日内城〜虚空蔵山〜戸平峠/野村城/西山城館/岩倉城/長谷山城他
丹波市 地図(=福知山・篠山)
戸平峠〜日内城〜虚空蔵山〜戸平峠〜329m峰〜鴨庄小学校 H13年04月4日
鴨庄の案山子まつり会場から日内城跡
 モデルはオリンピック出場の福原愛ちゃん H16.8

近畿の山城:日内城  野村城 茶臼山城荻野館
         西山城館岩倉城 長谷山城(北村城)
丹波の由緒 野村断層

R175号線から県道59号線に入り鴨庄小学校付近を過ぎると田園風景のなか:夏期には種々の創作案山子が並ぶ。正面に黒井城の出城の一つ日内(ひがうち)城の山容と並んで 虚空蔵山(364m)の姿が望まれます。
岩妻峠から戸平峠に続く尾根筋巡礼尾は播磨・清水寺〜丹後・成相寺等を結ぶ西国巡礼道か?。天岩戸神話に関わる寺で元伊勢(大江町)から 伊勢遷都の際はこの峠を越えている。塩津峠を越え福知山に抜ける主要街道の他にもあったのでは?。 観音霊場廻り等の巡礼道は江戸時代中期:諸国に造られており、丹波国内でも丹波西国37ヶ所があり、この山域近くには岩戸寺があり福知山側の山田に越す峠は寺名の由来にもなっています。
戸平の小公園・奥丹波の美味しい水はもう出ない!!

前地集落から日内城への取付き ・谷間の奥にある正法禅寺に向かう。城址へ突き上げる尾根側の左手に石の鳥居と階段が見える厳島神社が取付点(PM1:35)。明確な踏み跡などは無いが・本殿裏の竹薮沿いか・石段を登りつめた左手から社殿上部へ 捲上がると直ぐ(2〜3分)尾根の良く踏まれた広い山道に出るが落ち葉が積もり過ぎてフワフワと足に力が入らず歩き辛いので道端の落葉の無い部分を選びます。この広い道は日内城跡の下方を巻きながら虚空蔵山の此処も 山頂直下をかすめて戸平峠へと続いているようです。コースが左手を巻きながら進んでいくようですので稜線に沿っての細い踏み跡に乗って稜上に出ましたがほんの120〜30m程で日内城(3等三角点 354m 点名:奥村 PM2:00)に着きます。山頂は差ほど広くも無く平坦でもなく、又周辺に曲輪や堀切等の城跡の様子を窺えるものは有りません。 天正期まで残っていた城にしてはお粗末ですので砦か京都側の物見・狼煙場なら分かります!!。
西山城館(中央)と左奥に日内城(点名:奥村)

山頂から 北奥か神池に下る消え入りそうな細い踏み跡が確認出来た。鹿の角を蹴飛ばしてしまいましたが尾根の片側(北奥側)は樫や栃の自然林、後地側は植林の続く尾根筋です。 引き返して暫らく降り坂で肩(鞍部)に出ると先ほどの広い道に合流するが直ぐまた尾根を外れていき、少し藪っぽいが踏み跡は明確だが倒木に悩まされながら進むと正面に祠が祀られる広場に着く。虚空蔵菩薩像が訪れる人も稀な山上に在って 優しいお姿で迎えてくれます。上下の蓮の連座落に鎮座した立派な像です。虚空蔵山(360mPM2:15)で、城跡からは、あっけない程早く到着したが、 この先左手下へ尾根に沿っての道はかっての参道だったとは思えないほどの急坂が続き、程なく何処からどのように通じていたのか広い道に合流して戸平峠に向かう。
休憩中の二人 ?(直ぐ帰ってきますの札と作業靴が残されて!!)

峠が近くなった頃何本かの古いが広い道と合流するが此れは、石灰石の採掘場があったといい 2箇所ばかり残っている採掘場へ続いているようです。程なく倒れ掛かった街燈が何本かある道が見える。祠を過ぎて何段かの石段を下ると小さな石組みの空井戸を見て戸平峠道に出た(PM2:30)。右手に草に埋もれた平地がある。 峠には二軒の民家が在り一軒は駄菓子等を売っていた茶屋(休憩所)で、もう一軒は採掘した石灰石から石灰を製造していたと云うが、何れも明治末には廃家になったようです。この峠を一番利用したのは農事のようです。開拓した土地がその村のものとなった時代、山を越え他領へ開墾に行くため通った丹波の古道は飛び地とはまた異なった不思議な県境を構成しています。 峠から直ぐ下方の戸平トンネル春日町側へ下りてみる。
鴨庄の案山子まつり H20.8.xx

既に配線も撤去された街灯が残る峠道を戸平トンネル公園(PM2:40)に下る。此処には隠れた名水「奥丹波のおいしい水/銘酒の里に名水あり」の石標があり井戸から電動ポンプで20g単位で水を汲み上げ 何度か戴きに来たが現在は封印されたまま。駐車場奥から再度戸平峠に戻りますが最初の街灯の立つカーブの端から尾根に取り付く踏み跡があったようですが私は峠に戻り50m程先の松茸山の小さな白い札の所から尾根に取り付き(PM2:55)左寄りに詰め上がり稜線に乗ります。320mピークを過ぎNHKテレビ共同受信施設の鞍部からは、やっと展望が開け三尾・高谷(こうだに)山・五大山 〜鷹取山のスカイラインが望まれます。
鴨庄の案山子まつり H16.8.x

この鞍部を上りきったところに4等三角点(点名:戸平 329m PM3:10)がある。山名を知らず展望も辿ってきた戸平峠方向だけだが、明瞭な道は戸平集落へ降りていくが、辿る稜線は藪尾根に続きます。踏み跡が途切れたが 左手に採って降ると青い工場(アルインコ)の屋根が見えるので安心していたが踏み跡も無くなり、工場横から岩妻峠に向う道とは谷を一つ手前に採っていた。谷筋には明瞭な道があり再度登り直して尾根に出て、確認の為辿ってきた コースに戻ってみると、なんと登り直して谷筋から尾根に出た2〜3分後には間違った分岐に出てきた。引き返して尾根 縦走を続けると、今度こそ正真証明!!??の工場から続く道と合流するがここは峠でもなんでもない。 しかし踏み跡は比較的ハッキリしてきたように思い登り坂に向う。雑木が目立つようになり、且つ右手奥に並ぶ二つのピークが気になり、 とにかく今日はあそこまで行ってみようと見定めて進み出した。
鴨庄の案山子まつり H20.8.xx

なぜか岩妻峠のこと、目印の石仏があることも忘れてしまっていた。結局は岩妻峠に向う踏み跡も確認せず素通りして京都府との境界尾根の無名ピークに向けて歩き続けていました。どちらのピークも展望の無い少し藪っぽく 県境尾根なのに切り開きも無く両ピーク間は5〜6分だが先のピークからは尾根筋もハッキリしない藪に閉ざされたようで 引き返す積もりでなかったら、何処から手をつける、いや足を踏み出してよいか迷うところだ。相変わらず地図無しなので 方向の確認も出来ない(PM3:58)本日は此処までと引き返す。工場横への道を後地へ下りるつもりだったが、またまた尾根を踏み出し間違って岩妻峠への分岐近くのジャンクションピークで西の尾根に出てしまったようで車の音が大きくなってくる。 谷筋へ降りそのまま下り続けてダートな林道へ出てやがて 正面に舞鶴自動車道を見る牧北の集落上部の村道へ 飛び出してきた(PM4:25)。 集落一番奥の民家脇には子授地蔵尊を祀るお堂があり近在では有名なようで何箇所かに案内版を見かける。歩き続けて鴨庄小学校前に出てくる。
”案山子まつり”会場から岩倉城(中央・民家西並びの 丘陵上果樹園)

旧59号線の集落内の道ですが昨年から改修され一般車道は集落の外側を戸平トンネルに向って延びています。 日内城跡と虚空蔵山が 西日に映えて輝いて見えます。振り返れば天ヶ岳が反対に黒い影を横たえています。中央には妙高山(丹波比叡)が大きな山容を精一杯に拡げて見せているようです。次回は岩妻峠〜観音寺山リベンジと岩戸 〜高谷山(横峰山 )を目指したいとの 思いながら戸平トンネル手前の駐車場へ急いだ(PM4:55)。市島町鴨庄「案山子まつり」が毎年8月に行われており、田圃や向日葵畑を 背景にして立ち並ぶ創作案山子は真夏の風物詩として地元で定着しています。2004年8月はアテネ・オリンピック開催年で卓球の福原愛ちゃん・サッカー・野球・柔道等オリンピック関連も多く、丹波市発足年でもあり新市章のシンボルマークも目立つ。
”案山子まつり”会場から西山城館と妙高山(中央奥)

今年(2008.8)北京オリンピック 開催中ですが、うなぎの産地偽装・年金やガソリン高騰等の世相を反映したものや、灌漑事業?周年記念での地元開拓名士の紹介や、阪名所だった筈の「くいだおれ」は閉店が決まると、 にわか人気のチンドン人形「太郎」が此処にも出張!!?、隣の野良着女性も場所柄・本物かと思えるリアルさです。向日葵畑と稲田に囲まれた農道には、炎天下のなか訪れる見物客が並ぶ数々の力作案山子の前で立ち止まり私評したり ・テーマについて談笑が続きます。


野村断層 丹波市春日町奥野村 ・惣山

R175で黒井を過ぎ春日インター手前・下野村から県道69号(春日栗柄線)に入る。 この道から栗柄峠から 鼓峠を経て京都へと[赤井の呼び込み戦法]による奇襲を受けて、黒井城攻めに失敗し天正3年(1575)明智光秀が撤退した道ですが、野村地区木寺にはその時落城した野村城があり、 西方には低いが目立つ端正な富士形の茶臼山の姿が望まれます。
野村断層

天正3〜7年 (1575-79)黒井城攻めで光秀が築いた陣城の茶臼山城が有った所です。野村城址の南方の惣山地区があり、茶臼山城の奥野村との中程に春日神社があり、其の背山に目的の野村断層が有ります。神社からは・ごく普通の植林の山の様ですが、数10m先の貯水池(新池)前の地区道からは、頭上に覆いかぶさる様に高さ30m急斜面に幅 20m程の岩壁が現れます。岩壁自体は断層の運動とは関係なく侵食によるものだそうです。岩の基部の岩窟や周囲に石仏等が置かれていますが、丹波市指定(春日町指定:昭和44年8月31日)天然記念物の野村断層です。
野村断層

嘗ては海の底…とはいっても 丹波の中央部は周囲の向山連山や 多紀アルプス全域をチャート層と火山灰の堆積による輝緑凝灰岩層が走っています。断層は地震等の地殻変動により生じた上下 ・左右に地層面がズレて、くい違いができたもので巨大な力を 受けた岩には亀裂が生じ、断層に沿って破砕帯がみられます。野村断層は左横ズレの断層であり、垂直成分はなかったことが断層面に残された条痕からわかるということです。
棚原城側から新池を挟んで望む史跡:野村断層<

断面層はチャートからなり、 走は南北線より26度西に向き、傾斜は65度東へ傾いている。破砕帯の幅は 20m以上で美しい鏡肌をもち断層面の南西側につづいている。その部分は著しく 破砕されているが粘板岩・砂岩からなる。この部分は脆くなっており激しく侵食された結果断層面があらわれたものである。断層の運動量は不明だが、破砕帯の幅からみるとかなり大きいと思われる。 <春日町の文化財より>
史跡:野村断層前の新池東へ続く断層崖(点名:棚原側)

野村断層は 向山連山の北山裾の茶臼山付近から県道69号線(栗柄峠を経て篠山市へ・鼓峠を経て園部 ・亀岡方面に通じる)側の春日学園(特別支援学校)へと黒井盆地の南端を走っています。北方からは緩やかな小さな小山が田園の広がる長閑な風景の中に連なっているだけですが、陵部の西・南側は断層崖を露呈した自然の要害地形。黒井城攻めの陣を敷いた 茶臼山城の西には北近畿自動車道工事に伴う土採りで消滅した火山城が、東には古池を挟んで野村断層の上に築かれた惣山城、さらに新池を隔てた
野村断層史跡指定地の丘陵北西末端の断層崖上に惣山城がある

東側の断層崖上の空洞には大峰講の荒廃した祠が建ち、稲荷社が祀られますが、 此の小丘陵山頂(4等三角点:棚原)にも城砦遺構【棚原城<矢継ぎの城の伝承が残る尉ヶ腰城が棚原地区にあり棚原城とも呼ばれる様です。 奥野村と棚原境にある此の山城に適名が見当たらないので点標名の棚原とします>】が残り、狭い範囲・横一列になって北方の黒井城を窺う光秀軍の向城群が並んでいたのでしょう。
野村断層史跡指定地から 新池を挟んだ東側:棚原城側尾根先の断層崖

篠山側・佐仲ダムからは鏡峠を越えて春日町へ通じる旧街道があって、佐仲から登り始めて直ぐ 鏡石や鏡岩があって、硬いチャートの断層面には特有の鏡肌が見られます。佐中には自分が違う人の顔に映ったとか、映らなかったとかいう鏡岩伝説が残っています。 鏡峠の名もこの鏡岩から来ています。氷上高校西隣の兵主神社にも同様の鏡石伝説が伝わり、佐仲峠を篠山側に降った小坂集落にも 明月神社の断層鏡肌が、神社本殿背後に屏風を立てたように岩面を露呈しているのが見られます。


日内城 野村城茶臼山城  荻野館西山城館岩倉城 長谷山城(船越城)

日内城(日ガ内砦)    354m    丹波市市島町 鴨庄

日内(ひがうち)城の山容と虚空蔵山を望みながら取付き点となる山麓の正法禅寺を目指します。戸平・草山を眼下に望め、砦の規模は小さいながら京都府側の千束 ・荻原から丹波市<旧氷上郡>に入る口を押える 黒井城(赤井直正)の支城群の一つで、家臣高見対馬守の下臣小畑孫左衛門が築いた日内城は京街道(国道9号線)の福知山市・荻原や天田郡 ・千束から進攻してくる敵を防ぐ要地ですが、規模は極めて小さく僅かに残る山頂 (354m)の台地もさして広くは無く曲輪や堀切跡等も確認出来ません。保月城 (黒井城)の出城として又は規模からして砦として機能していたとおもわれます。 天正期には黒井城の臣高見対馬守が守っていたが天正6年(1578)12月に丹波攻めによる明智光春と藤田伝吾行政の軍 500によって攻められ岩倉城と共に落城しています。
日内城跡(右)と虚空蔵山(左奥)

天正6年(1578)2月中頃・黒井城主赤井直政は病に臥せっていたが丹波攻略の光秀が亀山城(亀岡市)を立ち西進をはじめ、道々の城塞を攻略しながら八田 (丹波町と瑞穂町付近で毘沙門山〜雨石山〜櫃ヶ岳山並を173号線で篠山側から越した辺り)に到着したとの報告に、直政は赤井喜兵衛を呼び宮津にいる明智光春の軍も必ず南進してくるだろうから日内城主高見対馬守の家臣・小畑孫左衛門の 援軍の依頼も有り助勢するよう頼む。敵軍押し寄せるとすれば500と下らないないだろう。「たかが小城、支えおおせる事は出来ないが、たとえ一刻でも支えたい」との思いで赤井喜兵衛は手勢を率いて日内城へ助勢に赴いた。 直政の訃報が密かに伝えられたのはそれからしばらくたった3月9日のこと。その極秘が光秀に探知されるところとなり天正6年12月18日光秀の命を受けた光春は、その日宮津を発ち翌19日福知山に着いて軍議を開き、小野木重勝を将とする一隊・300人は 市ノ貝〜上鴨坂を経て白毫寺道を・・・二隊・1000人は明智光春を将として竹田・市島を経て黒井道を・・・・三隊・500人は藤田伝吾行政を将として千束街道を経て鴨庄・神池寺道を南進することとなり全軍が進発を始めたのは21日の明け方。 大軍を前にして力の限り良く防いだが多勢に無勢、遂にその夕刻には日内城・岩蔵(岩倉)城の二城は相次いで焼け落ちた。
(鴨庄村誌を 参考)


西山城館     西山 149m   丹波市市島町北奥岩倉

R175号線から 戸平峠を抜けて京都・三和町への県道59号線を走ると、妙高山から延び出した枝尾根の稜線が鴨庄小学校からは、南方を東に向って延びる尾根が 其の末端を鴨庄川に落としているのが見えます。其の東奥に盛り上がっていく日内(ひがうち)城と虚空蔵山の峰が戸平峠を越える京都府側との境界線です。 【しかし実際は峠を越えた 戸平地区も春日町の不思議スポットで理由は山レポートで簡略説明しています(^^ゞ】
西山城館と遠く妙高山

県道 59号線を右折して南方の神池寺へ向かう 田園風景の中を、真っ直ぐ延びていく道と正法寺への道周辺は毎年・種々の創作・案山子が並ぶ”案山子まつり ”の会場となっているところです。天正6年(1578)12月・波多野氏の八上城を取巻き、丹波黒井城の周辺の城砦群をひとつひとつ落としながら迫る光秀軍の一隊で、 日内城を落とした明智光春と武将・藤田伝吾隊は余勢を駆って岩倉城に攻め寄せます。
西山城館本ノ丸


少ない記述を手懸かりに其の岩倉城を探してみるのですが、城域を調査された報告書等が探し出せずに不詳のまま。現時点でも未だ岩倉城の位置が判らず神池(標高172m)より低い120〜130m付近を城域とする丘陵が所在地の北奥地区に見当たりません。 標高は少し高いが地区内の車道が神池寺と神池を分ける分岐へ派生してきた、丘陵の尾根末端?だと仮定してみますが 畑地の上一帯は私有林のようで立入りがたく、この時期は藪のうえ暑過ぎて城の位置が再確認出来るまでオアズケです。鴨庄川に沿って岩倉城(正法寺への分岐付近から 正面に見える丘陵末端部を仮定して)と神池寺に向かう北奥の西側に連なる低丘陵の北末端部が鴨庄川に 落ち込む突端部の峰(西山4等三角点 149m)頂部に西山城館が在りました。
西山城館堀切(南の尾根側から)

丹波市から京街道(R9号線)への最短距離にある戸平峠を目前にして、日内城と共に要衝警護していたのでしょうか?。其れとも奥に控える岩倉城への北方の入口を護る出城的存在だったのでしょうか?。 鴨庄川を渡る橋が岩倉橋なのですが、岩倉城は空掘りを廻らせ虎口には横矢掛けの折れや土塁の張り出しが有るようです。また天正期の落城後に 京都丹波側の城主が改修して入ったものか、陣城的に使用されたものか?いずれにしても大幅に改修されている様子からは、兵庫丹波の城主の城とは思われません。
西山城館堀切(主郭側から)

しかし北奥集落から谷を挟み西南方向に位置する西山城館遺構は、日内城と岩倉城の狭間で其の存在さえ城史からは見えてこないが、西山 (標高149m)の山頂を主郭にして尾根上に堀切や、小さいながらも曲輪・帯曲輪、数段の小曲輪を並べています。主郭部の南西端に祠が祀られており北側から参道が通じており、主郭直下には高い切岸を持つ帯曲輪が有って参道から入れます。 最奥部から主郭から続く尾根南部の曲輪に出ると土橋付堀切(幅約5m・高さ約2m程)となり左右に竪堀となって延びる西側は 帯曲輪の外側を遮断しています。 参道に沿っては、帯曲輪下にも小曲輪が3〜4個段差をもって並び急斜面をそのまま民家裏に降り立ちます。主郭部の祠の尾根側(南)へは70cm程の土塁 ?の段差を越え平坦地を20m程で土橋付の堀切に出ます。
主郭への参道右手に小曲輪が続く

堀切から南へは自然地形の細い平坦地が有って 一気に高さ7〜8mの崖上の堀切に滑り降りる。東側も急で真下に鴨庄川が山裾を流れている。堀切を抜けた左右(東西)には山腹を縫って犬走り状の棚が延びているが、土砂災害に対しての治山工事の跡らしいが、大堀切だけは・治山として 行き場も無い通行の為に大きく尾根を切り裂いたとも思えず城遺構かと思えた。最奥の民家(3〜4軒しかないが)から下草で足場の見えない藪を抜け 南峰との鞍部を目安に進めば西側の土塁状の棚に出て 山腹を廻り込むように堀切に出てくる。 此の大堀切から南へ延びる尾根上へは三方とも急峻で、尾根上も緩やかな登り一辺倒の山道で城域からは離れるだけ。
主郭下の帯曲輪と高い切岸

城域は大堀切より北端の峰にかけて、天正期初期まで黒井城方の城館として使用されていたと思わます。
西山城館こそ・むしろ日ヶ内城と共に落城した伝承の岩倉城で、後日訪れた岩倉城はその後・明智方の手により新たに織豊系陣城として築城されたものでしょう。死角となる日ヶ内城 ・戸平峠側の監視・妙高山神池寺と 栗柄峠越えの道と繋がる三井庄への通行監視所として岩倉城の付随施設・北口の護りとして西山城館跡は使用されのでしょう!。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書分布地図 氷上郡教育委員会を参照)


岩倉城
  Ca130m  丹波市市島町北奥岩倉

丹波比叡と呼ばれ僧兵を擁した古刹神池寺(天台宗)は、鎌倉時代末期の源平騒乱では平重盛が妙高山神池寺に逗留し、 元弘元年(1331)後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を図ったとき、重盛も神池寺で義兵を募り、源氏方の土豪と戦ったとの伝承があります。後醍醐天皇は笠置山に逃れたが敗れ隠岐に流されます。幼くして出家し比叡山に入り尊雲法を名乗って天台座主にいた大塔宮(後醍醐天皇の第三皇子)は楠木正成の赤坂城へ逃れたが此処も落城し、さらに熊野へ逃れた大塔宮は「護良」と名を改めます。後醍醐天皇は翌:元弘2年 (1332)再び挙兵。
子安堂・馬止め桜から西山城館

還俗した大塔宮護良親王には 伊勢・吉野・熊野の豪族が守護に付き元弘3年(1333)4月:護良親王は比叡山や神池寺の僧兵を纏めて六波羅を攻めるが、敗れて丹波へ退き神池寺に籠もったとの伝承があります。神池寺は幕府打倒の戦勝祈願と義兵を興す等丹波での中心的存在でした。この時は鎌倉から兵を率いてきた足利高氏が、後醍醐天皇方へ寝返って、鎌倉幕府は滅亡し後醍醐天皇による建武の新政が始まります。
子安地蔵堂南の丘稜が岩倉城

護良親王は自ら後醍醐天皇へ要請して征夷大将軍に任ぜられましたが足利高氏(尊氏)との 対立を深めて捕えられ、鎌倉に幽閉され建武2年 (1335)足利直義方によって殺害されます。元弘年間(1331-34)神池寺は既に創築されていたようで、防御陣地として妙高山から北へ派生する尾根上の点名:日ヶ奥から東北へ裾を延ばす枝尾根末端の小山 【此れが岩倉山だろうか?点名:西山(西山城館の位置)ですが、知り得る資料に西山城館は出てこないので此処で云われる】岩倉城が築かれたと思われます。
なを神池寺には明治期まで護良親王の鎧が寺宝として伝えられていたが 三千院(京都大原)の要請で鎌倉神社へ奉納され、同神社の神体となっているそうです!。この南北朝期頃岩倉城主には四国三州城主尾松(小松)氏が来住し岩倉城を居城とし尾松五郎左衛門・二代目に民部太夫・三代目に又左衛門、弟に尾松民部太夫が居たが 此れより帰農したといわれますが、岩倉集落に尾松姓は無い様です。其の岩倉城を探すのは地元の人に聞くのが一番かも ? 今まで散々「…そんなところに城砦が在ったなんて聞いたことも無い…行っても良いけど何にも無いよ…」の回答が多過ぎた。
曲輪を取巻く空掘と切岸(北東面)

再度訪れた上記の西山城館でも、此の山の持主さんに入山許可をもらったが「上には祠が有るだけ…」と城館跡との認識は有りません。教育委員会による史跡調査があった筈ですが?。 しかし岩倉城の所在はご存知でした。話に聞いているが未だ行って見たことはない…と指された場所は僅か100m程先・比高20m程で、畑地の奥一帯が栗林の中。 しかしこの位置では日ヶ内城は山を背にして見えず、西に長谷山城・畑山城館・矢谷城館が見える程度。 なを西方の山影には明智軍の向城小富士山城があり、岩倉城は其の遥か後方にあたります。
曲輪を取巻く 空掘と切岸(西面)

数軒の民家の外れ・岩倉城北側約50mの地区内車道側には小さな「子安地蔵堂」が有り、脇には桜の木が植えてある。 馬止めの桜と呼ばれた古木が有ったが此れは其の後に植えられた二世という。戦乱続く時代・戦いに敗れ逃れる一団の将が、岩倉にさしかかった此の堂の前に咲く美しい桜に見惚れ、暫しの休息をとったところから”馬止めの桜”と云うようになった話が 伝わります。東方約150mにある比高40m程の小山・西山城館を正面にして建てられています。其れにしては岩倉城の位置は山麓の戸平峠を越える交通の要衝にはあっても、周辺の監視や防備に劣る高台の平地にあるだけ。往時の城砦の位置からも 合点がいきません。おそらく上記の認識のある妙高山から西に延びる丘陵の尾根先に有って、戸平峠を越えて京都府天田郡三和町側から通じる要衝監視には、街道側に有って見通しの良い西山城館(上記に記載)がピッタリ岩倉城の位置説明には 合っています。ところが此処は天正6年(1578)12月・丹波黒井城攻略に、天田郡千束から戸平峠を越えて迫る明智光秀軍の一隊で、明智光春と武将 ・藤田伝吾行政が率いる兵500が、黒井城支城群の一つ日内城(日ヶ内城)を落とし、そのまま近くの岩倉城にも迫ります。
曲輪を取巻く空掘と切岸(北東面)

伝承では此の時の城主は日内城の指揮を執っていた小松友直は、城に火を放って脱出し黒井城に入ったとも云われます。何度も繰り返しになりますが西山城館こそ 天正期に落城した岩倉城であり、その後”黒井城攻め”の向城として、新たに岩倉山〜西山丘陵を背にした低い台地に築城されたのが現:岩倉城と考えたいところです。 岩倉城には数段の折れを伴う織豊系縄張りの虎口と、空掘りに囲まれた 2段ばかりの方形曲輪が有り、此の岩倉城が尾松(小松)氏の”掻き揚げの方形館なら、明智勢による向城としての改築も考えられ、詰め城として背後の山へは 堀切道を経て西山城館(岩倉城?)に入れます。天正6年(1578)一度 は八上城波多野氏との 共同作戦で赤井軍に追い返された明智軍ですが、その後:大群で用意周到に 周囲に城砦を攻め落とす、優位な展開では険しい山稜に城砦を築く必要は無かったかもしれません?。
曲輪を取巻く空掘と土塁(西面)

ものの本には遺構は残っていないとされていますが、2〜3段30u程の広い曲輪があり、広い方形曲輪のほぼ三方を囲む様に廻らされた空掘りがある。空掘りの南から西に回り込んだ辺りは掘・切岸高く、下の段から斜上する溝が 上部曲輪に出て、張り出した土塁曲輪や本郭部側から横矢掛けも可能な2〜3段階の”折れ”を伴う虎口の袋小路状態を抜けて本郭部に出ます。此の枡形遺構が石垣造りなら城郭フアンにも知られる存在になっていた事でしょうが…。
(丹波戦国史 ふるさと市島の祠堂:市島町史実研究会編等を参照)


長谷山城(船越城・北村城)  長谷山(安世地山) Ca185m   丹波市市島町鴨庄喜多中地

R175号の市島町役場前交差点を右折して京都・三和町へ抜ける県道59号(市島和知線)に入ります。 直線道路の正面には三ッ塚廃寺から天神〜梶原地区にかけて延びる低丘陵を左右に分けて、その尾根上には 谷城館・畑山城館が在る。車道は其の丘陵裾を抜け喜多地区の公民館西方の山裾に目印の銀杏の木と・側に5m四方で入母屋造り ・瓦屋根の「ハゼ山観音堂」がたつ。氷上郡内霊場三十三所・二十四番札所になっており「鴨野庄村誌」には 長谷山円剛寺仏外堂が此の「ハゼ山観音堂」に比定される。
観音堂と長谷山城

堂の背後:安世地山 (あいぜんやま)に長谷山城(北村城・船越城)が在って城主:船越氏開創の円剛寺が観音堂として守り継がれてきたものと伝えられます。付近には庵屋敷・番屋敷・山中には石仏等が転しており、北方には延享4年(1747)萬州大和尚を開基に 草創された徳本庵が有る(未訪・未確認)。「丹波志 」にも【藤原家工藤氏族・入江維清(これきよ)の子船越維綱の子孫にあたる】船越善阿弥入道が居て 天正年間(1573-92)以前【「丹波史年表」には永禄7年 (1564)10月!!】に落城して討死したと云います。
長谷山城主郭と櫓台土檀!?

築城の経緯や時期・城主や船越氏の落城以後について城史は不詳ですが、天正年間以前の合戦なら守護代内藤氏による赤井氏への侵攻が考えられます。天文年間中期以降(1545-50)頃、三好長慶が管領:細川晴元を押さえて台頭し、京都の実権を掌握する 勢力をもってくると丹波では、晴元方の八上城(篠山)波多野晴通・黒井城の赤井時家と、長慶方の 八木城(船井郡)内藤国貞・横山城(福知山市)塩見利勝・(青垣町)の 山垣城:足立基則・沼城 :芦田上野介光遠等の対立が激化して天文18年 (1549)八木城の内藤国貞が黒井城の赤井時家を攻め、三好方の塩見氏が内藤氏と幾度か赤井 (荻野)勢力内に侵攻しいる。塩見氏と同族の船越氏が此の頃・敵方の領内に城砦を築いたものか?。
南郭(出曲輪 )背後の土塁と堀切

塩見氏が戦国時代初期の短い期間 :船越善阿弥入道と共に北村城(長谷山城)を居城として活躍したとも云われますが!!?。この地を一時期横領していた時期があったものか!!?その後・三好氏勢力の衰退で 内藤氏も奥丹波から撤退していく時期に黒井城:荻野(赤井)氏が京都丹波の何鹿・庵我・曽我井・六人部辺り(現在の丹波市と福知山や綾部市境界)に勢力 ・領地拡大するが、この地の国人領主や船越氏の動向等詳細は不明です。
畝状竪堀上部の土塁曲輪から待ち構えて狙い撃ちが・・

此の城についても此の城を舞台にした戦闘記録も?今のところ見当りません(未調査)。其の戦いとは、天文23年(1554)朝日城主荻野才丸(直正)が黒井城主荻野伊予守秋清を刺殺し黒井城主となり、翌年:弘治元年(1555) 香良合戦が起こります。この合戦で三好方の応援を受けた芦田氏・足立氏に与力して、城を出て五台山北の鴨坂を越え香良に向かい、赤井氏との戦いに討死したとも思えます? 領地を持たず突然の築城は天文年間初期 (1532-)八上城主:東の波多野氏に対して、西の波多野氏とされた初代城主:波多野宗高(架空の人物か ?)の霧山城(氷上城)と同じで疑問の残るところです。
等間隔で6条(内なんとか3本!!)の畝状竪堀が南下へ落ちる

管領:細川氏方の家臣にも淡路に船越氏や丹波には足立氏・塩見氏が波多野・荻野・赤井・久下・中澤 ・荒木・籾井氏等が名を連ねています。 丹波守護・守護代との複雑な関わりや、時代背景・遺恨・因縁まで調べていかないとわからないのですが、内藤氏VS三好氏と丹波の三将:波多野・内藤 ・赤井氏間での勢力闘争で敗走したか滅亡したか、夫々勝者に組み従ったのでしょう?

土塁曲輪と背後の曲輪間:左右に落ちる大竪堀


福知山から塩津峠を越え・六人部からは竹田川沿いの分水界沿いに黒井へ入る街道筋がある。三ッ塚廃寺から天神〜梶原地区にかけて延びる 独立低丘陵の尾根上に矢谷城館・畑山城館及び其の南西1kmには黒井城攻防では水源を巡る逸話があり・明智の向城”一夜城”の伝承地 小富士城がある。更に小多利城館等の黒井城砦群が続きます。しかし 友政城以外は 畑山城館に大きな堀切が見られる程度で、いずれの城館も気付かない程に埋もれ浅くなった堀切や、 僅かの平坦地形が尾根上に確認出来る程度 ・・?そんな中・城館遺構の目立たない矢谷城館の最高ピーク188mから南へ延びる短い尾根先の峰 ・黒井城からは畑山城館や小富士城の死角に隠れる様に長谷山城(北村城・船越城)がありました。
曲輪両端の竪土塁(土塁道)が曲輪を繋ぐ

長谷山城の位置からは京都側の三和町から戸平峠を越えてくる、明智勢が日ヶ内城や岩倉城を落として 侵攻してきた京都街道沿い、福知山方面からは古刹:岩戸寺へ抜ける巡礼道・間道が有ったか?これらの街道が眼下を通ります。この城が日ヶ内城・西山城館(?岩倉城)と共に黒井城支城群の一つとして東口を守備した城だったかは、周囲の城とは大きく異なる 縄張りからも疑問です。在城期間は極限られた短かい時期だった様なので、城の縄張りや規模からは・其の後も天正期にかけて 誰かが居城して改修 ・修築が続けられてきたものか?。丹波志に天正期の合戦に船越氏は討死とあるようですが、此の城での合戦とも思えず、船越氏が明智方か黒井城:赤井方にいたものか?も不明。
曲輪間の切岸は高い (約5m程)

尾根筋に梯郭式に曲輪を並べ主郭部付近に帯曲輪は有るが、尾根端まで削平されて 左右の下部に曲輪は無さそうです。山城裾の近在に船越姓の家は無いが 善阿弥入道直系の後裔・所縁の方がいらっしゃる様です。麓には高見姓もあり、私には船越氏が退いた後最後に残った城主高見氏の時に落城を迎えたものかと・・?天正6年(1578)12月「丹波攻め」明智光春と藤田伝吾行政の軍により 日ヶ内城・岩倉城が共に落城するが、岩倉城には織豊系の縄張りがみられると云い、京都側に通じる戸平峠の通行を押さえ・監視する明智軍の黒井城の向城として 再構築されたものでしょうか?。低丘陵の長谷山山頂 (安世地山Ca185m)から尾根の末端近く、観音堂背後の真上には尾根端から1m程の段差で10mx30mの平坦地が続き、 山側の段差を越えると自然崩壊なのか人為的に片側を削ったものか?斜上する土橋状の尾根筋を登り続けていく。
主郭櫓台!?の残置石材?

堀切らしい所もあったが(上部に削平地らしいものは無かった)、竪堀が現れた。直ぐ前方に南端の土塁囲み曲輪の切岸が迫る。竪堀は5?6条が4〜5m間隔で幅2m程・長さ約30m程で平行に並ぶ見事な畝状竪堀となっています。 「丹波志」に船越入道の館が有ったと記され、「ふるさと市島の祠堂」により長谷山城の位置が判って訪れてみたら、何ともすばらしい畝状竪堀です。 丹波でも極一部に残る山名氏の城や、八上城向城として築かれた織豊系の陣城に畝状を見ることが出来ますが、丹波市内(旧氷上郡)に竪堀・其れも6本もの竪堀が畝状に並ぶ山城が存在する例を他に知らない。
主郭の背後に待つ大堀切と高低差10m程の切岸

高橋成計氏の調査縄張図の 白毫寺城にも6条以上の畝状竪堀群の存在を知ったが、さらに切岸高い上方の南端曲輪も尾根続き背後を除き三方を土塁で囲に、曲輪からは南斜面の畝状竪堀を上から全て見通る。 中村城(北桑田郡美山町)の放射状竪堀を思わせます。侵入してくる敵勢の横移動を阻止し、しかも高い上部の土塁付きの曲輪から各竪堀を見据えて狙い打ち出来る防備は完璧。此の曲輪から次に上段曲輪の尾根側付根?左右には其々に竪堀が一条落ちる。曲輪西端を上り土塁が背後の曲輪に回り込むように斜上しています。 高い段差(5〜8m)を越えて現れる4〜5段の曲輪は、いずれも尾根端一杯に広く丁寧に削平されています。
主郭北背後の二重堀切を俯瞰

其の為上部曲輪は竪土塁により上段の曲輪に繋がっている様です。ほぼ直線上の尾根筋に曲輪を連ねる梯郭式の城で、山頂部主郭西北に2mx3m範囲に残存する石材は城の守護神として愛宕や秋葉社等を祀った祠跡なのか、 また段差2m程の最高地点の低土檀は櫓台か?。櫓台からは尾根続の一段低い曲輪からは8m程の高く急な切岸を下って大堀切の底に降りる。更に土塁を挟んで先にも一本の浅い堀切が有って 最近の丹波の山城訪城では久しぶりの二重堀切に逢えた。長谷山城の城域は此処までの様で、後は緩衝地形の緩やかな尾根筋が続くだけの様。188mピークを最高所に北から西へ弓なりに延びる尾根上に散在する矢谷城館のある主尾根に続いています。
再度・畝状竪堀を見て下る

其の先まで今回確認しなかったが、 北からの尾根通しに2重の堀切だけでは防備が弱いが、本拠 :黒井城赤井氏側にとっては、京都三和町へ抜ける戸平峠への重要な監視と防禦の拠点となっていたのかも知れません。明智軍にとっても京都丹波側に残る黒井城:赤井氏方の援軍や八上城:波多野氏方の動きを監視する為には有効な城砦として転用されたとも思えます。

(丹波戦国史 ふるさと市島の祠堂:市島町史実研究会編等を参照)


野村城(野村居館)   丹波市春日町野村字木寺城の内

R175号春日ICの西:野村交差点から集落に入り、キョロキョロしながら春日中学校前へ出た。実は場所が分からず野村城 =野村で探していたのですが・・・学校の南へは田園が拡がる平地なのに惣山の地名があり”惣構え?”の城域に関連が有るのかもしれません。此処は県道69号(春日栗柄線)で国領〜栗柄峠を経て 篠山市や京都・三和町へ通じる道で、 天正3年(1575)丹波攻めで
南東角からの土塁線と田の中に櫓台:正面に茶臼山城

黒井城を攻めていた明智光秀が八上城主・波多野氏等と、示し合わせた[赤井の呼び込み戦法]によって命辛々京へ逃げ帰った街道です。 赤井 (荻野)直正の黒井城を北方に望み、弟・赤井刑部幸家が拠った三尾山城が街道(県道69号)に沿って 東に延びる東多紀アルプス山稜の頂に有ります。
北東隅の土塁虎口跡


二つの山城の中程に位置して掻き上げの野村城 (土塁で囲まれた水田と神社を取り込んだ城域の東西約70m・南北に約85m)が在りました。。集落内の外れ;城域の北西部端に木寺公民館と八幡神社(城の守護神を祀ったものか!)が有る。 前方:溝も川も無い民家と田圃を隔てる境界の畝が異常に高く3m程もある。土塁と濠跡が続く南西角付近には約10m四方の土壇が有って櫓台跡と思われます。
東面の土塁と濠跡(北角付近に虎口


黒井の本城に向う北東角付近には大きな凹角部が有る。土塁幅も水濠(民家との間の畑地)の幅も広くて、深く切れ込む様に入る虎口・門?!!(本来なら大手虎口・門でしょうが北は鬼門の為、 現在:石燈篭が立っている南側か、北西の木寺公民館・八幡社の建つ辺りに大手門が設けられていたのでは!!?、残存する土塁の北面も八幡社近くの竹藪部分が少し高くなって、 警護を堅めているように見えます!!。黒井城側に有る北側の鬼門を避けた西口が実質は大手だったかも。内掘・外堀と二重環濠に囲まれた掻上げの城館が有ったといわれます。外堀は埋めら水田になって遺構は確認出来ないようですが、内掘からはおよそ其の規模状況が 確認出来ます。
野村城・南東角土塁

広い方形の台地(田圃)を囲む土塁!が北側の神社から 東の集落に沿って南側へと続いている。 農耕地として削平され土塁の高まりに濠跡等の縄張りを想定してみます。田園の拡がる南側を走る車道に沿って 堀ともなる川がある。車道と民家のある東側の角(辻)には 不動尊や地蔵堂の祠が建っています。比較的狭範囲に祠が建つのも珍しい。(少し無理があるかもしれないが)条件が揃ったので此処を野村城と仮定して?話を続けます。
南西角の土壇:櫓台跡?

大峰講の役行者と前鬼・後鬼を浮き彫りした記念石碑が 建つ前から集落を抜けた所に公民館が有り神社が建つ。東面の車道に沿う濠跡と大土塁が、北角から西へ延び 竹藪となっている高土塁の続き・城域内の北西角付近には子供の遊び場ともなっている小社(八幡社)が建つ。城主の守護神として八幡大菩薩を祀ったものか!。 此処まで高さ約3m(八幡社:公民館近くの竹藪は約5mと高くなっていて、居館の大手ではと思わせますが!!?)の土塁遺構はほぼ完存していますが、南面の土壇と濠の一部が残る以外は、西面は圃場整備等で破壊されているようです。
野村城・東側土塁と濠(右上方に土壇・櫓台?)

深い溝は濠跡なのか? 多くの小山や丘陵に囲まれた山間の兵庫丹波に僅かでも遺構が確認できる平城は珍しい存在。 【篠山市には大山城・丹波市は、芦田頼季の栗住野城(青垣町)や其の芦田氏の分家である(?<参>赤井家系には現:二系図が伝わり、信頼性が薄い??が赤井氏先祖を芦田氏とするものがあります)赤井家清の 屋城(氷上町)や黒井城主・荻野秋清の時!!?野村城をと其々に平城を芦田一族が築いています。 居館と山城セットの小規模な城(居館)なら探せば幾つかは有るでしょう!!・・?】野村城の創築時代や城主・野村氏についても不詳ですが、応仁の乱前後の築城と推察されています。
野村城・南東角の土塁と水濠跡

「丹波志」には室町時代後期の永正年間(1504-20)野村(藤原)出雲守家長(長久!)が修城し2代目:野村信濃守家久へと続き、 天正3〜7年の三代目野村伊予守太郎兵衛有久の時に落城したが中世の典型的な掻上げの城館・野村城は黒井城主:赤井(荻野直正)の台頭とともに、その傘下に配され支城として、但馬・丹波 ・京を結ぶ街道の要衝に有って機能したのでしょうか。 農耕地となっているが土塁等の遺構が残るとは聞いていました。土塁の続く南側の西端に7〜9m四方・高さ70cm程の土壇 (土塁の残欠か?)があって櫓台跡とされます。 鬼門の北側を避け、南側を大手としての物見櫓だった様です。最後の城主・野村太郎兵衛有久の時、 天正3年(1575)明智光秀の丹波攻めでは朝日城 三尾城でも合戦があり、光秀は撤退しているが此の時の戦いで野村城は落ちた様です。
野村城・南面の水濠跡と南東角の土塁

天正7年(1579)の黒井城落城頃まで持ち応えたかかどうかは、僅か300m程西には光秀が黒井城の向城として築いた茶臼山城や棚原城・惣山城 ・火山城等の付城群が在り、黒井城落城まで存続したとも思えません・・!!。赤井の黒井城・波多野の八上城共に主城を囲む狭範囲内に多くの砦城があるのは、”霧深い丹波”にあっては通信手段に狼煙が有効とはならず、旗や鐘・太鼓でも連絡が取れる ”知らせの城”の中継地点としても機能させる必要があったのかも知れませんが・・・。


茶臼山城   茶臼山 188m     丹波市春日町奥野村

野村城の西方に荒々しい山容を見せて聳え立つ向山連山を背にして、こじんまりと小さな”おむすび”状の 小山が見えています。野村地区のほぼ中央にあって此処から北方約2.5kmには遮るものも無く、其の北正面に 黒井城を望む比高約70m・周囲1km程の小さな独立丘陵の山頂部の4〜50m四方に曲輪と土塁・上り土塁の遺構を残しています。
茶臼山城と千丈砦〜黒井城の遠望

登路を北面の萬松寺 (当ページの下方に萬松寺と 丹波佐吉の地蔵尊について掲載)駐車場からとして、山頂部へ通じる山道は無いので(南の採石場側から尾根通しに踏み跡が有る事が下山時にわかった・・)、 羊歯類や倒木、疎林の急斜面に足をとられがちですが・直接取り付いて適当に山頂を目指します。 山頂部が見えてくると斜面下方からも曲輪の切岸状況も明確です。
主曲輪の西ー北面帯び曲輪?(段差のある腰曲輪を並べる!!!)

3〜4mの切岸で2段の帯曲輪に囲まれて最上部は ”への字”形に延び南背後!にも一段低い曲輪がある。 土塁や堀切・竪堀等の防備施設は無さそうですが、 各曲輪は丁寧に削平されています。茶臼山城は天正3〜7年「黒井城攻め」明智光秀の築いた陣城です。黒井城の真南に位置して正面から、城兵の動きを把握出来る格好の位置に有って山頂に約40mx30mの平坦地があり、
北面の帯曲輪から主曲輪に入る上り土塁

周辺には馬縄手・勝縄手の地名が残り 古戦場の名残をとどめています。これ等は明智勢が茶臼山城を築く以前・黒井城砦群の一つだったのでしょうか?。天正3年(1575)八上城主・波多野氏等と示し合わせた[赤井の呼び込み戦法]によって、 明智光秀が命からがら京へ逃げ帰った街道に近く、その際の”勝ち戦”の頃に付けられた字名ではないかと思われます。長期籠城戦となった篠山市の八上城攻めの明智軍は 多くの向城を築いて包囲していますが、 比較的短期戦となった黒井城攻めに、余り向城を意識していませんでしたが、
主郭北面を二段の帯曲輪が捲く

数少ない代表的 ?な黒井城の陣城茶臼山城 が本拠の黒井城【城主赤井(荻野)直正】を目前に其の弟:幸家の三尾城との間に在って、しかも直近の野村城とは僅か東北に500m程しか離れていない。 野村城は茶臼山城の築城時には、既に落城していたか ・野村城主は黒井城に籠城して廃城となっていたのかも知れません?。茶臼山城の西には火山城 (存在を知ったときには 既に北近畿自動車道工事の土取場として消滅 ・遺跡分布図に示されるだけで詳細不明)や陣城の東側に古池(貯水池)を挟んで惣山城・新池を挟んで棚原城があり、黒井城包囲網の一端を負っているようです。
西山麓の萬松寺から望む茶臼山城

湿田地帯の黒井川右岸 ・向山連山山裾の街道監視に当っていたものか?。野村城落城の頃、明智勢の手で短期間に 向城として改修されたものと思われるのですが・・!!。茶臼山城の主曲輪は1段下に10〜15m幅、さらに下がって5m幅の帯曲輪がある。曲輪段差は北面の黒井城に向って開きます。林の中で360°展望は皆無。

荻野館   xxx xxxm     丹波市春日町棚原字前地

春日インターから県道69号(春日栗柄線)に入り野村城側の春日中学校前を通り、段々に拡がる地形に由来する棚原地区に入てくると県道東側に天満神社の小さな森があります。三尾を望み舞鶴自動車道と県道に挟まれた字前地の、狭い地区内の宅地と農道に囲まれた田圃の一画には堀・堀の内・ヤグラ等の居館跡の名残を示す字名が残る中世の方形館がありました。
荻野館南から・西角が天満神社

室町時代中期以降・荻野氏の方形館に、土塁や堀を巡らせた遺構を探して見ても其の片鱗を窺えるものは、圃場整備事業により発見され【昭和59年 (1984)の発掘調査で東西約120m・南北約100mの範囲に土塁・堀・柱穴跡等を発見】調査後は田圃となって遺構も消滅しています。県道69号側に菅原道真公を祭神とする天満神社があり、 慶長8年(1603)の建立され慶長18年 (1613)に天台宗神池寺の宝珠坊により松峯山西林寺を中興され、
荻野館南東角の枡形側溝から東端部

貞享3年(1686)神宮寺「霊威山神徳寺」となったが、明治維新(1868)の神仏分離令により 神徳寺は廃寺となり新たに天満神社となっています。なを舞鶴自動車道に近い、進修保育園側には名工・難波金兵衛の手になる美しい 梅ヶ淵の石灯篭が遠く三尾山の姿を借景に建っています。



萬松寺   丹波市春日町野村84

黒井城主:荻野(赤井)直正は織田信長に服命し丹波三郡 (氷上<丹波市>・天田<旧福知山市>;・何鹿<綾部市>)を安堵されたが元亀2年(1571)但馬此隅山城の山名祐豊が氷上郡に侵攻して山垣城足立氏を攻めるが、 赤井・荻野氏は山名勢を退散させ・余勢を駆って但馬側へ進攻竹田城を攻略し 山名氏本拠の此隅山城へ 迫り、山名氏は織田信長に救援を要請した。ようやく明智光秀を丹波に派遣し「丹波攻略」が開始された天正3年 (1575)〜・・多利の春日小富士山 ・野村の茶臼山に陣を敷き、
萬松寺

周辺に警戒・監視拠点の付城を置いて 黒井城を包囲。当山も黒井城攻略の兵火に罹り開山等由緒の詳細は不明。亀命山萬松寺(曹洞宗)の山門からは、駐車場を隔てた向かいに立つ低丘陵が陣所を築いた 茶臼山城で黒井盆地を隔て遮るもの無い北方に黒井城〜千丈砦が望まれます。西に 火山城・東には野村断層の断層崖上の岩盤を削平した惣山城・棚原城が僅か1.5km程の範囲内に並びます。 萬松寺山門まで参道から、 もう枯山水の石組が置かれ、そのまま本堂前の石庭に招かれる感じ。茶臼山城への訪城の他に萬松寺を訪れる理由は二つありました。本堂前の左手築山の中央に 「経塚」と刻まれた台石があり、其の上には蓮弁に座す一躰の地蔵尊は 丹波佐吉の作品という。
丹波佐吉の地蔵像

直ぐ側には重厚・優美な大型の石造宝筐印塔(県指定文化財 昭和43年3月22日)が建つ。 石英粗面岩質製で、宝珠の尖端を損傷するほかは粗完型:現高は2.20m・台石は上端反り花座付きで四面に輪郭をとり、内に格狭間(こうざま)を入れるが、正面だけ蝙蝠狭間を彫ってあり、此の様な格狭間の組合せは比較的珍しいとされています。 相輪もよく整い全体の姿態も美しく、各部の手法からみて南北朝期〜室町時代初期にかけての築造と推定されるが、丹波志にも氷上郡志・春日町誌にも記述無く由緒・伝承については不明。
丹波佐吉の地蔵像(袈裟の衣紋)

宮田の宝筐印塔(篠山市内最大)にも似て一際目立つ宝筐印塔は元:黒井東山 (R175号線沿い・猪口山 (黒井城)東尾根突端部)の高龍寺廃寺にあったものが、埋立て工事用の土採りで放置されていたのを 萬松寺の豊田師が貰い受け此処に移され安置されています。 「希世霊彦 京都の乱を避けて丹波にあり、聴松寺を同国野村に建立し、細川満元【天授4年(永和4 1378年)-応永33年(1426)室町前期:摂津・丹波・土佐・讃岐の守護となり、 応永19年(1412)管領職に就任】の冥福をたすく」(大日本史料)に記されているが、聴松寺跡や希世霊彦についての文献・資料は未だ発見されていない?様で、満元供養塔とは推定にも至っていません!!・・・が、
室町時代初期と推定の宝筐印塔

満元については・小室城主芦田八郎金猶(かねなお)が主君の丹波守護・細川満元の供養のために嘉吉元年 (1441)に建てたといわれる供養塔が金猶の供養塔と並んで青垣町瑞雲寺に祀られています!!。山門前の由緒石碑等による萬松寺は、天正5年光秀「丹波黒井攻め」の兵火で 焼かれ別所に移っていたが、江戸時代初期の寛文元年(1661)藩主松平伊賀守(篠山藩4代形原松平康信の事か ?伊賀守の官位は知らないが・・?)の許可と円通寺末としての承諾を得て、現在所に宗啅和尚により開基されました。茶臼山に陣所が置かれたのは 1回目の天正3年よりは、2回目の丹波攻めの時なのかも!!?
(現地:萬松寺案内説明板 宝筐印塔は県教育委員会H3年11月を参照)
  丹波霧の里へ
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