狸穴の水〜五台山〜葛原峠 / 余田城〜親不知〜コケズラシ/徳尾砦〜点名:袴谷
丹波市(五万図=福知山)
T鴨阪〜「狸穴の水」〜五台山655m〜点名:寺奥〜葛原峠 2002年05月03日
U余田城〜:上鴨坂〜親不知〜コケズラシ〜岩倉山〜大杉ダム2003年02月15日
V余田城・上鴨坂城館 (上鴨坂城)・徳尾砦〜点名:袴谷2007年02月04日
点名袴谷の東枝尾根から親不知と大原神社(中央)

近畿の山城: 東山城館徳尾砦 鴨坂城館(上鴨坂城) 余田城と余田西城段宿城<仮称>
校歌・故郷の山前山小学校♪そそりたつ五台の山に…♪
 香良 少年団音頭 ♪…空に聳ゆる 五台山…♪
 上豊富 !学校(応援歌)♪西に烏帽子の嶺高く 東に滝山(親不知)そそりたつ…♪
丹波のお話:(久下氏の玉巻城悲話)


T鴨阪〜狸穴の水〜五台山〜点名:寺奥〜葛原峠〜尾端  H14.05.03

丹波の隠れ名水「狸穴の水」を探る低山徘徊派オフ。国道175号線を北上し市島町役場が集合場所。 当日は氷上町の病院へ義母を見舞ったあと抜け出してきた!ので、事前の参加表明はしていなかったが、丹波のたぬきさんご夫婦からは 「来るだろう気がしていた!!」と嬉しい歓待のお言葉。みやびさんとは初顔合わせ。北攝と丹波オフでは皆勤賞の兼武さん・佐竹さんと先日は向山で一緒の松田さん、今回もコーディネータ島田さんの先導で登山口に向います(AM9:30)。
霊水「狸穴の水」

R175号「八日市交差点」を左折し前山川沿いに上鴨阪集落に向う。大杉ダムへの分岐を右にみて直進し集落の外れからは狭くなる舗装の坂道を進んで広い駐車スペースに着きます。以前は直ぐ下方のコンクリの貯水施設側にギリギリ登りつめて道横に駐車したが、今は駐車場からもまだ入って行けそうな道が鴨内峠に向かっている。市島町と氷上町を結ぶ峠道は昔はよく利用された間道。五台山登山口には
「ありがたや五台の山の岩陰に 大師の恵みいまも溢るゝ」御詠歌の碑と・笠を被った弘法大師像の杖を立てた処から滾々と 清水が湧き出る「弘法清水」の伝説は全国に残るが此処に其の伝承はないが 名水”狸穴の水”とある?(AM9:50)。鴨阪の登山口に最近出来たばかりの此れではなく、ホント!!の「狸穴の水」は植林の中の谷を詰め五台山稜線近くまで登った所にある。
大杉集落から五台山(右)と鷹取山(左)H15.2.15

水汲みに此処まで来る人は居ないでしょう。むかし猟師が・狸が逃げ込んだ穴から湧き出す清水を発見したのが発端ですが。こんな所に「何かある。石仏や…」と石仏ファンの島田さんを狂喜させる霊水「狸穴」前山水道組湧合と彫られ石碑の傍には 苔むした岩で囲まれた穴からき水が湧出している(AM10:40)。鴨阪、尾端等集落で管理されているものらしいが 水を汲みに今此処を訪ねる人などいるのだろうか?。 「狸穴」からは谷筋も消えた広い植林の中の緩やかな斜面を登って五台山東南尾根に出て僅かの距離で小野寺山-五台山を結ぶ稜線の鞍部(AM11:05)に出た。

五台山山頂・展望台 

狸穴コースを五台山の鞍部へは以前、同じコースを歩いた筈だが狸穴への分岐が判らず尾根に登り詰め、 今回はこの時のコースを途中で見失い!!??谷を詰め、かすかな踏み跡を追って「狸穴」に到達したが反対に正規ルート??を見失った。五台山登山口の導標に従い林道に入ると「森林浴***五台山の森」の絵地図入り案内看板がある。 直進する鴨内峠を経て五台山へ約2.3kmの道と別れて植林の中に続く山道に入って行くと「是よりxxxm」の行程標識さえあらわれる。狸穴コースだと約1.4kmなので五台山へは1km近いショートカットコースだが「狸穴」を目指しての谷筋道は倒木を避けながら薄い踏み跡程度の道が続く。 逆に登ってきたから判るが地図無で南東尾根を目指す場合、この鞍部が分岐(取付き)点とは一寸気がつかない。五台山へは直接稜線道をとらず 水平のトラバース道を鴨内峠ルート合流し五台山山頂(2等三角点 655m)の展望台に立つ。少し早いが食事と無線・展望と山々の同定にと思い思いに過ごす(AM11:15〜PM12:20)。
五台山東南尾根より鷹取山(氷上槍)を望む

植林が続く尾根道は歩きやすく、しかも段々明瞭な山道となってくる。杉・松の広い植林帯は尾根でも谷寄りでも、何処でも歩けそう…どちらを採っても尾根筋が ハッキリする手前で合流するので二手に分かれて進む。声掛け合って合流した所は広く削平され、切り出された材木の貯木場だった様。踏み跡は明瞭に続くが、どの尾根からも東の上鴨阪方面に山道が延びているようで主尾根の方向を地図で判断する事が 難しいところもあったようです。時々見え隠れする鷹取山の位置を確認する人間GPSも少しは足しに!!なるところです。尾根の分岐には塩ビ管にワイヤーを通した罠が仕掛けをはずしたまま錆びてぶら下がっています。地元人意外・通る人もいない コースとはいえ山道の側にあって危険です。緩やかな登り下りで途中狭い鞍部(峠)に着き、登り返し点名:寺奥(4等三角点 323m PM13:10)に着く。 山道の直ぐ(3m程)横の高みにあって注意していないと行き過ぎてしまいそうな箇所で此処からも上鴨阪への尾根下降道がありました。
愛宕神社から上鴨坂城と新宮山遠望 H19.02.03

少し降ると送電線巡視路を展望の良い鉄塔下(PM13:15)に出る。正面に鷹取山(氷上槍)を望むが送電線が山の南肩を割って延びる姿が痛々しい。北〜東側には親不知・コスゲラシ・横峰山(高谷山)を望む此処山塊の唯一の展望ポイント。此の先で少し藪っぽい斜面を登り、やっと丹波の山の容相に戻ってきたと思ったら無名の藪ピークに達した。ここを葛原山とよんでいる資料があるとか!!ないとか!!?。北方向は藪ですが東直ぐ下方には広い峠道が尾端集落へ下って行く。 「此処が葛原峠」(PM13:50)。このまま目前の縦走路の坂を登り切れば葛原山ですが時間は無さそうで、此処から下ります。なんとも湿気ていて踏み込むと足元に水が染み出してくるような不快な道に古畳を敷き詰めている所もあります。猪除けゲートを開閉して尾端〜上鴨阪〜登山口へと長い集落内の車道歩きですが 氷上町側と違い市島町側の周辺に山も無い(登山対象になるような)所を歩く一団に 集落の人達の奇異の眼差しを背に感じます。
坂城館(上鴨坂城)・本丸から余田城の稜線と親不知を望むH17.2.26

野辺に見つけた肉厚のイタドリ等はグミや野イチゴ同様、 喉の渇きや疲れを癒してくれます。お一つどうですか…!!私とたぬきさん以外、これまで口にした人はいなかったようです。山中ではチラホラと見かけたツツジやマムシ草と未だ蕾状態の ギンリョウソウ以外花を見ることがなかったので民家庭先の花には目を奪われています。午後から崩れるとの天気予報も良い方向に外れてくれました。再度・弘法の水ならぬ「狸穴の水」を記念にボトルに詰める人、話し疲れた喉の渇きを癒す人 …たぬきさんからの黒豆パンの差し入れ有難うございます。


U 鴨阪〜宗福寺〜余田城〜上鴨坂〜親不知〜コケズラシ〜岩倉山〜大杉ダム
  H15.02.15

五台山は「ふるさと兵庫の50山」等に紹介され西側の「独鈷の滝」や岩滝寺・浅山不動尊からの コースが整備されており一般的だが、東側の古道鴨内峠を経て五台山へのコースも歩き易い。 昨年(H14.5.3)低山徘徊派オフでは、 この鴨内峠へのコースもカットして踏み跡も薄い名水狸穴の水から五台山へ辿った。鴨内峠と親不知を結ぶ尾根から東南に派生する枝尾根が上鴨坂集落の北へ延び、その名のとおりの尾端集落に落込んでいます。
点名上鴨坂付近からの五台山

この尾根から福知山との境界尾根を 大杉ダムを囲むように親不知〜コケズラシ〜岩倉山への周回コースを考えてみた。五大山〜鷹取山〜五台山縦走では、常に北東の奥に大きく稜線を拡げる親不知が気になる。市島町側では五台山に次ぐ高峰だが知名度も低い不遇な山。中国の仏教聖地として「五台」と呼ばれた山に準 なぞら)えて上記の五大〜五台に親不知を加えて五山の縦走尾根コースは古くからの山岳宗教の道として回峰行が行われてきた事でしょう。親不知山頂の南手前537mピークには、残された座石に朽ちかけた木片だけが散乱する祠跡があり、以前は此処に石の手水鉢もあったが2001.5.26日に登った時には既に無くなっていた。
余田西城から徳尾砦(中央)親不知〜コスゲラシ〜岩倉山への稜線を望む

最短距離は徳尾集落の奥にある大原神社から此処に至る急な山道だが、嘗ての参道で入峰の際の発心門だったか?。こんな山頂に祠があること、親不知の名前や荒木山の直ぐ下方には権現堂・役行者や不動尊像もあり市ノ貝集落から熊野権現に出て荒木山からの縦走も回峰のルートだったかもしれない。そして五台山の浅山不動尊・愛宕山の安養寺・五大山麓の白毫寺へと下ったことでしょう。親不知〜コケズラシ〜岩倉山の尾根筋の状態は 以前と変わらない状況と思っていたが、丹波随一の規模を誇る大杉ダム周囲を含めての景観の良さに公園整備され、コケズラシ〜親不知を経て鴨内峠へハイキングルートが出来ており、親不知山頂は切り開かれベンチや鳥瞰図の案内板もあるる変わりよう。
展望広場に変身した親不知山頂

年間を通じてヘラブナ・ワカサギ等釣り客も多く、キャンプ場や遊歩道が整備されていました。国道175号線八日市交差点で鴨阪・鴨内峠への282号線に入り宗福寺を目指します。尾端公民館付近からは 誉田城の城山が見える。城主・余田監物為家の碑が建つ菩提寺宗福寺から今日のコースの出発です(AM10:00)。墓地から登り着いた鉄塔側が余田城(誉田城)東郭の最高所で、植林の中を西へ下ると掘切り状の深い溝を徳尾集落へ越える峠道。 尾根筋は短いが急な登りとなる。北側に腰曲輪伴う段差を越すと長く緩やかな削平地となり、各曲輪の西隅には土塁跡も残っています。 東郭の遺構は明確・西郭にも大きな土塁曲輪・出曲輪がある。特に西端(三ノ丸)曲輪の幅広土塁には櫓台跡の可能性も指摘されている(AM10:25)。
親不知山頂から荒木山(左端)・コケズラシ(右端)


3m程の土塁曲輪を越え小さな堀切を過ぎれば城の遺構は消え植林の中を登り詰めるだけ。殆んど眺望を望めない踏跡だけのコース。 身近に丹波槍(鷹取山)や昨年のオフ会で辿った五台山〜点名寺奥への稜線が樹間に見え隠れします。点名上鴨坂(4等三角点 256m AM10:30)も 尾根筋の踏み跡は確かで 藪漕ぎ覚悟が拍子抜け・御蔭でハンターを驚かす事も?驚かされる事もない。鴨阪と徳尾を結ぶ最低鞍部に猪除けフェンスを開閉して登り始めてすぐ猟犬を連れたハンターに会った。コースを説明して上部にいる狩猟仲間への連絡を依頼し歩を早める。 も少し展望が良ければ鷹取山・五台山・クロイシへと尾根歩きが愉しい処です。TV共同アンテナへ出て2分程で五台・クロイシ・親不知を結ぶ稜線に飛び出した(AM10:58)。
荒木山への分岐下・露岩から大杉ダム

途端に稜線上にはテープや紐が目立ち・案内標識が次々現われる。尾根は明るいが展望はなく広い市境尾根の杉林に挟まれた537mピークに出る。大原神社からの参道が此処に通じ、下降点に朽ちた木片と石座を残す祠跡がある(AM11:35)。 以前に見かけた石の手水鉢は既に見かけなかった。この大原神社へ下る急斜面に転がり落ちているのかも知れない。親不知の名に似ず、親子三人仲良く頭を突き出した峰は雑木に阻まれて写真に撮れない。そのうち主峰も撮れなくなりそうなので 樹間越しに鬱蒼とした山頂付近を写したが実際の山頂に着くと周辺は広く木々や雑木は切り開かれベンチや 図入り案内方位板(大杉ダムからの ハイキングルート説明が主)と鴨内峠への立派過ぎる標示板が立てられています。親不知山頂(欠けた3等三角点605m AM11:50〜PM12:00)からは荒木山の向こうに福知山市街が見渡せ鬼ヶ城〜烏ヶ岳と遠くに霞む大江山の山並みや三岳山・龍ヶ城が見えます。
展望の無い山道に建つ岩倉山の三角点

正面には大きく高谷山(横峰山)が鎮座して山頂に向かう尾根の末端付近に友政城や 西には小富士山も小さいながら整った姿を見せています。目前には三つばかりの瘤を連ねて南へ延びる稜線が、今から下降ルートとして辿るコケズラシ山〜岩倉山への尾根筋で下方に大杉ダムが光ります。以前は南側の展望冴えず確認出来なかった眺望です。山頂から東への下降口付近はほんの数年前、テープにさえ惑わされたルートは500m毎に道標設置の親不知登山道。暫らく残雪を見るが直ぐに消えて山道が現れます。大杉ダムへの道標から外れて先に続く細い尾根筋は直ぐ元のハイキング道に合流し、道なりに「室山・不知線」のプレートが掛かる
荒木山(荒木山城)〜室山への分岐を見送ると前方が開ける露岩(5m程の垂岩)の上に立ちます。眼下に大杉ダムの蒼い水面は見えるが、此の先からは樹林の中の道。松茸山のテープが進むに連れて目障りになってくる(9/15〜11/14迄入山禁止)。 このコースはコケズラシ山の手前鞍部から【大杉ダムのキャンプ場(約500m)へ下る分岐(PM12:35)】
大杉ダム近くの滝場

【コケズラシを越えて岩倉山への鞍部から関電巡視路「火の用心No130」から不動滝!!?
(10m程の滝が岩場の奥にあり周辺に祠や石碑がある) へ出て 大杉ダムの堰提近くへ降りてくる】二つのコースが整備されています。私は岩倉山まで足を伸ばして引き返したが石像寺へ抜けるのでなければコケズラシ山付近から先は松茸山の為、五月蝿いほど両サイドに張り巡らされるテープや「松茸山に付き…」が目に付き不快にさえなりますので、早々にダムへ下った方が良いかも知れません。キャンプ場へ下る鞍部からコケズラシ (4等三角点 310m 点名:市ノ貝PM12:40)までは直ぐ。落ち葉を掻き分け見つけた三角点も頭を出し、大柿氏のプレートも健在です。下り始めの鞍部に「火の用心No130→」と道標が建ち巡視路沿いに大杉ダムへ下りますが時間の余裕もあり岩倉山へ往復します。
大杉ダム

石像寺への道を進むとシンボルの磐座があり、これから名付けられた岩倉山(3等三角点373m 点名:徳尾 PM1:05)は尾根筋の山道にある。岩倉山から引き返し大杉ダムの周回林道へ降りてくると「五台山の森 大杉ダム自然公園」の案内板が立っている(PM1:30)。ダムの堰提を渡って大杉の集落へ下っていきます。西に大きな山容を見せる五台山が南へと尾根を延ばしています。その先には空に向かって突き出す氷上槍・鷹取山があり、二つの山を結ぶスカイラインを望み、身近には鉄塔が目印の「余田の城山」が見えてきます。城山の尾根の向こう側が出発地点・尾端集落の宗福寺(PM2:10)です。


V余田城砦群廻り〜点名:袴谷  2007年02月04日

余田城から点名上鴨坂を経て 親不知〜コケズラシ〜岩倉山から大杉ダムへ周回した際、氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書の遺跡分布図に記載のない城遺構を見つけ、同郷の城サイト仲間を案内していたが、丹波史(丹波史懇話会 H14年6月発行)高橋成計氏が余田谷の城郭遺構を検証されている記事を拝読しての再訪です。
上鴨坂城からの余田城(中央鉄塔付近から右一帯)

一城別郭と思えた余田城ですが縄張りの特性が指摘されておりますので余田城と余田西城に分けて考えます。余田谷の城郭位置に東山城館は載せてなかったが、東山城館とは大原神社へ向かう狭い谷を挟んで東西に正対して呼応する位置にあるが、まさかと思える峰の先端部にも徳尾砦があり、稜線伝いに点名:袴谷まで辿ってみた。はかま谷とは何とも気になる山名ですね。余田城砦群の個々についてのレポートは 下記「近畿の山城」を御覧下さい。


東山城館  徳尾砦 鴨坂城館(上鴨坂城)余田城と余田西城 段宿城(仮称)

東山城館  東山? Ca225m 丹波市市島町上鴨坂大杉・徳尾東山

本拠の余田城を警護するように南に鴨坂城館・北方に徳尾砦東山城館が在る。R175号線の市島町八日市交差点を左折して大杉ダム・上鴨坂へ向います。親不知(605m)から鴨内峠を経て五台山(657m)へ延びる尾根の 東南へ突き出してくる枝尾根が上鴨坂北方の256mピークから上鴨坂・尾端集落へと突出してくる。鴨内峠へ通じる鴨坂川と徳尾川に挟まれ其の合流地点の 西北方の稜線上には先端部付近から標高約256mの峰にかけての尾根上には曲輪を並べ堀切で尾根を遮断し、土塁の遺構も顕著に残る余田城が正面に見えます。
大杉ダムと徳尾分岐点付近から東山城館を望む

鴨内峠へ向かう車道の西方に見える半独立丘陵上に鴨坂城館(上鴨坂城)が在る。上鴨坂にある余田城への登城口・宗福寺に向かう手前で大杉ダムへの分岐標識(ダムへのバイパス)少し先の集落入口にも旧来の大杉ダムへの分岐があり、秋葉神社の灯籠が立つ。 此処からは最初に目指す東山城館が徳尾川と大杉川が合流する地点二つの川に挟まれた丘陵上にありました。徳尾川を挟んだ南川向こうの丘陵には送電線鉄塔を乗せる余田城の東城が望めます。
【余田城から西尾根を点名:上鴨坂へ向かう急斜面の上方にも余田城の別郭?があるが、縄張りの大きな特徴からも別城(余田西城)として記述します】 親不知山頂から大杉ダムの西側を南へ突き出してきた尾根が大杉・上鴨坂・徳尾の各集落に囲まれた先端部に落ち込むところ、
東山城館・最高所から続く北尾根に小広い平坦地が

其の丘陵末端の峰には2段程の曲輪と狭い尾根幅一杯に不整地の平坦地を残す東山城館(砦)がありました。さらの此の尾根の西には大原神社に延びる車道を分けて、 鴨内峠から親不知に続く稜線から点名 :袴谷へ二手に延びる枝尾根の南側稜線東先端部の峰にも大原神社の入口を護る仁王門の様な位置にあって東山城館と正対した徳尾砦がある。
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城館への取付きは徳尾公民館手前から秋葉神社への尾根筋沿いの参道を辿るのが正解ですが、登り口を知らず徳尾集落の車道沿いに広い駐車スペースが有り、其処から小さな墓地を抜け猪避けフエンス(電線)を跨いで疎林の中を尾根に向かって登って行きます。比較的緩やかな尾根が続き最高所付近で 少し広い平坦地となる。北側斜面に比して余田城を望む南側斜面は其れほど急斜では無さそうなので、 下方に小さな曲輪でも…と探して見ても尾根の端は伐採された枝木に覆われて確認が出来ない。
東山城館最高所・尾根筋は狭いが・・・

頂部付近から北に低い二段程の広い曲輪があり、尾根は鞍部に続くが曲輪の切岸や尾根上を堀切等で遮断する防備施設もなく、平坦地の他に城砦遺構は無さそうだが、頂上手前尾根筋(南西)に1m幅の 犬走り状テラスが延びる?が藪に埋まる倒木等で不詳。藤原時代中期の寛仁元年(1017)播磨から丹波の前山(さきやま)庄へ【元暦元年(1184)頃とも!!】移ってきた余田氏一族は元は足立氏・久下氏と同様に関東武士で清和天皇の後胤だともいわれます。 余田氏が来住して本拠とした余田城の支城として鴨坂城館(上鴨坂城)と共に前山庄の領地支配・監視の城砦を 築いたものでしょう。 どちらの城館にも其の城主や築城時期等の城史や伝承は残っていないようです。此処は・青垣町や氷上町を繋ぐ山越えの間道が、鴨内峠を越えて通じるだけの要衝とも思えない奥まった(辺鄙な?)位置に有ります。
鴨坂城館・城域東端の土橋付堀切と曲輪の切岸

もっとも間道は無いが山道を辿る厳しい山越えをするなら大原神社や大杉ダムから親不知を越えて京都府福知山市に抜けられます。 余田氏は特には近在の豪族とのトラブルも無く前山庄を領して管轄していたが中世・室町時代末頃に台頭してきた荻野・赤井氏により天正2年(1574)荻野(赤井)直正に攻められ落城しています。其の後:傘下に組み入れられた余田城は、友政城や鹿集城と共に黒井城の東口を堅め、 京都丹波の福知山方面からの侵攻に対する守備・警護の支城群の一つとなっていったのでしょう。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査書(市島町) 氷上郡教育委員会 参考)

徳尾砦
 xxx Ca230m 丹波市市島町上鴨坂徳尾

大杉ダムへ向かう車道を右に見送ると親不知(605m)から南へ延び出す尾根先に東山城館がある。其の尾根南端を回り込むと大原神社に向かって北に細長く延びる 徳尾の集落の谷の入口部には東山城館と丁度・東西に向かい合って呼応する位置:西側に飯盛状の低山が見えます。鴨内峠〜点名:曼田良〜親不知への福知山市との府県境界尾根の東側にある点名:袴谷(4等三角点
徳尾地区から徳尾砦東側:高い段差をもつ畑地が城館っぽいが!!?

348m)付近から南東へと延び出した枝尾根の先端Ca230mの山頂に位置して、頂部に約35mx18m程の平坦地を主郭とした単郭の砦。東山城館とは大原神社へ向かう徳尾地区内の車道を隔てた真西500m程に位置し、徳尾川が東山裾を流れていて堀状を呈しています。東山裾の取付き点に選んだ位置は車道から板橋を渡った田圃の先に 一段高い位置に居館跡を思わせる畑地があり、左手に竹薮が有るので其処から …偶然・散歩中の老人に尋ねるが、砦跡など聞いた事もないが山頂に平坦地はあるという。
其の畑地の北端に祀られいる石仏


猪垣が山裾を取り巻き 道は無いが竹薮付近にフエンスのゲートが見えるので敢えて直進。傍らに心尽くしの防寒用藁を立て掛けられた小さな石仏が一基祀ってある。石仏の側からは・いきなりの急斜面だが前方に猪垣の戸が見える。戸を開閉して踏み跡も無い斜面を登り始めるが、藪はなく立木を利用して東斜面を直登する。見上げると2〜5m程の段差をもつ曲輪状を幾段も見る。上部は小さなものも比較的広く感じる平地もそれほど削平されているとは思えない程で自然地形のままなのかも。同心円状で同じ様な斜面に対して曲輪の配置位置が東方に対してだけ残る。 防備補強設備の堀切や竪堀・曲輪に土塁もないが曲輪の段差も5m程の 高いものはあるが切岸ともいえず少し横に移動すれば段差もなく越してゆける。山頂部には35mx20m程の楕円形で切岸加工も無い段差1mばかりの曲輪があり、
徳尾砦主曲輪:西端の小曲輪

尾根続きの西一段下に小曲輪を置くだけの単郭の砦、南側や北側にも幅の狭い曲輪・帯曲輪の段はあるが削平は粗い。小曲輪を下る西の尾根続きは鞍部に堀切もなく、緩やかな緩衝地の様な尾根がだらだらと高度を上げながら延びているだけ。此の徳尾砦が徳尾集落全体を望める位置にはあるが領内監視の城砦か・より適位置に東山城館があるので、余田谷領民の有事の際の非難場所「村の城・逃げの城」をも視野に入れ てみる。余田城と東城館が徳尾の入口を固め・其の奥にある徳尾砦を二つの城砦が守護しているように地形図からはみえるが!!?。そんな尾根が少し傾斜を増してくると点名:袴谷と福知山市との境界尾根分岐地点に着く。町界でもない尾根ですが、中央部が溝状になっているのは何故なのだろう?。
徳尾砦・主曲輪

伐採した材木切出し様の木馬道や傾斜も急ではなく長くも無さそうで、木を滑る下ろした木ズラシの跡でもなさそうです。溝道も直ぐ消えて暫くで平坦な尾根東端部にある、四隅を石で囲んだ三角点石標の埋まる点名袴谷に着く。東方への尾根筋からは北の山腹に建つ大原神社や其の上方に姿を現す親不知、黒石山〜鴨内峠への稜線を眺めながら降っていく。植林帯に入ると倒木の所為だけではなさそうだが踏み跡はやがて消え?何処が尾根筋なのかも明確ではなくなってくる。出来るだけ南方向に向かって降り、徳尾砦取付きの400m程上手の車道に出てきた。

鴨坂城館(上鴨坂城)
 xxx 188m 丹波市市島町上鴨坂尾端

余田城の前後を護衛するかのように南北に三っの城砦があります。北方に徳尾砦東山城館があり余田城山裾の宗福寺参道手前・尾端公民館から南西に見える丘陵上の鴨坂城館を目指して其の尾根先端部に向います。山の尾の先の集落は其の名も尾端。余田谷の南部に有る鴨坂城館は福知山方面から塩津峠を越え綾部・
下鴨坂集落より鴨坂城館と親不知(中央奥)

六人部(むとべ)方面からは竹田川沿いに通じる街道の合流する要衝(R175号線) ・八日市を監視出来る位置にある。八日市の名からは市場監視にもあたっていたのでしょう?。八日市交差点から余田谷を抜けて鴨内峠を 氷上町に越える街道監視。警護にも本拠:余田城と呼応して 余田谷入口を守護する位置に立地しています。鴨坂城館(上鴨坂城)の主郭部には高圧線鉄塔が建ち、其の巡視路が丘陵の東尾根末端から通じています。
鴨坂城館・本ノ丸から東側曲輪

巡視路入口の直ぐ上方に赤い鳥居が見える。急傾斜の尾根途中には「白清稲荷」の小さな祠が祀られ、其処からは細くなるが更に尾根筋の道を辿ります。 送電線鉄塔の建つ山頂まで3〜40m程と思える手前の尾根を遮断して幅5m程の土橋を伴った堀切が現れる。堀切を越えると細長い東曲輪に出るが北側下方にも余田の本城に向かって(樹林が育って展望はないが北側の山裾を流れる鴨坂川から断崖状の激急斜面は余田城からも 確認出来る)広い曲輪がある。前方に高さ5〜6m程の切岸をもつ曲輪 (約30mx15m程)が上部に鉄塔を乗せる鴨坂城館の主郭です。鉄塔を抜けた西へも微高差で曲輪が延びており、 南端に通路をもつ段差の少ない小曲輪が2段程続いて5〜6m程の切岸を 城域西端の土橋付き堀切に降りる。
上鴨坂城:東端の土橋付き堀切

低丘陵上の東西に土橋付き堀切を持つ150〜160m程の城域を抜けて其の先30m程下った所には ・此方にも稲荷社が祀られているが立派なお堂として建てられ鳥居が続き広い参道が下方に延びている。この先の鞍部は上鴨坂集落内の南北を繋ぐ峠道だが尾根向かいの峰先には 愛宕神社が建てられ、両社への参道を兼ねた峠道で南へは直ぐ地形図卍マークの清水寺の様だが北側へ参道を下ると猪鹿避けフエンスを越えて車道(農道)に出たところが鴨坂川に架かる「保っ渡橋」。 鴨坂川に沿って尾根末端まで引き返した。鴨坂城館(上鴨坂城 )主郭に建つ鉄塔の北方は鴨内峠への車道を越えて、宗福寺背後の山の尾根上の鉄塔に延びています。
鴨坂城館・東曲輪北側の腰曲輪

点名:上鴨坂256mから東へ延びる尾根上の余田西城から鞍部(徳尾への峠道!)〜堀切〜鉄塔〜余田城主郭にかけての全域が望めます。 要衝でもなく・要害とも思えない余田谷の丘陵に築かれた余田城が250年余りの歴史を刻みながら殆ど城史に登場していないので詳細は不明です。まして東山城館・鴨坂城館(上鴨野城)・徳尾砦の城砦には伝承の類もなく更に不明。城域や歴史研究は進み、既に報告書等が存在しているのかもしれないが?余田城と共に此の鴨坂城館も「分布調査報告書」内容以上に城域は広く平坦地だけでなく、切岸加工した曲輪や城域の東西には堀切もあって注意して探せば明智の”丹波攻め”の頃には余田城と呼応して北斜面に土塁付の曲輪や空掘りが有るのかも?
鴨坂城館(上鴨坂城)・東側曲輪から本ノ丸

東山城館は城域と思われる最高所付近は雑木と間伐材が斜面が覆って確認出来なかった。しかし尾根の西面か東面には犬走り状の遺構があるといいます?。 余田城の支城ではあっても天正2年(1574)の落城後:黒井城赤井直正の傘下に入って以後は土塁や竪堀は無く切岸加工や曲輪の整地等の改修はされていない様なので、再び使用されることはなかったのかも知れない?。久下氏の玉巻城(山南町)遺構に見る様に?、家臣に背かれる事への警戒からか・改修補強を許されないまま、其の後も要衝監視の砦となっていたのかもしれませんが・・・。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査書(市島町) 氷上郡教育委員会 参考)


余田城(誉田城)と余田西城
余田城(誉田城)  上ノ山 (城山・余田城) Ca160m  丹波市市島町上鴨坂尾端


R175号「八日市交差点」を左折して鴨坂へ向かう宗福寺背後の丘陵に誉田城があり、山麓には余田城有縁無縁萬霊供養塔や 誉田城最期の城主余田監物為家の碑が建つ菩提寺の万松山宗福寺(曹洞宗)がある。墓地の脇を抜け背後の山へ送電線巡視路が絶好の登城ルートになっています。 稜上に建つ関電の送電線鉄塔No126(北摂長田野線)が山城の城域内にあるが東西約350m程の尾根上に曲輪を並べる梯郭式縄張りで、
宗福寺境内の余田氏慰霊碑と五輪塔群

中央部30m程の緩衝帯の様な平坦地形を境に堀切を越えると急に切岸高く土塁・帯曲輪・主郭へ入る上り虎口もある。堀切で曲輪ごとに区切られた連郭式山城だが二重堀切〜鉄塔〜四ノ丸!?までを 西ノ城、堀切上に土塁を載せる三ノ丸〜主郭を東ノ城に分けて下記にレポートしています。余田城は西域の切り通し堀底道を越え更に西に続く尾根上にも城遺構があり余田西城として後述するので余田西ノ城・東ノ城は此の余田城に閉じた説明として御理解下さい(余力があれば後日修正します)。主要郭群は尾根東側に有る東ノ城で高い切岸(約5m程)や帯曲輪が主郭西側を廻る。笹やシダ藪に覆われ確認は出来ないまでも竪堀が一本真っ直ぐに走っています。
余田城主郭に入る上り土塁虎口


東ノ城中程には城域内を区分してか分断しているのか大きな堀切がある。 其の曲輪西端部には曲輪を囲む様に土塁が設けられています。緩衝地の様な平地の西には堀切が走り、此処からが西ノ城に分けられる城域です。切岸を高く(4〜5m程)しているが土塁はなく細長い尾根に沿った自然地形のままの緩斜面が鉄塔に続く。 宗福寺から登ってくる道が尾根に上がる付近が西ノ城の主要郭部で曲輪へは送電線鉄塔から南下の帯曲輪が山道側へ延びている。又西へ下り始める所には二重堀切があり、 其処からは急斜面を下って深く大きな・徳尾と上鴨坂地区を結ぶ峠道に降り立つ。
余田城尾根西端の土橋付二重堀切

此の二つの城は西ノ城が西側の尾根からの侵攻に対する防衛を主とする東ノ城に対する砦の機能をもち、東ノ城は天正2年赤井氏の侵攻(下記:佐馬頭為家の項を参照…)により落城後、其の子孫は徳尾の上野に住んだといいます。 徳尾側から直接:東ノ城への登城道があり改修を加えられたと思える遺構(土塁や虎口等)からも余田城の本城で、城主や城史は不明だが共に余田城とします。 ところが余田城は更の鞍部を越え急斜面を辿る西の尾根続きの山上にもある。「氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会1944年版」分布図には西に続く尾根上の
余田城三ノ丸の西側堀切側の土塁(H20.12)

上鴨坂と徳尾間の鞍部堀切までが城域となっているが堀切から急斜面を登る尾根の西にも続き山頂付近には岩を自然の切岸に取り込んだ様な曲輪があり、 其の先には丁寧に削平された広い曲輪が数段あって共に土塁が残り尾根西端の土塁は幅も広く櫓台が有ったとも思われ 高い切岸と堀切で城域を終えます。平成 15年余田城から上鴨坂〜親不知へ縦走の際に見つけた山城遺構だが丹波史懇話会「丹波史(第22号平成14年6月発行)」記事があり、特に此の遺構については高橋成計氏により、明智光秀により平定された後の天正12年(1584)丹波にも「小牧・長久手の戦い」に
余田城三ノ丸と二ノ丸・主郭を分ける大堀切

呼応した一揆勢力があったこと。篭城拠点が黒井城と余田城【余田城より余田西城に竪土塁…等遺構があり、籠城したのは此方の城ではなかったか!!】だったこと。其の一揆勢力に赤井時直がいて幕末まで旗本や大名家の 家臣として存続した赤井一族再興の功労者となったという。高橋氏はその余田城の城郭遺構に織豊系特徴を捜された。篭城も戦国期の余田城と考えられ・此れまで余田城西の尾根上に城郭遺構が残る事は想定されていなかった様です。高橋氏の余田西城に於ける
熊野三権現堂と直ぐ上部の余田守護神小祠
斜面上部に帯曲輪と余田城主郭


竪土塁の発見と考察から余田城とは 区分し余田城の城史の後に「小牧と長久手の戦い」に呼応して篭城した別城として余田西城を追加します。中世戦国期の余田城の展望の悪さは南の鴨坂城館(上鴨坂城)や 東山城館・徳尾砦が監視を補ったでしょうし、連絡通信手段も手旗や太鼓・鐘の音に頼らず人声でも届く程?の近距離にある。藤原時代・寛仁元年(1017)余田一之進兼定と一族は播磨から丹波の前山庄へ移ってきて鴨阪・徳尾・大杉一帯(余田谷)に勢力を占めていた武士の集団で弓術・槍術に優れており、鎌倉時代初頭・天仁年間(1108〜1109)余田幸次郎兼景の頃には前山庄の他、 市島町竹田・吉見・美和地区の一部をも支配した。
二の丸曲輪から主郭

その頃・山城築城はまだ早く、構居として余田(誉田)城が創築されたと思われます。治承4年(1180)源頼政 (和歌集や鵺退治伝説で知られる)父子に味方した余田兼景の弟・左源太兼春は近江の国の合戦に加わるが源氏が敗れ一族は大和郡山へ移されます。左源太兼春は大和郡山で病死するが其の子・専之助兼保の時、丹波へ帰国して郷士になったとも元暦元年(1184)の戦いに功があり鎌倉幕府・北条氏の命により余田(藤原)又太郎為綱が 来住したのが初めともされる様ですが?。余田一族は槍術・弓術に優れた武士団でした。 平家が滅び余田一族は前之庄へ帰り、
主郭切岸と帯曲輪

承久の乱(1221)では弓の余田和三郎兼知・ 槍の余田太郎兼里等が鎌倉幕府に味方して京都へ攻め後鳥羽上皇の軍勢を討ち破っています。乾元年間(1302-03)余田万三郎兼氏が山城を築城したと思われます。
【源頼朝が伊豆で挙兵した際(1180)武蔵国の余田又五郎が参戦して 軍功が有り 余田の地頭職に補され久下・足立・吉見氏等と同様に元は関東から来住してきた地頭の末流で、源頼信に仕えた清和天皇の後胤:五郎兼房が余田氏を名乗り、 鎌倉時代中期:為綱のとき一族あげて入荘したとも・・!!】元弘3年(1333)3月に足利尊氏が篠村八幡宮(京都亀岡)で北条氏を討つ旗挙げに久下・葦田・酒井・波々伯部ら
東-南面へ廻りこむ主郭切岸と帯曲輪

丹波武士と共に尊氏の下へ駆けつけています。中世末期の奥丹波では赤井氏の台頭によって次々と其の傘下に組み入れられていく。 余田城最後の城主余田左馬頭監物為家も天正2年(1574)荻野(赤井)直正に攻められ落城・其の軍門に下りるが、直正の信任を得て家老職の一人となっています。 天正6年(1578)光秀軍の丹波攻めでは一族の侍大将は嫡男余田半兵衛(半平)を黒井城に入れ龍ヶ鼻砦で守備につくが余田城の城兵の多くが半兵衛に従い為家は 僅かな兵と余田城に籠城。
主郭から西へ延びる梯郭式縄張り

明智方・小野木重勝の軍勢は福知山から市ノ貝を越えて攻め込み、 孤立無援の監物為家は城に火を放ち南側の峠(葛原峠か?)を美和庄の乙河内へと脱出し保月城を目指すが果たせず小野寺山途中の峠中腹の岩場で自刃したと伝えます。僅かな兵と最期を遂げた岩は切腹岩”監物岩”と呼ばれているとか!!。 誉田城の東部端の曲輪には熊野権現が祀られており、西郭部との間には大きく深い空堀状の峠があり尾端集落側からの地区道が急な堀切状の山道に掛かる処にはお堂が建ち、 堂内には元文元年(1736)銘の地蔵尊が祀られており周囲にも
尾端公民館前から余田城(手前民家上)と余田西城(左の丘陵上)

磨耗した石仏があったが鞍部から北へ降る徳尾側へは直ぐに荒れた細道?となりあい谷に沿っての踏み跡に変わるようです。此処が城へ水を引いた「隠し桶」の跡なのでしょうか…!!あい谷峠(仮称)からは傾斜も急な登りが続きます。…余田西城へ続く…
(郷土の城ものがたり 丹有編 兵庫県学校厚生会 参考)

余田西城   Ca240m峰(余田西城)

余田城西端の尾根筋に二条の土橋付堀切のある斜面を下ると更に大きく深い空堀状の峠道を挟んで尾根筋向かいへと急斜面が続く。此の西の尾根続きの稜上にも 一城別郭状?の遺構が残っていた。急傾斜の段差(竪土塁!!?)を越すと長く緩やかな削平地となる。 北側に腰曲輪伴い各曲輪の西隅には土塁がある。 東部の曲輪遺構は明確だが西部の曲輪は広い。要害でもなく比高も高くない丘城の余田本城だけに篭城戦に備えた軍需品・食糧等の供給・補充や兵の駐屯・支城砦群等後方への
余田城・西城鞍部の切通道

連絡道確保等々…兵站(へいたん)機能・任務を負った施設でったとも考えられます。余田本城(東城)との関連・城主等の城史不明だけに、 殊に赤井(芦田)時直等の一揆に加勢した農民等の駐屯場所ともなった兵站とは推察されるようです此処を降ると二つばかりの小さな堀切と平坦地がある。天正7年「黒井城落城」後5年:赤井・荻野一族は秀吉に降りていたが、直正嫡男の直照が秀吉に殺害されると徳川方の通じ、 天正12年(1584)4年:荻野悪右衛門直正の末弟 赤井(芦田)弥平次時直が「尾張小牧陣」や「長久手合戦」に羽柴秀吉と対戦した織田信雄・徳川家康の連合軍に呼応し、 丹波の一揆勢力の中心となり黒井城と余田城に挙兵し篭城している。
余田西城:東端北角端の露岩を利用した切岸と腰曲輪

落城により断絶・没落していった家が多いなか赤井氏は秀吉方や家康方に旧知の縁を辿り赤井時直も後:浜松の家康に逢い天正19年(1591)300石で近習役:文禄2年(1593)500石の家禄で御家人となり関が原・大阪冬・夏の陣にも参戦して 1500石を知行し慶長6年(1601)には3000石で奏者番(城中における武家の礼式を管理する)となり丹波郡代を兼ね伏見町奉行・代官職を務めたほか幕府の枢機にも参画する 重臣となって赤井家再興の祖といわれます。
余田西城の東郭西端の土塁(正面)

赤井直正の子 :直義も時直等の推挙で藤堂高虎に仕官し、家臣として伊賀上野に1000石をもらって幕末を迎えています。この際立て篭ったのも尾根先端部にある戦国期の余田城だったと考えられ西に続く尾根上にある城郭の存在は知られていなかったようです。 小牧・長久手の戦いは天正10年(1582)本能寺の変の後・後継者争いが続いた翌天正11年賤ヶ岳の戦いに織田信長次男:信雄(のぶかつ)を擁立して信長の三男 :信孝を擁する柴田勝家に勝利して 機内を制圧した羽柴秀吉が、織田信雄を新築成った大阪城へ参城するよう命じたが、嘗ては家臣の秀吉に屈辱を感じてか大坂参城の命に従わなかった。
余田西城の竪土塁!!尾根筋から北:堀切は無く土留石らしいものが?露出!!

秀吉は信雄家の家老であった津川義冬・岡田重孝・浅井長時(田宮丸)が秀吉に通じたとのデマを流し 疑心暗鬼となった信雄が三人を処刑した為秀吉に信雄攻撃の口実を与えてしまう。天正12年(1584)秀吉と対戦する信雄からの援軍要請に応じた家康が出陣したことから秀吉と 家康との戦いとなり、3月に小牧で対峙し4月には長久手で合戦となった織田信雄と徳川家康は外交戦略により美濃・尾張の一向宗徒や本願寺を誘い、根来寺宗徒や雑賀衆の紀州一揆勢力で和泉・河内等大阪周辺を攻撃させます。
西城東端曲輪と北面に数段の帯曲輪


四国の長宗我部元親・北陸の佐々成政・大和・近江・丹波の諸土豪にも決起を呼びかけ丹波では土豪:赤井(芦田)時直等 一揆勢力が呼応して 黒井城と余田城に篭城します。旧織田の軍団は信雄に付くのか・秀吉かの選択を迫られ、戦いなき長期戦の末、11月には和議することになります。この小牧と長久手での戦いを併せて「小牧・長久手の戦い」と呼ばれます。平成14年6月に発行されていた丹波史懇話会「丹波史(第22号)」に余田西城の遺構について高橋成計氏が此の小牧・長久手の戦いに呼応して篭城した一揆勢力の余田城として、 其の織豊系の特徴が築城や改修技術に見られるのではないかとの観点から
余田西城東端曲輪切岸沿い北斜面帯曲輪側に竪土塁!!

余田城と余田西城 (仮称)を調査されたレポートが載っているのを先頃になって拝読し余田の城に出掛けてみた。戦国期に多く構築されていた竪堀に代わり織豊期に出現してきた竪土塁がみられるという。竪堀に沿う竪土塁なら判り易いが、 段差に沿っては堀切られもいないし土塁があるわけでもなく !?斜面上部の低い段差を越えたところは曲輪でもなく自然地形のまま。 此の低い段差を三度も通過しながら気付かなかった。指摘されても此れが竪土塁?知識と見識眼のなさが情けない。この頃の黒井周辺は細分化され代官領となっており黒井城は廃城となっていたものか?。

余田西城:(東郭北斜面に3段程の帯曲輪がある)


黒井城に入った一揆勢は亀岡城主:羽柴秀勝が討伐に向かったと知ると黒井城を放棄して余田城に集結し援軍の依頼等 ・家康と連絡を取りながら対抗した様子は【黒井城を放棄して余田城に集結したことは妥当で、やがて救援も可能になるだろう。忠節には本領を安堵・荻野(赤井)直正の子息を 取立てることは尤もである…】と家康から芦田弥平兵衛尉(赤井時直)宛て[本多忠勝書状」 (長久手町史)資料編にあり、時直は赤井一族再興の功労者とされます。黒井城落城後 :余田谷に帰農していたと思われる余田氏一族も 再興を期して一揆衆に参戦していたのでしょうか?。
余田西城東端曲輪・北側切岸沿いに土留め石積?、帯曲輪東端沿いの竪土塁!?

赤井時直が黒井城から余田城に移った後の行動は不明だが旧城の余田城東ノ城は一揆勢力に使用されたものか?。後に改修・付加されたと思える堀切が城域を二分しています。ことに・徳尾へ越える峠から西の尾根上に見られる余田西城東面の防御には堀切はないが? (僅かに窪んではいる様だが)僅かな段差が竪土塁の遺構らしい。上鴨野集落から徳尾集落へ抜けるあい谷峠(仮称)からは急傾斜の登りが続き、 最初の曲輪らしい?段差(此れが竪土塁だった)を越え続いて2m程の曲輪切岸を越えると 長く緩やかな東郭側の削平地に入る。曲輪に沿って3段ばかりの腰曲輪が北斜面に並んでいる。
幅広く長い曲輪は篭城に備えた兵糧・兵の駐屯等兵站機能をもつ


尾根に沿って延びる西端は土塁を積んだ切岸となり鞍部を経て西の郭部に入る。西郭東北隅は露岩部を取込んで切岸とし、一段下の腰曲輪を進んで西郭(余田西城の主郭)に入る様です。 東西共に主曲輪(20x50m)は広く・どちらも西端部に土塁が残る。特に西郭の幅広土塁は櫓台跡の可能性を思わせ、高い切岸を下って続く尾根筋を点名:上鴨坂(256m)へ辿っても 遺構はなさそうだが一部に広い平坦地があり「小牧・長久手の戦い」に呼応した赤井時直等の一揆に加勢した農民等の駐屯場所と
余田西城の西端(再奥部)の堀切と曲輪

推察されているようです。此れより先に城遺構はなく植林の中を登り詰めるだけ。殆んど展望も望めないが踏み跡だけは明確です。身近に丹波槍・鷹取山や昨年のオフ会で辿った五台山〜点名:寺奥への 稜線だけは林間に見え隠れします。点名上鴨坂(4等三角点 256m)山頂から先へもルート明確な事を確認して今日は引き返します。
(時直の年代遷移を丹波史6号 西城遺構推察を丹波史第22号共に丹波史懇話会レポートを参照)

段宿城<仮称> xxx Ca224m  三角点峰 丹波市市島町上竹田宮ノ下

竹田川沿いR175号線は春日町多田で西に黒井城・約500m北上する東に独立丘陵の小富士山(小富士城)を見て市島町に入る。 天正年中:天下布武の織田信長命による丹波攻略の大将・明智光秀が荻野直正の氷上郡(丹波市)黒井城攻略に侵攻。攻略に応って築いた陣城に南方には金山城・ 柏原八幡城が黒井城の正面に位置する 茶臼山城・東面には小富士城がある。
正一位加茂神社

段宿城は小富士城後方・東北部に位置して白毫寺城長谷山城・岩倉城…等向城群の一を構成し、殊にR175号福知山から塩津峠越え、 R9号六人部から県道708号竹田川沿いの街道が合流する、監視と圧えに適した城砦地点として築かれたものと思われます。段宿城<仮称>の遺構については丹波志【篠山藩士:永戸貞著の桑田・船井・多紀三郡のうち多紀郡と
段宿城下段:最初の3-4段曲輪(切岸下には土塁空堀も!!)

福知山藩士:古川茂正の天田・氷上、其の子古川正路による何鹿郡】の 「古城部」氷上郡山東加茂郷の上竹田村宿に”民家の末申の林山の頂に少しの城跡あり城山という。何某の居か知らず。尾続きの南に御魂屋という古跡、 今は愛宕の小社を建てたり。此東裾に牛頭天王小祠あり…”とあるのが今回のトレースした古城「段宿城<仮称>」に応ると判断した。
上方に亥之神社主郭の切岸

郷土史誌や県・市の埋蔵文化財分布調査書…(市島町史実研究会の紙誌等を拝読する機がなく未確認)等・県・市による遺跡調査等実施されたかも不明・推察だけに始終する。 丹波志に記す所在:宿や地続きのは現在地図に確認できず地名の段宿を充てたが、登山開始口加茂神社・下山地点十万寺ともに 上竹田宮ノ下が所在地。R175号で前山(さきやま)川の架かる「八日市橋」を渡ると100m程先が”八日市”交差点。八日市交差点を左折して前山地区西北部の余田谷に向かう。
亥之神社曲輪・南(左)下へ小曲輪群が展開する!!

鴨坂・徳尾…等余田谷は中世・余田氏の発祥地。余田氏詳細?は上記余田城を参照願います。 天正2年余田左馬頭は荻野直正に攻められ落城し直正の軍門に下るが信任を得て家老職に就く。翌:天正3年明智光秀の丹波攻め「黒井城攻略」の第一回攻撃が始まると、 明智方に付いた波多野秀(八上城主)が陣を敷き翌4年1月の総攻撃には、黒井城から討って出る荻野・赤井氏軍勢に呼応して明智軍に反撃:明智勢を挟み撃ちした”赤井の呼び込み軍法”に圧勝したが、
段宿城(下城・愛宕社曲輪)主郭はほぼ円形曲輪

此の反撃の軍勢を整え出撃の準備をしたのが普應山十方寺(曹洞宗 石像寺末)で、第二回攻撃(天正6年)の頃には 明智軍の向城群の一つとなったていたものか?、この際に寺は焼かれている。余田谷への入口「八日市」近くの丘陵部には黒井城主荻野氏傘下に加わってからの 築城と思われる?城砦遺構があり、長い尾根続きに曲輪を連ねる。現:国道竹田バイパス沿い・塩津峠(福知山市境)・県道708号(竹田川沿いにR9号<山陰道>に出る六人部<むとべ>)方面からを監視出来る位置にあるが、
段宿城(上城主郭)

余田谷への通行監視等を意識した領主の城の縄張りではなく、堀切らしいものを見ないが 国道筋の塩津峠を望む北斜面にのみ幾条もの竪堀があることから 天田郡(福知山市)方面からの侵攻に備えた丹波勢の監視砦と思える。天正3年:明智光秀の丹波攻略第一回攻撃が始った頃、段宿城に丹波勢(守将として余田氏?等)が 詰めていたか?等の城史一切は不明。また余田谷入口を段宿城<仮称>が固めているが、其の谷間の奥にある余田城最後の城主:余田左馬頭(為家)は天正6年・嫡男余田半兵衛を黒井城に入れ、城兵の多くが半兵衛に従い 龍ヶ鼻砦の守備に付き、
段宿城(上城・主郭西切岸下の肩堀切)右端上り土塁・左は竪堀

余田城には左馬頭が篭るが孤立無援で落城している。さて前山の東部上竹田に:古くは十市・八日市・段・宿・宮ノ下・今中・十方寺・片瀬等10部落あった。現在地図段宿の「段と宿」がどこなのか不詳ですが… 加茂神社(加茂別雷命)に合祀されている神々には片瀬にあった八幡神社(譽田別命)…宿にあった厄神社(大綾津日命)・ にあった新宮神社(建須佐男命)・十市にあった興婦田神社(月夜見命)は農耕の神で、本地仏を虚空蔵と称していた。 廃寺となった虚空庵(虚空蔵 曹洞宗 石像寺末)は居館跡?だったか。
段宿城(下城:東端曲輪群の切岸と土塁堀切痕

宿と片瀬には城趾が在ったとあり、 片瀬には城主形瀬氏屋敷があり亀ヶ城とも呼ばれた…と。丹波志・氷上郡誌に記載はあっても文化財分布調査報告書等には空白地帯?。長い丘陵尾根沿いに築かれた段宿城<仮称>遺構は途中に150m程の緩衝帯?を挟んで上城 (十方寺背後224m:三角点峰)があり下城(加茂神社から愛宕社を祀る祠Ca165m峰)を分けて報告したい。
段宿城域は前山川沿い北の十方寺背後の丘陵上にある三角点峰を上城(山名が判れば城名としたい)。 東へ延び出す主尾根の最先端を加茂神社・上竹田公民館の裏手に落とす。公民館裏手から山道に入り、猪鹿除けフエンスを開閉する直ぐ先に3-4段の曲輪がある。最初の平坦地形(曲輪)に1x1.5m四方の石列を観るが、 丹波志記述の牛頭王子小祠跡と推定。
段宿城(下城・愛宕社曲輪からの北尾根。広い緩斜面に数段の曲輪?

其の上段曲輪切岸下には低土塁・浅い堀切跡もある。此の曲輪段に沿う竪堀状は此の先:亥之神社を祀る曲輪(愛宕社への尾根続き側北〜西面に切岸・帯曲輪・広い主郭部南端からは小曲輪群が…更に延びる尾根筋正面から愛宕神社を祀る下城主郭の曲輪に入るが北尾根側へ廻り込み一折れして斜上する虎口状から主郭に入る。下段主郭の愛宕社曲輪からの尾根続きは尾根筋に土塁痕を遺す二条の竪堀が北面に落ちる。
段宿城(下城:愛宕社曲輪からの北尾根から塩津峠への街道筋(R176)遠望

丹波志記述の古城部「上竹田村宿」の古城は此の愛宕社主郭までで、上城についてのコメントを見ない。主郭から延びる緩斜な北尾根は長く広い3段程の曲輪(自然地形?)。塩津峠に向かう街道筋 (R175号竹田バイパス)のスポーツピアいちじま 【全国女子硬式野球の甲子園とも呼べる大会開催場ともなる】・磐座を背にする石像寺(十万寺も当山の末寺)も正面に望む監視の適所。下段主郭(愛宕社曲輪)から西への尾根続き ・下降途中に2箇所・土塁竪堀が北の斜面に落ちる。此の先凡そ150m程の緩衝帯・急斜面が緩やかになると2段程の曲輪上方が三角点峰の上城部で15mx50m程の城域・北西へ延びる尾根続きには、
波多野秀治布陣の十万寺

主郭切岸下曲輪の西端を上り土塁虎口として残した片堀切が曲輪切岸下を北端まで延び竪堀となって落とす。更の其の城域西端?にも 竪堀が一条。三角点峰に戻り、此処から南へ下る山道(薄い踏み跡)の尾根筋は急斜面だが十方寺の屋根を真下に望むところまで下る。 2014年西日本豪雨災害の凄まじい甚大な流出土砂災害の爪痕は癒えつゝあるが、城域尾根筋南北裾にみる崩落跡と砂防ダムの多さが目立つ。
十万寺本堂:背後丘陵に三角点峰(段宿城上城)がある

十万寺の石段参道も流木類に埋め尽くされ、往時は復旧順位からも何時取り掛かれるか…目処も立たない状況だったよう。出口を探してフェンス沿い西方に進むと墓所からのフエンス・ゲートに行き着き 其処から里に降り立った。





前山の手向塚
(氷上郡山南町・玉巻城の落城悲話は此処 市島町の竹田川畔・前山の檀にもありました)
落ちのびる悲しい思いを知る由もない赤ん坊は火のつく様に泣きじゃくります。 「そんなに泣いてはなりませぬ…」乳母と母親が泣く子をあやしても所詮言葉も解らぬ子が泣き止むはずもなく。落ちぶれても気品高い母親の青白く燈んだ面に凛とした奥床しさがただよいその顔を伝わる白露の涙…それはあの思っても諦め切れぬ 玉巻城の落城の事などです。天正7年5月丹波各地の諸城を陥し入れ、その勢いに乗じた明智光秀の軍勢は遂に玉巻城にも押し寄せてきます。
(玉巻城は、お話と少し違って、明智の軍勢が黒井城を攻撃している頃、播磨側から 押し寄せる丹羽長秀軍の総攻撃で落城した)
勝算のない戦いとはいいながら源氏の流れをくむ身、なんで平氏信長の軍勢・明智の寄せ手が差し出す 降伏状を受容れる事が出来よう …と久下(三良左衛門太夫源)重治は遂に遺言を認め討死の決意を固める。
余田城(東ノ城)主郭南面から西面を囲む帯曲輪

「もはや今生の見納めじゃ千丸・彦作を頼んだぞ」「は…はい…」涙を拭った悲しい別れを告げてから 少刻…玉巻の城に押し寄せる明智の軍勢一万余が雪崩を打ってドッと討ち入り見る見るうちに 城は炎々と燃え上がり城兵250人と共に久下重治は悲壮な最期を遂げました。九死に一生を得て落ち延びた奥方と乳児を抱える乳母は 数名の従者に護られて道を急いでいた。 「おおっ…お城が燃え上がる…重治殿は…」その場にうつ伏す奥方の姿に乳母・従者共に胸を痛くかきむしるのであった。「千丸殿、これが玉巻のお城の最後でございます…」千丸を高く差し上げる乳母の手も力なく震え、 この仇はきっと返さねばならぬ…今はただ安全な所へ逃れるより致し方ない…と主従一行が疲れ切った足をひきづりながら乳母の生家・井桁氏と、地侍秋山氏に匿われて辿り着いたのが前山村上竹田檀(段)の辺地。その頃此のあたりは一軒の家もなく 追手に見つかる事もなく細やかな生活を送るには恰好の土地でした。玉巻城陥落の悪夢!!それは忘れる事も出来ない思い出です。 夫君の遺命を受けて長男千丸と共にこの地に落ち延びた奥方は、夫君を始め討死した将・士達の霊を慰めたいと塚の建立を思い立ち河原から石を拾ってきて、ささやかな慰霊の塚が建てられました。
五台山東南尾根のギンリョウソウは花開いているでしょうか!

奥方は二人の子が成人すると 尼僧になり墓地の傍らに鱗祥寺を建て生涯を終えます。廃寺となった鱗祥寺跡は林の中に残っています。奥方と二人の子を匿った井桁氏・秋山氏は後、久下氏を名乗ります。この塚は当時植えられたという四本の古樹と共に前山村檀に住む後裔によって丁重に祀られ、 栄枯盛衰を物語る先祖久下氏の遺物の数々は、御綸旨・感状・御判や巻物と共に久下姓のXXさん方に伝えられ、これら史実は東大史学室に資料として収録されているということです。
(丹波新聞社 「由緒を尋ねて」芦田確次氏編集昭和31年発行版 参照)
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