春の但馬路:とんがり山 /進美寺山〜須留岐山 /大松山(宿南城)
但馬 (五万図=村岡)
但馬に春の山野草と県下最大の山桜を訪ねて2004年04月10日
   蓮台寺〜知見の大桜〜トンガリ山 (アマワリ)〜 572m峰〜森山地区
トンガリ山登山中に見かけた花:ミヤマカタバミ!!?

例年:ゴールデンウィーク頃までは残雪があり、雪解けの湿地に咲くザゼンソウや 水芭蕉を初め、 春を待ち咲き始める花を楽しみに但馬の山へ向かっています。昨年は低山徘徊派のMLでも話題に上がっていた 但馬の名木百選の”仙桜(樽見の大桜)”=国指定と、糸原の”みづめ桜”=大屋町指定天然記念物は、 今年も花巡りの人達には人気を集めているようです。”はりまおさん”<HP名から「やまあそ」さん・・と呼ばれています>企画プロデユース・但馬の山のナビゲータとしてHP"釣竿かついで・・"の「やまご」さん案内で但馬の名木百選に指定されているが余り知られていない知見の大桜を訪ねます。通称”とんがり山”の山腹に 自生する樹齢300年以上の山桜は県下最大で根回り6m以上の太さを持つ巨木です。
トンガリ山登山中に見かけたエンレイソウ!!?

桜の開花時期に合わせて 日高町・知見の桜〜とんがり山から地図に破線記号の無い572m峰〜263m峰へ縦走する"但馬版"低徘マイナーオフの誘いにのって集合場所 「養父道の駅」に向かう。何時も通り早め到着の「やまあそ」さんが顔を見せる。やまごさんと私・三人だけかと思っていたが"丹波のたぬきさん"とやまごさん知り合い!!Sさんも宮津?から参加、 現地では「正右衛門ノート」萬屋さんと同行のTさんに合流するとの事
知見の大桜〜トンガリ山〜572m峰へ


但馬  (五万図=出石)
概要U 円山川に浮かぶ二つの山は共に城山か? 山行日:2002年04月27日
      赤崎橋〜進美寺(しんめいじ)山〜須留岐山〜伊佐橋 / 田中神社〜大松山(宿南城)

近畿の山城: 進美寺山城(掻上城) 宿南城
校歌の山 : 日高東中学校♪仰ぎ見る寿留岐の高嶺 青空に強くはばたく大鳥と…♪
       伊佐小学校 するぎの山を 仰ぎ見て 共にむつめる七部落・・・♪
    但馬聖人: 池田草庵と青谿書院

但馬・妙見山から八鹿町へ戻るが、まだ時間に余裕があるので円山川に沿って312号線を北上します。県道2号線分岐(出石町へ抜ける伊佐橋付近)からは、三角錐の山容を覗かせる須留岐山450m (日高町南東部の最高峰で養父郡・城崎郡・出石郡の郡界)が、少しずつ高度を下げながらも 緩やかに起伏を繰り返しながら西への尾根を目で辿ると再び高度を上げて進美寺山(361m)に行き当たります。台形の山頂部をもつ山容は自ずから山城を想像させる姿です。円山川に沿って走っていると 車窓から望む進美寺山は益々、山城の姿を雄々しく川面に浮び上がらせてきます。
大松山から進美寺山 (左)〜須留岐山(右奥)

さて登路を探しますが須留岐山からは郡界尾根を浅間トンネルへ降れると思うので、進美寺山を目指しますが伊佐橋の次には赤崎橋まで円山川を対岸に渡れる箇所が無い。 その赤碕には伊久刀神社があり進美寺の護法神社として、また進美寺への参道口になっています。行基を開基と伝える進美寺は但馬では数少ない天台宗寺院で。慶雲2年(705)創建の古刹。 郡内に広大な寺領を有した有力寺院であり但馬巡礼三十三ヶ所霊場の第一番ともなっています。観音堂正面に掛けられた鰐口(経66cm)の撞座は蓮華文様を浮き出させています。 銘帯の左右に刻銘があり明徳3年(1393)進美寺住職幸円が願主となり寄進したもの。進美寺は慶雲2年(705)に行基が開創したと伝えられる天台秀比叡山延暦寺の末寺で、鎌倉時代には関東御祈祷所となった但馬国では 最も著名な寺院である。この鰐口は大きさにおいても古さにおいても製作の優秀さにおいても当寺に相応しい貴重な遺品といえる。鰐口は兵庫県(昭和48年3月9日)指定有形文化財) 進美寺(しんめいじ)山〜須留岐山へ
(現地案内板 日高町教育委員会 を参照)


T 但馬に春の山野草 蓮台寺〜知見の大桜〜とんがり山〜572m峰〜森山地区へ H16.04.10

現地へは道も狭く駐車場確保が難しいとの事で、 集合場所の”養父道の駅”から「やまあそ」さん・やまごさんの車に分乗して日高町知見へ向かいます。円山川沿いに八鹿町を過ぎると昨年寄った宿南城址や、2年前に寄った進美寺山〜須留岐山を見ていつの間にか 城山!!トンネルを抜ける。八鹿の朝倉氏の城は過ぎているので楽々前(ささのくま)城だろうか??
登山口は蓮臺寺から

神鍋高原への道をとり植村直己冒険館を見送って"阿瀬渓谷"看板を見て知見地区に入り公民館前に着く。 公民館裏手に垣屋氏の顕彰記念碑が建てられているのに気付いたが 肝心の名を覚えていない。播磨守隆国なら先に抜けてきた城山が山名四天王の一で垣屋弾正や続成等を城主とした垣屋氏の本城 ・楽々前城だったか?…城名や位置が良く判らないが、YUUKOさんHP「但馬の城]等で楽しみな但馬の山城は此れからお勉強。垣屋氏の城があった鶴ヶ峰(三方富士)へも出掛けてみたいと思います。
知見の大桜は、ほぼ満開

明日は町の公民館主催による桜祭りで知見の桜 〜とんがり山へも花見ハイキングが催されるとの事だったので、一足先にマイナー・オフの実施となったのですが、縦走を終えて降りてきた森山地区の地域交流センタで会った地元の方の話では、 此の催しは中止になったとの事。今日予定のコースは山名もルートも知らず全てお任せで、付いて来ただけなので集落正面の 谷右奥に見えている容姿の良い山だとばかり思っていたのですが、目的の桜と山への方向は反対の左手・集落内の道を登山口の蓮臺寺に向かうというが蓮臺寺の場所が判らない。直ぐ先に鳥居が有って・林道最奥にある 八幡神社に至る参道なのか?。其処に第一村人発見!!・・で早速尋ねると 「この先だと・・・・」しかしメンバはサッサと別の道を進んでいて目の前に寺は見えていた。
急斜面に立つ知見の大桜

蓮臺寺へはどちらからでも行けたんです。観音堂裏手に廻ると直ぐに始まる石仏の道。 寄進により設置された時代も様式もマチマチの四国八十八ヶ所ミニ霊場の道には釈迦・阿弥陀・大日・観音・薬師・虚空蔵・地蔵・文殊・不動・毘沙門・・等、各札所の本尊石仏続く。 尾根通しの参道は何度か未舗装林道と合流しながら八幡神社跡?(修繕中!!)近くの終点広場に着く。 此処までの収穫はSさんに続けとばかり収穫した数本の”タラの芽”、杖が用意されている広場から登り始めるが此の辺りからミヤマカタバミの白い花を多く見かける。だいぶ高地になって耕地が現れる。 削平された多くの棚田や石垣囲いの住居跡!!らしい区画が続く。
イカリソウ

植林の中に使途不明の空き地が暫く続く・この様な山中の耕作地は、木地師(曲物師とかロクロ師)が長年此処に居住していた田畑と住居跡等の生活痕なのかも知れません。耕作地跡のある平坦地を抜け一旦谷に降って、 その谷筋を急登すると目的の知見の大桜も近い。急斜面に立つ大桜は谷の底から・太く長い幹を上部に突き出して、日の当たる青空に拡げた淡いピンクの花は谷間を埋め尽くそうと旺盛に咲いています。樹齢300年程といわれ、 苔生した巨木に此れほどの活力が有るとは思えないほどですが、開花状況からして今年は運が良かった様です。国指定天然記念物樽見の大桜は樹齢1000年・ギブスと杖に支えながらも咲き続けていますし 、原の"みづめ桜"も500年。知見の桜は未だ未だ血気盛んな壮年期なのかな。たぬきさんが無線で”萬屋さん ”をコールしてみる。此処に到着するまで時間がかかるようなので、大桜上部の稜線に出て東端の展望岩に出て待合わせがてらのLUNCHTIME。
ヤブレガサ

眼下に登山口の知見地区を望み道路地図にも有る ”畜産団地”や白い但馬ドームと但馬空港が判るので進美寺山 ・大岡山・霞んで見えない !!来日岳の方向や、目の前に横たわる神鍋高原へと同定出来ます・・・(^^;眺望絶佳の岩峰の小広場は今日一番の休憩所です。勿論・見通しが良ければ日本海も見えるんですが・・食事を終えた頃”萬屋さんとTさん”到着。私がHP立ち上げた頃から相互LINKのお仲間ですがお逢いするのは始めて。彼の行動範囲から何度か逢う機会は有った筈ですが、 萬屋さん達とは此処で別れトンガリ山を目指します。今の時期だと未だ・丹波の山と違って但馬の山の尾根道は直近まで雪が残っていた様で藪が薄く展望も楽しめる。
トンガリ山以上のトンガリ山は無名峰572m


展望よりも藪の中の其のまた下草の隙間を見て歩く様な、春の花探しでは次々出現する花を見つけては急がず騒がず ・・イや騒ぎっぱなしの道草山行です。倒木を避けたり潜ったりの急登りが暫く続いて、尾根が緩やかになるとトンガリ山山頂(2等三角点 点名:小佐 590m)ですが、杉の植林と潅木に囲まれて展望はありません。 この山の所在地は大字小佐字アマワリ1494番地に有って【アマワリ=天割り 】とも呼ばれます。 山容を眺めても次の目指す日高町と八鹿町境界尾根上の572m峰の方が遥かにトンガリ山の名に相応しく思えるのですが、天を割る(突く)程の鋭鋒は何処から望めば得られるのか??
572m峰間鞍部の (ナル)からトンガリ山【アマワリ】を望む
 
不思議な対比を見せるトンガリ山と無名峰ではあります。此処からの尾根筋は境界や破線で 示される道はありません。人の踏み跡は薄いが獣道、猪の農耕跡もあるが鹿が頻く通っている様子で細くて不安定な急斜面を降り続ける箇所もあるが藪漕ぎすることも無く、枝尾根に誘い込まれるようなところも無く、 末端の263m峰(森山)手前の鞍部から 杣道を森山地区へ降りて着た。森山から知見川沿いにSTART地点の公民館に戻り”萬屋さん・Tさん”と落合った後”やまごさん”も本業?の谷釣りに出掛ける(阿瀬渓谷かな?)ので、 此処で別れ”養父道の駅”へ戻って解散し但馬 ・花見散策の気儘旅を終えた。


U 進美寺〜進美寺山(白山権現)〜須留岐山〜青渓中学校〜伊佐橋 H14.04.27

312号線を八鹿町から日高町に入って直ぐ 急な交差路を右折して円山川を渡ると河原では工事中。この工事が終われば今日予定の山行は、もっと楽な結果になったかもしれません。工事は日高町赤崎と八鹿町伊佐を結ぶ「ふるさと農道緊急整備事業・日高八鹿円山川右岸地区 」農道工事でH10から着手されておりH14度完成!予定で!!総延長3,600m(進美寺トンネル部分1,215m、橋梁部分212m)になり赤崎側からトンネル工事が掘り進められてた。赤崎集落に向う広い直線道路脇に車を寄せます。 進美寺山へは「但馬33ヶ所霊場・第一番進美寺へ」の案内板がある赤崎公民館(PM1:50)から、 細い急な集落内の坂道を山に向かうと最奥の民家側に「伊久刀神社」があって此処から山道になります。進美寺へは丁石仏の残る参道で谷筋を離れる最初の石段道のところに「進美寺道」の道標が、夜久野と 朝来山両観光センタ寄贈によって建てられています。
円山川と進美寺山(左)〜須留岐山(右)

5丁の石仏の立つ露岩のある稜線尾根に出ると円山川を見下ろす絶好の休憩・展望適地です。山道としては、この上なく快適だが参道としては結構厳しいと思える道を辿り9丁石仏のある分岐(PM2:10)となり白山権現を祀る山頂へ 直進する尾根ルートを見送り斜面を左へ巻くように進むと進美寺への緩やかな道を採って、直ぐに水場を抜けて社務所・仁王門・観音堂の建ち並ぶ平坦な境内に着きます。仁王門前の植込みの白ツツジが静寂の中では一際晴れやか見えます。 社務所前や仁王門と観音堂の間には石仏が建ち並び観音堂の右側から進美寺山への山道が延びています(PM2:15)。
直ぐに9丁石仏のある分岐からの道と合流して木の鳥居を潜りますが、此処から雑木を通して望む須留岐山へ向うピークが 「此処まで来い」と魅力たっぷりに呼びかけてくるので行く事にします・・・(~ё~)。

山頂まで雑木の中の急な斜面を真っ直ぐ登って程なく小さな平坦地の進美寺山山頂(361m  PM2:30)に出ると積雪保護棟!!の中に祀られた 白山権現堂が建っています。藪と樹間越しでは満足な展望を得られず、但馬の山も「木の殿堂」を見つけて三仙山、スキー場の神鍋山や蘇武辺りを知る程度ですので先を急ぐ事にします。お堂の裏に1m程高くなった雑木藪の台地は、 主郭に築かれた櫓台だったのでしょうか!!。先に国道筋から見た様子からしても山頂の平坦地が狭すぎるので、南面の直ぐ下方にでも削平地(曲輪)があるのかも知れません。南北朝期に新田軍(北朝方)に攻められ落城した南朝方の ??氏の進美寺城があったところです。城といえば此れから辿る須留岐山も城跡のようですが稜線途中に余り遺構が残っていないようですので連郭式で結ばれた堅固な城ではなく須留岐山の方は見張り所や狼煙場ではなかったかと !!近在の三開山城や出石の有子山城・此隅城との連絡等に重要な位置だったと思われます。須留岐山からの郡界尾根は切り開きや 踏み跡を期待していたが無く、時間も無かったので藪漕ぎで降るのを止め引き返しましたが山頂は削平されているようで三角点付近には土塁が設けられていたかも知れません。南側(県道2号線)には、ほんの1m程の段差で小さな平坦地(曲輪)があり、 其処から先は急斜面の藪になっていました。地元郷土史家の研究を期待したいところです。
進美寺・観音堂 梁を支える力士像

山頂から須留岐山へ向う東への稜上は急な雑木林の下降ですので斜面で踏み跡も薄く、最初は判りにくいがすぐ明確な山道になります。緩斜面の鞍部からは送電線巡視路 (八鹿江原線)を南側の浅間方面へ降りられるようで、この分岐に「須留喜山」への標識がある。此の先、送電線巡視路が須留岐山山頂と江原側への分岐点に建ててある道標にも「須留喜山」、山頂の山名柱にも同様に 須留喜山の文字が書かれています。山道は送電線鉄塔 No43!!ピークの南側を巻くように付けられています。樹々の間越に丸い二つの頭を覗かせる須留岐の山容に、引き返して堀切状や土橋状を見て?鉄塔ピークに登ってみたが展望無し、 諦めて又もとのコースを辿りながら時々顔を見せる須留岐は、 段々と傾斜の増す稜線の先にピラミダルな姿に変容してきます。進美寺山と須留岐山の中間付近鞍部には少し広い平坦な場所が有った。進美寺山側に段差のある削平地は有るが 防御施設らしい遺構は何も見当たりません。須留岐山頂が見張り所や狼煙場だとすれば両山へは30分程の距離なので場所的にも待機・連絡等、 駐屯所だったとも思われます。ただ広く明確な道が江原方面に続いているようで、 倒れた石仏も一体あったので白山権現への参道兼、南側の浅間と北側の江原方面を結ぶ峠道のようです。周辺は進美寺山側が土塁で固められた跡の様うに 4〜5m高くなっています。
進美寺境内の築山には白ツツジが!!

前に見えるピークを越せば次は最終目的地の須留岐山頂かと思っていたが、未だ
幾つかのピークを連ねて続いていた。前峰ピーク(PM3:00)からも、大して急斜面でも無いのに時間的に余裕が無いので疲れてくる。 最後の3〜4mの段差を越すと切り開かれた平坦地が眼の前に現われ「須留喜山449.6米」山名標の懸る須留岐山三角点(450m PM3:20)山頂に着いた。しかし展望期待薄で雑木藪や潅木を通して西側下に拡がる平野と蛇行する 円山川の流れを俯瞰し、今しがた登ってきた妙見山〜蘇武〜三川山への稜線や来日山を眺め、東へは藪に分け入ってヤッと西床尾〜粟鹿山が、目前に出石の町と城山(有子城山)が見えてくる。


三角点の南側に赤テープがあって1m程の段差で曲輪と思われる平坦地となっている。巨大化し過ぎ、 勢力争いにより内紛を衝かれて自滅した形の山名氏の城であっても、それ以前の城でも主に播磨からの防衛の為ですから 南側からの攻防が主の防護施設とすれば此処も地形の状況から、僅か数mの土塁も築けば立派に用を成す。出石側の有子山城・此隅山城・三開山城始め但馬の城の前線基地として、見張台・烽火台等連絡拠点として重要な位置にあり 此処も山城(砦や狼煙場含む広義の意味で!!)だったと思われます。三角点南側の僅かの平坦地から先は藪の急斜面となっており 踏み跡は無いが降りられそうな下降点の先にも テープの存在は見えない。
須留岐山(須留喜山)山頂

浅間トンネル上へと続く境界尾根とおぼしき方向にも切開きどころか境界標柱も見出せない。時間も遅いので藪漕ぎ敬遠、元来た道を送電線鉄塔No43!!の巡視路まで戻って南側の浅間集落へ降りる分岐 (PM3:50)は巡視路には広くて、よく踏み込まれた良過ぎる道でしたが降るほどに細く荒れてきました。黒っぽい大岩が目立ってくると礫岩採石場(進美〜須留喜の丁度中間付近の山肌を削っている場所なので円山川からは目立ちます )に出てきます。この山道入り口に導標石仏があり峠道であったことを示しています(PM4:05)。此処が城への虎口だったら攻略は楽だったかも!!??。しかし・このコースは長く辛い迂回ルートになってしまいました。 浅間からは簡単に山裾を赤碕へ戻れると思っていたのに日高町赤崎と八鹿町伊佐を結ぶ鹿円山川右岸地区・農道工事の為か車道がゲートで閉ざされ「部外者侵入禁止」!!。対岸の132号線に出るには、 出石への車道から伊佐橋まで戻るか円山川を泳いで渡るかしか方法が有りません!!?。対岸の国道を走る車を見やりながら帰るべき方向とは逆に進むのは辛いですね。

途中で通りかかった青渓中学校は 円山川を挟んで対岸の「青渓書院」に関わる名称で、校門の石碑「慎独黙座」の銘とともに、但馬聖人と呼ばれた池田草庵の名が思い起こされます。 私の丹波の由緒丹波人物史紹介の丹波の聖人小島省斎とは青年時代からの友人。 この辺りからレンゲ畑を前景に両山を狙ってみたが近すぎてシックリ納まらないが伊佐橋(PM4:40)西詰めからは円山川の流れの中に連なる両山を望むが、時間も遅く山の姿がスッキリしない。車の通行量が多くて 危険な程の川沿いの帰道は、広い河原や土手にオドリコ草が目立って多く咲いている。赤崎へ戻り着いたのはPM5:30を過ぎていた。


但馬聖人 : 池田草庵(1813〜1878)と青谿書院

近代但馬人育成の祖で但馬聖人と呼ばれた池田草庵<幕末〜明治維新期の儒学者>は文化10年7月23日、 兵庫県養父郡八鹿町宿南の旧家で村三役(庄屋・組頭・百姓代 )の組頭・孫左衛門の三男として生まれ、名を禎蔵といいました。母の死で養父郡広谷十二所の満福寺にあずけられ僧侶としての修行を積みますが、天保2年草庵19歳の時、養父町を訪れた儒学者・相馬九方(きゅうほう )の教えを受け、儒学を志す決心を住職の許しのないまま寺を出てしまい、後にこの不義理な行動を深く反省し、絵師に「満福寺出奔図」を描かせ、掛け軸として生涯部屋にかけて自らの戒めにしたといわれます。
 
京都の相馬九方に入門して儒学の他、朱子学、陽明学をも勉強し、京都一条坊に塾を開きます。草庵の学問や人格の立派なことが故郷にも知られることとなり、但馬の弟子を教育してもらいたいと願う人が多くなり、 草庵はこわれるままに天保14年(1843)31歳の時、故郷に帰り八鹿町の「立誠舎」という建物を借り受けて弟子の教育を開始しました。弘化4年(1847)35歳の時、郷里・宿南の霊峰・進美寺山を望む西山(源氏山)の高台に熟舎 「青谿書院」を建て、門人たちと起居をともにし知識を与えるより人間の生き方、人格の完成をめざすものとして自らの実践を通じて教育し、「独慎」という言葉を重んじました。

33年間の間に全国から集まった 門人には但馬地方の士族に限らず農民も多く、多度津藩・出石藩・唐津藩・宇都宮藩等から多くの留学生を迎え入れ、延べ700人に達しており、門人には日本の近代化を目指す明治 ・大正期のリーダとしての人材も多く、 東大総長・浜尾新、琵琶湖疎水を開いた京都府知事・北垣国道、文部大臣・久保田譲などがいます。明治11年(1878)偉大な学者、教育者として仰がれながら但馬の聖人・池田草庵は66歳で世を去りました。 当時の姿が今でも残る私塾は全国でも数少なく兵庫県指定の史跡となっています。隣接には青谿書院資料館があります。


進美寺山城(掻上城) 
宿南城

進美寺山城(掻上城)  進美寺山(361m)の山腹進美寺付近   城崎郡日高町日置

但馬の天台宗諸寺院の最頂点に立つ有力寺院の古刹:進美寺は、 多数の僧徒を擁していた為、戦乱が起きると諸伽藍を含む山全体が城郭として機能を果たし、 山頂の白山神社は物見の台ともなったのでしょう。進美寺山城(掻上城)は南北朝時代には豊岡・三開山城と共に但馬の南朝方の重要拠点の一つになっていますが資料に乏しく詳細不明です。 進美寺・観音堂

建武3年(延元元年 1336)進美寺を中心に南朝方が一斉に蜂起し激戦が繰り替えされる。 建武5年(1338)には足利軍の武将・桃井兵部大輔盛義により南朝方で守備していた伊達三郎義綱を追い出し 北朝方が守備を固めていたが、やがて但馬の南朝軍が攻め落としています。しかし暦応2年(延元4年1339)3月、 足利尊氏は今川頼貞(但馬守護)に攻撃を命じ、褒賞を与えて士気の高揚を図っています。足利尊氏が室町幕府開き北朝方が優位になってくると但馬の南朝軍は劣勢化し、足利の手に落ちて但馬の南朝軍はその拠点を失っています。


宿南(しゅくなみ)城 大松山(だいまっつあん ・城山 150m)   養父郡八鹿町宿南

R312号線・JR山陰線・円山川が並列する円山川リバーサイドライン、八鹿駅を過ぎ北上すると 進美寺山と対峙する西方に低い山並みが見えています。 丁度昨年同じ日に此の城を目指したが場所も登路も知らず通り過ぎ、目立つ山容の進美寺山へ向かったが、山から降りて延々取付きの赤碕集落へ戻る途中見つけた基地がバス停・経済連前。山麓の宿南集落の様子が判らないので此処「JA但馬農業管理センタ」から歩き始めます。 JR山陰線ガードを潜り集落内角の池田商店を南へ進むと 直ぐ山裾に青渓書院が有りますが直進すると小川に沿う道に「大松山(宿南城址)」案内板を見ます。
宿南城址遠望(本郭部は後方の高みですが前方ばかりが目立つ)

城山の大松山(だいまつさん150m)は ダイマッツアンと呼称されています。此処から正規の大手道!!で苦も無く本郭へ登り詰められるのですが、狭い民家の軒先を抜けて行くには道標が欲しいところです。数段の小さな曲輪跡から尾根に出ると南への尾根へ踏み跡が延びている。 此方の尾根にも曲輪遺構があるようで本郭へ向かう短い平坦地は尾頚平と呼ばれ、本郭部の切岸まで続き此処に縄張り図付きの案内板が建てられています。縄張り図によると山上に移した居館本郭部の削平地両端から。 北の田中神社や大手道!!側の尾根上に連郭式に十数段の曲輪を連ねて回廊状に繋ぎ、南の尾根へも数段削平地があり出曲輪があったようです。山頂の本郭部は雑木の中で遺構の確認も出来ない程、宿南城と自然を守る会!!の標が掲げてあるが、 此処まで足を踏み入れて来る人はいるのだろうか!!。(注・周辺は松茸山ですのでシーズン中の入山は出来ません)帰路に大手道!!を降りて来て様子が分かった次第ですが、登城口の勝手判らず田中神社から向います。 鎌倉時代に朝倉氏より分かれた八木氏・奈佐氏等とともに宿南氏が此処の地頭として、宿南三郎左衛門能直(初代?)の長男重直を宿南荘に置いていたが康永年間(1342-45)宿南太郎佐衛門信直によって築城し、 地頭館を山に移したといわれ田中神社附近に居館址が残ります。

南北朝期の攻防を経て応仁の乱には「六分壱殿 」と称された守護山名時氏に属して行動し足利義詮(尊氏の子)に付くが、まもなく叛して足利直義の子 ・直冬を擁して南朝方につく。 延元元年(正平11年 1336)尊氏が但馬南朝方を攻め、 南朝方の武将・伊達真信が北朝に転じ宿南城を攻撃し、その後も真信は次々と但馬南朝の拠点を陥れています。暦応2年(延元4年1339)足利尊氏が今川頼貞(但馬守護 )に進美寺山城攻撃を命じ、やがて 室町幕府開き北朝方が優位になってくると但馬の南朝軍はその拠点を失っていきます。
宿南城址・本郭の切岸(山頂の尾頚平側案内板から主郭)

永亨年間(1429〜41)頃には宿南左京続弘が城主で八木氏から数か荘の所領を持って養子に入った人物とされます。 天正5年(1577)10月末播磨攻め中の群議で決定した羽柴秀長軍の「但馬攻め」では、赤松左兵衛を先導に副将・前野将右衛門、宮部善祥坊ら、総勢4100人を率いて朝来郡に攻め入り、岩州城主・太田垣出雲守、 竹田城の太田垣土佐守を落とし、養父郡の八木城主・八木但馬守、坂本城主・橋本兵庫介、国分寺城主・大坪又四郎、朝倉城主・朝倉大炊、三方城主・三方左馬之介らは降伏し僅か20日余で朝来・養父両郡は制圧されています。 宿南城主・本郭の案内板では宿南十郎左衛門信久ですが!!??宿南修理太夫輝俊の時、秀長軍との戦闘では病気となり嫡子:重郎左衛門輝直と弟の主馬助直政兄弟を出陣させ下小田(宿南城南2kmの円山川沿い )の平野で秀長軍との白兵戦となりますが大軍に押され敗北の報を聞いた輝俊は僅かに残った城兵を指揮して城を守ろうとしますが病気で体が思うに任せず観念し、館に火をかけ城の麓・諏訪の光明寺に入って自刃し 一族郎党は殆ど討死し落城したといわれます。翌・天正6年(1578)但馬をほぼ制圧した羽柴秀長は竹田城に入り、朝倉城に青木勘兵衛、宿南城に宮部善祥坊、三方城に木村常陸介、岩州城に前野将右衛門を入れ、 前野将右衛門に生野銀山の再開発を命じています。

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