日内城-虚空蔵山-戸平峠/野村城/西山城館/岩倉城/長谷山城他
戸平峠〜日内城〜虚空蔵山〜戸平峠〜329m峰〜鴨庄小学校 H13年04月4日
近畿の山城: 日内城  野村城 茶臼山城 荻野館
  西山城館上牧城(仮称)
 
牧南城(仮称) 戸平砦 岩倉城 長谷山城(北村城) 長谷山館(仮称)
丹波の由緒野村断層
鴨庄案山子まつり会場から日内城跡
アテネ・オリンピック出場の福原愛ちゃん H16.8


R175号から県道59号に入り鴨庄小学校付近を過ぎると田園風景・向日葵畑を背景に毎年8月に実施される創作案山子が並ぶ。正面に日内城の山容と並んで虚空蔵山364mの姿が望まれる。
岩妻峠から戸平峠に続く尾根筋巡礼尾は播磨・清水寺〜丹後・成相寺等を結ぶ西国巡礼道か?。天岩戸神話に関わる寺で元伊勢(大江町)から伊勢遷都の際はこの峠を越えている。
戸平の小公園・奥丹波の美味しい水はもう出ない!!

観音霊場廻り等の巡礼道は丹波国内でも丹波西国37ヶ所があり、近くの岩戸寺からは福知山側山田に越す峠が寺名の由来ともなっている。前地集落の日内城登山口正法禅寺に向う日内城(点名:奥村)山頂から北奥か神池に下る消え入りそうな細い踏み跡が確認出来た。引返して暫らく降り坂を鞍部に出ると広い道に合流し、直ぐ尾根を外れて藪っぽい踏み跡を倒木に悩まされながら進むと正面に祠が祀られる広場に着く。虚空蔵菩薩像(上下の蓮の連座落に鎮座した像)が訪れる人も稀な山上に在って優しいお姿で迎えてくれます。
西山城館(中央)と左奥に日内城(点名:奥村)

虚空蔵山360mで城跡からはあっけない程早く到着したが尾根に沿っての下り道はかっての参道だったとは思えないほど急坂が続き程なく何処からどのように通じていたのか広い道に合流して戸平峠に向かう。峠が近くなった頃何本かの広い道と合流するが、此れは石灰石の採掘場があったといい2箇所ばかり残っている採掘場へ続いているようです。
休憩中の二人?(直ぐ帰ってきますの札と作業靴が残されて!!)

程なく倒れ掛かった街燈が何本かある道が見える。祠を過ぎて何段かの石段を下ると小さな石組みの空井戸を見て戸平峠道に出た。右手に草に埋もれた平地がある。峠には二軒の民家が在り一軒は駄菓子等を売っていた茶屋(休憩所)、もう一軒は採掘した石灰石から石灰を製造していたと云うが何れも明治末には廃家になった。この峠を一番利用したのは農事のようで開拓した土地がその村のものとなった時代、山を越え他領へ開墾に行くため通った丹波の古道は飛領地とは異なった不思議な県境を構成しています。
鴨庄の案山子まつり H20.8.xx

既に配線も撤去された街灯が残る峠道を戸平トンネル公園に隠れた名水 「奥丹波のおいしい水/銘酒の里に名水あり」の石標があり井戸から電動ポンプで20g単位で水を汲み上げるが現在は封印されたまま戸平峠に戻り最初の街灯の立つカーブの端から尾根に取付く踏み跡があったようだが50m程先・松茸山の小さな白い札から尾根に取り付き左寄りに詰め上がり稜線にのる。320mピークを過ぎNHKテレビ共同受信施設の鞍部からはやっと展望が開け三尾山・高谷山・五大山-鷹取山のスカイラインが望まれる。鞍部を上りきったところが4等三角点(点名:戸平 329m)。山名を知らず展望も辿ってきた戸平峠方向だけに明瞭な道が戸平集落へ降りていくが辿る稜線は藪尾根。
鴨庄の案山子まつり H16.8.x

踏み跡が途切れるが左手に降ると青い工場(アルインコ)の屋根が見えるので安心していたら踏み跡もなくなり、工場横から岩妻峠に向う道とは谷一つ手前に採っていた。尾根続きは工場からの道に合流。雑木が目立つようになり且つ右手奥に並ぶ二つのピークが気になり今日はあそこまで行ってみようと見定めて進み出したが岩妻峠のこと・目印の石仏があることも忘れ
鴨庄の案山子まつり H20.8.xx

踏み跡も確認せず素通り京都府との境界尾根の無名ピークに向けて歩き続けていた。どちらのピークも展望のない少し藪っぽく県境尾根なのに切り開きもなく両ピーク間は5〜6分だが先のピークからは尾根筋もハッキリしない藪に閉ざされたようで引返すつもりでなければ何処から足を踏み出してよいか迷い本日は此処まで。谷筋へ降りそのまま下り続けてダートな林道から正面に舞鶴自動車道を見て牧北の集落上部の村道へ飛び出してきた。集落一番奥の民家脇には子授地蔵尊を祀るお堂があり近在では有名なようで何箇所かに案内版を見かけ歩き続けて鴨庄小学校前に出てくる。
”案山子まつり”会場から岩倉城(中央・民家西並びの丘陵上果樹園)

旧59号の集落内の道ですが昨年から改修され一般車道は集落の外側を戸平トンネルに向って延びている。日内城跡と虚空蔵山が西日に映えて輝いて見える。振り返れば天ヶ岳が反対に黒い影を横たえている。中央には妙高山(丹波比叡)が大きな山容を精一杯に拡げて見せる。次回は岩妻峠-観音寺山リベンジと岩戸〜高谷山(横峰山)を目指したいとの思いながら戸平トンネル手前の駐車場へ急いだ。鴨庄案山子まつりの創作案山子は真夏の風物詩として地元で定着。2004年はオリンピック関連も多く、丹波市発足年でもあり新市章のシンボルマークも目立つ。今年(2008.8)は北京オリンピック開催中だが、
”案山子まつり”会場から西山城館と妙高山(中央奥)

うなぎ産地偽装・年金やガソリン高騰等の世相を反映したものや灌漑事業?周年記念での地元開拓名士の紹介や、大阪名所「くいだおれ」の閉店が決まるとにわか人気のチンドン人形「太郎」が此処にも出張!!?、隣の野良着女性も場所柄・本物かと思えるリアルさです。向日葵畑と稲田に囲まれた農道には炎天下のなか訪れる見物客は数々の力作案山子の前で立止まり私評したり・テーマについて談笑が続きます。


野村断層 丹波市春日町奥野村・惣山

R175で黒井を過ぎ春日インター手前・下野村から県道69号(春日栗柄線)に入る。この道から栗柄峠から鼓峠を経て京都へと[赤井の呼び込み戦法]による奇襲を受けて黒井城攻めに失敗し天正3年(1575)明智光秀が撤退した道だが野村地区木寺にはその時落城した野村城があり西方には低いが目立つ端正な富士形の茶臼山の姿が望まれます。
野村断層

天正3〜7年(1575-79)黒井城攻めで光秀が築いた茶臼山城があった所。野村城址の南方の惣山地区:茶臼山城の奥野村との中程:春日神社の背山に野村断層がある。神社からは・ごく普通の植林の山だが数10m先の貯水池(新池)前の地区道からは頭上に覆いかぶさる様に高さ30m急斜面に幅20m程の岩壁が現れる。岩壁自体は断層の運動とは関係なく侵食によるものだそうです。岩の基部の岩窟や周囲に石仏等が置かれているが丹波市指定(春日町指定昭和44年8月31日)天然記念物野村断層です。
野村断層

嘗ては海の底…とはいっても丹波の中央部は周囲の向山連山や多紀アルプス全域をチャート層と火山灰の堆積による 輝緑凝灰岩層が走っており断層は地震等の地殻変動により生じた上下・左右に地層面がズレ・食違いができたもので巨大な力を受けた岩には 亀裂が生じ断層に沿って破砕帯がみられます。野村断層は左横ズレの断層であり垂直成分はなかったことが断層面に残された条痕からわかるということです。
棚原城側から新池を挟んで望む史跡:野村断層

断面層はチャートからなり、走は南北線より26度西に向き、傾斜は65度東へ傾いている。破砕帯の幅は 20m以上で美しい鏡肌をもち断層面の南西側につづいている。その部分は著しく破砕されているが粘板岩・砂岩からなる。この部分は脆くなっており激しく侵食された結果断層面があらわれたものである。断層の運動量は不明だが破砕帯の幅からみるとかなり大きいと思われる(春日町の文化財より)
史跡:野村断層前の新池東へ続く断層崖(点名:棚原側)

野村断層は向山連山の北山裾の茶臼山付近から 県道69号線(栗柄峠を経て篠山市へ・鼓峠を経て園部・亀岡方面に通じる)側の春日学園(特別支援学校)へと黒井盆地の南端を走っています。北方からは緩やかな小さな小山が田園の広がる長閑な風景の中に連なっているだけだが稜線の西・南側は断層崖を露呈した自然の要害地形。黒井城攻めの陣を敷いた茶臼山城の西には 北近畿自動車道工事に伴う土採りで消滅した火山城・東には古池を挟んで野村断層の上に築かれた惣山城・さらに新池を隔てた
野村断層史跡指定地の丘陵北西末端の断層崖上に惣山城がある

東側の断層崖上の空洞には大峰講の荒廃した祠が建ち・稲荷社が祀られるが 此の小丘陵山頂(4等三角点:棚原)にも城砦遺構【棚原城<矢継ぎの城の伝承が残る尉ヶ腰城が棚原地区にあり棚原城とも呼ばれる様です。奥野村と棚原境にある此の山城に適名が見当たらないので 点標名の棚原とする>】が残り狭い範囲・横一列になって北方の黒井城を窺う光秀軍の向城群が並んでいたのでしょう。
野村断層史跡指定地から新池を挟んだ東側:棚原城側尾根先の断層崖

篠山側・佐仲ダムからは鏡峠を越えて春日町へ通じる旧街道があって佐仲から登り始めて直ぐ鏡石や鏡岩があって、硬いチャートの断層面には特有の鏡肌が見られる。佐中には自分が違う人の顔に映ったとか映らなかったとかいう鏡岩伝説があり鏡峠の名もこの鏡岩から。氷上高校西隣の兵主神社にも同様の鏡石伝説が伝わり、佐仲峠を篠山側に降った小坂集落にも明月神社の断層鏡肌が神社本殿背後に屏風を立てたように岩面を露呈しているのが見られます。

日内城 野村城 茶臼山城 荻野館 西山城館 上牧城(仮称)
 
牧南城(仮称) 戸平砦 岩倉城 長谷山城(北村城) 長谷山館(仮称)



日内城(日ガ内砦)点名:奥村 354m  丹波市市島町鴨庄

日内(ひがうち)城の山容と虚空蔵山を望みながら山麓の河勝山正法禅寺(曹洞宗)を目指す。元は神池寺(天台宗)末だったが貞享元年(1684)時の領主川勝氏に因んで山号を河勝(こうしょう)山とされ、この時より円通寺22世和尚を開山として曹洞宗となっている。藩政時代鴨庄の上・牧・戸平・奥の北部?…一帯は川勝氏2家‐3家?の所領地となっていた。
日内城跡(右)と虚空蔵山(左奥)

前地集落から日内城への登山口となる正法禅寺に向かい城址へ突き上げる尾根側の左手に石の鳥居と階段が見える厳島神社が取付点。明確な踏み跡などはないが本殿裏の竹薮沿いか・石段を登りつめた左手から社殿上部へ捲上がると直ぐ良く踏まれた広い山道に出るが落ち葉が積もり過ぎてフワフワと足に力が入らず歩き辛いので道端の落葉のない部分を選びます。更に尾根に二条の深い堀底道状が続く。木摺らし(!切り出した木材を木橇等で運んだ?)溝か?。
正法寺

以前は尾根筋を詰めず右下手の広い山道を辿り最後は片堀切り状の堀底道を主尾根に出た。虚空蔵山や戸平峠へ続く尾根筋の幅狭い稜線に乗り日内城(3等三角点354m 点名:奥村)に着く。山頂は広いが平坦でもなく、周辺に曲輪や堀切等の城跡の様子を窺えるものはなく天正期まで残っていた城にしてはお粗末。砦か京都側の物見台・狼煙場なら分かります!!。ところが見過ごしてきた此の尾根合流点の尾根筋僅か下方に極小規模ながら曲輪間に二本の堀切を設けた砦があった。
日内城:堀切遺構は左から合流する尾根筋下…!!

城域の山上付近は幾つもの山道・作業道が狭い尾根筋に合流する地点は遠目にも鞍部で”タワは一時休息のコバともなる。此処が「丹波志」古城の部に珍しく城名さえ記され「加茂郷奥村東にあり峰に堀切あり・黒井の枝城なり…内ヶタワと云う…黒井攻めの明智軍は天田郡千束細見辺りより氷上に越え…」とある。幅狭い尾根上に曲輪域確保の切岸等は曖昧で自然地形に近く、この程度が曲輪なら山頂(点名:奥村)を目指す尾根上にもみられる!!?。此処からの眺望も・眼下に戸平峠を市島町牧や喜多へ降ってくる街道筋や明智の小富士城は望めるが黒井城は望めない。
幅狭い尾根筋に二本の堀切と曲輪

日ヶ内城山頂近くになってくると黒井城も見えてくる。山頂からは県道59号の市島町戸平・三和町草山側の街道筋を見下ろす。木々が伐採され見通しよくなっているが自然地形の広い平坦地形からは曲輪・帯曲輪等遺構の判別確認も出来ないが目的からも明智軍侵攻を知らせる狼煙台はあった様。氷上郡志等には山頂に小規模な曲輪があり黒井城に対し天田郡側から侵攻する明智勢の動静を窺う為に築いた砦には赤井(荻野)氏の臣:高見対馬守の監視所・狼煙台との見解。
日内城:堀切遺構

伝承に激戦・落城悲話さえ遺る日内城だが郡志・町史にも規模は極めて小さく僅かな台地に曲輪や堀切跡等も確認出来ない山頂354mを指しているだけで地元にも忘れられた山城だが20年ぶりに再訪。城砦跡とはいえ掘立小屋を建てる余裕もない幅狭い尾根上の小さな山城からは合戦模様を伝える伝承等が想像も出来ないが丹波志に記され堀切が遺り、日内城山頂(物見砦か狼煙場!?)に至るタワ部の日内城からは戸平・草山方面を眼下に望め、砦の規模は小さいながら京都府側の千束・荻原から丹波市側に入る南東口を抑える黒井城主荻野(赤井)直正の支城群の一つ。
日内城:堀切

丹波攻め・明智軍の侵攻に対する防御線として家臣高見対馬守の下臣小畑孫左衛門が築いた日内城は京街道(国道9号線)の福知山市・荻原や天田郡・千束(福知山市に編入)から進攻してくる敵を防ぐ要地で黒井城出城として重要な監視砦。黒井城攻略の第二回目会戦となった天正6年(1578)2月中頃・黒井城主荻野(赤井)直政は 病に臥せっていたが丹波攻略の光秀が亀山城(亀岡市)を立ち西進をはじめ、道々の城塞を攻略しながら八田(丹波町と瑞穂町付近で毘沙門山〜雨石山〜
日内城跡(山頂砦?)手前の吊尾根状の前峰

櫃ヶ岳を173号線で篠山側から越した辺り)に到着したとの報告に直政は赤井喜兵衛を呼び宮津にいる明智光春の軍も 必ず南進してくるだろうから日内城主高見対馬守の家臣・小畑孫左衛門の援軍の依頼もあり助勢するよう頼む。敵軍押し寄せるとすれば500と下らないないだろう。「たかが小城、支えおおせる事はできないが、たとえ一刻でも支えたい」との思いで赤井喜兵衛は手勢を率いて日内城へ助勢に赴いた。直政の訃報が密かに伝えられたのはそれからしばらくたった3月9日のこと。その極秘が光秀に探知されるところとなり天正6年12月18日光秀の命を受けた光春は、
日内城跡標石と三角点標柱が埋まる砦跡!!?

その日宮津を発ち翌19日福知山に着いて軍議を開き、宮津方面から南進してきた明智光春は福知山で軍議を開き 小野木茂勝(300人)は市ノ貝-上鴨坂を経て白毫寺道。明智光春(1000人)は上竹田から市島・勅使へ。日内城は黒井城の臣高見対馬守が守っていたが藤田伝吾行政の500人が千束街道から 鴨庄・神池寺道を南進することとなり…三方から押し寄せる大群を前に力の限り良く防いだが、遂にその夕刻には日内城・岩倉城の二城は相次いで焼け落ちた。
(鴨庄村誌・丹波新聞社「由緒を尋ねて」を昭和31年発行 参考)

西山城館    西山 149m   丹波市市島町北奥岩倉

県道59号を右折して南方の神池寺へ向かう田園風景のなかを真っ直ぐ延びていく道と正法寺への道周辺は毎年・種々の創作・案山子が並ぶ”案山子まつり”の会場となっている。天正6年(1578)12月・波多野氏の八上城を取巻き、丹波黒井城の周辺の城砦群をひとつひとつ落としながら迫る光秀軍の一隊で日内城を落とした明智光春と武将・藤田伝吾隊は余勢を駆って岩倉城に攻め寄せます。
西山城館と遠く妙高山

標高は少し高いが地区内の車道が神池寺と神池を分ける分岐へ派生してきた丘陵の尾根末端?だと仮定してみるが畑地の上一帯は私有林のようで立入りがたいが鴨庄川に沿って岩倉城(正法寺への分岐付近から正面に見る丘陵末端部を仮定して)と神池寺に向かう北奥の西側に連なる低丘陵の北末端部が鴨庄川に落ち込む突端部の峰(西山4等三角点 149m)頂部に西山城館がある。丹波市から京街道(R9号線)への最短距離にある戸平峠を目前にして日内城と共に要衝警護していたのでしょうか?。
西山城館本ノ丸


其れとも奥に控える岩倉城への北方の入口を護る出城的存在だったか?。鴨庄川を渡る橋が岩倉橋。岩倉城は空掘りを廻らせ虎口には横矢掛けの折れや土塁の張り出しが有るようです。また天正の落城後に京都丹波側の城主が改修して入ったものか陣城に使用されたか?いずれにしても大改修されている様子からは丹波の城主の城とも思われない。しかし北奥集落から谷を挟み西南方向に位置する西山城館は、
西山城館堀切(南の尾根側から)

日内城と岩倉城の狭間で其の存在さえ城史からは見えてこないが西山(標高149m)の山頂を主郭にして尾根上に堀切・曲輪・帯曲輪を並べる。主郭部の南西端に祠が祀られ北側から参道が通じており主郭直下には高い切岸を持つ帯曲輪があり参道から入れます。最奥部から主郭から続く尾根南部の曲輪に出ると土橋付堀切(幅約5m・高さ約2m程)となり左右に竪堀となって延びる 西側は帯曲輪の外側を遮断しています。
西山城館堀切(主郭側から)

参道に沿っては帯曲輪下にも小曲輪が3〜4個段差をもって並び急斜面をそのまま民家裏に降り立ちます。主郭部の祠の尾根側(南)へは70cm程の土塁?の段差を越え平坦地を20m程で土橋付の堀切に出ます。堀切から南へは自然地形の 細い平坦地があって一気に高さ7−8mの崖上の堀切に滑り降りる。東側も急で真下に鴨庄川が山裾を流れる。堀切を抜けた左右(東西)には山腹を縫って犬走り状の棚が延びているが土砂災害に対しての治山工事の跡らしいが、
主郭への参道右手に小曲輪が続く

大堀切だけは・治山として行き場も無い通行の為に大きく尾根を切り裂いたとも思えず城遺構かと思えた。最奥の民家(3〜4軒しかないが)から下草で足場の見えない藪を抜け南峰との鞍部を目安に進めば西側土塁状の棚に出て山腹を廻り込むように堀切に出てくる。此の大堀切から南へ延びる尾根上へは三方とも急峻で尾根上も緩やかな登り一辺倒の山道で城域からは離れるだけ。城域は大堀切より北端の峰にかけ天正期初期まで
主郭下の帯曲輪と高い切岸

黒井城方の城館として使用されていたと思わます。岩倉城はその後・明智方の手により新たに織豊系陣城として築城、西山城館はその死角となる日ヶ内城・戸平峠側の監視・妙高山神池寺と栗柄峠越えの道と繋がる三井庄への通行監視所として使用されのでしょう!!?。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書分布地図 氷上郡教育委員会を参照)

上牧城(仮称)     xxx 195m   丹波市市島町上牧

舞鶴若狭自動車道:春日ICを降りて市島町・福知山市方面へとR176を北上する。左手に荻野直正本拠の黒井城を望み ・北東前方には多利の小富士山が望まれる。明智光秀の黒井城攻めの陣城小富士城は一夜城伝説や光秀が黒井城水源を聞き出した云々の伝承がのこる。更にR175号を北上・市島支所前交差点を右折し三ツ塚廃寺跡への分岐を直進・天田郡(現:福知山市)三和町境の
県道541号からの上牧城西に西山城

戸平峠に向かう鴨庄川沿いの県道59号に入る。小富士城の北は梶原ー三ツ塚廃寺背後へと延びる低丘陵上には光秀の黒井城攻めの際に築かれたと思える城砦遺構(単に平坦地形!)が点々と残る。県道59と鴨庄川が此の低丘陵部を割って竹田川に流れ出る切通し状を東へ抜け出た喜多に長谷山城・更に東:舞鶴若狭自動車道を潜った先:県道541号の分岐点から神池寺へ向かうと100m程先の付近では例年実施される真夏の祭典案山子まつりが行なわれており 左手前方に見える正法寺背後の最高峰
主曲輪東南帯曲輪下・二本の竪堀(下方から)

(点名:奥村)に日内城がある。県道541を挟む近く西側には西山城、西麓には岩倉城がある。何れも天田郡(福知山市)三和町側から戸平峠を越え丹波市に入る街道筋の要衝監視の黒井城支城群の一つで岩倉城を挟む県道59号線北には畝状竪堀群が遺る長谷山城(北村城・船越城)がある。一土豪の城に畝状竪堀が確認されている例は少ない!?。氷上町円通寺近くの円通寺砦<仮称>に二重堀切と畝状竪堀群の痕跡!!?を見、尾根続きの井中城<仮称>4等三角点>に主郭遺構が判然とはしないが
主曲輪側の堀切土橋

帯曲輪から10数本の短いが等間隔に綺麗に並ぶ竪堀群をみる。遺跡分布資料・郷土誌史にも記載がなく築城時期・目的・城主等の城史は不明だが…長谷山城にも近い鴨庄小学校付近に丘陵先端を落す尾根筋、神池寺へ向かう県道541号分岐の丁度反対(北)側の195m程のピークと標高を同じにする南西側のピークに城郭遺構をみる上牧城(仮称)があった。日内城・岩倉城…等黒井勢の諸城群は天正6年(1578)千束街道から鴨庄へ侵攻した…藤田伝吾の軍に悉く落城。
主曲輪東南帯曲輪から落ちる竪堀(左手前)

黒井城攻略の明智勢により黒井城包囲の向城群として転用されたものか?。街道筋の南面に並ぶ城砦群だが北側に迫る丘陵上が未調査のままポツンと手付かず空白状態!!?。取付き点不明だったが丘陵筋北東ピークとの鞍部を目指すのが良さそう…案の定:北郭群の南端付近の尾根筋に出た途端!!曲輪東端から4-5本の畝状竪堀群をみる。其の北斜面上に続く曲輪は低土塁を廻す自然地形だが長い曲輪・空堀状の
北曲輪(副副?)北端の切岸と上り土塁

上部に櫓台曲輪?と北西端切岸上に低土塁・北に深い堀切をみて城域外へ?…その北続きから戸平峠を見下ろす短い尾根筋にも、北への尾根続きにも城遺構はなさそう。北郭部の畝状竪堀から南下へは50m程の緩衝帯?尾根の先に 小曲輪?・その直ぐ先の堀切から南郭群に入る。広い中央曲輪を帯曲輪が廻る此方が主郭のよう。二段の帯曲輪南斜面の二ヶ所に二本ずつ竪堀を落とすが埋もれた竪堀が何条かありそうにも思える。丹波では珍しい畝状竪堀だが築城主や時期も長谷山城との関連は深そう。天文年間(1532ー)頃?なら内藤氏・三好氏やその傘下にあった大槻氏や塩見氏等による勢力、
北曲輪(副副?)北端の堀切

天正6年藤田伝吾らにより周辺の城(日内城や岩倉城…)が攻略され、黒井城攻め攻城群に改修されたものか?。京都三和町からは戸平峠を綾部や六人部方面からは市島町に入らず福知山側の田野から高谷山系?の尾根を市島町の岩戸寺へ越えるルートもあり直接:長谷山城(喜多城)や、呼応する位置にある自動車道が走る三角点峰276mも今回の上牧城と岩戸寺の間に延び出す尾根上なので 未訪だが城趾遺構はあるかも?。

牧南城(仮称)
  xx 235m  丹波市市島町上牧

三塚史跡公園手前でR175「市島支所前」交差点を右折し鴨庄川沿いの県道59号(市島和知線)に入る。喜多の長谷山城南裾を抜け舞鶴若狭自動車道高架下を潜れば「鴨庄」中心地。旧街道筋の鴨庄小学校北正面丘陵上には上牧城(仮称)がある。 ともに畝状竪堀を残す遺構は兵庫丹波の領主の山城に例は少ない(有るかも知れないが?)。
県道59号「上牧」交差点から正面の牧南城を望む

上牧城麓を県道59号は戸平峠を越え京都側の三和町へ向かうが、南麓を南へも県道541号が終点の神池寺に向かう。左手奥の日内城山麓には河勝山正法寺の大屋根が見える。山号名からも藩政時代は川勝家の領地だったところ。 県道541号神池寺線の左手側には西山城・地区道を西へ進むと岩倉城…があり、山裾を西へ向かう地区道の側に:これより向かう牧南城(仮称)があった。
尾根先端部を捲く土塁空堀は山道・木材搬出の木馬道とも思えず?

上牧は明治期に牧村・上村を統合し 上牧となったところで小学校・役場・保健所・駐在所の所在地がある鴨庄の中心地。ここに”上牧城”(仮称)があるが「上牧」交差点の南正面約200m程・圃場を抜けた地区道に落ち込む丘陵上にも遺構があり”上牧南城”としたいところだが…。 旧牧村が所在地東端・上村は西端なので場所に誤解が生じやすそうなので単に「牧南城」(仮称)としたが間違いやすい?ので 水路の「縦井根」を城名にしてみたいが…!?。県道59号は旧地区道を避けるバイパスで
尾根先端曲輪の土塁・堀切

南側へ迂回する曲がり角が「上牧」交差点。先日寄った最明寺南砦への入口・市島町南を抜けてくる地区道が「上牧」交差点で合流する。 鴨庄川を挟んだ南正面に小さな集落があり奥地に圃場が続き東西に丘陵が延びている。丘陵部西には二森神社・山麓南奥に貯水池があり「縦井根」水路が谷間の中央を北方の鴨庄川へ流れ出る。丘陵部東には厳島神社がある。
二つ目の曲輪は堀切を背にした櫓台土塁付曲輪!?

「氷上郡志」に:上村の南山中腹に京の賀茂明神が飛来し「賀茂ノ尾」と称する所と云い伝えられる所がある…と。其の場所が此処だろうか?。 鴨庄の名も此の伝承に由来するのかも。”牧南城”へは丘陵東側の厳島神社側からと思うが西面の圃場から観る城域は上方から起伏のない”流れ尾”が北先端の地道にまで落ちるので、西の尾根先端部から直登と考えたが…獣避けフエンスが尾根先端・尾根左右の集落山腹にも廻らされ開閉扉も少ない。丘陵西面奥の貯水池からは城域中央付近の尾根に登り着くが人跡稀なうえ、池へも入山禁止状態!!で薦められない。
尾根筋東端に唯一の竪堀!…?

此の先端中腹部を土塁囲みの空堀状が東から尾根筋を廻り込む。地形図を見ても分かるが東西の集落を繋ぐ生活道路とするには小さな丘陵部先端部なので、わざわざ山腹を廻るより山裾を通る方がよい。山道なら先端部からか・左右の集落から先端部に向かわず直接尾根筋中程!?へ進む方が利便性に叶うのでは?…。尾根筋には顕著な山道はなく踏跡も薄い…。領地支配の地侍の城砦というより県境の戸平峠を越え 鴨庄川沿いの往来監視の付城と感じる。
最高所の主曲輪も土塁から尾根続き山側に堀切

直ぐ西方の最明寺砦や長谷山城・畑山城・矢谷城…等の梶原城砦群は明智光秀本陣の 小富士山城背後の警備と福知山・綾部方面から六人部(むとべ)や福知山市街地から塩津峠を越え竹田川沿いを警戒する付城群。牧南城遺構は尾根筋に間隔を空けて単郭(幅10m充たない小さな1-2段曲輪・二つ目の曲輪は堀切前に幅のある櫓台土塁!を設けている。最高所の郭も尾根続き背後に土塁と堀切があるが曲輪内は幅15x長さ50m程だが削平の曖昧な緩斜面!!。
最高所主曲輪の土塁と尾根続の堀切

それぞれに尾根続き背後に堀切を一条設けている。最高所の郭の手前50m程には雑木・下草藪に覆われた東斜面に 一条の長い竪堀!を観る。山道でもなさそうだが主曲輪に近いので東からの堀底道かも…?。 県境の戸平峠を越える鴨庄川沿いを正面に、北方は福知山からの塩津峠越・R9号(山陰道)綾部方面から六人部(むとべ)を市島・春日に入ってくる往来監視所としても、光秀方の付城として重要な位置なのかも…。 直政の訃報の極秘を光秀に探知されると:天正6年(1578)黒井城攻略に
最高所主曲輪:土塁からの小曲輪群?

天田郡(福知山から市ノ貝-上鴨坂を経て白毫寺道を小野木茂勝が、 宮津方面から明智光春が上竹田から市島・勅使…から、三和町千束から戸平峠を越え迫る藤田伝吾行政の大軍が三方から押し寄せ多勢に無勢:次々と落城。籠城のため黒井城に遁れた在地国人はいたが、戸平峠を越える府県境:市島町現:鴨庄一帯の城砦群の多くは、そのまま黒井城攻略の付城に転用され、明智に投降し麾下に入った国人が小曲輪と堀切を設けて守備に就いた砦だったのだろうか!!?。


戸平砦
  xx 220m  丹波市市島町戸平

R175号から県道59号に入り<を過ぎ「上牧」交差点分岐南に牧南城を見留めながら、田園風景が拡がるなか 西山城館日内城 (点名:奥村)の山容を望みながら戸平峠へ向かう。鴨庄の城砦群や戸平(とべら)トンネル丹波市側入口の小公園には「…銘酒の里に名水あり」の石標もたつ。
県道59号から戸平砦遠望

奥丹波の美味しい水・真夏の風物詩:案山子祭り…等は当ページ内にレポートがあるので省略します。戸平峠のトンネル上には既に配線も撤去された街灯が何本か残り、石組みの残る空井戸や駄菓子等を売っていた茶屋(休憩所)と ・採掘した石灰石から石灰を製造していたと云うが2軒ばかり民家も明治末には廃家になった。尾根筋を巡礼尾と呼ぶところからも嘗て大江町の元伊勢や西国札所の成相寺…へ巡礼道でもあったようだが、 峠を一番利用したのは農事用・開拓した土地がその村のものとなった時代
戸平砦:東先端露岩部曲輪の切岸

山を越え他領へ開墾に行くため通った丹波の古道は 飛領地とは異なった不思議な県境を構成しており、戸平トンネルを東に抜け大きくカーブして下る沿道に何軒か民家が点在する。民家が途切れる左のカーブからは突然:京都府側標識をみて三和町に入る。戸平村は牧村の出戸とあり、戸平村から奥村(日内城登山口の正法寺が北奥にある)へ越す牛馬道の戸平峠が氷上郡(丹波市市島)・天田郡(福知山市三和)境界となる筈だが!?。天田郡側は三和町草山・寺尾・山陰道(R9号)千束まで地続きだが山深く今も!? ニシンジョ城(西ノ上城)のある草山から先:
曲輪東先端の露岩部まで土塁を廻す

戸平に掛けて圃場は少ない。山深く田畑もなかった頃:市島町牧村(牧南城の項に補足している)…の松本刑部が峠を天田郡側に越えた「字イチキ田」を開墾して拓き以来次第に出百姓も増して一ヶ村を成し、牧村より開き初めた故に氷上郡牧村の出戸として藩政時代には川勝氏の領地となっている。…松本氏を上刑部・永井氏を下刑部と称す…と「丹波志」にある。 島城(北桑田郡)を本拠の丹波川勝氏は
堀切・土塁から:曲輪段差も曖昧でフラットな主郭部

豊臣秀吉に仕え、丹後田辺城に西軍として参戦しているが徳川家康に赦され?改易も免れ・慶長6年(1601)旗本家を興している!!県道沿いに”戸平生活改善センター”があり正面の丘陵上に戸平砦があるが、さて取付き点は…!!?。センター南側から林道奥の谷線(昭和47年度林業構造改善事業により整備されたもののよう…)が丘陵部南麓:目前に古民家宿泊施設の ”ゲストハウス「やまんなか」”があり駐車スペースの横から斜上する山道がある。
目を惹く唯一の遺構:土塁と土橋堀切

途中2ヶ所ばかり祠や古墓地?の石段・石組みが残る平地もあるが、此より急斜面の深い堀底道が城砦東先端曲輪(虎口曲輪!?)まで続き、露岩帯の曲輪上段に上がる。曲輪内は段差・曲輪の平坦地形確保?も曖昧な粗れた主(単)曲輪で前方に盛り上がる土塁を観て、其処まで凡そ 30mほどの単郭の砦。土塁背後には此の砦には一寸大きく感じる土橋付き堀切がある。砦の築城位置や目的は領地支配・監視ではなく!、何鹿郡を支配していた守護代:内藤氏に三好氏による侵攻勢力や、
な主郭部

京都丹波・三和町側から黒井城に迫る丹波攻めの明智軍)に対する監視砦か?。戸平集落麓からではなく・赤井方最前線に位置する日内城の出曲輪として利用されたものか?。「氷上郡内姓氏録」からは天田・氷上両郡から天正期の落城で帰農や、大坂の陣に敗れ浪人して此処に居住した地侍も目立つが…砦関連は無さそう?…。


岩倉城
 Ca130m  丹波市市島町北奥岩倉

丹波比叡と呼ばれ僧兵を擁した古刹神池寺(天台宗)は鎌倉時代末期の源平騒乱に平重盛が妙高山神池寺に逗留し元弘元年(1331)後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を図ったとき 重盛も神池寺で義兵を募り、源氏方の土豪と戦ったとの伝承があります。後醍醐天皇は笠置山に逃れたが敗れ隠岐に流されます。幼くして出家し比叡 山に入り 尊雲法を名乗って天台座主にいた大塔宮(後醍醐天皇の第三皇子)は楠木正成の赤坂城へ逃れたが此処も落城し、
子安堂・馬止め桜から西山城館

さらに熊野へ逃れた大塔宮は「護良」と名を改めます。後醍醐天皇は翌:元弘2年(1332)再び挙兵。還俗した大塔宮護良親王には伊勢・吉野・熊野の豪族が守護に付き元弘3年(1333)4月:護良親王は 比叡山や神池寺の僧兵を纏めて六波羅を攻めるが、敗れて丹波へ退き神池寺に籠もったとの伝承があります。神池寺は幕府打倒の戦勝祈願と義兵を興す等丹波での中心的存在でした。この時は鎌倉から兵を率いてきた足利高氏が後醍醐天皇方へ寝返って、鎌倉幕府は滅亡し後醍醐天皇による建武の新政が始まります。護良親王は自ら後醍醐天皇へ要請して征夷大将軍に任ぜられましたが足利高氏(尊氏)との対立を深めて捕えられ 鎌倉に幽閉され建武2年(1335)足利直義方によって殺害される。
子安地蔵堂南の丘稜が岩倉城

元弘年間(1331-34)神池寺は既に創築されていたようで防御陣地として妙高山から北へ派生する尾根上の点名:日ヶ奥から東北へ裾を延ばす枝尾根末端の小山【此れが岩倉山だろうか?点名:西山(西山城館の位置)だが知り得る資料に西山城館は出てこないので此処で云われる】岩倉城が築かれたと思われます。
なを神池寺には明治期まで護良親王の鎧が寺宝として伝えられていたが三千院(京都大原)の要請で鎌倉神社へ奉納され、同神社の神体となっているそうです!。この南北朝期頃岩倉城主には四国三州城主尾松(小松)氏が来住し岩倉城を居城とし尾松五郎左衛門・二代目に民部太夫・三代目に又左衛門、
曲輪を取巻く空掘と切岸(北東面)

弟に尾松民部太夫が居たが此れより帰農したといわれるが岩倉集落に尾松姓はない!?。上記の西山城館でも此の山の持主さんに入山許可をもらったが 「上には祠が有るだけ…」と城館跡との認識はなかった。しかし岩倉城の所在はご存知でした。話に聞いているが未だ行って見たことはない…と指された場所は僅か100m程先・比高20m程で畑地の奥一帯が栗林の中。しかしこの位置では日ヶ内城は山を背にして見えず西に長谷山城・畑山城館・矢谷城館が見える程度。なを西方の山影には明智軍の向城 小富士山城があり岩倉城は其の遥か後方にあたる。数軒の民家の外れ・岩倉城北側約50mの地区内車道側には小さな「子安地蔵堂」があり脇に桜の木が植えてある。
曲輪を取巻く空掘と切岸(西面)

馬止めの桜と呼ばれた古木があったが其の後に植えられた二世という。 戦乱続く時代・戦いに敗れ逃れる一団の将が岩倉にさしかかった此の堂の前に咲く美しい桜に見惚れ、暫しの休息をとったところから”馬止めの桜”と云うようになったと伝わる。東方約150mにある比高40m程の小山・西山城館を正面にして建てられています。 其れにしては岩倉城の位置は山麓の戸平峠を越える交通の要衝にはあっても周辺の監視や防備に劣る高台の平地にあるだけ。往時の城砦の位置からも合点がいきません。おそらく上記の認識のある妙高山から西に延びる丘陵の尾根先にあり戸平峠を越えて京都府天田郡三和町側から通じる 要衝監視には街道側にあって見通しの良い西山城館(上記に記載)がピッタリ岩倉城の位置説明には合う。ところが此処は天正6年(1578)12月・丹波黒井城攻略に天田郡千束から戸平峠を越えて 迫る明智光秀軍の一隊で明智光春と武将・藤田伝吾行政が率いる兵500が黒井城支城群の一つ日内城(日ヶ内城)を落とし、そのまま近くの岩倉城にも迫ります。
曲輪を取巻く空掘と切岸(北東面)

伝承では此の時の城主は日内城の指揮を執っていた小松友直は城に火を放って脱出し黒井城に入ったとも云われます。何度も繰り返しになりますが西山城館こそ天正期に落城した岩倉城であり、その後”黒井城攻め”の向城として新たに 岩倉山-西山丘陵を背にした低い台地に築城されたのが現岩倉城と考えたいところ。岩倉城には数段の折れを伴う織豊系縄張りの虎口と空掘りに囲まれた2段ばかりの方形曲輪があり、此の岩倉城が尾松(小松)氏の”掻き揚げの方形館なら明智勢による向城としての改築も考えられ、詰め城として背後の山へは堀切道を経て西山城館(岩倉城?)に入る。天正6年(1578)一度は八上波多野氏との共同作戦で赤井軍に追い返された明智軍だがその後:大群で用意周到に周囲の城砦を攻め落とす、優位な展開では険しい山稜に城砦を築く必要はなかったかもしれません?。
曲輪を取巻く空掘と土塁(西面)

ものの本には遺構は残っていないとされているが2〜3段30u程の広い曲輪があり、広い方形曲輪のほぼ三方を囲む様に廻らされた空掘りがある。空掘りの南から西に回り込んだ辺りは掘・切岸高く下の段から斜上する溝が上部曲輪に出て、張り出した土塁曲輪や本郭部側から横矢掛けも可能な2〜3段階の”折れ”を伴う虎口の袋小路状態を抜けて本郭部に出ます。此の枡形遺構が石垣造りなら城郭フアンにも知られる存在になっていた事でしょうが…。
(丹波戦国史 ふるさと市島の祠堂:市島町史実研究会編等を参照)


長谷山城(船越城・北村城)   長谷山(安世地山) Ca185m  丹波市市島町鴨庄喜多中地

R175号の市島町役場前交差点を右折して京都・三和町へ抜ける県道59号(市島和知線)に入ります。直線道 路の正面には三ッ塚廃寺から天神〜梶原地区にかけて延びる低丘陵を左右に分け、 その尾根上に矢谷城館・畑山城館が在る。車道は其の丘陵裾を抜け喜多地区の公民館西方の山裾に目印の銀杏の木と・側に5m四方で入母屋造り・瓦屋根の「ハゼ山観音堂」がたつ。
観音堂と長谷山城

氷上郡内霊場三十三所・二十四番札所になっており「鴨野庄村誌」には長谷山円剛寺仏外堂が此の「ハゼ山観音堂」に比定される。堂の背後:安世地山(あいぜんやま)に長谷山城(北村城・船越城)が在って城主:船越氏開創の円剛寺が観音堂として守り継がれてきたものと伝えられます。付近には庵屋敷・番屋敷・山中には石仏等が転しており、北方には延享4年(1747)萬州大和尚を開基に草創された徳本庵が有る(未訪・未確認)。
長谷山城主郭と櫓台土檀!?

「丹波志」にも【藤原家工藤氏族・入江維清(これきよ)の子船越維綱の 子孫にあたる】船越善阿弥入道が居て天正年間(1573-92)以前 【「丹波史年表」には永禄7年(1564)10月!!】に落城して討死したと云います。築城の経緯や時期・城主や船越氏の落城以後の城史は不詳だが天正年間以前の合戦なら守護代内藤氏による赤井氏への侵攻が考えられます。天文年間中期以降(1545-50)頃、三好長慶が管領:細川晴元を押さえて台頭し京都の実権を掌握する勢力をもってくると 丹波では晴元方の八上城(篠山)波多野晴通・黒井城の赤井時家と、
南郭(出曲輪)背後の土塁と堀切

長慶方の八木城(船井郡)内藤国貞・横山城(福知山市)塩見利勝・(青垣町)の山垣城:足立基則・沼城:芦田上野介光遠等の 対立が激化して天文18年(1549)八木城の内藤国貞が黒井城の赤井時家を攻め、三好方の塩見氏が内藤氏と幾度か赤井(荻野)勢力内に侵攻しいる。塩見氏と同族の船越氏が此の頃・敵方の領内に城砦を築いたものか?。塩見氏が戦国時代初期の短い期間:船越善阿弥入道と共に北村城(長谷山城)を居城として活躍したとも云われますが!!?。
畝状竪堀上部の土塁曲輪から待ち構えて狙い撃ちが・・

この地を一時期横領していた時期があったものか!!?その後 ・三好氏勢力の衰退で内藤氏も奥丹波から撤退していく時期に黒井城:荻野(赤井)氏が京都丹波の何鹿・庵我・曽我井・六人部辺り(現在の丹波市と福知山や綾部市境界)に勢力を 拡大するがこの地の国人領主や船越氏の動向等詳細は不明です。此の城についても此の城を舞台にした戦闘記録も?今のところ見当りません(未調査)。
等間隔で6条(内なんとか3本!!)の畝状竪堀が南下へ落ちる

領地を持たず突然の築城は天文年間初期(1532-)八上城主:東の波多野氏に対し西の波多野氏とされた初代城主:波多野宗高(架空の人物か?)の霧山城(氷上城)と同じく疑問が残る。福知山から塩津峠を越え・六人部からは竹田川沿いの分水界沿いに黒井へ入る街道筋がある。三ッ塚廃寺から天神-梶原地区にかけて延びる独立低丘陵の尾根上に矢谷城館・畑山城館及び其の南西1kmには黒井城攻防では水源を巡る逸話があり・明智の向城”一夜城”の伝承地小富士城がある。
土塁曲輪と背後の曲輪間:左右に落ちる大竪堀

更に小多利城館等の黒井城砦群が続きます。しかし友政城以外は畑山城館に大きな堀切が見られる程度で、いずれの城館も気付かない程に埋もれ浅くなった堀切や、僅かの平坦地形が尾根上に確認出来る程度?そんな中 ・城館遺構の目立たない矢谷城館の最高ピーク188mから南へ延びる短い尾根先の峰・黒井城からは畑山城館や小富士城の死角に隠れる様に長谷山城(北村城・船越城)がある。長谷山城の位置からは京都側の三和町から戸平峠を越えてくる明智勢が侵攻して日ヶ内城や岩倉城を落としてきた京都街道沿い。福知山方面からは古刹:岩戸寺へ抜ける巡礼道 ・間道があったか?これらの街道が眼下を通ります。この城が日ヶ内城・西山城館(?岩倉城)と共に黒井城支城群の一つとして 東口を守備した城か周囲の城とは大きく異なる
曲輪両端の竪土塁(土塁道)が曲輪を繋ぐ

縄張りからも疑問です。在城期間は極限られた短かい時期だったが城の縄張りや規模から・其の後も天正期にかけ改修・修築が続けられてきたものか?。丹波志に天正期の合戦に船越氏は討死とあるが此の城での合戦とも思えず船越氏が明智方か黒井城:赤井方にいたものか?も不明。尾根筋に梯郭式に曲輪を並べ主郭部付近に帯曲輪はあるが尾根端まで削平されて左右の下部に曲輪はなさそうです。山城裾の近在に船越姓の家はないが善阿弥入道直系の後裔・所縁の方がいらっしゃる様です。麓には高見姓もあり、私には船越氏が退いた後最後に残った城主高見氏の時に落城を迎えたものか。
曲輪間の切岸は高い(約5m程)

天正6年(1578)12月「丹波攻め」明智光春と藤田伝吾行政の軍により日ヶ内城・岩倉城が共に落城するが、岩倉城には織豊系の縄張りがみられると云い、京都側に通じる戸平峠の通行を押さえ・監視する明智軍の向城として再構築されたものでしょうか?。低丘陵の長谷山山頂(安世地山Ca185m)から尾根の末端近く 観音堂背後の真上には尾根端から1m程の段差で10mx30mの平坦地が続き、山側の段差を越えると自然崩壊なのか人為的に片側を削ったものか?
主郭櫓台!?の残置石材?

斜上する土橋状の尾根筋を登り続けていく。堀切らしい所もあったが(上部に削平地らしいものはなかった)竪堀が現れた。直ぐ前方に南端の土塁囲み曲輪の切岸が迫る。 竪堀は5?6条が4〜5m間隔で幅2m程・長さ約30m程で 平行に並ぶ見事な畝状竪堀となっています。「丹波志」に船越入道の館が有ったと記され「ふるさと市島の祠堂」により 長谷山城の位置が判って訪れてみたら何ともすばらしい畝状竪堀です。丹波でも極一部に残る山名氏の城や八上城向城として築かれた織豊系の陣城に畝状を見ることが出来るが丹波市内に竪堀・其れも6本もの竪堀が畝状に並ぶ山城はめずらしい存在。
主郭の背後に待つ大堀切と高低差10m程の切岸

高橋成計氏の調査縄張図の 白毫寺城にも6条以上の畝状竪堀群の存在を知ったが、さらに切岸高い上方の南端曲輪も尾根続き背後を除き三方を土塁で囲み、曲輪からは南斜面の畝状竪堀を上から見通せる。中村城 (北桑田郡美山町)の放射状竪堀を思わせます。侵入してくる敵勢の横移動を阻止し、 しかも高い上部の土塁付きの曲輪から各竪堀を見据えて狙い打ち出来る防備は完璧。 此の曲輪から次に上段曲輪の尾根側付根?左右には其々に竪堀が一条落ちる。
主郭北背後の二重堀切を俯瞰

曲輪西端を上り土塁が背後の曲輪に回り込むように斜上しています。高い段差(5〜8m)を越えて現れる4〜5段の曲輪は、いずれも尾根端一杯に広く丁寧に削平されています。其の為上部曲輪は竪土塁により上段の曲輪に繋がるよう?。ほぼ直線上の尾根筋に曲輪を連ねる梯郭式の城で 山頂部主郭西北に2mx3m範囲に残存する石材は城の守護神として愛宕や秋葉社等を祀った祠跡なのか、また段差2m程の最高地点の低土檀は櫓台か?。 櫓台からは尾根続の一段低い曲輪からは8m程の高く急な切岸を下って大堀切の底に降りる。更に土塁を挟んで先にも一本の浅い堀切があって最近の丹波の山城訪城では久しぶりの二重堀切に逢えた。長谷山城の城域は此処までの様で、後は緩衝地形の緩やかな尾根筋が続くだけの様。 188mピークを最高所に北から西へ弓なりに延びる尾根上に散在する矢谷城館のある主尾根に続いている。
其の先まで今回確認しなかったが北からの尾根通しに 2重の堀切だけでは防備が弱いが本拠:黒井城赤井氏側にとっては京都三和町へ抜ける戸平峠への重要な監視と 防禦の拠点となっていたのかも知れません。明智軍にとっても京都丹波側に残る黒井城:赤井氏方の援軍や八上城:波多野氏方の動きを監視する為には有効な城砦として転用されたとも思えます。

(丹波戦国史 ふるさと市島の祠堂 :市島町史実研究会編等を参照)

長谷山館(仮称)
  xxx Ca125m 市島町喜多

春日インタからR175を福知山方面へ走ると左手に黒井城を右手・竹田川沿い:小多利集落の先には山麓から 三角錐の秀麗な独立山塊春日小富士山城の姿を見る。明智光秀の第一次黒井城攻めの際の侵攻ルートは兎も角と福知山市からのR176・綾部方面からは県道708号・三和町方面からは 県道59号(戸平峠越)や
長谷山城と小富士城:中央部山麓付近が長谷山館

県道709号(三春峠越)・県道710号や県道97号(9号・本郷から鼓峠は京都丹波側からと、第一次黒井城攻めに明智方として参軍していた八上城主波多野秀治らが多紀郡側から侵攻してきた ルートもあり光秀が鼓峠を本郷から 三和町方面?へと敗走したルートでもある。此れ等のコース沿い周辺には攻守共に周辺には多くの付城が築かれ、
中程で右手は竪土塁線

また落とした城砦を付城として改修されたと考えられます。R176号「市島支所前」交差点から県道59号(市島和知線)を鴨庄川に沿いに進む車道の正面:左右に延びる丘陵上にも付城が点在しているが丘陵部を分ける切通状を抜け市島町喜多地区に入ると長谷山城(船越城・北村城)Ca185mがある。「長谷山城」については丹波市内には数少ない畝状竪堀群があることで知られるが畝状竪堀はこの県道59号を戸平峠に向かう直ぐ先:神池寺が
堀切上部は櫓台状を捲き込むように北斜面に落ちる

終点!!の県道541号分岐交差点側にも上牧城(仮称)ある。この交差点は例年真夏に実施されてきた「鴨庄案山子まつり」会場の入口でもある。今回訪れた長谷山館は長谷山城の北東尾根先端部にあって長谷山城への取付目標にしてきた観音堂から田圃と山麓沿いに北東へ進み墓地背後のフエンスを開閉して進み、 竹藪等が伐採された先:幅広い谷筋が大堀切にも見える!!が北東端から取付くと
手は竪土塁線

直ぐ斜面上に縦掘と畝状にも思えた深い堀切が二条落ちているが、大堀切東端を竪土塁が堀切最上部の櫓台へ延びる。尾根続きを大堀切で遮断する長谷山館(仮称 市島町喜多区)の居館遺構で竪土塁の側に二箇所ばかり小曲輪が付く。 堀切は最上部鞍部から北側斜面へも麓まで(比高約20m程・長さ60m程?)落ちる。尾根筋鞍部には幅広く厚い櫓台土壇?、切岸下部から削平も綺麗な3段曲輪が、
下部の二段曲輪間の高い切岸

7-8mほどの切岸下にも2-3段曲輪があるが、その先は猛烈な篠竹と急斜面の雑木藪。曲輪群からは確認し辛かった北斜面にも数m降りてみると浅く短く・消えかかり痕跡だけ?の竪堀が藪地のなかを5-6条落ちているのが確認出来た。永正6年以前:船越善阿弥入道が築いたと云う長谷山城だが永禄7年落城し討死したという。天正期以前なら三好・松永・八木城内藤氏等が丹波に侵攻した合戦かは知らず?。天田郡(福知山市)の塩見氏が三好方内藤氏と氷上郡(丹波市)の赤井勢力内に侵攻している。塩見氏と同族の船越氏は・長谷山館麓の墓地にみる安達姓からも同族かも?。
曲輪群の北面はホンの5m程下辺から5-6条の短い?畝状竪堀を見る

戦国時代初期の短い期間だが北村城(喜多村城・長谷山城)を居城とした築城主 :船越善阿弥入道以降も子に彦左衛門…が居り、代々家老職の安達氏や家臣:大井氏らも居り数代は続いた様…?。天正5年(1577)大軍で押し寄せる明智光春・藤田伝吾軍による落城時にも船越氏家臣の安達玄蕃・細見孫左衛門・樋口仁助・大井源五兵衛…の名があるが 城史不詳。 安達氏も安達玄蕃以前の名が不詳の為:此の長谷山館山麓墓地には安達玄蕃を安達氏先祖として祀られている。
上部三段の最大曲輪に入る南側の竪堀状は虎口!

家紋(表紋)は五瓜の内に尻合わせ三つ蔦・(裏紋)は五本骨扇子に日の丸とある。”五本骨扇子”紋…足立氏と安達氏も同族か!?。長谷山城麓界隈に船越姓はないが麓に後裔・所縁の高見姓の方が居られる。船越氏が退いて以後:最後の城主が高見氏だったか?。 長谷山館を降りてくると西方には長谷山城の西南端に小富士城が、南正面には神池寺からの尾根伝いの丘陵西端に孤高…とは言えたかだか標高312mの天ケ岳が横たわる。此処にも小富士城を間近に・黒井城をも望む山城遺構が眠る…


野村城(野村居館)   丹波市春日町野村字木寺城の内

R175号春日ICの西:野村交差点から集落に入り春日中学校前へ出た。野村城は学校の南へは田園が拡がる平地なのに惣山の地名があり”惣構え?”の城域に関連が有るのかもしれません。此処は県道69号(春日栗柄線)で国領〜栗柄峠を経て篠山市や京都・三和町へ通じる道で 天正3年(1575)丹波攻めで
南東角からの土塁線と田の中に櫓台:正面に茶臼山城

黒井城を攻めていた明智光秀が八上城主・波多野氏等と示し合わせた[赤井の呼び込み戦法]によって 命辛々京へ逃げ帰った街道です。赤井(荻野)直正の黒井城を北方に望み 弟・赤井刑部幸家が拠った三尾山城が街道(県道69号)に沿って 東に延びる東多紀アルプス山稜の頂にあります。二つの山城の中程に位置して掻き上げの野村城(土塁で囲まれた水田と神社を取り込んだ城域の東西約70m・南北に約85m)にある。
北東隅の土塁虎口跡


集落内の外れ;城域の北西部端に木寺公民館と八幡神社(城の守護神を祀ったものか!)がある。溝も川もない民家と田圃を隔てる境界の畝が異常に高く3m程もある。土塁と濠跡が続く南西角付近には約10m四方の土壇があって櫓台跡と思われます。黒井の本城に向う北東角付近には大きな凹角部がある。土塁幅も水濠(民家との間の畑地)の幅も広くて 深く切れ込む様に入る虎口・門?!(本来なら大手虎口・門でしょうが北は鬼門の為石燈篭が立つ南側か。
東面の土塁と濠跡(北角付近に虎口


北西の木寺公民館・八幡社の建つ辺りに大手門が設けられていたのでは!?、残存する土塁の北面も八幡社近くの竹藪部分が少し高くなって警護を堅めているように見える。黒井城側の北側鬼門を避けた西口が実質は大手だったかも。内掘・外堀と二重環濠に囲まれた掻上げの城館が有ったといわれます。外堀は埋めら水田になって遺構は確認出来ないが 内掘からはおよそ其の規模状況が確認出来ます。
野村城・南東角土塁

広い方形の台地(田圃)を囲む土塁!が北側の神社から東の集落に沿って南側へと続いている。農耕地として削平され土塁の高まりに濠跡等の縄張りを想定しみる。 田園の拡がる南側を走る車道に沿って堀ともなる川がある。車道と民家のある東側の角(辻)には不動尊や地蔵堂の祠が建つ。比較的狭範囲に祠が建つのも珍しい。大峰講の役行者と 前鬼・後鬼を浮き彫りした記念石碑が建つ前から集落を抜けた公民館に神社が建つ。東面の車道に沿う濠跡と大土塁が北角から西へ延び竹藪となっている高土塁の続き ・城域内の北西角付近には子供の遊び場ともなっている八幡社が建つ。
南西角の土壇:櫓台跡?

城主の守護神として八幡大菩薩を祀ったものか。此処まで高さ約3m(八幡社:(公民館近くの竹藪は約5mと高くなり居館の大手!?と思わせる)の土塁遺構はほぼ完存しているが、南面の土壇と濠の一部が残る以外は西面が圃場整備等で破壊されているようです。深い溝は濠跡なのか?多くの小山や丘陵に囲まれた山間の兵庫丹波に僅かでも遺構が確認できる平城は 篠山市に大山城・丹波市は芦田頼季の栗住野城
野村城・東側土塁と濠(右上方に土壇・櫓台?)

赤井氏先祖を芦田氏とする赤井家清の後屋城・黒井城主・荻野秋清の時!!?野村城をと其々に 平城を芦田一族が築いています。野村城の創築時代や城主・野村氏についても不詳だが応仁の乱前後の築城と推察されます。 「丹波志」には室町時代後期の永正年間(1504-20)野村(藤原)出雲守家長 (長久!)が修城し2代目:野村信濃守家久へと続き 天正3〜7年の三代目野村伊予守太郎兵衛有久の時に落城したが 中世の典型的な掻上げの城館・野村城は黒井城:荻野直正の台頭とともに、その傘下に配され支城として但馬・丹波・京を結ぶ街道の要衝にあって機能したのでしょうか。 野村城・南東角の土塁と水濠跡

農耕地となっているが土塁の続く南側の西端に7〜9m四方・高さ70cm程の土壇(土塁の残欠か?)があって櫓台跡とされます。鬼門の北側を避け南側を大手としての物見櫓だった様です。最後の城主・野村太郎兵衛有久の時、 天正3年(1575)明智光秀の丹波攻めでは朝日城三尾城でも合戦があり光秀は撤退しているが此の時の戦いで野村城は落ちた様です。天正7年(1579)の黒井城落城頃まで持ち応えたかかどうかは僅か300m程西には光秀が
野村城・南面の水濠跡と南東角の土塁

黒井城の向城として築いた茶臼山城や棚原城・惣山城 ・火山城等の付城群があり黒井城落城まで存続したとも思えない。 赤井の黒井城・波多野の八上城共に主城を囲む狭範囲内に多くの砦城があるのは”霧深い丹波”にあっては通信手段に狼煙が有効とはならず旗や鐘・太鼓でも連絡が取れる”知らせの城”の中継地点としても機能させる必要があったのかも知れないが。

茶臼山城  茶臼山 188m     丹波市春日町奥野村

野村城の西方に 荒々しい山容を見せて聳え立つ向山連山を背にして、こじんまりと小さな”おむすび”状の小山が見えています。野村地区のほぼ中央にあって此処から北方約2.5kmには遮るものもなく 其の北正面に黒井城を望む比高約70m・周囲1km程の小さな独立丘陵の山頂部の4〜50m四方に曲輪と土塁・上り土塁の遺構を残しています。
茶臼山城と千丈砦〜黒井城の遠望

登路を北面の萬松寺駐車場から南の採石場側へまわり尾根通し、羊歯類や倒木、疎林の急斜面に足をとられがちですが・直接取り付いて適当に山頂を目指します。山頂部が見えてくると斜面下方からも曲輪の切岸状況も明確です。
主曲輪の西ー北面帯び曲輪?(段差のある腰曲輪を並べる!!!)

3〜4mの切岸で2段の帯曲輪に囲まれて最上部は ”への字”形に延び南背後!にも一段低い曲輪がある。 土塁や堀切・竪堀等の防備施設はなさそうだが各曲輪は丁寧に削平されています。茶臼山城は天正3〜7年「黒井城攻め」明智光秀の築いた陣城です。黒井城の真南に位置して正面から 城兵の動きを把握出来る格好の位置に有って山頂に約40mx30mの平坦地があり、
北面の帯曲輪から主曲輪に入る上り土塁

周辺には馬縄手・勝縄手の地名が残り古戦場の名残をとどめています。これ等は明智勢が茶臼山城を築く以前・黒井城砦群の一つだったのでしょうか?。天正3年(1575)八上城主・波多野氏等と示し合わせた[赤井の呼び込み戦法]によって明智光秀が命からがら京へ逃げ帰った街道に近く、その際の”勝ち戦”の頃に付けられた字名ではないかと思われます。長期籠城戦となった篠山市の八上城攻めの明智軍は多くの向城を築いて包囲しているが、 比較的短期戦となった黒井城攻めに余り向城を意識していなかったが、
主郭北面を二段の帯曲輪が捲く

代表的?な黒井城の陣城茶臼山城が本拠の黒井城【城主赤井(荻野)直正】を目前に其の弟:幸家の三尾城との間にあり、しかも直近の野村城とは僅か東北に500m程しか離れていない。 野村城は茶臼山城の築城時には、既に落城していたか・野村城主は黒井城に籠城して廃城となっていたのかも知れない?。茶臼山城の西には火山城(存在を知ったときには 既に北近畿自動車道工事の土取場として消滅 ・遺跡分布図に示されるだけで詳細不明)や陣城の東側に古池(貯水池)を挟んで惣山城・新池を挟んで棚原城があり黒井城包囲網の一端を負っているようです。
西山麓の萬松寺から望む茶臼山城

湿田地帯の黒井川右岸 ・向山連山山裾の街道監視に当っていたものか?。野村城落城の頃、明智勢の手で短期間に向城として改修されたものと思われる!!。 茶臼山城の主曲輪は1段下に10〜15m幅、さらに下がって5m幅の帯曲輪がある。曲輪段差は北面の黒井城に向って開きます。林の中で360°展望は皆無。
荻野館  xxx xxxm   丹波市春日町棚原字前地

春日インターから県道69号(春日栗柄線)に入り野村城側の春日中学校前を通り、 段々に拡がる地形に由来する棚原地区に入てくると県道東側に天満神社の小さな森があります。三尾を望み舞鶴自動車道と県道に挟まれた字前地の、 狭い地区内の宅地と農道に囲まれた田圃の一画には堀・堀の内・ヤグラ等の居館跡の名残を示す字名が残る中世の方形館がありました。
荻野館南から・西角が天満神社

室町時代中期以降・荻野氏の方形館に、土塁や堀を巡らせた遺構を探して見ても其の片鱗を窺えるものは圃場整備事業により発見され【昭和59年(1984)の発掘調査で東西約120m・南北約100mの範囲に土塁・堀・柱穴跡等を発見】調査後は田圃となって遺構も消滅しています。県道69号側に菅原道真公を祭神とする天満神社があり、慶長8年(1603)の建立され慶長18年 (1613)に天台宗神池寺の宝珠坊により松峯山西林寺を中興され、
荻野館南東角の枡形側溝から東端部

貞享3年(1686)神宮寺「霊威山神徳寺」となったが、明治維新(1868)の神仏分離令により 神徳寺は廃寺となり新たに天満神社となっています。なを舞鶴自動車道に近い、進修保育園側には名工・難波金兵衛の手になる美しい梅ヶ淵の石灯篭が遠く三尾山の姿を借景に建っています。



萬松寺 丹波市春日町野村84

荻野(赤井)直正は 織田信長に服命し丹波三郡(氷上・天田・何鹿)を安堵されたが元亀2年(1571)但馬此隅山城の山名祐豊が氷上郡に侵攻して山垣城足立氏を攻めるが赤井・荻野氏は山名勢を退散させ・余勢を駆って但馬側へ進攻竹田城を攻略し山名氏本拠の此隅山城へ迫り山名氏は織田信長に救援を要請した。
萬松寺

ようやく明智光秀を丹波に派遣し「丹波攻略」が開始された天正3年(1575)〜・・多利の春日小富士山・野村の茶臼山に陣を敷き、周辺に警戒・監視拠点の付城を置いて黒井城を包囲。当山も黒井城攻略の兵火に罹り開山等由緒の詳細は不明。亀命山萬松寺(曹洞宗)の山門からは、駐車場を隔てた向かいに立つ低丘陵が陣所を築いた茶臼山城で黒井盆地を隔て遮るもの無い北方に黒井城-千丈砦が望まれます。西に火山城・東には野村断層の断層崖上の岩盤を削平した惣山城・棚原城が僅か1.5km程の範囲内に並びます。
丹波佐吉の地蔵像

萬松寺山門まで参道から、もう枯山水の石組が置かれ、そのまま本堂前の石庭に招かれる感じ。茶臼山城への訪城の他に萬松寺を訪れる理由は二つありました。本堂前の左手築山の中央に「経塚」と刻まれた台石があり、其の上には蓮弁に座す一躰の地蔵尊は丹波佐吉の作品という。直ぐ側には重厚・優美な大型の石造宝筐印塔(県指定文化財 昭和43年3月22日)が建つ。石英粗面岩質製で宝珠の尖端を損傷するほかは粗完型:現高は2.20m台石は上端反り花座付きで四面に輪郭をとり、内に格狭間を入れるが正面だけ蝙蝠狭間を彫ってあり、此の様な格狭間の組合せは比較的珍しいとされています。相輪もよく整い全体の姿態も美しく、各部の手法からみて南北朝期〜室町時代初期にかけての築造と推定されるが
丹波佐吉の地蔵像(袈裟の衣紋)

丹波志にも氷上郡志・春日町誌にも記述無く由緒・伝承については不明。宮田の宝筐印塔 (篠山市内最大)にも似て一際目立つ宝筐印塔は元:黒井東山(R175号線沿い・猪口山(黒井城)東尾根突端部)の高龍寺廃寺にあったものが 埋立て工事用の土採りで放置されていたのを萬松寺の豊田師が貰い受け此処に移され安置されています。「希世霊彦 京都の乱を避けて丹波にあり、聴松寺を同国野村に建立し、細川満元【天授4・永和4年(1378)-応永33年(1426)は室町前期:摂津・丹波・土佐・讃岐の守護となり応永19年(1412)管領職に就任】の冥福をたすく」(大日本史料)に記されているが聴松寺跡や希世霊彦についての文献 ・資料は未だ発見されていないようで、満元供養塔とは推定にも至っていない!!…、
室町時代初期と推定の宝筐印塔

満元については・小室城主芦田八郎金猶が主君の丹波守護・細川満元の供養のため嘉吉元年(1441)に建てたといわれる供養塔が金猶の供養塔と並んで青垣町瑞雲寺に祀られています!!。山門前の由緒石碑等による萬松寺は天正5年光秀「丹波黒井攻め」の兵火で焼かれ別所に移っていたが江戸時代初期の寛文元年(1661)藩主松平伊賀守(篠山藩4代形原松平康信の事か?)の許可と円通寺末としての承諾を得て現在所に宗啅和尚により開基されました。茶臼山に陣所が置かれたのは1回目の天正3年よりは2回目の丹波攻めの時なのかも!!?
(現地:萬松寺案内説明板 宝筐印塔は県教育委員会H3年11月を参照)
  丹波霧の里へ
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