粟鹿峠のお杉さんに逢ってきました 粟鹿山〜仏岩〜お杉地蔵〜マゴ谷/馬ヶ瀬山〜雲須山 |
T-1仏岩〜粟鹿山〜お杉地蔵〜マゴ谷 H12.11.23
粟鹿山へ一般ルートはNTT巡視車道路からと、山東町の当勝神社ルートがあり、
この大稗(おびえ)からのルートは地図に破線はあっても登山者の姿は先ず無いでしょう。9時少し前に氷上町に入りますが山並みは真っ白で何も見えない。
突然霧が流れて山並みが見えるとアッというまに、もう抜けるような青空に大蓑山-粟鹿山方面のスカイラインがくっきり、今の今まで 停滞していた霧が嘘のよう高源寺下から大名草方面への 紅葉ロードと分かれ山裾を大碑へ。
仏岩付近のススキが原が、まばゆく光りますが見た目と違い後で大変な笹とススキの藪漕ぎを強いられました。
ダンノ(3等 722m)山頂から粟鹿山遠望 H16.11.03
大稗集会所にはお杉地蔵を取り囲んだ児童達の
色褪せた写真が掲示板に貼られています(AM9:00)。登り口を訪ねた人も昔1度行ったことはあるが?と、よく覚えておられませんでした。橋を渡り集落どん詰まりの窯元の先に林道が延びており、
お杉地蔵とは方向を違えて続きます。とりあえず仏岩〜粟鹿山尾根縦走で・お杉さんに逢おうとは当初よりの計画コースで往復の順路が違うだけ。2〜3mの滝が幾つも掛かる谷に沿っての道は
巡視路No57で右手の尾根に延び道は薄くなるが谷に沿って直進します。もうすぐ稜線というところで踏み跡は左の突然2m以上のススキと背の高い笹の中に消えてしまう。
右手に鹿除けネットを張った鉄のポールが
続いているようなので、これに沿った方が良かったが既に遅く高度差5〜60mのキツイ悪戦・苦闘で細々とした踏み跡が残る稜線に出て仏岩(814m)の前に飛び出します。
トップの画像が仏岩露岩群では一番大きな岩(約15m程)です(AM10:25)。
大稗公民館附近からの粟鹿山
露岩の続く中を高みの814mピーク〜粟鹿山にかけては一面の笹原。鹿除けネット沿いに歩くと僅かの距離に2頭の哀れな若鹿に逢います。
ネットに角を絡ませて死臭を漂わせている9月以降に災難に遭ったようです。ササの原を抜けると鹿避けゲートがあり道が現れ直ぐに右手からの道と合流する(AM10:50)。
森林開発公団の見出標No3のある分岐でダンノ経由で小碑へ降りる。与布土への分岐黄色の標識を見ればもう粟鹿山(粟鹿峰<県境だが丹波市最高峰
>962m)山頂は目の前です(AM11:00)。ひとしきり展望を 楽しめばもときた道を引き返し仏岩へ戻って今度は粟鹿峠に向け 尾根縦走ですが結構複雑です。
いくつかの露岩に腰をかけじっくり思案・検討します。与布土への尾根からも!峠越えで粟鹿峠へ出る道はあるが一般登山ルートとして整備されていないので藪屋さんの世界。
地図・ルートファンティングも有効かどうか?藪の鞍部は殊に方向を見誤りやすいので要注意…西端の566mピーク付近は明るい林間の尾根を急降下した峠の少し手前にお杉さん
(お杉地蔵)は優しい顔立ちで微笑んで立つ。静か過ぎる峠道をほんの10mほどで
最高地点ですが道はこの先大名草からの林道に出て
先の粟鹿山からの峠をこして川上 ・与布土(但馬)に向かいます。私はこの地点より左の尾根に採り付き大稗南西へ延びる周回の縦走に移ります。最初のピーク582mからは
粟鹿〜雲須山の稜線がわずかに望めます。
点名:マゴ谷山頂(正面中央が三角点標)
あまり展望に恵まれたルートではなく尾根を違わないよう注意で、ピークからの踏み跡を辿ると小名草からの林道に下るようです。
踏跡もない左方向に丈の低い藪の中を分け目安の鉄塔に向かって進む。火の用心No55鉄塔下に(12:50)到着。向かいの雲須山(雲頂山)へ一直線に送電線が伸びている。
赤松と檜の明るく広い道が続き鞍部を上りきると無名の537m峰からは高低差の少ない緩やかな散歩道がマゴ谷(三角点537m)へと続きます。尾根の南端に位置した平坦な場所で
南に一部展望が開けるが、メボシイ山は岩屋山・大箕山(丹波冨士)のほか見当たりません。
踏み跡は二手に分かれますが大碑へ下りますので左へ尾根道を辿ります。緩やかな尾根道は何処までも続くようですが無名ピーク(390m)からの尾根を右に採れば地図に記される長い階段と
鳥居のマークのある末端部:大名草(おなざ)の鹿野馬神社へ降り立つ筈だが!!、右手の尾根からは下降点が見当たらず大稗口バス停近くまで来てしまいました(1:45)。
T-2鹿野馬神社〜天王山〜点名:マゴ谷〜537m峰
〜孫谷〜一の瀬谷林道 H19.02.17
三丹(丹波・但馬・丹後)一とも云われる柏原八幡神社境内で行われる早春の大祭【厄神さん】の日は決まって天気が悪く例年
:雪 ・みぞれや寒風に襟を立て参拝しています。今年は暖冬なので…芳しくない。なんとか午前中は雨(雪かも)も大丈夫だろう。帰路に参拝する事として丹波市最北端の青垣町小名草に向かう。丹波にも数少ない1等三角点粟鹿山
(粟鹿峰 962m)は登山者も多いがWeb上にみる記録からは其のコースも限られているようです。
宮橋を渡って鹿野馬神社へ
篠ヶ峰同様に楽しめるコースがあっても知られていないのかも!!?。
粟鹿山へは遠阪峠からカラコ山を経ての縦走コースや馬ヶ瀬〜粟鹿山や、伝説の「お杉地蔵」からも仏岩を
・また其の逆走ルート、及び粟鹿山〜点名:マゴ谷へ(当該ページ内にレポートがあります)を歩いているが、今回は最も良さそうなマゴ谷の尾根ルート末端に位置する鹿野馬神社を登山口として
歩いてみたかった。西脇市や多可郡から播州峠を越えて丹波市青垣町に入るR427号線と朝来市生野町から銀山湖・黒川温泉との分岐を経て生野峠(青垣峠)を越えて降りてくる合流地点が大名草(おなざ)です。町内を抜ける狭い道路入口が
大名草上バス停で其の東を広いバイパス道の先・山側の谷川(加古川の源流)に架かる宮橋を渡り、石の鳥居を潜って参道を進みます。
鹿野馬神社
青垣町には県下でも貴重な植物の原生地が有り、一時は危惧された植物群の保存保護に協力されている国
・県の絶滅危惧類(レッドデータx?ランク)に指定の花達です。先日は「セツブンソウ祭り」が行われた青垣町の東芦田ですが、此処:大名草の神社付近でも「ユキワリイチゲ」の
白い花が咲き始めていました。春を待ち切れずに咲き始めた早春の花の命も短い
スプリング・エフエメラルの花を愛でて…参道は一折れすると急斜面となり階段が尾根末端上の社殿まで続きます。神社の背後に廻ると踏み跡も薄い急斜面となりますが、
尾根筋は判るし藪も殆ど無い。激登りが続いて神社端以後の最初のピーク(天王山317m)に着くと、後は今までの急登が嘘のように緩やかな植林帯が拡がる。テープや木々に捲きつけられた紙が松茸山を示していますので、
この先から始まる自然林の中・秋の素晴らしい 紅葉を楽しめないのは残念です。前回下った東からの尾根と合流する390m付近もピークを意識しないまま通り過ぎる散歩道。
一の瀬谷林道沿いのミツマタ
自然林の中の僅かのスリックを透して 馬ヶ背や粟鹿山の山影が見えるだけで眺望に恵まれないが何処までも 水平道の広い尾根道は快適なプロムナード。ピーク近くなって少し登りとなって広い平坦地に着くと其処が点名
:マゴ谷(3等三角点524m)山頂です。鹿野馬神社から約1時間:粟鹿山の草原や山頂の無線施設が大碑の谷を隔てた直ぐ前方に見える。緩やかな尾根筋は537mピークを北端に
降り始めるので今日は此処まで:立木に塗られた 黄色のペンティングを伝い西へ下って一の瀬谷に深く入り込む林道を目指し最期は滑れば谷まで止まらず堕ちてしまいそうな激急斜面を降り、孫谷標識の立つ加古川(旧佐治川)源流の一の瀬谷に降り立った。
谷の左右:山裾にはミツマタの白い(よく見ると淡い黄色)花が目立ちます。未だ蕾:此れから黄色の花を咲かせます。馬ヶ瀬・幇の木等の字名を示す標板を見ます。
撤退した537m峰:自然林のスリットを透して粟鹿山遠望(右上)
馬ヶ瀬〜雲須山(雲頂山)へもこの谷から登り
粟鹿山へ縦走しました。(下記Uのレポートを参照)。林道入口付近にはアマゴの養殖場があり、集落最奥に「あまご屋」さんがある。青垣町の「
高源寺のモミジ祭り」や「倉町川のサクラ祭り」では町内の和菓子「高砂屋コンフエクト」さん・漬物屋さんもアザミ菜漬を屋台を並べて…売られていますが、
いずれも人気ですね。あまご屋さんは昨年「サクラ祭り」では水槽持参。しかし「あまご」の泳ぎ回る姿は暫し・早々に水槽に居るアマゴの姿は消えて誰かの胃袋の中へ…(^_-)-☆
U馬ヶ瀬〜雲須山(雲頂山)から辿る
粟鹿山(兵庫丹波の最高峰)〜お杉地蔵 H12.06.16
黒川ダムを見下ろす雲須山(雲頂山)から粟鹿山への縦走は粟鹿峠からマゴ谷
への縦走で常に気になっていた山塊です。雲須山へは国道175号線で青垣町小名草(おなざ)を目指します。427号線は途中福知山へ向いますが西脇方面の標識に沿って小名草に入ると加美町・播州峠と生野町・生野峠に向う分岐を生野町方向すぐに「あまごの里」案内標識のある細い村道を、
一の瀬谷に沿って集落から林道へ・終点は粟鹿山西南尾根の中程にある伐採され立木の無い山肌を見せる付近の裾まで延びているようです。
マゴ谷の稜上から馬ヶ瀬へは送電線の鉄塔巡視路
No53「火の用心」標識が登山口で(AM7:00)。取付点のポールに「ネコノメ草はありませんでした」のメッセージが書かれています。 どんな草花なんでしょうか?。
10分余りで鉄塔下に着き、馬ヶ瀬山頂まで迷うこと無き素敵な巡視路(山道)が続きます。送電線の真下を通過すると突然のように植林帯の道は自然林の中の道に代わります。アッと息を呑むほどの景観が
暫らくですが続きます。足元には白っぽく小さな花を随所に見かけます。ギンリョウソウは何処でも良く見かけるので左程気にしてはいなかったが最近の多くの山レポートでは写真で紹介されている
珍しい花のようです。No51〜53の巡視路標識の分岐が馬ヶ瀬(870m AM7:55)で平坦な山頂付近から三方へ尾根が広がります。先ず巡視路に沿って正面の広い道は3分程で鉄塔に出ます。鉄塔(No51)下は芝生で気持の良い。
大箕山も此処からは丹波富士らしく見えます。眼下に黒川ダムやダムサイトの風力発電の 白い風車が見えて雲須山への方向を同定してくれます。元に戻って今度は踏み跡を辿って雲須山へ殆ど高低差の無い尾根を
15分程進むと小高い高見へ出て 雲須山(雲頂山)山頂の3等三角点(876m AM8:15)です。山頂南端に見事なまでに満開のムシカリ!の花。この先に道は有りませんが心地よい林の西への降り
尾根を黒川ダムへ下降していきたい 誘惑に圧されがちですがグッと我慢。粟鹿山への北への尾根を採る為に馬ヶ瀬まで戻り登ってきた No52方向に尾根を辿ります(AM8:25)。此処まで順当でしたが
773mピークを越した辺りから 踏跡は黒川ダム方向にあり遂に西方向の尾根に入ったようで前方の山腹に車道が 走ってい
るのを見てシマッタ。 ひとつばかり戻って尾根を修正したつもりだが結局は黒川ダムを周回する車道に降り立っていた。
「黒川本村 L=6.9Km L=11.1Km」地点の標識が有ります。黒川ダム最北東のカーブ付近です(AM9:05)。
神谷山再興寺(青垣町大碑)
車道少し先で保安林・保健の標識のある位置 (AM9:15)からゴソゴソと稜線目指して登り直します。稜上に出ると結構広い山道が但丹境界尾根に続いています。
粟鹿の中継アンテナ群が目立ちます。随分西に寄ってしまったようで軌道修正して 元の尾根へ戻るのは中々です。山東町与布土と青垣町小名草/大稗を結ぶ旧峠道は気がつかなかったが、
粟鹿山西南稜取付付近は幾つかの踏跡と稜線は山道となって続きますが、私は峠道を探すつもりで 山腹をトラバースする細い踏跡を辿りましたが杣(そま)道だったようでマサか人間が居るとは
思わない鹿をビックリさせてしまいます。何時しか藪の中に突入してしまい棘の木の多い中をもがきながら 上部を狙います。先の山道に飛び出す。以前はハイキングコースだった様だが踏跡さえ
消えた道は、又よく踏まれた山道となり一気に展望も拡がり、
風も心地よく快適です。やがて鹿避けネットが現れ背丈ほどの笹藪になります。踏み跡は笹薮が邪魔ですが、此れは山頂が程近いという意味にとらえて 暫らく我慢です。
神谷山再興寺(青垣町大碑)
抜ければ目の前に山頂施設が見え程なく「あの黄色い看板ナニ」とばかり「与布土」を
示す表示板が 仏岩方面からの尾根分岐にあり約10分で山頂。山頂への専用林道横に立派な公衆トイレも有る。建設省とNTTdocomo中継施設の間に丹波の数少ない1等三角点粟鹿山(962m AM11:00)がある。
なんとコースは違えど到着時間はドンピシャリ同時刻です。辿ってきた雲須山の肩に黒川ダムが光っています。
朝来山が綺麗に裾野を広げたトロイデ型を、竹田城も日本三大山城の威容見せています。山名を同定していては ページが足らなくなる程360度展望絶佳の山頂です。先のトイレ横まで戻って仏岩へ向います。
「与布土」の黄色い看板を見て左折、暫らく進むと道は二分して右の藪っぽい方向ですが道すら気づかず直進しそうですので赤テープに注意してください。前回のときは黄色い見出標No3があったが
鹿避けネット沿いの道は小稗方面へ下る道。二頭ばかりネットの鹿骨を見れば引き返すかも…?分岐からは直ぐに良い道?になり尾根の先で鹿避けネットを 開閉して中に入れば此処から笹の草原が広がっていきます。
勿論展望もです…前回此処で見かけた、うずくまり悲しそうな目をしていた鹿は白い骨を残すのみ…しかし鹿避けネット沿いしか踏み跡なしです。 南端のピーク仏岩Ca814m付近から下り始めると
下方に露岩が目立ち始めます。仏岩群の一番大きな岩から粟鹿山を望んだトップの写真を参照してください仏岩(AM11:35)。 此処からのくだりは前回と同じです。
途中まで左手の鉄柱鹿避けネット沿いですが右下へ延びていくネットを潜って直進するが 荒れて崩れそうな岩場の通過は注意が肝要です。またこの先からの尾根筋は 大碑側へ下る踏み跡や尾根に迷わされます。前回数本目印の赤テープは健在でしたので 黄色テープを
全工程中に2〜3ヶ所マーキングしたが、以降に誰かトレースした人がいるかナ。仏岩から粟鹿峠 (お杉地蔵)まで1時間程です。
此のレポート10数年後に祠や参拝道が整備されていた<H28.11>
西端の566mピーク付近は明るい林間の尾根です。お杉さん(地蔵)は尾根を急降下した
峠iに佇み天下太平の文字の下に柔しい顔立ちで微笑んでいるようです(PM12:20)。文政元年寅年七月吉日、施主は大稗村の建立と記されています。右手に錫杖・左手に宝珠を持ったお地蔵様です。
静か過ぎる峠道をほんの6〜7mほどで最高地点ですが道は谷沿いに10分程で大名草へ出る林道に出てます。この林道を下って駐車デポ地へ戻ります。先の粟鹿山からの峠をこして川上・与布土(但馬)に向かうコースは
今回確認したかったのですが林道の途中からもう一つの峠に向う様だが未確認です。前回は峠鞍部から左の尾根に採り付き大稗南西へ延びるマゴ谷へ周回縦走しました。
<参考>大稗から直接 お杉地蔵へは、 大碑川に架かる奥道橋を渡った先の民家の裏手に「火の用心」No55,56(Noは消えかかっているが)標識から1m幅の草の土手沿いに進みます。直ぐにひろい道が峠まで
続き大稗集会所から約30分で到着です。峠からは谷に沿って小名草からの林道に出ます。
後藤又兵衛の子が再興した古刹 再興寺 青垣町大碑
紅葉三山で知られる高源寺前を北上すると丹波市最北部の峠を越えると但馬:生野町や播州 :加美町へ抜ける大名草(おなざ)に向います。北東方には高原状の緩やかな 山容を見せる粟鹿峰(粟鹿山)が望まれます。高源寺下か大名草の手前より此の粟鹿峰の南麓へ向うと
小稗城のある小碑への分岐を別 けて大碑集落へ入ります。大稗集落内で周回する道路の分岐は集会所へ向う左手(西側)への
道を見送って直進、直ぐ広い空地?の右手奥へ坂道の先には、蔓草が絡みつく大きな石灯篭と 石積に囲われた一角に鐘楼や本堂が並ぶ神谷山再興寺(臨済宗)が建っています。
但馬境の尾根上に在ったという天台宗の名刹神谷山西光寺を平安時代 :弘仁5年(814)法道仙人が此処に移
して、堂宇を造営し再興寺に改めたとされます。寛永年間(1624-44)了徹和尚によって再興された際・天台宗から臨済宗に改宗されたが、その間の歴史は不詳です。
了徹は戦国時代の豪傑で播磨春日山城主:後藤又兵衛基国の子・基次です。又兵衛基国が大阪夏の陣で戦死した後
・一族は丹波に逃れ、了徹は姫髪山山麓のモミジ寺:長安寺(臨済宗南禅寺派 福知山市奥野辺)で落髪して
仏門に入り播州杉原谷の雲門寺(加美町清水)に住み、後に長安寺に戻り法嗣の東嶺和尚に請われて大碑の再興寺を再興し、元禄2年(1689)7月:82歳で亡くなったています。高源寺が有名な為:殆ど知られない再興寺ですが、
此処も鐘楼から本堂へと山の斜面の数十本のモミジが、此れからの季節:朝の冷え込みに… 色鮮やかに山裾の寺を真紅に染める事でしょう。
(ふるさとの寺「氷上郡」を参照)
お杉地蔵
但馬側の朝来市山東町と丹波市青垣町を現在R427(遠阪峠)や近畿自動車道R487(遠阪トンネル)で繋がるが、
往時は柴(柴城がある)から粟鹿山の東肩から稲土(
稲土城がある)を結んでいたようです。此のお話からは朝来市山東町与布土(与布土川沿い周辺に
衣笠城・与布土氏館・諏訪城 等がある)から粟鹿山の西肩から大稗を結ぶ峠越えルートをとられている。「お杉さん」が通っていた和田山町藤和 (
大将軍杉)へは随分近道!?とも思え高源寺下からの県道276号も大稗で消えるが
、県境を越えた与布土側で繋がり与布土氏館近くでR277に合流して竹田城下の丸山川沿いR312に出る。
粟鹿峠と祠に祀られる現:お杉地蔵
此のルートによる
「お杉さん」の遭難碑?お杉地蔵は粟が峠iに佇み天下太平の文字の下に柔しい顔立ちで微笑んでいる。文政元年寅年七月吉日、施主は大稗村の建立と記され、右手に錫杖・左手に宝珠を持ったお地蔵様です。
「恋の一念で越す雪の坂 不思議や芽吹く杉の一木」 お杉は寒さに身をすくめながら
今夜も峻険な粟鹿峠を越え但馬の柴村から大稗の男のもとへ三里の道を急いでいた。通いなれた道ではあるが、女の夜道には危険も伴うし、わけても夜は魔物が跳梁するといわれ
粟鹿峠のお杉地蔵(旧)
鞍部を左へ急登はマゴ谷への稜線。地蔵真後ろの尾根を辿れば粟鹿山です
昔からの魔よけの白装束に前と後に鏡をかけての出で立ち。 男のもとで尽きぬ語らいに思わず夜を過ごし、名残を惜しみながら外に出るともう辺り一面銀世界。「今夜はいやに底冷えがするし,この分だとまだ積もるだろう、
それに風も出てきた。いっそ泊まっていったら」 「一年からも通った夜の道、それに但馬は雪どころ雪国の娘が雪が怖くてどうしょ。朝になったらお天道さんに顔見られるのも恥ずかしい 」と藁靴に履き替え雪の帰り道を急ぎます。降りしきる粉雪と風、 粟鹿峠にたどり着いた時には疲労で雪の中にドッと倒れます。吹雪の去った後に・もうお杉の姿はありません。
翌朝・お杉の姿が見えないと村人が行方を探し峠で雪に埋まったお杉を認めます。
青垣町稲土から望む大蓑山(丹波富士)
粟鹿峠の残雪が解け暖かい春の日差しが降り注ぐ頃、そこに一本の杉が生えていた。「此れはお杉の霊に違いない」と悲恋のお杉の霊を弔うため 此処にお杉地蔵を建てて冥福を祈ったというお話。
お杉は和田山町藤和(竹田城跡の北西方の奥にある地区)に奉公に 出ていたが、
勤勉さに免じて月に一度は稲土(浄丸ノ滝のある道)へ抜ける峠??を越えて親元に帰る事が許されていたようですが、
或る日・奉公先で父親の急の報せを聞いて、 急ぐあまりに何時もは通らない大稗(おおべ・今はおおびえ!)へ抜ける粟鹿峠を通って帰る途中、折りしも降りしきる雪の中で倒れ…後世・お杉の霊を弔う為に
村人が石仏を彫って祀った…と。
但馬:藤和の大将軍杉
藤和には将軍杉(高40m幹の太さ10m)と呼ばれる大木があり、山垣城主(氷上郡青垣町)足立遠政の長子・足立藤和(とうわ)がこの地に隠棲したことから「藤和(ふじわ)」と呼ぶようになったといいます。
また藤和より以前・平家の落武者と土地の人に崇め祀られている藤原庄司という人物の墳墓があり、足立家も本姓が藤原氏であったので、その因縁から墓前に 記念の杉を植えたのが今日の「将軍杉」だと伝えます。
余談ですが、藤和には「夏谷の名水」が稲土には「銚子ヶ水」の名水があります。
小稗城
小稗城
城山 Ca200m 青垣町小稗
もみじ祭りで賑わう丹波もみじ三山の高源寺は
後醍醐天皇の銘名で天皇の祈願所ともなり、全国足立氏の祖・足立遠政の4代目(遠政の孫・光基の三男)遠渓祖雄の開創によるもので、足立氏がこの地で400年の長い歴史を築いたのも、遠渓により領民の支持を得てきた事が要因に挙げられます。高源寺への分岐を真っ直ぐ西へ延びる車道は丹波最西端の 大名草集落に入り播州峠を加美町へ、
生野峠を但馬の朝来町へ通じます。北方には丹波最高峰の粟鹿山が望まれます。
集落内背後の小稗城
その粟鹿山を越え山東町粟鹿や与布土へも厳しい粟鹿峠がありお杉地蔵の話が伝わっています。粟鹿峠に向う大稗と
小稗の分岐点には道標地蔵が立っていますので右折する小稗への道を入ります。粟鹿山から
南東へ延びる尾根がダンノ(段野か!点名:段ヶ谷3等三角点722m)から南下の小稗集落へ急激に落ち込んでくる尾根の末端付近に天正期には足立又三郎が拠った小稗城(砦)があって南麓に住んだと
「青垣町史」は伝えます。
小稗城の主曲輪と堀切側土塁
登城口に選んだ地下(じげ)の天王山
専称寺(浄土州)は他に寺も無く、檀家も固定していて不要なのか案内標示や寺名表示はありません。この寺が城主!安達(足立)又三郎の居館となっていたのでしょうか?。それとも北の谷筋の入口上部の広い平坦地が居館だったのかも?、 城域の尾根北側の谷筋に明確な道が延びていますが城域を外れた先の尾根上に続く様なので、
南側の専称寺側の小池傍から延びる山道へと倒木に足をとられながらも進みます。
堀切と主曲輪(先端部)
急斜面直ぐ上方には大日如来…と赤い幟の立つお堂があって、苔むした細い参道を此処まではお参りされているようです。 丹波攻めで多紀郡の八上城・氷上郡の黒井城を落して
丹波を平定した明智光秀は丹波国守護として福知山城に居た。安達又三郎は其の家臣だったと云い、黒井城落城後・光秀に下りた足立氏の一族が安達姓を名乗ったものか?。又三郎は天譽上人(黒井:称名寺
を再興した)を慕い・専称寺の再興を助けたが、天正10年(1582)山崎の合戦による光秀の死に、
又三郎は此の寺で出家し法伝と号して大施主となったが、天正17年(1589)に亡くなり此処に葬られ法名:宝弘院心譽法伝栄松大居士という。
堀切と主曲輪(先端部)
荒れた細い山道が更に上方に向かうので進んで行くと、最上部には低い石積みの壇に・壊れかけた小さな祠を載せる社に着いた。
関東から来住の足立氏一族の城なので守護神の秋葉社か諏訪社が祀られているのでしょうか。上部から祠の背後に真直ぐに落ち込んでくる溝がある。雑木と倒木に埋もれよく判らなかったが、僅かの距離だが這うように溝に沿う左右の踏み跡を伝うと 20数mで溝は突然に消えた。一本竪堀が走っていた。
其の上方に傾斜も尾根幅も少し広くなった緩やかな尾根先に、平入りの虎口を見せる単郭の小稗城が此処に在った。
小稗城:小祠背後に落ちる竪堀
虎口から登り着いた広い平坦地が主曲輪で尾根側6m程の急斜面は櫓台でも有ったか!!、主郭左端(北)の登り土塁から大土塁上に出ると、
尾根側を高さ2m・幅3m程の掘切で遮断している。残土を土塁として積んで防備しただけの小さな砦で、
堀切からの尾根側は急斜面でもないが幅の狭い尾根が延びていくだけで?此の先に城遺構は無さそうです?。
小曲輪から虎口を主郭に入ると正面には大土塁
粟鹿峠・生野峠・播州峠を越えて大名草に入ってくる要を監視する見張り所の様ですが、山に囲まれた尾根末端の砦では
本拠・山垣城は勿論、すぐ東にある稲土城への”狼煙”伝達も見通し効きません。かろうじて南東面の岩本城へは可能だったと思われますが…。
稲土地区も足立姓の多いところ。山垣城の支城の一つとして機能していたのでしょう。
(青垣町誌 氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)
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