佐仲三山(雄岳・雌岳の径) 佐仲ダム〜三尾山(丹波富士 )〜黒頭峰〜夏栗山
丹波市・篠山市  地図(五万図=篠山)
T高蔵寺〜夏栗山(600m)〜黒頭峰(621m)〜鐘ヶ坂2001年02月10日
U 佐仲ダム〜鏡峠〜三尾山〜黒頭峰〜夏栗山 2001年12月16日
V夏栗山〜黒頭峰〜佐仲峠〜三尾山〜鏡峠 2002年10月13日・20日

三井庄付近から望む三尾山 H13.12.16

近畿の山城/篠山市:小坂城  夏栗山砦
近畿の山城/丹波市: 三尾山城(三尾城)
ふるさと富士 :丹波富士(三尾山) 
丹波のお話 鏡峠の鏡岩
校歌・故郷の山: 進修小学校 ♪三尾の山に霧晴れて・・・♪
         大路小学校 ♪xxx・・・歌声三尾にこだまして・・・♪


多紀連山の雨石山・毘沙門山付近から東多紀アルプスの八ヶ尾へ駆け登り、西多紀アルプスの三尾山を経て向山・五台山へ東西40km程の山稜は丹波古成層の代表的な チャート層(珪石)で侵食に強く巨石や奇岩を露出させた 目立つ特異な山容は鋸山で代表される一帯で展望とスリルの味わえる 丹波では一押しの山域です。その中でも三尾山は展望良く、麓に国領温泉もあって人気の山ですが天正6年明智光秀により落城した山城です。
キレット付近から望む三尾山西峰(本峰) H14.10.13

昨日の三嶽〜小金ヶ岳で説明すればよかったが此方の登山口となる火打岩(ひうちわん)はそのままこのチャートは ハンマーでたたくと火花が出てむかしは「火打ち石」にも利用された岩石です。 またチャートの硬い岩が擦れ合って断層面が鏡面とか鏡肌といわれるツルツルに磨かれた鏡岩が、この山域に見られ黒井の兵主神社には「鏡石」として祀られ 佐仲ダムから春日町中山へ抜ける峠道にも鏡岩があって鏡峠の名が残っています。

(参考)  丹波の大納言小豆 発祥地は三尾の麓・春日町東中


T 雌岳(夏栗山600m)〜雄岳(黒頭峰621m) 西多紀アルプス H13.02.10

R175号線鐘ヶ坂に向う大山地区の喫茶キャステル前に立つ大きな案内板を見て、此処から高蔵寺へと東の 山裾に向って車を走らせる。夏栗山のたおやかな姿を見てしまったら吸い寄せられた。!清水峠の南側は住宅地造成中らしく 南尾根を辿るつもりだったが登路を断たれたような気持ちだ。
大山宮付近からの黒頭峰(左)と夏栗山(右)

しかし高倉から望む夏栗山は大きく美しい。寶橋山高蔵寺まで道は細いが普通車ならOKです(AM11:30)。多紀の主峰・三嶽からは見えないが西ヶ岳辺りなら二つ並んだ標高の近い山は隣の三尾山の特異な山容もあってか 美しく目立つが雌雄ではなく、まるでオッパイ山の様相です。草原の展望台・夏栗山と、その夏栗からは雄々しく三角錐状の天を突く黒頭峰を結んで未走破の南尾根を高倉へ下るつもりです。此処高蔵寺は十一面観音を本尊とする 法道仙人開基を伝える寺で、仁王門の先の駐車スペースから 舗装路を本堂に進みます。本堂への階段下に手洗所があり冷たい水が音立てて流れ出していますが、その後には石彫りの不動さんが睨みを効かしています。本堂裏手から左へ 林道が延びているが谷沿いの右にルートは 「なつぐり山登山口・大山緑の少年団」の案内板が 草むらに落ちていた。当分の間100m毎に案内板とお付き合いすることになる。大ヶ谷(409m)分岐の尾根に乗ると5分程で夏栗・黒頭分岐に着く(PM12:00)。
高倉地区からの夏栗山

分岐を夏栗山へ右折、直ぐに黒頭峰の天突く雄岳が木立を通して望めます。暫し待て、直ぐにそちらへも行くよ・・・登山者の少ない今の時期 ?白いものが目立ってくるが残雪の上に新しい靴跡は無かった。緩やかな雑木に笹が目立ち始めると直ぐに鉄骨展望台のある夏栗山山頂だ(PM12:15)。多紀の連山を始め間近に金山・特に正面の白髪岳〜松尾山展望台だ。 播丹国境尾根の高山・妙見や門柳山・北攝へは弥十郎〜大野山方面に展望は拡がる。山頂東の植林の中に夏栗観音菩薩が小さな石祠に、 雪が吹き積もったかと見紛うばかりに光背と顔だけ出して白い真綿に包まれています。 引き返し黒頭峰へと向う。 この両山へ向う多くの登山者は佐中ダムから 佐中峠を経て登ってくるようだ。佐中峠への分岐は丁度両山の中央付近(PM12:35)見て美しい富士形の山は、とかく急登が続く。夏栗山から続く大柿氏の赤い布は佐中ダム・キャンプ場を基点に黒頭峰を結んでMTB周回しているようです。
夏栗山との鞍部付近からの黒頭峰は端整な富士型の山

尾根路は緩やかとなり山頂が近いことを知らせます。 黒頭峰二等三角点(621m PM12:50)は展望に恵まれません。 先を急ぎますが これからのコースは初トレースです。ここを辿る登山者なぞ殆ど居ない筈です。踏み跡すら無い道ですが雪はそれさえ消しさろうとしています。急斜面の降り ・しかも尾根筋は広い為、 五感/六感頼りのGPSはやはり不正確。少しずつ方向を違えているようです。マシンにはない特殊機能は「いいわけ」だけ ??!!!白い境界標柱「財・大山振興会」を追って広い尾根を辿るうち、やはり尾根を違えて進んでいます。以前に金山から鐘ヶ坂トンネル上に出て瓶割り峠から降立った林道奥坪線へ出てきました(PM1:35)。(もう少しで瓶割り峠という地点で 真新しい赤いプラ標柱の境界の切り開き尾根を辿っていました)
高蔵寺本堂

おかげで向山連山から岩尾 (541m 三角点)譲葉山を経て、 または金山から黒頭峰を経て三尾山に至る縦走計画が出来ました。林道から望む金山は、かって一時期明智光秀の丹波攻めの拠点として城が築かれたが城山としての風貌が感じられます。175号線の鐘ヶ坂トンネルの 篠山側出口にあるデリシャス亭(PM1:45)あたりでみぞれ交じりの雨となりだんだんひどい降りとなった。またしても長い車道を、しかも雨の中・正月早々の高砂峰の帰路と同様の結果です。高倉集落への入り口・喫茶キャステル(PM2:15)から高蔵寺まで 冷たい雨の中を急いだ(PM2:35)。


U 佐仲三山西廻り: 鏡峠〜三尾山(586m)〜雌岳(夏栗山)〜雄岳(黒頭峰) H13.12.16

先日登った五台の径( 五台山〜五大山H13.11.23)から望んだ西多紀アルプスの三尾山は丹波の名峰として、おっぱい山(黒頭峰と夏栗山)は雄岳・雌岳の名で標高600m程の低山ですが人気の三山を今回は纏めて佐仲ダムを基点に周回します。 特に三尾山は多くのガイドにも紹介されていますが春日町側からのマイカー登山には便利な 中山コースが殆どのようですが、 展望の少ない急登の道よりは、佐仲ダムから三尾の大岩壁やオッパイ山の三山は勿論のこと、鋸山や三岳の展望と岩尾根を辿る快適コースを選びます。
キレット付近からの三尾山本峰

オートキャンプ場ハイマート佐仲(AM9:50)の上部にある佐仲ダムは中心コア型アース式ダムで水量の少ない小型ダムに多い形式で土砂を積み上げて固めた 溜池に近い!!もので農業用水用に利用されているようです。粒子の粗い土砂(ランダム=水圧に耐え)と粘質の土(コア=しみ込んで来る水を止める)を盛り立てて造られる ・・・との説明あり。釣りのスポットで年中ヘラブナやワカサギ釣りで今日も早朝から特性テントが湖に突き出た筏の上に並んでいます。車道の脇に大きな古い石導標「左ふくちやま・右中山三井ノ庄」(AM9:55)があり、此処から細い山道が続いているが 直ぐに分岐があり急坂を直登して稜線伝いに鏡峠や鋸山へ向うのもいいのですが、春日町三井庄へ抜ける左手の鏡峠への道を辿ってみます。坂道も緩やかになり佐仲ダムの釣り客の姿も見え、杉の植林に沿っての道の右手に鏡岩が現れてきます。 4〜5ヶ所に石面がツルツルに磨かれたチャートの露岩が見られ伝説の鏡岩がどれか特定出来ない?・近くで滝の音も聞こえますが所在も確認していません。樹林の中の広い道も小谷を渡った途端に細くあやしくなってきます。此処は直進するのが正解だったかも知れませんが右手に続く谷沿いに進み、やがては靴巾程度の踏み跡となり、ついには倒木や藪が混ざる泥壁を這って滑りそうになるのを 堪えて進むようになってしまいますが赤テープがこんな所にも有りました。
覗岩からの三尾山東峰

左からの枝谷と合い、岩場を流れる藪の少ない谷を詰めて鏡峠のわずか20m程南の山道に出てきました(AM10:20)。なんだ山道があるじゃないか・・・と思いましたが、この道もダム付近まで続いているとは思いますが、おそらく藪をついて 車道に出る隠れ道??のようです。 鏡峠への現在のルートは古い石導標「左 ふくちやま・右 中山 三井ノ庄」からダムに沿って車道を進み、イラスト案内板「佐仲自然公園ハイキングコース」のところから 東屋の展望台を経て広い道を稜線まで楽に到達出来るんです。旧道は荒れて廃道同然!!なので鏡岩や滝でも見たら元に戻ったほうが良さそう。ハイキングコース案内板(P可能)から直進する道は佐仲峠に続く丹波のシルクロード。 石畳が残り峠には石仏が見守っています。石仏の向かい・雄岳/雌岳登山口側の平坦地は茶屋跡らしく、 丹後方面からは伊勢参りや 篠山歩兵第七十連隊の将兵が福知山の長田野での演習に通った道・篠山で紡がれた絹糸が、 丹後からは縮緬が運ばれたであろう歴史街道でもありました。鏡峠越えで中山へ降る道も尾根に続く鋸山方面への山道も明確です。
覗岩付近から三尾の三峰を望むH14.10.13

此れより西に向っては 緩やかな快適縦走路です。岩場に立てば鋸山や起伏の激しい山容や雄大な三岳・西岳が、目前には荒々しく削られ切り立った岩壁を見せる三尾東峰が、樹間からの西南には緩やかな起伏を見せる雌雄の黒頭と夏栗が望まれます。 周囲の景観に夢中になっている間に覗岩・キレットへ出て目の前には三尾本峰を望みます(AM11:05)。佐仲峠への分岐点を過ぎて登り返せば本峰山頂の三尾城址です。三尾山本峰(586m AM11:10)。黒井城主:荻野直正の弟赤井幸家が拠った 山城で素晴らしい丹波の展望台です。妙高山(丹波比叡)・黒井城跡 (猪口山)五台山〜五大山親不知・向山連山・ 粟鹿山・岩屋山・安全山、雪稜の大江山・東面に 三嶽〜小金ヶ岳鋸山、南にはこれから向う雌雄の山(黒頭峰と夏栗山)・白髪〜松尾山と 360度のパノラマ台です。北に向って数段の曲輪群 を抜けて先ず本峰から2〜3分の西峰(560m)への道を辿りながら藪っぽいピークから丹波氷上の里山を 俯瞰しながら尾根通し、東端から僅かの急坂を下れば東峰への縦走尾根道と合流して、中山から登ってくる鞍部の分岐を経て末端の東峰(557m AM11:25)に到着します。
佐中峠 H15.4.19

この中山からのルートは殆どのガイドブックに載っているので此の先の説明は不要ですね。この東峰に中山から直接登ってくる道が登山ルートか 岩場に通じる踏み跡かは未だ確認していません。足下には舞鶴自動車道が走っており、竹田川沿いに開ける黒井や市島町を俯瞰します。本峰に引き返し(AM11:40)キレットの佐仲峠への分岐まで戻ります。山道が広くなってくると峠が近いことを知らせてくれます。 佐仲峠には一体の石仏(AM11:50)が来訪者を静かに見守ってくれます。場違いの大きな町界道路標識が設置されており、なんなのかと疑いたくなります。こんな道路標識が峠越えの人もとっくに絶えた五台山の美春峠にもあるんです!!??。峠道を横切って稜線伝いには道標完備の「雄岳・雌岳の径」です。途中幾つもの道が此処・佐仲峠に繋がって分岐しています。途中に雄岳 (黒頭峰)の山裾を捲いて雌岳(夏栗山)への分岐がありますが佐仲の三山巡りですので先ず黒頭峰へ向かいます。黒頭峰の山頂直下の急登からは背後に三尾山本峰が西面の大岩壁を覗かせて峻険な山城の凛とした姿を現わします。
夏栗山の観世音菩薩像

稜線に登りつめたところが黒頭峰山頂(2等三角点の雄岳 621m PM12:20)です。 此れより先は今年2月10日に鐘ヶ坂までトレースしたが瓶割峠〜鐘ヶ坂や 譲葉山へと縦走は可能ですが 今日は前回の逆コースで雌岳の夏栗山へ向います。展望の無い植林の中の急坂を下ります。 佐仲峠への分岐を何ヶ所か見送って稜線を辿っていると広く良く踏まれた山道になり山裾を捲くように降っていく鞍部に着きます(PM12:35)。丹南町の高蔵寺からの道ですが、途中の分岐を直進すれば大ヶ谷(409m)を経て西紀町の上板井への尾根縦走が 完遂出来るのですが今回はお預けです。なお「丹波森の径」では山頂から直接大ヶ谷に延びているコースは完全に消えて見当たりません。この鞍部から辿ることになるでしょう。分岐鞍部からは、直ぐに夏栗山の富士型の美しい姿が樹林の間に姿を見せます。 緩やかな雑木尾根に笹やススキが目立ち始めると直ぐに南面に鉄骨展望台のある夏栗山山頂 (600m PM12:50〜13:05)です。伐採され見通しのよくなった南側には、多紀の連山を始め間近に金山や鋸山。正面の白髪岳〜松尾山を始め播丹国境尾根の高山・妙見や門柳山、北攝の弥十郎〜大野山まで展望は拡がります。天気の良い今の時期は 遠望が効いて本当に気持が良い。山頂の東側には夏栗観音菩薩が小さな石祠の中で顔だけ出して白い真綿に包まれています。
夏栗山東尾根から佐仲ダムと鋸山

緩やかな斜面をなをも東へと続く尾根を辿りますが、季節によっては目の前は藪で進めそうにもない印象ですが赤布を目印に進んでみると足元には、良く踏まれた山道があります。 雑木が覆って分かりにくい部分もありますが左方の尾根通し、下方には佐仲ダムの青い水面が見えて来ますので、迷うことも無いでしょう。少し広い尾根からは戻り気味にダムを目指して散策道を下るだけですので、右手の尾根筋を少し辿ってみます。 ダム湖の上方に鋸山のピークとその先に西岳が姿を現わしています。尾根の杣道は段々急斜になってきて道も薄くなってきます。このまま降って行けば小阪の集落だが、戻ってくるのも大儀なので上り返して遊歩道を下ります。 MTB登山にも良さそうなコースはオートキャンプ場「ハイマート佐仲」横へ出てきます(PM14:15)。



V  佐仲三山東廻り: 佐仲ダム〜夏栗山〜黒頭峰〜三尾山     H14.10.13
  佐仲ダム〜展望台〜鏡峠近くの鞍部〜三尾山〜佐仲峠 (低山徘徊派/無線部オフで三尾山頂まで同行 )  H14.10.20

丹波霧を鑑賞した高見城山を後に鐘ヶ坂を下って次の目的地の周回基点・佐仲ダムに向かいます。 ヘラブナ釣りで人気のスポットのダム下にある佐仲ハイマート(AM8:40)オートキャンプ場から出発します。 晴天続きですので前日から 泊まりのキャンパーも多くもっか朝食準備で、谷を挟んで対岸の給水施設等のある藪っぽい道があることも、まして此処から山へ入る登山者がいる事など殆んど気付く人も居ません。 登山コースとして整備されていた道も、
夏栗山からの松尾山・白髪岳

今は辿る人も居なく所々に残る丸木の階段も藪に隠れ、時に道さえ不明瞭な所もありますが、 概して静かな山歩きと、西面に荒々しい岩場を覗かせる三尾山の姿も早々と望めます。 普通は佐仲ダム沿いの林道を詰めて佐仲峠から夏栗や黒頭・三尾へ向うのが一般的ですがスッキリした縦走コースをトレースします。 緩やかな雑木尾根を観世音菩薩像の山頂に出て、笹やススキの原を抜けると直ぐに展望台のある雌岳・夏栗山山頂(600m AM9:45)です。 消えかかる朝霧を通して正面には端整な二つのピーク(松尾山〜白髪岳)西前方には雄岳・黒頭峰から横棟山へと高度を下げる稜線がトレースの手強さを感じさせない緩やかさで延びています。此処から黒頭峰〜佐仲峠〜三尾へのコースはガイド不要の イ〜ィコースです。とはいっても展望なし、黒頭峰への急登、佐仲峠への激降りが待っています。黒頭峰へ向かう縦走路に移って、植林と雑木の間の道を下っていきます。
高蔵寺奥の院のモミの巨木

高蔵寺や大ヶ谷409m三角点への分岐手前では、黒頭峰の富士型の美しい姿をかい間見ることが出来ます。佐仲峠への標識と別れ尾根縦走を続けますが、 暗い植林帯を捲き気味に北へ(右折)向う急登部は踏み跡細く分かり辛い所ですが道なりに辿って尾根が緩やかになればもう黒頭峰山頂(2等三角点の雄岳 621m AM10:30)です。刈り込まれた小広場ですが展望は東北に伐採された窓があり 三尾が西面に岩場(月の輪の大ダレ)を見せて山城の威容を見せ付けています。此処は黒井城主・赤井直正の弟・直信とも家老:赤井幸家の城ともされる三尾城です。 山頂から東北に向って急斜面を降ると、佐仲峠から夏栗山への分岐へ降り着き傾斜も緩やかになって佐仲峠(AM10:50)に着きます。峠の地蔵尊横からは、 少しずつ色づき始めた紅葉を見ながらキレットの尾根に向かいます。 尾根に出れば程なく三尾山本峰なのですが、足の疲れが目立つ客人には少しと展望を楽しみつつ休めるように三尾とは反対側に進んで 岩場で休んでいくことにします(AM11:15)。チャートの岩場の感触も楽しみながら最期一段の腰曲輪を越せば、 芝生の削平地・展望も良い三尾山西峰(本峰 586m)に着きます。山城の遺構の残る中峰と展望の良い東峰へも寄って見ます。 東峰からは眼下に舞鶴自動車道路、北正面に妙高山(丹波比叡)始め多くの山々が。此れよりは三尾から栗柄峠に至る西多紀アルプスの中程にある 鏡峠へチャートの岩尾根を辿ります。
三尾山本郭西下から夏栗山と黒頭峰

佐仲峠への分岐からは、途中・覗岩等いくつかの岩場展望所があって楽しめますが、降りは飛ぶように早く、登りは直ぐに疲れて休む客人に要所要所の休憩予定をパスして鏡峠に到着です。 春日町中山への峠道はズッと 明確に続いているようですが 佐仲ダムへの道は、直ぐに谷筋の藪に消えてしまいます。鏡峠へ登ってくる場合(先に逆コースで鏡峠に辿り着いた時も、 この谷を詰め登ってきた所です。西南方向に道が続くと思っていたのですが谷に向って少し藪を突いて降り、谷に下りず捲き気味に左岸を辿れば古道が現れます。 結構荒れた谷沿いの道は寸断され不明瞭な箇所が多いので別ルート。
夏栗山山頂展望台より篠山盆地を望む

佐仲ダム周回道路の最奥部から佐仲峠への林道を辿り 途中の分岐から未舗装林道から展望所(東屋有り)へのルートを稜線に 詰め上げ左へ三尾山へとは逆に右折して鋸山方面に向えば5分程で鏡峠に到着します)三尾山〜覗岩〜鏡峠〜鏡岩〜古い石導標「左 ふくちやま・右 中山 三井ノ庄 」のあるヘラブナ釣管理棟近くの取付きコースは先述のコースUを逆読みしてみてください。この後・客人には帰り途中の駄賃に、往復1時間以内のコースとして三田の羽束山に案内します。







鏡峠の鏡岩
(狐の嫁はんをもらった市ッさんの話)

丹波古成層の岩石の代表的な硬いチャート層(珪石)の岩が点在する箇所が有りその一つに鏡石や鏡岩があり自分が違う人の顔に映ったとか、映らなかったとか・・・全国にも 多く残る鏡岩伝説が此処にも残っており鏡峠の名もこの鏡岩から来ています。黒井には、夫の浮気を呪う女房が"こうごう石"に写る我が姿が、あまりにも恐ろしさに、心の迷いを覚え夫に懺悔し夫も悪夢から覚めた心地で 不行を改めたという鏡石が邪心を払う奇石として今も兵主神社に祀られているといわれます。古い石導標「左 ふくちやま・右 中山 三井ノ庄」の残る此処・鏡峠へは、荒れて谷筋の道は寸断され踏み跡さえ消えかかった古道があり、 辿り始めてしばらくで鏡岩に着きます。4〜5箇所ほどに表面がツルツルに削られた露岩を見ます。どれが伝説の岩か分かりませんが、 ウル覚えの話の中には、相撲取りがオシッコを"ひっかけ "た為姿が映らなくなった・・・との話とだと山道脇に並んだようにある二つの岩がそうなのかナァ・・・・(^^;"丹波の昔話"に佐仲峠と鏡峠をモチーフにした ==狐の嫁はんをもらった市ッさんの話 =が雑誌{丹波}創刊号(昭和48年)に掲載されています。
左 ・佐仲峠から福知山/右・春日町中山や三井庄への鏡峠分岐

佐仲峠の麓の小坂村(佐仲ダム近くの小坂集落)は、今でこそ行き止まりの山奥に在りますが、昔は福知山や但馬へ佐仲峠を越えて行きました。 その頃、佐仲峠の麓に"市ッさん"という、あまり風采の上がらん酒好きな男がいました。悪い男ではないが、お世辞にも働き者とはいえず、お酒のために生きとる様な男で、 一寸でも銭が儲かると徳利を並べて毎日飲み続けるのが 生きがいだったらしい。そんな徳利と寝蒲団だけの"市ッさん"に嫁さんの来手もないし又、峠で狐に化かされるのも村1番と言うことで、 何かにつけ地元でも変人扱いされていました。"市ッさん"は佐仲峠の途中から 右へ登るその鏡峠を越えて、鹿場村や三井ノ庄へいどこ(竹籠)や箕のやらを仕入れに行って、 それを多紀の村々に売りに歩いて暮らしを立てていた。ある時、残り酒も少くなってきたので、最後の酒を腰徳利に詰めて、 酒代稼ぎに鏡峠を登って来ると、草むらで何やらケモノのもがき苦しむ声が聞こえて来た。 草を掻き分けて覗いて見ると、狐が肩口を射ぬかれて血に染って倒れています。「何時もわしを、よう化かす狐がなんちゅうざまや、 今日はひとつわしがその傷を化かいたろうか。 」といって矢を引き抜き徳利を腰からおろし、それを傷口にトクトクと注いで洗うてやって、 「狐とはいえ、 こうなると他愛ないものだなあ」と一人言を言いながら三井ノ庄の方へ下りて行った。「世の中には変わった人も居るもんや、"市ッさん"とこへ嫁さんが来とるそうや、
三尾東峰から鋸山と西岳・御嶽を望む

東中山に縁のある人だそうだが、 何でも徳利とせんべい蒲団しかないとこへ来たんやろうな。 それがまた、働き者で朝早うに家を出て三井ノ庄の方までいどこ(竹籠)や箕を仕入れに行って晩に帰って来るそうだ。"市ッさん"はそれを手伝うわけでもなく、売りに行くだけで相変わらず酒びたりだそうで、 どうないなってるのかなあ」「いや、やっぱり嫁さんも一寸変わっとるようだ。この間も三井ノ庄に用事があって、薄暗いうちに家を出たんだが、わしの一寸前を"市ッさん"の嫁さんが ちゃんと装束して歩いて行きよるんや。まんじゅう屋を過ぎて、そろそろ峠を右にきれて(添付写真の道標分岐)坂道になるあたりで急に姿が見え無くなってしまって、おかしいなと思い足早に登って行ったが、 ぜんぜん姿もみえずや。それがなぁ、三井ノ庄まで行ったらもう3〜4っのいどこ(竹籠)背負うて次の仕入れに行きよるんや、びっくりしたぜ」「そういえば、1ぺん位出合そうなもんだが"市ッさん"の嫁さんとは 一度も峠で出合うたことないなぁ」・・・・佐仲峠の秋もそろそろ終わろうかと言うある夜のこと「市ッさん、市ッさん居るか、酒の飲んどる場合じゃない。一寸来てみい」と地元の者が息せききって懸け込んでで来た。あまり気のすすまない"市ッさん"の腕をつかんで峠の右手の谷へ駆け登って行った。 「市ッさん、見てみろ。あれお前の嫁さんやろがい。 嫁さんの廻りを目を据えてよう見てみろ。多くの狐が取り囲んで化粧の手伝いしとるやろ。
三尾山東峰より本峰を望む

今、東中から遅くなったので急いで佐仲峠を下りて来たら、左の谷に狐火のようなものが沢山見えるものだから、おかしいと思うて恐々この谷へ登って来たらこんなこっちゃ。 」照り輝いている月明かりの下で化粧をしてる嫁さんの綺麗な顔が岩に映っているので、 "市ッさん"は見惚れてしまい、ついふらふらと木の蔭から出て、間の抜けたような声で、「おーい」と嫁さんを呼んだ。 ふり向いた嫁さんは"市ッさん"を見ると飛びあがる程にびっくりして鏡岩の方へ後ずさりした。口をわなわな震わして"市ッさん"に何やら訴えるように話すが、もう人間やないので言葉が聞こえてこない。 先ほどまで、あれほどまでに透きとおる程に綺麗だった嫁さんの目は落ちくぼみ、病人みたいな青白い顔になって、岩の後の方へ吸い込まれて消えてしまった。 そんな事があってから、その岩に一筋の割れ目が出来て鏡のように光り始めたそうですよ。


明月神社と東山古墳(四王寺古墳群)  篠山市小坂

籾塚古墳 ・川内多々奴比神社前を通り、上板井集落西の丘陵(板井城が在る)側の分岐を抜ければ、 小峠を抜けて佐仲ダムへ向かう真っ直ぐな道が延びる。 其の道が左へカーブする角に明月神社が在ります。祭神に
月夜見命を祀り、鎌倉時代初期・第82代 :後鳥羽天皇の文治4年(1188)創建され、古来より明月大明神または単に明神様と呼ばれます。
名月神社の断層鏡肌

いつもは行き過ぎるだけの小さな神社でしたが見るべきものは有りました。以前は神社背後に続く丘陵上にある 小坂城に寄った事もあったのですが・・・・(^^ゞ 神社の東:四王寺谷には数基の古墳が有るというので、 遺跡分布地図や報告書等による事前の下調べも無く、 場所の位置も・現在呼ばれている古墳名さえ判らないまま、 チエックしている場所付近を探してみることにします。小さな神社だが背後に丘陵の末端が落込み、岩の断崖を見せていますので近寄って見ます。此処:小坂集落からは 、三尾山から黒頭峰へ続く南稜の佐仲峠を越えて 丹波市春日町の国領へ通じる道筋がある。旧篠山連隊:歩兵第70連隊が演習で福知山へ通った道。 また鏡峠を越えて春日町の中山方面に抜ける道も有り、佐仲ダムサイトには「春日・福知山」への石の道標も立っています。
四王谷:東山古墳

この鏡峠へのルートには鏡岩があり同じツルツル状態の岩の断層があるのですが・・・・・!明月神社境内の山側も断層鏡肌が見られます。ここもまた 「兵庫の山々山頂の岩石」サイ トの橋元さんには、佐仲三山(仮称)巡りの際にでも寄られて、専門的なレポートを期待したいところです。 断層鏡肌とは=断層運動(強力な地震による等)での圧力で、断層面が互いに擦れ合う事により 自然に磨かれて鏡の様に ツルツル状態の面を鏡肌とか鏡面と呼ばれ、 光を反射するほどピカピカになる事も有る様です。「丹波篠山五十三次ガイド 」によると小坂集落の山麓には数多くの古墳が点在するようです。 銀象嵌太刀が出土した「沢の裏古墳群」や「箱塚古墳群」等の古墳時代後期のものが知られるようですが、高速道路建設の際に大半が消滅してしまったという。
四王寺谷古墳(xx号墳)玄室部

四王寺谷には3基ばかりの古墳が残されている様です。 其のうち2基までは地元の方に聞いて、 およその位置が判ったので其のうち一基を訪ねて見ました。「一寸判りにくいかも・・・!」と言われた小坂浄水場の北側、墓地近くに円墳で封土と横穴式石室が残存する四王寺古墳群(東山古墳)が南に開口しています。 墳丘は径約15m・高さ4m程で現存の石室部は羨道部が殆ど無いが、奥行8m程・高さ1m・幅1.5m程の石室で、羨道部側壁の石材らしい石の上に五輪塔の残欠が乗せられています。


三尾山城 小坂城  夏栗山砦

三尾山城(三尾城・国領城)
 三尾山 586m  丹波市春日町中山・篠山市小坂

永録年間(1558〜 1570)黒井城主・赤井直正の弟で保月城城代赤井 幸家の築城とされていますが”丹波攻め”により天正6年(1578)12月 23日明智光秀の部将・妻木主計助範賢の攻撃で落城し。この時・黒井城主赤井直正は病死しており、城代なっていた幸家は但馬方面にも領有地を持っていたが、 但馬竹田に出陣の留守中に攻められています。
三尾山西峰断崖の岩頭部にある残石 H15.4.19

城の中でも最も峻険且つ高所にある山城の一つですが、盟約を結んでいた波多野氏の篠山・八上城と黒井城の間にあって、境目の城であり 両城及び氷上郡の諸城と連絡の為の"狼煙"の機能を持っていた”繋ぎの城”だったようです。西紀町史には小坂の西北方・通称三尾の大乗ヶ原に有って赤井悪右衛門の出城といわれている・・といい、 石垣の一部も残ると記されているのですが!西峰から本郭へ向かう尾根上に砂防石積みらしいものの他は石積み加工を見かけないが、 西峰から東峰に向かう尾根端の岩壁の露頭には石積みを施した小さな平坦地があり、 木戸口か!!番小屋跡だったかも知れない。塞城口として防備には重要な場所とは思えますが、石積みの場所の足下は何10mあるか 不明のキレットの断崖で、なんだか危なっかしい場所でもあります。

黒頭峰より月の輪の大ダレ(岩場)と三尾山

赤井刑部少輔幸家は天正6年(1578)明智の丹波攻めで討死 !!?したことになっているようですが 「丹波史」によると、脱出して戦国の武士としては珍しく長生きしています。 【赤井直正の病死によって城代・幸家が黒井城に入っており、三尾の城にはこの時弟 ・時直や部将に玉置三郎兵衛等が留守部隊として拠っていたと思われますが・・・!!】三尾山城へ10数倍の大軍で押し寄せる明智勢の前に落城するが、 辛くも城を抜け出し敵の重囲を脱して、 執拗に追手を逃れて四国へ落ち延び隠棲するが 望郷の思慕は募り、帰心矢の如く72才の刑部が老体を旅装に包み、はるばる故郷の穀料(国領)へ帰り、赤々と夕日に映えるかつての居城三尾の嶺を感慨深く見入っていた。
三尾山本峰・三尾山城

年をとれば無性に故郷が恋しくなり、 余命幾ばくも無い身の上に、せめて幸家が再建した菩提寺の三尾山弘誓寺 (篠山市上板井)に骨を埋めたい一念からこの地へ戻り、 弘誓寺にて戦国武人には珍しく大往生を遂げたといい石碑が建てられています。 天正6年(1578)に黒井城主・赤井直正が病死し、其の後・弟幸家が城代となっていたが、但馬竹田城の攻撃で出陣中、 不在を知って明智方の部将・妻木主計助範賢が攻撃したが、留守舞台の屈せぬ抵抗に其の日に落とすことは出来ず、 光秀の本隊は金山城 から長谷城(高尾城)尉ヶ腰城を 落としながら、福知山方面から南下してきた 明智光春の部将:藤田伝五行政と合流して三尾山に迫ります。凄まじい明智軍の総攻撃に、 留守部隊の玉置三郎兵衛等の防戦も十数倍もの敵を相手には守りきれず、三尾山城も終に落城します。
「大納言小豆発祥之地」石碑のある登山口より望む三尾山

明智軍が黒井城に迫った時、 但馬へ出兵中の幸家は佐治へ抜けて由良峠を越えて急ぎ戻っています。同寺には幸家が寄進したという涅槃図(市指定文化財)や城中で 祀っていたという大日如来座像が残され、境内には彼の墓碑も残されています。敗因濃い中でどの様な合戦となったか?彼は敗退して自刃したと言われますが、逃れた後・篠山に戻った上記の話も伝わります。

小坂城  東山!? 308m  篠山市小坂字東谷

佐仲三山と 勝手に命名している夏栗山や黒頭峰そして三尾山へ向う場合、大抵は佐仲ダムから佐仲峠を組み込んだ周回コースを選んでいます。 R176号線大山下交差点(直ぐ西の大山川沿いに大山城が在る)か、長安寺交差点から県道140号線で木ノ部の峠を越えて(峠を挟んで木ノ部城と木ノ部北城が在る)旧西紀町へ下る。舞鶴自動車道の高架下を抜ける手前、 直ぐ左前方の低丘陵上が内場山城が在りました。
小坂城遠望

此の自動車道の 東を平走して北に向う直線道路が県道289号線で、数100m先に見える独立低丘陵の西を抜ける小峠には兵庫丹波に残る山名氏一族の 板井城が在ります。
南端の露岩が目立つ曲輪に登り着く

小峠を降りると ・また田園風景が拡がる中を 直線道路が小坂集落に向う。真正面に山が迫り神社の鳥居が見え、車道は左(西北)へとカーブして山裾沿いに走る。前方に見える舞鶴自動車道の先に山城っぽい形の夏栗山が望めます。此の山上に夏栗砦が在りました。篠山市側西紀・丹南を望み、佐仲峠の監視もありますが、 鐘ヶ坂側から瓶割(かめわり)峠を国領への通行監視と、対峙する三尾山城を監視する 明智光秀の向城と考えられる砦です。
主要郭部!!・細い中央曲輪を左右に帯曲輪(最奥に櫓台!?)

その県道が佐仲ダムへ向かい、オフロード・バイクでも無理っぽい佐中峠(三尾山城は此の峠から尾根伝いに在る)を越えて丹波市春日町の国領へ通じます。神社は明月神社で、丘陵南末端部が落ちこむ境内背後の岩壁が平らな断層鏡肌を見せています。神社を東に廻り込み急斜な崖下を集落の奥に向う車道を進むと、小坂浄水場施設の先に墓地への詣り道が有り、 墓地側には横穴式石室が残存する四王寺古墳群の一「東山古墳」があり、其々に関心が有れば・小坂城の訪城ついでの寄り道には良さそうです。
小坂城最高所の主郭部櫓台?:なら主郭は・・?

東山古墳の東斜面は尾根先が谷状に入り組んだ様な?地点に、3段程連続した平坦地が有り、 屋敷跡?かと思わせます。此処より尾根筋を比高50m・15分ばかりで、竪堀を見て小坂城南端部の曲輪に登りつきます。・・・初めての訪城では取付き点が判らず、 明月神社から佐中側へ100m程進み・子供公園「あかつき広場」の先から登った。
主要郭の最北端を捲く帯曲輪

多紀アルプスの鋸山から南西に張り出す枝尾根の末端に位置していますが、其の北側の308m峰の最高地点が主郭櫓台跡とも思えるが ?!!露岩が多く削塀の粗い尾根筋の曲輪のどこが主郭なのか、判断も付かない小坂(おさか)城が有ります。 細い尾根筋と同じくらいの幅で両サイドに帯曲輪が続き、 西面の帯曲輪はそのまま北端の最高所にある櫓台状の小曲輪下を北面の尾根筋まで捲きます。
小坂城:帯曲輪西面:土留め石列!!? 此の下に刻印残す築城残石有り

細い尾根筋東側に竪堀を見て、すぐ下方(25m程)の鞍部に降ると土橋付き?浅い堀切がある。背後の尾根筋には、直ぐ上部には広くなった尾根上に平坦地があるが堀切等は無く、緩衝帯の様な緩やかな尾根筋には防備・遮断等の城砦関連遺構は無く城域を出ているようです。城主等の城史は不明ですが、 佐仲峠を春日町から
南端曲輪の東斜面:畝状竪堀の内二本が並ぶ

福知山方面や 但馬へ抜ける街道の要衝を監視する位置に有って、 小坂集落の在地土豪の詰め城というよりは、山名氏一族の板井城に対する北方警護の支城であり、 山麓の領地を治める山名氏の詰の城として築かれたとも考えられ、車道から向う尾根の南北70m・東西約40mの城域には、 南側斜面に向って放射状に5〜6本程の畝状竪堀が走る。特に南端曲輪周辺の竪堀上方には、二つに割られた石の角に矢穴跡が残る大きな石材が散在しています。
櫓台?南側の主郭に?:矢穴を残す残石群

篠山城の築城石の多くは丹南t町栗栖野の中谷川付近から、豊富な河原石が採取されていますが、篠山 城北方の小坂方面からも切出されていた様で、丹波大山の川代公園や、舞鶴自動車道西紀SAの庭園にも築城残石が置かれ、刻印を残すものが幾つもありますが、小坂城跡の曲輪内にも築城石を切り出した形跡が残り、 南西曲輪下斜面には矢穴と 「扇に○」の刻印を残す大石も有った。
小坂城跡に残る篠山城築城石:矢穴と刻印を残した割り石

竪堀と思える溝が、これ等の築城石を麓に運ぶ為の溝になった?とも、まして石を落とした跡とも思えません?。天下普請の築城石 ・粗末に扱えないだけに、大変な労力と資財・努力で運び出されたのでしょう。此処の石材採石・ 運搬の使役に当った西国大名!!が誰だったか?は、刻印石を調査・研究されている方には判るんでしょうね。しかし此の小坂城に石垣が積まれていたか、 細過ぎる?尾根筋や櫓台 ・主郭と思える場所の狭さや窪地となっている部分からは、
小坂城南東端の腰曲輪内に残る築城石の残石

其の石垣が抜かれて持ち出されたものか!?想像出来ても、現実・どの場所に・どの様に積まれ使用されたかまでは、素人に判断出来ません。なによりも兵庫丹波の山城に石列 ・部分的に石積は有っても、石垣積みの城は限定されています。諸領主が群雄割拠して敵対した場合を考えれば、当領主が勢力を持つ事を懸念した覇者(多紀郡の波多野氏・氷上郡の赤井(荻野)氏等)が牽制の為、 堅固な築城を認めなかった可能性の方が高いかも・・!!。
「戦国、織豊期城郭論ー丹波国八上城、遺跡郡に関する総合研究ー」(八上城研究改編 参考)


夏栗山砦(夏栗城)   夏栗山 600m  篠山市高倉夏栗山・小阪

幾度か訪れた夏栗山の 山頂部を中心に東西約150m ・南北30m程の尾根沿いに、土塁や切岸を伴った幾つかの削平段が存在し、城砦遺構を残す夏栗山砦についての記載を「丹波史」以外に未だ触れられてはいない様です。ゴールデンウイーク最中・其の 「夏栗山砦」を調査されていた高橋成計氏【「戦国・織豊期城郭論 八上城遺跡群に関する総合研究」著者の一人】が再度夏栗山砦を 確認の為行かれたと、同行の方から連絡メールを頂いた。
夏栗山山頂の展望台と主郭部の切岸南面

山仲間から 夏栗山への登山予定や下山報告を聞く度に、自身で城砦跡だったと言っておきながら登山主体で、山城に余り知識も関心もない上・城史はおろか城砦の名も、其処の城が有った頃も知られていない 砦です。丹波にはその様な城砦が多い事も其の後だんだん判ってきたのですが!!。近場の夏栗山砦の訪城に向かいます。 夏栗山砦も荒れた山道と藪で覆われた山頂付近の様子から自分では未だ充分な遺構を確認しないままだった。夏栗山だけを目指す登山者は殆ど居ないでしょう。
主郭東の土塁付曲輪の切岸と其の東の曲輪に立つ観世音石仏の祠

普通は黒頭峰(くろつぼ)を繋ぎ・三尾山を取り入れて 佐中三山を廻るコースが大多数でしょうし、佐仲峠が基点となるのでしょうが、山頂までは最短距離(約1km程)で登り着くR176号線の丹南(大山上)から高倉地区に入り高蔵寺から往復します。 十一面観世音菩薩を祀る宝橋山 高蔵寺(天台宗)は、新丹波七福神(弁財天)霊場で立派な山門横を抜け 寺の駐車スペースに車を置かせていただき、「安らぎ観音」像に見送られて本堂に向かう。新緑に萌える参道も晩秋には見事な紅葉に燃える事でしょう。 本堂にはモミの巨木(上記ルートVに画像添付)が有って樹高28m・幹周約5m・推定樹齢は不明ですが、 丹波森協会選定樹木No16 の表札が付けられています。・・・7世紀(平安時代)に黒頭峰山腹に建立され、七堂伽藍を備え・僧坊21もあったというが、 「丹波攻略」に多紀郡 (篠山市)の八上城周辺の城を落としていった明智光秀が天正6年 (1578)金山城を築いて本陣を移した頃、高蔵寺も兵火によって焼失してしまいます。
夏栗山主郭部北面の切岸

本堂裏手から更に黒頭峰側に続く広い山道が奥の院に続いているのかは確認していませんが ・・・!!文禄元年 (1592)頃・現在地に本堂と西蔵坊・光源坊・泉蔵坊が再建されますが、慶安3年(1650)本堂を焼失し正徳2年(1712)に再建されたのが現存の本堂といわれています。 高蔵寺には同一作者のものとされる木造り天神座像と、 木造弁財天座像が安置されており、共に市指定文化財として平成5年3月31日指定を受けています。猪鹿避けフエンスを開閉して奥の院?への林道を分けて「なつぐり山登山口」表示のある堰提の方へ向かい木を渡しただけの簡易橋を過ぎれば、大ヶ谷(点名:池尻409m) からの南東尾根に出て、 黒頭峰・佐仲峠へのよく踏まれた縦走路に出て暫くで夏栗山への 三叉路分岐に着く。黒頭峰の円錐峰が目前に見えてくる。300m程先が夏栗山頂で此処までも「丹波森の径」の山道が続く。
主郭東の土塁付曲輪から1段下の石仏と祠のある曲輪

以前は歩くにも難渋する長くて厳しい 「丹波森の径」のコースも人気の山が近いところでは山道整備もされている様で随分と歩きやすい。 山頂真近・傾斜も緩やかになってくると、低き段差(7〜80cm)を越えて自然地形の緩衝地の様な処を進む。城域に入った様だ!!。傾斜は緩やかなまま7〜80m程進むと1.5m程の段差(切岸と土塁)を越えて、山頂展望台のある主郭部に入る。 下草と篠竹に覆われて此れを切岸とも・また乗っ越しの凸部が低土塁を半ば崩した形になっていることも、気付かず前方の鉄汲みの展望台へ向かう人が多いんでしょう。ホンの4〜5m右手(西南へ回り込むだけで切岸 ・土塁を崩さず主郭に入れる空いた通路?が有るのですがね!!)。1m程の段差で山頂部の北面を切岸が、東側の観世音菩薩像を祀る祠手前の曲輪にまで延びています。城遺構としては此処が一目瞭然、土塁が囲み1.5m程の切岸 ・切岸南西端に虎口がある筈ですが(北側の切岸沿いも西正面にも主郭に入れる通路は無い!(^^ゞ )藪酷いので諦めます。 広い平坦地の中央西よりに石仏の石の基壇前から、更に東下へ2段の曲輪が続くところ・「展望台より東70mの所に虎口を伴う切り岸が見られます」との情報を得て虎口を探してみます。
石仏を祀る曲輪の東にも2段の曲輪が続く(東南角の登城道?)

此処を抜けると後は緩やかな降り傾斜の緩衝帯 ?が続いて藪中の道が佐仲ダムへと下っていくだけです。緩衝部?からは東の曲輪2段目から1段目にかけて南側を犬走り状の細い通路が捲いている様で、 2段目西端の切岸側に直角に入る虎口らしい?通路部分が、 密集する竹薮の中にあった?。虎口か単に通路かどうかを識別する眼力が未だ無い(^^ゞ 防備を左程重視していない砦に虎口があったのかも疑問 ? しかし此処は「丹波攻略」に明智光秀が、八上城・黒井城攻めに築いたとされる砦。 ことに三尾山とは至近の尾根続きに位置する向城なので、三尾城監視の砦だったとすれば、栗柄砦と同様に折れを意識した曲輪や土塁・虎口の構造が此処に有っても不思議ではないのでしょう?。ただ三尾城攻めが主目的なら黒頭峰に築けば 将兵の動きまで監視出来るだけでなく、直線で2km程の距離なので大砲により玉さえ届く距離に有るのですが。
夏栗山展望台より:夏栗山砦主郭の南西端切岸

拠点の金山城を発った光秀の部将:妻木範賢は城主 :幸家が出陣中の留守を狙って、瓶割り峠から黒頭峰経由で佐仲峠に出て三尾城を攻撃したが留守舞台の迎撃にあって失敗、光秀本隊が国領に進み、福知山方面から南下してきた明智光春の部将:藤田伝五行政と合流し、 大軍で三尾城を挟み撃ちしています。夏栗山の展望台から望む篠山盆地の眺望は良く、真近に黒頭峰から西光寺山・松尾山〜白髪岳 ・大野山へ、東に樹木が遮らなければ三岳から三尾山へも望める筈です。素人の悲しさ ・・・虎口の存在が示されながら、登山コースを外れると下草や藪に覆われ遺構も、よくは判らなかった夏栗山砦については、兵庫県教育委員会の遺跡地図(平成12年3月)に位置の記載が有り、調査報告書等資料があると思われますが、 先日:高橋成計氏等によって調査された結果や「丹波史」等への?縄張り図付き詳細報告書を頼りに、再度訪れる事になりそうです・・・(^^ゞ
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