丹波吉野「鐘ヶ坂」奇勝:鬼の架け橋〜金山城〜馬頭〜高畑山・丹波竜発見現場
兵庫(篠山・柏原)  (五万図=篠山)
鐘ヶ坂公園〜旧トンネル往復〜金山城(540m) 1998年08月30日
追入(おいれ)〜金山城祉〜馬頭(502m)〜高畑山(462m) 2001年06月17日
近畿の山城:金山城

金山城主郭南側の石垣 H19.11.25

鐘ヶ坂は桜の名所で 「丹波吉野」と呼ばれ柏原小唄に♪…桜はあの娘の思いに咲いて 一目千両の鐘ヶ坂…♪江戸時代後期の浮世絵師歌川(安藤)広重 「六十余州名所図会」の一「丹波鐘坂」に鬼の架け橋等を描いています。今も昔も篠山市と氷上郡・郡境の鐘ヶ坂は交通の難所で鐘ヶ坂トンネル(昭和42年開通)の柏原側出口の西には旧トンネルへの荒れた道路跡が続き明治16年(1883)我国の道路トンネルとしては最も早い時期の開通に其の重要性が窺え、 この開通を記念して峠道に植えた桜は「丹波吉野」と呼ばれるようになり鬼の架け橋と共に丹波の名所にもなっています。
篠山市(追入の旧街道筋)から金山を望む

旧峠道上部にある短いトンネルで内部は向こうの出口まで 一面に水が溜まっていて、澄んだ水ですが深くて長靴でも駄目。 柏原側には平坦な広場があり3体ばかり石仏もあるトンネル入り口には三条実美の「鑿(さく=うがつ)山化居」、篠山・追入側には有栖川親王の事成自同」の石造扁額が掲げてあり、重要な道路工事であった事も窺わせます。ちなみに現在のトンネルは時の県知事・金井元彦氏で「萬古清風」の石造扁額が篠山市追入側に掲げてあります。 明治のトンネルに続く道から金山への登り口は有りません??がトンネルの300m程手前に、
奇勝・鬼の架け橋と譲葉山


林道がカーブして広くなっている場所に戻り【 現在此処に旧鐘ヶ坂峠を越えて昭和トンネル篠山市側出入口に降りる登山道がある】「火の用心の布旗」が立つ付近の 藪の中を西南の谷合流付近に向かってトラバース気味に続いて沢筋に下れば緑の道標に沿って金山へのハイキング道に出ます。【廃道となった明治のトンネルが平成17年完成の新トンネル開通により史跡 ・観光として脚光を浴びるようになり、イベントでの通行が可能となってからは 鐘ヶ坂峠に至る古道や金山城跡への 登山道が整備され、上記の様なバカな山道探しでウロウロすることはなくなった(^^ゞ】 この道は追入からのコース(馬駈け場)・現鐘ヶ坂トンネル上部・金山山頂への三差分岐点に出ます。
金山城側から見下ろす鐘ヶ坂峠

トンネル上へは 4等三角点鐘ヶ阪〜トンネルを経て瓶割り峠から 稜線を譲葉山や黒頭峰へと辿れます。また丹波の森構想や兵庫花回廊計画等での公園化や篠山市丹南町側では史跡や観光整備計画もあるようだが市制になってどうなったか分かりません。今年(平成13年)3月 夏栗山〜黒頭峰の帰路・鐘ヶ坂トンネル手前の林道(瓶割り峠)から仰いだ堅城・金山の姿に今回再々度の登頂を 思い立ちました。鐘ヶ坂トンネル柏原側からも登れるが追入神社からが一般的で 整備された登山道があります。マイカー登山なら国道176号線の追入集落入口付近に休憩・仮眠用の駐車スペースが有るので 此処を利用します。集落内の駐車は狭くて迷惑です。また追入神社と大乗寺参道分岐の中間点付近には 小さな川にかかる なんの変哲も無い橋があるが平安時代中期和泉式部が我子(か称丸!)と泣く泣く別れたという「別れ路の橋」の伝承と和泉式部の墓もあります。(昭和62年圃場整理で 共同墓地に移転、伊丹市春日丘の伊丹坂にも和泉式部の墓 と伝えられる五輪塔があります)。和泉式部の出生地や供養塔と由緒を伝える場所は岩手県北上市や佐賀県藤津郡等、全国各地にあって生涯に謎の多い女性ですが冷泉天皇の二人の皇子との恋愛など華麗・奔放に生きた情熱の女流歌人です。登山口の追入は東の福住・南の古市と共に 多紀の三駅といわれ瓶割り峠・鐘ヶ坂を控えての本陣もある宿場町として賑わったところなので今回は大山の郷からじっくり登山口の追入へ旧街道を辿りました。
明治のトンネル柏原側「萬古清風」の扁額

鐘ヶ坂隧道と公園阪神間から 篠山市大山を経て丹波市柏原町へと越える R176号線の鐘ヶ坂は、但馬を繋ぐ山陰道の要衝でしたが交通の難所で、通行や物資の輸送には困難を極め、延喜式山陰道では此処を通らず西方の山南町から加古川(旧佐治川)を 氷上町成松〜青垣町佐治へ向っていたようです。官吏が馬で越えるには余りに険阻な山道だったのでしょう?が鎌倉時代以降は 峻険な峠越えながら、瓶割り峠を黒井へ抜ける山道(いつ頃から通じていたかは知らないが…)と共に利用される様になり、往来する人々も少なく無かった事でしょう。
明治和のトンネル篠山側「事成自同」の扁額

鐘ヶ坂古道へは柏原側からは 昭和のトンネル前から鐘ヶ坂公園を右手下にみながら 明治のトンネルへの道を辿ると、広く切り開かれた広場?状のところからトンネルへは左手に大きく屈曲して延びていき、此のコーナー部端から東方の山に向う小道が古道で30分程で鐘ヶ坂峠に着く。此処から金山城・鬼の架け橋へは尾根伝いに。九十九折れの植林の中を15分程も下れば昭和トンネルの 篠山市側側の以前は店(食堂)の有った駐車スペース前に降り立つ。 此処からR176号線向かいに渡ったところに二本の狭い車道があり、右に直進する道の先には「瓶割り峠」を国領へ越える古道が、左に斜上していく道は ホンの数100m程で行き止まり?。明治のトンネル前に着きます。
イベント時は明治のトンネル内に行燈等のライトアップも…

鐘ヶ坂公園で実施される桜祭り・もみじ祭り等のイベントの際には通る抜けが出来・トンネル内に自作の行灯が並び、灯が入れられて足下を照らします。天正期:多紀(篠山市)波多野氏の八上城・氷上 (丹波市)赤井の黒井城を攻略する為、明智光秀が金山城を此処に築いた頃の要害地は街道筋が要衝となり戦略的にも重要な拠点となっていたようです。城域のは「鬼の架け橋」と呼ばれる奇岩があり峠道から眺められ、江戸時代の浮世絵師・安藤 (歌川)広重の「六十余州名所図絵」にも「丹波鐘坂」として描かれている。 この頃にもヤマザクラが美しい山越えの道だったのでしょう。
昭和のトンネル柏原側 :右手に明治のトンネルへの表示がある

昭和のトンネル【昭和42年(1967)完成した延長455m・幅員7.5m】を丹波市側に抜け出た鐘ヶ坂公園に不動の滝を訪れたり、 少し歩いて鬼の架け橋を確認して眺めてみるのも良いのでは。昭和のトンネルは時の県知事・金井元彦氏で「萬古清風」の石造扁額が篠山市追入側に掲げてある。さらに平成の第三トンネル工事が平成7年(1995)に着工され平成14年(2002)に貫通しました。此の昭和のトンネルの真上付近には明治の旧トンネルがあり其々 :トンネル出入り口の篠山側には有栖川宮熾仁親王筆の「事成自同」と書かれた石造扁額。
平成の新トンネル柏原側から昭和トンネルへの道(左中)

柏原側には三條實美筆の「鑿(さく=うがつの意)山化居」と書かれた石造の扁額が掲げられており、重要な道路工事であった事を窺わせています。 年完成した平成のトンネルの開通に併せて行われたイベントで俄かに脚光を浴びています。道路整備・拡幅工事等で二代のトンネルが並ぶ例は珍しくないが此処は明治・昭和・平成の三代に亘るトンネルが残ります。
明治のトンネル【延長268m・幅員3m・明治16年(1883)は日本の道路トンネルとしては 最も早い時期に完成(国内では5番目に古い)】は現存する煉瓦積み工法では国内最古と云われ、柏原上小倉で3基の窯が造られ・鹿児島からやってきた職人が煉瓦を焼き、約28万枚の煉瓦が使用されたと云われます。
明治のトンネル柏原側出口 H19.11.23

見直され荒れた道は整備され訪れる人も 増えている様です。フエンスは無くても其れまではトンネル内柏原出口側は深そうな水溜まりもあり通行不能だった今では水抜き・埋められイベントの際のみ通行可能。鐘ヶ坂古道や金山城見学後に トンネルを利用して戻りたいが 普段は鍵付き頑丈なフエンスで入口は塞がれ通行不可。明治のトンネルは明治12年(1812)当時の多紀郡長 :園田多祐氏と氷上郡長 :田艇吉氏が発起人となって交通の発展が丹波地域の産業振興には不可欠であると鐘ヶ坂を越える交通の難所をトンネルで抜ける事を企画し、
金山城本の丸の紅葉H19.11.25

多紀両郡民に其のことを説いて鐘ヶ坂隧道工事の為の 義願書を兵庫県に提出し翌:明治13年に許可されました。両郡内からは多くの支援 ・工事費用の寄付金を受けて完成しています。開通を記念して植樹された300本余りの桜が今では「丹波吉野」とも呼ばれる桜の名所となって、鐘ヶ坂公園は桜の時期・花見客で賑わいます。しかし歩いて越えた鐘ヶ坂・煉瓦作りの明所のトンネル・交通量の増加で事故も多発の交通の難所に変わりは無く・落石や冬季の凍結ではトンネル迄上って来れない…
新トンネル(バイパス)柏原側:鐘ヶ坂公園から望む

通行の規制も多く、 これ等を解消する為に着工されたのが平成のトンネルです。【平成14年(2002)総延長2,650m・トンネル部の延長1,012mが貫通し平成17年完成開通記念では明治のトンネルが見直され、 廃道となっていた車道や旧トンネル内を整備され、通り抜けのイベントも行なわれていました】鐘ヶ坂という峠を越える感覚はなく、篠山側からは水平道のトンネルを潜り、抜けると昭和のトンネルからの旧道と合流するバイパス道です。
(現地:明治のトンネル柏原側の案内板 平成18年3月丹波市観光協会等参照)


追入〜金山城跡〜馬頭〜高畑山〜林道天内線・上滝 2001年06月17日

黒頭峰・夏栗山登山口・高蔵寺への分岐とは反対側(左手) 喫茶キャステル手前から大山の集落内に入っていく。西尾家(酒造家)の焼き杉塀に沿って西の山裾に向うと大山荘(市民農園)の入り口です。今回は金山〜高畑山の周回コースで荒子神田へ戻るつもりなので此処から追入までは旧街道を大山荘の面影を追いながら歩くこととします(AM6:00)。神田神社前を辿り追手神社・別れ路の橋を経て追入神社への 観光コース!!?で追手神社は祭神・大山祇命を祀る(AM6:20)。
園林寺跡H19.11.25

境内に 大樹が目立つが中でも「千年もみ」は平成元年12月12日県の郷土記念物に指定され無病息災・長寿の神木として 「夫婦銀杏」は推定樹齢350年、夫婦円満の木として親しまれています。周辺は日本最西端のアズマイチゲの自生地で昭和35年1月に丹南町の天然記念物に指定され、セツブン草・雪割りイチゲ ・ニリンソウの自生も見られます。セツブン草等は毎年・被写体としてカメラマンの人気を集めているそうです。追入神社の脇にある愛宕社・大神宮と彫られた石燈籠の側に登山口の標識があります(AM6:25)。
金山城本ノ丸西面の竪土塁

この登山口が城への大手で坂を少し登れば旧多紀郡33ヶ所の赤坂山観音堂に着く。鐘楼と対峙する小さなお堂には千手観音像が祀られています。此処から金山山頂まで 1.27kmの急坂を登り大乗寺への尾根分岐(AM6:45)へ着くと展望は開けてきます。全国的にも有名な中世の荘園・大山荘の田園風景 高城山(八上城)も姿を見せます。滝跡への細い踏み跡も有りますが、かっての城や山上寺院の貴重な水源の谷への道は荒れ崩れてお勧めできません。
追入神社側金山登山口

引き返しての急登も一段落つく頃には竹薮も現れて足元に散らばる瓦破片を見る。もと鋸丸の大乗寺跡や「鬼の架け橋」600mの標柱を見て園林寺跡です。石塔や石碑、石段・石垣等が散在するが金山城の、かつては砦(出曲輪)の一つとして機能していたことでしょう。 300m程で小さな曲輪跡(小切丸?稲荷社か愛宕社を祀ってあったような小さなお堂の石積みが残る)を経て平坦な尾根道(馬場)が続き、大抵は「馬駈け場」等名称が付けられています。その先で右手へ山裾を縫うように伸びる道は鐘ヶ坂(4等3各点)〜トンネル上を経て瓶割り峠に向います。
鐘ヶ坂公園・不動滝

左手から合流する良く踏まれた道は鐘ヶ坂トンネル柏原側から植林帯の中を登ってくる道です。展望は開けて右手上方の二の丸下を暫らく急登で本曲輪跡(本丸)です。二の丸への道には MTB大柿氏の赤い布が色あせて残っていました。以前は背の高いカヤトや棘の雑草混じりの山頂で展望も利かなかったが東側は切り開かれています。展望が利けば山頂からの360度展望は氷上の山々から間近には譲葉山〜夏栗山・黒頭峰・三尾山〜多紀連山や北攝の山々・勿論南方へ転じれば白髪岳・松尾山そして1千ヶ峰〜篠ヶ峰〜粟鹿山等々の山々が 連なり壮観な展望を一人占め出来る所ですが (537mAM7:10)東面を除き樹間越しです。
鐘ヶ坂公園

北側へ抜けると西下方向にかけて野面積み(穴太積み)の石垣が残っています。武将の名を採った朽木丸・矢嶋丸等が有った処でしょう。その横を下っていくと右手に巨岩があらわれます。巨岩の間には長さ5m・幅3m程の岩が橋のように挟まった名勝鬼の架け橋です。橋の上からでも橋の下からでも覗き込めば鐘ヶ坂の峠を往来する車列が見える。 側の大きな岩(天狗岩)へも正面または西面から攀じ登れば良い展望休憩所だが、さらに西方へ踏み跡を伝えば千尋の渓岩群が点在しているが軍艦岩?へ出て北方(柏原側)展望が拡がる良い場所です。
金山城本郭部南・6〜7mの大岩上に積まれた石垣 H16.4.8

架け橋前が混んでいる時の 休憩場所として利用すれば良いと思うが??!…此処から柏原側への下降点を見送り園林寺跡へ戻り崩れたまま建材や瓦が放置されている 境内を抜けると水平道が延びています。その道脇の高みに歴代住職の墓石が数基並んでいます。広いこの道は何処まで続くのだろうと辿っていきますが何時しか細い境界ポールの続く道となり、やがてポールの境界道も藪で通れなくなります。 匍匐前進すれば何とか通り抜けられる。荒れているが踏み跡は明瞭で柏原・山南境界尾根との分岐馬頭(502m AM7:30)に着きます。

旧上久下村営水力発電所跡


(注)これから向う高畑山への南下する尾根道は馬頭山頂とは反対方向に下っていきます。山頂は平坦地でピークの位置は特定出来ませんが登り切った南端のポールに 「千峰漫歩」の会の名が…高畑山?〜古坂〜馬頭〜此処から北西へは山南・柏原境界尾根に延びています。私も一度はこのコースを山南・ウチガネを繋いで縦走を考えています。下滝〜下小倉を結ぶ古い峠道があり山南側に苔むした石仏(地蔵尊)があったのを確認しているが…馬頭へ向う南側斜面は数段(3〜4)の曲輪跡のようです。 北の柏原町側にも一段・曲輪跡らしい形状が残ります。
旧上久下村営水力発電所跡

旧金山城(丹波勢)の一砦の址でしょうか?元の金山城の歴史と同じで此方の城砦も城名は不明!!。これより古峠へは赤テープ不要の境界尾根に山道が続きます。 振り返る山稜の奥に金山城址が聳え立ち嘗ての威容を見せている。406ピークから山南町側へ下っていくかと錯覚するほど。 しかし程なく着いた古坂 (AM8:03)は山南町・丹南町を結ぶ明瞭な峠道です。峠から尾根を辿ってほどなく高畑山との分岐に着きます。
「丹波竜」発見現場近く:田圃アートの恐竜と看板H19.8末

此処に「山びこ」山行のプレートと高畑山側にはナントまたしてもMTB登山・大柿氏の赤い布が有りました。 ゆっくりと展望も特徴も無い高畑山頂(三等三角点 462m AM8:25)で往復します。直接此処から大山側へ下るには ・きつく長い藪漕ぎになるので分岐に戻り山南・丹南境界尾根の踏み跡はハッキリしているので何も考えずドンドン歩き、尾根の低いところ、あわよくば峠道を丹南側・荒子新田へ下れば大正解だったのですが 丹南町側に下れそうな小道は無く、尾根道はナント突然藪となって「ハイ此れま〜で〜よ」(AM8:45)引き返せばよかったが
旧上久下村営水力発電所跡の下で進む丹波竜発掘作業

尾根筋の状態から方向を見定め谷へ下ったが、その谷筋は最も危惧していた最悪の山南町側に下り工事中の林道終点に降立ち(AM8:58)谷川に沿って下る林道天内線の工事標識には山南町上滝の文字が!!…。蛭子神社(AM9:10)を経て車道(県道)に出たところは上滝 村営久下発電所への分岐でした。此処から60m程先、JR踏み切りを渡った篠山川に面して 大正ロマンの香りを残す!!赤レンガ造り二階建ての旧上久下村営水力発電所跡があり、岩を噛み涛々と流れる川代渓谷の流れの中に、今はひっそりと村民が文明と取り組んだ歴史を静かに秘めて建っています。
「丹波竜」発見現場近くの篠山川

川の流れの中 (手前の右岸近く)に良く見ると ポットホールも見られます。県道は川代渓谷沿い川を挟んでJRと並行して走っています。渓谷美を楽しみながらでは有りますが国道176号線の大山下へ抜けて車デポ地の大山荘(市民農園)入り口までは約 8km!なかなかの長丁場です (AM10:45)。
旧上久下村営水力発電所は村一帯がランプ生活だった大正9年村長 :平藤徳蔵氏等によって、自力で水力発電所設営の協議が整い上滝・下滝の水利組合灌漑用水を利用して導水することになり、この地に建設されました。当時の予算約8万円で着工され大正11年6月に竣工したが
平成27年完成「丹波竜の里公園」

総工費10万9800円は8ヶ集落の山林を売却する等、 資金作りにも大変な苦労があったが当時近隣に比類無き施設の完成も、昭和17年の電気事業統合令により、翌・18年関西電力に統合されて始業以来僅か20年で水力発電所は閉鎖された。その後、関電に引き継がれてから 昭和38年まで運転されてきましたが、電力需要の増大により大規模な発電施設の整備により廃止された。川代渓谷の川床や滝 ・急流の素晴らしいロケーションでJR下滝駅からは広田の吊橋(下滝城の項を参照)もあり手頃なふるさとハイキングコース山南文化と歴史の道として 当時の施設・設備の復元と保存に努めて戴きたいものです。
「丹波竜の里公園」のアスレチックシューター

【其の後:丹波竜発見により現場側の発電所は、村の歴史館として補修保存が決まりました】【丹波竜】 2007年1月の報道以来・久下村営発電所跡へは寄れなくなってしまったが、 町の文化遺産として認識され、利活用を検討されながら保存される見通しがついた。篠山川の此処:発電所跡付近の篠山層群泥岩層は、地層の成り立ちや年代が「手取層群」【(白亜紀前期:1億4千万〜1億2千万年前)国内最大の 恐竜化石発見地層である北陸地方の 】と似ていることから専門家の間でも恐竜化石発見の可能性が指摘されていたといわれます。
肋骨:丹波竜化石の発掘速報展・山南町住民センタにて H19.4)

日本では 算出が稀と云われる恐竜の化石ですが、特に草食恐竜では国内最大級の【竜脚類テイタノサウルス形類の可能性が高く、 当初より発見骨格は此れをモデルに説明されています】の化石であり・さらには数十点の同一固体の化石が密集状態で出土する日本初の快挙!!。日本ではトップクラスの恐竜化石になると考えられています。さらに今年6月には切り出して持ち帰った地層を調査していた「県立人と自然の博物館 (三田市)」から国内では初の頭部の脳函の部分が見つかり、全身骨格発掘の可能性が高まったとされます。
竜脚類の血道弓

第一次調査は農耕用の取水が始まる3月末頃一端終了し、 河川の水量が減る11月以降・「恐竜アート」の稲刈りイベントの後には 第二次調査が開始されるでしょう。国内最大級の草食恐竜丹波竜(2006年8月に発見された)は8年を経過し新種新属の「タンバティタニス・アミキティアエ」学名を得た。 2015年3月芝生の恐竜広場には実物大(体高7m・体長15m)の丹波竜模型がモニュメントとして完成設置された。
(現地:村営水力発電所跡地説明板 山南町観光協会 恐竜速報展資料・丹波市を参照)


 金山城

金山城(赤松城)
 537m  篠山市丹南町追入・氷上郡柏原町上小倉
多紀郡内(篠山市)の多くの城を落した明智光秀が天正6年(1578)9月に築いた金山城は、 まだ残っている波多野秀治の八上高城と黒井城の荻野(赤井)直正・霧山城の波多野宗長等との連携を断つ郡境にある鐘ヶ坂に、 自ら鬼となり「鬼の架け橋」のある鬼の山に城を築き丹波平定(丹波攻め)の前進基地として築いた山城です。天下統一を急がせる織田信長に対しては、思いの外・長期戦になった丹波攻めに恐れと苛立ちをもって事にあたったでしょう。
金山城本丸の紅葉H19.11.25

本丸周辺には本格的な「穴太積み」の石積みが残ります。 主郭部の石垣は八上城が2m程なのに金山城の石積みの高さは4m以上です。山頂への近道は有りますが追入神社の登山口から続く大手道が判りやすい登山コースです。丹波への侵攻は天正3年(1575)10月頃からで、 織田信長
は、但馬の山名一族が黒井城主・赤井(荻野)悪右衛門直政に攻められ援軍を求めてきたのを契機に 天下平定の矛先を丹波に向けてきた。敗戦で時には細工所城「荒木鬼」荒木氏綱 のように敵方の家来をことわったが息子・氏清は光秀失脚まで光秀方について荒木氏は滅亡しています。
金山城本丸南の石垣 H16.4.8

信長の命により明智光秀は八上城・波多野氏他を見方につけて二ヶ月余りにわたって黒井城を攻囲していた。 そして翌天正4年1月15日総攻撃の最中に有名な!呼び込み戦法で黒井城「丹波の赤鬼」赤井悪右衛門と図った八上城 の波多野秀治の突然の寝返りにより光秀は大敗し栗柄峠〜鼓峠を経て坂本(滋賀県)に 一旦は退かせています。そして翌天正5年 10月光秀は細川藤孝らと篠山に入り安口城・籾井城(福住)その他の諸城を攻略します。 天正6年(1578)2月三木城を別所長治が織田信長に脊いたとき波多野秀治は、この謀反を支援して他の丹波国人衆と共に一斉蜂起します。
金山城本丸の石積と虎口 H16.4.8

信長は光秀に征討を命じて 同天正6年3月からはその軍勢は丹波へ侵攻して八上城を攻めたが堅城のため一気に攻撃できず般若寺城、勝山堡(和田)の付城を築いて 兵糧を断つ包囲作戦をとった。明智光秀が天正6年(1578)9月上旬からは、先の失敗「呼び込み戦法」天正3年(1575)に懲りて氷上・黒井城の赤井氏と多紀・八上城の波多野氏の連携を分断する拠点に築いたのが金山城です。 黒井城・八上城・そして氷上城の波多野宗長の連合で長期化した丹波攻めの前線基地です。かって丹波勢の砦の下地があったからこそ 短期間に完成したと思われ金山城の築城には近くの農民を集め、一夜にして地ならしして八幡山城(柏原町)の城塁を移し築いたといわれます。
金山城本ノ丸西南角の石垣 H16.4.8
 

此処は多紀の波多野氏と氷上の赤井氏の連絡を断つことと 氷上側からは絶壁で攻めにくく、多紀側は八上城から篠山盆地まで良く見渡せるので戦い易く守り易い城でした。この要衝の地に丹波に侵攻してきた光秀が始めて城を築いたとは思えず 先に丹波勢の砦があり、此の下地があって早期に築城出来たと思われるが丹波勢力の様子は一切見えてきません?。昔の山陰街道が、篠山から柏原へ越えず山南町谷川へ迂回する程の悪路で、追入からは春日町黒井方面へは瓶割峠への 街道が通じていましたが、この時代には柏原へ抜ける 鐘ヶ坂を越す道が利用され、険しいが警護・守備上外せない 重要拠点となっています。
金山城本ノ丸北側虎口の石垣

この城の地形を利用して要所に砦を築き、 本丸を中心に二の丸、矢島丸(矢嶋式部)、朽木丸(朽木久兵衛)、加々見丸(加上弥右衛門)、小切丸、鋸丸等城番の家臣の名を冠した幾つかの曲輪が存在します。光秀自らは天正7年(1579)6月に八上城を、8月9日には保月城(黒井城)を攻め落としているが 「兼見卿記」では天正7年(1579)10月には加伊原(柏原)に於いて新城普請。丹波平定後も城普請は続けられており西の毛利氏を意識したものと思われ、戦後の光秀の丹波構想が描かれていたことでしょう。しかし築城わずか三年後の天正10年6月2日 「本能寺の変」と小栗栖での死によって金山城も廃城となっています。

兵庫の城紀行  朽木史郎・橘川真一 編著 神戸新聞出版センター 参考
   丹波霧の里HOME
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