三尾山北方の低丘陵・柚津周辺 尉ヶ腰山(点名:西山王)〜点名:柚津/点名:多利
尉ヶ腰山(点名:西山王)と点名:柚津と周辺丘陵の山城 2004.11.27
畿の山城:尉ヶ腰城と野々間南城館・野々間北城館 柚津城
桂谷寺裏城館/野上野城/野上野東砦/野上野西砦
野々間遺跡(兵庫丹波初見の銅鐸出土地)
尉ヶ腰城から望む三尾山

黒井城〜千丈寺砦〜ヨコガワ峰の稜線を西北に望みR175号を北上し舞鶴自動車道春日IC道の駅を過ぎ右折し高架を潜り春日観光農園を目指す。 山裾に向う集落の正面低丘陵の山間から奇異な山容の三尾山が姿を見せる。野上野の塩谷集落南から小さな峠に向うとエンジン音が辺りに響いてくると キャピタル・スポーツランドの看板と左手脇道にゲートを見る。
点名:柚津の左に鋸山・右に三尾山を望む

春日観光農園・春日観光が経営ゴーカートのサーキット場がある峠から道もなく岩盤混じりの急斜面を雑木を手懸かりに植林帯を抜けた尾根先から点名柚津(3等269m)に至る尾根上に野々間南城館更に北260m峰を西に延びる尾根末端が塩谷集落に落ちる長い尾根上に野々間北城館遺構が点々と残る。その丘陵部突端:塩谷に丹波では珍しい銅鐸が出土した
野上野城南端曲輪から黒井城(上中央)

野々間遺跡は今まで不明だった銅鐸の埋納状況が 発掘で明らかになった事が特筆されるようです。詳細は春日歴史民俗資料館の現物と解説案内で御覧下さい。点名柚津からの南尾根末端は柚津集落の西に突き出して竹田川に落ち込む突端ピーク付近に柚津城がある。



尉ヶ腰山と点名:柚津の低丘陵に潜む城塞群を訪ねて 2004.11.27

春日ICを出てR175を右折しキャピタル・スポーツランドと春日観光農園の看板をみる峠道脇の広いスペースに車を置いて先ずは峠を南に越して降っていく。左右に見える丘陵を外れる所に「柚津・大崎方面」道標のT路に出て左折し柚津城を探すのは後にして車道右手:西に見える低い独立丘陵をに向かう。
遠く三尾山を望む尉ヶ腰城域(右)と野々間北城館西端部(左)

柚津の山塊に囲まれた谷間の道路と西から南面を舞鶴自動車道と並行に竹田川に挟まれた北面は低山だが急斜面の要害。丘陵中程から北部にかけ遺構も希薄で北端は土取場になっている。柚津への分岐対角線上西に見える丘陵南端に半円形の ピークを見せるのが尉ヶ腰城(4等 西山王153m)。 ピークハンター以外は登山対象ともならない山域で
サーキット場から260m峰と野々間北城館を望む
 
城砦等の情報も殆どなく今後も調査が及ぶ事がなさそうな数箇所の知られざる城館。コースは西山王(尉ヶ腰山153m)尉ヶ腰城〜春日農園〜野々間南城館〜柚津(269m)〜260m峰〜野々間北城館〜塩谷野々間遺跡〜春日農園から柚津に移動し柚津城に登る。================================================================

野々間遺跡 (銅鐸出土地)  春日町野上野塩谷

昭和56年(1981)11月1日土地の所有者が自然薯採取中に弥生時代の鋳型青銅祭祈具とされる1号銅鐸(外縁付鈕(ちゅう)U式4区袈裟襷文銅鐸20.8cm)を発見。同年12月23日教育委員会調査中其処より1.8m西寄りで2号銅鐸(扁平鈕式4区袈裟襷文銅鐸21.1cm)が埋納されたままの状態で発見されたが共伴遺物等は何も検出されなかったよう。案内板には銅鐸の埋納模式図が描かれている。
野々間遺跡(銅鐸出土地)

丹波地方の銅鐸出土例は文久元年(1861)京都府北桑田郡下弓削で扁平紐式銅鐸が発見されて以来のもので 兵庫丹波では初見例。特に野々間遺跡での銅鐸発見はテラス状に造られた大きな穴の中に埋められており今日まで不明とされていた銅鐸の埋納状況が明確になった事でも重要な意義をもつ。なを七日市や野村・棚原等周辺調査も行われたようなので弥生時代以降の遺跡として野村構居や棚原の荻野館、小多利の城館や春日小冨士山も”一夜城伝説”だけでなく(光秀の黒井城向城)遺構も確認されているかも知れない。
野々間北城館の西末端か!役行者の祠

塩谷集落から裏山への登り口には如来像や中野間にあって此処に移設されたものか?! あらぬ山側を指差した道標石仏がお堂に祀られ愛宕山常夜燈の横から中腹に登ると役行者を祀る祠もある。地元ではご神体の銅鐸が何時の頃か山麓へズレ落ちて埋まったものか発見箇所に埋められのではとも云われているが?説には無理があるよう…伝説として何か ストーリーが残っていれば楽しいが。
現地案内板 平成2年兵庫県教育委員会 県指定H2年3月20日)


尉ヶ腰城と野々間南城館・野々間北城館
柚津城 桂谷寺裏城館/野上野城/野上野東砦/野上野西砦

尉ヶ腰城(棚原城)
 尉ヶ腰山(点名:西山王)153m 最高地点170m 春日町棚原

春日観光農園南で柚津・鹿場への道路案内標識手前から西に向う地区道は丘陵山裾に立ち並ぶ山王集落に向かう。低いが断崖状の急斜面は集落内から取りつくには登路もなさそう。丘陵南面の裾を竹田川が流れ天然の濠となって廻る尉ヶ腰城がありました。
尉ヶ腰城南端(主郭部)から低い稜線が北に延びる

尉ヶ腰城の城域は春日町棚原の東・竹田川を挟んで北に野上野・南の国領に囲まれた半独立丘陵部全域に分布するが棚原地区史誌等一般的には山域南端の尉ヶ腰山(153m 点名:西山王)とされる尾根続きの北方最高地点170mを主郭と考えたい。此処に立つと東西南の三方にフラットな平坦地形が延びるだけ?だが唯一最高地点の主郭と副郭を区分する空堀が埋もれかけなのか切岸崩れ段差は僅か1m程で遺る。
城域は南端(正面)から北方最高所170mへ延びる:進修小学校から

左右の斜面へ延びても大きく/長く落ち込む堀切状ではなく単に主郭・副郭を分けるだけ?の箱堀状。最高地点Ca170m東尾根末端部は自然地形・フラットな平坦地形ながら通行監視の砦を兼ねたものか。峠を経て野々間南城館のある東側の尾根筋に繋がる。「なりあい街道」(成相寺に至る西国巡礼道・但馬・若狭・丹後への街道)が通じる県道138号の峠。
尉ヶ腰城北:丘陵部最高地点より東尾根先端部の曲輪

峠を北に越えた所に野々間遺跡があり弥生時代の鋳型の青銅器が出土。小さな谷間を隔て北側尾根上に野々間北城館がある。東尾根筋の曲輪群からは隣接する野々間南城・北城の 連絡ルートでもあったと期待したい。尉ヶ腰城最高地点170mと南尾根先端の三角点峰153m城砦遺構は不確かだが築城目的は異なる。共に赤井氏配下の城砦群として機能した城なら 東西尾根筋は竹田川沿いR175号に繋ぐ但馬街道と若狭・丹後街道の
尉ヶ腰城北:丘陵部最高地点(Ca170m)の堀切

監視砦。南端153mは矢継ぎの城伝承があるように黒井城三尾城の中間にある”繋ぎの城”。県道69号は篠山市へ栗柄峠で合流する県道97号は鼓峠を京丹波町へ通じる但馬街道の要衝。明智光秀の第一回黒井城攻めに敗退した光秀が命辛々逃れたのが此の街道筋。尉ヶ腰城主郭は丘陵部南東端の山王橋から望むと川を濠とし三尾城を間近に要衝監視出来る丘陵南端153mピークにあったと推察する。「ひょうごの城紀行」の城リストでは尉ヶ腰城(国領)を三尾城と
尉ヶ腰城と竹田川(なりあい街道:巡礼橋から)

黒井城間にある棚原城だが黒井城支城として別掲する棚原地区にも棚原城がある。竹田川を挟む南側の国領にも幾つかの砦があったよう。自然地形の平坦地は確認できるが一つの城域として野上野と竹田川を介して国領との境に位置しする尉ヶ腰山の山頂を主郭とする丘陵南端一帯を 棚原地区郷土誌等にも 尉ヶ腰城(棚原城)の城域とされており尉ヶ腰は城ヶ越・城ノ腰の呼び名と同様に城砦に関係した名残。
二重堀切の中洲の様な曲輪(尾根南側から)


殆ど自然に近い平坦地?曲輪を観るが切岸や土塁による段曲輪が形成されているわけでもない。丘陵南端の点名西山王(尉ヶ腰山)側を竹田川沿いに丘陵を廻り込んで舞鶴自動車道路と並行に登路を探し棚原地区へ北上していくと大きな墓地に出た。東側にもあった墓地の反対側のようだが墓地の奥から丘陵に稜線を目指してみる。少し括(くび)れた部分は鞍部に乗り上げるが大きな二重堀切?状になっている。
尉ヶ腰城南端(主郭部)西面の腰曲輪・犬走り?状、
 
堀底道を辿れば東側の墓地へ出るはず…城域は此の小さな独立丘陵の全領上に拡がって曲輪等の遺構が残るようで鞍部から2/3以上を占める北部分にも削平地程度は点在するが明確な遺構を確認していない。城域の主郭部は鞍部より南に集中するはずだが二重堀切以外に明確な遺構を見ないまま南端部のピーク尉ヶ腰山(4等三角点 西山王153m)に着く。狭い山頂部は僅かに平坦で(約30m四方)雑木藪に囲まれ遺構確認出来る状態に

尉ヶ腰城南端の主郭部

ないが立木の間からは真近に三尾城 を望み雑木がなければ黒井城も同じほどの距離に見えるはず!?曲輪等遺構も自然地形か判断出来ない。辛うじて山頂主郭部(?狼煙台!)の一段手前(北面)に 僅か2m程の幅で狼煙台?のある曲輪に沿った細長い帯曲輪と思える平坦部はあるが曲輪かどうか判断できるほどの眼力はない。
二重堀切と土塁曲輪(鞍部から西方)
 
尉ヶ腰城が黒井城三尾山城の中間にあり 両城へ矢文の受け渡しを行った矢継ぎの城とも呼ばれる伝承があり、其れほど荻野悪右衛門直正の黒井城と弟刑部少輔幸家の三尾城近く”狼煙・矢文”による 連絡通信用の”繋ぎの城”として重要な位置にある。京都府側から三春峠を越える街道と多紀郡(篠山市)から栗柄峠を越えてくる街道を守備する戦略的にも重要な意義ある城塞群の中には八上城の波多野秀治の義弟で黒井城の直正との連携では大活躍し波多野秀治亡き後の八上城に立て籠もり落城まで残り自刃した
野々間南城館西端の曲輪の真下に棚原の峠と尉ヶ腰北郭部東末端


二階堂秀香の大路城もある。大路城は黒井城の支城というより栗柄峠を越えてなを八上城最前線基地としての要素が強い?。大路城の三井庄に入るまでに未だ幾つかの城塞群を位置だけでも調べ数少ない城史が残る山城の楽しみは残しておく。尉ヶ腰城や柚津城等この付近の城館は永録年間(1558-70)赤井幸家の三尾山築城と同時期に築かれたものか明智光秀の丹波攻めに天正7年(1579)三尾城落城と共に三尾周辺の諸城は運命を共にしたと思われる。尉ヶ腰山から鞍部の二重堀切に引返し北への尾根を辿ってみます。

野々間南城館・野々間北城館 春日町野上野

黒井城・三尾城間に位置した矢継ぎの城”尉ヶ腰城”だが遺構は南端の尉ヶ腰山(西山王)の狭い山頂の平坦地(狼煙台?)だったのでしょう。鞍部に見た大きな二重堀切以外に堀切や土塁等防備施設をみない。低い丘陵の尾根上には低い段差で切岸を持たない平坦地が点在するが城砦遺構なのか?自然地形か判断出来ない。
野々間南城館西端の峰(峠南側から)

山域の北端は土取り場の為、車騒に釣られるように春日観光農園施設のある峠に降ってきた。連続する車騒は峠のゴーカート等サーキット場のキャピタル・スポーツランドから。車道の峠道から仰ぎ見る目前のピークへは踏跡もなく岩盤が剥き出している急斜面上の雑木藪を適当にあしらいながら左手の植林帯へ捲き上がりながらサーキット場を真下に20mX30m程の平坦な頂は峠に対峙する尉ヶ腰城域の東北端。野々間南城館の西端部の
点名:柚津から三尾山と柚津城(手前右)

平坦地からは比較的緩やかな尾根を点名柚津(269m)に向う。東尾根途上の最高ピーク200m平坦地までの東西約30m程が野々間南城館の城域で此処も尉ヶ腰城の北部城域と同様に稜線上やピークに平坦地が3箇所ほど点在するが防護施設は見当たらない。城砦でもなく居館とも呼べない?尉ヶ腰城や柚津城の後方支援にあたった城館があったものか?。小さな山域だが柚津からの主尾根に出ると展望が拡がり直ぐ南 50m程に最高峰・柚津と左に三尾山・右奥に鋸山を遠望する。
野々間南城の長い平坦地
 
野々間の両城館の城域からは外れるが展望は良好・此処まで登ってこなくても”見張り所”機能は柚津や尉ヶ腰両城でカバー出来るが。点名:柚津からの北尾根からは黒井城が五台山〜愛宕山〜五大山の稜線を背景に黒井城が風格をもって立つ。しかし高度が少し下がり 北へ辿って260m無名ピークから西へ向う野上野集落南方の丘陵から西末端の塩谷集落まで東西約1.2kmの長い稜線上に曲輪が点在する野々間北城館の城域で雑木の尾根に入る此処から倒木と消えそうな踏跡が続くが随所に広い平坦地を見る。野々間南城館と同様に野々間北城館も曲輪とも判断できない
点名:柚津付近から黒井城(中央)と五大山〜五台山の山並

平坦地の角も明確でなく段差も小さく曲輪を護る切岸や土塁・尾根を遮断する堀切もない?。尉ヶ腰城南端部や柚津城が府県境の三春峠を越える街道や多紀郡(篠山市)から栗柄峠を越えてくる街道の守備につく戦略的に重要な位置にあるのに対し尉ヶ腰城の北城域や野々間南城館・北城館は城域の 防備もさることながらその位置にある事の存在理由もよく分からない。丹波比叡・妙高山の西に位置し三井庄に越す間道はあるが西に越えるルートは
野々間北城から野々間南城と尉ヶ腰城(右の山塊)

見当たらない。通行監視なら城域は東側にある筈で福知山から塩津峠を越える街道や六人部(むとべ)から竹田川に沿うルートや三和町から戸平峠を越える街道守備にあたったにしても野上野周辺では奥まった位置。もっと適所がある筈:不思議な城域です。野上野城の土豪吉住卯之助か此処を攻めた荻野直正の家臣金村左衛門に関連した城館なのか!天正7年明智光秀が黒井城に正対する茶臼山城を本陣とした後方支援的な位置にある城なので 防備体制の薄い野上野周辺に平坦地だけの城館遺構があっても
野々間北城・長い尾根上に点在する平坦地
 
意義あるものと思えてきます。華々しい歴史も伝承もなく雑木藪に埋もれた城館には町村史や城史にもスポットを浴びることはない。丹波市が発足した今こそ市島町・春日町・篠山市・京都府県境にある小城塞群に丹波の歴史を見直し再度調査・研究が進められる事を希望します。



柚津城
 城山 228m  春日町柚津
 
尉ヶ腰城取付に見た堀切からは尉ヶ腰城と野々間南城館・野々間北城館に平坦地以外に曲輪や土塁・堀切等遺構も見ないまま藪を抜け出る突然・役行者を祀る祠のある台地に出てきた。野々間北城館城域西末端の曲輪とも思われるが急な細い参道を降って塩谷集落の観音堂側に降りてきた。
柚津城主郭北面切岸

御堂には大日如来等数体の石像が並ぶ。石塔・石仏が並ぶ北端には行先のない崖を指差す道標石仏がご愛嬌 ・台座の中野間は此処・野々間を指すものか?。野々間遺跡の案内板もあり寄ってみる。春日観光農園から再度・尉ヶ腰城を右手に「柚津・大崎方面」の道標を見て左折し山際を柚津集落に向かう。この先・竹田川に沿って鹿場・三井庄から三春峠を京都府側に通じる要衝を二階堂秀香の大路城が南には赤井幸家の三尾城が
柚津城主郭

大路城が南には赤井幸家の三尾城が篠山市側からの栗柄峠越え要衝を監視する。柚津城は野々間南城館から辿った点名柚津(3等269m)を南へ突き出す 丘陵東側の南末端228m峰にあって尾根先を廻り込んだ柚津集落からは西方の丘陵・城山と呼ばれ比高120m山頂に立地している。近藤丹後守の居館跡とされるが 築城時期等城史一切不明・藤原氏支流の近藤氏と推察される。黒井・国領・船城・多田・野上野・棚原・中山…等々春日部荘の総社が
柚津公民館からの柚津城

春日神社。永禄11年(1568)関白近衛前久は足利義昭により朝廷から追放され信長に帰洛を許される天正3年(1575)まで此地に住んでおり 黒井城主:荻野直正の妻は近衛家の出。近衛家に随行してきた近藤氏が荻野直正夫人付として 春日部荘に残ったものか。尉ヶ腰城と同様に要衝の街道を守備した三尾城赤井幸家の支配下にあったもので天正7年(1579)の黒井城攻めの際に三尾城と共に落城したと思われます。
柚津城主郭から三尾山(正面)

近藤丹後守を先祖とする近藤家の本家には五人張りの弓が遺されていたという。直ぐ西方約1qにある尉ヶ腰城黒井城三尾城の中間にあって両城へ矢文の受け渡しを行なった矢継ぎの城の伝承を彷彿とさせる。家紋の丸に鹿角からは東並びの鹿場西城館・鹿場東城館も近藤氏関連の城館かと思わせるが単に偶然か?。柚津集落内を公民館から北へと進みながら東面からの登路を探していくと寺への参道らしい急な石段がある。
柚津城主郭西尾根に三段程の小曲輪が並ぶ

石柱や寺名を記すものもないが削平された高台の境内には立派に刻彫装飾された大日堂が建ち稲荷神社が奥に祀られる。稲荷社の裏手から枝尾根を伝って城域に向かう。点名柚津との主稜線に出ると踏跡も明瞭となるが藪の尾根上には城域が近いと感じさせる気配さえ希薄な!末端ピークの約25m四方の平坦地に着き初めて此処が曲輪・今登った3〜4mの急斜面が切岸・その取付き付近に幅の狭い通路状に犬走りか?
高尾城から尉ヶ腰(前方左)や妙高山を望む
 
帯曲輪を覚えますが斜面途中にあり崩れた遺構状態は雑木と藪で見通せず判然としない。山頂も雑木の中では身近に見える筈の三尾城さえ望めない。西に一段下がった所にも小広い平坦地があり更に曲輪遺構はあるのかもしれない。堀切もあったようだが気付かず城郭の知識も浅く詮索!は止め元来た道を引返す。


桂谷寺裏城館と野上野城
桂谷寺裏城館 点名:多利の峰160m 春日町野上野
野上野城(多利城)
 城山260m  春日町野上野
野上野東砦    286m  春日町野上野
野上野西砦 照月山(4等点名:多利)222m 春日町野上野

春日ICを出てR175号「七日市」交差点を左折JR福知山線を渡ると黒井城と其の東尾根先端・的場砦・東山砦 が目前に迫るが交差点東角:数軒ログハウスが建つ右へ折れ舞鶴自動車道高架を抜け野上野城へ向かうと田園風景が拡がり左手奥に春日小富士山が美しい山容を見せる。
野上野城遠望

黒井城主荻野直正(幼名:才丸)が京丹波の内藤氏と抗戦して追い返し初手柄を立てた野上城と直正病死後但馬出兵中の城代幸家が黒井城の急を聞いて佐治から黒井へ越えた由良坂の牛河内砦に寄ったあと尉ヶ腰城・柚津城を訪れた際寄れなかった近くの城を訪ねます。神池寺(丹波比叡)から入山した背後の妙高山には山頂東の尾根続きに妙高山東城(仮称)・
桂谷寺と桂谷寺裏城館

妙高山頂の妙高山砦(仮称:城郭類似遺構)か:妙高山東城との鞍部に道標石仏があり神池寺・南麓の三井庄・妙高山頂手前で山腹を巻き西尾根伝いに野上野・多利へ古い参詣道の一つが通じていた。地理院地図では妙高山から延びる尾根筋西の454m峰から
桂谷寺裏城館(中央右)と小冨士山(左端)

西南尾根279m地点から野上野地区へと黒井盆地に溶け込むように落ち込む。此の野上野の田中奥集落に「照月山桂谷寺」の石標を見て進む先に 桂谷寺裏城館がある。照月山桂谷寺(天台宗)は新丹波七福神(福禄寿)を祀り本尊は阿弥陀如来座像だが脇侍が観世音菩薩(立像)・勢至菩薩が立像・座像ではなく 蹲距像は全国的にも珍しい。戦国乱世や火難・山崩れ等で諸記録や什器を散失し
三角点峰の広い平坦地(4-5段)は桂谷寺裏城館主郭?

創建等詳細が明らかでないが文禄2年(1593)幸祐上人により忠興され文政3年(1820)宥厳法師が神池寺山中の一坊を移して建立された。春は桜・ツツジ・石楠花・九尺藤、秋は紅葉と四季美しい花の寺。
桂谷寺裏城館寺境内からの山道はなさそうなので引返し集落先の谷沿い墓地裏手に出て竹薮の斜面から尾根に出る。手前で 高さ2m・幅1-2mの段差を越える。
桂谷寺裏城館の城域西端部にある祠跡

尾根西末端へと下っていくと3m程の岩が突出ており側に石燈籠が建ち、間には石組み祭壇の祠跡があるが誰も参る人は居ない荒れ放題の場所は 愛宕社跡でしょうか。7段2〜3平坦地があり下方直ぐに桂谷寺の屋根が見える。丘陵東の山頂部に向う途中に一箇所平坦地があるだけで斜面は急になってきたが程なく三角点標石を朱色にスプレーされた利の峰?(4等 160m)が主郭と思える小広い4-5段曲輪のある平坦地。城館!?の名称だが削平は粗く単郭小曲輪地形が三ヶ所程に分散・且つ再西端曲輪は古墳噴頂部を均しただけ?の段曲輪。
野上野城南端曲輪から霧海に浮かぶ向山連山

雑木藪のなかで遺構はあっても発見出来る状態にないので下りる。城域は桂谷寺裏手の祠付近から三角点峰付近までに拡がる尾根筋・東西約400〜450m程が範囲のようだ…が此処で”どこへいくのか”と突然下方から声をかけられた。先ほどから犬の鳴き声と鈴音・単発的に聞こえていた猟銃主か?狩猟解禁とはいえ集落と其れほど 離れていない低丘陵で出会うのは今年初めて。
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野上野城(多利城)
行先と帰路のコース予定を告げ野上野田中奥から多利南集落へ越える鞍部から野上野城へ細い踏み跡を辿りながら登り始め東方に丸みを帯びて立つ低丘陵の峰で 舞鶴自動車道を潜り抜けた途端正面に真っ先に美しい山容だが取付き点の集落麓からは城域南端露岩の見張台が望まれる。

野上野城から向山連山:火山城・茶臼山城・惣山城・棚原城付城が並ぶ


舞鶴自動車道を潜り抜けた途端正面に真っ先に美しい山容を見せる標高約260m程の丘陵の山頂部にあった。猟犬が追いかけてくる気配はなくなったので一先ず安心だが藪が遺構を隠して判然としない。周囲が明るくなって山頂が近くなると三段程の曲輪が連なって最高所に主郭部の細長い曲輪に着く。城域は山頂を中心に東西150m・南北100mの範囲に立地し小広い平坦地が雑木藪の中に 残っているが更に先へは藪がひどくて踏み込んで行くのに躊躇する。
主曲輪・二ノ曲輪間の削残しの岩盤土塁(石塁?)

遺構は主郭西の尾根筋から南尾根に数段の曲輪と岩盤絶壁上に監視台?(眺望良好)・北の東尾根続きに二段の曲輪と竪堀一条(竪堀は左右にあるようだ?)と斜面に小段曲輪群が確認出来るが、さきの東砦ともに付城関連遺構か?。主曲輪西南切岸の土塁は山上部を大きく切り崩して削平されたものか?尾根端は其の残欠を土塁状に残している様だが土塁線に沿って覗く岩盤からは曲輪拡張の削り残しが覗いており土塁・岩塁としても利用できる。
主曲輪と段下南の曲輪間土塁(石塁?)は削残しの岩盤


北に一段低く幅の細い平坦地もある。野上野城主吉住(積)卯之助(伊之助!!?)は天正6年(1578)黒井城荻野直正の家老:金村(金)左衛門に討たれ落城したという【丹波志】。氷上(丹波市)・天田(福知山市)・何鹿(綾部市)三郡を平定し但馬をも領地とした直正が本拠黒井城直近の野上野城を此れまで何故放置していたのか?、吉住氏が強力な荻野・赤井方に付かず在地領主?として生き残れたかに疑問が残る。
主郭の土塁

天正6年第二次合戦では明智方が直正の死去を察知しての侵攻で盟主を欠き敗戦色濃くなってきた黒井城の動向を見越し?…また光秀からの勧告に降りたものか?。既に天正4年(1576)”丹波攻め”第一次合戦の際は多利の小富士山に陣を敷いた光秀は野上野・長谷・棚原等を拠点として在地領主の小城を付城としたよう。野上野城も其の一で荻野・波多野氏の「呼び込み作戦」に敗走。明智方の砦に残された残留部隊だったのでしょうか?。北東に小富士山城・西正面に茶臼山城の陣城を望み其のほぼ中央に野上野城があって
主郭北面の竪堀

黒井城に正対している。天正6年神池寺・妙高山から黒井城攻めに向かう藤田伝吾らの手に落ち野上野城始め周辺城砦は明智方の向城・陣城となったものか?。街道の要衝監視や封鎖…黒井城を包囲する付城としては最前線の絶好の位置にある。落城後:程なくして北方の福知山からは小野木重勝・東方の上竹田・市島方面から明智光春・同じく東方の京都三和町側千束街道から藤田伝吾が日内城・岩倉城を落としながら神池寺道を南進…する。
南端曲輪(見張所!!)

神池寺道は肩切り地蔵の伝承からも市島町鴨庄の現:県道541号北奥の参道から妙高山頂から尾根筋にも天台宗道場として隆盛していた平安時代からの参詣道の一つがあり454m峰に至り西南尾根を野上野集落に下るが286m峰の野上野東砦・野上野城・西隣の桂谷寺裏城館に至った藤田伝吾らの手に野上野城はふたたび落ち周辺城砦は明智方の向城
野上野城主曲輪北尾根続きの曲輪段

・陣城となったものか?。多利や多田の小野木軍や明智光春軍に合流しての出撃も容易だ。野上野城の激急斜面岩盤上の南端は監視所・眺望は良く黒井城・黒井盆地の南側には火山城・茶臼山城・惣山城・棚原城…付城群が並ぶ。野上野城を主軸としての関連城砦は東尾根続きの 野上野東砦(仮称)・西の尾根続き野上野西砦(仮称)は山麓の桂谷寺山号の照月山4等三角点222m)からの南尾根上に桂谷寺裏城館がある。
南端曲輪から北:妙高山に?がる尾根454m(参詣道は南尾根を野上野へ)

三城砦の曲輪は自然に近い平坦地形。臨戦時・短期使用の付城ならこんなものかも?。東砦主曲輪の西面と北東の斜面に残る小曲輪群は 主に野上野・多利間の峠越え監視?。西砦は西正面に黒井城を望む直近にあるが2-3の小曲輪に防戦の切岸加工・土塁等もないが唯一!鞍部側:野上野側に竪堀一条がある…?。 旧氷上郡遺跡地図にある桂谷寺裏城館
野上野東砦:山頂直下の段曲輪

単郭の城砦遺構らしい曲輪が三箇所程に纏まりなく分散して残るだけだが北に小富士山城・西に茶臼山城の陣城を望み其のほぼ中央部の野上野城・桂谷寺裏城館が黒井城に正対して多利側へも野上野へも臨機対応可能なので光秀の付城として機能したものか…。桂谷寺裏城からの鞍部を越えて城域に入る西尾根や小多利城館・小富士山城側からの北尾根上に城域確保や尾根を遮断する堀切はなさそうです!。主曲輪部の他は削平も粗く広くもなく南端への平坦地も傾斜しながら延びて
野上野西砦の竪堀!?

末端の露岩部に出るが此処からの眺望は良好で竹田川を挟んで茶臼山城はじめ・火山城(消滅!!)・惣山城 ・棚原城の包囲陣所や野村城が眼下に望まれます。黒井城側の砦としてみるには南側の三春峠や栗柄峠に遠く、此の方面は尉ヶ腰城や柚津城・大路城が控えている。城史不詳の野上野東砦・西砦と桂谷寺裏城館は落城後の野上野城ともに付城として使用されたものと考えます。
氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参考)
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