丹波の霧海特選路  五大山~愛宕山~鷹取山~五台山 西岩山(香良城)
丹波市(五万図=福知山)
安養寺~愛宕山~五大山~鷹取山~五台山~鴨内 2001.11.23
毘沙門堂~香良城(西岩山 Ca340m) 2004.04.09
毘沙門堂~香良城(西岩山)~小野寺山~五台山 2008.03.04
小野寺山より五大山-千丈寺山-黒井城を望む

校歌・故郷の山:♪そそりたつ五台の山に…♪ 前山小学校 
   ♪みどりすがしい五大山 遥かに仰ぐ…♪三輪小学校
ふるさと兵庫の50山: 五台山 香良合戦と[勝坂]の伝承
近畿の山城 : 香良城 香良西砦

五台山は香良の登山口に岩滝寺(がんろうじ)や独鈷滝前の石段を登れば岩窟の中に浅山不動尊があり不動明王が祀られています。不動明王は不動、降三世、軍茶利、大威徳、金剛夜叉の五大明王の大将 ・煩悩を断ち切り、 行者を守り請願を満足させる仏様で五つの峰を五大明王に見立てて
小野寺山山頂から五台山(右)から安全山・氷上盆地の霧海

徳尾の大原神社から入峰して親不知(金剛夜叉)・五台山(軍茶利)・鷹取山(不動明王)・五大山(降三世)に愛宕かクロイシ山(大威徳)を加えて…!?。 吼子尾山から見るクロイシ山は実に雄々しく立派な山容なので五峰の一つにしたいところです。 天平の頃・聖武天皇の勅命を受けて行基が中国山西省にある五台山3058mに似た山を探して 全国行脚して五台山と命名し(文殊菩薩が住む聖地として信仰を集める)たことに由来する神聖な山です。
五台山山頂から氷上盆地に消え行く霧海を見る

五大山の山号を持つ白毫寺は(比叡山の慈覚大師が来錫してこれらの山々を巡ってより回峰行も行われ山岳宗教の軸ともなっていたようです。五大山の麓に白毫寺があり五台山山頂には近年になって文殊菩薩像が祀られています。 この山稜で特筆すべきは石生に谷中日本一低い分水嶺(水分れ)があり此処から北へ向う稜線の西には加古川が瀬戸内海へ・東の竹田川は由良川を経て日本海に流れ出ます。



霧海展望特選コース 安養寺~愛宕山~五大山~鷹取山~五台山~鴨内  H13.11.23

五台山はWebに紹介されるが安養寺からのコースや五大-五台の縦走レポートは少ない!!??。R175号線から丹波の森街道 (青垣・柏原線)県道 7号線の桟敷から安養寺へ向かう。五大-五台の稜線の中でも特異な丸い山容が周辺の山や里からも目立つ愛宕山へ北由良・登山口にある安養寺(AM7:20)から出かけます。
愛宕の覗き岩から安全山・弘浪山

愛宕山に向う林道入り口ゲートの留め金を外して道なりに進みます。堰提の前で左手の斜面を登っていく杉林の中に 山道が続き入口には 注連縄を渡した石柱が有り「愛宕山道」の標識もある。参道を少し登りはじめると足元すぐ左側の岩場に大きな鉱口があり先で二手に分かれて 掘り進められており中で又一つになっている様!!?です。戦時中のマンガン鉱発掘跡で坑口横の岩上部に石仏が一体祀ってある。慰霊なのか愛宕社参道を示す不動や菩薩かは確認していません。
安養寺からの愛宕山

程なく藤の水分岐で左手下へ20m程で水場に出て (AM7:40)是より10分程で西側に展望が拡がり始めると愛宕の覗き岩に着きます。目前に安全山・水山・竜~篠ヶ峰・弘浪山・白山・高見城山等西面から南への山々が見渡せます。一休みして登り始め愛宕社のお堂と少し高みの岩場にある 京都愛宕山の遥拝所の中程に出てきます。愛宕山(570mAM8:20)のお堂前には石燈籠があり「寛保… (1741~)」の文字が …滅多に山行では記帳などしないのに此処へ来ると下手な文字で何か書いてしまいます。なんと翌日にはメール仲間の目に止って恥の上塗りになってしまいました。
京都府の弥山山や青葉山を望む

遥拝所からは樹木の影で何も見えないが眺望が効けば京都愛宕を始め多くの山の展望が 楽しめるはずです。高圧送電線鉄塔の先の五大山迄はホンの1頭足・距離は短いが岩場の急登。初めてならスリルと緊張の味わえる要注意箇所。 鉄塔を過ぎて五大山への登りで振り返れば西南面の山肌には紅葉と荒々しい白い露岩を見せる愛宕山が下方に拡がる霧海の上にあり、 贅沢な展望を楽しめます。また愛宕山の険しさを安養寺から見上げた時同様に再認識させられます。五大山山頂(569m AM8:35~9:00)からは三方向にコースが分かれます。
五大山より鷹取山~五台山

直進して高圧線沿いに南へ向うと 亀の座~天王坂から霧山へ、左手の道標に導かれれば白毫寺へ中ほど左へは ヨコガワ峰~千丈寺山~黒井城へ向います。五大山山頂からは此れから向う鷹取山(氷上槍とも呼ばれ109号線の賀茂辺りからは 五台山の台形と愛宕山の丸みの間にあって一際、 鋭鋒天を突く風情が望めます)から小野寺山・五台山へ続く稜線の起伏と霧海の雲上散歩を期待させワクワクする魅力を 感じさせてくれます。元来た道を愛宕山へ引返すが愛宕社の裏からは激降りが待っています。鞍部からは左の谷に向って安養寺へ降っていく踏み跡もある。五台山へは道も明確なのでルート説明は省略します。登り返して稜線も緩やかになりますが藪っぽい場所もあり
岩滝寺

左の枝尾根に入いらないよう注意だがテープ類も時々現われ・踏み跡はハッキリしているが荒れているので 正規ルート!!ではないので引返したほうが無難です。五台山を望む露岩部でほぼ行き止まり状態になりますよ。 植林帯の急斜面を降れば枝谷を経て独鈷滝付近へ降りられそうです。この枝尾根の先にも明瞭な杣道が左方向に降っているので 踏み込まないよう春日町寄りに進めば大丈夫。氷上槍の鷹取山山頂(4等三角点 566m AM9:45)には 「大正6年建立・雷大御神」石標がある。 正面の樹木の間からは 霧海に浮かぶ黒井城址や妙高(高谷山)や三尾・多紀の山々が浮かんで見える。三角点周辺が切開かれているだけの藪山は近年・
露岩を覗かせて起立する西岩山(香良城)と悠々とした五台山

エルム市島からハイキングコースが整備され、素晴らしいベンチ付き展望台に変貌している。愛宕山に続き鷹取からも山頂からは激降りです。下りきった鞍部から岩瀧寺側へは荒れた谷筋沿いに奥なめり・口なめり・一の谷を経て 独鈷滝からの五台山コース牛の首・藤の目に降りてくるが谷周辺は松茸山の為シーズン中は入山禁止です。野寺山から大きな案内板が示す鷹取・愛宕へは一般ハイカーなら「こんな所を通るの…」と思うようなルートから小野寺山 (645m AM10:25~40)に飛び出してきますが目前1~2分のところがフィナーレを飾る五台山が今回コース最高所の展望台です。 円形の方位山名案内磐もあり多紀アルプスから松尾~白髪・大江山・姫髪山・三岳山・烏ヶ岳
西岩山(香良城本丸)東から岩瀧寺背後の岩峰と鷹取山

~鬼ヶ城・篠ヶ峰~竜ヶ峰・岩屋山・ 粟鹿山から千ヶ峰…へと見飽きることない眺望に思わぬ長居をしてしまうが五台山へと散策道を進みます。左手からは独鈷滝からのメインルート・右手からは鴨坂ルートの十字路を過ぎて文殊菩薩像が祀られている五台山山頂(2等三角点 655m AM10:42)に着く。氷上方面の霧は晴れかかっているが未だ霧山城近くの二つの島甲賀山/明治山は霧のなか。是より北方・鴨内峠への道は峠へ下る山道と別れ正面の稜線通し。今年の春にみぞれ混じりの雨で挫折した井階山への逆縦走です。取り付き始めは不明瞭な道もやがて明瞭になり境界ポールも現われるが段々と稜線から外れ谷に向って下り?、 見覚えのルートのようだが少し不安です。
岩滝寺の山門

オマケに下方では何発もの猟銃の発射音や多くのイヌの鳴き声が聞こえますので引き返しながら目ぼしいピークに取り付く尾根に見当つけて激降りして隣の尾根に乗ると山道が現れました。ルートを変えたのが大誤算でワザワザ正解の尾根を外し 枝尾根を伝い鴨内の林道に出でしまった。こんなことなら五台山~鴨内峠経由がスッキリした縦走コースになる。鴨内から県道7号線日比宇公園 (PM12:30 水分をテーマの石造モニュメントがある)~伊佐口(井階山は此処の稲荷社から取付く)を経て加和良神社(PM12:45 氷上郡の名木百選・ムクの木)前を抜けて 「香良の独鈷滝」へ向う車道を横切ると駐車場完備の休憩所があります。 車道の終点は五台山と鷹取山・その前方には滝や浅山不動尊付近の露岩も荒々しい山肌を見せる五台山登山口。新しく天王坂方面に向うのでしょうか!!広域農道が出来ています。
浅山不動尊

この道をとって山の鞍部を目指します。その鞍部を越えれば出発地点の安養寺へ出られるはずです。愛宕へ向う際に確認した林道へ出られればと 見当つけてのルート選定だが古い峠道をとり(PM1:05)峠には磨耗して姿も良く分からない小さな石仏があった。倒木等で荒れてはいますが峠道はハッキリしているが数10mで忽然と道はなくなり、何かの開墾地のような湿地帯に出てきた。 雑草が倒された獣道を伝って此処を抜けると安養寺近くの民家も見えてきて寺より随分南側の河川工事現場の架け替えの為に外されてしまった橋の前に出てきました(PM1:30)。
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香良・独鈷の滝と岩瀧寺

【独鈷の滝】
五台山の登山口にある岩滝寺(真言宗大覚寺派の尼寺)の山門を潜り、茅葺の本堂から春秋の草花を愛でて滝に向います。 落差約18mの独鈷の滝は弘法大師が大蛇を退治するのに滝壷に独鈷を投げ入れたとの伝説があり、剣豪浅山一伝斎がこの滝で修行して浅山一伝流兵法を編み出した所でもあり、説明板も岩瀧寺の参道途中に建てられています。 寛永9年(1632)の御前試合に勝って剣名を轟かせています!!。北は仙台藩・南は薩摩藩に至るまで、その流派は全国20余藩に伝承され、今も警視庁流の中に受け継がれていると聞きます。
独鈷の滝

浅山一伝斎壁書【1:武芸は其身に慎1:心掛けは手柄の基 1:心遣いは分別のイロハ 1:堪忍は忠孝の下地1 :短気は未練の相 1:がさつは臆病の花】座右の銘に如何…滝の前の石段を登ると暫らくは藤ノ目渓谷に沿って進む五台山への道、 道標を見て左手には大岩を背にした浅山不動尊があります。この堂の裏は奥行15m程、高さは12~3mの洞窟の中に不動尊が祀られています。岩瀧寺は1200年の歴史を断崖・奇岩・幽谷の山中に伝えます。 弘仁年間(810-24)嵯峨天皇が住吉明神の霊夢により此の地に弘法大師を巡錫させて伽藍・坊舎を建立整備させられたと伝えられます。
不二の滝


天正年間(1573-92)兵火(明智の黒井城攻め時か?)により全山焼失したといわれる。 再建されていても同様に明智軍によって焼かれたのかも知れないが?…。関が原合戦以降(慶長1600)丹波の領主となった別所豊後守によって再興され、 さらに宝暦5年(1755)には三田藩主・九鬼長門守隆邑(たかむろ)の発願により護摩堂が再興、さらには嘉永6年(1853)三田藩主・九鬼丹後守精隆(きよたか)??や 柏原藩主・織田出雲守等によって当山興隆に努められたといわれます。


  香良城 香良西砦 香良合戦と[勝坂]の伝承

香良城
 西岩山 Ca340m  氷上町香良【登山レポートに含めます】

毘沙門堂(極楽坊遺跡)~香良城 ~作業林道終点~小野寺山~五台山~独鈷滝 2008.03.04
175号線から丹波の森街道(青垣・柏原線)県道7号線「桟敷の交差点」を右折すると 黒井城のある春日町と 香良城のある氷上町を結ぶ 天王峠に向かう。香良城の存在さえ地元では知る人も少ない山城だが攻めるに難く・籠城するにも厳しい四方懸崖岩山の城砦が 香良合戦の舞台になったとは思えない。源平・南北朝期以来繰り返されてきた丹波の合戦のなかでも 最も激烈を極めた香良合戦香良合戦と[勝坂]の伝承の項を参照願います。
西岩山(香良城)取付点:毘沙門堂参道

概要は香良に集結していた細川氏綱方の芦田・足立氏一族と、三好長慶勢の松永・内藤(京都八木城)連合軍に、 細川晴元方の赤井時家等赤井・荻野氏一族と波多野氏が助力した?詳細は不知だが…細川家内紛による代理戦争とされる。赤井・荻野勢の急襲に 三好長慶勢は敗走したか?、参軍が間に合わなかったのか?詳細不明だが敵・味方共に多数の戦死者を出しながら勝敗を決していない合戦に、
毘沙門堂と極楽坊跡

芦田・足立氏一族は悉く戦死、其の後:荻野・赤井氏の台頭に芦田・足立氏はその傘下に入り、氷上郡内を直政一党が支配する。ある資料には天正年中?とあるが・足立新九郎が石火矢を打ち掛け…たが?落城とあり 不動滝より筧にて取水した?とも。城域三ノ丸の西端最低部の西之丸陣小屋?からの 尾根山麓<城ヶ越>に陣していた?荻野悪右衛門尉直政との合戦には 足立新九郎に切立てられ直政は重傷を負い危うきところ、坂ノ兵衛が負い北由良への峠(勝坂)を越え 春日領内に逃げ帰ったと…。
香良城東郭(一ノ丸):露岩の切岸と西面の帯曲輪

「桟敷」交差点を過ぎると 左手に目につく「香良・独鈷の滝」の大看板と右手前方には五台山の悠々たる台形の山容 ・天を刺す尖峰の鷹取山を背にし、香良病院の背後には急峻な露岩の鎧を身に纏って立ちはだかる五台山前衛峰の岩山が迫ります。
香良城東郭:土塁を挟む二重堀切?(山道になっているが…)

この岩峰尾根の山頂部一帯には城主・築城目的や時期等の城史は不明だが 室町時代中期・応永年間以前(1394~)小室城主 ・芦田氏隆盛期の砦とも思える香良城があった所です。駐車場から岩瀧寺と独鈷の滝・浅山不動尊への参道を進むと 左手に毘沙門天の赤い幟や県の遺跡分布地図にも記載されていな"古蹟極楽坊跡(極楽坊谷古跡)・毘沙門天洞"看板を見て柵で囲われた毘沙門天へ参道を登る。
三ノ郭より望む香良城東郭(一ノ丸)

周辺には数多くの堂宇・僧坊跡の石垣や石積みを残す削平地があり、西側隅の大岩の前に毘沙門堂の祠があり左右の隙間?から毘沙門洞の岩室内に入れる。西岩山(香良城)Ca340mピークと、西下方にあるCa320mの双峰を繋いで 広いところで幅10m程の瘠せ尾根上に小規模な削平地を残し、自然地形か僅かに土塁の高まりを感じさせる場所もあるが 堀切・竪堀・曲輪の切岸さえ不要な程に急峻…というより岩山・露岩の峻険な断崖上に築かれた・これ以上を望め得ない程の要害。
香良城からの展望(正面に安全山や水山~カヤマチ)

西方2Kmには丹波市最北端の宿場町佐治から遠阪峠へ向う山陰街道を望むが要衝監視には少し遠い、小野寺山と鷹取山の間を越えて市島町乙河内・美和へ抜ける間道はあるが、 嶮しい山上に監視の砦を築く重要性が見出せない…果たして。香良城址・西岩山の表示があり毘沙門堂のある此れより西の岩山山頂に城があったと云い 隠し谷・城ヶ腰等の名が残る。城域は岩壁で取り囲まれており文字通りの鉄壁の構えです。以前に駐車場側の小祠の鳥居裏手のルンゼ詰め・殆ど岩登り(昔の岩登りグレード1-2級程度)然とした西岩壁の岩場をすり抜け、
香良城東郭の断崖から西郭(三ノ丸)・更に南西下方に四ノ丸が!!

登ってみたが両岸が切れ落ちた細い尾根に登り着くと、 狭いが平坦地が有り中央に見張の櫓台跡か?土壇状に盛上がる台地が三ノ丸か?!・深い谷を挟んで東正面には 起立する露岩に鎧を纏った香良城の主郭を置く西岩山を間近に望む。 「丹波志」に陣小屋跡と云い見張り番小屋でもあったものか?。尾根端から見下ろしても、あの時・何処をどの様に登ってきたのか思い出せない程!!。直ぐ東150m程で主曲輪だが其の間・三ノ丸にかけて城域を東西に区分する鞍部岩場を通過する。
香良城東郭(主郭?)東面障壁岩の切岸

此処に浅い堀切状をみるが急峻な東郭 (一ノ丸)切岸下部(山腹)を捲いて 西尾根(西郭)へ通じる古い杣道が溝状に岩間に斜上してくる。此処から二ノ丸の細長い削平地(8X30m程)に入ると、平坦地形の尾根筋両側に帯曲輪が付随している。 帯曲輪西端からは北西下方へ急斜面の枝尾根が延びる下降口に一条の竪堀が落ちる。二ノ丸の尾根側は東端から主郭側へは露岩帯の尾根筋(左右・東西端は堀切状)を廻り込む細い通路に土橋にも思える部分もある。
香良城東郭(主郭?)北切岸の土止め石

15mX30m程の 不整地で削平も粗く斜傾した本丸に着く。 山頂に石垣の一部が残っているというがわからない。曲輪西端部の切岸(段差)面には曲輪を広く保つ為の土止めの石積が遺る。此の西面石積が切岸を立てての防備補強でないことは ・斜面の6-7m先の下部に岩棚があるが其の先は10数mの断崖なので不要でしょう。東北の尾根続き…といっても此方も急斜面。毘沙門堂から正面のルンゼ状を尾根筋に登り着けば城跡にダイレクトに行けそうだが上部になるほど急斜・浮石も多く危険です。
香良城西郭(二ノ丸)西北角に落とす竪堀

踏み跡の続く右手拠り(東側)の浅い谷のガレ場少し上方まで堂宇跡らしい石積や狭い平坦地が続く。此処を登ってくると五台山からの主尾根続き・東北の尾根に登り着きます。尾根筋北側を伊佐口(香良病院西側の谷川沿い入口)へ下る広い(3-4m幅)の林道が此処に通じでいる。 2014年夏の豪雨による土砂災害では毘沙門堂からの登路を断たれ、林道も簡易舗装のコンクリート道さえ地盤が削られ・崩され・捲りあがり、斜面の地盤が林道上にズレ落ちて道路端を残して埋もれているところもある。
ニノ丸は尾根上の長い曲輪:左右に帯曲輪が付く

林道が丘陵部を捲き込んで大きく五台山側へ向かう峠部から右手尾根筋に移るところから香良城域に入る。此処に規模の大きな蛇行する竪堀状を見るが林道が通じる以前に・よく踏み込まれた古い山道。続いて二重堀切状を越えるが此処も外側は山道らしく、下方で先程の竪堀状の溝下方に移ってゆく。大土塁状に”山の神”の標示板があることからも山仕事道。田圃へ供給する水源地帯でもあり ・更に其の田の神ともなる山の神が祀られていても不自然ではない!!。
西郭南端三ノ丸の南西下にある曲輪(小屋ノ尾<仮>曲輪)

二つの山道の傍・中間部に”山の神”が祀られていることからも林道と思える。…が外側は山腹を捲く道筋を堀切に繋げて利用したものかも?。内側の堀切からは直ぐ香良城最高所の郭東面に 岩盤を覗かせる10数mの障壁が立ちはだかる。南寄りに巻き上がるのが無難だが北正面を攀じ上る曲輪端に土止め石積を見る。土止めの石列は西尾根側の曲輪群にも見るが 竪堀を二条ばかり(一本は疑わしいが!?)北面に観る。最高地点西岩山(Ca340m)山頂を主郭と思っていたが
西郭:ニノ丸稜上の長い曲輪:左右は帯曲輪

遺構や規模からは寧ろ:降ってゆく西尾根側の二ノ丸から四ノ丸曲輪から成る西曲輪群のうち尾根筋両サイドに帯曲輪を備える二ノ丸が主郭と思われます。 最高所の東峰から西峰の曲輪群へ降り始める露岩部と岩稜部端の間が堀切状を見せる個所もあるが此れも山腹を捲いてくる山道跡か?。これ程の峻嶮な要害地にあって 尾根を遮断することもない堀切が 二つの城域を分ける意味合いも不明?なうえ岩を穿ってまで苦労して堀切る必要性も感じられない。香良城は四郭群で構成されているようだが、実は西尾根最西端の曲輪から20m程・露岩部の急斜面南下部に
香良城ニノ丸西南端:空堀状から尾根筋の二ノ丸と東側帯曲輪

長さ20mx幅5-8mのⅣ郭は,削平も良好で 綺麗な平坦曲輪があり土塁状・土止め石列が遺る。観光駐車場側から上部に延びる切り立つ岩場を伝い登り切り、やっと両手が空いた(外れた)平場の尾根上に登り着いたところが”丹波志”に云う陣小屋(小屋の尾)なのかも!!?。 一ノ丸(最高地点にある東郭)側にも一 段帯曲輪が延び西北部を占める主曲輪との段差には 自然の露岩部?の石列が切岸状に並んでいます。 尾根に続く北東側の急斜面を 斜めにカットする踏み跡を辿り二重堀切の鞍部に降りる。其の先に上ってきた山道が堀底道状になって北側を伊佐口に向って下っていく。作業林道は伊佐口からの谷を詰めて香良城域の北の肩を東に廻りこんで…
香良城主郭と東下の腰曲輪

広く削られた林道が平行して鞍部へ登ってきている尾根先を見るとブルー・シートが見え、土橋状の細い尾根側に「山ノ神」に標識が立つ側から、延びてきている林道の間には深く大きな「くの字状」の巨大な横掘のような谷となっています。 「小屋の尾の隠し谷」とは此処の事だろうか?。雪の林道向かいから尾根をトレースすれば五台山へ通じるが、新しく敷設工事されている林道は何処まで延びていくのだろう?。 林道終点まで雪道を進んでみる。深い雪に足をとられ・雪融けでぬかるむ道に難渋しながら進む。途中で五台山への一般登山道と出会う筈なのに、林道で寸断された登山道に目印のテープ類さえない。
南端に石塁上櫓台をもつ西郭(三ノ丸)が東郭より主郭っぽい!!!

岩瀧寺・独鈷滝から五台山を目指すなら殆どの登山者を対象にする標識もいらないし、林道からも直ぐ 脇にある「一の岩」が目印になってもいます。雪道に気をとられて標識もなく・様変わりしてしまった周囲に、まったく気付かず 林道から鷹取山を望みながら此処を通り過ぎてしまった。大きく南へ廻り込んで小野寺山~鷹取山間の稜線から派生する枝尾根の484m峰の山腹を廻る、更に一つ東の枝尾根付近で行止りとなる。其処から・ひたすら登り一辺倒の急峻な尾根に取付き雪の残る斜面に向う。稜上が明るくなってくると露岩が現れ、其れを越して尾根に出たところが小野寺山山頂30m程手前・鷹取山側に下るガレた登山道の側だった。
城域東端:林道に接する大竪堀!!?は旧山道!

雪上の足跡は少なく(2~3人程度か)鷹取山縦走路にはなく小野寺山で折り返して五台山を往復しているだけです。私も五台山まで行き展望台から 西岩山を望み登山道を独鈷滝へと引き返す途中で工事中林道に出て初めて往時に気付かず行き過ぎた箇所が判った。 【H26年豪雨により香良病院西入口からの林道入口も第二堰堤?付近から林道・谷筋は壊滅・水平道上も斜面崩壊による土砂が車道を覆う。多大な被害状況から復旧は未定?。堰堤工事は始まっているが…】

香良西砦(小屋山城・円悟寺裏砦)<仮称>)
 xxx山 Ca285m  氷上町香良
香良合戦と[勝坂]の伝承

香良合戦:明智光秀の丹波攻めによる「黒井城攻略」以前に氷上郡(丹波市)内でも戦国史に残る最大規模で熾烈な香良合戦が弘治元年(1555)勃発し、氷上町香良から絹山地区一帯に展開された。香良合戦は香良に集結していた細川氏綱方の芦田氏・足立氏連合には三好長慶 ・松永久秀が、
香良城(左)と 鷹取山遠望

細川晴元方の赤井時家等赤井・荻野氏一族には波多野氏が助力・介入したか詳細は不知だが …細川家内紛による代理戦争とされる。香良合戦は香良住吉神社の南付近・地蔵ヶ端で双方が激突した戦いで荻野・赤井一族の台頭に危機感を募らせた足立氏/芦田氏の連合軍が丹波守護代の京都八木城の内藤氏・京都で実験を握る・松永長瀬?の応援を得て戦いに臨んだ…と。 荻野才丸(直正)が叔父での荻野秋清を刺殺し、悪右衛門直正を名乗って黒井城主となったのが天文23年(1554)。源平・南北朝期以来繰り返されてきた丹波市内に於ける戦国史に継がれる最も激烈を極めた激戦:香良合戦の勃発は翌:弘治元年(1555)のこと。荻野家家臣団にとっては全体に周知されず、上層部で勝手に決められた赤井家からの才丸(荻野直正)養子縁組のこと・秘密保持とはいえ 直正の城主謀殺に対し家臣団の多くが黙認?していたこと。
城域東端

赤井家にとっても赤井姓に復姓せず黒井城を本拠に氷上郡(現:丹波市)全域を束ねる領主となった荻野直正に対しては、赤井・荻野家の其れぞれに、直正に対する妬み/不満/遺恨を募らせる分子もいた筈?。芦田(葦田)・荻野・赤井の三家は同族で 其の祖:井上九郎家光(家満)が信濃国佐久郡蘆田村から保元3年(1158)丹波東芦田に移り、芦田姓を名乗り…後裔の為家が建保3年(1215)赤井九郎が 氷上町新郷に移り赤井姓を名乗り赤井家の祖となったとされる説もある。丹波の中世史を語る城砦やその城主、
「勝坂」登山口の案内板

城史等の資料・情報源は「丹波志」や”丹波戦国史(昭和48年発刊)・旧氷上郡教育委員会「埋蔵文化財分布調査報告書」に頼ることとなる。香良合戦に敢えて異論を唱えるつもりではないが…赤井勢・荻野直正勢力に対し氷上町側の沼や鴨内・香良にまで 領地をもつ足立氏(庶流?)の岩本城の権太兵衛基則<足立氏本拠は 山垣城>、 沼城主芦田上野介光遠も庶流<芦田氏本拠は小室城(東芦田城)>がいる。香良に集結した大勢力の三好長慶勢の松永・内藤(京都八木城)連合軍に足立・芦田氏勢が合流?した動向・状況等は未調査不詳。まして此処に直正に抗する赤井・荻野家勢の一部?が合戦前夜に 示し合わせて?加担する構図は不明なのだが、
「勝坂」峠への緩やかな上り坂

三好長慶軍が氷上の地まで侵攻し、此処で赤井勢に追返される程の戦いがあったのか?、また赤井勢に助力したとされる八上波多野氏・まして西波多野?の霧山城(氷上城) 波多野宗高に至っては実在の人物なのか?、霧山城が既に存在していたのかさえ疑問におもえる。「勝坂」の伝承:香良口・地蔵ヶ端(加和良神社付近)での足立氏・芦田氏との戦いで 足立新九郎に切り立てられ深手を負った直正を 足軽?の”坂ノ兵衛”が背負い峠を越え逃れた伝承がある。大河ドラマ「麒麟がくる2020年放映予定」関連幟旗が数本並ぶところが登山口!。 勝坂は案内板が設置され峠までのコースが整備された。絹山地区南東端山麓(工場の奥)に今は枯れた池跡!!?付近から北油良へ越える勝坂を、
「勝坂」と峠の石仏

負傷し黒井城へ戻る直正に「此処は何処ぞ!!」と尋ねられ、咄嗟の機転!!か[絹山から北油良へ越える勝坂と申します]との応えに「戦に勝坂とは縁起が良いのう」…と油良坂付近?まで退いたとき、直正は腰の太刀「鴻の巣丸」を今回の功績にと”坂ノ兵衛”に与えた。「鴻の巣丸」は後:兵衛の子孫により東芦田の胎蔵寺に奉納(丹波志)されていたが、此の事を伝え聞いた赤井氏後裔の懇望に「鴻の巣丸」は再び赤井家に戻された…と云う。何れが勝ったとも云えない熾烈というより苛烈を極めた合戦に赤井信家は戦死・赤井五郎家清(高見城主で直正の兄)は深手を負い、其の傷の悪化で2年後に死去。 芦田光遠は此の合戦に討死(直正に討たれたとも…?)・足立氏一族のなかでも基則だけが
臨済山円悟寺(臨済宗)

赤井・荻野方に属さず、遺恨もあってか!?丹波攻めに侵攻してきた明智光秀方に付き本能寺の変にも参戦している。家清の死により直正は赤井一族の惣領ともなるが、家清の一子忠家を庇護し赤井氏家長として立たせた様。 家清の妻は八上波多野晴通の娘・其の子が忠家であり後:家清の妻であった寡婦を直正は妻として迎えている。明智光秀の「黒井城攻略」第一次合戦時の波多野氏の行動は策謀「赤井の呼び込み軍法」に深く関わっている様です…ネ。
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香良西砦(小屋山城・円悟寺裏砦)<仮称>

真相等は知らないが芦田氏は赤井氏の遠祖ともされ荻野・赤井・芦田は一族!?。 後述の鴨内には芦田神社や足立姓の墓所、香良谷にも芦田姓や足立氏居館蹟があり氏神社?(足立氏定紋の五本骨扇ではなく二引両紋‼)があり、 近くには領主足立氏(足立権之丞xxxと織部妙xxx)の比翼塚が祀られている。青垣町内に領地をもつ芦田氏・足立氏は共に丹波市内最古参の領主だが領国境界互いに大きな紛争はなかった。
香良西砦 主曲輪南4-5mの切岸を立てる

荻野・赤井・芦田の一族!?の紛争には、反直正方についた赤井一族の芦田氏に足立氏が助力し此処に集結!。 其れを知った直正方勢力が街道筋に天王坂を越え桟敷から?、または牛河内の峠を越えて北油良の峠から香良へ侵攻、此処に合戦となった!!?。伝承?の「芦田・足立氏(細川氏綱方)VS荻野・赤井(細川晴元方)」の管領細川家内紛の代理戦争に合わせたような構図も窺われる!!?。 香良への侵攻ルートには 鴨阪から鴨内への間道を抜け…鴨内城裾から伊佐口へ越えれば 鴨内谷川を渉らずに合戦主戦場となった”陣道が原”加和良神社に出る。 直正方の勢力が利用すれば背後から急襲しての
香良西砦主曲輪

挟み撃ち、秋清方なら佐治川や県道沿いの街道筋を監視の目に晒されることなく、街道を避けて 徒渉も避けて香良に出る救援ルート、直正方には南北から挟み撃ちの強力パンチ。鴨阪を分ける南丘陵を越えると内河内・戸坂…直正に刺殺された 荻野秋清の居城溜堀城がある。丹波志「古城之部(香良村ノ奥)に…不動の奥岩山の上に…とあるのが香良城だが尾根続き「西の山より大筒にて…」とある小屋の尾にある陣小屋!?が今回探索の香良西砦(小屋山城・円悟寺裏砦)<仮称>?。足立氏?の籠城する香良城での籠城戦も伝わるが? 赤井氏が香良城を攻撃したよう?だが、年代や契機…の記録を知らない。また香良合戦主戦場の陣道ヶ原(加和良神社付近まで香良城が陣城としてなら少し距離があり、
主曲輪北尾根側に切岸3-4m・土塁伝いに堀切土橋

香良合戦とは直接的な関連はなかったと考えます?。加和良神社が”カワラ→コウラ”<香良>の語源か?、 此の辺りまでは旧佐治川河原・南面一帯が[地蔵ヶ鼻]・[陣道ヶ原]と呼ばれたところか‼。加和良神社裏手:住吉神社の鎮守の森「下山」に合戦による双方死者への鎮魂・無縁菩提の首塚だろうか!!?。五輪塔・宝篋印塔残欠と六地蔵尊!?が並ぶ尾根先端が「地蔵ヶ鼻か…?」緩斜な幅広い丘陵尾根が北東へ延び上がり、頂部Ca285m)に城砦遺構の広い平坦段(主曲輪)がある。 香良城に向かって大筒を放った陣小屋(鉄砲山なり鉄砲丸)が此処か?。
んのほり香良西砦北尾根曲輪群北末端の堀切

香良合戦の陣城としては適地と思えるが山頂から西南へ高度を落とす緩斜な尾根筋に武者隠れの土塁付き平坦地・塹壕等の防備や攻撃に備え切岸を立てる曲輪群も堀切・土塁類等を見ない…が主曲輪から南に落ちる激急斜面側に幅狭い棚状(犬走‼?)から 上り土塁を主曲輪に入る。此の主郭南と北尾根側は切岸も高い!!。主郭北切岸からは土橋付き明確な堀切がある!!…が、北方の鞍部に至るまでの 尾根筋に不整地な曲輪群を挟んで末端に堀切があり、直ぐ尾根筋下の鞍部は円悟寺からの登路が通じていたものか?。
主曲輪南西角に短い竪堀状と上り土塁

北に下れば伊佐口からの谷筋(裏間道?)だが、更に北側丘陵部を越えれば鴨内集落に降りる。山際沿いから比高80m程に 鴨内城«隠ヶ谷城«仮称»がある。香良西砦(小屋山城・円悟寺裏砦)<仮称>へは臨済山円悟寺(臨済宗) 【推古天皇(初の女帝 在位592ー628)の8年(600年) 政務を司っていた聖徳太子による開基で丹波市最古の名刹の一と伝えられる】の裏手から急斜面を廻り込むようにして到達したが
主曲輪よりの西尾根から合戦場の香良口を望む

遺構は香良集落を望み・香和良神社へ下る南西尾根上に見当たらない!!?。小屋の尾に在る香良西砦は香良の臨戦時に陣城として急造されたと思えるが小屋山城の別名がある。 一印谷城(小屋山城)(篠山・丹南町)ともに頂部曲輪を除いて眺望のない緩斜な下り尾根続き・ 浅い堀切り一本が城域を境し、砦機能の監視用なく・防備も弱い!?。領内の老若男女が戦乱時の避難場所として入った「逃げの城」でもあったと!!。 上記の丹波志古城之部 (香良村ノ奥)の最終行?「…小屋尾の北に…隠レ谷…」とあり城砦ありとまでは記されていないが
西尾根末端(地蔵ヶ鼻?)に祀られている地蔵尊と五輪塔は首塚?

幅広く緩斜な下降路が加和良神社裏へ延びる西尾根鴨内集落最奥に位置して、反対の山側に低土塁を築き、市島町鴨阪から鴨内峠越えの侵攻に備えているよう?。 鴨阪の余田氏は弓・槍術に優れた武士団だが赤井・荻野一族との関わりは 不知・天正2年(1574)直正の侵攻に敗れ軍門に下り、光秀との黒井城攻では龍ヶ鼻砦に籠城しているが香良合戦時・どちらに付いて 助力・救援したか?しなかったかまでは不詳。
足立氏居館前に氏神社?(二引両紋‼)

香良谷とは加古川を挟んで西に細川勝元の寺領円通寺(丹波紅葉三山)がある。丘陵上には市内に例を見ない遺構が残るが円通寺背後の井中城<仮称>には 帯曲輪から短いが畝条竪堀10条余り!!。何れも仮称の円通寺砦・井中城がある。北方への尾根続きには沼城があり、ここを本陣とした城砦群が香良合戦絡みで稼働していれば 芦田方VS赤井方による代理戦争であった可能性も大?
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