北近畿の山旅 丹波・但馬・北播磨 居母山・直見城/妙見山/東山/神鍋山
京都 居母山(五万図=福知山)
但馬 妙見山/神鍋山(五万図=村岡)
北播磨 東山 (五万図=大屋市場・山崎)

T 西垣〜居母山山頂へ 2000年05月06日
U 大ナル新道〜妙見山〜妙見峠〜名草神社 2002年04月27日
V 高野峠手前林道〜東山山頂 2000年05月06日
W 神鍋山高原ハイク  2006年05月21日
妙見山山頂は大賑わい H14.04.27

近畿100名山 : 妙見山(1,139m)
ふるさと兵庫の50山 : 妙見山
近畿の山城: 直見城
校歌の山 :
八鹿中学校♪…妙見の頂き 雲かかる夕べは…♪

但馬妙見山:今年の雪解けは早く2年前は林道に残っていた雪も山頂手前で水溜りほどの僅かの残雪を見かけただけ。 ザゼンソウを楽しみにしていたのに此れも既に遅かったようです。山頂から西に延びる尾根筋にはバイケイソウの葉が目立ち春の終わりの開花を待っています。出発が遅れたため前回(2000年05月 06日)と同じコースを辿ります。妙見山への林道途中磨崖仏付近で 超望遠レンズをセットした カメラマンを何人か見かけます。方向が谷を隔てた対岸の山の尾根ですので、イヌワシを狙っているのか?下山の折もまだ粘ってる人がいた。
噴火口は二箇所あるようですH18.5.20

神鍋高原ハイク:5月の風を受けて”梅雨入り”前に 高齢者から子供まで 参加出来る行事として、先月コースの 下見をしてきた噴火口の縁を周回する、爽やかな高原ハイクを楽しみにしていたので、昨日の午前中まで連日振り続いた雨には意気消沈気味でしたが天気は回復、 野の草花や山菜取りには時期遅れ。五月晴れ・は旧暦なので六月だが晴天なのは嬉しい誤算。過疎化・少子高齢化で、恒例の運動会が地区内対抗では運営できないほど参加者も少なくなり、其れに代わる地区の行事として数年前から実施されている親睦ハイキングを今年は但馬 ・神鍋山高原ハイクに決まった。
県立コウノトリの郷公園


スキー場の何処からでも登れるが 気持ちの良い草原は降りにとっておいて、スキー場から左周りに林道を山頂に向かう神鍋三十三ヶ所石像観音のミニ霊場巡りの周回コースを登るつもりです。豊岡市となった城崎郡日高町は 植村直己の出身地で、高原に向う途中には其の記念館【植村直己冒険館】や但馬ドームがありピラミッドの様に大きな三角の屋根を背に神鍋高原を散策。子供達も多いので何かと話題の コウノトリ公園にも寄り、帰路の途中には時間も有るので出石の城下町を散策し…雨天の場合の食事等対策も考えてバスツアーの自由さで盛り沢山です。



T西垣〜月の小阪道〜居母山〜飛所コース  H12.05.06

昨日は大江山と龍ヶ城に行ったが龍ヶ城に対峙して同じ位の標高差の山が居母山です。 龍ヶ城であった地元の登山者は昔スキーで此処居母山へ登ったことを話してくれたが、今日は妙見山の前に立ち寄った。展望も良く登山コースは「月の小坂道」の尾根コース・林道終点「飛所」の谷コースで周回できる好い山です。 9号線から夜久野高原温泉の前を通りJR夜久野〜府道56〜平野で府道63へと右折して西垣バス停・居母山の大きな看板を見て狭い村道を桑谷公民館 (AM6:30)前まで入ります。公民館前の狭い空きスペース以外に 駐車スペースは見ありません。此処から地道の林道を進みます。程なく猪除けゲートがありますが此れより先、 道標完備のコースですので案内不要です。林道途中には植林の中に続く山道に月の小阪道なんともロマンチックな名前の道標がある。
伏見(ぶくみ)山の草原から望む居母山 H13.10.27

林道を進めば「飛所」コースとなっているので 此方を帰りに採って小阪道に入ります。杉林の続く植林尾根はやがて クマザサを分け稜線に出てくると氷ノ山・鉢伏も見えてきます。飛所コースと合流すると直ぐ草地の山頂です。切り開かれた山頂にはアチコチ方向板を打ち付けた山頂標識が立ち杉木のベンチ・簡易トイレ完備 (使えるのかな!!?)居母山(イモヤマ 3等三角点 旧・為母山731m AM7:25)からは朝日の影になって良く見えないが 昨日登った大江山のシルエットの中にスッポリと龍ヶ城が収まっています。高竜寺山〜磯砂山等々丹後の 連山を一望できる。勿論丹波・播磨側の粟鹿山・青倉山・千ヶ峰から段ヶ峰もです。帰りは先ほどの分岐から雑木林の広い 窪地状を谷筋へ降ります。足下にゴロゴロ岩が目立ってくると谷筋に水音も聞こえる流れとなり丸木を渡ったところが 飛所(AM7:50)で此処からは林道を谷沿いに「月の小阪道」コースと合流して桑谷公民館へ戻り(AM8:00)本来の目的地・但馬の妙見山に向かいます。


U但馬・妙見山 大ナル新道〜妙見山山頂(728m)〜妙見峠〜名草神社  H14.04.27

八鹿町小佐川に 沿って走る道は日本三妙見の日光院(近畿楽寿観音霊場第五番所)から林道になり妙見山登山口の名草神社へと続きます。前回(H12.05.06)と同様に大ナル新道(AM11:10)登山口で案内板のある分岐の 空き地に駐車して出発します。 すぐ上の妙見キャンプ場駐車場前からの道端には時々残雪を見かけ、管理棟から杉林の中に続く大ナル新道は残雪と融水のぬかるみ道が続いた前回と違い、濡れながら笹を掻き分ける事も無く、期待は削がれたが歩きやすい。未だ雪ノ下だったかと諦めていた前とは違い、今回楽しみにしていた山頂付近でのザゼン草だったが コースをだいぶ外れた谷筋の上部と思われるが場所が良く判らないまま山頂です。
名草神社

ほんの50m程手前の藪の中に僅かの残雪を見かけただけで狭い山上に弁当をひろげる登山者で賑わう妙見山山頂(1,139m AM11:55〜PM12:10)に到着です。大柿氏の'97.4.13プレートが有ります。妙見尾根を下り始め直ぐに現われる湿現地 (沼地!!)にもザゼンソウを見ることはなく今回も残念でした。展望は此処山頂より登山口のキャンプ場付近の方がまだ良かった。管理棟からは粟鹿山・西と東の床尾山やこの後寄ってみようと思う須留岐山が眺望出来たが山頂からは 金山峠へ続く水平林道の奥に蘇武岳がピークを見せています。妙見峠へ降る前に西への尾根を少し辿ってみます。村岡町最高峰の地位を明渡した鉢伏山の隣に緩やかな尾根を連ねて氷ノ山が僅かに雪田を残して見えます。南但馬トンネル上部へと境界尾根通しへと辿って行けそうな切り開きが続きますが鞍部へ降っていく手前で引き返します。山頂付近にはバイケイソウの葉が 初夏に向けて一気に花開く準備を整えています。
「けろけろ道」横・みたらしの池の水芭蕉

山頂に戻ると登山者の多くは大ナル新道へ下りる様だが妙見新道をとる。妙見峠への道は残雪で濡れる・汚れる・滑る道だったが雪も無く、泥濘も僅かで10分程で名草神社や金山峠から妙見山へ延びてきた林道と合流し 平行する山道を辿るがやがては林道に一旦降ります(PM12:20)。この僅かの林道歩きでは最後の雪溜り!!が有りました。赤いテープ目印に山道に戻り15分で妙見峠に着きます。2体の石仏のある妙見峠(PM12:35)は村岡町 と八鹿町を結ぶ 峠ですが妙見信仰として名草神社への参道色の濃い峠です。丁の刻印の違う二体 (13丁と37丁)の石仏が並んだ峠から 名草神社へも丁石仏の続く古道です。以前・藪っぽかった道もスッカリ様子が代わったようで10分も降れば名草神社(PM12:45)境内に着きます。
妙見峠

三重塔や側にある妙見の大杉(保存の為屋根付きで展示館のようです)や但馬・播磨の歌人、書道家の歌碑を見て神社から林道に出て 駐車位置の大ナル新道入り口へ戻る途中、自然探勝路「けろけろ道」があり(三重塔まで300m)此の「みたらしの池」はモリアオガエルの生息地ですが水芭蕉も何株か白い花を咲かせています。前回は雪解け水が多くて 水中花となって咲いていたが今回は沼地です。辛うじて手近の数株の中で此方を向いている一株をパチリ。名草神社三重塔 日本で最も高いところ(標高800m)にある三間三層・室町期の塔で 国指定重要文化財(明治37年2月18日指定)で、島根県出雲大社に尼子経久(出雲国主)が願主となって大永7年(1527)6月17日に建立されていたものを、出雲大社本殿の大改修にあたり、柱に妙見杉を提供した縁で譲られ日本海を船で運ばれ、 寛文5年(1655)9月にこの地に移築されたもので、この出雲様式を伝える現存する塔は少なく重要文化財に指定されています。 高さは24.1mで屋根はこけら葺きで、各重には香蘭付縁があり、心柱は二重から塔の先端まで伸びています。解体修理され昭和62年10月に完成し丹塗りの塔が460年振りに復興しています。(八鹿町教育委員会説明板他を参照)
妙見の大杉国指定重要文化財(大正13年12月09日指定)で樹高48m・目通り11m10cm・樹齢1500年といわれる妙見の大杉平成3年9月・台風19号(瞬間最大風速40m以上)によって根元から倒壊しました。この大杉は地上7.2mのところから幹が 2本に分かれて並立していたことから夫婦杉と呼ばれ三重塔と共に八鹿町のシンボルとして親しまれてきました。昔から妙見には樹齢400年前後の杉の古木が自生しており、江戸時代には出雲大社本殿の心柱に提供された由緒もあります。 妙見の大杉の根株(夫婦杉)は三重塔の側に景観を損なわないようにと切妻造りの建物の中に保存されています。


V  東山   H12.05.06  

時間は未だ早いので帰路に立ち寄る山を探してみる。大屋市場から一円電車の明延〜富士野トンネルを抜けて429号高野峠を目指します。 「山であそぼっ」島田さんのHPログ(東山)の取り付き点の林道を探して峠まで来てしまいました。(PM12:55)峠のお堂の仏様を拝した後、少し引き返します。一山方面への林道が延びかかっているのでしょうか工事中です。 「蛇谷・ここからカクレガリ」表示のある鎖ゲートの林道に入ります。東山がどれか・どこにあるのかさえ分からないままの山行ですので、長い林道に段々不安になってきます。途中の左への短い林道は終点「金ヶ磯」この分岐には 「初日の出登山」記念のボーイスカウト宍粟第3団の石標が有るが、ここから東山へ??私は同じコース下山の際谷筋を下りすぎ、登りなおして藪漕ぎでこの「金ヶ磯」へ出てきました。右の林道「大段線」は「この下奥のなる」標識で終点です。 突き当たりに道が続いているようですので踏み跡を辿ると有った!!・赤レンガで鉄釜を囲った五右衛門風呂の跡です。島田さんと同じ道を歩いていることを確認して一安心です。左手の急な枝尾根から主尾根に出ると林間の一本道です。

東山山頂 (1,016m PM2:00)は島田さんログの一年前とは、すっかり様変わりしていて2等三角点周辺は切り開かれて遊歩道も整備中・ベンチ付きの木造の展望台まであります。360度の展望は JAROへの申告は、 撤回する必要がありますよ。大規模なレクリェーションセンタ「フォレストステーション波賀」が建設中。温泉施設や此処からのハイキングコースが出来るようです。同じ道を引き返し(途中谷筋を大きく下り過ぎ 気づいて登り返しましたが)前述の林道(PM2:50)入り口に帰りつき笠杉トンネル〜神子畑を抜けて312号〜細い林道に入って[松ヶ井の水]旧名?「落葉の清水」を汲んで高坂トンネルの先へ出ます。このトンネルの播磨側に小公園 ?化した水汲み場があり大部分の人は此処で取水しています。この峠を駆け下りれば山南町へはもうすぐです。


W 神鍋高原ハイク 神鍋山(469m)  (氷ノ山・後山・那岐山国定公園)  2006年05月21日

神鍋山は近畿地方では ・また神鍋火山群の中でも最も新しく、 約2万年前に出来た火山でスコリア・火山弾・火山岩塊等の放出物で造られたスコリア(隕石)丘で、基底の直径は約700m・比高は約120mの円形の低丘陵で、山頂からは西方に 1000m級の妙見山〜蘇武岳〜三川山、東に大岡山が囲む高原地帯にあって古くより関西有数のスキー場として今日参加の中高年の殆ど?が懐かしい青春時代の思い出の場所。
(隕石丘の神鍋山噴火口展望現地の案内板を参照)
神鍋山山頂の神鍋神社 H18.4.16

周囲約750m・深さ約40mの擂り鉢状で近畿地方唯一の旧火山(死火山)の火口が見られます。 山の南麓には風穴が、また・稲葉川沿いには神鍋火山から流れ出た溶岩が、八反の滝(落差約24m)・畳滝・十戸の滝等を形成しており二段滝の側には溶岩瘤があります。
周回ルートやゲレンデの中にも石仏が祀られています

稲葉川「八反の滝〜十戸の滝」にかけて、大小様々な滝や淵に残る溶岩流の痕跡に 神鍋火山群の自然美を追って歩くのもよいのでは…と思ってもみたが、子供の参加も多く雨天での河原歩きは滑り安く安全を考えて断念します。 日高町からR482号線に入って植村直己冒険館に寄ります。白いコンクリートの挟まれた狭く緩いスロープを降って真っ直ぐのびるセンタ入口への道は、其のまま冷たく閉ざされた 極地へ向う冒険者の心地です。
岩倉古墳・玄室から玄門部

真上明かり取り天窓から差し込む太陽の光は、さしずめオーロラか?それとも達成感か希望の陽を表わしているのかな?。其の屋上も植村直己・生涯の軌道を刻むパネル展示されたプロムナード、カヌーを模した石の造形は登山・犬ぞりの他、カヌーも限りない冒険の対象を遂行する手段 ・道具となっています。駐車場へ戻る途中・付近に見かける火山岩の石垣といい、 十戸温泉付近の異様に黒っぽい畑地には夜久野高原の火山灰地を思い起こします。、
岩倉古墳・玄室


蘇武岳から東に延び出した丘陵裾には稲葉川沿いの傾斜地に有って稲葉川上流に位置する神鍋山の火口から流れ出た溶岩台地が拡がり、田畑の開墾や生活の厳しさをより強く感じさせます。十戸温泉を抜けてR482号は緩やかに長い坂道を登り始めると正面に神鍋高原スキー場が見えてくる。 周囲の別荘地の屋根越しに但馬ドームの白い大きな屋根が見える。巨大な日本建築の木組みの美を誇張して、木造りの大屋根が外装・内装に木組みを見せています。開閉式の屋根を持ち全天候型スポーツ施設として、野球やサッカーの他 ・大相撲巡業も此処が使われています。
岩倉古墳・羨道部から玄門部


ドームを右に見送って 直ぐ先の「道の駅:神鍋高原」とかんなべ湯の森「ゆとろぎ」があり、東側に廻れば神鍋高原スキー場の広々とした駐車場があります。リフト乗り場から岩倉ゲレンデに入って直ぐ岩倉古墳が有って東方に羨道を開口しています。 とはいえ高原散策に・山菜摘みにと訪れる多くの人達も僅か10数m離れただけなのに案内標示は無く、藪っぽい此処へ足を運ぶ人は殆どいない様です。傍らに神鍋三十三ヶ所石仏が祀られているが、其の先からは蜘蛛の巣を払いながら僅かに石材を残すのみの羨道入口部に近付いて見る。円墳で横穴式石室で封土も残る岩倉古墳ですが、 事前に発掘調査資料等のデータ蒐集が出来ず未調査のままで詳細は不詳です。
火山断層が見られる(玄武岩溶岩と粗粒スコリア層)

羨道部は玄門部近くに僅かに石材を残すだけですが、玄室から玄門を見ると袖を持っているのが判ります。藪の為に採光が遮られているのか玄室は、入口が玄門部なのに暗くてよく見えません。赤っぽい玄武岩の性なのかもしれませんが …!フラッシュ撮影ではオーブの様な 丸い斑点がいっぱい映りこんでいます。古墳データは発掘調査資料があれば後日追記したい…??古墳を出て北に進むと、道の駅東側から神鍋山への、国道から登ってくる林道と合流します。山頂に向う皆と外れて、林道を下り神鍋山南麓の外周コースを西に少し行くと、山肌を大きく削り崩れた赤いスコリア層が大きな露頭を見せ 神鍋火山層を観察できる場所があります。
神鍋山外周コースには火山断層が見られる

スコリア
とは火口から放出される固形または半固形の岩石の破片(火砕物)の一種で、直径64mm以上を火山岩塊・64〜2mmは火山礫・2mm以下を火山灰に分類されるようです。マグマが空中に飛ばされた際に急激な圧力の減少によって、 マグマ中のガスが放出され多数の気孔が生じたもので、マグマのSiO2成分が多く(流紋岩〜安山岩質マグマ)と白っぽいものを軽石といい、 SiO2成分が乏しく(玄武岩質マグマ)暗色のものをスコリアという…と説明されています。この露頭の下の部分は、非成層のスコリアの集まりで、地滑りでここまで滑ってきたものと考えられます。
噴火口はスコリアや火山弾が河原石の様に埋め尽す


その上位には細かく成層したスコリア層が重なっていて神鍋山が何回も噴火をくり返し、 放出されたスコリアが堆積してできたスコリア丘であることがよく分かる露頭となっています。神鍋山・神鍋火山群の活動は約22千年前に始まり、スコリアや溶岩が積み重なった火山断層からは、神鍋火山が何度かの噴火を繰り返したことがわかります。 何度か噴火を繰り返した後、約6千年前の噴火が最後の噴火と推定されています。神鍋山(標高469m)は神鍋火山群の中では比較的新しいトロイデ火山で周囲約750m・深さ約40mの擂鉢状の火口が見られ、山上から溢れ出た溶岩流は稲葉川に沿った谷を 約15kmはなれた円山川にまで達しました。
(かんなべ山周辺散策マップ及び現地:神鍋火山の断面 山上展望台に立つ日高町教育委員会の案内板参照)


神鍋山の東〜南面の斜面が スキーのゲレンデとなっていて、中央ゲレンデの西端部からは三十三ヶ所石仏の道を山頂に向かいます。足元や山の斜面に見かけ、また石仏を祀る台壇に載せられていたりする、赤褐色でごつごつした穴の多い石片がスコリアで、穴が多いのはマグマが発泡してガスが抜けた為に出来たもの。植樹者の立て札が続く桜木の林を抜け 周囲に山々の眺望とツツジが目立ち始めると火口縁に建つ展望台。
神鍋火口縁から展望台と蘇武岳を望む

蟻地獄のような 擂鉢状の底には軽石のように ブツブツ穴の多い赤煉瓦色の スコリアが河原石の様に堆積しています。斜面にはまだ”わらび”も多く見かけ、あちらこちらでポリ袋を手に「ワラビ狩り」を楽しんでいる人も多い。展望台の東にはゲレンデの先に大岡山が、西北には三川山の中継施設が見える。其の中央・火口縁の 北にピラミッド状の大きなケルンが見える。 ケルンに見えたのは玄武岩を三角錐に積み、内部が祠になっている神鍋神社です。神鍋山の最高地点は此処から少し北に向って林の中を進んだ処、何かの施設が建てられているようです?。
「風穴」内部に電燈が灯るが入室は禁止?

神鍋火山断層(スコリア層が露頭している)が観察出来るところから更に外周路を進んでいくと、 畑地や民家が見えR482号線側に出て行く処に風穴がある。其の分岐の手前からも神鍋山山頂への遊歩道が通じて、山頂の神鍋神社まで殆ど雑木林の木陰の中なので眺望こそないが、南面から日陰のないコースに比べて、此れからの時期には ・お誂え向きのコースがあります。この風穴からのコースが神社と山上施設の中程に出てきます。神鍋風穴も今回・是非訪れたいポイントでした。神鍋山周辺には、幾度となく繰り返された噴火活動によって出来た自然の空洞が多数あるようです。そんな溶岩洞穴でも最大級のものが神鍋風穴で、奥行き6m・幅6m・高低差は8m有って、未だ掘り進めば数 100mの奥行きが見込まれると云われます。
岩倉ゲレンデから但馬ドーム(中央のリフト支柱の側にも石仏)

神鍋風穴内部の年間平均温度は約8℃で、昔から天然の冷蔵庫として使われており、現在:昭和25年前後の種子貯蔵庫の姿のままで残されてきたようです。崩落の危険があるため「立ち入り禁止」の札が立ててあります。 しかし内部は電燈が点いていて、今でも保存庫として使われている気配です。残念ながら中に入れず、フエンス越しに覗いてみても内部の電燈の灯りでは何も見えず、カメラのストロボも届かず風穴内部の写真は有りません。 先ほどの分岐の戻って神鍋山頂まで続く雑木林の中を進みます。神鍋神社には未だ誰も登って来ていなかったので蟻地獄の様な噴火口の底部に降りてみた。 昼食を済ませた後・中央ゲレンデへ行くとリフトが動いている。観光用かと思った?がスキーヤーやスノーボーダー10人程がプラスノーを楽しんでいるようです。
中央ゲレンデでプラスノーに興じる スキーヤー


此のリフト降り場の北側が神鍋スキーの名所「北の壁」ですが…40年程前の話…昨今はスキー板の性能や特徴・技術(テクニック)も大きく変わっているので ・誰でも簡単に滑っているかも!!?。身長+αの長いスキー板で急斜面での対応は難しく、斜滑降・キックターンの繰返しで降ったような気がします。ワラビを摘みながら往復1時間程のハイキングを終えて駐車場へ降り、次の目的地”コウノトリの郷公園 ”や出石散策への小旅行に向った。



植村直己冒険館   豊岡市日高町伊府785

但馬・浜坂には伝説の登山家で単独行で知られる加藤文太郎がいます。そして豊岡は世界を代表する冒険家・植村直己の生誕地です。「冒険とは生きて帰ること…」いつもそう言いながら1984年2月12日43歳の誕生日にマッキンリー冬期世界初の単独登頂に成功、翌日の無線交信を最後に忽然と消息を絶ってしまいました。
冒険館/犬ゾり擬似体験や映像・遺品に植村直己を偲ぶ

植村直己冒険館には 冒険家としての植村直己の生涯を記念する顕彰と数々の記録・遺品等が展示されていますが、此処に来て改めて映像・パネルの紹介により 「人を思いやり・感謝し・愛し・誰からも愛された」人間味溢れる自然体の植村直己に逢えました。昭和16年(1941)2月12日・城崎郡(現:豊岡市)日高町上郷の農家で7人兄弟の末っ子として生まれ、
五大陸最高峰・犬橇やカヌー川下りにと冒険の対象は尽きず

干支の辛巳から”直巳”と届けられた名前が、役所の手違いで” 直己”となったエピソードはともかく、豊岡高等学校卒業後・就職、翌1960年明治大学農学部農に入学し山岳部に入部。 1970年6月日本人では初めてエベレストに登頂・1976年世界で初めて五大陸最高峰を極め、国民栄誉賞、バラーインスポーツ賞をはじめ数々の賞を受賞した。明大卒業後・アルバイトで貯めた110弗を元に横浜から移民船でアメリカに渡った事 ・不法就労で捕まるが、なんとか強制送還を免れてヨーロッパへ向かった後、モンブラン単独登攀の失敗や明大ゴジュンバ・カン登頂に途中参加して登頂を果たした事、単独登山・単独極地探検では北極点とグリーンランド犬ぞリ探検成功後、 南極点単独犬ぞリ探検がフォークランド紛争勃発によって断念した事等が映像紹介されています。
(現地・冒険館パンフレット及び館内資料を参照)


豊岡市立コウノトリ文化館”コウノピア”   豊岡市祥雲寺127

鴻巣市・綾部市甲ヶ岳(鴻ヶ嶽)や 北攝・豊能町(大阪)の鴻応山等”鴻”の字を充てた地名や山名が、嘗つて 全国各地に生息していたコウノトリが伝説等にも残されています。お目出度い象徴として、 また花札に書かれる”松に鶴”の図は・木の枝にとまる事のない鶴に、コウノトリが間違わた鳥として ”鶴”と呼ばれているが、
公開ゾーンのコウノトリ

実はコウノトリが生息していた証を残しているところも 数多く有る筈です。 其のコウノトリが害鳥として乱獲され、国内で最後の生息地となってしまった豊岡市でも、 戦時には一時期姿を消していた時期がありました。還ってきたコウノトリは昭和30年(1955)保護運動が始まり翌年・国の特別天然記念物に指定。兵庫県の県鳥ともなっていますが昭和46年(1971)野生では国内最後の一羽が其の姿を消してしまいました。農薬・農地改良や 自然環境破壊による絶滅を再び繰り返さない為にも、種の保存と野生復帰 ・繁殖に向け昭和40年(1965)始められた人工飼育によって、平成元年(1989)初めてヒナが誕生しました。
”滅びゆくものは みな美しい・・”コウノトリの郷公園にて

コウノトリが生育するための広大な自然環境を持つ兵庫県立コウノトリの郷公園はコウノトリの保護・飼育・増殖に関する遺伝的管理、野生化に向けての科学的な研究や実験、人と自然の共存・人と生きものたちと共存できる地域環境の創造など多様な事業に取り組まれ、園内には豊岡市が県と共にコウノトリ野生復帰を推進し、 コウノトリと共生できる地域づくりを目指す豊岡市立コウノトリ文化館”コウノピア”が建設され、コウノトリを間近で見られるケージや観察サイトなどがあり、コウノトリの観察 ・生態や人と自然との共存の必要性などを学べる施設で、但馬でも数ある「ミュージアム」の中で「エコミュージアム」の拠点となっています。共存・共生の為の地元の理解や努力 ・研究や成果が解れば良いのですが、話題性も有って遠く離れた都市部で 講演会やシンポジウムが行われていますが此処でこそ実感し理解も深まると思います。また県下には対策・対応が急がれる絶滅危惧品種は多く、総合的な研究の場が必要なのかも知れません。
(”コウノピア”パンフレット 館内資料参照)






直見城  城山 Ca 402m   京都府福知山市夜久野町直見小字桑谷

夜久野町は少なくとも 二度の大きな合戦の場となっています。 南北朝期・建武3年(1336)には但馬南朝方を追っての攻防となり、室町時代後期・応仁の乱後の戦火では応仁2年(1468)3月には但馬の山名宗全方に太田垣新兵衛・行木山城守、丹波の細川勝元方には内藤孫 四郎貞徳率いる疋田長九郎左衛門や足立・芦田・夜久氏の家臣達、両軍が国境の夜久野ヶ原で戦った記録があり夜久野合戦と呼ばれます。 この時の戦いで丹波・細川方の大将・内藤孫四郎貞徳を始め、一族郎党は討死します。
西面の曲輪から虎口を経て本郭南側

直見谷には夜久氏がいたので夜久氏の参戦で夜久の土豪・直見氏も此れに加わったが、この丹波勢の敗北で夜久郷の直見(のうみ)城は落城・城主直見大膳武綱は家中の者と共に討死にしたと考えられます。 直見大膳と家中の遺骸を一ヶ所に集め葬ったと伝えられる「直見どんの墓」と呼ばれ、夜久野町直見・西垣にその塚や蛇の池(髪洗池)が伝えられています。直見城は居母山から西に延びる枝尾根の末端近くにあり、 R63号と並行に流れる直見川に山裾を落としています。直見川に対峙する西垣には此処・直見城の付城か砦跡といわれる城山があリます。(今回寄れなかったが曲輪が残っているようです)西垣バス停から桑谷集落の坂道を詰めて 公民館前を直進する山道が居母山登山ルートだが、左折して集落最奥民家の上にある大師堂から疎水溝沿いの小道を辿る。 途中猪垣を開閉して進み 石積み道を斜上すると此処にも疎水構のある山道となり、正面からオフロードバイクが上がってきます。別に正規の登城ルートがある様です。
直見城本郭部南端の土塁


道なりに進んでも急な西の尾根筋に連続する曲輪を辿っても主郭部へ行けます。本郭部の下方へは、稜に沿う曲輪から直角に東へ二段ばかりの 腰曲輪を認めますが、最下段周辺は森林伐採と土砂の崩壊もあってか、竪堀や大きな空掘り状になっていて本来の遺構の形状が判らなくなっているようです。 本郭西端の斜上する虎口の両サイドに附近には土に埋もれた残石が 有るようで石段になっていたように見えます。本郭部は一面に倒木や伐採された枝木で覆われて歩くのも難渋するほどです。北から東は急斜面で下方に一段大きな曲輪がありますが、その先の様子は此処も林道工事中なのか、 地形が変わりつつあります。自然と人工両面からこの城も消えてしまうのか…?木枝が覆う北東隅の一角に明確な3m四方の台形の高みが有りますが、東の山側や北西側は直見谷の上流を展望出来る位置なので見張りの櫓跡のようです。
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