柏原藩織田家城下町の背山 譲葉山〜高杖山〜獅子山/ 入船山〜藤ノ目?高八山〜清水山
丹波市(五万図=篠山)
T新町・高燈籠〜譲葉山〜高杖山〜獅子山〜見長 2002年02月02日
U木の根橋〜入船山〜清水山〜柏原中学校 2002年02月04日
V 柏原藩陣屋〜大内山〜譲葉山〜大安寺跡 2008年10月05日

秋の柏原八幡社
近畿の山城  柏原藩陣屋 八幡山城  奥村城 大部谷城 新町城
 円成寺館と円成寺城 円成寺上城(獅子山城〈仮称〉 柏原藩織田家廟所
 穴地蔵尊 織田信勝の宝筐印塔と織田神社/建勲神社
校歌・故郷の山:♪大内山の色映えて輝く窓に入り船の…♪崇広小学校
         ♪陽はおどる清水山の空はるか…♪ 柏原中学校

柏原町の背に大きな山容を構えた譲葉山から直接南へは大きく高度を下げながらも二つのピークを見せる枝尾根があり、もう一つは柏原八幡神社の三重の塔の先に丸く突き上げるようなピーク(高八山)を経て反射板のある清水山への尾根が未踏なので気になっていたが 3時間程の山行なので前者の譲葉山への尾根コースです。
柏原藩織田家陣屋・表御殿の檜皮葺替え工事H18.5.20

譲葉山へのコースは一般登山道として以前から柏原高校グラウンド横から奥村川沿いに大安寺跡(観音堂が建つ)を辿る案内板もある整備されたハイキング道があるが柏原町内観光にもスポットを当て案内しながら未踏ルートを紹介します。何時もなら木の根橋のある八幡神社下の観光駐車場から出発ですが2月恒例 :厄神大祭準備のため一帯に駐車スペースはない。
柏原藩織田家陣屋・長屋門


先ず柏原駅正面の石田通りにある太鼓櫓は「つつじ太鼓」と呼ばれる大太鼓で登城・時報・警報・参勤交代で藩主の帰藩時などに打ち鳴らされていました。石田の商店街を抜けると昭和初期の 洋風の町役場と隣には奥村川を跨ぐ木の根橋が有り、武家屋敷でも残っていれば良い感じの、しっくりした広い真っ直ぐの道は柏原藩の陣屋跡の長屋門前に出てきます。
下小倉・獅子山(右)の真下に円成寺と円成寺城(左丘陵)を遠望

此処には織田藩や 田捨女関連資料を揃える歴史民俗資料館があり柏原の観光メインロードです。南に進むと176号線に出て大阪花博の「山の駅」を移築したJR柏原駅のメルヘンチックな駅舎も間近です。其処から旧街道を 登山口の新町高燈籠(難波金兵衛作)の建つ国道側近くへ向かう。


T
高燈籠〜譲葉山〜高杖山〜 獅子山〜見長 H14.02.02

R176号線柏原新町交差点近く:丹波の名石工難波金兵衛の高燈籠横の細い車道を東に向うと見長川に沿って集落の中を抜ける。右手上方に立ち枯木のある 禿っぽい!!山頂が獅子山で展望が良さそうなのが楽しみですが、車道が山裾を離れていくので 登路を見つけるのが厄介です。猪除フェンスが続いており、そのうち見つかると思ったが結局最奥の民家の横、神社の前迄来てしまう。此れより先も未舗装の林道が続き「熊出没・注意」 の標が少し気になる。既に獅子山への北側からの取付点は分からないまま通り過ぎた様?。
木の根橋(天然記念物・柏原町の代表的名木)

林道を詰めて直接譲葉山へ先行し獅子山へは尾根筋を降って行く事に計画変更。大きな貯水池益水池の脇から 振り返ると高見城山〜石戸山白山・遠くに篠ヶ峰の稜線が青く霞んで見えます。林道の終点からは突然道も消えるが、藪の中に細い踏み跡が続く。雑木藪の中を抜けると谷沿いに明確な道が現われます。何処までも谷に沿って忠実に進む道は、譲葉山の山頂近くにあったNTT(旧電電公社 )見長反射板への巡視路だったようです。しかし谷も枯れてくると崩壊で分断され倒木で踏み跡もだんだんとあやしくなってきますが稜線は真近です。
新町・初代難波金兵衛の高燈籠は柏原のシンボル

大安寺跡(観音堂)からの登山道へ出てくると 明るい尾根コースとなりコース左手に露岩が目立ってきます。その岩頭に立つと向山から清水山や岩尾のピーク〜譲葉山への稜線が望まれます。元の明るい雑木尾根を辿って旧電電公社(NTT)見長反射板跡地 (556m)の台地に出ると僅かに展望も開けます。此処よりは水平道となり2分程で薄暗く展望もない権現堂の建つ譲葉山頂 (594m)に到着です。瓦の破片が辺りに散らばりお堂内外は落書きで一杯です。権現堂の正面の平坦な広い尾根を北に辿れば岩尾の三角点を経て硅石山(清水山への分岐点)〜向山への縦走路です。
譲葉山頂の譲葉権現堂

踏み跡程度で荒れた尾根は倒木も多いが新しく 大柿布が道標代わりでルートを外すことはないでしょう。さて南へ降る枝尾根を見つけるのは地図・コンパスを持っていてもドンピシャリ尾根道を的中するのは難しいかも…幸いお堂の直ぐ西下方に赤い境界ポールを見つけて踏み跡もある急斜面を下り続けます。傾斜が緩やかになるとやっと尾根筋を歩いていることが確認でき西面が明るく 展望も開け篠ヶ峰・高見城山・白山は勿論南方には
円成寺南前には方形居館跡の削平地と堀跡が残る

天然の要害となっている北壁の「鬼の架け橋」や千尋の渓岩群が山城の険しさを見せつ
金山〜馬頭〜464mピーク高山への柏原町・山南町の境界尾根ピークが低山ながら目立ってそそり立って見えます。尾根筋の境界ポールは西へ直進して上小倉の176号線へ降っていく。北へ向う藪っぽい尾根の前方には 城山のような台形の高杖山が待っています。
譲葉山の南枝尾根の分岐から高杖山

尾根に沿って細い踏み跡には鹿除けネットが延びていて何度も左右にネットを跨ぎ藪尾根を迂回し倒木を避けながら 境界ポール柏原町の境界標を捜して進みます。緩やかな起伏の続く植林帯の中にある高杖山420mに展望は望めませんが譲葉山・金山〜馬頭辺りの山容が雑木や樹林の間に黒い陰をのぞかせています。高度を落としながらも尾根の末端のピークに着くと明るい広場のようで柏原町全景を俯瞰出来るが西北と南面は期待していたが、僅かに雑木藪が邪魔して楽しみ半減です。見長の集落からも見えていた白い立枯れの木は 南面展望のフレーム枠になっている!!?。

円成寺の背後には露岩を覗かせる獅子山を遠望

此処が獅子山(点名:譲権現3等 348m)。獅子山は南山裾にある円成寺の山号なので寺への下降点があるのでは?と思い探してみたがなさそうです。北側の尾根筋も鬱蒼とした藪が続き踏み跡も見えない。西へ僅かに続く踏み跡も、その先は急斜面になり同様に見当たらない。しかし薄い藪を抜ければ 杉の植林帯になるので 滑るように下り続けます。鹿が1頭ビックリして走り出てきましたが急斜面の下降に変わりはない!!。水の流れもない谷筋に踏み跡が現われ短い杣道は直ぐに猪除けのトタンとネットが延々と続くゲートに突き当たりる。
点名:譲権現348mからの譲葉山

外側に壊れかけた (壊れた!!)廃屋がありネットを潜り猪垣を跨ぎ外へ出ると見長集落に出たが此処にも山への入り口に「熊出没・注意」の標があり集落を抜けるとR126号線沿道のスタンドや大連飯店前へ出る町道で、ゲートから約5分でR126号線近くの 大師像が彫られた八十八ヶ所石碑と地蔵堂前に着く。


U 木の根橋〜入船山(柏原八幡)〜高八山〜清水山〜柏原中学校
H14.02.04
 
登山口は観光案内所や昭和初期の 洋風の町役場・奥村川を跨ぐ 木の根橋。八幡神社の「柏原の厄除さん」は三たん(丹波・但馬・丹後)一の大祭、宵宮の深夜に行われる本儀の「青山祭壇の儀」は青柴垣に神の降臨を迎えて行う秘儀 日本最古の厄除神事といわれています。
清水山(左)・高八山(中央)・譲葉山(右)・入船山(稜線右端の塔)

神馬が迎える鳥居を潜って石段の参道を登っていけば赤い三重の塔のある八幡神社です。地元の校歌に入船山と歌われ境内も明智丹波攻めでは黒井城 高見城攻撃の為の陣所となったところです。三重塔背後の道を下リ 降りた所から宅地!!の庭木側を抜けると山道が尾根に沿って続いています。
柏原大神宮絵馬:奥谷川を濠とした藩陣屋や木の根橋

三重塔裏手の 大堀切から尾根筋の左右に曲輪跡を遺す八幡山城が有る事をご存知の方は少ない様です。八幡山城は西山裾を田ステ女公園裏手の丘陵部も取り込んだ範囲を城域と思えるが 城砦・向城としては未調査なのかも知れません?。直ぐに上水道施設 に出ると西面に展望が拡がりますが、その後は点名:藤ノ目 (4等三角点)付近まで展望の効かない雑木の尾根を辿ります。
八幡山城の櫓台と堀切

此れから辿る清水山へは向山・譲葉山・鳳翔寺へのハイキングコースが整備されていたのですが、利用するハイカーも殆ど無く 荒れるに任せる状態で高八山の北尾根の一部や、清水山直下の露岩が目立つ辺りは踏み跡も明確で無い処があります。尾根の途中に突然石塔が現われます。「国威宣揚塔」と刻まれたこの塔は中部防衛司令官 ・谷中将の書:昭和13年7月氷上郡聯合の青年団長だった・県会議員生田克巳氏名で建立された記念碑。
清水山から柏原町と丹波の森公苑(正面)

傾斜を増しながら雑木藪に延びる踏み跡が、少し傾斜を緩めた尾根上の赤白ポールも斜めになった4等三角点(243m藤ノ目)があるのですが、今回まったく気付かず素通りです。譲葉山や背後に柏原町が見下ろせる箇所へ出ると 程なく赤っぽい小石が散乱している狭い台地状の高八山山頂(330m)に到着です。山頂より北へ辿る尾根道は途切れますが雑木藪を少し進むと、今までの道は何だったのかと思うほどの山道となり正面上部には清水山の 反射板が輝いて見えます。
JR柏原駅

露岩が目立ってきて岩場を避けて 巻き上がる道の先にも露岩が現れその端に反射板が見えます。清水山から少し先・向山への 尾根分岐には 硅石山があり周辺には露天掘りの跡が随所に残ります。フエンスに沿って登り詰めると反射板のある清水山(542m)で此処から向山へ縦走し柏原八幡と鳳翔寺へ下る三叉路分岐になっている。 鳳翔寺へのルートはい急斜面ながら明確な山道です。
柏原藩陣屋(長屋門から書院)

鞍部まで下ってくると突然山道も消え??踏み跡さえ薄くなります。(道は最近、整備され鳳翔寺や明願寺への分岐ルートには案内標も設置されました)急がば廻れ!!…は通用しそうに無い!?。 谷沿いに南への枝尾根を辿り杣道を通って、そのまま貯水池端の林道に降り立つ・此処は南多田上の集落で大歳神社の横。



V柏原藩陣屋〜大内山〜譲葉山〜大安寺跡〜東奥古墳群
 H20.10.05

目立つ山容ながら展望の無い植林帯の薄暗い道が山頂まで続く為か譲葉山だけを目的の登山者は少ない。ただ柏原町側からのコースには、山裾に遺跡・史跡があるので此れ等を訪ねての山旅なら 遜色なく楽しめるのかもしれません…?。天正年間:西波多野と云われる氷上城主の波多野宗長・宗貞父子が陣を構えていたが羽柴秀長の 大軍の攻撃に落城した。光秀は此処を本陣として城を築き・丹波攻めの拠点を金山城から八幡山城に移します。
木の根橋・観光協会ら八幡宮の杜を望む

其の柏原八幡神社下・観光センタ傍にはランドマークの天然記念物:(ケヤキ)木の根橋が有り、太鼓橋を渡って東への細い車道を進む。 織田家家紋の瓦屋根を持つ白壁塀の有る柏原高校正門前で終点!!となる車道に出る。 譲羽山へは此処から東奥集落へと重厚な古民家や柏原藩織田家廟所前を過ぎ奥村城 下・東奥古墳群近くで奥村川を渡り、案内標識に記されている大安寺跡を経て展望台【556m展望台とは名ばかり ?樹々が育ったか!!
武家屋敷!!の疎水沿い土塀(重文クラス?案内説明文が欲しい)

少し手前の山道からなら僅かに展望も有るが…此処は旧電々公社 (NTT)無線中継所 ・見長反射板施設の跡地】の尾根に乗ってやがて人気も無く暗くて、だだっ広い植林の中に閑散として 殺風景なログハウス、譲葉権現堂の建つ山頂に着くのが一般的なコースの様です。帰路を清水山経由とする別ルートも無理のないところ。もっと短絡なのが東奥・大安寺跡ルートとの分岐点:大谷坂から続く西尾根ルートで此方も数少ない展望が露岩上から得られる場所も有る。
【柏原藩織田家陣屋隣の崇広小学校裏山の大内山 (丘陵斜面は長い滑り台や遊び場になっており、校歌に謳われる・放送受信施設 !!?の有る最高所)に着く。
展望台?通信施設の反射板跡

鹿猪避けフエンスを開閉して出た所からは学校グラウンド内へ降る道?。案内標識等はないが更に西へ緩やかな尾根か、 尾根南側下方へ向う踏み跡を辿れば、どちらからも墓地に降り立つ】
176号線JR柏原駅方面に向って崇広小学校 ・保育所を過ぎると「社団法人柏原納税協会」の角を左折・車幅の狭い通りを丘陵端に向うと、突き当り正面に墓地に向う階段がある。高低差もなく 着いた登山口だが南方が低く近くの民家が無ければ思わぬ展望が拡がる。
西北角切岸・土塁・切岸から譲葉権現堂

丘陵から南端へ突き出す尾根先には新町城が在ったところ。数段ある墓所の再奥から尾根上に出ると崇広小学校の自然と冒険の校庭ともなっている大内山。学校側へ下って行きそうな尾根を・更に遮断する 鹿猪避けフエンスを開閉するとアンテナ塔が建つ大内山ピークまで単純な長い尾根歩きが続く。荒れて急斜な部分も有り 倒木で歩き辛い所も有るが道は明確です。植林帯を一時抜け出て明るい露岩部に出ると高見山(高見城)〜穂壷城へと柏原川沿いや萱刈坂を越え氷上町の加古川沿いR175号に向う平野部が望めるが、また暗い樹林帯の中の山道を辿るだけ。
東奥・譲葉山・新町への三叉路:・大谷坂の分岐

途中で東奥・大安寺跡への 分岐三叉路に出て変化の乏しい山道を譲葉山山頂(594m)の権現堂に向うだけです。譲葉権現は新郷・白山権現、青垣町の熊野権現)が 旧氷上郡三権現。仏の神への権化 …!!熊野三所の権現を祭神として祀ったものならば、其々に本地仏として千手観音・薬師如来・阿弥陀如来が祀られるのですが。お堂内裏の祭壇には 紙札も納める箱?も既に無い!!。
東奥古墳群の一つ

譲葉山を越えれば春日町側の長谷大池 ・国領温泉へ通じる。 此処には長谷城や岩戸神社城館・河津館・東中城・荻野館・国領城・さらには城ヶ腰城・柚津城…等々の黒井城砦群や城館が ・落城後には明智軍の黒井城向城となった と思われる城が点在する。柏原側の東奥にも奥村城が在るが、 何故こんな所に?と創築理由が判らない。東奥には平安時代後期に柏原八幡神社の神宮寺として創建された大安寺跡があり、周辺に残る高い切岸を持つ平坦地の数や広さからは相当な大規模寺院であったと推測できます。
大安寺跡に建つ観音堂

観音堂北の削平段端に大安寺古墳群 (東奥古墳群)の6号墳・天井石等が残存する。天正3年(1575)に始まった「丹波平定」明智光秀軍の侵攻による兵乱により焼失し、そのまま廃寺となった様だが正徳2年(1712)跡地の一角に観音堂が建てられます。堂内には藤原時代 (鎌倉時代)の作風を示す木彫漆箔造りの十一面観音菩薩像が安置され柏原町指定(昭和41年)文化財となっています。観音堂前の石燈籠は寛政7年(1791)のもの・後期織田家4代藩主:信憑(のぶより)の寄進によるものだろうか!!?。


柏原陣屋(柏原城) 八幡山城 奥村城(東奥城)
円成寺館と円成寺城 円成寺上城(獅子山城〈仮称〉
大部谷城新町城
柏原藩織田家廟所

柏原藩陣屋と長屋門について  兵庫県氷上郡柏原町柏原

柏原藩祖織田上野介信包は織田信長の四(?)人目の弟で伊賀上野城主、永禄11年(1568)21歳の時、伊勢の長野氏養子となり伊勢国津城主となり、従三位左近衛中将に任じられた。豊臣秀吉より慶長3年(1598)6月丹波三郡【氷上(丹波市)・天田(福知山市)・何鹿(綾部・福知山)】36,000石を与えられ、 丹波柏原に国替えで移ったのが柏原藩の始まりで丹波市唯一の城下町(?城)ともいえます。

柏原藩陣屋の長屋門(尚徳門・崇広門)

…といっても自分の屋敷も建てられず 郷士の館に仮住まいが長らく続きます。丹波柏原藩は慶長年間入封した信包から三代:信勝が死去し後継が無かった事から 領地は没収され前期織田家は断絶するが:秀吉没後の慶安3年(1650)には徳川の天下となり幕府領となっていた。以後45年間の幕府直轄(天領)時期を挟んで後期織田家が藩政を行ってきました。人物は前期は織田信長の弟・信包が、観光パンフ等のキャラクタにみる兄:信長のイメージとは逆に物静かで 落ち着いた人だったが小谷城(滋賀県)攻めに参戦 :城主浅井長政に嫁いでいた妹”お市の方”と三人の娘「茶々・初・江」を保護している。
柏原藩陣屋

長屋門と表御殿の遺構を残しているのは後期・信休が造営した柏原藩陣屋です。元禄8年(1695)に大和国松山藩(奈良県宇陀市)から国替えで入封した織田信休が正徳4年(1714)織田氏10代2万石 【宇陀騒動とよばれる織田家内紛を起こし減封されての国替】の政庁として 造営されたものです。当時:御殿のスケール模型は 柏原歴史資料館に展示されていますが、今は儀式の場としての表御殿が残されています。桧皮葺きの唐破風と千鳥破風を備えた玄関と桟瓦葺き寄棟造りの殿舎は再建当時のものです。
柏原藩陣屋の模型:裏面から・長屋門・書院は上方

表御殿玄関正面にあって重厚・荘厳差を惹きたてるカイヅカイブキと裏庭に植えられた松が、 いま建造物に近い為・其の根が基礎を持ち上げ建物に悪影響を与えているとして、松は伐採・カイヅカイブキについて伐採か移転か其の採決を市民に問いかけています。明治期・小学校に転用された頃に植えられたものの様で、 遺構とは関係ないが陣屋跡とは一対のものとして、長年親しまれてきた愛着を簡単に切裂く事もできないようです。藩の政務を行った御用所や今残る表御殿は儀式の場として、また藩主の執務や日常生活の場となった中御殿・奥御殿等、今は部分更地や小学校・大手会館を含む広い敷地内に有って、長屋門と道を隔てた向いの歴史民俗資料館に其のスケールを示す 模型が展示されています。
柏原藩陣屋の書院(表御殿)檜皮葺替え工事(H18.2・18現在)
 
玄関を飾るカイヅカイブキも今のままでは建物に悪影響を与える様ですが伐採は避け、敷地内に移転措置して欲しいもの。しかし整備計画のなかに庭園や築地塀や白壁の長塀等 ・往時の一部再現が含まれていれば景観よりも復元が優先。秀吉没後は徳川の政権下へ移り篠山城築城助役を命じられ 慶長19年(1615)大阪城で 72才の生涯を終えています。2代代目信則(信包の三男)は寛永7年(1630)参勤交代で江戸に赴いた時32歳で没し、三代信勝(信則の子)は慶安3年(1650)29歳で他界するが後継ぎなく、柏原藩前期織田家は信包〜信勝まで三代で領地は没収され 廃絶し以後46年間は幕府直轄の天領となっていた。
柏原藩陣屋の書院(表御殿)檜皮葺替え工事(H18.2・18現在)

信長の次男・織田信雄の五男信友が後期の織田家・柏原初代藩主となった。その後・柏原藩主として後期織田家が入封されてきます。信長の二人目の子信雄の四代目の孫織田近江守信休(のぶやす)で元禄8年(1695)宇多騒動<父の信武が 二人の老臣 :田中・生駒を手打ちにし事件が江戸幕府に聞こえて、明確な説明が出来ないまま自殺>により幕府の怒りをかって家禄を20,000石に減封されての国替えで、和宇陀郡松山城から柏原に転封になっています。京都防火役・大仏建立の助役・大和川改修…等の相次ぐ出費で財政難が続いていたが移封後19年ようやく幕府から藩邸建築の許可を得て正徳3年(1713)造営・翌年に完成。
少しずつズラせて重ねた檜皮固めに竹クギを打つ(平葺き)


藩主・織田信休が 仮御殿としていた亀屋(田)忠助の屋敷から移ったのが別名!!柏原城【実際は陣屋跡】です。後期柏原藩4代目信憑(のぶより)の代・文化13年(1816文政元年1818か!)全焼したが長屋門は 焼失を免れ、創建当時のまま桧皮葺唐破風と千鳥破風の 正面玄関部分も保存されており文政3年(1820)頃に再建された柏原藩陣屋跡は近世陣屋遺構として全国にも数少ない貴重なものとして昭和45年(1970)3月・現存する表御殿と長屋門(小学校の通用門として尚徳門・崇広門とも呼ばれていました)周辺を国の史跡に指定されています。
表御殿玄関 ・唐破風の檜皮葺き H18.5..20

明治4年(1871)の廃藩置県(廃城令)で織田藩は消えましたが現在・崇広小学校(新校舎に移るまでは 学校の通用門で崇広門とも呼んでいた崇徳門)にある柏原藩陣屋の長屋門は正徳年間(1911-15)の貴重な建造物として昭和46年には国史跡に指定されました。屋根の改修工事は昭和48年に桟瓦と檜皮の葺替えが行われているが、茶室等に使用される杉皮は数年しか持たず檜皮で40年程といわれます。
柏原藩陣屋内の書院の間
 
檜皮採取”皮剥ぎ”は専門の原皮師によって外皮を剥ぎますが 4〜6月の生育時は作業せず見学の此の日(5月20日)原皮師の方は”皮切り(剥ぎ取り一定の長さで持ち込まれた檜皮材料の整形)”を実演されていた。特殊な檜皮包丁を使って葺く用途別に選別しながら”洗い” (厚みを揃え)・”綴じる”(幅や寸足らずの場合、裂いた檜皮を寄せて、特殊包丁の突き出た先端で叩くと ホチキスで止めた様に重なるが手で簡単に外せます)等の工程で材料を加工していきます。
柏原藩陣屋の書院

葺替え工事に当たっては勿論・伝統と経験の地元丹波の檜皮師です。御殿建築が旧地にそのまま残るのは川越・掛川・高知と 此処の柏原だけで、しかも藩陣屋の御殿としては全国唯一だそうです。長屋門を入ると正面玄関横に立つ捨女像 が江戸期・元禄の四俳女として知られた”田ステ女”です。現在:写真の二宮尊徳像は撤去?・ステ女像は町歴史民俗資料館北隣りの小公園に移設された。
(ひようごの城紀行  神戸新聞総合出版センタ を参照)


柏原八幡神社と八幡山城(加伊原新城) 入船山(八幡山Ca140m) 柏原町柏原
 
八幡山には南朝方の荻野安芸守が足利尊氏に抗戦して築いた八幡山砦がありました。柏原八幡神社は万寿元年(1024)に京都・岩清水八幡宮の丹波別宮として創建され、主祭神に誉田別命(応神天皇)・息長足姫命(神巧皇后)・姫三柱之命が祀られます。此の八幡神社の参道沿いに 門前町が形成され柏原の町並みの原型ができてきました。
柏原八幡神社

しかし南北朝期の戦乱で貞和元年(興国6 1345)で焼失、 その後再建されたが天正期には西波多野氏・氷上城主の波多野宗長・宗貞父子が陣を構え、二万の大軍で攻め寄せる羽柴秀長を迎撃したが敗れて落城したといわれ、
縁の下の力持(三重の塔)

その際・八幡社を焼失したというのですが…定説!?では 天正6年(1578)には織田信長の丹波平定の軍将として明智光秀があたり金山城を築いて ”丹波攻略”の拠点としたが、氷上郡への侵攻の前線基地として柏原八幡宮の社殿や付属の建築物を取壊し、其の跡に城砦を築いたのが 八幡山城とされます。八幡山(入船山)の北に延びる尾根にも砦が築かれたようで、尾根上最高ピークの高八山(Ca330m)に見張所かと思える平坦地も有るが 遺構の確証は不明…!!?。
三重の塔北鞍部の大堀切(東下から)

現在の神殿は天正10-13年 (1582-85)豊臣秀吉が堀尾茂助後の浜松城主 ・堀尾吉晴!)を奉行に陣城を破却して祈願所として元の八幡神社に修復させたもの。桧皮葺・入母屋造の拝殿と三間社流れ造の本殿とが接続された 複合社殿で国の重要文化財に指定されています。社殿前に一対 の阿吽の 狛犬像があるがが石工・丹波佐吉(村上照信)の手によるもので文久2年(1861)丹波佐吉 46歳の時の作です。社殿裏の三重の塔は江戸時代の再建で、神社の三重の塔(神仏混淆)が残るのは全国でも18例を数えるだけとか!!。
三重の塔北鞍部の大堀切 <

三重の塔へ向う石段左手にある鐘楼には康応元年(1389)と天文12年(1543)の二つの年号が刻まれた鐘があります。康応元年銘は 弘浪山山頂にあった高山寺に納める為に鋳造されたもので、秀吉が大砲に鋳なおす為に集めたものの一つだが 県指定重要文化財です。三重の塔は応仁年間(1467〜69)に建立されたと伝えられる塔で戦乱や再建後の落雷等で焼失、

大堀切は堀底道!!:堀沿い2段目曲輪


現在のものは文化12年(1815)に再建されたもので、明治初期の神仏分離で棄却されようとしたが 「柏原文庫」と称することで 存続が許されたといいます。神社に塔が現存している神仏混淆の名残を止める全国的にも数少ない珍しいもので、兵庫県下では此処を含め 3基が残されているだけで県指定重要文化財(平成元年3月31日)です。八幡山城は柏原八幡神社を焼き払った跡地に”丹波攻め”の軍将・明智光秀が氷上郡内の 黒井城を初めとして近くには
八幡山城・尾根沿い東曲輪の切岸と広い帯曲輪

穂壷城・高見城・ 高山寺城・霧山(氷上)城等、 赤井一族や西波多野氏の拠る多くの城の攻略拠点として天正6年(1578)築いた陣城のようです。翌・天正7年には東丹波の八上城も最後迄残った西丹波の諸城と共に黒井城も落ちて、丹波平定が成ると城としての短い役目も終えて、 八幡山城の機能は全て金山城へ移ったと思えます。清水山(542m)から南へ延びる尾根が高八山(330m)から八幡神社のある入船山 (Ca140m)に高度を下げながら 延びてきた尾根は、柏原町の中央部に突き出してきて東西両岸は急斜な崖を形成して自然の要害となっています。
八幡山城・櫓台状曲輪と東西の曲輪を結ぶ堀切通路!!

八幡神社へは木の根橋や 観光案内所のある南から鳥居を潜り石段の続く参道を歩いてみても此処に 明知光秀が築いた城が有ったとは知っていても、城の遺構と気付く人は少ない。八幡社の社殿と三重塔の北斜面下の鞍部が大きな堀切となっており、西側から勿論・竪堀となって落ちる東側も堀切沿いに2段の大きな曲輪があり 更に下方にも削平段があり 奥村川へは高い崖となって落ち込んでいます。したがって防備としての竪堀よりは堀沿いの 曲輪群から尾根筋に出て、尾根筋の西側や北に延びる曲輪群を繋ぐ堀底道だったと思えます。

八幡山城・尾根沿い東曲輪の切岸と帯曲輪・更に東下方にも平坦地


堀切道はさらに、三重の塔の崖下鞍部を東側から南の社殿脇へと腰曲輪でも繋がっていた様です。八幡神社は 焼失していても物見櫓としては有効な位置にあり、南側石段参道の西面下にも帯状の平坦地が有る様なので八幡神社境内全域含めて陣城の 縄張りを見る必要は有りそうです。八幡社裏手の堀切北側に茅葺民家?と畑地や庭の拡がる一角が 主要郭(?…いうより周囲を厳重に警護された居館だったのでは?)と思えます。民家は宮司関係の社務所や宅地として使用されていたのでしょう。
給水施設裏の虎口を抜けた曲輪と次の土塁付き曲輪

今は無住で果樹園も雑木の中!、畑地跡を北へ抜けると此処が城であった事が歴然としてきます。堀切があり尾根上東側には1.5m〜2m程の切岸を持つ曲輪が3段程続く。櫓台状の曲輪から降る通路の様な堀切は高い切岸をもって一段下の帯曲輪に降り立ちます。堀切道は西下方の広い曲輪へ繋ぐ。此の尾根筋西側にも 二段の帯曲輪が続く。城遺構が一番顕著に残されているところですが其のスケールの大きさにも驚かされます。尾根に沿って緩やかに斜上する削平地は貯水施設に行きあたりますが此処からは西方に展望が開けるが、施設の整地や崩れから削平地らしいが遺構を見抜く知識は無いが、
給水施設(上方右手)裏の虎口を抜けた曲輪と次の土塁付き曲輪

水道施設真後ろの段差は・北尾根に続く曲輪群への虎口部の様で、一段上の広い曲輪から次の曲輪に入る低い段差の切岸には低土塁の残欠が残ります。尾根筋を高八山までは荒れてはいても踏み跡が有り、平坦地形が城域最高所の高八山山頂部に延び、此処は物見台だっだか平坦地形となっています。此れよりは藪と岩場混じりの急登・ルート確認要で清水山への尾根までは 登山目的であっても要注意です。


柏原藩前期織田家と後期織田家
織田家廟所(後期柏原藩織田家の墓地)  柏原町東奥

慶長3年 (1598)6月36,000石で伊勢・安濃津城主織田上野介信包を藩祖とする前期織田家の三代は成徳寺に祀られるが、 東奥の織田家廟所は大和宇陀から移封されてきた織田信休以降、後期織田家9代までの 歴代藩主と其の家族の墓所です。明治維新後に廃寺となった織田家菩提寺の徳源寺(臨済宗)の境内にあって昭和41年 (1966)柏原町指定文化財となっています。
廃寺 ・徳源寺山門と土塀

【後期織田家は元禄8年 (1695)大和宇陀騒動により 20,000石に減封されて柏原藩に移封された初代織田信休(のぶやす)、2代信朝(のぶとも ・信休の長男)、3代信旧(のぶひさ・信休の三男)、4代信憑(のぶより・織田対馬守信栄の子)、5代信守(のぶもり・信憑の子)、 6代信古(のぶもと・信旧の三男織田信応の長男)、7代信貞(信古の長男)、8代:信敬(のぶのり・肥後宇土藩主細川之寿の三男)、
織田家廟所

9代:信民(筑前秋月藩主黒田長元の四男)までが祀られ、山門に案内と配置図がある。 10代目最後の藩主:信親の時に明治維新を迎え、政府官吏として東京に居を移したので信親の墓は東京都練馬区の広徳寺にあるという】
徳源寺が廃寺となった為、藩主等の位牌は
織田家廟所

前期織田家三代菩提寺の成徳寺に移され 祀られています。【徳源寺は大和宇陀の織田家菩提寺を柏原移封時に移したものか?同時に移されたと思われる地蔵菩薩立像(市指定文化財)が成徳寺に残されています】成徳寺へは 奥村城の後JR柏原駅を南方へ抜け「丹波の森公苑」を目指し、北中集落内を南山裾を目指せば寺の屋根が見えてきます。
(現地・織田家廟所の案内板 参照)


織田信勝の宝筐印塔と織田神社・建勲神社
織田信勝の宝筐印塔(前期柏原藩織田家三代の墓地)   柏原町北中

「丹波の森公苑」から丘陵を東に抜けた北中地区から山手に向かうと、恵照山成徳寺(臨済宗妙心寺派)がある。室町時代の開基で当初は竜翔寺・後に見性寺と三度も改名されています。前期柏原藩織田家初代織田信包・織田信長の弟)が帰依し信則・信勝と三代続くが信勝の死で継嗣無く改易され廃絶。45年のあいだ天領(幕府直轄領)となっていた。
成徳寺

後期織田家二代目藩主信朝<のぶとも>(信長の次男・織田信雄の五男)となった 元禄年間に再興される際・最後の藩主信勝の戒名(成徳院殿雪巖元公大居士)に因んで成徳寺と改称された前期織田家の家族や一族家臣の菩提寺です。織田家定紋入りの 品々や関係資料(本堂内:ショーケースに陳列されており拝見できる)が残され地蔵菩薩立像(市指定文化財:鎌倉時代前期・像は善作<仏師善円または善慶の作風>)や宇陀から移封された信休以後の後期柏原藩織田家 の墓所は徳源寺に在るが、
織田信勝の宝筐印塔

明治維新後・廃寺となり歴代藩主等の位牌は成徳寺位牌堂に移され、織田信長と筆頭家老xxx?の位牌もともに祀られています。地蔵菩薩立像の衣の裾裏に朱書された「長泉山」は大和宇陀の菩提寺徳源寺の山号であり、 元禄8年(1695)信休の転封【信休の父:信武の代:宇陀松山藩のお家騒動により廃藩となり、大和宇陀松山藩2万8千石から柏原藩2万石に減封された 】に伴い本像も徳源寺とともに柏原に移されたものと考えられます。成徳寺の山門を潜って境内に入ると、直ぐ右手に金毘羅権現社と合祀されている 嘉多拝織田権現社があります。
成徳寺:前期織田家三代藩主と家族等の位牌が祀られる

”嘉多拝”の意味は不明だが成徳寺の北方には 信勝の屋敷跡が在った東奥に信勝を祀る織田神社・織田権現があり此処を指すものか?、風邪に効 く神様と伝えられます。本堂の左手に祀られる弁才天は信包以来のもので台石は尾州(尾張)のxxx?から贈られた 庭石といわれます。後期織田家の三代目藩主信旧 (のぶひさ)が同族織田家前期柏原藩主三代二男は出家 :寿珪雪庭<總見寺住職4世>】・三代目信勝(信則の長男)】 を祀るため、其の公邸跡に建立されていた祠を明治期に此処に
木の根橋と織田神社(右手に鳥居)

移築されたものといいます。 慶安3年(1650)28歳で亡くなった前期織田家柏原藩主三代目信勝(1623-50)の墓所に建つ 高さ約1.5mの宝筐印塔(町指定文化財)は 墓地内の高台に有って江戸時代初期〜中期の建立(造塔に銘無く年次不明)で塔身に陰刻された蓮華座の上に月輪を刻み、中に金剛界四方仏種子が彫り込まれており 隅飾突起には月輪が陽刻される等 ・
織田神社 :前期織田家三代を祀る:祠は旧屋敷内霊廟から遷されたもの!?

装飾性に重点が置かれ ドッシリした重量感があり丹波市指定文化財(町指定 昭和41年 (1966)11月 3日)となっている。信勝の350回忌に初代信包の五輪塔が最近(2011年10月)篤志家により2代信則の宝筺印塔が建立され前期柏原藩織田家三代の墓碑が並ぶが 信包の本墓は京都龍安寺にある。
織田神社 柏原町古市場
柏原町観光案内所・木の根橋とは車道を挟んで向かい合い建つ織田神社「織田権現」は 前期柏原藩織田家三代を祀る。寛永7年(1630)8歳で藩主となり新田開発・堤防の築造等の善政を敷いたが慶安3年(1650)28歳の若さで亡くなった柏原藩前期織田家三代目藩主織田信勝の木造 (江戸時代・作製年代不明)が安置され祭神として祀られています。信勝に継嗣なく、柏原藩主織田家は三代52年で廃絶してしまいます。信勝の母は除封(改易)されたことを嘆き・信勝の居館跡に霊廟を祀り織田神社・織田権現として町衆からも信仰をうけていた。
前期織田家三代を祀る織田神社

元禄8年(1695)大和宇陀から織田信休が転封されてくるまでの45年間は幕府の天領となっていた。廟所は寛文9年(1668)東奥に遷されていたが現在地の古市場には後期柏原藩織田家再興後の文政年間(1818-30)<文政12年!!?>東奥大谷から移され 織田家の庇護をうけ・町衆からも篤く信仰されてきました。信勝の命日5月17日に例祭が行われます。信勝廟所跡近くに不明だった前期織田家の居館跡が在った事が近年(1996年)発見された絵図により明確にされています。織田神社から100m程東方・柏原町公民館(旧郡民会館・旧教育委員会)の北隣で民家・畑地(此処に祠?)・駐車場一帯。
柏原・建勲神社

建勲神社 柏原町柏原
柏原藩織田家陣屋前を発った「柏原藩織田まつり」の武者行列は先ず健勲神社の石鳥居と白壁土塀前の大手通りを進む。境内に「屋敷公民館」が建つが・其の奥に石燈籠と真新しい拝殿の内に小さな祠 建勲神社が祀られている。創建は元禄8年(1695)柏原藩 【前期織田家は信包-信勝三代で後胤なく断絶し幕府領となっていた】後期織田家初代織田信休(就任:元禄8年-退任:享保7年)が織田家先祖である織田信長を祭神として元禄8年柏原陣屋内に勧請したのが始まりとされます。
柏原・建勲神社

【正確には: 転封された当初は亀屋忠助邸を仮御殿とし・元禄10年増築して高谷御殿と称し藩邸として使用していた。藩陣屋が完成したのは信休が柏原入封20年後の正徳3年(1713)のこと】明治2年 (1869)朝廷より信長の勤皇敬神を追賞され「建織田社」の神号を賜り翌年 :初めて神式で信長を祀る「建勲<たていさお>神社」に改められたが、社が無かったため陣屋内に仮神座を設けて祭礼が行われ、明治13年(1880)現在地に遷座されて以後は全ての人々が参拝できるようになった。
柏原藩織田家陣屋表御殿と北側の中御殿跡…

…が長期にわたり歳月を経た本殿は 老朽化と台風により壊滅的な被害を受け、昭和9年(1934)改築された拝殿も火災により焼失し平成18年(2006)再建された。豊臣秀吉により信長廟所と定められた京都市北区・柏原と同じく信長の後裔が藩主を勤めた【織田信長の二男 :信雄の四男信良を祖とする】山形県天童市に建勲神社(全国に三社)が鎮座しています。
(織田信勝宝筺印塔・織田神社・建勲神社は現地案内板 等を参照)

奥村城(東奥城) 城山(奥村東ノ山) Ca210m 柏原町東奥字城山

丹波志に字城山といえども古主の名も聞こえず…」と記され、城主や城史不明の奥村城(東奥城)がありました。 柏原高校の東側で藤の目川が奥村川に合流しますが、二つの川に挟まれて譲葉山から向山連山へ続く稜線の567mピークから南西へ延び出した枝稜が東奥集落へ落ち込む丘陵上・南端部の奥村東ノ山を目指すが地元自治会「東奥地区案内絵図」に 城名や城記号も無い。
奥村城(中央前)と清水山(左):柏原高グラウンド側から

築城時期や目的・城主の推定は素人の私には調べる手立ても見つからず難しいが地形的な位置や縄張りからは、此の地の領主の城。織田家廟所の 裏手からは鹿避けフエンスが無ければ直ぐの所だが尾根に取付く道も無いので、丘陵西面を流れる藤の目川に沿って進み大歳神社付近からと定めて向かうが、
奥村城最高所北西・自然の岩が切岸に組込まれている

東奥地区の奉仕活動!!で神社清掃や鳥居や小公園にある遊戯器具の錆止め塗装等の作業で人の目が多く、 無作為に山裾の藪に入っていくのに 説明や断りが煩わしく感じられて、再度引き返し丘陵東側から大安寺跡の観音堂を経て譲葉山に向かう 奥村川沿いに進む。
奥村城最高所の平坦地・中央部(上部右手)には立岩が!!

奥村城は此の二つの川に挟まれて 譲葉山〜清水山稜線から南西へ延び出してくる丘陵尾根の南端部に位置して数段の曲輪状遺構が 確認出来ると埋蔵文化財分布調査書にある。山道が川沿いから山側に分岐する道を斜上していき、急斜面上の小墓地から山腹を捲き気味に続く踏み跡を登り始めた。竪堀!?かと思える2本の溝の上部から尾根に向かって進むと、 直接小ピーク上の城域東端部、 露岩が目立つ山上部のテラス状平坦地に着いた。
南西尾根下部にある塹壕か空掘状?

此処から北方へは山側を少し下って鞍部となり243mピークへの登りとなるが鞍部への上り下りは急斜面でもなく、堀切も無いので先ほどの竪堀は単なる思い過ごしの様です。 <北峰頂の平坦地も曲輪・其の尾根北側鞍部にも浅い堀切状?が、東斜面に向っては竪堀(尾根筋から切れる竪堀なので片堀切?)状の窪みが羊歯類に覆われた先に消えていく>尾根続きの主郭から南西端へも藪だが、緩やかで広い尾根筋で末端近くの数箇所に段差を持った、自然地形の平坦地があり、 其の中には大きな空掘の様な半円状の場所があったが30m程下方(比高10m)には後期・織田家廟所が見えている。
露岩を切岸にした主郭北面下の曲輪

旧・徳源寺が在ったところなので其の堂宇の跡なのかも知れません。いずれにしても要害でもない尾根上・城域の前後に防備設備としての堀切や土塁は見ないが、最高所付近は東から西面にかけて露岩が目立ち、 その自然石がそのまま各曲輪の切岸に取り組まれているようです。高さ1m弱の岩で囲ったような 平坦地の主郭中央にもドンと岩が占めており、 南面に延びる尾根側を除いて帯曲輪が廻り、さらに下段の曲輪へも1〜2mの露岩を取り込んだ切岸をもって続く。
主郭の北峰にも出曲輪!!:更に北尾根鞍部に片堀切状?がある

南側の小曲輪下から西北にかけては2m以上の露岩が要害となって自然の石垣を形成しているが、 曲輪に防備や居住性を感じさせるものは無さそうです。山を越えて柏原から黒井側へは、藤の目川沿いに春日町野村や棚原へ抜け出られそうですが、後世まで地元の生活道路として利用される程度ではなかったかと思われます。 山間の狭く小さな土地なので領地や通行監視の”土豪の城!”があったとは考え難い。”丹波攻略”の拠点・金山城を築いた明智光秀が 赤井氏の黒井城攻めに柏原八幡山城を築いて本陣としています。只・奥村川から譲葉山を東側へ越えれば春日町国領へ出る。黒井城主:赤井直正の弟 :幸家の三尾城の麓で、京都や篠山市内へ向う栗柄峠、 但馬や福知山・綾部へ抜ける街道は丹後 ・若狭へ通じる要衝。

奥村城主曲輪と北西面には露岩の切岸

此の八幡山城が東奥地区の入口に位置して其の奥地「藤の目川」を挟んで東方僅か600m地点に奥村城が在って、八幡山の本陣の指示で、直ぐに動ける兵士の駐屯地として明智方によって築かれた黒井城攻めの向城ではなかったか?。 中世の城・奥村城と八幡山城の接点をこじつけてはみても、余りスッキリしませんが・・!!。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)


新町城 xxx Ca180m   丹波市柏原町新町・見長

JR柏原駅手前東・R176線から柏原藩陣屋・柏原総合庁舎へ分岐する新町交差点を右折して直ぐ目にするのが初代 難波金兵衛の高燈籠で柏原のシンボルともなっているます。東向いに迫る低丘陵上に新町城・山裾から西への直進道路が現状では駅前のカラクリ時計”太鼓櫓”前迄続く旧但馬(山陰)街道です。柏原八幡神社側を流れる奥村川と 見長川が合流する地点の東北部・この高灯篭の角を見長集落へ入る入口に天満宮の扁額が架かる 鳥居が有り石段を登り始めて直ぐ、
初代:難波金兵衛の石灯籠と新町城

幾つかの削平地が有るのが気になります。神社境内で社や祠も無く、其の跡地でも無さそうな平坦地形地がいくつか散見する。石段の先の台地には、受験シーズンだけ人気の天満宮がポツンと隅っこに建っているだけ。それ以上に異常に思えるのはこの更に先の尾根末端ピークを過ぎてから。天満宮背後の尾根南先端の稜上へは3〜4m程の切岸状!!?斜面を登り頂部の小広い台地となっており、
新町城(主郭)南面の切岸が唯一砦跡を感じさせる

東端に役行者と毘沙門天!!の像が祀ってある。 広い緩やかな尾根を降り始めると低い丘陵上の左右山腹に古い墓地が散在している。倒木を跨ぐと倒れた墓石を知らず踏みつけている様な状態の場所もあります。 此れ等の墓地が新町城の曲輪を利用したものか?城域とは符合しているようです…!!?見長の谷間に広がる貴重な狭い耕地を避けて集落西の山腹に墓地が祀られるようになったのでしょうか?。
空堀土塁道か? 尾根にも古墓が散在する為、使用されなくなった旧墓参道か?

石仏群が祀られる山上主郭の東から 南側に切岸が明確に遺り、其の下方の墓地群も急斜面上に有って、嘗ての曲輪跡とも思えるが、城と呼べるほどの規模ではなく通行の監視が主の砦か!!。堀切か・鞍部を越えての墓参道?を越えると城域は稜線を外れて西山腹を伝うようです。西下方の新町側へ尾根上に3段ばかり曲輪が続く所もあり、更に北の山腹を柏原陣屋や崇広小学校の東の山裾まで延びているよだが其処までは未確認。
主郭からの東尾根を絶つ堀切道?

円成寺城の北1km地点に有って共にR176号線側・鐘ヶ坂〜篠山に至る篠山街道 (此の峠道が 利用出来るようになった中世の頃!には山南町経由の 山陰道も此処に通じ)山陰・但馬への街道の要衝監視の城として機能したと考えられます。丘陵の南面から街道筋に面して西側へと山腹を捲くように曲輪遺構が残存するが築城時期や城主等の城史も不明です。
新町城(主郭)に祀られる石碑と役行者・毘沙門天?(不動尊では無い!!)


北方600m程の東奥集落北の尾根末端に 奥村城が有って八幡山城の三城が柏原の城下町の北・北東・東の三方を囲むように位置している。三城との関連は無いのかも知れないが円成寺城 大部谷城のように新町城や奥村城も栗作郷・柏原の久下氏の配下の城砦だったのでしょうか。見長から東奥までも久下氏の領地・栗作郷だったと思えるが詳細・相方関連は不詳・未調査です。


円成寺館と円成寺城(円成寺下城) 円山 Ca170m  柏原町下小倉

篠山市からR176号で金山城の麓・鐘ヶ坂を柏原市街地へ下ってくる手前、下小倉で山南町へと奥野々を越え 玉巻城(久下城)の東裾を通る。この合流する三叉路直ぐ側まで山端が迫っています。譲葉山から南西へ延びる尾根が獅子山(点名:譲権現 348m 3等三角点)を経て更に南西へ急斜な稜線を”獅子山円成寺”背後の西北部に張り出してきた丘陵があります。円成寺は慶長10年(1605)円通寺 14世武山榮文和尚を開山として円通寺(曹洞宗)末となったが大同2年(807)銘の鐘があったと伝えられている。
円成寺館:円成寺石柱門・山門背後に獅子山

開創年代等は不詳だが室町時代中期:文亀3年(1503)是参和尚により再興されている記録からも丹波市内では古参。4世義門潤梁和尚が金神(愛染明王の化身 )を祭祀し方除呪符を授与し方除の寺・鬼門封じの寺として有名。小倉谷(上小倉・下小倉)には現在は円成寺だけだが何れも円成寺末寺として元和6年(1620)頃には5寺院が在った。円成寺城からは正面に久下氏の玉巻城 (山南町)に向かう奥野々峠への車道を挟んで 下小倉の南に大部谷城・西に 金水寺城〈仮称〉が在る。山麓に在った廃寺:金水寺も円成寺末寺の一つだった。丘陵の末端部の峰上には 二基の円成寺古墳があり、
円成寺城から円成寺館(寺の南面:R176並びの段差)

その墳丘を 削平し砦として利用された 円成寺城がありました。この平地からは眼下に通じるR176号(難所の鐘ヶ坂を越してくる旧但馬・山陰道の間道だったか)を見下ろす交通の要衝に位置し、鐘ヶ坂と山南町奥野々両峠を往来する通行監視の砦だったのでしょうか。 古道の山陰道は鐘ヶ坂と川代渓谷を避けて篠山から山南〜氷上へ抜けてたが峻険な鐘ヶ坂の峠道が利用出来るようになると 篠山〜柏原〜氷上経路が 主要ルートになったでしょうから…。小倉地区(見長・上小倉・下小倉地区一帯)は鎌倉時代「小椋御荘」と呼ばれ南北朝期以降・栗作郷の久下氏の領地となっていた荘園です。

円成寺前の平坦段(円成寺館!!)

正嘉2年(1258)の坪付帳に「小椋御荘」の田畑が約50町歩あったと 久下文書にあるが”…御荘”の名からは都の寺社領だったとも思えます。久下氏の本拠・玉巻城から奥野々峠を越えると大部谷城があり円成寺館・円成寺城とは約700m程の距離で向い合う 久下氏一族の城・砦・館が周辺にあったのでしょうか!!。また金山城 【氷上・春日盆地を望み此処ほど軍事的にも要衝・要害の地だけに”丹波侵攻”の光秀が初めて築城ではなく氷上・多紀の 境目の城が築かれており、 光秀が改修したものと推察する】や金山城の出城 ・馬頭の峰【砦跡と思われるが寺跡かも?発掘調査されたか!!?、其の調査対象となっていたかも不明】をはじめ山南町・柏原町境を
円成寺居館跡山門から円成寺城の秋葉権現を望む

奥野々峠を経て高見城へとく稜線に久下氏 ”境目の城”が有っても 仁木氏の 高見城砦群が有っても不思議でない地域です。金山城の出城があった園林寺跡から馬頭を経て山南・柏原境界尾根は方井寺跡を奥野々峠から般若寺虚空蔵菩薩が祀られ ていた高見城へと丹波修験の道があったのかも?…

【円成寺館】下小倉地区・R176号線の側から寺域内に入り、 円成寺に向う寺門(標石柱)側から石段の参道を登ると正面に譲権現(3等三角点)が西先端面に大きな露岩を覗かせて高利200m程ですが厳しく聳え立っています。参道の右側(東)に池が有り現 :円成寺が居館であったか?。
円成寺城・展望よく此処までの山道も 紅葉の時期は良さそう

寺裏手西の墓所を含む高みは 櫓台等警護施設の曲輪?。寺の前東半分を遮断する様な用水池が濠跡だったか?。 背後の谷水を集め流れ出る。円成寺正門西側の長い白壁塀から南下へは4〜5段の畑地跡か?4−50m程の平坦地形(曲輪)がR176号線正面際まで続く。 曲輪?西端は畑の畝か ?土塁線状の遺構?が、丘陵際を国道から上ってくる道は聖観音像へと続く旧参道跡か?。県遺跡分布図の円成寺館は堀状・土塁状遺構が確認されており想定はしてみるが未確認。低土塁と思われる遺構は
円墳が削平された秋葉大権現祠の墳丘部は主曲輪

山門標柱を潜る正面参道東側 池の堤防とは西側土塁腺とは少しズレて食違う形なので 技巧的に”折れ”の構造を意識した中世以降のものか? 断定も出来ないが城主・城史についても不明です。円成寺館の主は誰だったのでしょう…獅子山山頂部から張り出して、切り立つ三方の斜面が円成寺背後に迫る丘陵に囲まれ、斜面を削り込んで敷地として造成された可能性も考えられます。
主曲輪背後の平坦段から土橋付堀切に出る(尾根続きから)

南面だけに開かれた方形館状遺構の円成寺館と獅子山の西尾根丘陵先端部の円山上にある円成寺城【詰め城とセットの居館と考えたいが尾根上に一本の堀切しかなく削平地だけで防備施設に弱い】や南方約 700mの大部谷城円成寺城は多紀郡(篠山市)から氷上郡(丹波市)に入る山陰道の 要衝監視に呼応し小椋荘(上小倉・下小倉・長見)を領した久下氏、後に氷上郡全土を領する黒井城主赤井・荻野氏家臣が拠った城なのか?。
円成寺城・土橋付堀切

【円成寺城(円成寺下城)】円成寺境内の方形館跡・円成寺館を訪ね、 寺背後の西端に張り出してきた丘陵目指して荒れて倒木と雑草で隠れた広い山道は 子山西麓円山頂部・T曲輪に立つ聖観音像の裏に約1m程の段差上に秋葉社を祀る土壇(円成寺古墳の墳丘を整地したマウンドを利用 )が円成寺城本丸。大正10年獅子山円成寺 (曹洞宗)当山24世魁山和尚が平和記念物として建立された。…が昭和19年太平洋戦争 (結果的には第二次世界大戦だが、本来は植民地支配から亜細亜諸国を開放するのが目的の一つだった日本の聖戦:大東亜戦争の呼称はGHQにより使用禁止された。
円成寺下城堀切から尾根続きに延びる土橋状

仕組まれた戦いのような真珠湾攻撃で始まった戦いだが、聖戦の舞台・太平洋での戦争)軍資として供出され、後昭和31年に再建された。山上部には二基の円成寺古墳があったようだが二号墳が 聖観音像の位置なのかは公園化された造成地形では不明だが、同規模だったとされる一号墳(中規模円墳:現状径約15m・高さ1m)が、 聖観音像後に在って円墳頂部が平坦に削平され 秋葉権現の石碑と祠が祀られている。 一号墳上を本丸として円成寺城(円成寺下城?仮)獅子山鞍部付近に城遺構の堀切があり当面下城を付記)が築城されていたのでしょう。
獅子岩直ぐ上部円成寺上城(獅子山城)・石塁上は平坦地形

眼下に京・攝津方面から鐘ヶ坂を越え、或いは播磨方面から奥野々峠を越えてくる街道筋 (間道!?)が望まれ、その通行監視の砦だったと思えます。秋葉権現社から続く尾根続き約30m程の緩斜な平坦地形の先は段差幅共に約3m程の土橋付堀切で遮断されている。堀切向かいは2m程の猪・鹿避けフェンスの方が堀切に幾層倍して 堅固に行く手を阻みます。
(氷上郡教育委員会の埋蔵文化財分布調査報告書資料 参照)


円成寺上城(獅子山城)〈仮称〉  獅子山(譲権現)348m西下のCa310m 柏原町下小倉字獅子山〉

小丘陵部円山(近年に知った円山は山麓の国道に店名:円山亭の 名も残る!?)山上に在る円成寺城(円成寺下城)北端に尾根を遮断して城域を確保する土橋付き堀切沿いの金網フェンス越しの尾根続き土橋状の山道の先にも踏み跡は続くが、 遠目に見た山容から想像できるが点名譲権現(円成寺背後の尖峰・獅子山?三等三角点 348m)へは傾斜が強まってくると下草・羊歯類・
土塁残欠(点前)を認める円成寺上城の堀切

倒木に覆われてくると薄くなり途絶えがち。体が埋もれる程の 最期の藪漕ぎで激急斜面を尾根先の獅子岩〈仮称!?〉の直ぐ近くに登り着く。山頂から 西に延び出す尾根筋は比高約30m程下方から水平(?緩斜な)尾根が延び出し、先端の獅子岩(仮称)傍近く・南への枝尾根の先端には円山のピーク上に古墳のマウンドを利用した円成寺城が在る。城砦遺構などは何もないだろうと思っていたが 獅子岩側へはテラス状曲輪形態を遺している下方を廻りこめば目の前が再西先端部:露岩の断崖。
西尾根末端露岩曲輪と一段下に獅子岩の傍に小曲輪

真下にR176号線「下小倉交差点」を俯瞰する位置に立つ。戻って最先端の曲輪段上部の尾根筋にも 獅子岩続きの岩脈!!?・大きな露岩が累積しており、露岩部を天然の切岸として?、曲輪を分ける程の 段差は不確かだが尾根には幅約10mx長さ約70‐80m程の緩やかな平坦地形で、段差も不確かながら3−4段程区切られそうな?尾根筋となる。 尾根続き最東端部には幅3m・尾根南の谷側に約20m・北側谷へ約30m程を掘り切った空堀は、鞍部では無く緩斜面が続く途中を、突然城域遮断の堀切となる?。少し低くなる城域側の方には低土塁状を視る!!?。
西尾根先端部露岩を切岸切岸の曲輪

これ等を城塞遺構と推察し円成寺城(円成寺下城・円山城 )に対して円成寺上城(獅子山城)古名小字名に獅子山もあり仮称する。円成寺館・円成寺城についても城史一切が不明だが、円成寺上城(獅子山城)〈仮称〉への登城ルートは堀切位置からみて円成寺城との関連から見張り台だが監視よりは詰城として、 更に峰々ピークの平坦地形からは山城の古い形態なのか?、但馬・山陰道の要衝南入口に位置する防衛最前線基地としては、赤井氏の柏原八幡城 (後:明智方本陣となったが)から譲葉山へも通じる”逃げの城”的な要素も?。要衝に位置して山容からも城跡が在るのではないかと、
獅子山(点名:譲権現)3等三角点

丹波の山城にも造詣深い中世城郭研究T氏も、鐘ヶ坂トンネルを抜け通う度10数年以上前から想い続けてこられたとか?。 しかし円成寺下城・上城ともに鐘ヶ坂側の監視が弱く、小椋荘の領内監視の土豪の城と思えるが久下氏なのか?、 其の後の赤井・荻野氏勢が拠る城塞であったかは大部谷城金水寺城〈仮称〉等・小椋荘内城郭の築城目的や時代等の城史について研究が進めば、少しずつでも解明されてくるのかも…。後日:上小倉側の苅野神社からの尾根 【此の尾根先にも円成寺城からは
点名:譲権現直下の片堀切?(竪堀)

陰となる”物見”としては有効な広い平坦地と鐘ヶ坂を望む側にも一段曲輪状と堀切を観る。堀切を越えた尾根筋上部で合流し約50m程で点名:譲権現に着く。山頂15‐20m程北側に片堀切(竪堀)状?を視るが山頂や、この先の譲葉山に至るまでの諸々ピーク上は鐘ヶ坂の昭和のトンネル付近・要衝の旧鐘ヶ坂越え・金山城から上小倉へ降る間道も監視出来そうな位置にあるが城塞遺構は無さそう。
柏原町子育てセンタ (ゆめわあく)と大部谷城

円成寺城(円成寺下城)には秋葉権現が祀られ円成寺上城(獅子山城)上部の獅子山山頂は点名譲権現 348m…から420m峰を経て、遠く望む譲葉山頂594mの譲葉権現堂へと見上げるばかりの急斜面の登行を控えての一段落するには適当な峰々を中継点として丹波修験等の山岳宗教奥駆道が拓かれていたものか!!?。
(柏原町志・ふるさとの寺(氷上郡)を参照)


大部谷城  xxxxCa180m   柏原町下小倉

R176号「下小倉」三叉路交差点から奥野々峠に向う県道86号線に入ると直ぐ目の前にツーカーホン関西の中継塔を載せる小さな独立丘陵がある。柏原川を渡っても駐車場所が無いので西面の丹波林産興業振興センタ側から登路を探すが、簡単に大部谷城域に行き着けるコースはありました。大部谷川に架かる中山橋の先の 民家の奥に稲荷社への参道を示す赤い鳥居が見える。
大部谷城・東端稲荷神社曲輪

此処から稲荷大明神と大歳神社が祀られる境内へ10分ほど。私はその少し先の矢走川・矢走橋から山裾の墓地に出て、疎林の斜面に取付き尾根にのるが大部谷城の側に”矢走”の字名が残る。此処に合戦の歴史でもあったのでしょうか。民家の奥から登り始める最初の鳥居を潜った所には深く真っ直ぐに穿かれた祠状の洞窟が有ったが再度訪れた時は台風23号 (H16年9月)の豪雨の影響で
大部谷城・東端稲荷神社曲輪

入口は土砂で埋まっていた。 戦時中は食糧保存に使われていたそうで、其の後は民家の主人も子供の頃は 此処を遊び場にしていたと言う。城域は丘陵の南を除いては西側を南から北方へ矢走川が、東側は大部谷池が濠を成し大部谷川が東裾を北に廻って合流し柏原川に流れ出る自然の堀で取囲まれています。しかし単調な尾根筋に堀切があったと云うが見つけ出せなかった。
大部谷城・東郭・西郭鞍部の浅い堀切

南ピークに切岸をもった曲輪状の台地があるだけ。 尾根筋を引き返したツーカーホン関西・兵庫柏原ベースステーションの中継施設が濠状の低位置に建ち近くには極小さな平坦地があり、此処から斜面を下って稲荷神社境内の台地までには、鞍部に埋もれかけた浅い窪みが堀切跡か?、北面は直ぐ斜面30m程下は墓地・南斜面に幅 1.5m・深さ1mにも満たないが真直ぐ藪中に消える竪堀がある。片堀切か?、資料にある掘切が此れかとは思える 大部谷城に残る唯一の城砦遺構!!?。
大部谷城山頂曲輪(西郭の古墳の墳丘?)

東郭(稲荷曲輪)東足下に県道292号(篠山川沿い県道 77号篠場から篠場峠を越える山道が下小倉側に繋がる旧道)と北東方の円成寺城が呼応して篠山街道・旧山陰道の要衝監視にあたり、大部谷城北麓には県道86号がJR谷川駅から久下城 (玉巻城)城下を抜けて奥野々峠を越えてくる。北西方はJR福知山線が丘陵裾を縫って・柏原川沿いに北に向かう。柏原川を天然の濠として・此の丘陵上には 遺跡分布地図には示されず未発見か?未調査の金水寺寺城<仮称>が在り、やはり大部谷城と呼応して久下城の北東方玄関口を監視した見張の砦だったのでしょう。
部谷城最高地点の西郭・砦跡と思える平坦地形だが表面観察も出来ない荒れよう!!

高見城や氷上盆地の各城砦への連絡の役割 ”知らせの城”の中継点としては小南山城があるが丹波勢の城か?、東向いに光秀の陣城・八幡山城が有り、高見城【主力は黒井城救援に向い僅か200余りの 留守部隊を襲われ落城しているが】の向城としても有効な独立丘陵ですが… 築城目的や城主・城史は一切不詳…
(氷上郡教育委員会の埋蔵文化財分布調査報告書資料 参照)


苅野神社 柏原町上小倉カツラ山88

上・下小倉の鎮守社として両集落の宮座「宮の党」によって守られてきた 苅野神社は全国 3131座の神明帳に記される延喜式内神社の一つで本殿は三間社流造で正面に千鳥破風・軒唐破風を付す。正面と両側面の三方には 縁を廻し脇障子を立てる。中国の故事や松に鶴・浪に兎・瀧に鯉等の凝った透かし彫りが施されていて、美術観賞としても充分楽しめるものが多いのですが写真には収まりにくい位置にある。
苅野神社本殿側面妻飾

妻飾には虹梁(こうりょう=柱と柱の上部を横に渡す材)を三段に重ね、其の間に蟇股と平三斗を配し、 最上部は大瓶束と笈形【瓶を逆さにした様な大瓶束と、其れを両脇から支える様な形で装飾用として?セットで使われる】とする。彫刻の手法は桃山・江戸初期の粋を尽くした豪華佳麗な造りとなっています。屋根は当初板葺きだったものが 文政10年(1827桧皮に葺き替えられ昭和54年(1979)には銅版葺となっています。本殿内部からは上棟式に使用されたと考えられる3丁の木槌が 発見され「大工丹波氷上郡野山住山本金兵衛」の大工名記され正徳4年(1714)の墨書(棟札か?)が有り、
苅野神社参道

木槌3丁は市指定文化財(平成15年10月20日)となっています。栗作郷(山南町久下・上久下)玉巻城(久下城)を本拠地とした久下氏が一帯に勢力を張り、 玉巻から奥野々峠を越えた 柏原町側の小倉地区(小椋庄)をも領していました。文明3年(1471)時の管領:細川勝元は久下重元に小椋庄領家職の安堵状を授けています。領主:久下氏の下に小椋庄産土神として祀られてきたが明智光秀が織田信長 :天下布武による「丹波攻略」にあたり、天正6年(1578)1212月多紀郡 (篠山市)境:鐘ヶ坂の山上に位置する金山城に陣した際、其の麓に建つ苅野神社や社坊は悉く兵火によって焼失します。寛文7年(1667)苅野田の仮宮より現在地に 造営遷宮され旧・苅野田の跡地は古宮と称して現存しています。
苅野神社本殿正面妻飾の紅梁

幕藩時代の知行は上小倉が植村土佐守の後・水野鶴牧藩、下小倉は織田氏の柏原藩と知行所を異にしているが上・下小倉両村の産土神として信仰され崇敬されてきました。社家には片瀬家・社坊には真言宗高野山宝城院末の竜泉寺、明治維新の際:社僧復飾!?して日置左京・片瀬権守と共に奉仕したが帰農し、本社祠掌の儀は柏原八幡神社へ祀職・千種家の兼掌するところとなり現在に至っています。 片瀬氏が天正年間「丹波攻め」の余波で落城したのか
苅野神社本殿

一族で城を出て転戦中だったか消息不明の鍋倉城(丹波市山南町)の城主:片瀬近江守一族との関係までは不詳ながら…」R176の下小倉で県道86号に入り約7km程 ・奥野々峠を越えれば、嘗て小倉荘を領した久下氏の玉巻城が有り、篠山川を挟んで鍋倉城(太田城)が有るので、城史に名前だけを残して忽然と消えた謎に部将!!片瀬近江守と無関係とも思えなくなってきた。
(現地 苅野神社の縁起及びH16/11月・丹波市教育委員会の案内説明板 を参照)


穴地蔵尊   丹波市柏原町東奥

川に架かる小橋を渡り譲葉山に向う登山道を右に見送り、奥村城(東奥城)へに取付きを探して直進する未舗装林道を進んでみる。城域北峰の尾根付近に乗りそうな 取り付き点を見つけたが、さらに続く街道の峠越え道の様な風情の林道を進んでみると、最奥民家の先の田畑で終え・後は西から譲葉山や 清水山との中間付近に突き上げる谷沿いの山道となるようです。中世の山城が狭い東奥地区だけの領内監視の城とは思えず?譲葉山・清水山間の尾根を越えて春日町野村や棚原へ通じる旧間道があり、その街道監視と考えたいが未確認です。 最奥民家の川縁に建つ納屋へ降りる地点・道路脇に東奥自治会の「穴地蔵尊」の案内道標が立つ。 川側へ下り・橋を渡った先も、九十九折れの急斜面を岩場を避け・露岩を越えて続く参道は、そのまま譲葉山への直登ルートの様に思えた?。尾根筋の踏み跡とは別に山道は大きな露岩の前で行止まり。数段の石段と一基の石燈籠 ・岩に埋め込まれたような祠が建つ。祠は岩根にある洞窟前に建てられ、低く狭く洞窟内の奥には板石に浮彫りの小さな地蔵尊が安置されています。「穴地蔵」の名からは目・鼻・耳等の「穴」の病気に霊験があるとされ祀られます。 此処が街道の間道や昔からの生活道路であれば、子安地蔵として子宝祈願や・峠越えの足痛に霊験ありとしてお詣りされたとも思えますが、何処からも離れた此の位置に果たしてどのような因縁・由緒が残されているのでしょう…?
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