狸穴の水〜五台山〜葛原峠 / 余田城〜親不知〜コケズラシ/徳尾砦〜点名:袴谷
丹波市(五万図=福知山)
T鴨阪〜「狸穴の水」〜五台山655m〜点名:寺奥〜葛原峠 2002年05月03日
U余田城〜:上鴨坂〜親不知〜コケズラシ〜岩倉山〜大杉ダム2003年02月15日
V余田城・上鴨坂城館 (上鴨坂城)・徳尾砦〜点名:袴谷2007年02月04日
点名袴谷の東枝尾根から親不知と大原神社(中央)

近畿の山城: 東山城館徳尾砦 鴨坂城館(上鴨坂城)  余田城と余田西城
校歌・故郷の山:  前山小学校♪そそりたつ五台の山に・・♪
 香良 少年団音頭 ♪…空に聳ゆる 五台山…♪
 上豊富 !学校(応援歌)♪西に烏帽子の嶺高く 東に滝山(親不知)そそりたつ…♪
丹波のお話:(久下氏の玉巻城悲話)


T鴨阪〜狸穴の水〜五台山〜点名:寺奥〜葛原峠〜尾端  H14.05.03

丹波の隠れた名水「狸穴の水」を探る低山徘徊派オフ。国道175号線を北上し春日ICを越えて 市島町役場の駐車場が集合場所へ。当日は氷上町の病院へ義母を見舞った後、 抜け出してきた!ので、 事前の参加表明はしていなかったが、丹波のたぬきさんご夫婦からは「来るだろう気がしていた!!」と嬉しい歓待のお言葉。みやびさんとは初顔合わせ。北攝と丹波オフでは皆勤賞の兼武さん・佐竹さんと先日は向山で一緒の松田さん 、今回もコーディネータ島田さんのメンバで登山口に向います(AM9:30)。
霊水「狸穴の水」

R175号「八日市交差点」を左折し前山川沿いに上鴨阪集落に向う。大杉ダムへの分岐を右にみて直進し集落の外れからは狭くなる舗装の坂道を進んで広い駐車スペースに着きます。 以前は直ぐ下方のコンクリの貯水施設側にギリギリ登りつめて道横に駐車したが、今は駐車場からも未だ入って行けそうな道が鴨内峠に向かっている。市島町と氷上町を結ぶ峠道は昔はよく利用された間道で、 其の峠口の五台山登山口には
「ありがたや五台の山の岩陰に 大師の恵みいまも溢るゝ」御詠歌の碑と・笠を被った弘法大師像の杖を立てた処から滾々と清水が湧き出る 「弘法清水」の伝説は全国に残るが此処に其の伝承は無い?が、足下には名水”狸穴の水”が?(AM9:50)。 鴨阪の登山口に最近出来たばかりの此れではなく、ホント!!の「狸穴の水」に向います。植林の中の谷を詰め五台山稜線近くまで登った所に有って、
大杉集落から五台山(右)と鷹取山 (左)H15.2.15

水汲みに此処まで来る人は居ないでしょう。むかし猟師が・狸が逃げ込んだ穴から湧き出す清水を発見したのが 発端ですが。こんな所に「何かある。石仏や…」と石仏ファンの島田さんを狂喜させる霊水「狸穴」前山水道組湧合と彫られ石碑の傍には、苔むした岩で囲まれた穴からき水が湧出している(AM10:40)。鴨阪、尾端等集落で管理されているものらしいが水を汲みに今此処を訪ねる人などいるのだろうか?。「狸穴」からは谷筋も消えた広い植林の中の 緩やかな斜面を登って五台山東南尾根に出て僅かの距離で小野寺山-五台山を結ぶ稜線の鞍部(AM11:05)に出た。

五台山山頂・展望台

狸穴コースで五台山の鞍部へは以前、同じコースを歩いた筈だが 狸穴への分岐が判らず尾根に登り詰め、今回はこの時のコースを途中で見失い!!??谷を詰め、かすかな踏み跡を追って「狸穴」に到達しましたが反対に正規ルート??を見失った。五台山登山口の導標にしたがって 林道に入って直ぐ「森林浴***五台山の森」の絵地図入り案内看板があります。直進する鴨内峠を経て五台山へは約2.3kmの道と別れて植林の中に続く山道に入って行くと「是よりxxxm」の行程標識さえあらわれます。 狸穴コースだと約1.4kmですので五台山へは1km近いショートカットコースだが 「狸穴」を目指しての谷筋道は、倒木を避けながらの薄い踏み跡程度の道が続きます。逆に登ってきたから判るが地図無で南東尾根を目指す場合、 この鞍部が分岐(取付き)点とは一寸気がつかない。五台山へは直接稜線道をとらず水平のトラバース道を鴨内峠ルート合流し五台山山頂(2等三角点 655m)の展望台に立つ。少し早いが食事と無線・展望と山々の同定にと思い思いに過ごす(AM11:15〜PM12:20)。
五台山東南尾根より 鷹取山(氷上槍)を望む

ロールアウト大柿氏の赤布は今回からはピンクに変って・樹々に取り付けられています。 植林が続く尾根道は歩きやすく、しかも段々明瞭な山道となってくる。杉・松の広い植林帯は尾根でも谷寄りでも、何処でも歩けそう…どちらを採っても尾根筋がハッキリする手前で合流するので二手に分かれて進む。声掛け合って合流した所は広く削平され、 切り出された材木の貯木場だった様。踏み跡は明瞭に続くが、どの尾根からも東の上鴨阪方面に山道が延びているようで主尾根の方向を地図で判断する事が難しいところもあったようです。時々見え隠れする鷹取山の位置を 確認する人間GPSも少しは足しに!!なるところです。尾根の分岐には塩ビ管にワイヤーを通した罠が仕掛けをはずしたまま錆びてぶら下がっています。地元人意外・通る人もいないコースとはいえ山道の側にあって危険です。緩やかな登り下りで 途中狭い鞍部(峠)に着き、登り返して点名:寺奥(4等三角点 323m PM13:10)に着きます。 山道の直ぐ(3m程)横の高みにあって注意していないと行き過ぎてしまいそうな箇所で此処からも上鴨阪への尾根下降道がありました。
愛宕神社から上鴨坂城と新宮山遠望 H19.02.03

少し降ると送電線巡視路に合い展望の良い鉄塔下(PM13:15)に出る。正面に鷹取山(氷上槍)を望むが送電線が山の南肩を割って延びる姿が痛々しい。 北〜東側には親不知・コスゲラシ・横峰山(高谷山)を望む此処山塊の唯一の展望ポイント。此の先で少し藪っぽい斜面を登り、やっと丹波の山の容相に戻ってきたと思ったら無名の藪ピークに達した。 ここを葛原山とよんでいる資料があるとか!!ないとか!!?。北方向は藪ですが東直ぐ下方には広い峠道が尾端集落へ下って行く。「此処が葛原峠」(PM13:50)。このまま目前の縦走路の坂を登り切れば葛原山ですが時間は無さそうで、 此処から下ります。なんとも湿気ていて踏み込むと足元に水が染み出してくるような不快な道に古畳を敷き詰めている所もあります。 猪除けゲートを開閉して尾端〜上鴨阪〜登山口へと長い集落内の車道歩きですが 氷上町側と違い市島町側の周辺に山も無い(登山対象になるような)所を歩く一団に集落の人達の奇異の眼差しを背に感じます。
坂城館(上鴨坂城)・本ノ丸から余田城の稜線と親不知を望むH17.2.26

野辺に見つけた 肉厚のイタドリ等はグミや野イチゴ同様、喉の渇きや疲れを癒してくれます。お一つどうですか…!!私とたぬきさん以外、これまで口にした人はいなかったようです。山中ではチラホラと見かけたツツジやマムシ草と未だ蕾状態の ギンリョウソウ以外花を見ることが無かったので民家庭先の花には目を奪われています。午後から崩れるとの天気予報も良い方向に外れてくれました。再度・弘法の水ならぬ「狸穴の水」を記念にボトルに詰める人、 話し疲れた喉の渇きを癒す人…たぬきさんからの黒豆パンの差し入れ有難うございます。


U 鴨阪〜宗福寺〜余田城〜上鴨坂〜親不知〜コケズラシ〜岩倉山〜大杉ダム
  H15.02.15

五台山は「ふるさと兵庫の50山」等に紹介され、 西側の「独鈷の滝」や岩滝寺・浅山不動尊からのコースが整備されており一般的だが、東側の古道鴨内峠を経て五台山へのコースも歩き易い。昨年(H14.5.3)低山徘徊派オフでは、この鴨内峠へのコースもカットして踏み跡も薄い名水狸穴の水から五台山へ辿った。鴨内峠と親不知を結ぶ尾根から東南に派生する枝尾根が上鴨坂集落の北へ延び、 その名のとおりの尾端集落に落込んでいます。
点名上鴨坂付近からの五台山

この尾根から福知山との境界尾根を大杉ダムを 囲むように親不知〜コケズラシ〜岩倉山への周回コースを考えてみた。 五大山〜鷹取山〜五台山縦走では、常に北東の奥に大きく稜線を拡げる親不知が気になる。市島町側では五台山に次ぐ高峰だが 知名度も低い不遇な山。中国の仏教聖地として「五台」と呼ばれた山に準 なぞら)えて上記の五大〜五台に親不知を加えての五山ですが、此の縦走尾根コースは古くからの山岳 宗教の道として回峰行が 行われてきた事でしょう。親不知山頂の南手前537mピークには、残された座石に朽ちかけた 木片だけが散乱する祠跡があり、以前は此処に石の手水鉢もあったが2001.5.26日に登った時には既に無くなっていた。
余田西城から徳尾砦(中央)親不知〜コスゲラシ〜岩倉山への稜線を望む

最短距離は徳尾集落の奥にある大原神社から此処に至る急な山道だが、嘗ての参道で入峰の際の発心門だったか?。こんな山頂に祠があること、 親不知の名前や荒木山の直ぐ下方には権現堂や役行者や不動尊像もあり、市ノ貝集落から熊野権現に出て荒木山からの縦走も回峰のルートだったかも知れない。そして五台山の浅山不動尊・愛宕山の安養寺・五大山麓の白毫寺へと下ったことでしょう。 親不知〜コケズラシ〜岩倉山の尾根筋の状態は以前と変わらない状況と思っていたのですが、丹波随一の規模を誇る 大杉ダム周囲を含めての景観の良さに公園整備され、コケズラシ〜親不知を経て鴨内峠へハイキングルートが出来ており、親不知山頂は切り開かれベンチや鳥瞰図の案内板も置かれる変わりようです。
展望広場に変身した親不知山頂

年間を通じてヘラブナ・ワカサギ等釣り客も多く、キャンプ場や遊歩道が整備されていました。国道175号線八日市交差点で鴨阪・鴨内峠への282号線に入り宗福寺を目指します。尾端公民館付近からは誉田城の城山が見える。城主・余田監物為家の碑が建つ菩提寺宗福寺から今日のコースの出発です(AM10:00)。墓地から登り着いた鉄塔側が余田城(誉田城)東郭の最高所で、植林の中を西へ下ると掘切り状の深い溝を徳尾集落へ越える峠道。尾根筋は短いが急な登りとなる。北側に腰曲輪伴う段差を越すと長く緩やかな削平地となり、各曲輪の西隅には土塁跡も残っています。
親不知山頂から荒木山(左端)・コケズラシ(右端)


東郭の遺構は明確だが西郭の曲輪にも大きな土塁曲輪・出曲輪を持ち。特に西端(三ノ丸)曲輪の幅広土塁には櫓台跡の可能性も指摘されています(AM10:25)。土塁を持つ3m程の曲輪を越え小さな堀切を過ぎれば城の遺構は消え植林の中を登り詰めるだけ。 殆んど眺望を望めない踏跡だけのコース。身近に丹波槍(鷹取山)や昨年のオフ会で辿った五台山〜点名: 寺奥への稜線が樹間に見え隠れします。点名上鴨坂(4等三角点 256m AM10:30)も 尾根筋の踏み跡は確かで藪漕ぎ覚悟が拍子抜け・御蔭でハンターを驚かす事も?驚かされる事もない。鴨阪と徳尾を結ぶ最低鞍部に猪除けフェンスを開閉して 登り始めてすぐ猟犬を連れたハンターに会った。コースを説明して上部にいる狩猟仲間への連絡を依頼し歩を早める。も少し展望が良ければ鷹取山・ 五台山・クロイシへと尾根歩きが愉しい処です。TV共同アンテナへ出て2分程で五台・クロイシ・親不知を結ぶ稜線に飛び出した(AM10:58)。
荒木山への分岐下・露岩から大杉ダム

途端に稜線上にはテープや紐が目立ち・案内標識が次々現われる。尾根は明るいが展望はなく広い市境尾根の杉林に挟まれた 537mピークに出る。大原神社からの参道が此処に通じ、下降点に朽ちた木片と石座を残す祠跡がある(AM11:35)。以前に見かけた石の手水鉢は既に見かけなかった。この大原神社へ下る急斜面に転がり落ちているのかも知れない。 親不知の名に似ず、親子三人仲良く頭を突き出した峰は雑木に阻まれて写真に撮れない。そのうち主峰も撮れなくなりそうなので樹間越しに鬱蒼とした山頂付近を写したが、実際の 山頂に着くと周辺は広く木々や雑木は切り開かれ、ベンチや図入り案内方位板(大杉ダムからの ハイキングルート説明が主)と鴨内峠への 立派過ぎる標示板が立てられています。 親不知山頂(欠けた3等三角点 605m AM11:50〜PM12:00)からは荒木山の向こうに福知山市街が見渡せ鬼ヶ城〜烏ヶ岳と遠くに霞む大江山の山並みや 三岳山・龍ヶ城が見えます。
展望の無い山道に建つ岩倉山の三角点

正面には大きく高谷山(横峰山)が鎮座して山頂に向かう尾根の末端付近に友政城や西には春日小富士山も小さいながら 整った姿を見せています。目前には三つばかりの瘤を連ねて南へ延びる稜線が、今から下降ルートとして辿るコケズラシ山〜岩倉山への尾根筋で下方に大杉ダムが光ります。以前は南側の展望冴えず確認出来なかった眺望です。 山頂から東への下降口付近はほんの数年前、テープにさえ惑わされたルートは500m毎に道標設置の親不知登山ハイキング道です。暫らく残雪を見るが直ぐに消えて山道が現れます。大杉ダムへの道標から外れて先に続く細い尾根筋は 直ぐ元のハイキング道に合流し、道なりに「室山・不知線」のプレートが掛かる
荒木山(荒木山城)〜室山への分岐を見送ると前方が開ける露岩(5m程の垂岩)の上に立ちます。眼下に大杉ダムの蒼い水面は見えるが、此の先からは樹林の中の道。 松茸山のテープが進むに連れて目障りになってくる(9/15〜11/14迄入山禁止)。このコースはコケズラシ山の手前鞍部から【大杉ダムのキャンプ場(約500m)へ下る分岐(PM12:35)】
大杉ダム近くの滝場

【コケズラシを越えて岩倉山への鞍部から関電巡視路「火の用心No130」から不動滝!!?
(10m程の滝が岩場の奥にあり周辺に祠や石碑がある)へ出て 大杉ダムの堰提近くへ降りてくる】二つのコースが整備されています。私は岩倉山まで足を伸ばして引き返したが 石像寺へ抜けるのでなければ コケズラシ山付近から先は松茸山の為、五月蝿いほど両サイドに張り巡らされるテープや「松茸山に付き…」が目に付き不快にさえなりますので、早々にダムへ下った方が良いかも知れません。 キャンプ場へ下る鞍部からは直にコケズラシ山山頂(4等三角点 310m 点名:市ノ貝PM12:40)です。 落ち葉を掻き分け見つけた三角点も頭を出し、大柿氏のプレートも健在です。下り始めの鞍部に「火の用心No130→」と道標が建ち巡視路沿いに大杉ダムへ下りますが時間の余裕もあり岩倉山へ往復します。
大杉ダム

石像寺への道を進むとシンボルの磐座が有り、これから名付けられた岩倉山(3等三角点373m 点名:徳尾 PM1:05)は尾根筋の山道に有ります 。岩倉山から引き返し、大杉ダムの周回林道へ降りてきた。此処に「五台山の森 大杉ダム自然公園」の案内板が建っています(PM1:30)。ダムの堰提を渡って大杉の集落へ下っていきます。西に大きな山容を見せる五台山が南へと尾根を延ばしています。 その先には空に向かって突き出す氷上槍・鷹取山があり、二つの山を結ぶスカイラインを望み、身近には鉄塔が目印の「余田の城山」が見えてきます。城山の尾根の向こう側が出発地点・尾端集落の宗福寺(PM2:10)です。


V余田城砦群廻り〜点名:袴谷   2007年02月04日

余田城から点名上鴨坂を経て親不知〜コケズラシ〜岩倉山から大杉ダムへ周回した際、氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書の遺跡分布図に 記載の無い城遺構を見つけ、同郷の城サイト仲間を案内していたが、 丹波史(丹波史懇話会 H14年6月発行)高橋成計氏が余田谷の城郭遺構を検証されている記事を拝読しての再訪です。
上鴨坂城からの余田城(中央鉄塔付近から右一帯)

一城別郭と思えた余田城ですが、縄張りの特性が指摘されておりますので余田城と余田西城に分けて考えます。 余田谷の城郭位置に東山城館は載せてなかったが、東山城館とは大原神社へ向かう狭い谷を挟んで東西に正対して呼応する位置に有るが、まさかと思える峰の先端部にも徳尾砦があり、稜線伝いに点名:袴谷まで辿ってみた。 はかま谷とは何とも気になる山名ですね。余田城砦群の個々についてのレポートは下記「近畿の山城」を御覧下さい。


東山城館 徳尾砦 鴨坂城館(上鴨坂城)  余田城と余田西城

東山城館   東山? Ca225m  丹波市市島町上鴨坂大杉・徳尾東山

本拠の余田城を警護するように南に鴨坂城館・北方に徳尾砦東山城館が在る。 R175号線の市島町八日市交差点を左折して大杉ダム・上鴨坂へ向います。親不知(605m)から鴨内峠を経て五台山(657m)へ延びる尾根の東南へ突き出してくる枝尾根が上鴨坂北方の256mピークから上鴨坂・尾端集落へと 突出してくる。鴨内峠へ通じる鴨坂川と徳尾川に挟まれ、其の合流地点の西北方の稜線上には先端部付近から標高約256mの峰にかけての 尾根上には曲輪を並べ堀切で尾根を遮断し、土塁の遺構も顕著に残る余田城が正面に見えます。
大杉ダムと徳尾分岐点付近から東山城館を望む

鴨内峠へ向かう車道の 西方に見える半独立丘陵上に鴨坂城館(上鴨坂城)が在る。 上鴨坂にある余田城への登城口・宗福寺に向かう手前で大杉ダムへの分岐標識(ダムへのバイパス)少し先の集落入口にも旧来の大杉ダムへの分岐があり、秋葉神社の灯籠が立つ。此処からは最初に目指す東山城館が徳尾川と大杉川が合流する地点 、二つの川に挟まれた丘陵上にありました。徳尾川を挟んだ南川向こうの丘陵には送電線鉄塔を乗せる余田城の東城が望めます。
【余田城から西尾根を点名:上鴨坂へ向かう急斜面の上方にも余田城の別郭?があるが、縄張りの大きな特徴からも別城(余田西城)として記述します】 親不知山頂から大杉ダムの西側を南へ突き出してきた尾根が大杉・上鴨坂・徳尾の各集落に囲まれた先端部に落ち込むところ、
東山城館・最高所から続く北尾根に小広い平坦地が

其の丘陵末端の峰には2段程の曲輪と、狭い尾根幅一杯に 不整地の平坦地を残す東山城館(砦)がありました。さらの此の尾根の西には大原神社に延びる車道を分けて、 鴨内峠から親不知に続く稜線から点名 :袴谷へ二手に延びる枝尾根の南側稜線東先端部の峰にも、大原神社の入口を護る仁王門の様な位置にあって東山城館と正対した徳尾砦がある。
==================================================
城館への取付きは徳尾公民館手前から秋葉神社への尾根筋沿いの参道を辿るのが正解ですが、登り口を知らず徳尾集落の車道沿いに広い駐車スペースが有り、其処から小さな墓地を抜け猪避けフエンス(電線)を跨いで疎林の中を尾根に向かって登って行きます。比較的緩やかな尾根が続き最高所付近で 少し広い平坦地となる。北側斜面に比して余田城を望む南側斜面は其れほど急斜では無さそうなので、 下方に小さな曲輪でも…と探して見ても尾根の端は伐採された枝木に覆われて確認が出来ない。
東山城館最高所・尾根筋は狭いが・・・

頂部付近から北に低い二段程の広い曲輪があって、尾根は鞍部に続くが曲輪の切岸や尾根上を堀切等で遮断する防備施設もなく、平坦地の他に城砦遺構は無さそうだが、 頂上手前尾根筋(南西)に1m幅の犬走り状テラスが延びる?が、藪に埋まる倒木等で不詳。藤原時代中期の寛仁元年(1017)播磨から丹波の前山(さきやま)庄へ【元暦元年(1184)頃とも!!】移ってきた余田氏一族は、元は足立氏・久下氏と同様に関東武士で 清和天皇の後胤だともいわれます。余田氏が来住して本拠とした余田城の支城として鴨坂城館(上鴨坂城)と共に 前山庄の領地支配・監視の城砦を 築いたものでしょう。どちらの城館にも其の城主や築城時期等の城史や伝承は残っていないようです。此処は・青垣町や氷上町を繋ぐ山越えの間道が、鴨内峠を越えて通じるだけの要衝とも思えない奥まった (辺鄙な?)位置に有ります。
鴨坂城館・城域東端の土橋付堀切と曲輪の切岸

もっとも間道は無いが山道を辿る厳しい山越えをするなら、 大原神社や大杉ダムから親不知を越えて京都府福知山市に抜けられます。余田氏は特には近在の豪族とのトラブルも無く前山庄を領して管轄していたが、中世・室町時代末頃に台頭してきた荻野・赤井氏により天正2年(1574)荻野 (赤井)直正に攻められ落城しています。其の後:傘下に組み入れられた余田城は、友政城や鹿集城と共に黒井城の東口を堅め、京都丹波の福知山方面からの侵攻に対する守備・警護の支城群の一つとなっていったのでしょう。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査書(市島町) 氷上郡教育委員会 参考)

徳尾砦
 xxx Ca230m 丹波市市島町上鴨坂徳尾

大杉ダムへ向かう車道を右に見送ると親不知(605m)から南へ延びだした尾根先に東山城館がある。 其の尾根南端を回り込むと大原神社に向かって北に細長く延びる徳尾の集落の谷の入口部には、東山城館と丁度・東西に向かい合って呼応する位置 :西側に飯盛状の低山が見えます。鴨内峠〜点名:曼田良〜親不知への福知山市との府県境界尾根の東側にある点名:袴谷(4等三角点 348m)付近から南東へと延び出した枝尾根の先端Ca230mの山頂に位置して、
徳尾地区から徳尾砦東側:高い段差をもつ畑地が城館っぽいが!!?

頂部に約35mx18m程の平坦地を主郭とした 単郭の砦。東山城館とは大原神社へ向かう徳尾地区内の車道を隔てた真西500m程に位置し、 徳尾川が東山裾を流れていて堀状を呈しています。 東山裾の取付き点に選んだ位置は、車道から板橋を渡った田圃の先に 一段高い位置に居館跡を思わせる畑地が有り、左手に竹薮が有るので其処から…偶然・散歩中の老人に尋ねて見ると、砦跡など聞いた事もないが山頂に平坦地はあるという。
其の畑地の北端に祀られいる石仏


猪垣が山裾を取り巻き 道は無いが竹薮付近にフエンスのゲートが見えるので、 敢えて直進。傍らに心尽くしの防寒用藁を立て掛けられた、小さな石仏が一基祀ってある。石仏の側からは・いきなりの急斜面だが前方に猪垣の戸が見える。戸を開閉して踏み跡も無い斜面を登り始めるが、藪はなく立木を利用して東斜面を直登する。 見上げると2〜5m程の段差をもつ曲輪状を幾段も見る。上部は小さなものも、比較的広く感じる平地もそれほど削平されているとは思えない程で 自然地形のままなのかも。同心円状で同じ様な斜面に対して曲輪の配置位置が東方に対してだけ残る。防備補強設備の堀切や竪堀・曲輪に土塁も無いが、 曲輪の段差も5m程の高いものはあるが切岸ともいえず少し横に移動すれば段差もなく越してゆける。
徳尾砦主曲輪:西端の小曲輪

山頂部には35mx20m程の楕円形で、切岸加工も無い段差 1mばかりの曲輪が有り、尾根続きの西一段下に小曲輪を置くだけの単郭の砦、南側や北側にも幅の狭い曲輪・帯曲輪の段はあるが削平は粗い。 小曲輪を下る西の尾根続きは鞍部に堀切も無く、緩やかな緩衝地の様な尾根がだらだらと 高度を上げながら延びているだけ。此の徳尾砦が徳尾集落全体を望める位置には有っても、領地支配の領主の城砦で有ったかは、 より適位置に東山城館が有るので、余田谷領民の有事の際の非難場所「村の城・逃げの城」をも視野に入れてみる。余田城と東城館が徳尾の入口を固めて、其の奥にある徳尾砦を二つの城砦が守護しているように地形図からはみえるのだが!!?。そんな尾根が少し傾斜を増してくると点名:袴谷と福知山市との境界尾根分岐地点に着く。町界でもない尾根ですが、 中央部が溝状になっているのは何故なのだろう?。伐採した材木切出し様の木馬道や傾斜も急ではなく長くも無さそうで、木を滑る下ろした木ズラシの跡でもなさそうです。
徳尾砦・主曲輪

溝道も直ぐ消えて暫くで平坦な尾根東端部にある、四隅を石で囲んだ三角点石標の埋まる点名袴谷に着く。東方への尾根筋からは、 北の山腹に建つ大原神社や其の上方に姿を現す親不知、黒石山〜鴨内峠への稜線を眺めながら降っていく。植林帯に入ると倒木の所為だけでは無さそうですが、踏み跡はやがて消え?何処が尾根筋なのかも明確ではなくなってくる。 出来るだけ南方向に向かって降り、徳尾砦取付きの400m程上手の車道に出てきた。


鴨坂城館(上鴨坂城)
 xxx 188m 丹波市市島町上鴨坂尾端

余田城の前後を護衛するかのように南北に三っの城砦があります。北方に徳尾砦東山城館が在り、 余田城山裾の宗福寺参道手前 ・尾端公民館から、南西に見える丘陵上の鴨坂城館を目指して其の尾根先端部に向います。山の尾の先の集落は、 其の名も尾端。余田谷の南部に有る鴨坂城館は福知山方面から塩津峠を越え綾部・
下鴨坂集落より鴨坂城館と親不知 (中央奥)

六人部(むとべ)方面からは竹田川沿いに通じる、街道の合流する要衝(R175号線) ・八日市を監視出来る位置にある。八日市の名からは、 市場監視にもあたっていたのでしょう?。八日市交差点 から余田谷を抜けて鴨内峠を 氷上町に越える街道監視。 警護にも本拠:余田城と呼応して 余田谷入口を守護する位置に立地しています。鴨坂城館(上鴨坂城)の主郭部には高圧線鉄塔が建ち、其の巡視路が丘陵の東尾根末端から通じています。
鴨坂城館・本ノ丸から東側曲輪

巡視路入口の直ぐ上方に赤い鳥居が見えています。急傾斜の尾根途中には「白清稲荷」の小さな祠が祀られ、其処からは細くなるが更に尾根筋の道を辿ります。 送電線鉄塔の建つ山頂まで3〜40m程と思える手前の尾根を遮断して幅5m程の土橋を伴った堀切が現れる。堀切を越えると細長い東曲輪に出るが、北側下方にも余田の本城に向かって(樹林が育って展望は無いが、北側の山裾を流れる鴨坂川から 断崖状の激急斜面は余田城からも 確認出来る)広い曲輪がある。前方に高さ5〜6m程の切岸をもつ曲輪 (約30mx15m程)が上部に 鉄塔を乗せる鴨坂城館の主郭です。鉄塔を抜けた西へも微高差で曲輪が延びており、南端に通路をもつ段差の少ない小曲輪が2段程続いて、5〜6m程の切岸を城域西端の土橋付き堀切に降りる。
上鴨坂城:東端の土橋付き堀切

低丘陵上の東西に土橋付き堀切を持つ150〜160m程の城域を抜けて、其の先30m程下った所には・此方にも稲荷社が祀られているが、立派なお堂として建てられ、鳥居が続き広い参道が下方に延びている。 この先の鞍部は上鴨坂集落内の南北を繋ぐ峠道だが、尾根向かいの峰先には愛宕神社が建てられ、両社への参道を兼ねた峠道で、南へは直ぐ地形図卍マークの清水寺の様だが、北側へ参道を下ると 猪鹿避けフエンスを越えて車道 (農道)に出たところが鴨坂川に架かる「保っ渡橋」。鴨坂川に沿って尾根末端まで引き返した。 鴨坂城館(上鴨坂城 )主郭に建つ鉄塔の北方は鴨内峠への車道を越えて、宗福寺背後の山の尾根上の鉄塔に延びています。
鴨坂城館・東曲輪北側の腰曲輪

点名:上鴨坂256mから東へ延びる尾根上の余田西城から鞍部 (徳尾への峠道!)〜堀切〜鉄塔〜余田城主郭にかけての全域が望めます。 余田氏については要衝の地でも無く・要害とも思えない丘陵に築かれた余田城が、250年余りの歴史を刻みながら、殆ど城史に登場していないので詳細は不明です。まして東山城館 ・鴨坂城館(上鴨野城)・徳尾砦の城砦には伝承の類もなく更に不明。 城域や歴史研究は進み、既に報告書等が存在しているのかもしれないが? 余田城と共に 此の鴨坂城館も 「分布調査報告書」内容以上に城域は広く平坦地だけでなく、切岸加工した曲輪や城域の東西には堀切もあって注意して探せば明智の”丹波攻め”の頃には余田城と呼応して北斜面に土塁付の曲輪や空掘りが有るのかも?
鴨坂城館(上鴨坂城)・東側曲輪から本ノ丸

東山城館は、 城域と思われる最高所付近は雑木と間伐材が斜面が覆って確認出来なかった。しかし尾根の西面か東面には犬走り状の遺構があるといいます?。余田城の支城ではあっても、天正2年(1574)の落城後:黒井城赤井直正の傘下に入って以後は、 土塁や竪堀は無く切岸加工や曲輪の整地等の改修はされていない様なので、再び使用されることは無かったのかも知れません。久下氏の玉巻城(山南町)遺構に見る様に?、家臣に背かれる事への警戒からか・改修補強を許されないまま、 其の後も要衝監視の砦となっていたのかもしれませんが・・・。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査書(市島町) 氷上郡教育委員会 参考)


余田城(誉田城)と余田西城
余田城(誉田城) Ca240m峰(余田西城) 上ノ山(城山・余田城 ) Ca160m  丹波市市島町上鴨坂尾端


国道175号線を北上し春日インタを越えて市島町「八日市交差点」を左折して鴨坂へ向います。大杉ダムへの分岐を過ぎると、上鴨坂と徳尾の間の丘陵部・宗福寺の背後に誉田城(市島町指定文化財)がありました。右前方の山麓には誉田城最期の城主余田監物為家の碑が建つ菩提寺の万松山宗福寺(曹洞宗)が有り、 墓地の脇を抜け背後の山へ送電線が延びて巡視路が絶好の登城ルートになっています。
宗福寺境内の余田氏慰霊碑と五輪塔群

稜上に建つ関電の送電線鉄塔No126(北摂長田野線)が山城の城域内に有るが東西約350m程の尾根中央部付近にある30m程の緩衝地の様な平坦地を境にして、 堀切を越えると此処からは急に切岸高く・土塁・帯曲輪・主郭の登る虎口も有る。堀切で曲輪ごとに区切られた連郭式山城ですが、二重堀切〜鉄塔〜四ノ丸!?までを西ノ城、堀切上に土塁を載せる三ノ丸〜主郭を東ノ城に分けて下記にレポートしています。 ただ後年・余田城から切り通しの堀底道を越えて、更に西に続く 尾根筋を 詰め登っていて城遺構を発見したが、既に前年「丹波史懇話会」機関誌に、 発表されていた余田西城があり、東・西の説明で混迷されると思いますが、余田西城は後述しますので、西ノ城・東ノ城は此の余田城に閉じた説明として 御理解下さい(余力があれば後日修正します)。
余田城三ノ丸西側堀切の土塁(H15.2)

主要郭群は尾根東側に有る東ノ城で高い切岸(約5m程)や帯曲輪が主郭西側を廻る。 笹やシダ藪に覆われ確認は出来ないまでも竪堀が一本真っ直ぐに走っています。東ノ城中程には城域内を区分してか分断しているのか大きな堀切がある。其の曲輪西端部には曲輪を囲む様に土塁が設けられています。 緩衝地の様な平地の西には堀切が走り、此処からが西ノ城に分けられる城域です。切岸を高く(4〜5m程)しているが土塁は無く、 細長い尾根に沿った自然地形のままの緩斜面が鉄塔に続く。宗福寺から登ってくる道が尾根に上がる付近が西ノ城の主要郭部で、此の曲輪へは送電線鉄塔から南下の帯曲輪が山道側へ延びている。又西へ下り始める所には二重堀切があり、 其処からは急斜面を下って深く大きな・徳尾と上鴨坂地区を結ぶ峠道に降り立つ。
余田城西端の二重堀切

此の二つの城は西ノ城が西側の尾根からの侵攻に対する防衛を主とする東ノ城に対する砦の機能をもち、東ノ城は天正2年赤井氏の侵攻(下記:佐馬頭為家の項を参照…)により落城後、 其の子孫は徳尾の上野の住んだといいます。徳尾側から直接:東ノ城への登城道があり、改修を加えられたと思える遺構(土塁や虎口等)からも余田城の本城で、城主や城史は不明だが共に余田城とします。ところが余田城は更の鞍部を越え 急斜面を辿る西の尾根続きの山上にも有りました。「氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会1944年3月版」の分布図には西に続く尾根上の上鴨坂と徳尾間の鞍部堀切までが城域となっているが、堀切から急斜面を登る尾根の西にも続き山頂付近には岩を自然の切岸に取り込んだ様な曲輪があり、 其の先には丁寧に削平された広い曲輪が数段有って共に土塁が残り、 尾根西端の土塁は幅も広く櫓台が有ったとも思われ高い切岸と堀切で城域を終えます。
余田城三ノ丸の西側堀切側の土塁(H20.12)

平成15年 2月に余田城から上鴨坂〜親不知への縦走登山の際に見つけた山城遺構ですが丹波史懇話会「丹波史(第22号平成14年6月発行)」に城郭遺構の記事があり、 特に此の遺構については高橋成計氏により、明智光秀により平定された後の天正12年(1584)丹波にも「小牧・長久手の戦い」に呼応した一揆勢力が有った事。其の篭城拠点が黒井城と余田城【余田城より余田西城に竪土塁…等遺構があり、籠城したのは此方の城ではなかったか!!】だったこと。其の一揆勢力に赤井時直がいて、 幕末まで旗本や大名家の家臣として存続した 赤井一族再興の功労者となったという。高橋氏はその余田城の城郭遺構に織豊系特徴を捜された。
余田城三ノ丸と二ノ丸・主郭を分ける大堀切

篭城も戦国期の余田城と考えられ・此れまで余田城西の尾根上に城郭遺構が残る事は想定されていなかった様です。 高橋氏の余田西城に於ける竪土塁の発見と考察から、余田城とは区分し余田城の城史の後に「小牧と長久手の戦い」に呼応して篭城した別城として余田西城を追加します。 中世戦国期の余田城の展望の悪さは、南の鴨坂城館(上鴨坂城)や東山城館 ・徳尾砦が監視を補ったでしょうし、連絡通信手段も手旗や太鼓・鐘の音に頼らず人声でも届く近距離にありますから。 藤原時代・寛仁元年(1017)余田一之進兼定と一族は播磨から丹波の前山庄へ移ってきて鴨阪・徳尾・大杉一帯(余田谷)に勢力を占めていた武士の集団で弓術・槍術に優れており、鎌倉時代初頭・天仁年間 (1108〜1109)余田幸次郎兼景の頃には 前山庄の他、市島町竹田・吉見・美和地区の一部をも支配した。その頃・山城築城はまだ早く、構居として余田(誉田)城が創築されたと思われます。
余田氏守護神の小祠:急斜面上部に帯曲輪と余田城主郭

治承4年(1180) 源頼政(和歌集や鵺退治伝説で知られる)父子に 味方した余田兼景の弟・左源太兼春は、近江の国の合戦に加わるが源氏が敗れ一族は大和郡山へ移されます。左源太兼春は大和郡山で病死するが、其の子・専之助兼保の時、 丹波へ帰国して郷士になったとも元暦元年(1184)鎌倉幕府・北条氏の命により 余田(藤原)又太郎為綱が来住したのが初めともされる様ですが?。平家が滅び余田一族は前之庄へ帰り、承久の乱(1221)では余田太郎兼里等は鎌倉幕府に味方して 京都へ攻め後鳥羽上皇の軍勢を討ち破っています。乾元年間(1302-03) 余田万三郎兼氏が 山城を築城したと思われます。
【源頼朝が伊豆で挙兵した際 (1180)武蔵国の余田又五郎が参戦して軍功が有り余田の地頭職に補され、久下・足立・吉見氏等と同様に元は関東から来住してきた地頭の末流で、源頼信に仕えた五郎兼房のとき一族あげて入荘したとも・・!!】
二の丸曲輪から主郭

元弘3年(1333)3月に足利尊氏が篠村八幡宮 (京都亀岡)で北条氏を討つ旗挙げに久下・葦田・酒井・波々伯部ら丹波武士と共に尊氏の下へ駆けつけています。中世末期の奥丹波では赤井氏の台頭によって、次々と其の傘下に組み入れられていきました。余田城最後の城主余田左馬頭監物為家も、 天正2年(1574)荻野(赤井)直正に攻められ落城・其の軍門に下りますが、直正の信任を得て家老職の一人となっています。天正6年(1578)光秀軍の丹波攻めでは、一族の侍大将は嫡男余田半兵衛(半平)を黒井城に入れ 龍ヶ鼻砦で守備につくが、余田城の城兵の多くが半兵衛に従い
主郭の切岸東-南面に廻りこむ帯曲輪

為家は僅かな兵と余田城に籠城。明智方・小野木重勝の軍勢は福知山から 市ノ貝を越えて攻め込み、孤立無援の監物為家は城に火を放ち、南側の峠(葛原峠か?)を美和庄の乙河内へと脱出し 保月城を目指しますが果たせず、 小野寺山途中の峠中腹の岩場で自刃したと伝えます。
僅かな兵と最期を遂げた岩は切腹岩”監物岩”と呼ばれているとか!!。誉田城の東部端の曲輪には熊野権現が祀られており、西郭部との間には大きく深い空堀状の峠があり、 尾端集落側からの地区道が急な堀切状の山道に掛かる処にはお堂が建ち、堂内には元文元年(1736)銘の地蔵尊が祀られており周囲にも磨耗した石仏が有ったが、鞍部から北へ降る徳尾側へは直ぐに荒れた細道?となりあい谷に沿っての踏み跡に変わるようです。 此処が城へ水を引いた「隠し桶」の跡なのでしょうか…!!あい谷峠(仮称)からは傾斜も急な登りが続きます。傾斜の段差(此れが竪土塁の跡だったとは!!)を越すと長く緩やかな 削平地となり北側に腰曲輪伴い 各曲輪の西隅には土塁跡を残している。東部の曲輪遺構は明確だが西部の曲輪の広さや土塁、 特に西端の幅広の土塁には櫓台跡の可能性もかんがえられます。
尾端公民館前から余田城(手前民家上)と余田西城(左の丘陵上)

此処を降ると二つばかりの小さな堀切と平坦地【此処は「小牧・長久手の戦い」に呼応した赤井時直等の丹波一揆勢力に 加勢した農民達の駐屯場所と考えれれます】を過ぎると、 城の遺構はなく植林の中を登り詰めるだけ。 殆んど展望も望めませんが踏み跡だけは明確です。身近に丹波槍・鷹取山や昨年のオフ会で辿った五台山〜点名:寺奥への稜線だけは林間に見え隠れします。点名上鴨坂(4等三角点 256m)山頂から先へもルート明確な事を確認して今日は引き返します。

(郷土の城ものがたり 丹有編 兵庫県学校厚生会 参考)


余田西城

余田城は西の尾根続きの稜上にも城郭遺構が残っており二段式の詰め城形態の城かと思っていた。しかし:黒井城落城5年後の天正12年(1584)4年:赤井悪右衛門直正の末弟 赤井(芦田)弥平次時直が 「尾張小牧陣」や「長久手合戦」に羽柴秀吉と対戦した織田信雄・徳川家康の連合軍に呼応して、丹波の一揆勢力が黒井城と余田城に挙兵して篭城しています。 落城により断絶・没落していった家が多いなか赤井氏は秀吉方や家康方に旧知の縁をたどり、
余田西城:最高所(西郭)東北角端の露岩を利用した切岸と腰曲輪

赤井時直も後:浜松の家康に逢い天正19年(1591)300石で近習役:文禄2年(1593)500石の家禄で御家人となり、関が原・大阪冬・夏の陣にも 参戦して1500石を知行し、慶長6年(1601)には3000石で奏者番(城中における武家の礼式を管理する)となり丹波郡代を兼ね伏見町奉行・代官職を務めたほか幕府の枢機にも参画
(時直の年代遷移は丹波史6号 足立確次氏 ・丹波史懇話会を参照追記)する重臣となって赤井家再興の祖といわれます。赤井直正の子:直義も時直等の推挙で藤堂高虎に仕官し、家臣として伊賀上野に 1000石をもらって幕末を迎えています。この際立て篭もったのも尾根先端部に有る戦国期の余田城だったと考えられ、西に続く尾根上にある城郭の存在は知られていなかったようです。小牧・長久手の戦いは天正10年(1582)本能寺の変の後 ・後継者争いが続いた翌天正11年賤ヶ岳の戦いに、織田信長次男:信雄(のぶかつ)を擁立して、信長の三男 :信孝を擁する柴田勝家に勝利して 機内を制圧した羽柴秀吉が、織田信雄を新築成った大阪城へ参城するよう命じたが、嘗ては家臣の秀吉に屈辱を感じてか大坂参城の命に従わなかった。
余田西城の東郭西端の土塁(正面)


秀吉は信雄家の家老であった津川義冬・岡田重孝・浅井長時(田宮丸)が秀吉に通じたとのデマを流し、疑心暗鬼となった信雄が三人を処刑した為秀吉に信雄攻撃の口実を与えてしまう。 天正12年(1584)秀吉と対戦する信雄からの援軍要請に応じた家康が出陣したことから秀吉と家康との戦いとなり、3月に小牧で対峙し、4月には長久手で合戦となった。 織田信雄と徳川家康は外交戦略により美濃・尾張の一向宗徒や本願寺を誘い、根来寺宗徒や雑賀衆の紀州一揆勢力で和泉・河内等大阪周辺を攻撃させます。
余田西城の竪土塁!!尾根筋から北:堀切は無く土留石らしいものが?露出!!

四国の長宗我部元親・北陸の佐々成政 ・大和・近江・丹波の諸土豪にも決起を呼びかけ、 丹波では土豪:赤井(芦田)時直等の 一揆勢力が呼応して黒井城と余田城に篭城します。旧織田の軍団は信雄に付くのか・秀吉かの選択を迫られますが、戦い無き長期戦の末、11月には和議することになります。この小牧と長久手での戦いを併せて「小牧・長久手の戦い」と呼ばれます。 平成14年6月に発行されていた丹波史懇話会「丹波史(第22号)」に、余田西城の遺構について高橋成計氏が、 此の小牧・長久手の戦いに呼応して篭城した一揆勢力の余田城として、其の織豊系の特徴が築城や改修技術に見られるのではないかとの観点から余田城と余田西城 (仮称)を調査されたレポートが載っているのを先頃になって拝読し余田の城に出掛けてみた。

余田西城:(東郭北斜面に3段程の腰曲輪がある)


戦国期に多く構築されていた竪堀に代わり織豊期に出現してきた 竪土塁がみられるという。竪堀に沿う竪土塁なら判り易いが、段差に沿っては堀切られもいないし 土塁があるわけでもなく!?斜面上部の低い段差を越えたところは曲輪でもなく自然地形のまま。此の低い段差を三度も通過しながら気付かなかった。 指摘されても此れが竪土塁?知識と見識眼のなさが情けない。この頃の黒井周辺は細分化され代官領となっており 黒井城は廃城となっていたものか?。黒井城に入った一揆勢は亀岡城主:羽柴秀勝が討伐に向かったと知ると黒井城を放棄して余田城に集結し援軍の依頼等・家康と連絡を取りながら対抗した様子は【黒井城を放棄して余田城に集結したことは妥当で、やがて救援も可能になるだろう。
余田西城の竪土塁!!尾根筋南下から

忠節には本領を安堵・荻野(赤井)直正の子息を取立てることは 尤もである…】と家康から芦田弥平兵衛尉(赤井時直)宛て[本多忠勝書状」(長久手町史)資料編にあり、時直は赤井一族再興の功労者とされます。
黒井城落城後 :余田谷に帰農していたと思われる余田氏一族も 再興を期して一揆衆に参戦していたのでしょうか?。赤井時直が黒井城から余田城に移った後の行動は不明ですが、旧城の余田城東ノ城は一揆勢力に使用されたと思われ、 後に改修か付加されたと思える堀切が城域を二分しています。ことに・徳尾へ越える峠から西の尾根上に見られる余田西城東面の防御には、堀切は無い?が(僅かに窪んではいる様だが)僅かな段差が竪土塁の遺構らしい。
余田西城:(東郭)


上鴨野集落から徳尾集落へ抜けるあい谷峠(仮称)からは急傾斜の登りが続き、最初の曲輪らしい?段差(此れが竪土塁だった)を越え続いて 2m程の曲輪切岸を越えると長く緩やかな東郭側の削平地に入る。曲輪に沿って3段ばかりの腰曲輪が北斜面に並んでいる。尾根に沿って延びる西端は土塁を積んだ切岸となり鞍部を経て西の郭部に入る。西郭東北隅は露岩部を取込んで切岸とし、 一段下の腰曲輪を進んで西郭(余田西城の主郭)に入る様です。東西共に主曲輪(20x50m)は広く・どちらも西端部に土塁が残る。特に西郭の幅広土塁は櫓台跡の可能性を思わせ、高い切岸を下って続く尾根筋を点名:上鴨坂(256m)へ辿っても遺構はなさそうだが、 一部に広い平坦地があり赤井時直等の一揆に加勢した農民等の駐屯場所と推察されているようです。
(丹波史懇話会「丹波史(第22号)」高橋成計氏レポート フリー百科ウィキぺディアを参照)





前山の手向塚
(氷上郡山南町・玉巻城の落城悲話は此処 市島町の竹田川畔・前山の檀にもありました)
落ちのびる悲しい思いを知る由もない赤ん坊は火のつく様に泣きじゃくります。 「そんなに泣いてはなりませぬ…」乳母と母親が泣く子をあやしても所詮言葉も解らぬ子が泣き止むはずもなく。落ちぶれても気品高い母親の青白く燈んだ面に凛とした奥床しさがただよいその顔を伝わる白露の涙…それはあの思っても諦め切れぬ 玉巻城の落城の事などです。天正7年5月丹波各地の諸城を陥し入れ、その勢いに乗じた明智光秀の軍勢は遂に玉巻城にも押し寄せてきます。( 玉巻城は、お話と少し違って、明智の軍勢が黒井城を攻撃している頃、播磨側から押し寄せる丹羽長秀軍の総攻撃で落城した)勝算のない戦いとはいいながら源氏の流 れをくむ身、なんで平氏信長の軍勢・明智の寄せ手が差し出す降伏状を受容れる事が出来よう …と久下(三良左衛門太夫源)重治は遂に遺言を認め討死の決意を固める。
余田城(東ノ城)主郭南面から西面を囲む帯曲輪

「もはや今生の見納めじゃ千丸・彦作を頼んだぞ」「は…はい…」涙を拭った悲しい別れを告げてから少刻…玉巻の城に押し寄せる明智の軍勢一万余は、なだれを打ってドッと討ち入り見る見るうちに城は炎々と燃え上がり城兵250人と共に久下重治は悲壮な最期を遂げました。九死に一生を得て落ち延びた奥方と乳児を抱える乳母は数名の従者に護られて道を急いでいた。「おおっ…お城が燃え上がる…重治殿は…」その場にうつ伏す奥方の姿に乳母・従者共に胸を痛くかきむしるのであった。「千丸殿、これが玉巻のお城の最後でございます…」千丸を高く差し上げる乳母の手も力なく震え、この仇はきっと返さねばならぬ…今はただ安全な所へ逃れるより致し方ない…と主従一行が疲れ切った足をひきづりながら乳母の生家・井桁氏と、 地侍秋山氏に匿われて辿り着いたのが前山村上竹田檀の辺地。その頃此のあたりは一軒の家もなく追手に見つかる事もなく細やかな生活を送るには恰好の土地でした。玉巻城陥落の悪夢!!それは忘れる事も出来ない思い出です。夫君の遺命を受けて長男千丸と共にこの地に落ち延びた奥方は、夫君を始め討死した将・士達の霊を慰めたいと塚の建立を思い立ち河原から石を拾ってきて、 ささやかな慰霊の塚が建てられました。
五台山東南尾根のギンリョウソウは花開いているでしょうか!

奥方は二人の子が成人すると尼僧になり墓地の傍らに鱗祥寺を建て生涯を終えます。廃寺となった鱗祥寺跡は林の中に残っています。奥方と二人の子を匿った井桁氏・秋山氏は後、久下氏を名乗ります。 この塚は当時植えられたという四本の古樹と共に前山村檀に住む後裔によって丁重に祀られ、栄枯盛衰を物語る先祖久下氏の遺物の数々は、御綸旨・感状・御判や巻物と共に久下姓のXXさん方に伝えられ、これら史実は東大史学室に資料として収録されているということです。
(丹波新聞社 「由緒を尋ねて」芦田確次氏編集昭和31年発行版 参照)
   丹波霧の里HOME
inserted by FC2 system