柏原藩織田家城下町譲葉山~高杖山~獅子山・入船山~藤ノ目-高八山~清水山
新町高燈籠~譲葉山~高杖山~獅子山~見長 2002年02月02日
木の根橋~入船山~清水山~柏原中学校 2002年02月04日
柏原藩陣屋~大内山~譲葉山~大安寺跡 2008年10月05日

秋の柏原八幡社

近畿の山城 柏原藩陣屋 八幡山城 奥村城 大部谷城 新町城
円成寺館/円成寺城 円成寺上城(獅子山城 柏原藩織田家廟所
穴地蔵尊 織田信勝の宝筐印塔と織田神社/建勲神社
校歌・故郷の山:♪大内山の色映えて…入り船の…♪崇広小学校
         ♪陽はおどる清水山の空はるか…♪ 柏原中学校
柏原町の背に大きな山容の譲葉山から南へ高度を下げながらも二つのピークを見せる枝尾根と八幡神社の三重塔の先に丸く突き上げる高八山を経て 反射板のある清水山から譲葉山への尾根コースがある。
柏原藩織田家陣屋・表御殿の檜皮葺替え工事H18.5.20

譲葉山コースは一般登山道として柏原高校グラウンド横から奥村川沿いに大安寺跡(観音堂が建つ)を辿る案内板もある整備されたハイキング道があり木の根橋・八幡神社下駐車場から出発…先ず柏原駅正面石田通りの太鼓櫓「つつじ太鼓」から 登城・時報・警報・
柏原藩織田家陣屋・長屋門

参勤交代で藩主の帰藩時などに打ち鳴らされていた。石田の商店街を抜けると昭和初期の洋風町役場と隣には奥村川を跨ぐ木の根橋があり武家屋敷が残っていれば良い感じ。広い真直ぐの道は柏原藩陣屋の長屋門前に出ると織田藩や田捨女関連資料を揃える歴史民俗資料館があり柏原の観光メインロード。
下小倉・獅子山(右)の真下に円成寺と円成寺城(左丘陵)を遠望

南に進むと176号線に出て大阪花博「山の駅」を移築したJR柏原駅のメルヘンチックな駅舎も間近で其処から旧街道を登山口の 新町高燈籠:難波金兵衛作の建つ国道側近くへ向かう。


高燈籠~譲葉山~高杖山~獅子山~見長 H14.02.02

R176号線柏原新町交差点近く:難波金兵衛の高燈籠横の細い車道を東に向うと見長川沿い集落を抜ける。右手上方に立ち枯木のある禿っぽい!!獅子山が展望も良さそうで 楽しみだが車道が山裾を離れていくので登路を見つけるのが厄介。猪除フェンスが続き最奥の民家横・神社の前迄からは未舗装の林道が続き「熊出没・注意」の標が少し気になる。既に獅子山への北側からの取付は分からないまま通り過ぎた様?。
木の根橋(天然記念物・柏原町の代表的名木)

林道を詰めて直接譲葉山へ先行し獅子山へは尾根筋を降って行く事に計画変更。大きな貯水池益水池の脇から振り返ると高見城山~石戸山白山・遠く篠ヶ峰の稜線が 青く霞んで見える。林道の終点から突然道も消えるが藪中に細い踏み跡が続く。雑木藪の中を抜けると谷沿いに明確な道が現われ忠実に進む道は譲葉山頂近くにある旧電電公社見長反射板への巡視路だったよう。しかし谷も枯れてくると崩壊で分断され倒木で踏み跡もだんだんとあやしくなってくるが稜線は真近です。
新町・初代難波金兵衛の高燈籠は柏原のシンボル

大安寺跡(観音堂)からの登山道へ出てくると明るい尾根コース左手に露岩が目立つ。その岩頭に立つと向山から清水山や岩尾のピーク~譲葉山への稜線が望まれる。元の明るい雑木尾根を辿り見長反射板跡地556mの台地に出ると僅かに展望も開け此れより水平道となり2分程で薄暗く展望もない権現堂の建つ譲葉山頂594mに着く。瓦片が辺りに散らばりお堂内外は落書きで一杯。権現堂正面の平坦な広い尾根を北に辿れば岩尾の三角点を経て硅石山(清水山への分岐点)~向山への縦走路は踏み跡程度・荒れた尾根は倒木も多く
譲葉山頂の譲葉権現堂

南へ降る枝尾根を見つけるのは難しいかも…幸いお堂の直ぐ西下方に赤い境界ポールを見つけ踏み跡もある急斜面を下る。傾斜が緩やかになると尾根筋を歩いていることが確認でき西面が明るく開け篠ヶ峰・高見城山・白山は勿論南方には天然の要害となっている北壁:鬼の架け橋や千尋の渓岩群が山城の険しさを見せる金山-馬頭-高山への柏原町・山南町界尾根ピークが低山ながら
円成寺南前には方形居館跡の削平地と堀跡が残る

目立ちそそり立って見える。尾根筋の境界ポールは西へ進み上小倉のR176号線へ降っていく。北へ向う藪っぽい尾根の前方に城山のような台形の高杖山が待つ。尾根に沿う踏跡には鹿除けネットが延びていて何度も左右にネットを跨ぎ藪尾根を迂回し倒木を避けながら境界ポール柏原町境界標を捜して進む。
譲葉山の南枝尾根の分岐から高杖山

緩やかな起伏の続く植林帯の中の高杖山420mに展望はないが譲葉山・金山-馬頭辺りの山容が雑木の間に黒い陰をのぞかせている。高度を落としながらも尾根の末端のピークに着くと明るい広場のようで柏原町全景を俯瞰出来るが西北と南面は期待していたが僅かに雑木藪が邪魔して楽しみ半減。此処が獅子山
譲権現3等348m。南山裾:円成寺への下降点はなさそう!?。
円成寺の背後には露岩を覗かせる獅子山を遠望

北側の尾根筋も鬱蒼とした藪が続き踏跡も見えない。西へ僅かに続く踏跡も先は急斜面になり同様に見当たらない。薄い藪を抜ければ杉の植林帯になり滑るように下り続ける。水の流れもない谷筋に踏み跡が現われ短い杣道は直ぐに猪除けトタンとネットが延々と続くゲートに突き当たりる。
点名:譲権現348mからの譲葉山

外側に壊れかけた廃屋がありネットを潜り猪垣を跨ぎ外へ出ると見長集落に出たが此処にも山への入口に「熊出没・注意」の標があり集落を抜けるとR126号線沿道のスタンドや大連飯店前へ出る町道でゲートから約5分でR126号線近くの 大師像が彫られた八十八ヶ所石碑と地蔵堂前に着く。


木の根橋~入船山(柏原八幡)~高八山~清水山
H14.02.04
登山口は観光案内所や昭和初期の洋風の町役場・奥村川を跨ぐ木の根橋。八幡神社「柏原の厄除さん」は三たん(丹波・但馬・丹後)一の大祭、宵宮の深夜に行われる本儀の「青山祭壇の儀」は青柴垣に神の降臨を迎えて行う秘儀日本最古の厄除神事といわれる。
清水山(左)・高八山(中央)・譲葉山(右)・入船山(右端の塔)

神馬が迎える鳥居を潜り石段参道を登ってゆくと三重塔の入船山八幡神社の境内。三重塔背後の道を下リた大堀切から宅地!!の庭木側を抜けると山道が尾根に沿って続く。三重塔裏の大堀切から尾根筋左右に曲輪跡を遺す
柏原大神宮絵馬:奥谷川を濠とした藩陣屋や木の根橋

八幡山城だがご存知の方は少ない。八幡山城は西山裾を田ステ女公園裏の丘陵部も取込む範囲も城域かと思えるが城砦としては未調査かも知れない。直ぐ上水道施設は西面に展望が拡がるが点名:藤ノ目(4等)付近まで展望のない雑木の尾根を辿る。此れより辿る清水山へは向山・譲葉山・鳳翔寺へのハイキングコースが
八幡山城の櫓台と堀切

整備されていたが利用するハイカーも殆どなく荒れるに任せる状態で高八山の北尾根一部や清水山直下の露岩辺りは踏み跡も明確でない。尾根の途中にあらわれる石塔は国威宣揚塔で中部防衛司令官・谷中将書:昭和13年7月氷上郡聯合青年団長だった県会議員生田克巳による建立の記念碑。傾斜を増し雑木に延びる踏跡が
清水山から柏原町と丹波の森公苑(正面)

少し緩むと尾根上に赤白ポールも斜めになった藤ノ目(4等 243m)がある。譲葉山や背後に柏原町が見下ろせる箇所へ出ると程なく赤っぽい小石が散乱している台地状高八山山頂330m。山頂より北へ辿る尾根道は途切れるが少し進むと正面上部には清水山の反射板が輝いて見える。露岩が目立ってきて岩場を避けて巻き上がる道の先にも露岩が現れその端に反射板が見える。
JR柏原駅

清水山から少し先・向山への尾根分岐には硅石山があり周辺に露天掘りの跡が 随所に残りフエンス沿いに登り詰めると反射板のある清水山542mから向山へ縦走し柏原八幡と鳳翔寺へ下る三叉分岐となり鳳翔寺ルートは急斜面ながら明確な山道です。
柏原藩陣屋(長屋門から書院)

鞍部まで下ってくると突然山道も消え?踏み跡さえ薄くなるが最近整備され鳳翔寺や明願寺への分岐に案内標も設置された。谷沿いに南への枝尾根を辿り杣道を通り貯水池端の林道に降り立つと南多田上の集落・大歳神社の横。



柏原藩陣屋~大内山~譲葉山~大安寺跡~東奥古墳群
 H20.10.05

目立つ山容ながら展望のない植林帯の薄暗い道が山頂まで続く為か譲葉山だけを目的の 登山者は少ないが柏原町側からのコースは 山裾に遺跡史跡があり此等を訪ねての山旅なら遜色なく楽しめる。天正年間氷上城主波多野宗長?・宗貞父子が陣を構えたが羽柴秀長軍の攻撃に落城。光秀は此処を本陣として城を築き?丹波攻めの拠点を金山城から八幡山城?に移します。
木の根橋・観光協会ら八幡宮の杜を望む

柏原八幡神社・観光センタ:天然記念物:木の根橋から太鼓橋を渡り東への細い車道は織田家家紋瓦屋根を持つ白壁塀の柏原高校正門前終点!。譲羽山へは此処から東奥集落へと重厚な古民家や柏原藩織田家廟所を過ぎ奥村城東奥古墳群近くで奥村川を渡り案内標識に記される大安寺跡を経て名ばかりの展望台556mの少し手前の 山道からなら僅かに展望もあるが旧電々公社無線中継所見長反射板施設の跡地】の尾根に乗り
武家屋敷!!の疎水沿い土塀(重文クラス?案内説明文が欲しい)

やがて人気もなく暗くて、だだっ広い植林の中に閑散として殺風景な譲葉権現堂の建つ山頂に着くのが一般的なコース。帰路を清水山経由とする別ルートも無理のないところだが、もっと短絡なのが東奥・大安寺跡ルートとの分岐:大谷坂から続く西尾根ルートで此方も数少ない展望が露岩上から得られる場所もある。
【柏原藩織田家陣屋隣の崇広小学校裏山の大内山(丘陵斜面は長い滑り台や遊び場で校歌に謳われる・放送受信施設!?の有る最高所)に着く。鹿猪避けフエンスを開閉して出た所からは学校グラウンド内へ降る道?。
展望台?通信施設の反射板跡

案内標識等はないが更に西へ緩やかな尾根か尾根南側下方へ向う 踏み跡を辿れば、どちらからも墓地に降り立つ】
176号線JR柏原駅方面に向って崇広小学校・保育所を過ぎると「社団法人柏原納税協会」の角左折・車幅の狭い通りを丘陵端に向うと 突当り正面に墓地に向う階段が登山口。丘陵から南端へ突出す尾根先には新町城がある。数段ある墓所の再奥から尾根上に出ると崇広小学校の自然と冒険の校庭ともなっている大内山。学校側へ下って行きそうな尾根を・更に遮断する
西北角切岸・土塁・切岸から譲葉権現堂

鹿猪避けフエンスを開閉しアンテナ塔が建つ大内山ピークまで単純な長い尾根歩きが続く。荒れて急斜な部分もあり倒木で歩き辛い所もあるが道は明確。植林帯を一時抜出て明るい露岩部に出ると 高見城~穂壷城へと柏原川沿いや萱刈坂を越え加古川沿いR175号に向う平野部が望めるが暗い樹林帯の中の山道を辿るだけ。途中で東奥・大安寺跡への分岐路に出て変化の乏しい山道を譲葉山594m山頂の権現堂に向うだけ。譲葉権現は新郷・白山権現、青垣町の熊野権現)の旧氷上郡三権現。仏の神への権化…熊野三所の権現を祭神として
東奥古墳群の一つ

祀ったものなら其々に本地仏として千手観音・薬師如来・阿弥陀如来が祀られるが堂内裏の祭壇に紙札も納める箱も既にない。譲葉山を越えれば春日町長谷大池・国領温泉へ通じ長谷城や岩戸神社城館・河津館・東中城・荻野館・国領城さらには城ヶ腰城・柚津城等黒井城砦群や城館が落城後は明智の付城となったと思われる城が点在。東奥にも奥村城がある。東奥には平安時代後期八幡神社神宮寺として創建され大安寺跡があり周辺に残る高い切岸を持つ平坦地の数や広さから相当大規模寺院であったと推測できる。
大安寺跡に建つ観音堂

観音堂北の削平段端に大安寺古墳群(東奥古墳群)の6号墳・天井石等が残存する。天正3年(1575)に始まった「丹波平定」明智光秀軍の兵乱により焼失・そのまま廃寺となった様だが正徳2年(1712)跡地の一角に観音堂が建てられた。堂内に藤原時代(鎌倉時代)作風を示す木彫漆箔造りの十一面観音菩薩像が安置され柏原町指定(昭和41年)文化財となっている。観音堂前の石燈籠(寛政7年1791)のもの・後期織田家4代藩主:信憑(のぶより)の寄進によるものだろうか!?。

柏原陣屋(柏原城)八幡山城 奥村城(東奥城)
円成寺館と円成寺城 円成寺上城(獅子山城
大部谷城 新町城
柏原藩織田家廟所

柏原藩陣屋と長屋門について兵庫県氷上郡柏原町柏原

柏原藩祖織田上野介信包は織田信長の4人目?の弟で伊賀上野城主、永禄11年(1568)21歳のとき伊勢の長野氏養子となり伊勢国津城主となり従三位左近衛中将に任ぜられ豊臣秀吉より慶長3年(1598)6月丹波(氷上・天田・何鹿)三郡36,000石を与えられ丹波柏原に国替えで移ったのが柏原藩の始まりで丹波市唯一の城下町ともいえる。

柏原藩陣屋の長屋門(尚徳門・崇広門)

…といっても自分の屋敷も建てられず郷士の館に仮住まいが長らく続く。丹波柏原藩は慶長年間入封した信包から三代:信勝が死去し後継が無かった事から領地は没収され前期織田家は断絶するが秀吉没後の慶安3年(1650)には徳川の天下となり幕府領となった。以後45年間の幕府直轄(天領)時期を挟んで後期織田家が藩政を行ってきた。前期は織田信長の弟・信包が観光パンフ等のキャラクタにみる兄:信長のイメージとは逆に物静かで落ち着いた人だったが小谷城(滋賀県)攻めに参戦城主浅井長政に嫁いでいた妹お市の方と 三人の娘「茶々・初・江」を保護している。
柏原藩陣屋

長屋門と表御殿の遺構を残しているのは後期・信休が造営した柏原藩陣屋です。元禄8年(1695)に大和国松山藩(奈良県宇陀市)から国替えで入封した織田信休が正徳4年(1714)織田氏10代2万石【宇陀騒動とよばれる 織田家内紛を起こし減封されての国替】の政庁として造営されたもので桧皮葺きの唐破風と千鳥破風を備えた玄関と桟瓦葺き寄棟造りの殿舎は 再建当時のもの。表御殿玄関正面にあって重厚・荘厳差を惹きたてるカイヅカイブキと
柏原藩陣屋の模型:裏面から・長屋門・書院は上方

裏庭に植えられた松だが建造物に近い為・其の根が基礎を持ち上げ建物に悪影響を与えているとして松は伐採・カイヅカイブキも伐採か移転か其の採決を市民に問いかけたが明治期・小学校に 転用された頃植えられたもので遺構とは関係ないが陣屋跡とは一対のものとして長年親しまれてきた愛着を簡単に切裂く事もできない。藩の政務を行った御用所や今残る表御殿は儀式の場として藩主の執務や日常生活の場となる中御殿・ 奥御殿等、今は部分更地や小学校・大手会館を含む広い敷地内にあって長屋門と道を隔てた向いの歴史民俗資料館に其のスケールを示す模型が 展示されています。
柏原藩陣屋の書院(表御殿)檜皮葺替え工事(H18.2・18)
 
玄関を飾るカイヅカイブキも今のままでは建物に悪影響を与える様ですが伐採は避け敷地内に移転措置して欲しいもの。しかし整備計画のなかに庭園や築地塀や白壁の長塀等・往時の一部再現が含まれていれば景観よりも復元が優先。秀吉没後・徳川政権下へ移り篠山城築城助役を命じられ慶長19年(1615)大阪城で72才の生涯を終えた。2代代目信則(信包の三男)は寛永7年(1630)参勤交代で江戸に赴いた時32歳で没し三代信勝(信則の子)は慶安3年(1650)29歳で他界するが後継ぎなく柏原藩前期織田家は信包~信勝まで三代で領地は没収され廃絶し以後46年間は
柏原藩陣屋の書院(表御殿)檜皮葺替え工事(H18.2・18現在)

幕府直轄(天領)となっていた。信長の次男・織田信雄の五男信友が後期織田家・柏原初代藩主となった。その後柏原藩主として後期織田家が入封されてきます。信長の二人目の子信雄の四代目の孫織田近江守信休で元禄8年(1695)宇多騒動(父の信武が二人の老臣田中・生駒を手打ちにし事件が江戸幕府に聞こえ明確な説明ができないまま自殺により幕府の怒りをかい家禄を20,000石に減封されての国替で和宇陀郡松山城から柏原に転封された。京都防火役・大仏建立の助役・大和川改修…等の相次ぐ出費で財政難が続いていたが移封後19年ようやく幕府から藩邸建築の許可を得て
少しずつズラせて重ねた檜皮固めに竹クギを打つ(平葺き)


正徳3年(1713)造営・翌年に完成。藩主織田信休が仮御殿としていた亀屋(田)忠助の屋敷から移ったのが別名!!柏原城【実際は陣屋跡】です。後期柏原藩4代目信憑(のぶより)の代・文化13年(1816文政元年1818か!)全焼したが長屋門は焼失を免れ創建当時のまま桧皮葺唐破風と千鳥破風の正面玄関部分も保存されており文政3年頃に再建された柏原藩陣屋跡は近世陣屋遺構として全国にも数少ない貴重なものとして昭和45年(1970)3月現存する表御殿と長屋門(小学校通用門として
表御殿玄関・唐破風の檜皮葺き H18.5..20

尚徳門・崇広門とも呼ばれていた)周辺を 国の史跡に指定された。明治4年(1871)の廃藩置県(廃城令)で織田藩は消えましたが現在・崇広小学校(新校舎に移るまでは学校の通用門で崇広門とも呼んでいた崇徳門)にある柏原藩陣屋長屋門は正徳年間(1911-15)の貴重な建造物で昭和46年国史跡に指定された。屋根の改修工事は昭和48年桟瓦と檜皮の葺替えが行なわれたが茶室等に使用される杉皮は数年しか持たず檜皮で40年程といわれる。
柏原藩陣屋内の書院の間

檜皮採取皮剥ぎは専門の原皮師により外皮を剥ぐが4~6月の生育時は作業せず見学の此の日(5月20日)原皮師の方は皮切り(剥ぎ取り一定の長さで持ち込まれた檜皮材料の整形)を実演されていた。特殊な檜皮包丁を使って葺く用途別に選別しながら厚みを揃える洗い・綴じ(幅や寸足らずの場合、裂いた檜皮を寄せて特殊包丁の突き出た先端で叩くとホチキスで止めた様に重なるが手で簡単に外せます)等の工程で材料を加工していきます。
柏原藩陣屋の書院

葺替え工事は勿論・伝統と経験の地元丹波の檜皮師。御殿建築が旧地にそのまま残るのは川越・掛川・高知と此処の柏原だけ。しかも藩陣屋の御殿としては 全国唯一だそうです。長屋門を入ると正面玄関横に立つ捨女像が江戸期・元禄の四俳女として知られた田ステ女。二宮尊徳像は撤去?ステ女像は町歴史民俗資料館北隣りの小公園に移設された。
(ひようごの城紀行 神戸新聞総合出版センタ を参照)


柏原八幡神社・八幡山城(加伊原新城)・高八山城 入船山(140m) 高八山 330m 柏原町柏原

柏原川沿い小南山やR176号多田バイパス道からは八幡社の杜:入船山頂の三重塔が望まれる。男山石清水八幡宮(京都府八幡市)の丹波別宮として 万寿元年(1024)創建された柏原八幡神社「主祭神に誉田別命(応神天皇)・息長足姫命(神巧皇后)・
柏原八幡神社

姫三柱之命(宗像三女神?)を祀る」の参道沿いには門前町が形成され柏原の町並み原型ができた。朽木史郎「丹波の城(昭和63年)」に荻野安芸守?が足利氏に抗戦し築いた八幡山砦があった!!」という?。荻野尾張守朝忠なら同時期?弘浪山の高山寺を城郭化し南朝方として足利尊氏に抗した高山寺城なら知られるところ?。八幡山城は「兵庫県の中世城館・荘園遺跡(県教育委員会 昭和57年)」には曲輪堀切遺構確認で城郭周知されているが南北朝の戦乱に貞和元年(興国6 1345)で焼失:神仏習合(神仏混淆)の聖地として三重塔は応仁元年(1467)の
縁の下の力持(三重の塔)

創建を伝えるので柏原八幡から離れた神宮寺:大安寺の古寺社を八幡社の塔背後の尾根や 平地に移されたか!?:天正期に西波多野の霧山城波多野宗長?・宗貞父子が 陣を構え・二万の大軍で攻め寄せる羽柴秀長勢に敗れ落城・その際:八幡社を焼失したというが?…定説!?では天正6年(1578)明智光秀が金山城を築き”丹波攻略”の拠点としたが氷上郡侵攻の前線基地として柏原八幡宮の社殿や
三重の塔北鞍部の大堀切(東下から)

付属の建築物を焼き払い其の跡に城砦を築いたのが八幡山城とされる。寺社の焼討ちは侵攻勢力の常套手段?で光秀は天正6年冬城砦を築き、尾根にも新しく臨戦態勢の城郭を築いたとされるが天正7年(1579)6月のこととも…。三重の塔へ向う石段左手にある鐘楼には康応元年(1389)と天文12年(1543)の二つの年号が刻まれた鐘がある。
三重の塔北鞍部の大堀切 <

康応元年銘は弘浪山山頂にあった高山寺に納める為に鋳造されたが秀吉が大砲に鋳なおす為に集めたものの一つだが県指定重要文化財。三重の塔は応仁年間(146-69)に 建立されたと伝えられる塔で戦乱や再建後の落雷等で焼失しているが いずれにしても山上の神域の曲輪遺構等を改修し再建・再興され城砦となった記録はなさそう?。
大堀切は堀底道!:堀沿い2段目曲輪

黒井城最終攻略には黒井城正面に茶臼山城を本陣に朝日城火山城惣山城・棚原城愛宕山砦・平松砦…が左右横並びに布陣し八幡山城が加伊原新城なら距離もあり後衛過ぎ天正7年8月黒井城落城後なら付城は不用。柏原城を横田城か石生西河原城に推定: 殊に石生西河原城を充てれば縄張りが特異の石生西河原城が妻木主計範資の石負砦(駐屯地・本陣)。
八幡山城・尾根沿い東曲輪の切岸と広い帯曲輪

しかも四ノ嶽城は朝日城後の丘陵上から本拠を、横田城を挟む滝山砦(二ノ山)は春日盆地南入口から黒井城へ侵攻の狭間要所監視位置にある。黒井城攻略拠点の後方に位置する光秀の”加伊原新城”普請中の陣中見舞に京都吉田神社の宮司:吉田兼見が天正7年10月に訪れた(兼見卿記)とするには…
八幡山城・櫓台状曲輪と東西の曲輪を結ぶ堀切通路!

光秀の戦後の築城:加伊原新城が八幡山城の一部と思われ光秀が山を下りて会ったのは五社稲荷・大歳神社付近か?。当時は麓の厳島神社(弁天社)一帯は池か沼地だった?。天正7年丹波を平定して役目を終えていた為…加伊原新城は戦後処理と柏原を中心とした統治で町内の商家・寺社・門前町を取込み”町割り”を実践…。金山城は天正6年9月築城だが西の毛利を意識したものか?・摂津(大阪)への進出基地?として其の後も 加伊原新城で不要となった建材等を運び込み築造拡幅が進められていた。
八幡山城・尾根沿い東曲輪の切岸と帯曲輪・更に東下方にも平坦地

近年まで入船山の八幡山城が突然:光秀本陣”柏原城=八幡山城?”とされると加伊原新城の位置が推定できず疑問も残る…が譲葉山の城砦群が柏原城なら…と。柏原八幡神社神宮寺は東奥の大安寺だが此処を登山口とする譲葉山山上には光秀の陣城(譲葉山城東郭・西郭/譲葉山西城/東奥・見長城)があり 金山城に続き天正6年後半には篠山市の夏栗山砦に代わり三尾城や国領越え・黒井城の監視砦として築いたものか!?。
給水施設裏の虎口を抜けた曲輪と 次の土塁付き曲輪

高見城(赤井五郎(忠家)と柏原の明智勢の戦闘八幡社の西正面:柏原川を挟んで小南山城西麓の旧街道恩鳥坂で戦いがあった。明智勢の動向は金水寺城(仮称)からの篠山街道監視や小南山城には八上城包囲先に落城した諸城主ら(例えば嘗て衰退しているが小倉庄領主:久下氏と繋がりのある大山城の中澤氏?)が籠っていた。八上城と黒井城の連携を阻止する金山城築城最中!?(天正6年?)の金山城から撃って出て高見城に向かう
八幡山城・尾根筋の櫓台状と南曲輪前後を堀切で遮断…!!

明智勢を恩鳥峠の狭間で包囲し襲いかかったものか。明智勢を迎え撃つ高見城・穂壷城や小南山城・下小倉の金水寺城から出撃し包囲したものか?丹波勢が圧勝・両軍戦死者を弔う 室谷の地蔵堂・西には茶臼山砦がある。しかし直ぐに此れ等:丹波の城砦を付城として取込み改修:高見城の赤井五郎(忠家)が光秀本陣?の八幡山城?(柏原砦?)を急襲の際に譲葉山城塞群から八幡山麓に下りて待伏せする明智勢の反撃に敗退した…!?ものか。天正7年8月には明智軍の黒井城総攻撃赤井五郎は僅かな留守兵を残して
櫓台前後の曲輪東面は高い切岸下に堀切?を挟む二段曲輪

黒井城に入った為、その虚を衝いた細川藤孝・藤田伝吾・四方田(四王天)政孝(本能寺の変に森蘭丸を討ったと云われる)らの攻撃に落城。茶臼山砦に「諭しの山」伝承もあり八幡山城の至近距離にある小南山城・金水寺城も僅かな期間乍ら付城となっていたか?。八幡山城は近年になって県遺跡調査書に城認定!?されたが名こそ不明だが在地土豪が八幡山(入船山)背後の鞍部から高八山への稜上に築いた城砦群が高八山城(仮称)。八幡山城(柏原城?)の現状遺構からは
給水施設(上方右手)裏の虎口を抜けた曲輪と次の土塁付き曲輪

黒井城落城後の光秀の陣”加伊原新城”(確定されていないが記述している前後;諸般の事情!?から)なので其の一部分と思われるが位置等不詳なので築城時期等城史不明ながら八幡山城としてのレポートです。柏原八幡神社三重塔北背後の八幡山城(加伊原新城・柏原城?)鞍部堀切から 尾根筋を配水施設がある付近までを連郭式の八幡山城とされるようなので先ずは此処までを。八幡社の社殿と三重塔の北斜面直下の鞍部内側は西からの大きな堀切道!?・東側への堀切沿いに2段ばかりの広い曲輪と更に下方にも削平段があり防備も不用の高い崖となり落込み裾を奥村川流れる。堀切は東西曲輪を繋ぐ堀切道。
”国威宣揚”の石碑の建つ平坦段(3段程の曲輪)

堀切外(尾根続き)に茅葺民家?と畑地や庭の拡がる一角(建物は社務所や 宮司関係宅地だったか?現在更地・畑や果樹園も荒廃し雑木のなか)が主郭?(周囲を厳重に警護された居館?)と思える。畑地跡を北へ抜けると堀切があり尾上東側には1.5m~2m程の切岸を持つ櫓台曲輪含み3段程続き櫓台状の曲輪から降る通路の様な堀切は高い切岸をもって一段下の広い帯曲輪に降りるが更に其の西下段に帯曲輪がある。
急斜面尾根筋西面には何条も竪堀状が(右手下へ)点在する…

尾根筋の櫓台曲輪の根西側にも3-5?程の段曲輪があるが裏参道側なので 神社や神宮寺関連施設跡かも…。城遺構が一番顕著に残されているところですが其のスケールの大きさにも驚かされる。尾根に沿って 緩やかに斜上する削平地は貯水施設に行きあたるが此処からは西方に僅か展望が開ける。施設の整地や崩れから削平地らしい遺構が連郭式に延びている?。
4等三角点[藤ノ目]243m

配水施設裏の段差右手が虎口?・広い曲輪二段ほど先に低土塁残欠?・眺望も効かない広い尾根筋に”国威宣揚”の石塔が現われる。中部防衛司令官・谷中将書:昭和13年7月氷上郡聯合の青年団長だった県会議員生田克巳氏建立の記念碑前後も2-3段の曲輪跡!?。
高八山城へ傾斜増す雑木の尾根筋は西面に竪堀状多く見掛け…緩斜面になると広い曲輪段の中程に
4等三角点「藤ノ目」:広い台地(画面中央上に点標柱)

三角点標柱が埋まる4等三角点藤ノ目243mは物見台か高八山城副郭!。更に辿ると譲葉山や柏原町街を見下ろせる狭いが台地状の高八山330mが城域最高所の高八山城主郭。尾根続きに切岸土壇の曲輪・土橋付き堀切を下り登り返すと反射板が見える清水山への登山ルート。此れよりは登山コースを外すと岩場に出て迂回するか?反転する?ことになるが向山連山の清水山545m(反射電波塔)に至る。
高八山山頂の主郭南東切岸

高八山330mの東麓:東奥集落”藤の目古墳群”奥に子安観音を祀る小祠が常源寺跡だが高八山への直登コースはなさそう。西の多田からは杣道もあるが南尾根を辿るのが本道のよう。高八山とは"柏原八幡城上の山"の意味に思える!!。尚:清水山の北方山裾に妻木主計の石負砦か西河原城が西尾根先端部には浄福寺砦(仮称)がある。鳳翔寺門前を経て西河原城への玄関口や現:水分れ公園口から歌道(うとう)谷の黒井盆地西南玄関口への通行監視を兼ねたものか?
高八山城主郭背後の土橋付き堀切

旧千日寺跡の ステ女公園」または八幡神社裏参道から「高谷忠魂殿」へ向かう山道があるが此の通りの直ぐ上部にも広い曲輪があり神宮寺か神社関連と思える。高谷公園も単に慰霊地として整地された場所ではあるが嘗て砦跡ではなかったか…? 高八山城や小南山城・金水寺城も山城の歴史・調査を期待したい。八幡神社三重の塔へ向う石段左手にある鐘楼に康応元年(1389)と 天文12年(1543)の二つの年号が刻まれた鐘があり、康応元年銘は弘浪山山頂にあった高山寺に納める為に鋳造され秀吉が大砲に鋳なおす為に集めたものの一つだが県指定重要文化財です。三重の塔は応仁年間(1467~69)に建立されたと伝えられるが 戦乱や再建後の落雷等で焼失、天正10年には光秀家臣:斉藤利三に代わり黒井城主として6200石余りを扶持された羽柴秀吉重臣:堀尾茂助(後:浜松城主堀尾吉晴)が入城し祈願所として神社を再建:奉行として 天正13年(1585)竣工している。その後も元和元年(1615)等数回の焼失・再建を経て文化12年(1815中井)一統の寺社彫刻師2代中井権治正忠 ・3代:正貞が中心となって再建されたもので明治初期の神仏分離で棄却されようとしたが「柏原文庫」と称することで存続が許されたと云い神社の三重の塔(神仏混淆)が残るのは全国でも18例
八幡神社裏-「高谷忠魂殿」下部付近の広い削平段

「兵庫県下には此処を含め3基が残されているだけ」の県指定重要文化財(平成元年3月31日)です。 社殿は桧皮葺・入母屋造の拝殿と三間社流れ造の本殿とが接続された複合社殿で国の重要文化財に指定され社殿前:一対の狛犬像が石工・丹波佐吉(村上照信46歳)文久2年(1861)の作です。


柏原藩前期織田家と後期織田家
織田家廟所(後期柏原藩織田家の墓地)  柏原町東奥

慶長3年(1598)6月36000石で伊勢・安濃津城主織田上野介信包を藩祖とする前期織田家三代は成徳寺に祀られるが東奥の織田家廟所は大和宇陀から移封された織田信休以降、後期織田家9代までの歴代藩主と其の家族の墓所。明治維新後に廃寺となった
廃寺・徳源寺山門と土塀

織田家菩提寺の徳源寺(臨済宗)の境内にあって昭和41年(1966)柏原町指定文化財となっています。
【後期織田家は元禄8年(1695)大和宇陀騒動により20000石に減封されて柏原藩に移封された初代織田信休(のぶやす)、2代信朝(のぶとも・信休の長男)3代信旧(のぶひさ・信休の三男)、4代信憑(のぶより・織田対馬守信栄の子)、5代信守(のぶもり・信憑の子)、6代信古(のぶもと・信旧の三男織田信応の長男)、7代信貞(信古の長男)、8代信敬(のぶのり・
織田家廟所

肥後宇土藩主細川之寿の三男)、9代:信民(筑前秋月藩主黒田長元の四男)までが祀られ山門に案内配置置図がある。10代目最後の藩主:信親の時に明治維新を迎え政府官吏として東京に居を移したので信親の墓は東京都練馬区の広徳寺にある】
徳源寺が廃寺となった為
織田家廟所

藩主等の位牌は前期織田家三代菩提寺の成徳寺に移され祀られている。【徳源寺は大和宇陀の織田家菩提寺を柏原移封時に移したものか?同時に移されたと思われる地蔵菩薩立像(市指定文化財)が成徳寺に残される】成徳寺へはJR柏原駅南方[丹波の森公苑]から北中集落内を南山裾へ目指せば寺の屋根が見えてきます。
(現地・織田家廟所の案内板 参照)


織田信勝の宝筐印塔と織田神社・建勲神社
織田信勝の宝筐印塔(前期柏原藩織田家三代の墓地) 柏原町北中

「丹波の森公苑」から丘陵を東に抜けた北中地区から山手に向かうと恵照山成徳寺 (臨済宗妙心寺派)がある。
成徳寺

室町時代の開基で当初は竜翔寺・後に見性寺と三度も改名されている。前期柏原藩織田家初代織田信包・織田信長の弟)が帰依し信則・信勝と三代続くが信勝の死で継嗣無く改易され廃絶。45年のあいだ幕府直轄領となっていた。後期織田家二代目藩主信朝(のぶとも:信長の次男・織田信雄の五男)となった元禄年間に再興される際・最後の藩主信勝の戒名(成徳院殿雪巖元公大居士)に因んで成徳寺と改称された前期織田家の家族や一族家臣の菩提寺です。
織田信勝の宝筐印塔

織田家定紋入りの品々や関係資料(本堂内:ショーケースに陳列されており拝見できる)が残され地蔵菩薩立像(市指定文化財:鎌倉時代前期・像は善作(仏師善円または善慶の作風)や宇陀から移封された信休以後の 後期柏原藩織田家の墓所は徳源寺にあるが明治維新後・廃寺となり歴代藩主等の位牌は成徳寺位牌堂に移され 織田信長と筆頭家老xx?の位牌ともに祀られる。地蔵菩薩立像衣の裾裏に朱書された「長泉山」は大和宇陀の菩提寺徳源寺山号で元禄8年(1695)信休の転封。信休の父:信武の代:宇陀松山藩のお家騒動により廃藩となり大和宇陀松山藩2万8千石から柏原藩2万石に減封されたが、
成徳寺:前期織田家三代藩主と家族等の位牌が祀られる

本像も徳源寺とともに柏原に移されたものと考えられる。成徳寺の山門を潜って境内に入ると直ぐ右手に金毘羅権現社と合祀されている嘉多拝織田権現社があります。[嘉多拝]の意味は不明だが成徳寺の北方には信勝の屋敷跡が在った東奥に信勝を祀る織田神社・織田権現があり此処を指すものか?風邪に効く神様と伝えられる。本堂の左手に祀られる弁才天は信包以来のもので台石は尾州(尾張)のxxx?から贈られた庭石という。
木の根橋と織田神社(右手に鳥居)

後期織田家の三代藩主信旧(のぶひさ)が同族織田家前期柏原藩主三代二男は出家:寿珪雪庭(總見寺住職4世)】・三代目信勝 (信則長男)】を祀るため其の公邸跡に建立されていた祠を明治期に此処に移築されたものという。慶安3年(1650)28歳で亡くなった前期織田家柏原藩主三代目信勝(1623-50)の墓所に建つ高さ約1.5mの宝筐印塔(町指定文化財)は墓地内の高台にあって江戸時代初期-中期の建立(造塔に銘無く年次不明)で塔身に陰刻された蓮華座の上に月輪を刻み、
織田神社:前期織田家三代を祀る:祠は旧屋敷内霊廟から遷されたもの!?

なかに金剛界四方仏種子が彫り込まれており隅飾突起には月輪が陽刻される等・装飾性に重点が置かれドッシリした重量感があり丹波市指定文化財(町指定昭和41年(1966)11月3日)となっている。信勝の350回忌に初代信包の五輪塔が:2011年10月篤志家により2代信則の宝筺印塔が建立され 前期柏原藩織田家三代墓碑が並ぶが信包の本墓は京都龍安寺にある。

織田神社柏原町古市場
柏原町観光案内所・木の根橋とは車道を挟んで建つ織田神社「織田権現」は前期柏原藩織田家三代を祀る。寛永7年(1630)8歳で藩主となり新田開発・堤防の築造等の善政を敷いたが慶安3年(1650)28歳の若さで亡くなった柏原藩前期織田家三代目藩主織田信勝の木造(江戸時代・作製年代不明)が安置され祭神として祀られている。信勝に継嗣なく柏原藩主織田家は三代52年で廃絶する。信勝の母は除封(改易)されたことを嘆き信勝居館跡に霊廟を祀り織田神社・織田権現として町衆からも信仰をうけていた。
前期織田家三代を祀る織田神社

元禄8年(1695)大和宇陀から織田信休が転封されてくるまでの45年間は幕府の天領となっていた。廟所は寛文9年(1668)東奥に遷されていたが現在地の古市場には 後期柏原藩織田家再興後の文政年間(1818-30)東奥大谷から移され織田家の庇護をうけ町衆からも篤く信仰されてきた。信勝の命日5月17日例祭が行なれる。信勝廟所跡近くに不明だった前期織田家の居館跡があった事が1996年に発見された絵図により明確にされた。織田神社から100m程東方・柏原町公民館(旧郡民会館・旧教育委員会)の北隣で民家・畑地(此処に祠?)・駐車場一帯。
柏原・建勲神社

建勲神社  柏原町柏原
柏原藩織田家陣屋前を発っ「柏原藩織田まつり」の武者行列が健勲神社の石鳥居と白壁土塀前の大手通りを進む。境内の「屋敷公民館」奥に石燈籠と真新しい拝殿内に小さな祠建勲神社が祀られる。創建は元禄8年(1695)柏原藩後期織田家初代織田信休(就任:元禄8年-退任:享保7年)が織田家先祖である織田信長を祭神に元禄8年柏原陣屋内に勧請したのが始まり。
柏原・建勲神社

【正確には:転封された当初は亀屋忠助邸を仮御殿とし元禄10年増築して高谷御殿と称し藩邸として使用していた。藩陣屋が完成したのは信休が柏原入封20年後の正徳3年(1713)のこと】 明治2年 (1869)朝廷より信長の勤皇敬神を追賞され「建織田社」の神号を賜り翌年:初めて神式で信長を祀る建勲(たていさお)神社に改められ社がなかったため陣屋内に仮神座を設けて祭礼が行なわれ明治13年(1880)現在地に遷座されて以後は全ての人々が参拝できるようになった。
柏原藩織田家陣屋表御殿と北側の中御殿跡…

…が長期にわたり歳月を経た本殿は老朽化と台風により壊滅的な被害を受け昭和9年(1934)改築された拝殿も火災により焼失し平成18年(2006)再建された。豊臣秀吉により信長廟所と定められた京都市北区・柏原と同じく信長の後裔が藩主を勤めた【織田信長の二男信雄の四男信良を祖とする】山形県天童市に 建勲神社(全国に三社)が鎮座しています。
(織田信勝宝筺印塔・織田神社・建勲神社は現地案内板 等を参照)

奥村城(東奥城) 城山(奥村東ノ山) Ca210m 柏原町東奥字城山

丹波志に字城山といえども古主の名も聞こえず…」と記され城主や城史不明の奥村城(東奥城)がある。柏原高校の東側で藤の目川が奥村川に合流するが、二つの川に挟まれて譲葉山から向山連山へ続く稜線の567mピークから南西へ延び出した枝稜が東奥集落へ落ち込む丘陵上・南端部の
奥村城(中央前)と清水山(左):柏原高グラウンド側から

奥村東ノ山を目指すが地元自治会「東奥地区案内絵図」に城名や城記号もなく築城時期や目的・城主の推定は素人の私には調べる手立ても見つからず難しいが地形的な位置や縄張りからは東奥村の領主の城。織田家廟所の裏手からは鹿避けフエンスがなければ直ぐの所だが 尾根に取付く道もなく丘陵西面を流れる藤の目川に沿って進み大歳神社付近からと定めて向かうが、
奥村城最高所北西・自然の岩が切岸に組込まれている

東奥地区の奉仕活動!!で神社清掃や鳥居や小公園にある遊戯器具の錆止め塗装等の作業で人の目が多く無作為に山裾の藪に入っていくのに説明や断りが煩わしく感じられて再度引き返し丘陵東側から大安寺跡の観音堂を経て譲葉山に向かう奥村川沿いに進む。
奥村城最高所の平坦地・中央部(上部右手)には立岩が!

奥村城は此の二つの川に挟まれて譲葉山~清水山稜線から南西へ延び出してくる丘陵尾根の 南端部に位置して数段の曲輪遺構が確認出来ると埋蔵文化財分布調査書にある。山道が川沿いから山側に分岐する道を斜上していき急斜面上の小墓地から山腹を捲き気味に続く踏み跡を登り始めた。竪堀!?かと思える2本の溝の上部から尾根に向かって進むと直接小ピーク上の城域東端部、露岩が目立つ山上部のテラス状平坦地に着いた。
南西尾根下部にある塹壕か空掘状?

此処から北方へは山側を少し下って鞍部となり243mピークへの登りだが鞍部への上り下りは急斜面でもなく、堀切もないので先ほどの竪堀は単なる思い過ごしの様です。北峰頂の平坦地も曲輪・其の尾根北側鞍部にも浅い堀切状?が東斜面に向っては竪堀(尾根筋から切れる竪堀なので片堀切?)状の窪みが羊歯類に覆われた先に消えていく尾根続きの主郭から南西端へも藪だが緩やかで広い尾根筋で末端近くの数箇所に段差のある自然地形の平坦地があり、其の中には大きな空掘の様な半円状の場所があったが30m程下方(比高10m)には後期・織田家廟所が見えている。
露岩を切岸にした主郭北面下の曲輪

旧・徳源寺が在ったところなので其の堂宇の跡なのかも知れないが要害でもない尾根上・城域の前後に防備設備としての堀切や土塁はない?が最高所付近は東から西面にかけて目立つ露岩はそのまま曲輪の切岸に取り組まれているようです。高さ1m弱の岩で囲ったような平坦地の主郭中央にもドンと岩が占め南面に延びる尾根側を除いて帯曲輪が廻り、さらに下段の曲輪へも1-2mの露岩を取り込んだ切岸をもって続く。
主郭の北峰にも 出曲輪!:更に北尾根鞍部に片堀切状?がある

南側の小曲輪下から西北にかけては2m以上の露岩が要害となって自然の石垣を形成しているが、曲輪に防備や居住性を感じさせるものはなさそうです。山を越えて柏原から黒井側へは藤の目川沿いに春日町野村や棚原へ抜け出られそうだが後世まで地元の生活道路として利用される程度ではなかったかと思える。山間の狭く小さな土地なので領地や通行監視?の土豪の城!?があったとは考え難い。只・奥村川から譲葉山を東側へ越えれば春日町国領へ出る。黒井城主荻野直正の弟:幸家の三尾城の麓で京都や

奥村城主曲輪と北西面には露岩の切岸

篠山市内へ向う栗柄峠、但馬や福知山・綾部へ抜ける街道は丹後・若狭へ通じる要衝。此の八幡山城が東奥地区の入口に位置して其の奥地「藤の目川」を挟んで東方僅か600m地点に奥村城が八幡山本陣?の指示で直ぐに動ける兵士の駐屯地であったともおもえず中世の城・奥村城と八幡山城の 接点をこじつけてはみても余りスッキリしないが!!。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)


新町城 xx Ca180m 柏原町新町・見長

JR柏原駅手前東R176線から柏原藩陣屋・柏原総合庁舎へ分岐する新町交差点を右折し直ぐ目にするのが初代難波金兵衛の高燈籠で柏原のシンボルともなっている。東向いに迫る低丘陵上に新町城・山裾から西への直進道路が 現状では駅前の
初代:難波金兵衛の石灯籠と新町城

カラクリ時計”太鼓櫓”前に続く旧但馬(山陰)街道です。柏原八幡神社側を流れる奥村川と見長川が合流する地点の東北部・この高灯篭の角を見長集落入口に天満宮の扁額が架かる鳥居が有り石段を登り始めて直ぐ幾つかの削平地があるのが気になります。神社境内で社や祠もなく其の跡地でもなさそうな平坦地形地がいくつか散見する。石段の先の台地には受験シーズンだけ人気の天満宮がポツンと隅っこに建っているだけ。それ以上に異常に思えるのはこの更に先の尾根末端ピークを
新町城(主郭)南面の切岸が唯一砦跡を感じさせる

過ぎてから。天満宮背後の尾根南先端の稜上へは3-4m程の切岸状!!?斜面を登り頂部の小広い台地となっており東端に役行者と毘沙門天!!の像が祀ってある。広い緩やかな尾根を降り始めると低い丘陵上の左右山腹に古い墓地が散在している。倒木を跨ぐと倒れた墓石を知らず踏みつけている様な状態の場所もある。此れ等の墓地が新町城の曲輪を利用したものか?城域とは符合している…!?
空堀土塁道か? 尾根にも古墓が散在する為、使用されなくなった旧墓参道か?

見長の谷間に広がる貴重な狭い耕地を避け集落西の山腹に墓地が祀られるようになったのでしょうか?。石仏群が祀られる山上主郭の東から南側に切岸が明確に遺り其の下方の墓地群も急斜面上にあって嘗ての曲輪跡とも思えるが城と呼べるほどの規模ではなく通行の監視が主の砦か!。堀切か鞍部を越え墓参道?を越えると城域は稜線を外れて西山腹を伝う。西下方の新町側へ尾根上に3段ばかり曲輪が続き更に北の山腹を 柏原陣屋や崇広小学校の東山裾まで延びているようだが其処までは未確認。
主郭からの東尾根を絶つ堀切道?

円成寺城の北1km地点にあって共にR176号線側・鐘ヶ坂-篠山に至る篠山街道(此の峠道が利用出来るようになった中世の頃!には山南町経由の山陰道も此処に通じ)山陰・但馬への街道の要衝監視の城として機能したと考えるが!?。丘陵の南面から街道筋に面して西側へと山腹を捲くように曲輪遺構が残存するが築城時期や城主等の城史も不明です。
新町城(主郭)に祀られる石碑と役行者・毘沙門天?(不動尊では無い!!)


北方600m程の東奥集落北の尾根末端に奥村城があり八幡山城の三城が柏原の城下町の北・北東・東の三方を囲むように位置している。三城との関連はないのかも知れないが円成寺城大部谷城のように見長から東奥までも栗作郷・柏原の久下氏の配下の城砦だったのでしょうか。


円成寺館と円成寺城(円成寺下城) 円山 Ca170m  柏原町下小倉

篠山市からR176号で金山城の麓・鐘ヶ坂を柏原市街地へ下ってくる手前、下小倉で山南町へと奥野々を越え玉巻城(久下城)の東裾を通る。この合流する三叉路直ぐ側まで山端が迫っています。譲葉山から南西へ延びる尾根が獅子山(点名:譲権現 348m 3等三角点)を経て更に南西へ急斜な稜線を”獅子山円成寺”背後の西北部に張り出してきた丘陵がある。
円成寺館:円成寺石柱門 ・山門背後に獅子山

円成寺は慶長10年(1605)円通寺14世武山榮文和尚を開山として円通寺(曹洞宗)末となったが大同2年(807)銘の鐘があったと伝えられている。開創年代等は不詳だが室町時代中期:文亀3年(1503)是参和尚により再興されている記録からも丹波市内では古参。4世義門潤梁和尚が金神(愛染明王の化身)を祭祀し方除呪符を授与し方除の寺・鬼門封じの寺として有名。小倉谷(上小倉・下小倉)には円成寺だけだが円成寺末寺として元和6年(1620)頃には5寺院があった。円成寺城からは正面に久下氏の玉巻城向かう奥野々峠への車道を挟んで下小倉に大部谷城金水寺城がある。
円成寺城から円成寺館(寺の南面:R176並びの段差)

山麓に在った廃寺:金水寺も円成寺末寺の一つ。 丘陵の末端部の峰上には二基の円成寺古墳があり、墳丘を削平し砦とした円成寺城がある。この平地からは眼下にR176号(鐘ヶ坂を越してくる旧但馬・山陰道)を見下ろす交通の要衝に位置し、鐘ヶ坂と山南町奥野々両峠を往来する通行監視の 砦だったのでしょうか。古道の山陰道は鐘ヶ坂と川代渓谷を避けて篠山から山南~氷上へ抜けたが峻険な鐘ヶ坂が利用出来るようになると篠山-柏原- 氷上経路が主要ルートになったでしょうから…。
円成寺前の平坦段(円成寺館!)

小倉地区(見長・上小倉・下小倉地区一帯)は鎌倉時代"小椋御荘"と呼ばれ南北朝期以降・栗作郷の久下氏の領地となっていた荘園。正嘉2年(1258)の坪付帳に田畑が約50町歩あったと久下文書にあるが…御荘の名からは都の寺社領だったと 思えます。久下氏の本拠・玉巻城から奥野々峠を越えると大部谷城があり円成寺館・円成寺城とは約700m程の距離で向い合う久下氏一族の城・砦・館が周辺にあったものか? 金山城が氷上・春日盆地を望み此処ほど軍事的にも要衝・要害の地だけに”丹波侵攻”の光秀が氷上と多紀の境目に築かれていた城を 光秀が改修したものか?金山城の砦跡は馬頭の峰にもあるが発掘調査されたか?
円成寺居館跡山門から円成寺城の秋葉権現を望む

其の調査対象となっていたかも不明だが山南町・柏原町境や奥野々峠を経て高見城へと稜線に久下氏境目の城があっても仁木氏の高見城砦群があっても不思議でない地域です。金山城の出城があった園林寺跡から馬頭を経て山南・柏原境界尾根は方井寺跡を奥野々峠から般若寺虚空蔵菩薩が祀られていた 高見城へと丹波修験の道があったのかも?…

円成寺城・展望よく此処までの山道も 紅葉の時期は良さそう

【円成寺館】R176号線の側から寺域に入り円成寺に向う寺門(標石柱)側から 石段の参道を登ると正面に譲権現(3等三角点)が西先端面に大きな露岩を覗かせて高利200m程だが厳しく聳え立っています。参道に池があり現:円成寺が居館であったか?。寺裏手西の墓所を含む高みは櫓台等曲輪?。寺の前東半分を遮断する様な用水池が濠跡だったか?。背後の谷水を集め流れ出る。円成寺正門西側の長い白壁塀から南下へは4~5段の畑地跡か?4-50m程の平坦地形(曲輪)がR176号線正面際まで続く。曲輪?西端は土塁線状の遺構か?畑の畝か?。
円墳が削平された秋葉大権現祠の墳丘部は主曲輪

丘陵際を国道から上ってくる道は聖観音像へと続く旧参道跡か?。県遺跡分布図の円成寺館は堀状・土塁状遺構が確認されており想定はしてみるが未確認。低土塁と思われる遺構は山門標柱を潜る正面参道東側池の堤防とは西側土塁腺とは少しズレて食違う形なので技巧的に”折れ”の構造を意識した中世以降のものか?断定も出来ないが城主・城史についても不明です。円成寺館の主は誰だったのでしょう…獅子山山頂部から張り出し切り立つ三方の斜面が円成寺背後に迫る丘陵に囲まれ斜面を削り込んで敷地として造成された可能性も考えられます。
主曲輪背後の平坦段から土橋付堀切に出る(尾根続きから)

南面だけに開かれた方形館状遺構の円成寺館と獅子山の西尾根丘陵先端部の円山上にある円成寺城 【詰め城セットの居館と考えたいが尾根上に一本の堀切しかなく削平地だけで防備施設に弱い】や南方約700mの大部谷城円成寺城は多紀郡(篠山市)から氷上郡(丹波市)に入る山陰道の要衝監視に呼応し小椋荘(上小倉・下小倉・長見)を領した久下氏の後氷上郡全土を領する黒井城主赤井・荻野氏家臣が拠った城か?。
円成寺城・土橋付堀切

【円成寺城(円成寺下城)】円成寺境内の方形館跡・円成寺館を訪ね寺背後の西端に張り出してきた丘陵目指して荒れて倒木と雑草で隠れた広い山道は 子山西麓円山頂部・Ⅰ曲輪に立つ聖観音像の裏に約1m程の段差上に秋葉社を祀る土壇(円成寺古墳の墳丘を整地したマウンドを利用)が円成寺城本丸。大正10年獅子山円成寺(曹洞宗)当山24世魁山和尚が平和記念物として建立された…が昭和19年太平洋戦争(結果的には第二次世界大戦だが本来は植民地支配から亜細亜諸国を開放するのが目的の一つだった日本の聖戦:大東亜戦争の 呼称はGHQにより使用禁止された。
円成寺下城堀切から 尾根続きに延びる土橋状

仕組まれた戦いのような真珠湾攻撃で始まった戦いだが、聖戦の舞台・太平洋での戦争)軍資として供出され、後昭和31年に再建された。山上部には二基の円成寺古墳があったようだが二号墳が聖観音像の位置なのかは公園化された造成地形では不明だが同規模だったとされる一号墳(中規模円墳:現状径約15m・高さ1m)が聖観音像後にあり円墳頂部が平坦に削平され 秋葉権現の石碑と祠が祀られている。一号墳上を本丸として円成寺城(円成寺下城?仮)獅子山鞍部付近に城遺構の堀切があり 当面下城を付記)が城されていたのでしょう。
獅子岩直ぐ上部円成寺上城(獅子山城)・石塁上は平坦地形

眼下に京・攝津方面から鐘ヶ坂を、或いは播磨方面から奥野々峠を越えてくる街道筋(間道?)が望まれ、その通行監視の砦だったと思えます。秋葉権現社から続く尾根続き約30m程の緩斜な平坦地形の先は段差幅共に約3m程の土橋付堀切で 遮断される。堀切向かいは2m程の猪・鹿避けフェンスの方が堀切に幾層倍して堅固に行く手を阻みます。
(氷上郡教育委員会の埋蔵文化財分布調査報告書資料 参照)


円成寺上城(獅子山城)  獅子山(譲権現)348m西下のCa310m 柏原町下小倉字獅子山〉

小丘陵部円山(近年に知った円山は山麓の国道に店名:円山亭の名も残る?)山上にある円成寺城(円成寺下城)北端に尾根を遮断して城域を確保する土橋付き堀切沿いの金網フェンス越しの尾根続き土橋状の山道の先にも踏み跡は続くが、遠目に見た山容から想像できるが点名譲権現(円成寺背後の尖峰・獅子山?三等三角点 348m)へは傾斜が強まってくると下草・羊歯類・
土塁残欠(点前)を認める円成寺上城の堀切

倒木に覆われてくると薄くなり途絶えがち。 体が埋もれる程の最期の藪漕ぎで激急斜面を尾根先の獅子岩の直ぐ近くに登り着く。西に延びる尾根筋は比高約30m程下方から水平(?緩斜な)尾根が延び出し、先端の獅子岩傍近く・南への枝尾根先端には円山のピーク上に古墳のマウンドを利用した円成寺城がある。城砦遺構などないだろうと 思っていたが獅子岩側へはテラス状曲輪形態を遺している下方を廻りこめば目の前が再西先端部:露岩の断崖。
西尾根末端露岩曲輪と一段下に獅子岩の傍に小曲輪

真下にR176号線「下小倉交差点」を俯瞰する位置に立つ。戻って最先端の曲輪段上部の尾根筋にも獅子岩続きの岩脈!?・大きな露岩が累積しており露岩部を天然の切岸として?曲輪を分ける程の段差は不確かだが尾根には幅約10mx長さ約70‐80m程の緩やかな平坦地形で段差も不確かながら3-4段程区切られそうな?尾根筋となる。尾根続き最東端部に幅3m・尾根南の谷側に約20m・北側の谷約30m程の空堀が緩斜面に続き突然遮断の堀切があり?、少し低くなる城域側に低土塁状をみる!?。
西尾根先端部露岩を切岸切岸の曲輪

これ等を城塞遺構と推察し円成寺城(円成寺下城・円山城)に対し円成寺上城 (獅子山城:古名小字名に獅子山もある)円成寺館・円成寺城も城史一切不明だが円成寺上城(獅子山城)への登城ルートは堀切位置からみて円成寺城との関連から見張り台だが監視より詰城として更に峰々ピークの平坦地形からは 古い形態の山城なのか?但馬・山陰道の要衝南入口に位置する防衛最前線基地としては赤井氏の柏原八幡城(後:明智方本陣?)から 譲葉山へも通じる”逃げの城”的な要素も?。要衝に位置して山容からも城跡が在るのではないかと、
獅子山(点名:譲権現)3等三角点

丹波の山城にも造詣深い中世城郭研究T氏も鐘ヶ坂トンネルを抜け通う度10数年以上前から想い続けてこられたとか?。しかし円成寺下城・上城ともに鐘ヶ坂側の監視が弱く、小椋荘の領内監視の土豪の城と思えるが久下氏なのか?、 其の後の赤井・荻野氏勢が拠る城塞であったかは大部谷城金水寺城等・小椋荘内城郭の築城目的や時代等の城史について研究が進めば少しずつでも解明されるかも…上小倉側の苅野神社からの尾根【此の尾根先にも円成寺城からは
点名:譲権現直下の片堀切?(竪堀)

陰になる”物見”としては有効な広い平坦地と鐘ヶ坂を望む側にも一段曲輪と堀切をみる。堀切を越えた尾根筋上部で合流し約50m程で点名譲権現に着く。山頂15‐20m程北側に片堀切(竪堀)状?をみるが山頂や譲葉山に至るまでの諸々ピーク上は鐘ヶ坂昭和のトンネル付近・要衝の旧鐘ヶ坂越え・金山城から上小倉へ降る間道も監視出来そうな
柏原町子育てセンタと大部谷城

位置にあるが城塞遺構はなさそう。円成寺城(円成寺下城)には秋葉権現が祀られ円成寺上城(獅子山城)上部の獅子山山頂は点名譲権現348m…から420m峰を経て遠く望む譲葉山頂594mの譲葉権現堂へと見上げるばかりの 急斜面の登行を控えて一段落するには適当な峰々を中継点として丹波修験等の山岳宗教奥駆道が拓かれていたものか!?。
(柏原町志・ふるさとの寺(氷上郡)を参照)


大部谷城 xxxCa180m   柏原町下小倉

R176号下小倉三叉路交差点から奥野々峠に向う県道86号線に入ると直ぐ目の前にツーカーホン関西の中継塔を載せる小さな独立丘陵がある。柏原川を渡っても駐車場所がないので西面の丹波林産興業振興センタ側から登路を探すが、簡単に大部谷城域に行き着けるコースはある。大部谷川に架かる中山橋のそば・民家の奥に稲荷社への参道を示す赤い鳥居が見える。
大部谷城・東端稲荷神社曲輪

此処から稲荷大明神と大歳神社が祀られる境内へ10分ほどだが、その少し先の矢走川・矢走橋から大部谷城山裾の墓地に出て疎林の尾根斜面取付きに"矢走"の字名が残る。此処に合戦の歴史でもあったのでしょうか。民家奥から登り始める最初の鳥居を潜った所に深く真っ直ぐに穿かれた祠状の洞窟があったが再度訪れた時は台風23号(H16年9月)の豪雨の影響で入口は土砂で埋まっていた。
大部谷城・東端稲荷神社曲輪

戦時中は食糧保存に使われていたそうで、其の後は民家の主人も子供の頃は 此処を遊び場にしていたという。城域は丘陵の南を除いては西側を南から北方へ矢走川が、東側は大部谷池が濠を成し大部谷川が東裾を北に廻って合流し柏原川に流れ出る自然の堀で取囲まれている。しかし単調な尾根筋に堀切があったと云うが 見つけ出せなかった。東西500m程の独立丘陵:西端のピーク(188.7m)が主郭か?。切岸をもった曲輪状の台地がある。尾根筋を引き返したツーカーホン関西・兵庫柏原ベースステーションの中継施設の三っばかり平坦地(中山古墳?)も曲輪遺構。
大部谷城・東郭・西郭鞍部の浅い堀切

主郭?の西端ピークは東側に一段・北に一段腰曲輪・西に犬走り状帯曲輪?が付く。此処から斜面を下って稲荷神社境内の台地までには、鞍部に埋もれかけた浅い窪みが堀切跡か?北面は直ぐ斜面30m程下は墓地・南斜面に幅1.5m・深さ1mにも 満たないが真直ぐ藪中に消える竪堀がある。片堀切か?資料にある掘切が大部谷城に残る唯一の城砦遺構!?。大部谷城東端(稲荷曲輪(15x35m程)東足下に県道292号が山南町側:旧延喜式山陰道の篠山川沿い篠場城へと篠場峠を越える道が繋がり、
中継施設の大部谷城中央曲輪

城の北東方円成寺城と呼応して金山城のある鐘ヶ坂を越えるR176(篠山街道・旧山陰道)の要衝監視にあたり大部谷城北麓には県道86号が奥野々峠を越えJR谷川駅へ久下城(玉巻城)を抜ける。栗作郷(山南町)久下氏は全盛期の鎌倉・室町初期頃まで管領細川氏清から守護山名時氏の丹波守護代を命ぜられた久下時重二男弾正忠(池谷)頼直(観応元~2年(1350-51)により小倉庄(小椋荘)も 領有しており篠場城・下滝城や柏原町側小椋荘(小倉荘)も 久下氏の要衝監視城塞群の一と考えたい。…応永の乱の敗戦による久下氏衰退に小倉荘は赤井氏(氷上町)等が横領していたか?。
大部谷城山頂曲輪(西郭)

明智の丹波攻略では柏原に本陣?八幡山城があり大部谷城の向いの円成寺城からは尾根続きに譲葉山城に通じ円成寺城の西向いにも陣城か?金水寺城(仮称)がある。諸城との関連や築城目的・年代・城主等は不明で 推測の域を出ないが大部谷城の北麓に”矢走”橋があり矢走川が流れる。一帯が戦場となった?とも思えず…此れ等砦群が「明智丹波攻め」の小南山城・金山城・八幡山城を繋ぐ矢文・狼煙による通信網を築いていた…とも推察する!!。北西方はJR福知山線が丘陵裾を縫って柏原川沿いに北に向かう。柏原川を天然の濠として此の丘陵上に遺跡分布地図には示されず未発見か?未調査金水寺寺城(仮称)があり大部谷城と呼応して久下城の北東方玄関口を監視した見張の砦だったのでしょう。
部谷城最高地点の西郭・砦跡と思える平坦地形だが表面観察も出来ない荒れよう!!

高見城や氷上盆地の各城砦への連絡の役割”知らせの城”の中継点としては小南山城があるが丹波勢の城か?、東向いに光秀の陣城・八幡山城があり高見城【主力は黒井城救援に向い僅か200余りの 留守部隊を襲われ落城しているが】の向城としても有効な独立丘陵ですが…築城目的や城主・城史は一切不詳…
(氷上郡教育委員会の埋蔵文化財分布調査報告書資料 参照)


苅野神社  柏原町上小倉カツラ山88

上・下小倉の鎮守社として両集落の宮座「宮の党」によって守られてきた苅野神社は全国 3131座の神明帳に記される延喜式内神社の一つで本殿は三間社流造で正面に千鳥破風・軒唐破風を付す。正面と両側面の三方には縁を廻し脇障子を立てる。中国の故事や松に鶴・浪に兎・瀧に鯉等の凝った透かし彫りが施されていて、美術観賞としても充分楽しめるものが多いのですが写真には収まりにくい位置にある。
苅野神社本殿側面妻飾

妻飾には虹梁(こうりょう=柱と柱の上部を横に渡す材)を三段に重ね、其の間に蟇股と平三斗を配し、最上部は大瓶束と笈形【瓶を逆さにした様な大瓶束と其れを両脇から支える様な形で 装飾用として?セットで使われる】とする。彫刻の手法は桃山・江戸初期の粋を尽くした豪華佳麗な造りとなっています。屋根は当初板葺きだったものが 文政10年(1827桧皮に葺き替えられ昭和54年(1979)には銅版葺となっています。 本殿内部からは上棟式に使用されたと考えられる3丁の木槌が 発見され「大工丹波氷上郡野山住山本金兵衛」の大工名記され正徳4年(1714)の 墨書(棟札か?)があり、
苅野神社参道

木槌3丁は市指定文化財(平成15年10月20日)。栗作郷(山南町久下・上久下)玉巻城(久下城)を本拠地とした久下氏が一帯に勢力を張り、玉巻から奥野々峠を越えた柏原町側の小倉地区(小椋庄)をも領していました。文明3年(1471)時の管領細川勝元は久下重元に小椋庄領家職の安堵状を授けている。領主:久主:久下氏の下に 小椋庄産土神として祀られてきたが 明智光秀の丹波攻略」にあたり天正6年(1578)1212月多紀郡境:鐘ヶ坂の山上に位置する金山城に陣した際、其の麓に建つ苅野神社や社坊は悉く兵火によって
苅野神社本殿正面妻飾の紅梁

焼失します。 寛文7年(1667)苅野田の仮宮より現在地に 造営遷宮され旧・苅野田の跡地は古宮と称して現存しています。幕藩時代の知行は上小倉が植村土佐守の後・水野鶴牧藩、下小倉は織田氏の柏原藩と知行所を異にしているが上・下小倉両村の産土神として信仰され崇敬されてきた。社家には片瀬家・社坊には真言宗高野山宝城院末の竜泉寺、明治維新の際:社僧復飾!?して日置左京・片瀬権守と共に奉仕したが帰農し、本社祠掌の儀は柏原八幡神社へ 祀職・千種家の兼掌するところとなり現在に至っています。片瀬氏が天正年間「丹波攻め」の余波で落城したのか
苅野神社本殿

一族で城を出て転戦中だったか消息不明の鍋倉城の城主:片瀬近江守一族との関係までは不詳ながら…」R176の下小倉で県道86号に入り約7km程 ・奥野々峠を越えれば嘗て小倉荘を領した久下氏の玉巻城が有り、篠山川を挟んで鍋倉城(太田城)があるので 城史に名前だけを残して忽然と消えた謎に部将!!片瀬近江守と無関係とも思えなくなってきた。
(現地 苅野神社の縁起及びH16/11月・丹波市教育委員会の案内説明板 を参照)


穴地蔵尊  丹波市柏原町東奥

川に架かる小橋を渡り譲葉山に向う登山道を右に見送り、奥村城(東奥城)へに取付きを探して直進する未舗装林道を進んでみる。城域北峰の尾根付近に乗りそうな 取り付き点を見つけたが、さらに続く街道の峠越え道の様な風情の林道を進んでみると最奥民家の先の田畑で終え・後は西から譲葉山や清水山との中間付近に突き上げる谷沿いの山道となるようです。中世の山城が狭い東奥地区だけの領内監視の城とは思えず?譲葉山・清水山間の尾根を越えて春日町野村や棚原へ通じる旧間道があり、その街道監視と考えたいが未確認。最奥民家の川縁に建つ納屋へ降りる地点・道路脇に東奥自治会の「穴地蔵尊」の案内道標が立つ。川側へ下り・橋を渡った先も、九十九折れの急斜面を岩場を避け・露岩を越えて続く参道は譲葉山への直登ルートの様に思えた?。尾根筋の踏み跡とは別に山道は大きな露岩の前で行止まり。数段の石段と一基の石燈籠・岩に埋め込まれたような祠が建つ。祠は岩根にある洞窟前に建てられ、低く狭く洞窟内の奥には板石に浮彫りの小さな地蔵尊が安置されています。「穴地蔵」の名からは目・鼻・耳等の「穴」の病気に霊験があるとされ祀られます。此処が街道の間道や昔からの生活道路であれば、子安地蔵として子宝祈願や・峠越えの足痛に霊験ありとしてお詣りされたとも思えますが、何処からも離れた此の位置に果たしてどのような因縁・由緒が残されているのでしょう…?
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