丹波吉野「鐘ヶ坂」奇勝:鬼の架け橋〜金山城〜馬頭〜高畑山・丹波竜発見現場
兵庫(篠山・柏原)  (五万図=篠山)
鐘ヶ坂公園-旧トンネル往復-金山城(540m) 1998年08月30日
追入-金山城-馬頭(502m)-高畑山(462m) 2001年06月17日
近畿の山城:金山城 馬頭砦(仮称) 追入砦(仮称)
  大山宮城(仮称)・大山宮西城(仮称)
金山城主郭南側の石垣 H19.11.25

♪…桜はあの娘の思いに咲いて 一目千両の鐘ヶ坂…♪と 柏原小唄に謳われる桜の名所「丹波吉野」で江戸時代後期の浮世絵師歌川(安藤)広重「六十余州名所図会」の一「丹波鐘坂」に鬼の架け橋等を描き 今も昔も丹波市と篠山市境の鐘ヶ坂は要衝。鐘ヶ坂トンネル(昭和42年開通)柏原側出口の西に旧トンネルへの荒れた道路跡が続き 明治16年(1883)我国道路トンネルとしては最も早い時期の開通に其の重要性が窺え、開通を記念して峠道に植えた桜が丹波吉野と呼ばれるようになり鬼の架け橋と共に丹波の名所にもなっています。
篠山市(追入の旧街道筋)から金山を望む

旧峠道上部にある短いトンネルの内部は出口まで一面に水が溜まり澄んだ水だが深くて長靴でも駄目。 柏原側の広場に3体ばかり石仏もある。トンネル入り口には三条実美の「鑿(さく=うがつ)山化居」篠山・追入側には有栖川親王の事成自同」の石造扁額を掲げ重要な道路工事であった事も窺わせる。昭和トンネルも時の県知事・金井元彦氏で石造の「萬古清風」扁額が篠山市追入側に掲げてある。明治のトンネルに続く道から金山への登り口はない?がトンネルの300m程手前に 林道がカーブして広くなっている場所に戻ると
奇勝・鬼の架け橋と譲葉山


此処に旧鐘ヶ坂峠を越えて昭和トンネル篠山市側出入口に降りる登山道がある 「火の用心の布旗」が立つ付近の藪の中を西南の谷合流付近に向かってトラバース気味に沢筋に下れば緑の道標に沿う金山へのハイキング道に出る。廃道となった明治のトンネルが 新トンネル開通(平成17年)により史跡・観光として脚光を浴びイベントでの通行が可能となってからは 鐘ヶ坂峠に至る古道や金山城へ登山道が整備された
金山城側から見下ろす鐘ヶ坂峠

この道は追入からの馬駈け場・現鐘ヶ坂トンネル上部・金山山頂への三差分岐点に出る。トンネル上は4等三角点鐘ヶ坂-トンネルを経て瓶割り峠から 稜線を譲葉山や黒頭峰へと辿れます。また丹波の森構想や兵庫花回廊計画等での公園化や篠山市丹南町側では史跡や観光整備計画もあるようだが市制でどうなったかは分からない。金山へは鐘ヶ坂トンネル柏原側からより追入神社からが一般的で整備された登山道がある。 マイカー登山ならR176号の追入集落入口付近に休憩・仮眠用の駐車スペースを利用する。追入神社と大乗寺参道分岐の中間付近には 小さな川にかかるなんの変哲もない橋があるが 平安時代中期和泉式部が我子(か称丸!)と泣く泣く別れた「別れ路の橋」伝承と和泉式部の墓もある。(昭和62年圃場整理で共同墓地に移転、伊丹市春日丘伊丹坂にも 和泉式部の墓と伝える五輪塔がある)。和泉式部の出生地や供養塔と由緒を伝える場所は岩手県北上市や佐賀県藤津郡等全国各地にあって 生涯に謎の多い女性だが冷泉天皇の二人の皇子との恋愛など 華麗・奔放に生きた情熱の女流歌人です。登山口の追入は東の福住・南の古市と共に
明治和のトンネル篠山側「事成自同」の扁額

多紀の三駅といわれ瓶割り峠・鐘ヶ坂を控え本陣もある宿場町として賑わった大山の郷からじっくり追入へ旧街道を辿った。鐘ヶ坂隧道と公園: 篠山市大山から丹波市柏原町へ越えるR176号の鐘ヶ坂は但馬を繋ぐ山陰道の要衝でしたが交通の難所で通行や物資の輸送には困難を極め、延喜式山陰道は此処を通らず 西方の山南町から加古川(旧佐治川)を氷上町成松-青垣町佐治へ向っていた。
明治のトンネル柏原側「萬古清風」の扁額

官吏が馬で越えるには余りに険阻な山道だったのでしょう?が鎌倉時代以降は峻険な峠越えながら瓶割り峠を黒井へ抜ける山道(いつ頃から通じていたかは知らないが…)と共に利用されるようになり往来する人々も少なくなかった事でしょう。鐘ヶ坂古道:柏原側から昭和のトンネル前から鐘ヶ坂公園を右手下にみながら明治のトンネルへ道を辿ると広く切り開かれた広場?からトンネルへは左手に大きく屈曲して延びてコーナー部端から 東方の山に向うのが古道で30分程で鐘ヶ坂峠に着く。
イベント時は明治のトンネル内に行燈等のライトアップも…

此処から金山城へは尾根伝いで九十九折れ植林の中を15分程下れば昭和トンネルの篠山市側で、以前は食堂のあった駐車スペース前に降り立つ。R176号線向かいに渡ったところに二本の狭い車道があり、右に直進する道の先に「瓶割峠」を国領へ越える古道・左に斜上する道はホンの数100m程で行き止まり?。明治のトンネル前に着く。鐘ヶ坂公園で実施される桜祭り・もみじ祭り等イベントの際には通る抜けが出来、
昭和のトンネル柏原側:右手に明治のトンネルへの表示がある

トンネル内に並ぶ自作の行灯が足下を照らす。天正期:多紀(篠山市)波多野氏の八上城 ・氷上(丹波市)荻野氏の黒井城を攻略する為、明智光秀が金山城を築いた要衝の地は戦略的にも重要な拠点。昭和のトンネル【昭和42年(1967)完成した延長455m・幅員7.5m】を丹波市側に出た鐘ヶ坂公園に不動の滝を訪れたり、 少し歩いて鬼の架け橋を確認して眺めてみるのも良いのでは。昭和のトンネルは時の県知事・金井元彦氏で「萬古清風」の石造扁額が篠山市追入側に掲げてある。 平成の第三トンネル工事は平成7年(1995)に着工され 平成14年(2002)に貫通した。此の昭和のトンネルの真上付近に明治の旧トンネルがあり
平成の新トンネル柏原側から昭和トンネルへの道 (左中)

其々トンネル出入り口の篠山側には有栖川宮熾仁親王筆の「事成自同」と書かれた石造扁額。柏原側には三條實美筆の「鑿(さく=うがつの意)山化居」と書かれた 石造の扁額を掲げ、重要な道路工事であった事を窺わせる。平成のトンネルの開通に併せて行われたイベントでは二代のトンネルが並ぶ例は珍しくないが明治・昭和・平成三代に亘る トンネルが残ることで俄かに脚光を浴びる。道路整備・拡幅工事等で
明治のトンネル【延長268m・幅員3m・明治16年 (1883)は日本の道路トンネルとしては国内では5番目に古く現存する
明治のトンネル柏原側出口 H19.11.23

煉瓦積み工法では国内最古と云われ柏原上小倉で3基の窯が造られ 鹿児島からやってきた職人が煉瓦を焼き約28万枚の煉瓦が使用されたと云う。見直され荒れた道は整備され訪れる人も増え、フエンスはなかったが 其れまでトンネル内柏原出口側の深い水溜まりで通行不能だったが今は水抜き・埋められイベントの際は通行可能。鐘ヶ坂古道や金山城見学後はトンネル利用で戻りたいが普段は鍵付き頑丈なフエンスで入口は塞がれ通行不可。
金山城本の丸の紅葉H19.11.25

明治のトンネルは明治12年(1812)当時の多紀郡長:園田多祐氏と氷上郡長:田艇吉氏が発起人となって 交通の発展が丹波地域の産業振興には不可欠であると鐘ヶ坂を越える交通の難所をトンネルで抜ける事を企画し、 多紀両郡民に其のことを説いて鐘ヶ坂隧道工事の為の義願書を兵庫県に提出し明治13年に許可されました。両郡内からは多くの支援・工事費用の寄付金を受け完成した。
新トンネル(バイパス)柏原側:鐘ヶ坂公園から望む

開通を記念して植樹された300本余りの桜が今では「丹波吉野」とも呼ばれる桜の名所となって 鐘ヶ坂公園は桜の時期・花見客で賑わいます。しかし歩いて越えた鐘ヶ坂・煉瓦作りの明治のトンネル・交通量の増加で事故も多発の交通の難所に変わりはなく 落石や冬季の凍結でトンネル迄上って来れない!…通行の規制も多く、これ等を解消する為に着工されたのが平成のトンネル【平成14年(2002)総延長2,650m・トンネル部の延長1,012mが
園林寺跡H19.11.25

貫通し平成17年完成開通記念では明治のトンネルが見直され、廃道となっていた車道や旧トンネル内を整備され、通り抜けのイベントも行なわれていました】鐘ヶ坂という峠を越える感覚はなく、 篠山側から水平道トンネルを潜り抜けると昭和のトンネルからの旧道と合流するバイパス道です。
(現地:明治のトンネル柏原側の案内板 平成18年3月丹波市観光協会等参照)


追入-金山城跡-馬頭-高畑山-林道天内線・上滝 2001年06月17日

黒頭峰・夏栗山登山口・高蔵寺への分岐とは反対側(左手)喫茶キャステル手前から大山の集落内に入っていく。西尾家(酒造家)の焼き杉塀に沿って西の山裾に向うと大山荘(市民農園)の入口です。 金山-高畑山の周回コースで荒子神田へ戻るつもりなので此処から追入までは旧街道を大山荘の面影を追いながら歩くことにする(AM6:00)。
大山宮西城(仮称)の堀切  R3.4

神田神社前を辿り追手神社・別れ路の橋を経て追入神社への観光コース!!?で追手神社は祭神・大山祇命を祀る(AM6:20)。境内に大樹が目立つが中でも「千年もみ」は平成元年12月12日県の郷土記念物に指定され無病息災長寿の神木として夫婦銀杏は推定樹齢350年、夫婦円満の木として親しまれています。周辺は日本最西端のアズマイチゲの自生地で昭和35年1月丹南町の天然記念物に指定されセツブン草・雪割りイチゲ・ニリンソウの自生も見られます。
金山城本ノ丸西面の竪土塁

追入神社の脇にある愛宕社・大神宮と彫られた石燈籠の側に登山口の標識がある。この登山口が城への大手で坂を少し登れば旧多紀郡3ヶ所の赤坂山観音堂に着く。鐘楼と対峙する小さなお堂は千手観音を祀る。金山山頂までは1.27kmの急坂を登り大乗寺への尾根分岐に着くと展望は開け全国的にも有名な中世の荘園大山荘の田園風景や 八上城も姿を見せます。
追入神社側金山登山口

滝跡への細い踏み跡もあるが城や山上寺院の貴重な水源の谷への道は荒れ崩れてお勧めできません。引返しての急登も一段落つく頃には竹薮も現れて足元に散らばる瓦破片を見る。 もと鋸丸の大乗寺跡「鬼の架け橋」600mの標柱を見て園林寺跡。石塔・石碑・石段・石垣等が散在するが金山城の砦(出曲輪)として機能していたことでしょう。300m程で小さな曲輪跡(小切丸?稲荷社か愛宕社を祀ってあったような小さなお堂の石積みが残る)を経て 平坦な尾根道(馬駈け場)が続き、
鐘ヶ坂公園・不動滝

その先で右手へ山裾を縫うように伸びる道は鐘ヶ坂(4等3各点)〜トンネル上を経て瓶割り峠に向います。左手から合流する良く踏まれた道は鐘ヶ坂トンネル柏原側から植林帯の中を登ってくる道です。展望は開けて右手上方の二の丸下を暫らく急登で本曲輪跡(本丸)。 以前は背の高いカヤトや棘の雑草混じりの537m山頂で展望も利かなかったが東側は切り開かれて間近に譲葉山-夏栗山・黒頭峰・三尾山-多紀連山や北攝の山々・南方へ転じれば 白髪岳・松尾山そして 千ヶ峰〜篠ヶ峰〜粟鹿山等々の山々が連なり壮観な展望を一人占め出来る所だが(AM7:10)東面を除き樹間越しです。
大山宮城(仮称)の竪堀  R3.4

北側へ抜けると西下方向にかけて野面積み(穴太積み)の石垣が残る。武将の名を採った朽木丸・矢嶋丸等があった処?。その横を下っていくと右手に巨岩があらわれます。 巨岩の間には長さ5m・幅3m程の岩が橋のように挟まった名勝鬼の架け橋。橋の上からでも下からでも覗き込めば鐘ヶ坂の峠を往来する車列が見える。側の大きな岩(天狗岩)へ攀じ登れば良い展望休憩所だが
金山城本郭部南・6〜7mの大岩上に積まれた石垣 H16.4.8

さらに西方へ踏み跡を伝えば千尋の渓岩群が点在する軍艦岩?へ出て 北方(柏原側)展望が拡がる良い場所です。 此処からは柏原側への下降点を見送り園林寺跡へ戻り崩れたまま建材や瓦が放置された境内を抜ける。水平道が延び道脇の高みに歴代住職の墓石が数基並ぶ。 広いこの道は何処まで続くのだろうと辿っていくと何時しか細い境界ポールの続く道となり、やがてポールの境界道も藪で通れなくなるが匍匐前進すれば何とか通り抜けられる。
旧上久下村営水力発電所跡


荒れているが踏み跡は明瞭で柏原・山南境界尾根との分岐馬頭(502m AM7:30)に着く。(注)これから向う高畑山への南下する尾根道は馬頭山頂とは反対方向に下っていく。 山頂は平坦でピークの位置は特定出来ないが登り切った南端のポールに「千峰漫歩」の会の名が…高畑山?〜古坂〜馬頭〜此処から北西へは山南・柏原境界尾根に延びている。下滝〜下小倉を結ぶ古い峠道があり山南側に苔むした地蔵石仏があった…馬頭への南側斜面に数段(3-4)の曲輪がある。北の柏原町側にも一段曲輪が残る。旧金山城の一砦のようですが?元の金山城の歴史と同じで此方の城砦も城名は不明!!。
旧上久下村営水力発電所跡

これより古峠へ赤テープ不要の境界尾根に山道が続く。振り返る山稜の奥に金山城址が聳え立ち嘗ての威容を見せている。406ピークから山南町側へ 下っていくかと錯覚するほど。しかし程なく着いた古坂(AM8:03)は山南町・丹南町を結ぶ明瞭な峠道で尾根を辿ってほどなく高畑山との分岐に着く。
「丹波竜」発見現場近く:田圃アートの恐竜と看板H19.8末

ゆっくりと展望も特徴もない高畑山(3等AM8:25)まで往復・直接此処から大山側へ下るには・きつく長い 藪漕ぎになるので分岐に戻り山南・丹南境界尾根歩き。尾根の低いところ、あわよくば峠道を丹南側・荒子新田へ下れば正解だが 丹南町側に下れそうな小道はなく尾根道も突然藪で、 引き返せばよかったが尾根筋の状態から方向を見定め谷へ下ったが最も危惧していた最悪の山南町側工事中の林道終点に降立ち谷川に沿い林道天内線で山南町上滝に!!。
旧上久下村営水力発電所跡の下で進む丹波竜発掘作業

蛭子神社(AM9:10)を経て県道に出たところは上滝村営久下発電所への分岐でした。 此処から60m程先JR踏み切りを渡った篠山川に面して大正ロマンの香りを残す!! 赤レンガ造り2階建ての旧上久下村営水力発電所跡があり岩を噛み涛々と流れる川代渓谷の流れの中に、今はひっそりと村民が文明と取り組んだ歴史を静かに秘めてたつ。川の流れの中(手前の右岸近く)に良く見るとポットホールも見られる。県道は川代渓谷沿い川を挟んでJRと並行して走っています。
「丹波竜」発見現場近くの篠山川

渓谷美を楽しみながら国道176号線の大山下へ抜けて車デポ地の大山荘(市民農園)入り口まで約8km!の長丁場。旧上久下村営水力発電所は村一帯がランプ生活だった 大正9年村長:平藤徳蔵 氏等によって自力で水力発電所設営の協議が整い上滝・下滝の水利組合灌漑用水を利用して導水することになり建設された。当時の予算約8万円で着工され大正11年6月に竣工したが 総工費10万9800円は8ヶ集落の山林売却等資金作りにも 大変な苦労があったが当時近隣に比類無き施設の
平成27年完成「丹波竜の里公園」

完成も昭和17年の電気事業統合令により翌・18年関西電力に統合されて始業以来僅か20年で水力発電所は閉鎖。その後:関電に引き継がれてから昭和38年まで運転されてきたが電力需要の増大により大規模な発電施設の整備により廃止された。川代渓谷の川床や滝・急流の素晴らしいロケーションでJR下滝駅からは広田の吊橋もあり手頃なハイキングコース 「山南文化と歴史の道」として当時の施設・設備の復元と保存に努めて戴きたいものです。
「丹波竜の里公園」のアスレチックシューター

【其の後:丹波竜発見により現場の発電所は村の歴史館として補修保存が決まった】【丹波竜】2007年1月の報道以来・久下村営発電所跡へは寄れなくなってしまったが町の文化遺産として認識され、利活用を検討しながら保存される見通しがついた。 篠山川の此処:発電所跡付近の篠山層群泥岩層は地層の成り立ちや年代が「手取層群」(白亜紀前期:1億4千万-1億2千万年前)国内最大の恐竜化石発見地層である北陸地方と似ていることから専門家の間でも恐竜化石発見の可能性が指摘されていたといわれます。
肋骨:丹波竜化石の発掘速報展・山南町住民センタにて H19.4)

日本では算出が稀と云われる恐竜化石だが草食恐竜では国内最大級の竜脚類テイタノサウルス形類の可能性が高く、当初より発見骨格は此れをモデルに説明されていた。 さらに数十点の同一固体の化石が密集状態で出土する日本初の快挙!。日本ではトップクラスの恐竜化石になると考えられています。 今年6月には切り出して持ち帰った地層を調査していた「県立人と自然の博物館」から国内では初の頭部の脳函の部分が見つかり全身骨格発掘の可能性が高まったとされます。
竜脚類の血道弓

第一次調査は農耕用の取水が始まる3月末頃一端終了し、河川の水量が減る11月以降・「恐竜アート」の稲刈りイベントの後には第二次調査が開始されるでしょう。 国内最大級の草食恐竜丹波竜(2006年8月に発見された)は8年を経過し新種新属の「タンバティタニス・アミキティアエ」学名を得た。2015年3月芝生の恐竜広場には実物大(体高7m・体長15m)の丹波竜模型がモニュメントとして完成設置された。
(現地:村営水力発電所跡地説明板 山南町観光協会 恐竜速報展資料・丹波市を参照)


 金山城 馬頭砦(仮称) 追入砦(仮称)  大山宮城(仮称)・大山宮西城(仮称)

金山城(赤松城) 537m  篠山市丹南町追入・氷上郡柏原町上小倉

多紀郡(篠山市)の多くの城を落した明智光秀が天正6年(1578)9月に築いた金山城は、まだ残っている波多野秀治の八上高城と黒井城の荻野(赤井)直正との連携を断つ郡境にある鐘ヶ坂に自ら鬼となり鬼の架けのある鬼の山に城を築き丹波平定(丹波攻め)の前進基地として築いた山城です。天下統一を急がせる織田信長にとっては思いの外・長期戦になった丹波攻めに恐れと苛立ちをもって事にあたったでしょう。
金山城本丸の紅葉H19.11.25

本丸周辺には本格的な「穴太積み」の石積みが残ります 主郭部の石垣は八上城が2m程なのに金山城の石積みの高さは 4m以上です。山頂への近道はあるが追入神社の登山口から続く大手道が判りやすい登山コースです。丹波への侵攻は天正3年(1575)10月頃からで織田信長は但馬の 山名一族が黒井城主・赤井(荻野)悪右衛門直政に攻められ援軍を求めてきたのを契機に天下平定の矛先を丹波に向けてきた。敗戦で時には細工所城「荒木鬼」 荒木氏綱のように敵方の家来をことわったが息子・氏清は光秀失脚まで光秀方について荒木氏は滅亡しています。
金山城本丸南の石垣 H16.4.8

信長の命により明智光秀は八上城・波多野氏他を見方につけて二ヶ月余りにわたって黒井城を攻囲していた。そして翌天正4年1月15日総攻撃の最中に有名な!呼び込み戦法で 黒井城:荻野直正と図った八上城:波多野秀治の突然の寝返りにより光秀は大敗し栗柄峠-鼓峠を経て坂本(滋賀県)に一旦は退かせ 翌天正5年10月光秀は細川藤孝らと篠山に入り」安口城・籾井城他の諸城を攻略。天正6年(1578)2月三木城別所長治が織田信長に脊いたとき波多野秀治は、この謀反を支援し他の丹波国人衆と共に一斉蜂起します。
金山城本丸の石積と虎口 H16.4.8

信長は光秀に征討を命じて 同天正6年3月からはその軍勢は丹波へ侵攻して八上城を攻めたが堅城のため一気に攻撃できず般若寺城、勝山堡(和田)の付城を築き兵糧を断つ包囲作戦をとった。明智光秀が天正6年(1578)9月上旬からは先の失敗「呼び込み戦法」天正3年(1575)に懲りて氷上・黒井城の赤井氏と多紀・八上城の波多野氏の連携を分断する拠点に築いた金山城だがこの要衝の地に丹波に侵攻してきた光秀が始めて城を築いたとも思えず
金山城本ノ丸西南角の石垣 H16.4.8

かって丹波勢の砦なり一時期 (天分末期ー永禄年中?の15年程) 三好長慶・松永久秀らが篠山占拠の時期があり三好・松永・内藤氏勢力の砦があったか!?…下地があったからこそ短期間に完成したと思われ金山城の築城には近くの農民を集め、一夜にして地ならし八幡山城(柏原町)の城塁を移し築いたといわれます。 氷上側からは絶壁で攻めにくく、多紀側は八上城から篠山盆地まで良く見渡せるので戦い易く守り易い城でした。この城の地形を利用して要所に砦を築き、 本丸を中心に二の丸・矢島丸(矢嶋式部)・朽木丸(朽木久兵衛) ・加々見丸(加上弥右衛門)・小切丸 ・鋸丸等城番の家臣の名を冠した曲輪がある。
金山城本ノ丸北側虎口の石垣

光秀自らは天正7年(1579)6月八上城:8月9日には黒井城を攻め落としているが「兼見卿記」では天正7年(1579)10月には加伊原(柏原)に於いて新城普請。丹波平定後も城普請は続けられており 西の毛利氏を意識したものと思われ、戦後の光秀の丹波構想が描かれていたことでしょう。しかし築城わずか三年後の天正10年6月2日「本能寺の変」によって金山城も廃城となった。

兵庫の城紀行  朽木史郎・橘川真一 編著 神戸新聞出版センター 参考

馬頭砦と追入砦(仮称) 
馬頭砦 馬頭 502m 篠山市追入・丹波市柏原町上小倉
追入砦 xx Ca335m 篠山市追入

丹波攻略の明智光秀が天正6年(1578)多紀郡八上城(波多野秀治)を攻略中に氷上郡黒井城(荻野直正)と の連携を遮断するため築いた陣城「金山城」は大河ドラマ(2020-21)麒麟がくるにより黒井城・八上城ともに登山者も増え登山ルート等も整備されたが金山城へは最近6ー7年山頂を訪れていない。
園林寺跡の本堂?・石垣・石段

浮世絵師歌川(安藤)広重「六十余州名所図会」に描かれる[鬼の架け橋]や主郭部の石垣や曲輪内は 眺望の良さと時期には桜名所の一スポットともなる。追入神社近くの大手登山口から観音堂を経て鋸丸の大乗寺跡(現大乗寺は西山麓に移っている)や園林寺跡の石垣も整然と (明治末期頃尼寺となった)倒壊した庵か堂跡?が残っていた一帯は整備され案内板が立つ。
園林寺::広い平坦地(曲輪群)墓地?・畑地?・兵溜?…

寺跡の上部が小切丸…さらに平坦尾根が続く馬場…と陣城にしては広大な城域で単なる陣城・付城ではなく其の後も丹波国主となった光秀が「本能寺…」に頓挫はしたが拡張・造成が続けられていた希有な城。主郭に向かう分岐「馬場」の先でトンネル上を経て北に延びる丘陵部は譲葉山へ・向山へと続く。 譲葉山には光秀の黒井城攻め織豊系陣城が其の西山麓には柏原八幡城がある。
墓所・右手に柏原町へ抜ける街道への関所を兼ねた?三ノ曲輪

園林寺跡に戻って西北への水平道は金山城三ノ曲輪跡に着く。(明治のトンネル柏原側出口から続く峠越え街道に降り立つが鐘ヶ坂峠を遮断し・城域内通路(街道)を 柏原側へ抜ける関所城として付け替えたものか?。此処は主郭側から竪土塁と竪堀が街道に繋がる場内通路の広い鞍部に延び、さらに鞍部を西向かいの尾根筋も竪堀・竪土塁の急斜面を 四ノ曲輪群!?の丘陵上へ続く。
馬頭砦:主郭と副郭…堀切?から

金山城を訪れる登山者・山城フアンも粗80%此処まで入ってくる人も少ないと思う?。しかし此より先:四ノ曲輪からの尾根筋 (三つばかり瘤を越えた先の峰)か寺墓地を過ぎ広い削平地を随所に見ながら水平道(作業林道は大乗寺・金山城への登山道でもある)を西へ向かう高みに点名馬頭が見えてくる。20年前(2001年)金山城からー馬頭(4等三角点502m)ー高畑山(462m)ー山南町上滝へ小縦走した。
主郭南面曲輪?は削り残の土塁と堀切だった!?!

鬱蒼とした藪中のしかも茨木が多いなか立ったままではと 匍匐前進でやっと通り抜けた市境界も、今は大乗寺からの林道が上ってきておりスッカリ様子が変わった。高畑山へ予定したルートから点名:馬頭へわずかに外れるがおなじ丹波・篠山の市境尾根。馬頭山頂手前から数段の曲輪を確認していたが未だ山城への関心は浅かった。山南町上滝から上小倉や、山南町金屋から下小倉へ越える古い峠道もあり、直近に金山城があることからも
馬頭砦:北尾根続きの腰曲輪

金山城以前からの城砦だが金山城の出曲輪として利用されたと思う。金山城そのものが旧城砦を明智光秀が陣城として大規模改築したものか…とも推察する。史実を伝える古文書…等?もなく今となっては旧金山城があったと推察する人などいないでしょうが金山城から眺望が効かない柏原町内を僅か近距離の「馬頭」からは望まれる。波多野氏勢力下にあった多紀郡(篠山市)の嘗ての大山荘も一時期(天分末期ー永禄年中?の
追入砦主曲輪以外は荒れた小曲輪群

15年程)三好長慶・松永久秀らに占拠されていた時期がある。馬頭砦は殊に京都八木城の内藤・松永ら三好氏軍が度々侵攻していた氷上(丹波市)側を窺う市境の絶好の位置にある単郭の砦。南面始めに見る曲輪!?と見えたのは削り
残しの切岸と土塁に挟まれた堀切らしく西側斜面に延びている。その上に小テラスと二段の主郭を北面を除く三方に帯曲輪を廻す。
追入砦主曲輪
追入砦:金山城へはR176号鐘ヶ坂トンネル (三代目の平成のトンネル)篠山側出口前を西の旧道に入り 大手口となる追入神社から辿るのが一般ルートだがR176の東向かい正面には大山川にその山裾を落とす丘陵の山上部東西50mばかりの城域には荒廃し、緩斜な尾根筋に崩れて段差 も低く・切岸加工も曖昧な小曲輪群があるだけだが尾根続きの北面直ぐ下方には浅い堀切をもつ単郭の砦がある。堀切がなければ城砦遺構として見過ごしていたかも…?。
追入砦:北尾根続きの堀切

丹波市側・篠山市側を結ぶ昭和のトンネル手前左手から鐘ヶ坂へのルートや、 此処を右手に明治のトンネル側谷筋を詰め丹波市春日町国領に越える瓶割峠への要衝監視を担う砦は一時期とは云え金山城・馬頭砦ともに大山荘を占有していた三好長慶・松永久秀らや…氷上・多紀両郡を分断する明智勢の 金山城に付随する砦だろうか。

大山宮城と大山宮西城(仮称)
大山宮西城  トノ山 280m 篠山市大山宮
大山宮西城 xx Ca348m 篠山市大山宮
大山宮城(仮称)主曲輪と帯曲輪

大山川の河川段丘上に位置する大山城(中沢城・中沢屋敷・長沢屋敷)を西に見て旧西紀町方面からの140号とは「長安寺」交差点でR176号に合流する。 神田神社(大山上)交差点の先で山際を右へカーブすると再び長い直線道路となり「追手」交差点で現在三代目(平成)の鐘ヶ坂トンネルに吸込まれ丹波市柏原側に抜ける。 トンネル上には明智光秀が黒井城・八上城間相互の通行等を遮断するため築いたとされる金山城があり、
大山宮城北尾根続きの堀切

大河ドラマ化された明智光秀や城ブームもあって登山者も多い…。両郡に跨がる要衝でもあり丹波市・篠山市いずれかの砦が金山城より以前に有ったのでは?…と 10数年前に馬頭砦遺構を見つけて以来の推定ですが…!?。大山宮城と大山宮西城は神田神社(大山上)交差点を過ぎると大山川を挟んで左手(西)に見える丘陵部の北端が追手神社で切れる丁度中間点付近の丘陵上に位置するが所在の説明が難しいが
大山宮城帯曲輪から:竪堀の左右に小曲輪

金山城ー馬頭砦ー高畑山への登山レポートがあるので、地図上の高畑山に焦点をあてて見て貰えれば、 其の東へ裾を落とす尾根上に大山宮城と少し距離をもって山上部には大山宮西城の二城砦遺構がある。先端部の大山宮城は旧山陰街道の宿場町風情が残る「大山宮」地区を足下に望む往来監視にあたり、 山上部の大山宮西城は丹波市山南町上滝から篠山市大山宮の追手神社へ市境界尾根を跨いでを繋ぐ、大山宮城帯曲輪と竪堀左右の小曲輪

名前通り古くから?利用されてきた間道「古坂」の通行監視の任に当たったものか?。ただ大山宮西城からは古坂峠の往来や在郷領内に眺望も効かず監視砦とも思えないが…城砦の存在も知られていなかったので築城時期や城主等の城史一切不明。 東寺の荘園に大山荘地頭職として入部した中沢氏や、永正年中…!?には波多野氏の支配下にあり、天分末期ー永禄年中?一時期には三好・松永氏らにより多紀郡が10数年占拠されていた時期もあり、 存在さえ知られざる山城にはいつの日か!!・
大山宮西城の主曲輪

謎に迫る資料なり探究結果に期待したいが大山荘の荘園官吏や大山荘領主中沢氏が領内最奥部!!?の此の地に城を構えていたかは不詳ですが、其の後:八上城の波多野氏や京都八木城の三好・内藤・松永氏らが領有した頃のものか?。 明智光秀が金山城を改修していた時期・明智傘下に組みした近在の武将が築城して籠り、草山砦等と同様に本陣:金山城付き砦群の一つとなったものか?。大山宮城(トノ山 280m篠山市大山宮)へは山麓 :北向かいのお屋敷の敷地で
大山宮西城の主曲輪の堀切と前曲輪

栗の接ぎ木作業中の方に声掛けして「栗林に付き…立ち入り禁止」札の前を抜けた先から上部に向かう激急斜面に取付き・浅いが長い竪堀沿いに主郭下段に登り詰め左右に竪堀を窺う曲輪上に着いた。その上に35x15m程の広い帯曲輪・その上に15u程の綺麗な二ノ曲輪・藪っぽい最上段が10x4m程の主曲輪で、愛宕か?稲荷社?が祀られていたものか?祠跡は石礎壇が残されている。尾根続きの背後には堀切がある。
大山宮西城の堀切

単郭ながら竪堀・堀切・低土塁・曲輪が一応!?整った山城で、参拝者も途絶えた山麓の荒れた踏跡程度の参道(藪で埋もれ ・隠れている)があるので取付きを急がずと:も少し奥まで進めば・主郭帯曲輪や獣避けフエンス沿いに、浅いが堀切にも繋がる帯曲輪に着く。大山宮西城(Ca348m篠山市 大山宮)へは大山宮城の主曲輪から尾根続き背後の堀切を越えて、なお長く感じる尾根(比高70m程)続きの先に出会す山城遺構だけに …山城探索に出掛けても余程の確証なり、あるだろう!!?の強い思い込みでもなければ諦められるかも…?。
大山宮西城の主曲輪

大山宮西城からの尾根をさらに西へ詰め登れば山レポートの金山城ー馬頭ー406m峰ー古坂…へのルートに繋がる高畑山(461.4m)への縦走路だ。大山宮西城の規模は大山宮城に比べて1/2程と小さい…が見どころはある。主郭部の尾根筋前後を二本の大堀切で遮断 :とりわけ尾根続き背後の堀切は大きく深い。

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