「郡中惣」の居城と「甲賀破儀」後の甲賀の城! 甲賀の山城U 和田城・水口岡山城
滋賀湖南 (地図=  )   和田城〜水口岡山城 H18年12月17日
近畿の山城 :和田城 水口岡山城

滋賀県は 佐和山城・小谷城以来・一年一ヶ月ぶりの山城オフ。先に土山町の土山城と黒川氏城へ回り、野洲川を遡り大河原から日野町へ抜ければ音羽城と鎌掛城へ行けそうです。
水口岡山城:主郭北面帯曲輪の石垣

鎌掛峠から猪ノ鼻ヶ岳へは竜王山〜綿向山〜水無山(H10.9.13)に登った帰りの駄賃に寄り、看板を見てシャクナゲの開花期には 鎌掛谷へと思った事もあったが 遠い昔ばなしか?昨夜からの雨と急斜面では危険な箇所も有るとかで、甲賀町の和田城と時間見合いで水口町の岡山城をチョイスしてR1号線の猪鼻から大原ダムを経てJR草津線油日を目指した。油日岳への登山口を示す看板を見たが 通った道かは思い出せないが、大原ダムからは 坂下峠に向かう途中の参詣橋から高畑山〜那須ヶ原山〜油日岳(H11.10.23)へ変則的な縦走をした事がある。
和田城:主郭と副郭間の堀切

鈴鹿山脈を継投縦走とはいえ車利用の日帰り山行では無理があるんですが、彦根市の霊仙山まで代表的な山だけでもと奮起して 遥々遠征登山していた頃が懐かしい。甲賀地域の訪城では、特定の領主に支配されることなく【郡中惣・地域連合惣・同名中惣】と呼ばれる地侍(郷士)達の自主同盟の連合体が組織され、案件は多数決で決定する合議制により 運営されていたと云い、 滋賀県下に1300箇所余りの城郭が点在する全国でも有数の「城の国」の中に於いても戦国時代に全国的にも珍しい民主領国内:郡中惣の甲賀五十三家の城郭が密集し3〜400を数える云われます。
土山城:南曲輪の土橋付堀切と大手虎口部!の土塁囲み曲輪

天正期の 紀伊雑賀攻めは羽柴秀吉の策略だったか!? 責任の不備を攻められ改易され 【甲賀破儀】領地を没収され、特定領主を持たない甲賀五十三家の地侍達は、その諜報や高い戦闘力を生かし甲賀流忍者集団として、徳川家等に仕えたものか…!! 土山城と黒川氏城は「甲賀破儀」によって滅亡し、此の和田城・水口岡山城も存続しますが、其の後の合戦により討死・敗戦による改易が待っています。 彼ら甲賀五十三家の地侍達が護り続けた領地は、信長:秀吉の近江侵攻により踏み潰され、京を控えた要衝の地を手中にしたい 巨大勢力によって 組み伏せられ、傘下に組み入れられるが、結局は領地を没収されて追い出される小国家 :小土豪達の 悲哀を感じつつ、僅かに名残りを留める「甲賀の館城」を、まだまだ序盤ですが訪ねます。
黒川氏城主郭北曲輪群:大手詰め部の石積


今回は要衝・辺境の地を問わず織豊系城郭として改修されたり、 其の影響を受けたと思える縄張りの城ですが、低丘陵に築いた土の城に・領民達と共に生きた耕地に、直ぐに潰されてしまいそうな小さな城が多いだけに、有事の際には直ぐ対応できる近距離の城館群や協力体制、「惣」の組織により 領地を侵略して勢力増強・拡大をはかる事は無かった様で、一族・同族による本拠城と支城の関係は少ないようですが、支城として隣接する小城についても今後の課題!。派手な石垣や技巧を凝らした縄張りの城でなくてもいい、築城時期や城主等の城史不明の城が多いと思えますが雑木藪や下草に覆われ、遺構も確認できないような城址であっても純粋!?に彼らだけの”残り香”が感じられる城館も訪ねたいものです。




和田城 水口岡山城
【和田城 水口岡山城の写真は甲賀の山城Tにも載せています】

和田城  244m   甲賀市甲賀町和田字棚田

和田城へはJR草津線油日駅から県道 51号線を左手に分け和田地区に入り、和田川が山裾を流れる独立低丘陵の 北末端部に位置しています。和田川の手前を左折すると直ぐ目の前 ・一枚の田圃を隔てた低丘陵の麓に、甲賀教育委員会により和田城跡の案内説明板が立てられています。車道脇に駐車して田圃を突っ切って 案内板の側から急斜面の藪中に付けられた踏み跡を辿って数mも攀じ登ると既に薄暗い植林帯の中の曲輪に立っていた。其の直ぐ上方に主郭の土壁が見える。
和田城主郭:幅広土塁が囲む南西隅の虎口(左手)

定規で測ったような方形曲輪25〜30uの四方を囲む2〜3mの土塁上からは水の抜けた池底を見るような感じがする。主郭西側に高く幅広土塁の西に沿っては一段下がって幅の狭い曲輪が在り、其の土塁南西端に虎口があり下方の曲輪に連絡している様です。更に3段ばかりの平坦地と小曲輪が在り、曲輪ごとに折れを伴って平入りの虎口に至る様だ。また北東隅の土塁を潜るように急斜面を直上して入る幅の狭い(幅1m程なのでごく一般的 ?ですが、今日見て回った城虎口としては狭い?。虎口で木戸や石積でもあれば「埋め門」其のもの。其の虎口の西土塁側の曲輪は主郭より 僅かに高い位置にあり「天守台?」と云われる様です。しかし其の築城時期や勢力・規模を考える時、郡中惣と呼ばれる連合体が組織され、同じような規模や構造を持った城の中で、突出した防備設備や大きな城が築かれなかったと思えるし 織豊系の 改修なら織田方に付いていても、離反した頃なら尚更に天守が築かれたとは 思えないが櫓台だったか…?。
和田城:天守台(?櫓台)と云われる東曲輪側虎口からの土塁囲み主郭

また 主郭の南にも堀切を介して副郭を持ち、東南へ延びる尾根上にも丘陵低部にも竹薮の中に広い曲輪が有り家臣屋敷跡を思わせ、尾根に続く末端付近を堀切で遮断しています。和田城は「甲賀郡志」によると応仁年間 (1467-69)和田左京大夫により砦が築かれたとされ、初代城主とされる和田惟政は此の城を改修して使用したのかもしれません。甲賀地方に残る中世城郭の代表的なものです。和田家は甲賀二十一家の一で 近江国守護の佐々木六角氏に仕えた和田伊賀守惟政(これまさ)は六角氏の軍奉行を務め足利義輝の御供衆となっていました。御供衆に高山右近の父:飛騨守厨書が居て彼の勧めでキリシタンになったとも云われ、ルイス・フロイスの「日本史」にも登場する人物です。 ただ高山飛騨守は三好・松永方に居た微妙な時期です。永禄3年(1560)松永久秀から沢城(奈良・榛原町)を与えら城主となっていますが、永禄10年(1567)三好三人衆と松永久秀との争いに巻き込まれて落城し子の高山右近と親子は高山城(大阪府豊能郡 )に帰って居たはず?! 翌永禄11年(1568)9月には和田惟政の家臣となって信長の上洛に従い天正2年(1574)飛騨守が高槻城主となり隠居して右近が 高槻城主となっているのですが…。此処では現地:和田城の城史を参照します。
和田城主郭:南東角の虎口

惟政が甲賀の和田村に帰っていた居た時:永禄8年(1565)5月・松永久秀が二条城に足利義輝を襲って殺し義輝の弟:一乗院(奈良興福寺)住職だった覚慶 (後の室町幕府第15代将軍:足利義昭)をも襲ったが、細川藤孝等に救出され和田惟政の屋敷に匿われます。惟政の居城が和田城で義昭が一時寄寓していた所が公方屋敷と呼ばれ、其の平坦地が和田城の北方にあるといいます(未訪)。 其の後:足利氏から 「義」の偏諱を賜わり信頼されていた若狭守護武田義統を訪れるが余り協力を得られなかったようです。 更には越前守護の朝倉義景が一条谷に保護したが、三好氏追討の動きを見せず義昭が望む上洛 戦には冷淡だった。信長側近の細川藤孝が、義昭に仕えていた明智光秀にはかって越前を去り、尾張・美濃を支配下に勢力の有った織田信長の元へ 来るように勧めた使者の中に和田惟政がおり、信長との繋がりが始まります。
和田城主郭:南西の虎口(幅広土塁上部から)


「天下布武」の大義名分を得た信長は永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛を開始します。此の上洛を阻止する六角氏の最期の戦いは「前編! 甲賀の山城Tの石部城:甲賀五十三家」を参照してください。和田惟政は信長にしたがい畿内平定の戦に加わり、義昭が信長の尽力で入京を果たしたとき、信長からその忠節を認められ、摂津の芥川城主、 更に高槻城主ともなり京都所司代にもなっています。しかし、中川清秀に討たれます。惟政の子惟長は父敗死のとき伏見に逃がれて後:秀吉に仕えて紀州雑賀攻めに従いますが、敵城水攻めの失態から行われた「甲賀破儀」により秀吉の下を離れ、 関ヶ原の合戦後は家康に仕えて旧領地和田を与えられて徳川旗本となった。
(現地和田城 甲賀町教育委員会の案内板・甲賀市の文化財・フリー百科ウィキペディアを参照)


水口岡山城(水口城・水口古城   大岡山(古城山) 283m   甲賀市水口町岡山

野洲川を渡る北方に水口市街地を抱き込むようなズングリ ・ムックリの緩やかな台形の山が大岡山です。R307号線の日野水口グリーンバイパスへの入口付近からは緩やかな尾根筋を見せる古城山と呼ばれる 標高283mのメートルの山は、山上一帯が「自然公園郷土の森」として市民の憩いの山として親しまれ、南に野洲川の流れ・東には綿向山〜油日山へと 鈴鹿山系の山々が遠望出来る展望の山です。
水口岡山城東端:曲輪の切岸も堀切も公園の遊戯施設・・!

この山からは鈴鹿峠を越えて土山・石部を経て東海道の街道筋:水口宿に至る軍事・交通の要衝を眼下に、甲賀・蒲生の領地を眺望出来る位置に立地している 「国見の城」でもあり、京への東の口は勿論のこと伊賀・伊勢・北陸 ・美濃への押さえとなる要衝です。甲賀の城は近江守護六角氏と 「甲賀郡中惣」と呼ばれる地域の自主独立の同盟連合体の甲賀五十三家を抜きにしては語れませんでした。ただ此の岡山城については:六角氏が【観音寺騒動】以降弱体化し且つ、信長の近江侵略による交戦から滅亡し更には天正13年(1585)羽柴秀吉によって、紀州雑賀攻めの際の失態を理由に改易「甲賀破儀」され解体されてしまいます。

主郭東北部の石垣:下方の帯曲輪は土塁による食違い虎口


其の後羽柴秀吉の腹心中村式部少輔一氏 【一氏も元は甲賀五十三家の一・多喜(滝)氏の出で後:中村氏と改姓しているが、滝川一益とは同族】が同:天正 13年6万石で甲賀郡と蒲生郡の一部に領地を与えられ大岡山に築いたのが甲賀市最大規模の城郭水口岡山城だといわれています。 しかし其の2年前:天正11年(1583)賎ヶ岳の戦いの戦功により、五奉行の一人石田光成が4万石で城主として初めて水口城(旧水口城の事で岡山城を指す )に移封されたとの記載が「関が原軍記大成」にあるという。おそらく大岡寺はこのとき移転させられたものだろうか ?水口岡山城の歴史は中村一氏により築城されたところから始まる記述が大勢の様で、正式な文献としては認められていないのかも!?
主郭天守台東北部:帯曲輪切岸の大石垣

築城にあたっては三雲城(湖南市)・大溝城(高島市 )等からも用材が運ばれたといわれ、出土瓦の中には大溝城と同紋の瓦が含まれています。また築城前の古城山には行基菩薩開創を伝える大岡寺(だいこうじ)が在ったが移転させられたが、江戸時代になって旧地近くに復帰したという。 築城時の石材として他所から持ち込まれたものか、嘗ての大岡寺のものか?は不明ですが城址の随所に古石塔の残欠が見られます。天正18年(1590)中村一氏は武功があって14万石で駿河国駿府の城(静岡市)に転封されると増田長盛が更に文禄4年(1595)長束正家ら豊臣政権の中枢を担った五奉行が相次ぎ城主となっている事でも、京への入口を守護し、 伊勢方面や伊賀・美濃・北陸方面に通じる水口は其の押さえとして極めて重要な要衝であったと考えられます。

水口岡山城北西端曲輪から堀切と主郭側天守への通路


慶長5年(1600)関ヶ原の合戦には長束正家が西軍に属したため、池田長吉(池田輝政の弟で戦後・此の戦功により家康から因幡鳥取藩6万石で移封されています )等に攻められ自害し、岡山城は三代僅か15年で落城し廃城となります。徳川第三代将軍家光命で小堀遠州が寛永11年(1634)新しい水口城を築く際には 岡山城の石材が転用されたとされますが、藩政時代・古城山は藩の御用林となり、石材が持ち去られたものとも思われます。此の間水口は城下町として整備され、東海道の宿場町へと発展しています。今は山頂付近に石垣遺構が僅かに残り、 主郭部北面に残る石垣の見学通路が有り「石垣の道」標識もある。
天守台とされる主郭西北端の台地 :右下方が大堀切

此の通路(帯曲輪)の下に大石垣があるのですが危険な程に足場の悪い急斜面の下方からでないと全容が見られないのが残念ですネ!。 山頂部や中腹に配置される連郭を区切る堀切や竪堀、 特に主郭北斜面側に附随する曲輪・帯曲輪の通路や切岸の一部には石垣が残り、石塔基壇や裏込めの石礫が散在しているところから、本来は総石垣であったものが廃城により破却されものと考えられています。往時は山頂部に高石垣が巡らされ、 瓦葺の建物を連立させて周囲を威圧していたものと思われていますが、今は虎口の位置もはっきりしないとも…!!主郭の東端しにある櫓台の 東側斜面に石垣が残るが(右上の写真)、此の下を通る細い帯曲輪の通路部は切岸側と谷側、 両サイドから交互に突き出すような土塁に阻まれて食違い虎口となっています。
水口岡山城主郭:東端部の 櫓台状の側には大きな穴二つ?

(往時のものなら半地下式の貯蔵倉庫か・ホントの矢倉か?)

同様の施設が南側の帯曲輪にも有るようですが其処までは行けずに未確認。遊園地になっていた東端の曲輪下部にある竪土塁を見るため、主郭部の南側に沿っての帰路に本郭南下の曲輪に一基 !?の墓石が立っているのが樹間越しに見える。享保年間(1716-36)大岡寺の寂堂法印が移転させられていた諸堂を山麓に復興したといい、山頂には奥の院の阿伽之宮が祀られたといいます。三代目城主:長束正家の霊を祀ったともいわれるので 其の霊墓だったのかも?(未確認)
(現地水口岡山城址の水口町教育委員会案内板・甲賀市の文化財・フリー百科ウィキペディアを参照)
  丹波霧の里HOME 
inserted by FC2 system