鈴鹿峠に向かう「石部宿」と 「アメ!!の土山」 甲賀の山城 石部城・土山城・黒川氏城
滋賀 湖南 (地図=  )
石部宿・石部城/土山城 〜黒川氏城 H18年12月17日

近畿の山城: 石部城 土山城  黒川氏城
     付:石部宿と(甲賀五十三家)

東海道五十三次・石部(目川の里)

佐和山城・小谷城
以来・一年一ヶ月ぶり(H15/11/19)の山城オフは今日も同様に前夜から雨模様。 あの日は草津を通過する頃は空は暗く、雨足が見えるほどの激しい振りに消沈していたが、 彦根駅に着く頃には時折ポツンと雨粒が落ちてくる程度。待ち合わせ時間迄に彦根城を堀沿いに見て回ったが今日もまた同じ空模様だった。
土山城南郭 :土塁と土橋付堀切(後世の破壊道とされるが!)

草津から鈴鹿峠に向かう R1号線は東海道五十三次の街道筋、以前:登山中心の頃には三重県側の関市へは関富士〜観音山〜筆捨山⇔羽黒山と三子山〜四方草山(H12/2/5)・鈴鹿峠近くでは峠を望む高畑山 〜那須ヶ原山〜油日岳 (H11/10/23)や宮指路岳〜仙ヶ岳〜野登山(H11/11/22)勿論・御在所山〜鎌ヶ岳や釈迦岳へと山旅三昧だったが、もっと早く山城遺構に触れていたら滋賀県・三重県の山城リストに足跡を残していたと思う。今回予定の土山城・黒川氏城や、付近でも行ってみたい鎌掛城や音羽城の存在を知ることもなく 鎌掛峠から猪ノ鼻ヶ岳(来年の干支の山だ)から竜王山〜綿向山〜水無山を周回していた(H10/9/13)。
石部駅前の宿場町モニュメント。広場!!?

山趣味のHPを立上げる以前の事でレポートも無く、山リストに山行日の 記述を残すのみ。古くから伊勢街道として栄え、 江戸時代には東海道として交通の要衝となった道は、鈴鹿馬子歌の一節に「坂は照る照る鈴鹿は曇る。あいの土山雨が降る」と謳われており、安藤広重『東海道五十三次』浮世絵の土山には篠つく雨と旅人の様子が 描かれている様に不吉な予感・・・「雨の土山」にならなければ良いのですが。
小島本陣跡

ロマンチックな 「愛の土山」は鈴鹿越えの長丁場を凌ぐため、宿場と宿場の間に設けられた「あいだの宿としての土山宿」なんでしょう!。五十三の宿が一日行程の距離見合いではなく将軍徳川家により 宗教的に五十三宿が設定されたものと聞きます。『東海道五十三次』逆路めぐりを始めたわけではないのですが「甲賀五十三家」めぐりの初回にはなったようです。
宿場町「石部」宿R1号線で城オフ集合場所・道の駅「あいの土山」に向かう手前「石部」には石部城に寄る為に立ち寄ってみた。石部宿の田楽茶屋への道すがら 「合羽つく 雪の夕べの石部驛…子規」の句碑が建つ。雪こそ降っていないが少し寒い。東海道五十三次51番目の宿場町・石部は「京立ち石部泊まり」と云われるように、 京都を発して1日目の行程にあり宿泊客で栄えたといいます。広重の描く石部には目川の里と朱記されている。 描かれた田楽焼の店は田楽茶屋として再現されているが、上部は野洲川を描くのか・目川の里として琵琶湖を遠望する図柄だろうか?。
高札場:石部城跡の善隆寺も近い

部駅の西方には丘陵部が大きく崩された砕石場が目立ったが、 昔は銅の採掘が行われ「石部の金山」とも呼ばれ、また堅実・堅物な人の代名詞石部金吉は此処から出た言葉であることも後で知った。石石部宿の成立が元亀2年(1571)織田信長の統制下に置かれ石部町が形成された頃なのか、 慶長年間(1596-1615)豊臣秀吉の統治下で、各宿に輸送に役夫・伝馬を課せられた頃とする説等、諸説があるようですが、講を募っての伊勢参代では賑わった事でしょう。土山の宿場町を散策する時間は無かったが、 石部城跡の善隆寺から石部駅への間には茶屋や旅籠等、宿場町の雰囲気を再現した無料休憩所も建てられています。 宿場内には二軒の本陣(小島本陣、三大寺本陣)と62軒の旅籠・200余軒の商家が街道筋に建ち並んで栄え、其の中央には宿役人の詰める問屋場と高札場があった。小島本陣は慶安3年(1650)吉川代官の屋敷跡に創建されたもの。
石部宿

幕末の文久3年(1863)征夷大将軍徳川家茂が上洛の際や翌年には新撰組の局長近藤勇も 江戸下向の際に小島本陣に宿泊し、のちに最後の征夷大将軍となる一橋慶喜も文久3年(1863)上洛の際小島本陣に小休止されている。明治元年(1868)遷都にあたり明治天皇も宿泊されていますが、老朽化により昭和43年 (1968)取壊され、今はただ石碑が其の所在を示すのみです。石部宿の詳細や資料は西外れ?「宿場の里」に東海道石部宿歴史民俗資料館がある。石部宿の町並みを抜け出ると高札場跡に出て道なりに善隆寺に向かう。
(現地宿場・本陣・高札場の石部町教育委員会案内板 フリー百科ウィキペディア等を参照)



石部城  土山城黒川氏城


石部城と甲賀五十三家    湖南市石部町石部中央 善隆寺

桑名〜四日市を経て関・坂下・土山・水口そして 東海道五十三次の五十一番目の宿が石部宿、 京の都へはあと・草津と大津を残すのみですが「京立ち石部泊まり」と云われるように、最初に草鞋の紐を解くのが此処・石部宿です。鈴鹿越えの道は交通はもとより京都防衛の軍事的な要衝でもある。近江守護職:六角氏にはお家騒動【永禄六年 (1563)承禎から家督を譲られた義弼が重臣後藤但馬守父子三人を謀殺した観音寺騒動】の後も六角氏に従って織田信長に抵抗を続けた石部氏(青木氏の一族)と、六角氏滅亡を知る最期の砦となったの三雲氏築城の石部城ですが、
石部城:善隆寺参道

歴史の町並みを語る石部にも、此の城と城史を語るものは何もありません。R1号線でJR草津線の石部駅を過ぎ「石部口交差点」を右折して県道113号を南へ約500m程、市西庁舎(湖南市役所)前を過ぎ次の交差点 「石部中央」の先に高札場跡が有る。其の少し先・道沿いから延びる参道・石垣上に善隆寺が建ち、石部氏の菩提寺で其の境内が石部城跡で、石垣遺構が残るというが参道奥の高石垣が其れとは思えません?。山門を潜った右手に墓地と池庭の西は2m程の土塁?を越えて耕地が有り西端は 南北に高い段差となって民家に接しています。甲賀の城の特徴は土塁が周囲を廻らすだけの簡単な構造の小規模な単郭方形の城が多いという。
善隆寺西側:墓地と庭池の外は土塁?
(甲賀の城の定説からは主郭を取巻く土塁遺構か!!?)

しかし明確なしかも高さが1mを越す程の土塁が築かれる山城が兵庫丹波には殆ど無く、まして四方を巡る土塁など・東側の墓地端にも土塁の高まりが在り、其の先の竹藪は急傾斜で下方の民家側へ落込む8m程の崖状、 東から南側の藪中には空堀跡とも思える溝が走る。寺の上部から東側民家の物置裏手には 竪堀らしい一本の大きな溝状も見られるが民家の主人は、遺構は兎も角・城が在った事もご存知無さそう。 車道に面する山門側からは想像出来ないが、東面の竹藪の中の崖の斜面・続く急斜面 (5〜6m)を持つ平坦地と其の上部に 積まれた寺の石垣が往時の城の石垣を彷彿とさせます!!。
和田城 :主郭を囲む幅広の土塁

石部城の城史を調べる前に⇒
「惣」と甲賀五十三家(甲賀二十一家)
甲賀・伊賀と云えば忍者を真っ先の思い浮かびますが、両地方に於いては特定の領主に支配される事なく、在地土豪(地侍)達が生き残りや勢力領地拡大を図って互いに淘汰する事なく居城を構え、地域の自主独立連合体 「惣」を形成し「郡中惣」 「地域連合惣」「同名中惣」と呼ばれる連合体が組織され、彼らの城郭が密集して存在した甲賀・伊賀は全国屈指の1300箇所の城館・城砦数を数える滋賀県内でも特に多く、甲賀市だけでも3〜400にのぼると云われます。その「甲賀郡中惣」の同盟が形成された事により 案件は多数決で決定する合議制により運営されていたと云います。

水口岡山城:本丸東の石垣


武士や農民が共同で国を運営するという、戦国期にあっては全国的にも非常に珍しい民主領国が伊賀・甲賀・山城にありました。甲賀国も六角氏傘下に属して協調していたようです。 石部城は文明年間(1469-87)近江国守護職:観音寺城主の佐々木六角氏傘下に属した三雲氏によって築かれます。室町時代後期の長享の乱(1487)に於ける「鈎の陣の戦い(栗東市)」は、 六角高頼が室町幕府の命令を軽視したり無視するようになった事から9代将軍足利義尚(よしひさ)に本拠の観音寺城を攻められます。幕府軍との直接対決を避けた高頼軍は甲賀の城に移ったもので、逃げの城として築かれた ?三雲城や石部城に籠もったものか?。 此の「鈎(まがり)の陣 」の戦いに参加した甲賀五十三家【三雲家・青木家と 其の族であり石部家・土山家等】の地侍の中でも功あり、六角氏より感状を与えられた甲賀二十一家【頓宮家・黒川家・和田家や水口岡山城主となった中村一氏の族に多喜(滝)家】があった。
土山城主郭:井戸跡から北虎口(右手)

長享3年 (1489)足利義尚が本陣に病没して戦いが終結するが、六角氏の下で諜報や神出鬼没のゲリラ戦にと活躍して、散々幕府軍を苦しめた其の高い戦闘力を持った甲賀武士五十三家が後 :甲賀流忍術の中心となった家々です。
今回訪れた甲賀五十三家の城のうち、三雲家〜石部家・頓宮家と土山家・黒川家の城を下記に、和田家の和田城と、多喜氏一族・中村一氏が城主となった水口岡山城は 「甲賀の山城U」にレポートします。========================================================
石部城は享禄年間 (1528-32)には三雲氏に替わり、青木筑後守秀正 ・石部右馬允家長の父子が居城したといいます。六角氏の本城:観音寺城を巡る攻防では「鈎の陣」の戦いに参加し 織田信長の近江侵攻にも 弱体化していく六角氏に最期まで従い 「逃げの城!」として三雲城ともに 石部城にも度々寵城した様です。永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長軍の阻止に失敗した観音寺城主:六角承禎(義堅)は石部城に拠り、
黒川氏城主郭:石積土塁の南東角部


子の義治(義弼!)も六角家の再興を期して甲斐の武田勝頼を頼って逃れたとされ、元亀元年(1570)近江に侵攻した 信長に叛した浅井長政との姉川の戦いを好機として、承禎・義治父子は長政に付いて信長と戦うが敗れます。 それでも甲賀を基盤として永禄年間以来信長に抵抗してきた六角父子は、執拗に信長に対して抵抗するが、天正2年(1574)織田信長の武将:佐久間信盛に攻められ、最期の砦となった石部城を後にして夜間の雨に紛れ脱出した (信長公記を参考)と云い石部城は落城した。いま石部の歴史に甲賀衆の城はなく?、静かな宿場町の佇まいが残る。「石部金山」の採掘跡を彷彿させる削られた小山の山肌を背に雨上がり、集合場所の「あいの土山」に向かう。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 参考)


土山城 Ca300m   甲賀郡土山町北土山字畑

鈴鹿峠に向かうR1号線「あいの土山」道の駅の手前約1.5km・土山町役場を北に入ってきた 土山集落内の狭い緩やかな坂道を迷いつゝ県下一の生産高と品質を誇る土山茶で名高い茶畑が拡がる丘陵に向かって登りはじめた。 土山城と同定した丘陵側を通りながら登城口が見つからなかったが、此の茶畑を突っ切れば城域の北端に着く事が後で判った。
土山城:登山口

集落内へ引き返した丘陵西南部末端付近の広い駐車スペースの集落内の辻から西へ30m程の所に、土山城址の石碑が立つ登城口が有った。常夜燈と釣瓶式の井戸跡 ・城址説明板も建てられている。大手道だったと思われる民家横の路地を抜けて谷筋に沿った山道に入ったと思ったら、 もう斜上する城域内の土塁道を歩いている比高僅かに3〜40m足らず!。あっけなく城域に入ると左手に切岸をもつ曲輪と、分厚く高い土塁を囲った武者隠しの様な曲輪があり周囲の土砂が崩れて 擂鉢状になっているが其の間にある虎口が正面に見える。
虎口から武者隠し状曲輪と土塁:外側に土橋付き堀切がある

虎口から此の鍋・窯状の土塁が目立つ南側曲輪の南外は堀切られて尾根を遮断し土橋が架かっている。 その南には緩衝地の様な平坦地が有って登ってきた道筋が見える。土塁の中央部は窪んでおり、此れに対応する堀切部分は土橋状になっているが 後世の破壊道と考えられている様です(此のページ・トップ右手の写真を参照)。
土山城:馬出曲輪の南側空掘と土橋

城域はこの南端から西方の主曲輪へ延びる。 広く緩やかな丘陵上に「馬出」遺構とされる副郭と主郭の周囲には、空堀や土塁が巡らされ土橋で繋がれます。土山城主郭の規模は東西60m・南北50m程で、幅広の土塁で四隅を囲い、南の「馬出」側から東面を北側へと空堀が廻り込み、其の北端では山裾まで延びる程の竪堀が穿かれている。 馬出から土橋を介して入る南側と、北斜面には地図に見る池の近くに水の手が有ったと推定され、其処に降りるものと思われる二箇所に虎口が有る。
土山城:主郭東側を空堀が廻る


主郭南虎口を入った所には井戸跡があるが伐採された雑木・潅木が投込まれて覆われ、石積等の状況は不明。馬出遺構とされる曲輪の西下にも、 高い土塁を伴う曲輪に通じる・下草に埋もれた湿気た曲輪があり、水を湛えた方形の池があった。縄張り図には記載が無いので後世のものなのかも知れませんが、位置的には麓や池と離れていないだけに其の必要性が不明です。 ところで・土山城が土塁囲みの画一的な城の多い甲賀の城の中で特筆されているのが、 主郭に附随するように設けられている曲輪「馬出」の遺構です。主郭南側虎口は土橋を介して、 此の三方を土塁で囲んだ方形曲輪に繋がります。 主郭に従属し且つ其の前面を防御する存在は馬出と評価されています。さらに南側の広い曲輪へも 土橋付き空堀を渡るが、此処にも工夫がされていて、馬出曲輪内の虎口をクランク状に通過して主郭に入る枡形虎口の 高度な築城技術が使われています。
土山城:南虎口から井戸跡と北虎口を望む

また此の様な馬出を持つ縄張りの城郭が旧甲賀郡内では他に例がないとされます。馬出しの遺構は・織豊政権の関与が考えられる城郭や玄蕃尾城(余呉町)等の織豊系城郭には、其の類例が見られると 云われるので、此の事からも天正期以後に築城・改修された根拠とされています。土山城は文明年間(1469〜1487)音羽野城主 頓宮四方介利盛の二男:土山鹿之助盛忠が砦として築いたといわれます。
土山城:主郭北端の土塁と虎口


頓宮氏についても初代城主となった土山鹿之助についても経緯は未詳ですが、頓宮家は長享の乱「鈎の陣の戦い」に参戦して勲功により六角氏から感状を与えられた甲賀二十一家の一で、 土山鹿之助も甲賀五十三家の武将です。天正10年(1582)土山左近太夫盛綱に時、織田信長の家臣:滝川一益により攻め滅ぼされるまで、代々土山氏の居城となっていましたが、以後土山の地は一時滝川氏が領有していた様です。 甲賀の国人衆の城郭には見られない馬出遺構を持つ縄張りの特徴からも、天正2年(1574)六角氏の滅亡後の織田政権下や豊臣秀吉に移った以降にも、黒川氏城他の甲賀の諸城と共に織豊系城郭として改修されたものと推察されます。
(現地:土山城址の案内板 を参考)


黒川氏城     城山390m  甲賀市土山町鮎川

黒川氏城へはR1号線の土山町役場から県道9号 (大河原北土山線)で野洲川沿いに青土ダムサイトを抜けるか、 道の駅「あいの土山」から県道507号(鮎川猪鼻線)に鮎川集落を目指します。 鮎川集落は鈴鹿山系前衛のサクラグチ 〜能登ヶ峰に囲まれて流れ出る・うぐい川と、綿向山〜御在所山〜鎌ヶ岳〜宮指路岳の水を集める野洲川が合流する要衝の地に在って、野洲川を挟んで対岸の山稜には、今回は行けなかったが大河原氏城が 対峙する様に築かれており、共に鮎川集落全域を眺望・監視出来る山城です。
黒川氏城 :西側虎口下部の石段と石垣

大河原家・黒川家ともに、近江守護職六角氏(観音寺城主)との繋がりは深く長享・明応の乱(1487〜1501)に戦功をたてた。六角氏が9代将軍足利義尚に攻められた長享の乱 「鈎の陣の戦い」に参戦しての勲功により感状を与えられた甲賀二十一家の一で両家ともに「地域連合惣」の北山九家の一です。 大河原源太が鮎川を、 黒川久内が黒川・黒滝の地を領有し以後代々子孫が世襲していますが、六角氏が衰退により甲賀五十三家も弱体化していく中、天正13年(1585)羽柴秀吉によって解体されて共に滅びます。
黒川氏城の北側虎口の石積

その後:徳川氏等に仕えた甲賀五十三家が甲賀流忍者集団の中心となったのでしょう。 今日のオフ参加者の大方が編者 :中井均氏の「近江の山城 ベスト50を歩く」誌を片手の訪城です。織豊系の改修されているという黒川氏城に大河原城は載っていません。しかし甲賀国人領主の旧状が残されているだろう ?大河原氏城の縄張りにも、 石段や主郭を取り巻く空堀や土塁内側を石垣で堅めていたと思える状況、四方の尾根に多くの曲輪を連ねている等類似点も有 って、大河原城も織豊系城郭なのかと疑えますが、比較・参考にする上にもいずれは訪ねてみたい城です・・・・(^_-)-☆ 先に訪れた土山城もそうでしたが、呼応するかのような ?大河原城や此の黒川氏城についても甲賀の諸々の城の特徴とも云える土塁囲みの単郭方形の城郭のほかにも幾つかの特異な縄張りが見られるようですので楽しみです。
黒川氏城:西虎口の石段・石垣下から南へ空堀が捲く

早速登城口に向かいます。比高も僅かなので何処からでも…と思うが、 県道9号線の交差点からは県道507号沿いに 200m走った辺り、 カーブにかかる橋の手前に黒川氏城への案内板が立ち、其処から踏み跡を辿ります。登城の取り付き点前後間の車道脇に 駐車スペースが無いのが訪城の難点です。直登するのは嫌われるので少し迂回気味に、搦め手道と思われる緩やかな西尾根末端部の 尾根に乗って向かいます。
黒川氏城主郭南西角部の土塁内側にも石段

末端部の小さな土塁の残欠を越すと 尾根筋には段差の小さな斜上する平坦地が有り、更に上方にも土塁があり、傾斜を増した尾根道から石段と石積が残る通路を西虎口下に出る。此処までの南斜面に2〜3段の平坦地が数箇所に散在して拡がっています。 石段下からは8〜10m上方にある主郭の南側へと 空堀が回り込み 南尾根筋を深く高く切り崩して遮断する幅広い大堀切へと延びています。小曲輪に入ると石段で築かれた通路となり5〜6m上方の最高所には主曲輪に入る西側の平入り虎口部ですが、石段部と虎口までの間の主郭切岸に 「黒川氏城跡」の石碑が建てられています。どうして主郭の内部に 立てられていないのか…の疑問は後ほど判ります。
黒川氏城:石段・石垣西下の曲輪にある石塁は ?

疑問と云えば:石段曲輪?の西一段下方の細長い曲輪の中央付近に5〜7m程の石塁 (?列)が延びている。 施設等の解説は遺跡調査報告書等に記されているのでしょうが、素人に判断は難しい!。上部の石垣 ・石段部とは相対した関連施設としての城門・城壁の石塁・礎石類なのだろうか?。近江の城で安土城や観音寺城 ・小谷城は 別格としても山城に石の階段は珍しい様です。さて其の最高所に位置する主曲輪は東西約30m・南北に約40m程の規模の方形主郭で、高さ1.5m程の土塁が築かれ周りを囲んでいます。
黒川氏城北曲輪群:大手道詰め部曲輪の石垣


土塁内側や西側と北側2ヶ所に設けられた平入り虎口にも自然石の石積みで堅められているが、 北の虎口や曲輪群を訪ねるには、 潅木と篠藪で覆われている湿気た主郭内の潅木や、笹薮を分けて進むか・土塁上の倒木を避けながらの前進です。黒川氏城の石碑が此の主曲輪ではなく、石段部と主郭の間の切岸斜面に 立てられている理由がわかりました!!。小規模で主郭が方形の単郭か・副郭を伴ってはいてもそれら曲輪は土塁で囲まれているのが、甲賀地方の多くの城の例ですが、 此処からは大きく異なります。主郭を取巻く様に 丘陵全体に大小幾つもの曲輪が幾重にも配され、曲輪を囲む土塁・空堀が防御を固め、石垣・石段・石積にと、 石材が多様される規模や縄張りの特徴からは、天正期以降:織田信長や其の死により 豊臣秀吉に移った甲賀支配の拠点として改修された織豊系の城か、其れらの影響を受けた城だったとみられます。
黒川氏城:北側大手道詰め付近の広い曲輪は家臣屋敷跡か!!

黒川氏は永禄年間(1558〜1569)黒川玄蕃佐が黒川の山上に黒川氏城を築き、黒川・黒滝の他、山女原・笹路・平子・鮎河の内、松尾川東方をも支配して、其の子:八左衛門に継いだといわれます。元亀元年 (1570)6月初め六角承禎(義賢)・義治父子に属して黒川与四郎・黒川修理亮が三雲氏等と、石部町付近の野洲川原の合戦で織田信長方の柴田勝家等と戦い敗れているが信長への抗戦は続き、 同年6月末:近江に侵攻した信長に叛した浅井長政との姉川の戦いを好機としての長政に付きます。 六角氏滅亡後は織田方の影響下に置かれていたが元亀4年(1573)信長に京を追われた15代将軍足利義昭が毛利・武田を頼り、 信長を倒しての幕府再興を目指しますが武田信玄は上洛途中で病死。其れを知らず宇治の槙嶋城で挙兵し僅か半月余りで敗北します。黒川氏城と黒川氏について判ることは殆ど無いのですが?
黒川氏城北曲輪群:曲輪を囲む大土塁


六角氏に付いて黒川与四郎が家臣を武田氏のもとに派遣し援軍要請した事が知られます。 天正13年(1585)紀伊雑賀攻めの際の紀伊川堤防修築工事で、甲賀衆の受け持った堤が崩れたために戦機を失った・・・として責任を問われて、 羽柴秀吉の怒りをかって改易され【甲賀破儀】、黒川氏の領地は 黒川村のみを残して没収され築城以来20余年にして廃城となります。一時期:滝川一益が土山地域を領有していた事もあったといわれます。
(現地:黒川氏城址の土山町教育委員会 H4/3 設置案内板 フリー百科ウィキペディア を参考)
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