明智光秀の一夜城伝説の山 小富士山・三ッ塚史跡公園周辺
丹波市(五万図=福知山) 
小多利・桃源寺から小富士山(高山)230m H13年02月17日
日ヶ奥トンネル〜カラタキ(点名:小多利) 小多利城館 H17年06月12日
阿陀岡神社の東から望む小富士山

近畿の山城 : 留堀ヶ城 小富士城 畑山城館と矢谷城館 小多利城館
美和砦稲荷神社曲輪・美和砦
近畿の山城と丹波のお話 小富士城
ふるさと富士: 小富士山
校歌・故郷の山♪xx・・・丹波小富士と向かい合い・・♪吉見小学校

八上城を落とした明智光秀の丹波攻略最終章は丹波三郡に最後に残った氷上郡。「丹波の赤鬼」の異名をもつ最強の敵・黒井城主”荻野(赤井)悪右衛門尉直政を攻撃する為の陣城を小富士山頂に築いた。この折互いの牽制の中で丹波のお話・小富士城明智一夜城伝説が残る。春日の小富士山の北に連なる低丘陵が 横峰山(高谷山)へと高度を上げながら延びていく。丘陵帯中程の西に拡がる盆地の山裾には国指定史跡・
小富士・岩尾根から黒井城を望む

三ッ塚廃寺跡の史跡公園となっている。公園内の”ライフピアいちじま”に来る用事があったので、ついでに公園南背後の丘陵尾根上にある矢谷城館・北に上垣城・高谷山(横峰山)の尾根筋には高谷山城等があったと云われる。 幾つかの山城を機会を見つけ少しずつ攻略していくつもり。三木合戦の於ける羽柴秀吉は三木城を包囲した30?数カ所の及ぶ付城。其れに準じるかのような明智光秀の八上城包囲にも十数ヶ所?かの付城群がある。本拠城の周囲を堅める氷上の城砦群を一つ・また一つと落としていく戦法はどれも同じ。攻略した敵城砦を付城として活用する戦法も同じ!!。しかし氷上郡(丹波市)黒井城攻めの付城群について部分的にでも 記述されている資料を知らない。
畑山城:日光寺背後の稜上にみる土塁堀切と段曲

「信長公記」…に8ヶ所程?付城があったことは記されていると聞いたが(付城の位置や砦名・守将名等までは未確認)。明智光秀の本陣に此の小富士城 金山城八幡山城 浄福寺砦<仮称>・黒井城正面に茶臼山城・西に
新才城<仮称>やカンジュウジ城(横田城) 白毫寺城・東白毫寺城<仮称>譲葉山城<仮称>朝日城四ノ山砦<仮称>惣山城北村城(長谷山城) ・伝承のみ?の柏原茶臼山砦 畑山城・十方寺背後の段宿城<仮称・HPにも未発表だが>…等々「丹波志<丹波三郡の古城の部等>」や埋蔵文化財分布調査報告書や郷土史誌類にも、城砦を未改修のまま付城として使用されたものも含めて幾つかはある筈だが? …郷土史誌類等にも記述は見当たらない(詳細確認未実施)。


桃源寺から往復:春日小富士山  2001年02月17日

低山ながら丹波の小富士山は竹田川沿いR175号線の多利集落に優美な姿を際立たせ田園風景の奥に小さな裾を拡げている。 登路を探し阿陀岡神社付近へ来ると富士型は変らないが山頂に向かい露岩が梯子のように延びています。無人の大師堂?の辺りで様子を調べていると畑仕事の里人に会い、 尋ねると桃源寺から25〜30分もあれば充分だとも。
阿陀岡神社から望む小富士山

阿陀岡神社の駐車場から小富士を望みながら進み日限地蔵尊の看板を見て左折すると巌高山桃源寺(天台宗 PM3:35)。裏手の墓地の間を抜けて登山道があります。創建は元禄元年(1688)だが燃失して天保5年(1834)信哲和尚により 再建されたと云い薬師堂や庚申堂等が在る。ことに地蔵尊は日を限って願をかけると霊験があるといわれ”日限地蔵尊”は珍しい 北向き地蔵 【三丹唯一(丹波・丹後・但馬地方を指し毎月24日が例祭)】として知られ、日を限ってお参りすれば願いが叶うとして信仰をあつめている。
西国巡礼「なりあい街道」但馬・丹後・若狭街道でもある(左旧道)

石龕寺奥ノ院への峠に祀られる「東向き地蔵」も珍しいが…其の桃源寺背後から続く急斜面の直登ルート。 明るい露岩帯の展望良好コースに第一・第二と展望台の標識がある。小多利公民館が設置したもので、山に囲まれた盆地の中央を竹田川が流れており丹波霧はそのシーズン中・遅い時間まで霧が晴れることなく 残っている。第二展望台を過ぎれば露岩帯を抜けると樹林帯に入り眺望はなく小富士山(230m PM3:55)山頂の少し陰気な小さな平地にお堂が立つ。山頂からは薮中に細々と途切れがちな薄い踏み跡が続く。
桃源寺から望む小富士

唯一緩斜の長い西尾根は主郭北尾根筋の北曲輪群に入る手前・祠横から降りはじめは幅広い整備された登山道があるが、 直ぐ北への明確でない尾根筋踏み跡と別れる・急に細い道が左手に降りてゆく。鞍部から池尾集落西山麓にある虚空蔵菩薩を祀る明照寺に降り立つと道と思う?。黒井城主の守り本尊・虚空蔵菩薩が黒井城を落とした明智光秀の陣城 :小富士の西方僅か500m程のところにあり…なんとも皮肉な運命の悪戯か?!


留堀ヶ城 小富士城 畑山城館と矢谷城館 小多利城館
美和砦稲荷神社曲輪・美和砦
留堀ヶ城(酒梨城・戸堀城・溜堀(とんぼり)城・頓堀城) 市島町酒梨(さなせ)

R175号線沿いに望む黒井城が姿を消してくると、右手前方に春日小富士(小富士山城)の姿を見る。R175号が竹田川に沿って急カーブを描いて東に向うと美和地区勅使交差点を左折する北の堤防状の高台に建つ赤い屋根の三輪養護学校傍に黒井城主荻野伊予守秋清の下屋敷 酒梨(さなせ)城が在ったところ。後に黒井城の外郭を守る帳(とばり)として築かれた
留堀ヶ城跡碑背後が主郭(保育園跡)・左手栗林・圃場が二・三ノ丸跡か?

城砦群の一つで留堀(とんぼり)城の名は、とばり→とぼり→とんぼり…と読み名が変化してきたものか?。遺構の残存状況も知名度も低い 丹波市内の城跡だが市島町内には溜堀(とんぼり)城のほか、市島中学校敷地には 鹿集(かたかり)城が在り、何れも立派な城址碑が建てられ友政(とんまさ)城跡も城山の里 ・桜公園として整備されている。留堀ヶ城(酒梨城・溜堀城)へは美和川に沿って遡れば良いのですが…!!三輪小学校手前の交差点の直ぐ西側に市島町美和ふるさと観光案内板が立ち分岐の左手一帯が留堀ヶ城。
大手門跡!!?・現在:正面保育園はカフェにリノベーションされている

美和保育園・美和コミュニティセンタから三輪小学校にかけて田圃が拡がり、その東に郵便局や民家が建ち並び造成削平されており、元の遺構を知る手懸かりは無くなったが周辺の田圃や僅かに残る竹薮の中に空掘りや曲輪の関連の遺構が残っています。西側へ降れば戸坂から白毫寺へ車道を挟んで続く田園風景が拡がり、 城周囲の縄張りの面影が土手の輪郭から朧ろげながらも見えてきます。
旧保育園側から栗林の土塁曲輪・切岸を望む

酒梨・戸坂・白毫寺等の美和地区内の”みわ”の名称に三輪小学校とか 保育園…等の呼名があり二つの”みわ”を疑問に思っていた。丹波の荘園(細見末雄氏著)によると元々:美和郷として 一郷だったが二つの(三和庄と三和勅使田)荘園が成立していた。 詳細不明ながら勅使の字名がのこることからも勅旨により拓かれ土地を親王に下賜された領地。三輪小学校前を乙河内へと北上する車道が美和川と合流する位置に三輪神社が在る。
竹薮先には大空掘(竪堀)

美和郷六ヶ村(乙河内・戸坂・与戸・白毫寺・酒梨・勅使)の総社であり・美和地区の産土神でもある。何処かに”三和”の名も残っているのかも?。密生した竹薮内に土塁や空掘遺構も残されているかも?・藪が深く 踏み込んで窺がい知ることも出来そうにない。溜堀城跡の石碑背後の美和保育園・三輪養護所へ登って行く両サイドは 空堀と土塁切岸状を抜ける大手登城道?。西面の竹藪・栗林・圃場、東の保育園・養護所等施設側(本丸か!!?)を分ける広大な平坦地形内に 土塁囲みや数段の曲輪群跡が二ノ丸・三の丸を分けていたものか。西側の栗林は土塁で囲まれ、 その先には一段高い櫓台状があり竹藪に続いて斜面を降っていく。
栗林の中の土塁線と一段高く櫓台状地形もある


田畑地と竹薮を境にして北方にかけて丹波でも最大級と云われる空掘(竪堀)がある。南東に竹田川沿いを望み 城内も一望出来る一等地を屋敷(居館)として築城したと推定できます?。鎌倉で挙兵した足利尊氏につき建武の新政に活躍した 赤松筑前守貞範が建武4年(1337)春日部庄を与えられた際:その代官をして黒井城(砦)を築き黒井城主荻野和泉守の居館でもあったようですが!!黒井城の支城(城北の砦)として 三好文蔵が入った後・文亀2年(1502)黒井城主荻野伊予守秋清が増築した下屋敷で本丸は堅固な土塁と深く掘り下げた空掘で囲った。
城址碑付近から西北の三輪小学校手前付近までの丘陵上が城域!!?

黒井城から酒梨・留堀ヶ城の下屋敷へと通う秋清に後継ぎがなかった。天文23年(1554)1月2日、年頭の礼を行うべく黒井城本丸 (此処・留堀ヶ城が舞台だったとも!!)で赤井時家の二男で朝日城主才丸(伊予守秋清にとっては甥の荻野(赤井)悪右衛門直正に刺殺される。黒井城主となった直正は居館を黒井城の南麓に移し【現在の興禅寺の更に南下方!!】留堀ヶ城には美和荘の名主で 家臣の山川舞左衛門を城代に配した。秋清は此処・留堀ヶ城(酒梨城)近くの清安寺(廃寺)に葬り菩提を弔ったと云われます 【秋清の菩提寺跡】丹波・但馬の諸城をも攻略し豪雄を誇ったが、
丘上施設南東裾:遺構はないが犬走り状・東南から西へは水濠状!!?

「丹波攻め」による明智光秀の再三の城攻めで天正7年(1579)春 ・丹後田辺から福知山を経て市島へ侵攻してきた明智秀満(光春・光秀の娘婿)により落城し其のまま廃城となったようです。城跡より車道を西北へ:赤井直正の菩提寺白毫寺に向いますが、此の周辺の丘陵にも黒井城砦群があり 東城館(白毫寺城)の様に明智軍の手で改修され黒井城搦め手包囲の陣城となった城砦もあるようです。

美和砦稲荷神社曲輪・美和砦<仮称>
  xxx 249m  市島町美和区酒梨

酒梨・戸坂・白毫寺等の美和地区内の[みわ]の名称に三輪小学校とか美和保育園…等の呼名がある。美和郷は一郷だったが二つの(三和庄と三和勅使田)荘園が成立していた。 詳細不明ながら勅使の字名がのこることからも勅旨により拓かれ土地を親王に下賜された領地。
荻野秋清塚付近からの美和砦遠望

三輪小学校前を乙河内へと北上する車道が美和川と合流する位置に美和地区の産土神:三輪神社【美和郷六ヶ村(乙河内・戸坂・与戸・白毫寺・酒梨・勅使)の総社】がある。美和地区の酒梨(さなせ)には黒井城主であった 荻野伊予守秋清の下屋敷がある。 文亀2年(1502)増築し黒井城支城としての酒梨三の丸留堀ケ城(酒梨城)です。詳細は上記:留堀ヶ城を参照願います。養父秋清を刺殺し “悪右衛門”直正を称して黒井城に入城した。
美和砦稲荷神社曲輪(南西)

保育園跡地や美和地区交流センター西面一帯が留堀ケ城趾。此処より200m程東方に養父秋清を刺殺した荻野“悪右衛門”直正が弔った 秋清の菩提寺跡がある。 北方には杉山(390.6m)から249m峰に至り南麓の与戸・酒梨集落に一気に落ちる丘陵が望まれる。此の249m峰の真南約3km程・山頂部に曲輪があれば 真正面に黒井城を望む位置にある。 しかし此程急峻な丘陵上に領主の城砦が築かれていたとは思えず、
美和砦稲荷神社曲輪(南東)

今迄にも埋蔵文化財遺跡調査もされていなかった?空白地域。南西山麓の与戸・戸坂には留堀ケ城・其の西北方の黒井城搦め手口?(千丈寺砦・黒井城西ノ丸に至る)には白毫寺城他:黒井城砦群 ・屋敷跡・後には明智方の向城となったと思える城砦がある。南東に小富士山・北背後には 段宿<仮称>・鴨坂にも余田氏の城を落として持城とした攻守の黒井城包囲の城砦群があり真正面に黒井城を監視すの絶好の位置。
美和砦主郭から黒井城の遠望

与戸から西山麓を回り込めば乙河内集落。乙河内から北に美和川沿いに五台山に通じる登山ルートが考えられるが東面の丘陵を尾端・下鴨坂に越える葛原峠から葛原山(347m)を経て杉山(391m)に至るコースが考えられるが、尾根筋からは 余田城段宿城<仮称>のある鴨坂・宮ノ下からも通じているよう。殊に乙河内の天満熊野神社から下鴨に越える 日出尾峠を山陰街道日出駅と結びつける
美和砦土塁曲輪

丹波古道の考察もある脇街道並みの要衝だったか?。日出駅の所在等に諸説があり特定されていない?が、勅使ー乙河内ー日出尾峠を前坂ー段宿に出て塩津峠を福知山へ向かう脇街道というか?間道があったものか?。 天正7年明智の黒井城攻めの敗戦後美和の乙河内に隠棲した直正の家臣 :荻野丹後守夫婦による伝承の子育て地蔵に寄ってから北方の与戸・乙河内境に丘陵裾を落す杉山(390.6m)からの尾根ぴ-ク249m峰 美和砦<仮称>に至るへの取付き点を酒梨西端の稲荷社・与戸の三輪神社・
美和砦:土塁堀切

乙河内の天満熊野神社三箇所に絞ったが尾根筋の判りやすい酒梨の稲荷社へ。「乗っけ」から急斜面のフエンス開閉に四苦八苦 ・しかし直ぐに稲荷社と愛宕社か?、二社の祠前に着く。一昔までは子供達の奉納相撲も行なわれていた 稲荷社祠前に鎮座する狐像が、なんとも珍しく膨よかな!!ウサギ顔なのがユーモラス。 此処に曲輪を見つけ 249m山上に発見した城砦遺構に付随する稲荷社遺構を山上郭の出曲輪と位置付ける。東西一段下に曲輪・背後から約200m程の緩斜な尾根上に、
美和砦三重堀切(南面)

曲輪らしい削平段が続き中ほどの幅広い空堀土橋を越え、再び激急斜面に移る位置に広い曲輪(林業作業用とは思えない)を見る。此処までを美和砦稲荷神社曲輪(仮称)とする。後は急登に継ぐ急登・上方の露岩を避け別の枝尾根に移動したりしながら直接249m山頂の平坦地に着いた。 何も無さそう…と諦め半ばで東への緩やかな尾根続きを下りかけて土塁状を見る。
美和砦三重堀切の一つ(北面)

2m程の段差で空堀を!!…更に其の先:幅狭い尾根筋に規模は小さいながら丹波市内の山城には珍しい三重堀切がある。美和砦<仮称>は尾根西端に主郭を置き、三方を急峻な斜面上部に小さな曲輪があるだけだが防御施設の土塁・堀切等は東方の丘陵部に展開する。先述した背後の峠越え街道・鴨坂方面からは尾根伝いに繋がるだけに、 防御施設は東面に集中・黒井城を真正面に望む
美和砦南斜面に三段ばかりの小曲輪

主郭規模からも領主の城とは考えられず、明智光秀の黒井城攻略に築いた向城と推察する。三次に渉る黒井城攻めは急を要する短期の築造 ・縄張りに織豊系を期待するのは?。地元農民等を使役したと思うが向城に堀切とは!!?…明智方に降りた京都丹波側の将兵等を動員し、 築造を任せた城砦…と考えれば合点できるのでは!!…。


畑山城館と矢谷城館
矢谷城館  xxx 188m  市島町上田地区天神

三ッ塚史跡公園・ライフピアいちじまの南背後を東西に約1.5qの半独立丘陵尾根が延び、 戸平峠を京都府三和町側に抜ける県道59号(市島和知線)に其の西端を落とす長い尾根筋に矢谷城館がある。県道59号を挟んで、いずれも要害とも思えない緩やかな低丘陵だが、 西側にも東西約1q程の丘陵上に畑山城館があり、黒井城砦群の一つであったか?、赤井・荻野氏の黒井城配下の城砦群を明智光秀が天正3年(1575-)に侵攻が始まった丹波黒井城攻略・殊に第二回侵攻の天正6年に落城した 城砦群を黒井城包囲の向城として利用されたものか?。
照谷山日光寺と背後の畑山城

R175号の市島町役場前から県道59号(市島和知線)に入ると、田園の拡がる風景の前には北東方の横峰山(高谷山)から高度を下げながら延び出し た低丘陵の先が春日小冨士山の手前で稜線を落としているのが見える。この丘陵の狭間を断ち切るように鴨庄川が竹田川へと流れ出ています。 県道59号(市島和知線)と鴨庄川が此の狭間で合流する地点から東の横峰山(高谷山)へ向う尾根筋に「矢谷城館」が、
日光寺背後:東西郭を分ける切通鞍部・愛宕社への参道

西に鴨庄川に架かる山間(やまあい)橋を渡った所から盛り上がる小さな独立丘陵の尾根筋に「畑山城館」がある。此の二つの山城間を通る県道59号が戸平トンネルを越えて 京都府三和町に抜ける。矢谷城館から延びる南尾根先に三和町に通じる街道監視の 北村城(長谷山城)がある。切岸高く削平も丁寧な7段ばかりの曲輪が並び、主郭には櫓台・背後を二重堀切が固める。三方を囲む土塁曲輪・放射状に 10条程の畝状竪堀は旧氷上郡の城に余り例のない見事な!?城遺構だが遺跡分布地図に記載もない?。
畑山城館北東端の切通道?を挟んで県道59(京都三和線)監視砦が在る

鴨庄には長谷山城の南方に岩倉城・戸平峠の丘陵上には 日内城が在り高見対馬守が守っていたが天正6年(1578)12月・光秀の第二回”丹波攻略”には明智左馬之助光春の軍勢に 岩倉城も光秀家臣の藤田伝吾行政に攻められ落城している。日内城・岩倉城を落とした明智光春と藤田伝吾行政の軍は神池寺より三井庄に下って三尾城を攻める妻木主計助範賢軍と合流しています。此の黒井城攻めも成せず天正7年の第三回侵攻により、既に主亡き(荻野直正死去後の)黒井城が落城するまでの一年間 :岩倉城(織豊系特徴からも…)や
畑山城館主郭に祀られる愛宕社

長谷山城(永禄年間落城したともいう船越氏の城)も明智方により改修・黒井城攻め付城(向城)に使用されたものと思えますが、先述のとおり其の城史自体が不詳ですが現状の縄張り特性からは氷上郡(丹波市)内の国人領主の城ではない…?。 京都府側から戸平峠を越える街道筋は上牧で鴨庄川を渉って市島へと西行して来ると此処・畑山城館と矢谷城館のある丘陵帯の狭間を通り抜ける事になります。光秀の小富士山城を陣城として周辺に築かせた(または落城後持城とした)畑山城や東への尾根続き矢谷城ともに篠山方面からの県道138号(なりあい街道)・妙高山を経由する間道(県道541号)・京都三和町から戸平峠を市島町へ、 北方の竹田川沿いR175号を監視する黒井城包囲の付城群としたものか?。
畑山城・北東末端(京都三和への街道監視の出曲輪か?

畑山城館 旗山(畑山) 157m 市島町梶原
京丹波町(船井郡)から戸平峠を越えてくる要衝だが鴨庄川を渉らず西南へ進むと小多利の小冨士山城東山麓を通る。野々間の城館と同様に築城時期や城主・城史不明の領域です。 曲輪や土塁遺構は不明瞭だが畑山城館にみる堀切や其の南西僅か500m程の小富士山城には光秀・一夜城の伝説が残る黒井城攻めの陣城が築かれた所です。小富士城とは篠山・国領方面から丹後方面に通じる西国巡礼道(なりあい街道=(西国三三所第二十八番札所)だが直ぐ北方のR175号(福知山・綾部)に繋がる但馬・丹後・若狭への要衝。
畑山城館:西末端曲輪段

此の要衝の「なりあい街道」を挟んで東隣りに位置する 畑山城は梶原集落南側にある旗山と呼ばれる独立丘陵の東西両端は約400m・南北には尾根が分岐する最高ピーク157m付近で約150m程の小範囲に平坦地と3段ばかりの曲輪(丘陵中央部西にある愛宕社)が黒井城砦群の一砦と思えるが藪の東西に長く延びる 尾根筋の曲輪・堀切等遺構は城域の判別さえつけ難い。日光寺境内から丘陵に斜上する山道に取付き向かう深い切通道は旧来からの峠を越えの間道か?。 長い竪土塁沿いの深い竪堀にさえ思える峠道を挟む切通道から半独立丘陵を先ず西側へ。
畑山城・主郭東北の曲輪群と埋もれた堀切?

比高15m程・頂部25u程の監視出曲輪状。此の北東曲輪群には遺跡分布図に梶原古墳(前方後円墳)があったと云う。後円部の墳丘を削平して曲輪に転用されているようだが平坦段等の曲輪遺構は曖昧。 切通道に引返し東側の主郭と思える愛宕社は尾根上に2-3段続く削平段上に鎮座するが此れだけ!!?。周囲に何の遺構もなさそうで付近に多い此れも古墳と思ったが、 墳丘マウンド利用の主曲輪?のよう。北へ延び出す枝尾根を約50m降った日光寺を真下に望む背後の陵上に堀切土塁と10x30m程の曲輪をみる。
畑山城館:日光寺背後の土塁堀切と段曲輪

在地勢力の領内監視の砦跡の様だが、更に東への短い枝尾根上の最高地点157m(矢竹も目立つ雑木藪の中)南北に拡がる旗山(畑山)頂部及び、北東と東の二方に展開する平坦段だけの曲輪遺構はなんでしょうか?。南峰から東山麓へと某会社敷地境の荒れたフェンス沿いに続く曲輪群は、 ちょうど小富士山城の背後(北山麓)を篠山-国領-福知山方面に繋がる「ないあい街道<西国遍路道>」を挟んで呼応する位置。畑山は旗山であり旗や音・狼煙で本陣の小富士山城に連絡し合う「知らせ」監視の付城であったのか?。
畑山城最東端:県道59号(京都三和町に抜ける街道監視の曲輪?

北峰から北東へ延びる丘陵尾根の東端は足下に鴨庄川が流れ県道59号 (市島三和線)を見下ろす位置にあり、戸平トンネルを越えて京都府三和町に抜ける街道。街道を挟んで東へ続く丘陵が矢谷城館へと続く。畑山城館側の此の末端部にも全長約30m程・3段ほどの街道監視曲輪があり、 激斜面を鴨庄川に降りたち山麓集落内を照谷山日光寺に戻る。釈迦牟尼仏を本尊とする曹洞宗の寺は天正年間・明智軍による兵火に消失するが、兵乱が治まった文禄年中(1592-96)頃には僧:春悦静永により再建。 丹波志年表には文禄4年(1595)荻野直次(荻野直正重臣)の子、荒木久次により建つ)とも天和2年(1682)に再興された。境内には行基開創と伝える禅堂と不動堂が建つ。
矢谷城域西端ピークの曲輪内にも祠跡の基壇が残る

「矢谷城館」日光寺を後に梶原集落から畑山(旗山)山塊の独立丘陵東端に出て、鴨庄川に架かる山間橋を渡り県道59号(市島和知線)を向かいの丘陵部に西端に移る。 左右の丘陵部に挟まれた文字通り山間(やまあい)橋に戻る。正面の丘陵西端部が車道側から一気に急斜面を矢谷城館への稜上に向かう。尾根筋は比較的緩やかな起伏を繰り返しながら徐々に高度を上げて横峰山(高谷山)へと延びていきます。山間橋を渡った右 (東)15m程行った竹薮から斜上して浅い谷通しに向う踏み跡から取付いたが踏み跡を伝って 尾根西末端に出るには遠回りの様です。
天神社参道から矢谷城遠望

比高は40m程なので直ぐ踏み跡を外れて藪漕ぎで西末端部のCa150mピーク目指す。幅広く緩斜な尾根筋は何処までも 曲輪が延びている様にも思える。山上部には小祠跡の基壇だけが遺されているが愛宕社だろうか?。上田集落の天神社が其の山裾中程にあるが 登路とするには無駄の多いルート…?。後述のパラグライダー・テイクオフ場へ向かうモノレース軌道と、練習用のフィールドの様!!?。 矢谷城館の尾根上の城域は畑山城館の約2倍はあるが明確に堀切と判る遺構は確認していないが主郭?の北尾根側鞍部付近に竪堀状をみた。
テイクオフ(青シート)場背後の矢谷城主郭?から望む三ッ塚史跡公園

東西約2.5qに及ぶ 長大な尾根上のほぼ中央付近のピークには幅広いが切岸は無い低段差の曲輪がある。三ッ塚史跡公園側が伐採され資材搬送用のモノレールが此処まで延びてきており、 草押さえか!!土砂流出防止用シートが一面に敷かれている。麓まで直線に伐採されているのでパラグライダーのテイクオフ場(ランチャー台)となっているのでしょう?。 お蔭で眺望絶佳の展望テラスになっている。此処が主郭か?、幅広い尾根筋二段の曲輪内には朽ち壊れた祠と基壇の石材が遺されている。
矢谷城館・テラスの内側には 曲輪と朽ちた祠が残っている

尾根続きの北に空堀状(竪堀?)をみて長谷山城からの尾根に乗る最高所188mピークに着く。 雑木・倒木で荒れてはいるが曲輪は尾根筋を残した三方を低く切り崩して?曲輪域を確保しているよう?。市島町から春日町へと眼下に竹田川流域に沿って東西に拡がる盆地の下手に黒井の本城を望む北側斜面には天正期の信長の”丹波攻略”の頃まで残っていた城館なら土塁付曲輪や竪堀遺構があったのかもしれません。北部の三ッ塚史跡公園から喜多集落へ抜ける舗装林道まで尾根筋には境界ポールと踏み跡が続く。
長谷山城への分岐点:最高所188mの曲輪

この舗装林道も台風23号(H16.9)の豪雨の大きな土砂崩れで峠部はスッカリ埋まり復旧は大変そうです。高谷山側の尾根を辿れば、直ぐ其処は鹿集城 の背後の尾根につながる上垣城へ足を延ばして見たかったが、峠から東は30m程の、しかも崩れそうな土砂と岩屑の混ざる不安定な絶壁です。 雨は止みそうに無いので車道に出て北へ300m程走って下った所が三ッ塚史跡公園内の”ライフピアいちじま”だった。公園山際を廻っていると円形の小公園が有るので降りてみると 三ッ塚廃寺天神窯跡の案内標識が立つ。
矢谷城主郭?(ランチャー台のあった)尾根続き北鞍部の竪堀跡?

矢谷城館は野々間の城館と同様に築城時期や城主・城史不明のうえ、遺構も不明瞭な領域です。竪堀や土塁の存在が確認されている様ですが?、 其れは此の梶原からの尾根から南の喜多集落に延びる尾根上(矢谷城館が長い尾根上に点在するテラス・曲輪と思える平坦地を含むなら、その城域に入る程の直近)に位置する 北村城(長谷山城)の事なのか?。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参考)

小多利城館 カラタキ点名:小多利)236m〜末端150m付近?  丹波市春日町小多利

日ヶ奥トンネル〜カラタキ(点名:小多利)〜小多利城館へ
阿陀岡神社の南・日ヶ奥渓谷から竹田川へ流れ出る多利北集落内の谷川に沿って農道が東方に真直ぐ延びる。東南側には妙高山から延びてきた丘陵上に 峰を置く天神山の姿が美しい。低山ながら険悪な岩山の様相を見せる山腹を穿つ舞鶴自動車道日ヶ奥トンネルを抜けていきます。高架下を潜る正面奥には 日ヶ奥渓谷を経て丹波比叡・妙高山へのハイキング道が通じる。
阿陀岡神社側から点名:小多利(右端)

日ヶ奥トンネル上の点名小多利から西方の小富士山側への小山塊の稜線を下って小多利城館跡を訪ねてみる。地形図には岩記号が累積する地帯です。 山裾から険悪そうな岩場を見上げながら取付を探すが藪を突いても岩場に遮られそうなので、初めから岩場に沿って捲き上がろうと高架付近まできたら トンネル上へ続くと思われる踏み跡があった。急斜面は直ぐ岩場基部から 左のリッジ寄りに直上しているようですが?左(西)へ左へと移行しながらルンゼ状を伝って稜上に出ると展望の岩棚に出た。
”行者さん”愛宕神社跡

竹田川の左右に広がる平野の中央に黒井城が座り向山〜譲葉山連山が後に控え、黒井城攻めの小富士城が目前にある。露岩が多いと展望も効き快適に山頂を目指す。狭い平坦な山頂に四隅の欠けた3等三角点石標が埋るカラタキ(点名:小多利 236m)。 稜線上の踏み跡は東へ進むが、険しい露岩を南面に起立させる山とは想像もさせない穏やかな尾根筋だがトンネル北に下る枝尾根、とりわけ西末端へ延びる細い尾根筋の南側は断崖状の岩稜が続く。岩稜が途切れたCa200m付近からは尾根も緩やかになり、 鞍部に堀とも池とも思えない?凹角状を過ぎてからは随所に平坦地形が現れる。小多利城館の曲輪跡らしい。カラタキ山頂部も物見の櫓台があった城域と思えますが、 ずっと下ってきた末端部”行者さん”が祀ってあると聞いた共同アンテナ施設の建つ愛宕社跡が最も城館らしく思えた。ニ方谷に挟まれ中央の尾根筋の正面(西)は急斜面、
急斜面は愛宕神社跡に登り着く

平坦地の片側は岩場が削り取られた様な 2m程の保塁になっている。尾根取付部に”行者さん”と呼ばれている堂 (愛宕社)跡があり稜線を辿ると平坦地と岩場が高谷山へと続くが 高谷山付近にも岩場があって山城遺構よりは山岳宗教の修験の遺構と行者道かとも思えてきた。30m程の急斜面を下って小多利集落の愛宕社常夜燈の建つ車道に出る。車道を挟んだ向いには”日限地蔵”案内標があり 小富士山城(明智軍の黒井城攻めの陣城)登山口の桃源寺参道口でした。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)


小富士城と明智光秀の一夜城伝説

小富士城(小富士山城)小富士山(高山)231m   丹波市春日町小多利

春日インタからR175を福知山方面へと竹田川沿いに進むと小多利集落の北東方に山麓より三角錐の秀麗な独立山塊を欹(そばだ)てる 春日小富士山の姿を見る。 山頂を主郭・北側と西側に1〜2段の曲輪を持ち此の東西に延びる 小山塊の北方や西尾根と先端部にも平坦地・曲輪を設け黒井城に対峙した明智光秀の陣城。
展望岩ルートを外して直進すると長大な竪堀が?

低山ながら岩場伝いの急登も直ぐ展望の良い岩頭に出ます。山裾を旧宮津街道(R175号線)が通じ、盆地の中央を流れる竹田川の先に黒井城を望む絶好の位置に 明智光秀が黒井城攻略の為の陣城を一夜のうちに築いたと云われる伝説の小富士山城がある。 ”天下布武”を号令する織田信長の”丹波攻略”に主将・明智光秀が敵地の丹波領内に築いて拠点とした陣城として
小富士城の展望岩棚から黒井城(中央)

金山城や柏原八幡山城と共に其れ等の前線及び指揮拠点でした。 小富士山城への登山口は小多利城館側への車道を挟んだ西側に”日限地蔵”の案内標が立つ桃源寺(駐車場有り)に向かう。巌高山桃源寺(天台宗 )の境内裏手・墓地から文字通り直登の山道が続く。山道は岩場を右手に捲くように第一〜第二展望台・最上展望台・さらに見晴台(各展望台とも岩場なので休憩兼ねての 眺望絶佳が楽しめる)を経て山頂の観音堂?(主郭)に入る。
小富士山頂主郭の観音堂?

取付き点から堂の前まで鳥居は無いので愛宕や稲荷では無いのでしょう。山道を外し浅い溝状を詰めていくと幅・高さ共に1m程の竪堀状が岩場の数m手前で突然切れる。比較的大きな竪堀状だが曲輪とは無関係の山裾付近なので陣城遺構ではなく自然の崩壊溝とは思えるが…。山頂部の南北に長く延びる城域の主郭北一段目曲輪の北端には分厚い土塁の高まりがあり約1.5m程の切岸で下段の曲輪(此処も北面に約1m程だが 明確な切岸を落す)に繋がる。
小富士城:東段曲輪から主郭へ

又主郭部の西面・殊に東面は北曲輪まで帯曲輪を廻して結んでいる。 城域は山頂から西への尾根を辿り竹田川に落ち込む付近、鴨神社背後の丘陵まで続くようです。此処も丘陵上は自然地形の平坦地が有り三方は急斜面、 西北側は採石場跡の絶壁で当時の状況は不明だが黒井向城の最前線地点。北尾根筋は途中で踏み跡も藪と急斜面の岩壁等で途絶えがちだが、
主郭北一段目曲輪北端土塁から二段目曲輪

展望岩棚状の見張り適所?もあるが山麓付近にも監視砦らしい表記が示されている(未訪)。主要郭北(切岸明確な二段曲輪と土塁曲輪が遺る)部を更に降る尾根筋にも数段の平坦段を見る。途中踏み跡も荒れてくるが登山コース南口の 桃源寺から東山麓の小富士神社側(春日部変電所付近に駐車スペース有)へ周回する登山コースだが整備されていた木製階段等が崩れ・
主郭北曲輪群上部三段から二段目と土塁付一段目切岸

埋もれて急斜面ではコースを見失いがちだが下りきった柏の池(平成27年12月28日まで洪水吐改修工事)畔傍の墓地からは比高20m足らずの半独立丘陵頂部 (幅約30mx40m規模の平坦地形)にも監視砦がある。「なりあい街道」 (北へ約800m程でR175号(但馬街道。丹後・若狭に通じる要衝)に通じる街道を挟んで畑山城が在る。 なを此の墓地東側の車道側は梶原遺跡跡
主郭北曲輪群から望む畑山城(中央丘陵部)

==明智の一夜城伝説==
保月城攻撃の明智光春の本隊が福知山を発して友政・鹿集の二城を落し丹波富士 (高山)の頂上に陣したのは天正6年(1578)12月21日の事。その夕刻には日内・岩蔵・野上野と次々落として名城・保月城もその手足を奪われていく。白毫寺付近に有った水源から黒井城へは竹の管で(ロート式?で)高い山城へ送っていたと云う!。 明智勢が多田の橋爪XXの老女から保月城の水源を聞き出しその水源を止めたのもその頃でした。水の手を止められ 兵糧豊富とは思えない孤城にあって、 赤井勢の闘魂は盛んであった。「なんとかして敵の闘魂を 打ち砕かねばならぬ」と光春は此処に一策を立てる。夜が明けた朝靄が晴れ渡る頃に赤井方の見張り番が不図・小富士山頂を遠望してアッと驚きの目を見張った。
主郭北曲輪群下部の三段-平坦地形(登山ルートでもある!!)

一夜のうちに立派な城が姿を現して折からの朝日に輝いている。「オイ小富士の山上に城が出来たぞ」、「馬鹿な事をなにを寝ぼけているか、昔から一夜に出来たは近江の琵琶湖と富士山だけじゃ」、「論より証拠じゃ。 あれをみい」指差す山上を見て慌てふためき、城代幸家にも伝えられる。遠望するのに肉眼より術のなかった当時のこと。これはただ表面だけの張子の城であって 此れを一夜のうちに押し立てたものであった。数日の後、保月城では厩舎から引き出した数頭の軍馬を、わざわざ遠望視野のきく 馬場に連れ出した赤井方は、そこでザアザア水をかけて馬を洗った。
小富士城先端砦遺構の一つ?:柏の池近くの監視砦(単郭30X40m)

これを展望した明智勢は驚いた。城中の水源は既に切られている。今は飲料水にも事欠くはずであるのに洗馬に使うおびただしい水があろう筈がない。 しかし、これは水と見せかけた真っ白によくといた米だったという。 黒井城の落城を早めた大きな要因として城の水の手を断たれてた話が伝わります。一つは山脈を熟知していた山師(鉱山師)達の「橋詰」と呼ぶ集団の首領に”ふじ乃”という老女が いて明智軍に捕まり激しく詰問されて白状し、逃げるところを赤井軍に押さえられ生き埋めにされたといいます。後・山崎の合戦に負けた光秀を小栗栖で討ち取ったのが此の「橋詰」一族だったというお話…
小富士北東登山口付近の小富士山神社

紀州熊野の豪族橋爪氏は五大山の黄銅採鉱によって財を成し集落を営んでいたという。一族の老女が黒井城の水源の秘密を密告した為に虐殺され埋められた場所に建てられたのが、熊野三山の一社を勧請し、白毫寺に熊野社を建立し 熊野権現を氏神として崇拝した一族の首長:六次郎に因む禄老爾権現(市島町勅使)といわれ、橋爪氏ゆかりの人により供養されたものの様です。


三ッ塚史跡公園  市島町上田 昭和43年県指定史跡・ 昭和51年12月25日国指定史跡

三ッ塚廃寺と天神窯跡
175号線市島町役場から県道 59号(市島和知線)に入って直ぐ案内標識を見て信号を左折して三ッ塚史跡公園に向います。竹田川右岸の丘陵に拡がる公園内には自由広場・花菖蒲園 (63種類・5万株)・生涯学習センタや大ホール・図書館等が併設された複合施設”ライフピアいちじま”や白鳳時代(645〜708)に創建された古代寺院・三ッ塚廃寺と、その屋根瓦や
ショウブ園と三ッ塚廃寺の基壇 H17.6

鴟尾・須恵器を焼いた釜跡、掘立柱建物群も十数棟発掘された遺跡公園で、出土品が展示されている民俗資料館等の施設が点在しています。三ッ塚廃寺跡は東西に三つの基壇が並び、中央が小規模な金堂跡と左右に東塔・西塔(地下式の心礎が有って塔芯の礎石が露出しているのが見られる)の三つの基檀が 同一線上に並びます。
西塔跡から金堂跡と塔芯の礎石が見られる東塔跡

講堂跡が不明ですが一直線に並ぶ伽藍の配置は 全国的にも珍しく茨城県新治(にいはり)や水戸市に其の例を見るだけといわれ、薬師寺式伽藍配置に近く新治(にいはり)廃寺式(日本では三例しか確認されていない珍しい伽藍配置といわれる)国文化財指定を受け「三ッ塚史跡公園」として 整備されています。周辺からは此処・天神窯で焼かれ使用された単弁八葉蓮華文軒丸瓦と 三重孤文軒平瓦や土師器が出土しています。他にも一町 (約100m)四周に南門・東門・築地をともなう北門の掘立柱群が検出されており、二重の石列が遺る築地は東門・南門を繋いで伽藍を囲んでいたとものと推察されます
ショウブ園内に有る築地跡:三ッ塚廃寺の北塔は此の線上に在ったか?

奈良時代・平安時代(8〜12世紀)頃に建てられた数十棟の掘立柱建物群も三ッ塚廃寺との密接な繋がりが考えられます。7世紀後半・白鳳時代(645〜708)に建立された古代寺院三ッ塚廃寺【昭和47〜50年頃までの発掘調査で 寺院跡の全容が明らかにされた】の屋根に葺かれた瓦や鴟尾(しび)等を焼いた窯跡で昭和49〜55年(1974-80)に発掘調査されました。 西に延びる尾根の北向き斜面に4基の窯が発見された天神窯跡も三ッ塚廃寺跡と共に国史跡に指定され市島町により保存・管理されています。
天神窯跡

傾斜地をトンネル状に掘り込み、その中央部に焼き物を詰めて下部から火を焚窖窯(あながま)と呼ばれる構造で、いずれも天井は落ち込んで壊れていたが、床面や側壁がよく残っており其の構造が復元(原理ではなく、 元に戻すの意で元とします)されています。ただ文化遺産として埋め戻されているが、現地保存と復原されたレプリカが展示されているだけ。 1号窯・2号窯の床面には瓦を置く為の焼き台の階段があり3号窯の窯体内には段差を設けて鴟尾を焼成していたとされ、
天神窯跡から矢谷城館主郭?遠望

屋根の棟の両端を飾る鴟尾の模型が状況設置されている。これ等の階段や段差を復原し窯壁の還元された面を青灰色のレンガで・酸化された面を赤色のレンガで示され展示されています。 4号窯には階段がなく須恵器が焼かれていた様ですが窯の東側にはV字状断面の溝が掘られていて窯が操業する際・湿気を抜く為のものと考えられています。
(現地三ッ塚廃寺案内板 及び 三ッ塚史跡公園パンフレットを参照)


阿陀岡神社

多利の集落北方に美しい姿を見せる 小富士山を望む春日部の里の杜に鎮座する延喜式内社阿陀岡(あだか)神社の創建時期は不明ですが、第29代欽明天皇の3年(542)春日部乙身が勅命により幣帛(へいはく=神前の供物)を奉ったといわれ、往古には東の山上に有ったのが流れて此の地に留まったのを村人が奉斎したものといわれ、護良親王(後醍醐天皇の皇子)の子・興良王が丹波を平定された時、此処に参籠したとも云われます。
”熊橋”側から阿陀岡神社と小冨士山・鳥居は天満宮

祭神は天孫”天津日高ひこほ、 ににぎの尊”の妃で「木花開耶姫=吾田鹿葦津比賣(あだがあしつひめ)命 」で容姿麗しく、女の道を尽くして 夫の尊を助けたと日本書記に記される。ところが、木花開耶姫は”ににぎの尊”に懐妊を疑われ、 出産の時は産屋の籠もり「此の子が不義の子ならば焼け死ぬでしょう」と自ら産屋に火をつけ其の中で無事に三人の子を安産するが 以来・ににぎの尊を恨んで一生口を利かなかったともいわれます。毎年古式による八朔祭が行われ夜に焚く大松明(高さ約3m)の火が元で社殿を消失し室町末期の明応元年(1492)再建され、安産の神として信仰をあつめています。 元文4年(1739)の他再三社殿を消失したようですが現存社殿は寛保2年(1742)9月に造営されたもので明治期・岩倉具視の筆になる扁額が掲げられています。社域には八幡社・天満宮も合祀され福徳開運・厄除・交通安全・学問の神として信仰を集めています。 神社南側の”熊橋”は文化2年(1805)雪に閉ざされた師走に、東の天神山山麓から現れた熊に村人達は驚き・恐れながらも立ち向かいます。人だかりの近くまで来た熊は後足で立上がり、両手を広げ飛び掛ろうとした時、 一人の若者がサッと咽喉元を竹槍で突き上げ、他の者も手にした得物で所かまわず殴りつけ、突き立てられ熊はヨロヨロと川に沿って逃げだしたが阿陀岡神社の南・此処で仕留められたという。この事は亀岡藩(亀岡市)に伝えられ恩賞として 鳥目一貫目(米10石分に相当!)を賜ったといいます。
(由緒を尋ねて 第3集 丹波新聞社を参孝に)
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