三尾山北方の低丘陵・柚津周辺  尉ヶ腰山(点名:西山王)〜点名:柚津/点名:多利
丹波市(五万図=篠山)
尉ヶ腰山(点名:西山王)と点名:柚津と周辺丘陵の山城 2004年11月27
尉ヶ腰城から望む三尾山

近畿の山城: 尉ヶ腰城と野々間南城館・野々間北城館
 柚津城  野上野城 桂谷寺裏城館
  野々間遺跡(兵庫丹波初見の銅鐸出土地)

黒井城の 猪ノ口山(天神山)から千丈寺山(千丈寺砦)〜ヨコガワ峰の稜線を西北(左手)に望みながらR175号を北上し舞鶴自動車道の春日インターを 過ぎた所で右折、高架を潜って春日観光農園を目指します。山裾に向う集落の正面低丘陵の山間から奇異な山容の三尾山が姿を見せてきます。野上野(のこの)の塩谷集落の南から小さな峠に向うと、エンジン音が辺りに響いてきて キャピタル・スポーツランドの看板と左手脇道にゲートを見ます。この峠上にある春日観光農園と同じ、春日観光が経営のゴーカートのサーキット場です。この峠から道も無く岩盤混じりの急斜面を雑木の手懸かりを頼りに植林帯へ登り抜けた尾根先から東へ続く尾根通しに点名:柚津(3等三角点 269m)に至る尾根上に野々間南城館があり、 更に北に向い260m峰から西へ延びる尾根末端が塩谷集落に落ちるが、其の長い尾根上にも野々間北城館の遺構が点々と残るようです。
点名:柚津の左に鋸山・右に三尾山を望む

その丘陵部突端の塩谷に丹波では珍しい銅鐸が出土した野々間遺跡があって、今まで不明だった銅鐸の埋納状況が 発掘で明らかになった事が特筆されるようです。詳細は春日歴史民俗資料館の現物と解説案内で御覧下さい。また点名柚津から南に延びる尾根の末端は柚津集落の西に突き出して竹田川の縁に落ち込みますが、 この突端ピーク付近には柚津城が有りこの後に訪城します。それでは尉ヶ腰城からスタートして北上して柚津に至り、野々間遺跡への周回コースを歩いてみます。


 
尉ヶ腰山と点名:柚津の低丘陵に潜む城塞群を訪ねて 2004.11.27
 
春日IC出口から R175を右折して春日観光農園を目指しキャピタル・スポーツランドと春日観光農園の看板をみる峠車道脇の広いスペースに車を置いて、先ずは峠を南に越して降って行きます。左右に見える丘陵を外れる所に”柚津・大崎方面”の道標のあるT路に出ます。此処を左折して柚津城を探すのは後にして 車道右手(西方)に見える独立丘陵を成した低い山塊に向います。
遠く三尾山を望む尉ヶ腰城域 (右)と野々間北城館西端部(左)

この丘陵は今通って来た柚津の山塊に囲まれた谷間の道路と、西から南面を舞鶴自動車道と並行に竹田川に挟まれて、北面は低山ながら急斜面となって要害となっています。丘陵中程から北部にかけては遺構も希薄で、北端部は大きな土取り場ともなっている。車道・柚津への 分岐の対角線上の西に見える丘陵部の南端部に半円形のピークを見せているのが尉ヶ腰山(4等三角点 点名:西山王153m)は尉ヶ腰城の在ったところです。
サーキット場から260m峰と野々間北城館の城域を望む
 
ピークハンター以外は登山対象ともならない山域で、城砦等の情報も殆ど無く今後も殆ど知られる事もなく、調査が及ぶ事も無さそうな数箇所の、知られざる城館ですので行動パターンに添ってレポートします。コースは西山王(尉ヶ腰山153m) 尉ヶ腰城〜春日農園〜野々間南城館〜柚津(269m)〜260m峰〜野々間北城館〜塩谷・野々間遺跡〜春日農園からは車で柚津へ移動して柚津城へ登ります。
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野々間遺跡 (銅鐸出土地)>  春日町野上野塩谷

昭和56年(1981)11月1日偶然・土地の所有者が自然薯採取中に弥生時代の鋳型の青銅祭祈具とされている1号銅鐸【外縁付鈕(ちゅう)U式4区袈裟襷文銅鐸20.8cm】が発見され同年12月23日には 教育委員会の調査 中に其処より1.8m西寄りで2号銅鐸【扁平鈕(ちゅう)式4区袈裟襷文銅鐸21.1cm】が埋納されたままの状態で発見されたが 共伴遺物等他には何も検出されなかった様です。説明部分が剥がれかかった案内板には銅鐸の埋納模式図が 描かれています。
野々間遺跡(銅鐸出土地)
 
丹波地方の銅鐸出土例は文久元年 (1861)京都府北桑田郡下弓削で扁平紐式銅鐸が発見されて以来のもので兵庫丹波では初見の例となっています。特に野々間遺跡での銅鐸発見はテラス状に造られた大きな穴の中に埋められており、今日まで不明とされていた銅鐸の埋納状況が明確になった事でも、重要な意義をもっています。詳細説明は実物の保管展示されている春日町歴史民俗資料館で 確認出来るのでは…!なを七日市や野村・棚原等、極周辺での調査も行われたようですので、弥生時代以降の遺跡として野村構居や棚原の荻野館、小多利の城館や一夜城の伝説だけでなく 春日小冨士山の光秀の黒井城向城も、遺構確認され縄張り図も作成されているのかも知れません。
野々間北城館の西末端か!役行者の祠
 
塩谷集落から 裏山への登り口には如来像や中野間に有って此処に移設されたものか !あらぬ山側を指差した道標石仏が祀られたお堂が建っており、 愛宕山の常夜燈の横から中腹に登と、役行者を祀る祠があります。地元では・ご神体の銅鐸が何時の頃か山麓へズレ落ちて埋まったものか、発見箇所に埋められのではとも云われているが?説には無理があるよう…伝説として 何かストーリーが残っていれば 楽しいのですが!!。
現地案内板 平成2年 兵庫県教育委員会 参照  兵庫県指定H2年3月20日史跡)

 

尉ヶ腰城と野々間南城館・野々間北城館
柚津城 野上野城 桂谷寺裏城館

尉ヶ腰城(棚原城)
  尉ヶ腰山(点名:西山王)153m 最高地点170m 春日町棚原

春日観光農園の南で柚津・鹿場への道路案内標識の手前から西に向う地区内の道は丘陵の山裾に立ち並ぶ山王の集落に向います。低いが断崖状の急斜面は集落内から取りつくにも登路も無さそうです。丘陵の南面は竹田川が 其の裾を流れて天然の濠となって廻る尉ヶ腰城がありました。
尉ヶ腰城南端(主郭部)から低い稜線が北に延びる

県遺跡分布地図による尉ヶ腰城の城域は春日町棚原の東・竹田川を挟んで北に野上野・南の国領に囲まれた半独立丘陵部全域に分布する様だが 棚原地区史誌等・一般的?には山域南端の尉ヶ腰山(153mの三角点峰・点名:西山王)とされるが、尾根続きの北方最高地点Ca170mを主郭と考えたい。此処に立つと東西・南への三方に 長い尾根上にフラットな平坦地形が延びるだけ?だが唯一・最高地点の主郭と副郭を区分する空堀が埋もれかけなのか切岸崩れ段差は僅か1m程で遺る。
城域は南端(正面)から北方最高所170mへ延びる :進修小学校から

空堀は左右の斜面へ延びても大きく・長く落ち込む堀切状ではなく、単に主郭・副郭を分けるだけ?の箱堀状。 最高地点Ca170mからの東尾根筋末端部は足下に「なりあい街道」(成相寺に至る西国巡礼道・但馬・若狭・丹後への街道)が通じる南北に県道138号線が越える峠に落ちる。東尾根末端部の自然地形・フラットな平坦地形ながら 通行監視の砦を兼ねたものか?。峠を経て野々間南城館の在る東側の尾根筋に繋がる。峠を北に越えた所には野々間遺跡があり 弥生時代の鋳型の青銅器が出土している。
尉ヶ腰城北:丘陵部最高地点より東尾根先端部の曲輪

小さな谷間を隔て北側尾根上に野々間北城館が在る。東尾根筋の曲輪群からは隣接する野々間南城・野々間北城との連絡ルートでもあったか?と期待したい。尉ヶ腰城城域は最高地点170mと南尾根先端部の三角点峰153m共に平坦部(曲輪)城砦遺構は不確かだが築城目的は異なる様。 共に赤井氏配下の城砦群として機能した城なら丘陵北部の最高所170m東西尾根筋は竹田川沿い・R175号に繋ぐ但馬街道と若狭・丹後街道の監視砦。
尉ヶ腰城北:丘陵部最高地点(Ca170m)の堀切

南端部153mは矢継ぎの城の伝承があるように黒井城三尾城の中間にあって連絡・通信用の”繋ぎの城”としての狼煙場であったと思えます。さらに県道69号線は栗柄峠から篠山市へ、栗柄峠で合流する県道97号線は鼓峠を京丹波町へ通じる但馬街道の要衝。”丹波攻略”明智光秀による第一回目の黒井城攻めに敗退した光秀が命辛々逃れたのが此の街道筋。尉ヶ腰城の主要郭は 丘陵部南東端の山王橋から望むと、川を濠とし三尾城を間近に・主要要衝監視が出来る丘陵南端の 153mピークにあったと推察しています。
尉ヶ腰城と竹田川(なりあい街道:巡礼橋から)

「ひょうごの城紀行」の城リストでは尉ヶ腰城(国領)を 三尾城と黒井城間にある狼煙砦として、棚原城を黒井城の支城として別掲されているのですが、此処も棚原地区で棚原城の別名がある。竹田川を挟んで南側の 国領には別に幾つかの砦もあるようです。また棚原城の所在は不明だが、 この山域以外に棚原地区内では平城として圃場整備で消滅したのか不明だが、支城規模の縄張り遺構をもつ城域は無さそうに思える。
二重堀切の中洲の様な曲輪(尾根南側から)


自然地形の平坦地程度しか確認していないので、明確になるまでは一つの城域として、野上野と竹田川を介して国領との境に位置しする三角点:尉ヶ腰山 (西山王)の山頂を本郭とする丘陵南端一帯を棚原地区郷土誌等にも尉ヶ腰城(棚原城)の城域とされており、尉ヶ腰は城ヶ越・城ノ腰の呼び名と同様に城砦に関係した名残ですね。殆ど自然に近い平坦地?曲輪を観るが切岸や土塁による段曲輪が形成され ているわけでもない。丘陵南端の点名:西山王(尉ヶ腰山)側:ぐるりと竹田川に沿って丘陵を廻り込んで 舞鶴自動車道路と並行に登路を探して棚原地区へと 北上していくと大きな墓地に出た。東側にもあった墓地の反対側のようですが、此の墓地の奥から丘陵に稜線を目指してみます。
尉ヶ腰城南端(主郭部)西面の腰曲輪・犬走り?状、
 
少し括(くび)れた部分は鞍部に乗り上げるが、大きな二重堀切?状になっている。 堀底道を辿れば・おそらく東側の墓地へ出るはずです…城域は此の小さな独立丘陵の全領上に拡がって曲輪等の遺構が残るようで鞍部から 2/3以上を占める北部分にも削平地程度は点在している様だが明確な遺構を確認していません。城域の主郭部は鞍部より南に集中しているはずだが二重堀切以外に明確な遺構を見ないまま南端部のピーク尉ヶ腰山(4等三角点 点名西山王 153m)に着いてしまいました。

尉ヶ腰城南端の主郭部

狭い山頂部は僅かに平坦で (約30m四方)雑木藪に囲まれ遺構確認など出来る状態にはないが立木の間からは真近に三尾城を望みます。雑木がなければ黒井城も同じほどの距離に見えるはずです。 曲輪等の遺構か自然地形かの判断までは出来ません。辛うじて山頂主郭部(?狼煙台!)の一段手前(北面)に 僅か2m程の幅で主郭の狼煙台 ?のある曲輪に沿った細長い帯曲輪と思える平坦部が有る 程度ですが果たして…!!曲輪かどうかの判断も?悲しいかな其の眼力はない。
二重堀切と土塁曲輪(鞍部から西方)
 
尉ヶ腰城が黒井城 三尾山城の中間にあって両城へ矢文の受け渡しを行った矢継ぎの城とも呼ばれる伝承が有って、其れほど赤井(荻野)悪右衛門直正の黒井城と弟・刑部少輔幸家の三尾城に近く”狼煙の砦”でもあり連絡・通信用の”繋ぎの城”として重要な位置にありました。京都府側から三春峠を越える街道と多紀郡(篠山市)から栗柄峠を越えてくる街道を守備する戦略的にも 重要な意義ある城塞群の中には八上城の波多野秀治の義弟で黒井城の直正との連携では大活躍し、波多野秀治亡き後の八上城に立て籠もり落城まで残り自刃した二階堂秀香の大路城も有る。
野々間南城館西端の曲輪の真下に棚原の峠と尉ヶ腰北郭部東末端

 
大路城は黒井城の支城というより、栗柄峠を越えてなを八上城の 最前線基地としての要素が強いようです。大路城の在る三井庄に入るまでには未だ此れ等幾つかの城塞群を位置だけでも調べて・訪城予定ですので数少ない城史が残る山城の楽しみは残しておきます…。尉ヶ腰城や柚津城等この付近の城館は 永録年間(1558-70)赤井幸家が三尾山に城を築いた頃と同時期に築かれたと考えられるが明智光秀の丹波攻めによって天正7年(1579)三尾城落城と共に、三尾周辺の諸城と共に運命を共にしたと思われます。尉ヶ腰山を後に鞍部の二重堀切に 引き返し北への尾根を辿ってみます。

野々間南城館・野々間北城館  春日町野上野

”矢継ぎの城”として黒井城と 三尾城の中間に位置し”知らせの城”として機能した”尉ヶ腰城”ですが、遺構は 南端の尉ヶ腰山(西山王)の狭い山頂にある平坦地の狼煙台?が主だったのでしょう。鞍部に見た大きな二重堀切以外には防備施設施設の堀切や土塁を見かけない。低い丘陵の尾根上には低い段差で切岸を持たない平坦地が点在するが城砦遺構なのか ?自然地形か判断出来ない。
野々間南城館西端の峰(峠南側から)

山域の北端は土取り場の為、車騒に釣られるように春日観光農園施設のある峠に降ってきた。連続する車騒は峠にあるゴーカート等のサーキット場となっているキャピタル・スポーツランドからです。車道の峠道から 仰ぎ見る目前のピークへは踏み跡もなく、 岩盤が剥き出している急斜面上の雑木藪を適当にあしらいながら、左手の植林帯へ捲き上がりながらサーキット場を真下に見ながら20mX30m程の 平坦地の頂に辿り着く。 登ってきた西側は断崖で此方も真下の、取付き点付近の峠に停めた車が見える(上の写真を参照してください)。
点名:柚津から三尾山と柚津城(手前右)

峠に対峙する尾根上は尉ヶ腰城域の東北端部です。野々間南城館の西端部の平坦地からは比較的緩やかな尾根道が点名柚津(269m)に向う。 此の東尾根途上の 最高ピークCa200mの平坦地までの東西約30m程が野々間南城館の城域で此処も尉ヶ腰城の北部城域と同様に、稜線上やピークに平坦地が3箇所ほど点在するが防護施設は見当たらない。城砦でも無く居館とも呼べない ?尉ヶ腰城や柚津城の後方支援にあたった城館があったのでしょうか?。小さな山域ですが点名:柚津からの主尾根に出ると途端に展望が拡がり 直ぐ南50m程に最高峰・柚津とその左肩に三尾山、右肩奥には鋸山が遠望出来ます。野々間の両城館の城域からは 外れていますが展望は良好ですが此処まで登ってこなくても ”見張り所”機能は柚津や尉ヶ腰の両城で充分カバー出来ているようです。
野々間南城の長い平坦地
 
点名:柚津から北へ尾根からは 黒井城が五台山〜愛宕山〜五大山の稜線を背景にして小さいながらも、石積みの城・赤井直正の丹波氷上の本城の 風格をもって立っているのが望めます。しかし高度が少し下がり、北へ辿って260mピークから90°西へ向う野上野集落の 南方の丘陵は此の260m無名ピークから、西末端の塩谷集落までの東西約1.2kmの長い稜線上に点在する曲輪を持つ野々間北城館の城域です。 雑木の尾根に入る此処からは倒木と消えそうな踏み跡が続きますが、随所に広い平坦地を見ます。
点名:柚津付近から黒井城(中央)と五大山〜五台山の山並

野々間南城館と同様に 野々間北城館も、曲輪とも判断できない平坦地の角も明確でなく、段差も小さく曲輪を護る切岸や土塁・尾根を遮断する堀切もみない。尉ヶ腰城の南端部や柚津城が、府県境の三春峠を越える街道や多紀郡(篠山市)から 栗柄峠を越えてくる街道の守備についての戦略的にも重要な位置にあるのに対し、尉ヶ腰城の北城域や野々間南城館・野々間北城館は、城域の防備もさることながら、その位置に在る事の存在理由が良く分かりません。丹波比叡・妙高山の西に位置していますが、この山を越す間道は三井庄に通じるものはあるが西へ越すルートは見当たらない?。通行監視が必要なら城域は 東側にある筈だが福知山から塩津峠を越えてくる街道や六人部(むとべ)から竹田川に沿って
野々間北城から野々間南城と尉ヶ腰城(右の山塊)

来るルートや京都・三和町から戸平峠を越えて来る街道の守備にあたったにしても野上野周辺では奥まった位置にあり、もっと適所は他に有る筈…不思議な城域です。野上野城の土豪・吉住卯之助か此処を攻めた赤井直正家臣の金村左衛門に関連した 城館なのか!天正7年・優勢にたった明智光秀が黒井城向城として黒井城に正対する茶臼山城を本陣として西口に高見城側を分断するカンジョウジ城朝日城東口の栗柄峠を越える但馬街道を押さえる、 包囲網として築かれた臨戦的なもので、しかも後方支援的な位置にある城ですから、
野々間北城・長い尾根上に点在する平坦地
 
防備体制の薄い野上野周辺に平坦地だけの城館遺構があっても意義有るものと思えてきます。華々しい歴史も 伝承もなく雑木藪に埋もれた城館には町村史や城史にもスポットを浴びる事無く、築城の目的や落城時期・城名さえも登場しないが、丹波市が発足した今こそ市島町・春日町・篠山市・京都府県境にある小城塞群に 丹波の歴史を見つめ直して再度調査・研究が進められる事を希望します!!。



柚津城
 城山 228m  春日町柚津
 
尉ヶ腰城への最初の取付き時に見た二重堀切以降、歩き続け尉ヶ腰城と野々間南城館・野々間北城館には平坦地以外には曲輪の明確な段差や土塁の高まりも 堀切等遺構も見ないまま藪を抜け出ると突然・役行者を祀る祠のある台地に出てきた。野々間北城館の城域西末端の曲輪とも思われますが、此処からは急な細い参道を降って塩谷集落の観音堂!側に降りてきた。御堂の中には大日如来等数体の石像が並べられ祀られています。
柚津城主郭北面切岸

石塔・石仏が並ぶ北端には涎掛け?の内から手を出して行先の無い崖を指差して立つ道標石仏がご愛嬌です。台座の中野間は此処・野々間を指すのでしょうか。駐車地点のSTART地点までは約250m程。野々間遺跡の案内板が建っているので 寄って行きます。春日観光農園から再度・尉ヶ腰城を右手に「柚津・大崎方面」の道標を見て左折 左手の山際を柚津集落に向います。この先・竹田川に沿って鹿場・三井庄から三春峠を越えて京都府側に通じる要衝を二階堂秀香の大路城が、南には赤井幸家の三尾城が多紀(篠山市)側からの栗柄峠越えの要衝を監視しています。
柚津城主郭

柚津城は野々間南城館から辿った点名柚津(3等三角点269m)を南へ突き出す丘陵東側の 南末端の228m峰に在って、尾根先を廻り込んだ柚津集落からは西方の丘陵・城山と呼ばれる比高120m程の山頂に立地しています。「丹波志」に 近藤丹後守の居館跡と記されているだけで、築城時期等の城史一切不明だが藤原氏支流の近藤氏と推察すれば、
柚津公民館からの柚津城

黒井・国領・船城・多田・野上野・棚原・中山…等々:春日部荘の総社が春日神社。永禄11年(1568)関白近衛前久は足利義昭により朝廷から追放され、信長に帰洛を許される天正3年(1575)まで此の地に住んでおり、黒井城主:赤井直正の妻は近衛家の出。近衛家に随行してきた近藤氏が 赤井直正夫人付として春日部荘に残ったものか?。尉ヶ腰城と同様に要衝の街道筋を守備した三尾城の城砦として赤井幸家の支配下にあったもので、 天正7年(1579)の黒井城攻めの際に三尾城と共に落城したと思われます。
柚津城主郭から三尾山(正面)

近藤丹後守を先祖とする近藤家の本家には五人張りの弓が遺されていたという。直ぐ西方約1qに在る尉ヶ腰城には 黒井城三尾城の中間にあって両城へ矢文の 受け渡しを行なった矢継ぎの城の伝承を彷彿とさせる!!。家紋の丸に鹿角からは東並びの鹿場西城館・鹿場東城館 (春日町鹿場中地)も近藤氏関連の城館かと 思わせるが単に偶然か?。柚津集落内を公民館から北へと 進みながら東面からの登路を探していくと寺への参道らしい急な石段がある。
柚津城主郭西尾根に三段程の小曲輪が並ぶ

石柱も無く寺名を記したものは何も無かった ?(気付かなかったが)が削平された高台の境内には立派に刻彫装飾された大日堂が建ち、稲荷神社の祠が奥に祀られる。その稲荷社の裏手から枝尾根を伝って城域に向ってみます。点名:柚津との主稜線に出ると踏み跡も明瞭となるが 藪の尾根上には、城域が近いと感じさせる気配さえ希薄です!!末端のピークの約25m四方の平坦地に着いて初めて此処が曲輪・今登った 3〜4mの急斜面が切岸・その取付き付近に幅の狭い通路状に犬走りか?
高尾城から尉ヶ腰(前方左)や妙高山を望む
 
帯曲輪を覚えますが斜面途中にあり崩れた遺構状態は雑木と藪で 見通せず判然としません。山頂部も雑木の中では身近に見える筈に三尾城さえ望めません。西に一段下がった所にも 小広い平坦地が在り、更に曲輪遺構は有るのかもしれません。堀切も在った様?だが気付かなかったくらいで、城郭の知識も浅く詮索!を止めて元来た道を引き返します。


桂谷寺裏城館と野上野城(多利城)
桂谷寺裏城館  点名:多利 222m  春日町野上野
野上野城(多利城)
 城山  Ca260m  春日町野上野

黒井城主・赤井(荻野)直正が幼名 :才丸の頃、京丹波の内藤氏と抗戦して追い返し初手柄を立てた野上城直正病死後、但馬出兵中の城代・幸家が 黒井城の急を聞いて佐治から黒井へ越えた由良坂にあった牛河内砦に寄ったあと尉ヶ腰城柚津城を訪れた際寄れなかった近くの城を訪ねます。
桂谷寺裏城館(中央右)と小冨士山(左端)
 
前回はR175号の春日インター直ぐ先で左折したが、 今回の峰続に隣接する二つの城へは其の丘陵北裾を削って、舞鶴自動車道が付けられているので北側から取付ける場所が分からず、 南側からと考え”七日市”標識を見てログハウスの建つ角を右折し、多利と野上野集落を分ける様に走る舞鶴自動車道を潜ります。高架を抜けると田園風景が拡がり、左手奥に春日小富士山が美しい山容を見せています。
野上野城遠望
 
丹波比叡・妙高山から西へ突き出してきた低丘陵が、野上野(のこの)地区で 黒井の盆地に溶け込むように落ち込みます。天正の頃・明智の黒井城攻め向城として一夜城や、黒井城の水源を聞き出して落城を早めた 伝説の山小富士山城。正面の低丘陵には、こんな所に城砦があったとは思いもよらない穏やかな峰がウネウネと妙高山に延びていく。野上野の田中奥集落に「照月山桂谷寺」の石標を見て進む先に
桂谷寺裏城館があります。
桂谷寺裏城館の城域西端部にある祠跡

【桂谷寺裏城館】寺境内から入って行けそうですが山道もなさそうな裏山へ踏み込んで行けるほど厚顔でも無いので、 引き返し集落直ぐ先から谷沿いに墓地の裏手の出て、竹薮の斜面から尾根に出る手前では高さ2m・幅1〜2mの段差を6〜7段ほど越えます。尾根西末端へと下っていくと3m程の岩が突出ており側に石燈籠が建って居り、 間には石組み祭壇の祠跡がありますが、もう誰も参る人は居ない荒れ放題の場所は愛宕社跡でしょうか。2〜3平坦地が在り、 下方直ぐのところに桂谷寺の屋根が見えます。丘陵を東の山頂部に向う途中に一箇所平坦地があるだけで、斜面は急になってきたが程なく三角点標石を朱色にスプレーされた点名:多利(4等三角点 222m)が主郭と思える小広い平坦地です。
三角点峰の広い平坦地は桂谷寺裏城館の本の丸!?


此処から更に東の尾根を辿るが、 雑木藪の中に遺構など有って発見出来る状態ではないので鞍部まで下ります。城域は桂谷寺裏手の祠付近から三角点峰付近までに拡がる尾根筋・東西約400〜450m程が範囲の様です。此処で”どこへいくのか”と突然、下方から声をかけられた。 先ほどから犬の鳴き声と鈴音・単発的に聞こえていた猟銃の主のようです。狩猟解禁とはいえ集落と其れほど離れていないこんな低丘陵で出会うのは今年初めてです。

【野上野城(多利城)】
行先と帰路のコース予定を告げて、野上野から多利へ越す鞍部から野上野城への斜面に細い踏み跡を辿り ながら登り始めた。野上野城は桂谷寺裏城館の城域にある点名:多利の峰とは、野上野の田中奥から 多利南集落へ抜ける細い山道と鞍部を分けて、東方に丸みを帯びて伸び上がる低丘陵の峰です。舞鶴自動車道を潜り抜けた途端・正面に真っ先に美しい山容を見せてくれた標高約260m程の丘陵の山頂部にありました。
野上野城から黒井城攻めの向城!!?を望む


猟犬が追いかけてくる気配は無くなったので一先ず安心だが藪が遺構を隠して判然としない。 周囲が明るくなって山頂が近くなると三段程の曲輪が連なって本郭部と思われる細長い曲輪に着きます。 城域は山頂を中心に東西・南北約150〜200mの範囲に集中して立地しているようで最高所に主郭を置く小広い平坦地が雑木藪の中に残っていますが、
最上部の主郭と西南側の二ノ曲輪!!

更に先へは藪がひどくて踏み込んで行くのに躊躇してしまいます。遺構は西側と南へ延びる尾根先へと数段の曲輪だけが僅かに 確認出来るだけです。主郭部の曲輪北側は山上部を大きく切り崩して削平されたものか尾根端は其の残欠を土塁状に残している様で、 北側に一段低く幅の細い平坦地もあります。
主郭西の曲輪

 
野上野城の城主は 吉住(積)卯之助(伊之助!!?)と伝えられるが、天正6年(1578)黒井城主赤井氏の家老・金村(金)左衛門に討たれ落城したといわれます【丹波志】。 しかし氷上郡内を平定し京都丹波や但馬をも 領地とした赤井直正が、本城の間近にある野上城をなぜ 放置していたのか、吉住氏が強力な勢力を持つ赤井氏の傘下にも入らず、在地領主?として此処まで生き残れたのかは疑問が残ります。
主郭の土塁

天正3年”丹波攻め”の際には多利の小富士山に陣を敷き・野上野・長谷 ・棚原等を拠点としており、在地領主の小城を向城としているようです。野上野城も其の一つで、赤井・波多野両氏の「呼び込み作戦」に敗走し、明智方の砦に残された残留部隊だったのでしょうか !!?桂谷寺裏城館と野上野城は三和町から 戸平峠を越えてくるか、多保市(とおのいち)から竹田川沿いに南下してくる京都側からの 見張所にしては少し遠いが黒井城の向城としては主郭北面の竪堀

北に小富士山城・西に茶臼山城の陣城を望み、其のほぼ中央部に野上野城が在って、黒井城に正対しています。更には園部・篠山方面からの栗柄峠、京都三和町側からの三春峠や戸平峠を越えてくる街道の要衝監視や封鎖等…黒井城を包囲する絶好の位置にあります。
南端曲輪(見張所!!)

桂谷寺裏城からの鞍部を越えて城域に入る西尾根や、小多利城館・小富士山城側からの北尾根上に城域確保や尾根を遮断する堀切は無さそうです!!。主曲輪部の他は削平も粗く・広くも無く、南端への平坦地も傾斜しながら延びて末端の露岩部に出るが、
主郭東面の切岸

此処からの眺望は良好で、 竹田川を挟んで茶臼山城はじめ・火山城(消滅!!)・惣山城・棚原城の包囲陣所や、野村城が眼下に望まれます。黒井城側の砦としてみるには南側の三春峠や栗柄峠に遠い。此の方面は尉ヶ腰城や柚津城・大路城が控えています。 城史不詳の2つの城塞は黒井城向城の可能性大と考えられるのですが…どうでしょう?
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参考)

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