・狭狭城山 433m) 蒲生郡安土町石寺2 国指定史跡
観音寺城は近江国を東と西、南と北に分ける要衝の地にあって、東海道本線のガードを北へ抜け出ると広々とした蒲生野の田園の先に繖山(観音寺山 433m)のきぬがさの名のような緩やか山容の峰が続きます。 小さな山塊は山並みとは異なり一気に300m以上の高低差があって
望む位置によっては雄大なそそり立つ堅城に見える事でしょう。その急峻さが要害を成し中山道を眼下に治める要衝の地に宇多天皇の皇子敦実親王の子で源雅信を祖とする
観音寺城本丸・桑実寺側の食違い(桝形)虎口
宇多(近江)源氏・佐々本六角氏の居城が在る。 繖山の全山を城郭化して 100以上の曲輪が存在するという。中世山城の大部分の 防備施設は土塁と堀切ですが此処は山中にあってなを見事な石垣・石塁による多くの施設、本丸へ続く石段の左右や広々とした曲輪 ・石垣隅や井戸に施された保水・排水の起工は ・その壮大な規模の城域が臨戦ではなく居城として機能していた事に驚かされる。
流石に日本五大山城(月山富田城・能登七尾城・越後春日山城・小谷城か関東の八王寺城)の一つに数えられます。
平井邸の木戸口
此処へは3〜4度目ですが今迄は長命寺(西国霊場32番)と併せて霊場巡りのついでだったので 今回ほどジックリ見て廻る事は有りませんでした。桑実寺と観音正寺を往復した時も 本丸虎口の様子や桑実寺側へ出た所に今も清水を湛える「太夫の井戸」も余り関心を持って見てなかった。繖山に城が築かれた年代は 明らかではないが南北朝期 ・建武2年(1335)足利方の佐々木氏頼が北畠顕家軍を阻止する為、観音寺を城郭化して立て籠った砦だったといわれます。佐々木氏は嘉禎2年(1236)信綱の三男泰綱が六角氏を、 四男氏信が京極氏を名乗った頃の居城です。応仁・文明の乱の頃(1467〜87)山名氏に付いた
池田邸・此処が山城とは思えない広大な郭跡
佐々木六角高頼と、細川方に属した佐々木京極持清が同族ながら東西に分かれて長らく続いた戦いの中で六角氏は観音寺を城郭化して幾度と無く立て籠ります。
文明3年(1471)同族の六角政堯を箕作城に攻落して急速に勢力を延してからは城の体裁を整えていき、氏綱・定頼・義賢の3代の六角氏全盛期で、近江守護・六角定頼が大永年間末〜天文元年(1528〜32)にかけて 京を追われた12代将軍足利義晴を迎えて庇護する政治的・軍事的契機によって戦闘重視の詰めの城から庭園さえ備えて 広い曲輪を持つ居城としての体裁を整え、此れ以降も鉄砲による防禦を意識して全山を石積・石塁の大規模な山城として改築がなされたようです。
「奥の院側」の伊庭邸高石垣
永禄11年(1568)織田信長が15代将軍足利義昭を擁して上洛するのを六角義賢、義弼 (よしすけ)父子は観音寺城に籠もって阻止しようとするが、
秀吉や佐久間信盛の信長軍に支城の箕作城を攻め落とされると、その夜のうちに戦闘を交える事無く観音寺城を捨てて三雲城(甲賀)へ逃亡してしまいます。その後は城主無く廃城となったようですが、安土城築城後は、
その詰めの城として利用されていたとも考えられます。
(日本城郭大系 新人物往来社を参考)
安土城 安土山(目賀田山) 199m 蒲生郡安土町下豊浦 国指定史跡
繖山(観音寺山)から北西に延びる支尾根が能登川町へ抜ける北腰峠で分断されて西の湖との間に取り残された小山塊の最高所・安土山に織田信長が天下布武した
安土城址があります。城址からさらに北へ延びる尾根の先に点標名・安土山の三角点がある。
安土城大手道
…がしかし城域の六角平(危険の為立入り禁止)を経て行くことになる様なので観音寺城から安土城址〜点標名:安土山への尾根縦走トレースは天守台迄で残念します。安土城天守を北の曲輪へ出ると 台所と呼ばれる所ですが、観光で登ってきた人達は踏み跡のない草地を横切ってまでは余り寄り付かない箇所です。綺麗に整地された有名な石の城・安土城のイメージからは、苔生して埋もれた古城址の様相は強烈で新鮮な驚きと感動を覚えます。
豊臣秀吉邸
八角平と呼ばれる菅屋邸跡へ続く高い石垣等が見られるが危険・立入り禁止とあっては引き返さざるを得ません。観音寺城のある山名:繖(きぬがさ)の名が尾根を隔てた能登川町の安土山東北一帯にもる。安土山から「きぬがさ」へ降りて、大中湖南遺跡を訪ねて北腰峠を越え考古博物館へ戻る計画は 脆くも此処で消えてしまいました 。
安土城天守の北・八角平側の石垣
是ほどの城なのに同じ道を引き返すには惜しいので、城址巡りは旧ハ見寺の三重塔と山門を通って搦め手口から百々橋へ下り
「安土城考古博物館」の駐車場へと戻ります。安土城築城以前の目賀田山(安土山 )は繖山同様に信仰の山だったとも、
観音寺城の支城の一つで六角氏の重臣・目賀田氏が拠って、麓を通る中山道や朝鮮人街道・北国街道の要衝を抑えていたともいわれます。
安土城天守台の礎石
目賀田氏は後に信長の傘下に加わっています。天正3年(1575)甲斐の武田氏を長篠の戦いに破り、いよいよ天下布武を目指す足掛り
を安土に求めて 拠点とします。尾張の信長が京都・大阪に近く、北陸から琵琶湖を経て大阪(特に外交の堺を意識してか
!)瀬戸内へ通じる水路・陸路が東西に通じる交通の要衝の地に、丹羽長秀を総奉行に天正4年(1576)城を築いた信長は仮殿の完成を待って一年後には岐阜から安土へ移るが、
黒金門桝形
天下布武の城の完成は着工3年後。観音寺山始め周辺の山々から石材を運び、また城下町としての体制をも
整えていきます。五層七階地下1階の壮大な楼閣風天守の復元モデルは「城郭資料館」に飾られています。
室内から屋根瓦まで金箔が施された信長の城も天正10年(1582)6月「本能寺の変」の混乱の中で焼亡しますが、此れについてはいくつもの説があるようですね。
黒金門から二の丸の高石垣
明智秀満が坂本城へ退城の際に火をかけたとか、入城してきた信長の子・信雄の兵が明智の残党狩りのため城下に放った火が城に燃え移って
類焼したともいわれます。秀吉は信長の嫡孫(当時3才)三法師を後継者と定め、織田信雄を後見人として入城します。
秀吉を快く思わなかった信雄は家康と同盟を結び天正12年(1582)3月小牧・長久手で戦ったが敗れて失脚、安土城が再び主を戴くことはなかった。
黒金門〜本丸間の"武者溜り
安土城の駐車場からは真っ直ぐに正面に延びる大手道の両側に、先ずは豊臣秀吉邸跡と前田利家邸跡の曲輪が入口主要部を固め、
家臣団の屋敷跡が続くなか大手道を登ります。足下には石畳に石仏が敷かれているのを見ることがあります。左折して七曲がりの道を登り
織田信忠邸跡を経て重厚な石積みの桝形を残す黒金門跡から二の丸へ登ってみます。
黒金門〜本丸間の"武者溜り
二の丸跡には織田信長の墓所があり、豊臣秀吉が天正11年(1583)建立した御廟所になっています。また近くには信雄以下織田氏五代の墓所が
横一列に並んでいます。黒金門からの広い登城道は千畳敷とよばれた本丸に出ます。実現する事はなかったが、信長が天皇行幸のために用意した本丸御殿もあったといわれます。此処を経て天守入口の最後の石段を越えると天守台です。
広い天守の四方は石積みで囲われ、その内側一杯に整然と並んだ天守閣礎石が壮大さをうかがわせます。
總見寺仁王門
天守と本丸間の曲輪の北端に立つと此処からは八角平と呼ばれる菅家邸へ続く細い尾根・急峻な谷に沿って、複雑で壮大な石段や桝形の石組み遺構が随所に見られます。残念ながら立入禁止なので苔生した高石垣を離れて望むだけです。
長期の発掘調査の続く中、この地域の調査と公開が待たれます。大規模な石段の大手道や堅固な黒金門とはスケールは小さいが、
防備の機構や技巧はそれ以上、細部まで丁寧な施工が施されているようです。見られないと幾層倍にも興味はそそられるが残念ながら過去の調査が外部・外壁だけなら此処には大発見も
期待出来そうですね。
總見寺本堂跡から三重の塔
「百々橋へ」の標識を見て總見寺本堂跡へ出ると西の湖の風景を
望む展望地です。西側下に"三重の塔"が建ち、百々橋へ降りる道は急な石段の下方に山門(仁王門)が見える。安土城廃城後も寺は残っており、その参道は当時の遺構をそのまま止め、大手道の広さと明るさとは裏腹に、
杉林の中に続く苔生す石段は落ち着いた静寂の中に往時を偲ばせす。降りきった百々橋附近は城の外堀跡でしょうか。さらに先・セミナリヨへと一帯は安土の城下町が形成されていた。大手道の前田利家邸跡の曲輪の上の一角にある
ハ見寺(そうけんじ)は臨済宗妙心寺派の古刹で織田信長の菩提寺であり、安土城域の大部分は總見寺の管理する所有地となっています。信長が安土城築城と同時に建立した寺院で、安土城の廃城後にも豊臣秀頼が建立した書院や庫裡・江戸時代以降に建てられた建物も末期の安政元年
(1854)に焼失して現在の場所に移されました。
百々橋前の登城口
創建当時のものとして残されている仁王門は
室町中期・元亀2年(1571)建立・三重塔はその心柱に享徳3年(1454)建立の銘が残され、安土城築城前のものを信長が移築したものといわれ、仁王門の金剛力士像と共に国の重文に指定されています。本来は安土城の西の備えとして配された
寺とみられますが、信長が城内に寺院を建立した理由は不明です。
(現地案内板 信長の夢「安土城」発掘・ゼンリン 及び日本城郭大系 新人物往来社を参考)
八幡城(八幡山城) 鶴翼山283m 近江八幡市宮内町
北へ直進すれば長命寺-津田山への車道を左折して
近江商人の町に入り、今は近江八幡市の地場産PR館・案内所となっている白雲館の前で右折して鳥居を潜り橋を渡るが、この橋下が時代劇ロケには
格好で良く利用される八幡掘です。先ずは日牟禮神社の鳥居を正面にして明治10年(1877)旧八幡東学校として建築された擬洋建築白雲閣 (為心町元9)で数年前!!迄は閉ざされ覗き見ても廃屋然としていたが、
「八幡掘」港から鶴翼山(八幡城)遠望
現在はスッカリ精気を取り戻し多くの観光客が足を運び観光案内所として名所や歴史が紹介され・市の地場名産物の展示即売されているPR館になっていました。目の前にある赤い橋(宮ノ下橋)を渡って鳥居を潜ると近江の八幡さん「日牟礼神社
」ですがとまれ!!, その前に橋に立ったら左右に注目です。
白雲閣
足下を観光屋形船が
通過していきます…しかし此れは無視。歴史に埋もれた八幡堀が見直されるまでは舟はおろか人も堀端を通れないほどに荒れドブ川のようになって、
消え去る運命にあったのかも知れませんが!!?…今・商家や蔵が建ち並び運河に風情を映した町並み保存地区に指定され、近江商人の主力商品・畳表や蚊帳の荷船が停泊した港からは八幡城のある八幡山(鶴翼山)を望み、堀端の石畳にはカンバスに向う人、
ガイドに耳を傾ける観光客で賑わっています。天正13年(1585)豊臣秀吉の甥秀次が八幡城を築き、
宮内(八幡)公園の豊臣秀次の像
同時に内堀を兼ねて構築された運河は東は北之庄の沢から西は南津田の 長命寺湖岸近く外湖を結ぶ全長約5kmに及び全体を「八幡浦」と称されました。八幡の城下町と琵琶湖を結ぶ一大運河で大津
・堅田と並ぶ三大港の一つに数えられます。宮ノ下橋を渡り鳥居を潜ると1000年以上の歴史を持っていますが、織田信長が中国の宮中行事を
取り入れ自らも華美な化粧・衣装で乱舞したといわれる左義長(国無形民俗文化財)は近江の春を告げる祭りで有名な古刹・日牟禮八幡宮です。
八幡掘の荷揚げ蔵(白雲橋-明治橋間)
風土記・歳時記を追って一度は訪れて見たいと 思っていたのですが未だ果たせず…日牟禮一三郷の絶大な信仰を集め、
氏神様を中心に郷村(むらむら)の共同体が形成され発展してきた近江商人発祥のまち【高島・日野・五個荘・湖東…等】の一つが八幡商人の近江八幡。近江八幡観光物産協会リーフレットにも”売り手よし 買い手よし 世間よし”と
近江商人の理念「三方良し」が掲げられる。日牟礼八幡宮には鎖国時代(一般的には寛永16年-嘉永7年<1639-1854>)の正保4年(1647)
海外在住者として 鎖国を押して海外より財宝と共に帰国したが上陸を許されず故郷:近江八幡の地を踏むことなく安南国<ベトナム北部>に満49歳で死没したと云う)の絵馬が奉納されています(国重文)。
八幡公園内:西村太郎右衛門の供養塔
西村太郎右衛門の供養塔は八幡公園(豊臣秀吉の甥:秀次の八幡城跡)に在る。
西村太郎右衛門等近江商人は・町を出入りする宣教師を通じ海外の情報を得て、活躍の新天地を海外に向けたのでしょう。その近江商人を守ってきた由緒の神社は優美な本殿・拝殿を並び建ちます。甘党にとっては神社手前の和菓子の"老舗〇ねや"さんのほうが有名かも。観光客と七五三参りで賑わっている日牟禮八幡宮の南端から城山へのコースは、
今回も遠慮して八幡宮前を通過、ロープウェー乗り場前も過ぎて図書館前から宮内(八幡)公園に入ります。
八幡堀堀めぐりの観光舟も此処までは?八幡掘東端の橋から
左手先の橋近くに瓦ミュージアム・右へ辿れば水郷巡り乗り場
右端の道を直進して豊臣直次像の裏手から登るが、
今回は公園内の売店前から広場を通り抜け 公園西端からの捲き道を採って登山道に合流します。公園西端に高石垣が見えるのですが御殿跡でしょうか?…立ち入り禁止の垣があり…石垣の先には青いシートも見える…安土城も発掘調査が行なわれていたが、此処でも城址の遺構調査中です。未だ手付かずの石垣遺構も竹薮の中に有るようです。
八幡掘を挟んで南には先に見て廻った職人や町人が職種ごとに集まった城下町が、北の鶴翼山山裾には武家屋敷群が有ったところ。
高石垣の右・竹薮の中に続く石積
石垣からは主要家臣の屋敷跡を忍ばせます。ロープウェーの滑車音を左手に聞きながら進む道は瑞龍寺・村雲御所道標の分岐となる。谷に沿って進む道は不動尊で行止まりです。
道標に従って瑞龍寺へは急斜面を過ぎ,二の丸跡のロープウェイ山頂駅に出ます。西の湖を挟んだ東南部に織田信長の
安土城が在ったが、天正10年(1582)本能寺の変の混乱の中で城は焼亡している。秀吉は信長の嫡孫(当時3才の三法師(織田秀信)を城主・織田信雄を後見人として入城するが、
八幡公園西端の高石垣
信雄は家康と同盟を結び天正12年(1582)3月小牧
・長久手に戦うが敗れて失脚・安土城が再び主を戴くことはなかった。賤ヶ岳(天正11年)・紀州攻めや四国攻め(天正13年)の武功により豊臣秀吉の甥秀次(18歳)が同年:近江43万石<内秀次は20万石>を与えられる
と安土城とは西の湖を挟む隣地の鶴翼山(八幡山)に八幡城を築き、安土城の築材や城下町を遷しての造営・山頂の城郭と
山麓には居館が築かれた。八幡城の城下町として町割り(整備建設)にも情熱を注ぎます。
村雲御所の山門
山麓には琵琶湖の長命寺湖岸から水を引き・東の西の湖沿い(現:水郷巡り観光舟ルート)から日牟礼八幡宮を結ぶ、全長5kmに及ぶ運河八幡堀(全体を八幡浦と称した)を廻らせます。
これは単に城の堀というだけではなく、運河により北陸と関西の物資輸送の水路・琵琶湖を航行する荷船の全ては近江八幡の城下へ
寄航させる役目を果たし、陸路で近郷を行き交う商人を町に立寄らせる事で活性化し、楽市楽座の善政を取り入れ、 安土城下から多くの住民を移住させて開いた城下町は、近江商人発展の基盤を築いたといわれます。
八幡堀は琵琶湖を繋ぐ運河として・城の外濠としてもなっている。
二の丸から本丸へ
(石垣下に並ぶ石仏は!!!)
天正18年(1590)小田原征伐の軍功により秀次が尾張・伊勢を与えられ23歳で100万石の太守として清洲城に移ると、代わってキリシタンの京極高次が2万8千石で領主となる。
秀次は翌 ・天正19年関白となったが秀吉に実子秀頼が生まれた事で疎んじられ、最期は謀反の罪で28歳で高野山において切腹させられた。その文禄4年(1595)京極高次が大津城に移り八幡城は築城から10年で廃城となります。
秀次の首は 三条河原へ運ばれ、その前で遺児や妻妾等が此処で処刑され、その場に埋葬され塚が築かれたが、
川の氾濫等で荒廃していたが慶長16年(1611)秀次の墓石は角倉了以によって発見され塚跡に瑞泉寺が建立されています。
八幡堀:荷揚げ場と荷揚げ蔵
京都での角倉了以は大堰川(嵐山)の川ざらえによって筏から舟による運搬を可能にして市内の高瀬川の運河開発で有名ですね。廃城後も城下町は質素倹約を旨とした
「近江商人の町」として存続・繁栄してきました。八幡公園内の近江商人:西村太郎右衛門の安南(ベトナム)渡航には近江源氏佐々木氏が祖とされる角倉了以の長男角倉素庵(与一)の朱印船<角倉舟>渡航説もある。
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八幡城は山頂部に本丸(村雲御所瑞龍寺)・北の丸(安土城跡や観音寺城跡が遠望出来る)・西の丸(琵琶湖や比良山系の展望絶佳)・二の丸(ロープウェイ山頂駅)が長方形に配された総石垣の山城で、短期間の築城の為か此処の石垣にも 石塔の礎石が転用されているのが見られ、
寺院の石積みで無い事に変な安堵感を持って観察してみます。
八幡山ロープウェー(山上部は雨に煙る)
本丸跡の村雲御所瑞龍寺は秀次が切腹した翌・文禄5年(1596)日秀尼(秀吉の姉で秀次の母)が菩提寺として京都嵯峨野の村雲に創建したものを、昭和37年に京都・瑞龍寺から移築されたもので、
後陽成天皇から戴いた菊の御紋章が茅葺に刻まれる 日蓮宗で唯一の門跡寺院。西ノ丸跡は此処・一等の素晴らしい展望台です。天気は悪くないのだが空気の 透明感が冴えず !!写真を撮るのは止めたが…長命寺山から津田山(奥島山)への山塊を正面に西湖から比良山系の山並みが続き、目前に拡がる琵琶湖のその先に琵琶湖大橋が、
また田園風景の拡がる先には三上山(近江富士)も霞んで見える…
北の丸から長命寺・津田山を望む
足下には城下町
・近江八幡の整然とした町並みを望みます。本丸からロープウェー浮きの有る二の丸への途中、北に少し突出たような台地が北の丸で此処からは安土城、観音寺城を遠望することが出来ます。
勿論此処からも身近な山の長命寺山-津田山(奥島山)は指呼のうちです。
(現地案内板 近江八幡市のパンフ及び日本城郭大系 新人物往来社を参考)
箕作城(清水城) 瓦屋寺山?(箕作山) 374m 山本??(3等三角点 Ca325m) 蒲生郡五個荘町山本
瓦屋寺山から南へ延びる枝尾根の末端ピークは巨岩・露岩が覆う修験道の山で鞍馬山(京都)の天狗・次郎坊の兄貴:太郎坊が守る天狗伝説・太郎坊山。以前・太郎坊宮から瓦屋寺山〜小脇山
〜岩戸山の途中まで尾根縦走したが展望の乏しく暗い山道はブッシュ多く踏み跡も荒れていて途中で引き返したことがあった。このとき通過した瓦屋寺山が箕作(みつくり)山なのですが標高は374m?。今回は観音寺城を訪ねたので
関連の箕作城へ向かったが"日本城郭大系 "や近江の城ネット情報では箕作山は標高325mといい、此処で対象の山城を間違ってしまった様です。登り口が清水鼻地区・山本地区・建部地区の3カ所にあって、
特に山本地区からのコースは 山麓の広範囲にわたって石垣造りの曲輪群があるといわれます。
Webの地図で周辺を探してみると瓦屋寺山(蓑作山)の北へ続く稜線の先には点標名:山本(3等三角点 Ca325m)があり、コース説明の該当の登り口、3ヶ所のほぼ中央に位置しており標高値も近いのでターゲットとしたが…(~~;
点標名:山本の山頂附近・箕作城の石塁!!??
8号線で石寺への分岐を過ぎ 五個荘の病院先で山裾を這うような
狭い道に入り山本集落??手前の送電線鉄塔(正法寺連絡線)側から、 山こそ低いが尾根筋は山頂に向って突き上げるように急峻な山(点名:山本)に向った。10mも歩かないうちに林道の分岐。目的の右手の道の先には
箕作城の屋敷石積みが見られるはずと思ったが、林道ゲートは「松茸山に付き入山禁止」分岐に戻って左手直進の道はキツイ登りが続く。どう見ても山城らしい遺構が現われないと 思っていたが三角点のある送電線鉄塔山頂手前迄来て、
どうやら此れは!!本丸虎口とも思える所に石組みの遺構か?、山頂鉄塔附近は狭いながらも片側に土塁の残土か…??小さな曲輪跡と思える平場があるが他に何の遺構も見当たらず、山頂に建てられているという城址の記念碑さえ
発見出来ない致命傷を受けて山を下ります。広く快適な山道は尾根通しに瓦屋寺山(蓑作山)に向って延びているが…場違いだったか?。
文明3年(1471)文明の乱で、佐々木高頼の観音寺城に対して、佐々木政堯が幕府の
内書を受け此処に清水城を築城したことに始まる。天文19年(1550)佐々木六角定頼が修築したが永禄11年(1568)織田信長が15代将軍足利義昭を擁して上洛するのを六角義賢・義弼(義治)父子が観音寺城に籠もって阻止しようとし、
秀吉や佐久間信盛・丹羽長秀等の信長軍攻められ、支城の箕作城・和田山城を攻め落とされると、その夜のうちに戦闘を交える事無く観音寺城を捨てて三雲城(甲賀)へ敗走していきます。
(日本城郭大系 新人物往来社を参考)