国領の三尾山・長谷城へ 岩戸神社城館〜高尾城〜長谷大池
丹波市春日町 (五万図=篠山)
岩戸神社城館〜高尾城(長谷城)〜国領温泉  2005年01月30日
岩戸神社城館と高尾城

近畿の山城:岩戸神社城館と高尾城(長谷城) 
国領城

R175号線稲継交差点から城山トンネル(ガンジュウジ城・向山城)を抜けると黒井の盆地が開けて野山城や千丈寺砦〜黒井城が見えてくる。JR黒井駅からは春日ICまで行かず 茶臼山城(光秀の黒井城向城の一つ)側から野村構居を北に望んで、栗柄峠に向かう県道69号に出た。此処へは前日に鹿場や三井庄の城館を訪ね 二階堂秀香の大路城へも行ったが、南に鋸山〜三尾山に続く山並みを眺めていて,場所も城史も判らないまま、以前から気になっていた高尾城(鷹尾城・高雄城・長谷城)の取付きは探しておいた。
岩戸神社

此の山域は鐘ヶ坂〜瓶割(かめわり)峠の旧街道や佐中三山(仮称)の三尾山・夏栗山・黒頭峰から瓶割峠を経て譲葉山〜向山への 縦走を兼ねて、城跡から権現山(岩尾)を経由するルートを考えていたのですが、コースの偵察を兼ねて城跡とされる尾根部分だけでもトレースしてみようとやって来ました。今回は棚原越え鞍部から長谷大池へ下っただけなので 山レポートは”近畿の山城”の内に留めておきます。



岩戸神社城館と高尾城(長谷城)  国領城

岩戸神社城館と高尾城(長谷城)
岩戸神社城館
 xxx Ca120m  丹波市春日町国領

R175号線からも際立つ特異な山容の三尾山は目立ちます。 西多紀アルプスの鋸山から三尾山を経て向山・五台山へと東西40km程の山稜は丹波古成層の代表的なチャート層 (珪石)は侵食に強く巨石・奇岩を露出させて鋭く空に突き立てて見えます。その中でも三尾山は展望良好でスリルの味わえる丹波では一押しの山域です。
岩戸神社城館:堀切からの主郭側切岸

登山ガイドでも紹介されている東中からのコースが低山ながら スケール感を見せる山容と尖峰・岩壁・山城と展望の三尾の魅力を集大成していて、 自衛隊の山岳訓練の場ともなっていたところです。そんな三尾山を彷彿とさせる山が国領温泉の麓に有ります。栗柄峠に向かう県道69号線が 舞鶴自動車道の高架を潜るところに「国領温泉・長谷大池」の看板を見る。
岩戸神社城館: 東面曲輪の切岸

東方に見えていた三尾山が、野村や棚原集落に入って来ると 直ぐ見上げる南方の峰に三つのコブを起立させています。荒々しい北壁は国領地区に入って来ると 前方の丘陵に隠れるが、其の奥には急斜な東稜に階段状の露岩が続き南壁も白く光って見える。国領の南・長谷集落から西方に見上げる無名の岩山(387m〜457m峰・最高所を 長谷山と呼ぶ様ですが ?)は標高こそ無いが三尾山とは兄弟峰?。
岩戸神社城館:堀切側段曲輪から主曲輪

そして此処には三尾山城と共に黒井城の支城が有り天正期:明智光秀の丹波攻めにより本城の黒井城や三尾の城と共に落城したともされる砦高尾城が在りました。伝承によると天正期以前に多紀郡(篠山市)八上城主 :波多野氏に攻められて永禄年間(1558ー70)に落城したとも伝えらえますが!!。「国領温泉・長谷大池」の 看板を見て道なりに長谷大池へと車を走らせていると、
岩戸神社城館:主郭から堀切側の段曲輪

岩戸神社の鳥居が見える。神社の杜の背後には譲葉山(柏原町の背山)に主峰を置き、瓶割峠から 向山への主稜線の権現山(岩尾 541m)からの枝尾根が、山名通りの岩の稜線を見せて長谷の山城跡から岩戸神社側に延びてきています。山城跡へは長谷大池の東北端・国領温泉から取付く方が 比較的良さそうに見えますが、此の岩戸神社から急峻な岩尾根を見せて突き上げる高尾城へのコースを模索してみます。
岩戸神社:石燈籠

鳥居を潜り石段の続く参道入口北面の小高い台地に小さな社が建ち、 北側下方にも畑地となっているが曲輪と思える台地が見える。参道石段を上り詰めた本殿前に建つ石灯篭が町文化財指定との案内標柱を見て、本殿横に廻り込み脇から倒木の目立つ急斜な尾根筋を背後の丘陵に向います。
岩戸神社石燈籠は春日町指定<現:丹波市指定文化財>(昭和44年 8月31日)となっているのですが、案内説明板等は無く、「町指定」の朽ちた標柱が本殿前の二種の石燈籠間の神社玉垣に置き去りになっています。
比較参考(宝珠・笠):神野神社(氷上町御油)文久元年

外側の一基は文化文政頃のものなので、これでは無さそう。石段を挟んで内側の 対の燈籠なのでしょう!!?。岩戸神社の石燈籠には竿(円柱状)の部分に「上り竜」と「下り竜」を浮彫した立派な対のものがあり、 拝殿石段下にある燈籠も笠の軒端が捲き上がる蕨手や古色然とした趣ですが、宝珠先端部の尖?や長さが桃山時代以降の様です。石段上内側燈籠の宝珠や笠には丸みがあり、
比較参考 (宝珠・笠):神野神社(氷上町御油)宝暦2年

宝珠の尖がりは少なく?請花部の容もズングリと古い様式?で、 連弁が彫られているので南北朝期以降のものか?。笠部の軒端は宝筐印塔印と同様比較出来るようなら其の反りや傾斜は少なく古い容のようです。 火袋下の中台は装飾性は少なく簡素なもの(格狭間は無地だったか?下面に連弁は彫られていた様な?)。竿の中央には一重だったか節があり、基礎の反花(連弁)は単弁だけで間に小花は無く、側面は無地のまま。
岩戸神社城館:尾根続き鞍部の堀切

基壇は移転で欠如したものか?。 文化財指定の遺物には案内説明板等の設置と周辺整備はして欲しいものですね。神社が居館跡かと思っていたのですが、 神社背後の丘陵頂部から手前東には2.5m〜4m程の段差で3〜4個の曲輪が並んでおり、西北端の堀切を経て更に下って高尾城への鞍部に着く。岩戸神社には高尾城主・秋山修理太夫を祀る小祠があったといわれます。
長谷山稜まで続く凹角を抜け出た平坦地は番小屋?

見過ごしてしまった参道入口上部の 小祠が其れだったのかも?。南麓(国領温泉付近・長谷大池から長谷谷を詰めあがる高尾山城への中腹か?)には城主の菩提寺今寺(流泉寺)が在ったが、此れを移したのが現在の滝泉寺だそうです。鞍部から猪・鹿避けフエンスを開閉して 「・・・分布調査報告書」では遺構未調査の高尾城(高雄城・長谷城)を目指します。尾根上に向う斜面に延びる溝状の凹角が稜上の平坦地形まで続いている様です?。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書  氷上郡教育委員会を参考)

高尾城(長谷城・高雄城)  高雄山 457m  主郭部 387m   春日町国領西長谷

篠山市から丹波市境界の栗柄峠を越えて 春日町に入る県道69号と、京都府側三和町から三春峠を越えて丹波市春日町の三井庄に下ってきた県道709号線が合流する中山・国領・棚原にかけては、福知山市から市島町を通って本城の黒井城東方に迫る道筋ですので、黒井城防衛の為 ・多くの城砦で防禦線が築かれていた様です。
岩塔の頭(出郭)から高尾城主郭部と三尾山遠望

通信手段としての狼煙砦のほか 三尾山城から黒井城へ”矢継ぎの城”として伝わる 尉ヶ腰城(城ヶ越・・の意味か!)周辺の城館や大路城・鹿場や三井庄の城館も要衝監視と防衛の前線基地として 築かれています。
長谷城(高尾城)主郭と東面の段曲輪

栗柄峠から西方へ連なる 西多紀アルプスの険しい岩山に阻まれているが小坂 (赤井の呼込み作戦では二階堂秀香が此処まで光秀を追い込んできた)から 鏡峠を越して中山や、 旧街道筋が”佐中峠”と篠山市と丹波市境の鐘ヶ坂から”瓶割峠”を経て春日町国領へ通じています。
長谷城(高尾城)主郭側から東面の段曲輪

前者は保月城(黒井城)主・赤井悪右衛門直正の弟赤井刑部少輔幸家の三尾山城が監視守備し たが、鐘ヶ坂から柏原・氷上町を経ず春日町へ通じる 瓶割峠を越える要衝の抑えの砦として築かれた高尾城(長谷城・高雄城)がありました。国領温泉近く・長谷大池はワカサギ・ヘラブナ釣りでは知られたスポットで平日でも 和泉や姫路ナンバーの釣り客の車が停まっているのを見ます。
平坦地形端の岩段を下って主郭群には入!!

以前・譲葉山から瓶割峠を目指し藪の稜線を辿りながら、複雑な地形から間違えて下ってきた長谷大池ですが、池の北方から西へ延びる尾根筋は国領地区から眺めると南面に険しい衝壁を立てかけた岩山が見え、 其の天然自然の要害の絶頂部に城が築かれており、城域は狭いというが「氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書」では遺構未確認?(未調査)とあった高尾城 (長谷山城)ですが、平坦地・切岸加工された段曲輪と粗円形の主曲輪・堀切も備えた山城遺構が残っていました。
高尾城主郭から西の出曲輪岩塔部を遠望

岩戸神社城館から堀切を越え鞍部へ下り、猪・鹿避けフェンスを開閉して尾根に向かう。 歩き易そうな凹角の溝状伝いに登り始めたが急斜な登りは 一向に緩やかになる気配も無く続く。麓から眺めて覚悟はしていたが岩場を攀じる 箇所が少ないだけでも、まし?なのかも知れない。突然平坦地に出ると周囲に展望が拡がり、やがて数段の曲輪が続く。東峰387mの曲輪端からは正面に白い岩塔が見え其の奥に西峰457mの峰を望む。 東北側に2段の小曲輪を見て突端の平坦な・いかにも見張台的な岩場に出た。
主郭部:曲輪と其の削り残し土塁!?

スパッと切れ落ちた断崖・絶壁上の岩場は遮るもの無く・栗柄峠に向う県道69号や舞鶴若狭自動車道を正面にして、三尾山の特異な山容を眺望出来る展望台です。40m程平坦な尾根筋の西端部に切岸をもつ2段の曲輪を越えて、 ほぼ円形の高尾城主郭に着くが削平地の半分は崩れ傾斜面上にある。此処から急激な下降を予想したが直ぐに鞍部の堀切に降り、登り返しの急登で主郭群より高位置の岩場を捲き上がると、上部も切り立った岩塔の頭に出た。岩頭部は6x8m程の平坦な岩場で此処も絶好の展望台(見張り)だ。城域は狭いとのことなので既に城域は出たと思ったが岩場部分を含めて平坦地は結構広く 削平を丁寧な出曲輪です。
主郭部:尾根沿い北側の曲輪は自然地形の?大竪堀側まで延びる

只: 此れより最高所にかけては段差は無いが、幅広く長い平坦地が50m・40mと続き、中には天水利用の池跡や石列が有る。主郭部の東曲輪群に対し、居住空間地帯が西曲輪だったのかも?展望の無い雑木の中の平坦地から藪っぽく細い尾根道を下って 鞍部に着くが、途中に堀切や土塁曲輪等の防備施設を見ない。西尾根側から攻められれば主郭下部の堀切だけで防ぎ切れるものかは不明?。 尾根を辿れば岩尾(点名:権現山3等 541m)を経て譲葉山や向山への縦走路に出るが、今日は鞍部から長谷大池へ下る。谷筋は崩壊や倒木を避けて歩き辛いが道は有り林道から長谷大池の釣場管理事務所前を経て岩戸神社前へと降りてきます。
高尾城主曲輪は粗円形(東の段から)

高尾城(長谷城・鷹尾城・高雄城)の最後の城主は 秋山修理太夫とされますが、落城時期には高尾城落城伝説によると天文20年(1551)10月とも、永禄年間(1558−70)頃「丹波史年表」とも ?八上城主:波多野晴通 (はるみち)に攻められ滅ぼされたとされた説と、天正7年(1579)黒井城攻めで三尾山城・黒井城と共に落城した説がある。天正期以前に落城していたとみられるようです。天文年末の落城説では黒井城主:荻野秋清が、
高尾城:東曲輪(主郭群)と西曲輪(出郭と居住空間?を分ける堀切

領地侵略の波多野氏勢力を怖れて、 なんの手立てもせずに支城 :高尾城の家臣秋山氏が討たれるのを傍観:救援しなかった事も、其の数年後に起こった赤井直正の誅反に対しては、丹波守護代の京都丹波八木城主:内藤氏の数度の奥丹波:氷上郡内への攻撃を防御している”朝日城主:才丸 (赤井直正)”に比して、家臣の多くが秋清への不信・不満をつのらせていた事に起因していたようで、新しい頭首才丸(直正)の行動は賛同 :歓迎された事かも?。
高尾城:主曲輪の西尾根側を遮断する堀切

赤井 (荻野)直正(幼名・才丸)は天文年間(1532〜55)地侍の荻野18人衆から盟主として乞われて朝日城主に迎えられていますが、永録年間(1558〜1570)に主家の黒井城主 荻野秋清を刺殺したとされている事も、実際は家臣等によって刺殺され、秋清に代わって朝日城主:直正を黒井城主として 迎え入れたものとも推察されます。天文2年(1533)細川晴国方についた波多野晴通が、細川晴元方の 赤井伊賀守忠家を攻めた頃でしょうか?・・氷上の穂壷城も波多野氏の手に落ちています。永録年間(1558〜1570)には赤井幸家が三尾山城を築いた頃なので、其れ以前の事でしょう。永禄年間以前なら岩戸神社に残る石燈籠(町指定)の寄進は秋山氏の可能性もあります。城館は此の神社の背後の丘陵頂部にあります。
高尾山最高地点東方Ca440m長い平坦地形と井戸跡?

(U)天正3年(1575)信長”丹波攻略”命による光秀の 黒井城攻めを防ぎ堪えてきたが、大軍を率いる光秀軍に追い詰められる劣勢の最中 ・天正6年(1578)には黒井城主・赤井直正が病死し、弟の三尾城主赤井幸家が軍代として黒井城に入っています。三尾の城には城代に柳田左衛門尉や部将に玉置三郎兵衛等が留守部隊として拠っていたと思われるが天正7年東には遂に明け渡されて燃える三尾山城を、北方には水源を断たれ”風前の灯火”となった 黒井の保月城を望んでいよいよ最期と・・・!
妙高山南山麓の丘陵に尉ヶ腰・柚津の諸城がある

高尾城主 ・秋山修理太夫は長男左京太夫(幼名・多聞丸)や弟・右京太夫他、僅かに残る秋山家の一族30数名を城の庭に集めます。今日までの忠勤に改めて令を述べ「武士の道として降伏は死すともなお偲び難いと思うが、 妻子の為に・・・最早われ等の生きる世は過ぎた・命を惜しめ。皆はもう武士は止せ・百姓をして暮らせ」「余の白髪首を獲って差し出せば、 その方等の一命助かる事は必定・・・栗柄方面の敵将・加藤長光に届けよ…命を粗末にするな…」と静かに立ち上がり小兵の一人を介錯に呼び、裏木戸の方へ立ち去っていった。
長谷山から茶臼山城・黒井城 ・小富士城遠望

一陣の谷風が高尾の砦に吹き上がってくる・時に天正7年 8月19日夕暮れ時だったといわれるのですが果たして!…落城は永禄年間か ・天正年間なのか?、高
尾城(高雄城)から南へ下る長谷谷中腹に秋山氏の菩提寺今寺(!旧流泉寺)がありました。現在は進修小学校北側の集落中央の国領城(三尾山城主赤井幸家の下屋敷)に移されています。なを長谷大池周辺の 改修工事の際に墓石が発見され、鷹尾城主秋山氏のものして長谷谷の秋山姓の人達により一党墓地の最奥に祀られ、高雄城主秋山氏の名が刻まれていると聞いています(未確認)。
(由緒を尋ねて 丹波新聞社版 を参考)


国領城
 xxxx  春日町国領

R175線の春日インターから県道69号(春日栗柄線)に入り野村城の側を通り舞鶴自動車道の高架を潜り 三尾山城の特異な山容を望みながら荻野館 の側を抜け岩戸神社城館や国領温泉への分岐を分けると国領集落の中央部に位置する流泉寺が国領城。由緒ありげな堂々の門構えの旧家や宿場町風の民家や 商家の家並の続く狭い車道沿いにあります。
流泉寺(国領城)

寺近くには道を挟んで 両脇に一際立派な屋敷が目に付くのが足立家(東足立家と中足立家)で、望楼の様な一部三階建てのお屋敷が中足立家。当地区の大地主:本足立家は第47代総理大臣:芦田均 氏の親戚にあたり、芦田氏は此処から今の柏原高等学校に通う為下宿されていました。県道沿いからは春日町農業環境改善センタ・進修小学校の北方のあり、 小学校北の正門?前の国領川を渡れば直ぐ集落内の流泉寺。其の並び奥に西現寺が有って北に数10mには竹田川が流れており旧巡礼道でもありました。
流泉寺側の土塁と民家の間にある空堀

竹田川を挟んで対岸に尉ヶ腰城と柚津城が流泉寺境内からも望めます。 国領城は光秀が丹波攻めの際・八上城と黒井城攻略の拠点として築いた金山城のある鐘ヶ坂から瓶割り峠を越えて長谷へ下るが、長谷から流れ出る国領川が 南北に進修小学校から国領集落を抜けて竹田川に注ぎ込み谷中分水界・栗柄峠からは東西に竹田川が北面を流れ天然の外濠を形成する両河川の内側 ・国領集落内の中央部にあって東西の通じる県道端に南を正面とする平城です。高尾城(長谷城)主:秋山修理大夫の菩提寺(国領温泉のある長谷地区・長谷山山腹)だった。天文年中(1532‐55)黒井城主荻野秋清勢力下の在った土豪秋山氏は、細川晴国方の八上城主波多野晴通の領内侵攻に、なんの手立てもせず高尾城の家臣:秋山氏が討たれるのを傍観:救援しなかった…落城悲話が伝わる。
L字状高土塁のコーナー部に祀られる幸家の墓碑

家臣の多くが秋清への不平・不満を つのらせたていたことは後朝日城主荻野(赤井)直正により刺殺されると、賛同と歓迎で黒井城主に迎えられたと推察されます。この赤井悪右衛門直正の次弟三尾山城主赤井刑部(少輔悪七郎)幸家の下屋敷として創築されたと云われる城館国領城があり、字名に城の内・馬橋坪の名が残る 。明智光秀の「丹波攻め」第二次侵攻時の天正7年(1579)黒井城落城の後・翌9月22日に落城したといわれます。延宝2年(1674)西長谷(長谷山腹)に在っ た長谷山流泉寺(曹洞宗)が此処に移築され、現在は其の全てが寺域になっています。
流泉寺境内から幸家墓碑(中央)と鷹尾山(高尾城)を望む

遺構としては南を正面とした平城で東西33m・南北約 65mの城域の南および西面に高さ約3m・幅約5mの土塁がL字型に残り、土塁の西側には幅約8m・深さ約3mの空堀跡が民家に接して残存し、 北側に拡がる田圃との間の溝に落ち込んでいる。(平成14年:民家敷地跡は浅く残っていた南端堀跡も整地され中程から北への部分が遺る)城域は竹田川を外濠・此の溝を内濠として現・流泉寺を中心として東西にも少し広かった様に思えます。小字に”城の内”の名が有り此の一帯が城域です。流泉寺の石垣と右にある竹薮の間が堀切ですが、 西に続く民家と西現寺付近にも2-3m程の土塁跡らしい土盛が鬱蒼とした藪の隅に見えるようです?。
国領城:民家間の堀跡

明治の初め頃までは南の道に沿っても 堀があったともいわれ、付近に「馬橋の坪」・「市場の坪」等の地名が残ります。山門の正面に稲荷社が祀られ庫裏・本堂のある西面に土塁が延び、其の一角 (L字状 高土塁を背に歴代住職の卵塔が並ぶ 南西コーナー)に法名:孤舶釣月の墓碑がある。慶長年間に建立の赤井刑部幸家の菩提を弔う 墓石が建てられ戒名「理性院孤舶釣月大居士」と俗名「赤井刑部」が刻まれています。
流泉寺側は堀+土塁で切岸は更に高くなる


赤井刑部幸家は三尾山城落城で、四国へ逃れ年を経てこの地に戻り逗留したよう様ですが、栗柄峠を越えた篠山市西紀町の弘誓寺(幸家が建立した)に祀られている。高雄山の流泉寺を此の赤井幸家の下屋敷跡に移した際・幸家を寺の開基として 墓碑ではなく墓石として此処に幸家が祀られています。墓が流泉寺にあっても、弘誓寺であっても内室の墓が柚津城の西方・鹿場(かんば)の田の中に有るという。そういえば黒井城主・赤井直正の内室も春日小富士山の近くに祀られると言う。 一緒にお祀りしてあげれば良いのにネ・・・?
(春日町の文化財、 兵庫県の中世城館・荘園遺跡 教育委員会を参考)
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