遠阪峠から丹波の最高峰へ  遠阪峠~カラコ山~展望台~粟鹿山
Ⅰ遠阪峠~カラコ山(往復)粟鹿山~597m峰~遠阪 2002年06月01日
Ⅱ今出親水公園~遠阪城~オオジャレ(往復)粟鹿山~ムカエ山 H16年11月20日
近畿の山城: 遠阪城 出合砦 田ノ口城と湯落城
カラコ山西付近から望む粟鹿山
校歌・故郷の山:♪ハアー粟鹿山にかかる鰯雲…♪ 朝来市 山東町音頭
   ♪…粟鹿の滝見に日が暮れて かすかに見ゆる粟鹿山♪ 梁瀬小学校

青垣町と山東町を結ぶR427号遠阪峠は古来より交通の要衝で遠阪は但馬街道の宿場町風情が残り本陣だったと思われる立派な門構えの家もある。 足利尊氏が但馬の南朝方を攻めたり、但馬山名氏が丹波へ侵攻・黒井城荻野・赤井氏らの逆襲で但馬へ押し戻され竹田城さえ奪われたため織田信長に救援を求め丹波攻略の大義名分を得た信長が天正7年「丹波攻め」に
田ノ口城:土塁を挟む二重堀切

秀吉の弟秀長の軍が遠阪峠を越して攻め入り、明智光秀の軍の挟み撃ちに周辺の遠阪城 ・烏帽子山城・小室城・栗栖野城・山垣城等が尽く落城した。 ただ羽柴秀長が竹田城の城代でいれば遠阪峠からだが丹後田辺城方面からなら遠阪経由は遠過ぎ、福知市夜久野の末付近から遠阪(但馬街道)に至るルートが考えられます。 要衝ではあっても交通の難所も昭和52年5月遠阪トンネル(有料…北近畿豊岡自動車道路の開通でトンネル部のみ通行料徴収・春日・和田山ICまでは無料の専用道)が開通し通行量は激減!?したが峠には
ムカエ山~オオジャレの尾根から粟鹿山 H16.11.20

公式コースのゲートボール場がありホテル好楽園がある(共に現:廃園)。遠阪峠からは 湯船山(京都府側では小風呂)へもトレースしたが、このときも但馬の境界尾根を粟鹿山への縦走予定が取付き点が定まらず順延していたが遠阪峠に向かう。但馬側からはまだ登った事のない粟鹿峰だが大碑からは お杉地蔵~仏岩~粟鹿山、大名草からは馬ヶ瀬~雲須山~粟鹿山を参考にして下さい。 地元では粟鹿峰とかオーガ峯とも呼ばれるが近畿100山・ふるさと兵庫の50山に選ばれて粟鹿山が通名です。


Ⅰ遠阪峠~カラコ山~(往復)粟鹿山~597m峰~遠阪  H14.06.01

遠阪峠を挟む熊野神社の分岐を左に見て遠阪トンネル道の高架下付近の空き地に車を寄せて車道を遠阪峠に向けてスタートします。送電線が谷に沿うように山裾に沿って山東町側へ峠を越えて延びています。 峠近くに設置された送電線鉄塔が粟鹿山へ続く丹波・但馬境界尾根上にあるが 、ゲートボール場の敷地だったり伐採等林業工事で「作業中進入禁止」だったり
管理作業林道から粟鹿山頂のアンテナ群

コンクリートブロックで固められた壁だったりで取付点が見つからない。 今回は未だチェーンソーが唸り機木が悲鳴を上げて倒れていく伐採工事の現場内なので邪魔にならないよう(AM10:30)車道とブロック沿いに捲き上げながら軽い藪を漕いで作業道に入らないように鉄塔をめざし直上します。ステップA脚の文字が目に付く「佐治養父線No.112 S55.12建設」 鉄塔からは稜上に細いが明確な踏み跡が続く。青垣町側の谷から絶えず吹き揚げてくる風が心地よい。雑木や手入れされず立枯れ杉木が目立つ植林帯から松が混じる自然林となり二つほどのピークを越すと青垣町側に 大規模な伐採地があらわれ、伐採作業者の姿とチェーンソーが響く三つ目のピークには役行者像が立っていた(AM11:40)。何故こんな所にあるのか訝(いぶか)しく思う!。さして高いピークでもなく見晴らしが良いわけでもない。 何よりも今までのコースや目前に見えるカラコ山にかけても岩場や岩尾根も見当たらない。
カラコ山東の小ピークには役行者像が!!

行者も厳しい顔はしてはいません。潅木を通して福知山側に三岳山が望まれる。鞍部に良く踏まれた山道が一本、粟鹿方面から上がってきていたので山東町側から 付近を周回する行者道があつたのかも知れない。既に伐採され枯れたままの樹木で行く手を塞がれる稜上ですが展望は開けてきます。湯船山がなだらかな山容を見せています。 とても夜久野側から見る姿からは想像できない。伐採された尾根の境界は東の尾根側に続いているが出発点への下降は距離の短いこの尾根を遠阪峠へと決めています。その分岐からは一気に棘の木の混じる厄介な藪に突っ込んでいく感じです。一瞬気が抜けない。 果たして何処まで行けるかと覚悟したがカラコ山山頂(3等三角点 663m)は目前にあった。狭い藪の中の空き地には航空撮影用標識があり張り綱が少し緩み頭部の三角羽も 一枚は何処かへ飛んでいた。
オオジャレ分岐付近よりカラコ山 H16.11.20

柱には「H12.12末日まで壊さないように」とマジックで明記してあったが以来どれほどの人が此処を訪れたのか!数えるほどもいないのでは?。粟鹿山がアンテナ群を伴って姿を見せる。ただ粟鹿山方向へは境界ポールを追うと棘藪を潜っていく事になるので此れは願い下げ。 尾根を少し外しながら暫らく雑木藪の中を抜けると再び展望の尾根や素晴らしい自然林の遊歩道が待っています。カラコ山から暫らく藪の境界尾根を降ると、オオジャレへの分岐まで続く 伐採尾根は急斜面の登り下りとなりますが展望も拡がり広い尾根にはツツジに混じって黄色や白の草花が目立ちます。
カラコ山頂・測量柱の横に粟鹿山

山東町から粟鹿山頂に向って林道が延びてきているのが見えます。北側からの登山のメインルートは当勝神社からか?、土砂崩れ等でH16年まで工事中となっている林道のようだがハイキング道は展望台下へ通じるオオジャレ~ムカエ山分岐からは自然林の広い尾根となり松の木が 目立ち始めると青垣町側からの管理林道(カーブミラーと白い保安林標柱が取り付き点)に出てくる。後は林道を山頂に向うだけだが50m程先にはコンクリートの 展望台・下部は休があるのでよってみる。鉄梯子で台に登ってみたが周辺の木が伸び展望は左程でもありません。
粟鹿山の展望台

展望台への入り口が当勝神社への下山口ですが林道閉鎖中の為「工事中」ゲートが設置されています。北側からはH12.12新装オープンした与布土(よふど)温泉「極楽湯」もあり此処から奥山林道経由が以前からハイキングコースとして整備されている。 粟鹿山西南尾根を黒川ダムに向う三国山雲須山を正面に望む。 単調な林道歩きの途中に山東町が建てた公衆トイレ施設があり、其処が与布土や 仏岩~大碑や小碑への分岐点となる。建設省とNTTコミュニケーションズの中継施設の間には丹波の数少ない1等三角点粟鹿山(962m PM1:30~PM1:50)がある。
出合砦(左手)先端が熊野神社・親水公園と 遠阪峠分岐。正面にカラコ山

少しガスっていて微かに 大江山をバックにして三岳山・伏見山
居母山三国山雲須山 ・黒石ダムから青倉山・裾野を広げる朝来山と円山川を挟んで対峙する 竹田城や金梨山。好展望の山頂だが紗がかったような天候ではスカッとした眺望は得られません。時間も余裕がなくなってきたので下山に掛かります。管理作業林道・カーブミラーのある尾根の取付き点から元来た尾根コースを1時間程で カラコ山迄で引返す。伐採部分の尾根は倒木のバリケードですがその先へは細く続く踏み跡があり、つかのピークを越す度にあやしくなってくるが幾つもの枝尾根は特に東へ入らないよう注意します。こんな時間に谷筋での藪漕ぎは焦ってしまうので西側に採っても、 その後が長い車道歩きになりそうです。
遠阪峠と親水公園・熊野神社への分岐・左高架の上方に出合砦

597mピークからはムカエ山~オオジャレの尾根と熊野神社から続く 谷の奥に周辺の山を 睥睨するかのような雄大な粟鹿山の最後の姿を確認して杉の植林帯に入って行きます。車音が聞こえてくると遠阪峠の地蔵尊(途中2体ある。一体は小峠に、 もう一体はその車道南下)より下手の車道側の谷に降りてきた。石積みと巡視路道が近くにある遠阪峠最後の谷の側で(PM4:20)427号線・カメワレ橋迄1km、そこからトンネル道下の遠阪換気所まで約1km程の地点です(PM4:30)。


Ⅱ今出親水公園~遠阪城~オオジャレ(往復)粟鹿山~ムカエ山 2004年11月20日

以前に遠阪峠からカラコを経て粟鹿山へのコースを辿る以前より気になる粟鹿山に至る尾根ルートがある。R427号からは南方に見上げる程に急斜ですが、 しかし山稜は緩やかに連なる名も無き幾つかの峰が稲土川と今出川に挟まれて西方の粟鹿山に延びていく稜線です。
遠阪城本郭(南尾根側から)


今出裸祭り(11月初旬)で知られる熊野神社まで行ったが其の先へ入って行けそうになかったので引返す。 この時は遠阪最奥・今出集落の熊野神社と川を挟んで”今出せせらぎ園”親水公園の工事中だったよう。熊野神社前に駐車場からは”せせらぎ園”の 三角屋根の背後に今出川からソソリ立つ 険しい山容を見せているのが遠阪城跡です。ムカエ山~粟鹿山への主稜線上の615m地点から北に枝稜を突き出す尾根先に細長く等高線を延ばす山域が城跡。
今出熊野神社

古来から交通の要衝だった但馬街道遠阪峠の通行監視の城砦があったとは推測できるが、街道筋からは少し奥まった所に位置しています。登山が目的なら遠阪と稲土を越える峠道からムカエ山~オオジャレへ向うか、逆に今出川に沿って林道を詰め稜線を下るコースが考えられます。しかし北面の谷や尾根はいずれのコースをとっても激登り・激下りになりオイマデの谷を詰めてムカエ山や、今出川沿いの林道を暫く辿ってオオジャレの谷を詰める事も考えられるが、
遠阪城…峻険な尾根上から深く長い竪堀が数本落ちるく

谷筋も枝尾根にも明確な踏み跡は期待できません。 工事中の林道を今出川沿いに詰め登る道?は広範囲に伐採が進むカラコ~粟鹿山の稜線に出て但馬側(山東町)へ抜ける間道が通じていたかカラコ山の遠阪峠側に見かけた役行者像には 修験の道が通じていたのかも知れません。石像の在る辺りの山東町側に岩場が有るのが柴集落からは見えています。国境を越える間道!?と要衝の遠阪峠を警備する丹波側の山城として此処に遠阪城が築かれたのでしょうか。
遠阪城・土橋の尾根筋から特大・長大な片堀切を落とす

足立遠政の築いた山垣城の支城で 天正7年織田信長の「丹波攻め」に遠阪峠から攻め入った秀吉の弟秀長の大軍のまえに次々と落城していった芦田氏や足立氏の周辺の烏帽子山城小室城と栗栖野城小和田城・田ノ口城・遠阪城を探し訪ね未訪の山城・遠阪城に向うのが今日の予定。 登路を”今出せせらぎ園”の奥に続く谷筋を選ぶが入って行けそうになくバーベキューサイトのある川原を見ながら林道に沿って進むと、この先の素晴らしい渓谷美を想像させる岩盤の谷川になるが 護岸整備され川幅も広く感じて、林道の258m地点からオオジャレの谷辺りから詰め上がるにも相当のアルバイトと激登が待っていそうなので、
遠阪城跡の枝尾根から激斜面を主尾根に出ると‥(^^♪

早々に対岸に渡ろうと思い林道の工事中表示を見て引き返し最奥にある遊戯施設の側に達する橋を渡って直ぐ右手が絶壁のリッジ(尾根と呼ぶには急峻過ぎる!)沿いに取付く。僅か!?130m程の比高だが川側から 懸崖となる尾根を15分程・立木を頼りの”冷や汗”登行。途中で手懸かりの岩や立木に手が届かなかったり …もしも立木や枝が抜けたり折れたら…!!いくら険しい山城でも 此のルートが大手や搦め手ではない筈…激登りがやっと終えそうな予感が目前に現れます。
遠阪城跡の枝尾根から激斜面を主尾根に出ると‥(^^♪

鈎形に折れ尾根を土橋とした片堀切はビックリするほど深く長い竪堀となって東の谷 (せせらぎ園奥の谷筋)に落ち込んでいきます。この後も・5本ばかり見かけた竪堀は、いずれも尾根筋から深く長く全て東の谷に落ちています。ほぼ均等な幅で肩が大きく崩れズレていないので 自然崩壊ではなさそうです。昔・伐採された木材を運び出す手段として急斜面を流し(ズラし)落とした跡にしては深過ぎるし同一の集積場所に向ってもいないよう。遠阪城本郭の東側・枝尾根の頭でも、 曲輪2段目下付近にも深い堀切があり、そのまま竪堀となる同規模のものがあった。主郭部から南の尾根筋には堀切と長い平坦地の前後にも片堀切が走ります。此れより尾根は細くなるが、又も安心出来ないほどの急斜面の登りです。
674m付近からは粟鹿山の中継塔群が見えてきた

今度は杉・桧の落ち枝葉に足を取られ滑り2歩全進一歩後退…Ca615mの尾根に出ると遠望した通り広く快適な 尾根歩きになります。 先ず此処から近いオオジャレの源頭部Ca610mまで行ってみようと歩き出すが何処までも続く緩やかで快適な尾根筋にオオジャレのPOINTにも気付かず、いつの間にか!674mピークに来ていた。素晴らしい自然林の中の散歩道に気を良くして進むうち直ぐ西方に粟鹿山< img src="IMG_5789.JPG" width="242" height="144" border="0" align="right" hspace="2">が見えてきた。この稜線はホントはムカエ山から縦走で粟鹿山を目指すのが当初の目的だったが山城ついでの山行ながら、いっそのこと粟鹿山まで往復しょう・単独なので即決・先を急ぎます。
粟鹿山~遠阪峠へ取付点はこの池側から

今出川の源頭部も近く、伐採され地肌を見せるカラコ山からの稜線が見えてくると展望も徐々に開け但馬側の山々が姿を現してくる。 藪っぽい尾根から赤松が目立ってくるとカラコ山からのコースに乗る。見覚えの庭園を抜け粟鹿山を正面に見て稲土集落からの舗装管理道と合流するカーブミラーのある地点には山東町側に窪んだ湿地帯があって奥の方には水を湛えた池がある。管理道に降り立つと舗装道歩きだが登山者には急に辛く長く感じるものです。遠阪城から稜線615mPOINTまで一時間、其処からオオジャレCa610mの源頭部を経て粟鹿山まで二時間(PM1:50)。
粟鹿山山頂

何時も誰か登っている山頂は独り占め、視界は余り良くなかったが竹田城の石垣が真っ先に目立つ。予定が有って3時頃には今出熊野神社に下山して高源寺に向かうが 今の道をオオジャレに引き返しムカエ山まで行って2時間で降りられるかなア…!!急ぎ下山開始して程なく展望台(休憩所兼上部が展望が効かなくなった展望台)手前で登山者に合う。偶然 この山を選んで山東町側の”西宮青年の家”から登ってきた無線と登山を楽しんでおられるOAPさん御夫妻だ。暫く立ち話して先を急ぐ。ミスコースし易い(~_~;)オオジャレ手前のCa630m(PM2:15)から10分でオオジャレの鞍部を経て更に10分で遠阪城から詰め上がってきた広い稜線についた。
ムカエ山(ホントの山頂は数10m先なんですが)

見下ろすほどに急な斜面の先に尾根が続いている事が想像も出来ないので、逆コースで尾根上から遠阪城へ辿るのは 初めてだと地図が読めないと無理かも…ムカエ山への尾根は広く展望こそ優れないが自然林のなかに続くプロムナードもムカエ山の西ピークまで。急に杉桧の植林帯に入り釣尾根状に延びる数10m先のピークがムカエ山(3等三角点 滝ノ谷 629m PM3:00)だ。 四隅が欠け五角形の頭を少し覗かせたているだけ。予定時間は過ぎた。展望もなく殺風景な薄暗い山頂を後に下山ルートを検討する間もない。三角点から真北の斜面に境界ポールを見て 急斜面をズリ落ちていった。ポールはとっくに見失っていたが谷通しに下ると古いが尾根幅一杯に石積みが続く。
短い釣尾根状の端のピークがムカエ山


丹波布の里・青垣町は佐治木綿として知られ、明治末期頃までは盛んだったので、その原料の木綿や、養蚕の桑畑だったのでしょうか!。ムカエ山が”桑垣”とも呼ばれた語源が此処にあるのかもしれません。「道の駅あおがき」には併設されている丹波伝承館があり 興味のある方は覗いて見てください(入館は無料)。石垣の平坦地から小川を飛び越えると墓地の横を抜け鹿避けフエンスを開閉して出ると熊野神社へ150m程手前の車道に出て駐車場(PM3:50)へ戻り折り返し予定地へ急いだ。


 遠阪城 出合砦 田ノ口城と湯落城

遠阪城  城山 Ca400m  青垣町遠阪今出地区

丹波・但馬を結ぶ R427号線の遠阪峠を越える山陰道は古来よりの要衝で遠阪から千原峠を京都府夜久野町へ抜ける旧街道もありました。足利尊氏が但馬の南朝方を攻めたり黒井城主荻野悪右衛門直正に属した足立氏が但馬方面へ又、
今出せせらぎ園と遠阪城遠望

山名軍や織田信長の「丹波攻め」では羽柴秀長軍が丹波へ攻め込んだのが遠阪峠とされるが若狭・方面から福知山市経由なら夜久野からの 千原峠越が使用されたと…比高も少なく近道・比較的広くて石積みも見える緩斜な山道は近世まで地域の生活道でもあって充分に考えられ遠阪トンネル青垣町側出入口に出てきます。
長く急な斜面麓近くまで延びてきた二条の竪堀

全国足立姓の祖 山垣城主・足立遠政が丹波佐治郷の地頭職に就いて承元33年(1209)武蔵国から来住し岩本城(居館)を築き後・萬歳山に山垣城に移って此処を本城とした足立氏一族は 小和田城・稲土城田ノ口城・遠阪城・ 中佐治城・松倉城等々の支城を築いて丹波佐治郷の守備(但馬や丹波でも久下氏や隣領の芦田氏等の諸豪族に備え)と地位を固めていきます。
二連の大竪堀の一方は尾根上の主郭まで届く勢いで圧巻!!

南北朝期・尊氏の従う丹波諸豪の多い中、足立氏は後醍醐天皇の南朝方に属し元弘3年(1333)4月 千種忠顕に従って幕府軍と戦い六波羅を攻めたが京都で破れ荻野・児島・本庄氏等敗軍約3000を集めて高山寺城に拠り、応仁の乱では細川氏に従って但馬山名氏と戦っています。…群雄割拠する戦国時代に黒井城主・赤井 (荻野)直正が台頭してくると足立氏・芦田氏等、丹波の諸豪は其の傘下に組み入れられていきます。
(主郭部東)尾根筋の空堀(横堀状)から竪堀となって落ちる

鎌倉時代から南北朝期の華々しく活躍していた足立氏が戦国時代の終盤!黒井城主の一部将として表舞台から消え去り、 天正期へと時代は代わっても丹波最北西部の遠阪城は山陰道の要衝で且つ、丹波と但馬の口を押さえる遠阪峠の国境監視と攻防には重要な位置にありました。天正7年(1579)には但馬から遠阪峠を越えて 侵攻してきた羽柴秀長の大軍に攻しきれず
(主郭部北)土塁状尾根筋沿いの空堀(横堀状)から竪堀となって落ちる

370年の長い歴史を持つ足立氏の本拠・山垣城と運命を共にした支城の一つ・遠阪城へは【近畿豊岡自動車道は青垣ICを過ぎると次の出口は遠阪トンネルを抜け但馬側の山東IC】青垣町小倉交差点から R427に入り遠阪集落を過ぎ、峠へ向かうR427を右に分け”親水公園”の看板を見て左折・最奥の今出集落に入ります。
遠阪城主郭と北面の段曲輪

丹波の奇祭今出の裸祭り (11月3日)で知られる今出権現社・熊野神社があり親水公園整備され・手打ち蕎麦を食べさせる”今出せせらぎ園”があります。 遠坂の名は熊野権現今出熊野神社主祭神:伊弉冉命イザナミノミコト)の前身は但馬国造りの始祖とされる「大多牟坂王」?を奉祀し昔は「多牟坂明神」が「遠坂明神」と称し、 多牟坂(タムサカ)が転訛したものと謂れ、但馬街道の宿場町としても古くより但馬と交流があり遠阪・山垣・中佐治や山東町側の柴の氏神でもあり”裸まつり”神事の奉仕をされたといいます。
主郭南尾根筋を断つ・三重の堀切(主郭側)

今出熊野神社は第90代亀山天皇(在位1259-74)の時代に位知(井尻?)山【遠阪城山麓・今出川向かいの井尻谷】の「神篭りの滝」上の岩窟(整備された古跡への参道も 荒れ今は危険かも!?)へ熊野本宮(和歌山県)より分霊を遷移し奉斎したことに始まる…”命の神様”とも称えられ但馬・播磨・摂津方面からも参拝されていたが室町中期: 長禄2年(1458)社殿焼亡により古文書類を悉く焼失している
遠阪城主郭南側に続く三続の堀切(東下方から)

平入り切妻で三社造の本殿は青垣町指定(昭和53年10月4日)・棟札からは消失翌年:長禄3年(1459)建立とあり室町末期・天文2年(1533)再建された事が記されているそうです。関東来住の足立氏なので熊野社を加護したかどうか判らないが遠阪城主の子孫は江戸時代末期まで 今出権現・熊野神社の神官を務めています。丹波の最高峰・粟鹿山から南へ延びる山稜がオオジャレ~ムカエ山を経て大箕山(丹波冨士)でその山端を佐治郷の中心部に落とします。 其の山稜のほぼ中心付近の615m付近から真っ直ぐ北へ延びる枝尾根が
遠阪城主郭

今出川へ落ち込んだ所に熊野神社があります。取付きには熊野神社・今出川前の駐車場から川沿いに進むと”せせらぎ園”から入れるが園の背後へ延びるフエンス沿いの山道がある。二段程の石垣積みの平坦地が屋敷跡か?。 この背後の斜面上に早速畦を立てて並ぶ二重竪堀をみます。一条は長く主曲輪下段の帯曲輪(北へ回り込むと3段ばかり曲輪が並ぶ)の側まで延びている。二重竪堀の左右にみる竪堀も深く長い。最北の大堀切は尾根上まで延びて、細い尾根片側を土橋(土塁状)に残して尾根筋を横堀?状に這う!!。麓への出撃シューターにしては規格外?のスケールですが。 細く急な尾根筋を登った先に主郭北面の曲輪群切岸をみる。
主郭南の尾根筋を三重の堀切で遮断する

谷筋の山道にも墓地や植林様とは思えない幾段もの石積み平坦地が在る?。山道は城域から外れていき且つ激急斜面に山道は消え、主尾根に出ても遠阪城のある枝尾根へも滑り落ちる程の激斜面なので、先に下降点をマーキングしておかないと枝尾根筋は判らない。この枝尾根上には末端かけて約500mほどの細長く緩やかな山稜が続く。しかし此の間を外れると尾根筋は尾根上へも尾根先へも・また左右の谷筋にも、 四方は劇急斜面に囲まれた天然の要害です。
三連の堀切を越えて南側の広く長い中郭曲輪(幅約mX長さ6~70m)

地下鉄漫才じゃないけど斜面に手掛り・足掛りになる草木や岩がなければ滑りズリ落ちる。”守備の兵は何処から此の城に入るのか…?。また判らないので余計に疑問だが、此れほどの要害に位置していながら 8条ばかりの立派過ぎる深く長い竪堀がある。尾根筋に達する幾状かの竪堀のうちには登城ルートの堀底道となったものがあるのか?。
中郭の南端に見る土橋・片堀切

竪堀の凄さは現地で直接確認して推察してみてください!!。主郭の東に2段・北に3~4段・南の尾根へは土塁・小曲輪を挟さんで三重の堀切がある。特に最南端には尾根幅一杯に広く長い削平地は短期の居住も可能な空間で、曲輪の南北の端を堀切って南端の尾根は土橋状になり、二本の大きな竪堀が落ちる。急に傾斜を増した尾根筋は麓から城域までの急斜面と変わりなく益々傾斜を増して主尾根に出ます。
中郭南端の土橋・片堀切

此処に足立氏一族の足立伊豆守を初代城主とする遠阪城が築かれていました。最後の城主足立右近光永は天正年間・黒井城主荻野直正に属して但馬侵攻に軍功を立て横山城(福知山城)攻めにも部将として活躍し 小城主ながら武勇に優れ八上城波多野氏の七組頭の一人・足立城主とし波々伯部次郎左衛門光政(淀山城)・内藤備中守顕勝(曾地城)・須知主水影氏(須知城主)等と名を連ねている。天正7年(1579)5月に遠阪峠を越えて侵攻してきた羽柴秀長軍の大軍を前に此処を超えると

南郭(幅約5mX長さ30m程)の片堀切


城遺構は無く厳しい激急斜面の登りが主尾根まで続く。芦田氏の烏帽子山城小室城や足立氏の諸城は次々その日の内に落とされ、多勢に無勢で援軍も適わず抗守きれずに370年の長い歴史を持つ足立氏の本拠・山垣城と運命を共にした支城の一つで遠阪城主・光永は城に火を放ち自刃します。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参考)


出合砦
 xxx山 Ca250m  青垣町遠阪

出合砦は丹波市青垣町から但馬:朝来市山東町へR427号線で越える 遠阪峠経向かう入口に位置する。今は北近畿自動車道が遠阪トンネルを抜ける。但馬山名氏が兵庫丹波へ侵攻したが黒井城主荻野直正に押し戻され、竹田城さえ奪取された毛利方山名氏が信長に降り信長に救援を求めたことで「丹波攻略」の正当訳合ができた織田信長は明智光秀を大将に「丹波攻め」を命ずる。
遠阪から熊野神社・遠阪峠分岐点。自動車道背後の丘陵上に出合砦

天正7年多紀(篠山市)八上城が落ち・氷上(丹波市)黒井城のみが残っていた第三次合戦・羽柴秀長軍が若狭方面から光秀の援軍として丹波に侵攻したのが遠阪峠からともされるが?遠回り過ぎる。秀長軍が竹田城代官なら遠阪峠越えとも思える!?。同時期落城の 鬼ヶ城落城が先なら秀長軍は福知山夜久野町の末・または千原峠から遠阪(但馬街道)に至ったと思える。
不整地ながら土塁前後に曲輪

旧遠阪村には遠阪・山垣(足立氏の本拠:山垣城がある)・中佐治の大字から成り、 内遠阪は遠阪・今出・和田・徳畑から成る小字の総称。遠阪城主足立光永は但馬への進攻や横山城(福知山城) 攻めにも参軍した部将で波多野氏重臣の七組に名を連ね【軍記だけに真意の疑わしい部分が散見するが】武勇に優れた城主だったよう。カラコ山南西尾根鞍部を山東町側から今出へ出る井尻谷筋が遠阪城北麓を通るが現状荒れ通行困難・登山ルートを此処に設定する登山者などいない!?が但馬山東町粟鹿・柴からの侵攻ルートに 考えられなくもない…?。
出合砦:広い尾根幅だが
 城域前後は狭く急峻な尾根筋…!!


さて:R427号から今出権現への分岐点。大サインボード傍から今出川沿い 車道北の耕作地が構居を意味する?”カマエ”。通行監視の関所砦?代官所跡でもあったか…不明だが、今出川南側の超激急斜面尾根末端が落ち込むところ :頭上を自動車道が掠めて跨ぐ。遠阪城南背後の615mピークから西へは粟鹿山にも繋がる尾根筋を東へ、629m三角点から北東へ落ちる枝尾根を、冒頭に記したR427号から今出熊野神社への分岐・今出川が遠阪川に合流する先端に落す。
出合砦:城域の尾根幅は広いが?

急斜面の比高150m-350m間尾根筋に出合砦があるが麓の「カマエ」と砦は時代や機能面から直接的な関係はなさそう?に思えるが、ともに集落最奥の遠阪城玄関口に位置する。土塁曲輪が地形を上手く利用したとは思えない不規則だが全ての曲輪が但馬朝来市に超える遠阪峠(但馬街道)を見下ろす尾根筋に築かれているが、
城域外は尾根幅狭い。竪堀は遠阪側からの数少ない山道か?

福知山市夜久野町末から県境に最も接する道も遠阪道に通じ・上千原から遠阪集落の自動車道遠阪IC近くに通じている。城砦についての城史一切不詳。但馬からの山名氏の侵攻、第一次黒井城攻め以後・緊急に手が加えられた城砦とは思えるが城域の前は断崖状・背後は険しく幅狭い岩尾根に退路を絶たれ、狼煙も遠阪城・田ノ口城以外は山影に隠れ届き難いが単に遠阪城・山垣城の監視砦とも思えない?。

田ノ口城 とxxx山 Ca250m  青垣町徳畑
 湯落城
   xxx Ca230m  青垣町湯落

”道の駅あおがき”からは パラグライダー基地・岩屋山をテイクオフしたフライヤーがキャノピーに風を受けて、トンビの様に上昇気流を探りながら悠々と フライトを楽しんでいる姿が見えてきます。其のランディング地点の 直ぐ手前、佐治の交差点を右折して北西に向うR427号線が、丹波と但馬を結び遠阪峠を越える古来よりの要衝・旧山陰道です。 佐治から遠阪への沿道左右の丘陵には佐治郷を領した足立氏の城砦が山垣城を本城に守備を固めています。
自動車道工事が進む登城口の鹿嶋神社付近

其の最奥の遠阪城(上記にレポート)には昨日寄ったのですが、つい自然林の稜線歩きが素晴らしく 丹波最高峰の粟鹿山まで行ってしまい時間切れ再度・未訪の城へ向います。前回寄った中佐治城の城跡は古墳発掘調査域と共にザックリと尾根の先端部を割って特大のトレンチ溝が入って丹波市になって間もなく、此処にある2つの史跡は消滅します。
田ノ口城西尾根の掘切と曲輪群


R427号線が遠阪川と並走する東側に続き丘陵部を南北に”北近畿豊岡自動車道の春日・和田山道路”が走り、小さな枝尾根が遠阪川に突き出しています。遠阪川が佐治川(現・加古川)に流れ出る南端の小和田城をはじめ、それらの尾根突端付近には山垣城の城砦群が築かれているが中佐治城の他にも此れから行こうと思っている湯落城も消滅しています。ゴルフ場や宅地開発・道路拡張や新設工事でドンドン消えていく。
田ノ口城の二重堀切

名もなき歴史遺産は保存・移転移設の対象からも外される必要悪なんでしょうか?。山城は山の尾根上の最高所に位置する概念は水分公園にある石生西河原城で脆くも崩れ、丹波に戻ってきて今まで手付かずだった知られることもなかった不遇の城をが結構目立って多いのに驚きです。丹波の大部分の城が天正期の信長の天下布武による”丹波攻略”で消え去った中世の城ですから、遺構には平地の構居・険しい山城・防備と機能を兼ね備えて丘陵部に移った城等、時代的な変遷も見られます。
秋葉社が祀られる田ノ口城主郭部


丹波氷上(丹波市)に東芦田城烏帽子山城黒井城三尾城佐野城等山頂の山城も多いが 此処のところ所用ついでに青垣町の城を廻っていると、山の端にある城砦が結構多い事に気付きます。足立氏の本城・山垣城も万歳山の南端に突き出した独立丘陵状の末端にあり、他にも山垣城向いの松倉城・中佐治城・別郭一城の佐治城小稗城芦田氏の稲土城沼城、後日UP予定の赤井(荻野)氏の長見砦・柚津城・尉ヶ腰城等々、多くの城砦は差ほど高くない丘陵の尾根末端にあって山側を堀切で遮断しています。
田ノ口城:主郭南尾根末端部「馬場跡?」

湯落城遠阪峠付近の湯船山から烏帽子山~榎峠へと、京都府との府県境尾根から 遠阪川左岸に延びる尾根の先端部を削って”北近畿豊岡自動車道の春日 ・和田山道路”の工事が着工されています。この工事計画によって古墳や城砦が発見され、発掘調査の手が入りますが、山垣城関連の 城郭でしょうが築城時期や城主 ・城史等不明の城は詳細な記録保存も出来ないまま、消滅していくんでしょうね!。中佐治城の北・青垣町湯落地区の北端にも、同じ運命の湯落城がありました。
本郭西側の堀切(手前左・竪堀)から見る二重堀切

平成2~6年にかけて氷上郡教育委員会による調査で確認されたものだが遠阪川に架かる大木島橋を渡り直進して高架下の隧道を抜ける。集落の防塵・防音フエンス代わりに残された?末端部を残して城域があったと思われる一帯は既に自動車道路用に均されていた。湯落の北方、田ノ口の先でR427号線が遠阪トンネル(有料)を分け、遠阪集落を抜けて遠阪峠に向かいます。
田ノ口城遠阪トンネルの標識を見て手前の徳畑で遠阪川左岸へと鹿嶋橋を渡った所に鹿嶋神社があり自動車道の工事現場となっているが高架の隧道横に拡がる平坦地は平安時代中期から室町時代の集落跡で田ノ口遺跡として発掘調査中らしい集落遺跡発掘現場に接する丘陵上に田ノ口城があり中国製の陶磁器や古銭等の出土品からも
田ノ口城:主郭東:二条の竪堀

居館・武家の屋敷も此処にあったと思われる。鹿島神社の本社は茨城県鹿嶋市宮中の官幣大社の鹿島神社で、祭神は武甕槌神(タケミカヅチノカミ )・経津主神(フツヌシノカミ)。天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を配祀しています。武神:武甕槌神を祀る事 からも崇敬厚く、鹿島・香取のニ神が国土を平定した”鹿島立ち”の故事からも、武士が旅立つ際には道中の無事を願い、出発に先立ち安全を鹿島神宮に祈願したところからも山垣城主:足立遠政が但馬へ出陣の際には此処:鹿島神社に武運長久を祈願して出陣したものと推察されます。
田ノ口城と鹿嶋神社

お堂(庚申堂?)にはニ神が祀られているが一体は兵庫丹波では珍しい?青面金剛の像で(文字を刻む庚申塔は阪神間でも見かけるが)礎石部に三猿(見猿・言わ猿・聞か猿)が刻まれる。六本の手に剣・弓等を持つが、左手にショケラ【
諸説あるが上半身裸の女人は三尸(サンシ)虫という人間が生まれた時から体内にいる虫で、その人間の悪事を天の神に告げるのを阻止する為、その夜は寝ずに過ごす庚申】ショコラ=?半裸の女人像は髪を掴んでブラ下げており、手を合せているのは許しを乞う!!青面金剛の異様な姿が目を惹く。遠阪峠を北に越えれば朝来市山東町・福知山市夜久野町、此の朝来市と福知山市とは北に境する出石郡(豊岡市)但東町も青面金剛の石刻像が他地域と比較すれば多く点在する所。
鹿島神社:青面金剛像

黒井城主荻野直政の家臣団として但馬を攻め天田郡をも領した事からも信仰・文化の流入は考えられます。ただ庚申講が流行ったのも、石像も町や市の文化財指定では無さそうで、作製年代は不明ながら・共に室町末期以降のもの考えます。青面金剛と三猿がある事で庚申講が行われていた事が分かりますが、神仏混交の頃からとは思えるが仏教での庚申講が神社で行われていた事も珍しい事なのかも?。田ノ口城主郭に祀られる秋葉社へお参り出来ない人の為か?境内から城址を望む側に”秋葉神社遥拝所”の石碑もある。鹿島神社横から北近畿豊岡自動車道の高架下を抜けた脇道沿い車道に広い駐車スペースがあり、
田ノ口城・二重堀切に挟まれた大土塁

其処からフエンス沿いに背後の伐採された丘陵上に向う山道(H21年頃には急斜面沿いの参道)にプラ階段が設置されていた。手摺付きの長い階段道が秋葉神社への参道で鹿猪除けフエンスが設置されている入山ゲートを開閉して向かう。急斜面のプラ階段も緩斜面の尾根に出て終えるが城域南端にあり狭い谷間を縫う遠阪川沿いを望む位置は見張りか大手筋?の番小屋でも在ったかも。
薄皮残して?・・車道工事で消滅した湯落城

尾根筋沿いの斜面に付けられた細い道を割る崩壊溝は秋葉社の建つ曲輪と下段の腰曲輪間から落ちる竪堀跡。直ぐ左手に現れる溝沿いに祠東下の鞍部に着く。埋もれかけているが堀切で西南側尾根の広い曲輪を区分し、堀切側は幅広の低土塁跡らしい高低さもある。”馬場跡”と呼ばれる長い平坦地形(全長30m強・幅10m程の南郭で田ノ口城の中では最大の曲輪)。堀切から南側を斜上して
田ノ口城の曲輪に建つ秋葉神社の祠も改築されていた。切岸上の平坦地に秋葉神社が祀られた比高約80m程の田ノ口城主郭部で、主尾根部の背後へ3段程・低い段差で曲輪を並べた最高所に主郭(本丸7mX13m程)がある。
南尾根”馬場跡”から 堀切越に秋葉神社の建つ南曲輪の切岸

北端部が僅かに高いマウンドで、低い土壇上の櫓台跡でしょうか?。土塁の先は堀切への高い切岸で、大土塁を挟んで見事な深い二重堀切が見られます。本丸は北面の尾根を二重堀切によって尾根を遮断するが、西下に延び出す短い尾根筋にも低段差(殆ど曲輪堺も判らない緩傾斜だが!!)の小さな曲輪群が続き主郭側の切岸下には堀切があり狭い尾根を割って両側へ落ちる。曲輪部の先端から一本の竪堀がある。引き返す主郭下の堀切から北尾根側の二重堀切の状況がよく判ります。主郭の東下部から二重堀切の間には二本・竪堀をみます。二重堀切から北へは平凡な尾根が延びてゆくだけで城遺構は何もなさそう。そのまま福知山市との県境尾根に出るが尾根は平凡で緩やかな丘陵が続くだけ。355mピークまで進んでいくと、
油落城!!?から万歳山と足立氏本拠城の山垣城を望む

「ホワイトバード兵庫分水隊2004.1.3」の表示がある。おそらくは山垣城麓から「青垣いきもの・ふれあいの里」~梨木峠から烏帽子山(烏帽子山城)を経て此処まで・更に遠阪峠へ向うものと思われます。城遺構関連は期待出来ず、 元来た道を引き返しながら府県境尾根を513mピーク手前(西南)に ある関電の送電線鉄塔 (大河内線71)を目指し、送電線沿いに南へ尾根筋を下り、次の鉄塔(大河内線70)の直ぐ南西側の斜面が 湯落城跡と埋蔵文化財遺跡分布図は示しています。…が北近畿自動車道完成後は・前回以上に”訳わかんない”城遺構はその所在さえ不明の壊滅状況です。
専用道路が走る谷間の斜面に消滅した?湯落城跡

山陰街道の要衝で但馬側からの北西部の口を押さえる位置にあって足立氏一族が佐治郷に来住した鎌倉時代中期:既に北方の守備として 足立遠政が足立伊豆守を初代城主として遠阪城を築居ています。田ノ口城・湯落城共に但馬街道の要衝を守備する山垣城の支城として築かれたが、遠坂城最後の城主足立右近光永のとき天正7年(1579)但馬から遠阪峠を越えて侵攻してきた羽柴秀長の軍勢による攻撃を受けて、足立氏本拠の山垣城も落城してしまいます。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参考)
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