百万岩〜高砂峰〜塩久峠/佐治神社〜大箕山〜点名:稲土/小和田城・稲土城
丹波市青垣町 (五万図=福知山・但馬竹田) T塩久〜百万石〜高砂峰〜P374m〜塩久峠〜福知山・樽水  2001年01月02日
U
青垣・佐治神社(竹端橋)〜大箕山 2000年01月17日
V 銚子ヶ水〜大箕山(丹波富士)〜点名:稲土 2002年03月16日
近畿の山城:中佐治代官屋敷小和田城(寺内城・沢野城)
  沢野城とオオサルタ城稲土城
スカイパーク青垣付近からふるさと富士 :大箕山(丹波富士)

 銚子の水  長屋門 旧朝倉家住宅 養徳寺の羅漢道
  大燈寺と丹波佐吉の聖観世音像 
浄丸の滝

丹波市青垣町に入ってくるとパラグライダーで人気の岩屋山への登山口「丹波少年自然の家」の分岐を経て「道の駅あおがき」への車道の前方にはドーム状の山が見えてきます。此れが大箕山(丹波富士)です。 427号線を遠阪へ向う山垣辺りや佐治神社から名水・一休の水(銚子の水)を経て粟鹿山への林道(NTT巡視用専用)へは何度も車で通るが目立つ登山口は見当たりません。しかし歩いて探せば見つかるものですネ。


T 初山行は縁起の良い 百万石〜高砂峰へ
   H13.01.02

年頭の山は何処か!!御目出たい山を目指したいもの…選んだのが丹波市青垣町の高砂峰。 「道の駅あおがき」から続く奥塩久谷川に沿って「スカイパーク青垣」の前へ、此処から遠坂川に沿って沢野方面へ北上すると白い岩場が見えてきます。沢野手前の集落入口に大神宮の石碑と道標 (右ふくちやま ・左むら)が有り塩久峠を福知山に越える街道(AM11:20)筋を”左むら”へとるが直ぐ舗装も切れ墓地です。畦道の様な道に 鹿避けゲート・その奥に小さな鳥居と苔むす産土神の大神宮に着く。右横の小道が岩下をかすめて延びています。
沢野集落から望む高砂峰):北近畿自動車道(中央高架付近)に沢野城が在った!!?

岩場が上部に見えてくるので暗い谷筋の直上コースを外れ岩場の突端下部に出ます。南面は25m〜30m程の絶壁です。岩場の西側へ回り込めば苔むした岩場と立木と滑りやすい落葉に隠れた岩角を手掛かりに攀じ登ると百万岩 (夫婦岩)の中央部に出る。テーブル状・岩のテラスは展望も良く快適です(AM11:45)。大箕山(丹波富士)が裾を広げて目だって大きく見せようとしています。岩屋山(青垣の森の最高峰)はそれを微笑ましく静かに見ている様です。せっかくの展望ですが先を急ぎ岩場の先に続く薮の細い尾根を辿ります。どちらがピークか分からない二つの突起の奥が高砂峰(420m PM12:00)です。展望のないダラダラ尾根は踏み後もはっきりしないまま続きます。雨乞いの山だった様で??空も怪しくなりポツ・ポツと冷たいものが顔や手を濡らしかかります。おかげで足早になり行程は捗(ハカド)ります。既に374mピークは通り越して府県境尾根 の分岐・だだっ広い鞍部は塩久峠。右へ下れば何事もなかったのですが、塩久峠を榎峠とばかり思っているので左へ採って下ります。
稲土から大箕山

すぐ林道となり気をよくして歩き出したが福知山市栗樽浄水場脇を通る(PM12:40)。シマッタと思っても雨さえ振り出し引き返すのに躊躇してそのまま下り続けます。樽水集落を抜けると遠くに車道が見える。429号線のに出て正月早々、霙交じりの雨の中を車道歩き。これから榎峠を越え「青垣まで11km」の標識が恨めしい。福知山側最奥の法用では道路工事中のため迂回させられるが、振り返ると綺麗な虹が法用の 集落を跨いでいた。429号線は幅3m・回転半径6mの為大型車通行止め、行き交う車も少なく殆ど小型車か軽トラだった。中佐治集落(PM2:25)へ下りてきて427号線と平行に遠坂川沿いに塩久の登山口(大神宮と古い道しるべ)から50m程の所にある佐治小学校・児童集会所に戻ってきた(PM2:50)。


U 佐治神社(竹端橋)〜大箕山〜山垣  H12年01月17日

兵庫南部震災犠牲者追悼(1/17)西宮市満池谷記念碑前に記帳と献花を済ませた後, 丹波市内の実家に墓参帰郷し午後から青垣町の大箕山(丹波富士:大深山とも大見山とも呼ばれる)に向かい427号線を北上。「丹波少年自然の家」の標識が見えてくると正面に大きな、おむすび状のズングリ・ムックリな山容が 大箕山。今年始めに高砂峰に登ったが百万岩からの大箕山の姿が忘れらず今回手短コースで登ってみます。 427号線の交差点を和田山方面ではなく加美・西脇方面に直進し佐地神社前を右折し加古川に架かる 竹端橋を渡ると数台駐車可のスペースがある。
大箕山山頂から粟鹿山 H14.03.16

左折はあまごセンターや名水・銚子の水を経て丹波側から粟鹿山への登山コース(林道)です。 正面が大箕山で山頂に2つのアンテナ塔が見え肩の辺りへ一直線に送電線が稜を越えて向かいの山垣方面に延びています。取付き点を探して竹端橋(PM1:15)を右折して送電線の延びる辺りのログハウスを登路と考え進む。 小橋を渡った右手は尾根の末端で工事用資材置き場があり三基の石碑が並ぶ。全て南無妙法連華経と彫られ中央石碑には「八大龍王」の文字が…小橋左に山の奥に向う林道が見え石碑前へは2分とかからない。 左の林道から取り付くが工事用の道だった。しかし正面のトタンで延々続く猪垣の奥には凹角部に沿ってハッキリした道が続く。 ただこの支尾根の稜線までは間伐や 倒木が登路を塞ぎ歩きにくいことこの上なし。道に沿ってうらめしくも薮を漕ぐなんとも不合理なことである。
山垣からの万歳山

この枝尾根の稜線に出ると (PM1:35)右手からの踏み跡と出会う。427号線の交差点一つ東の細い道(岩本集落)を 竹端橋へ戻る時見かけた2つの石碑(これも南無妙法連華経)からと石の古い常夜灯(明かり窓は壊れてなかったが)脇から山へ向う細い道があり此此処から繋がっているようだ。枝尾根からは5分程度の軽い行程で主尾根?に 出た。中佐治の方からハッキリした道でMTBロールアウト大柿氏?の赤い布が目に入る左。左手に少し下るが又急な 登り一辺倒の道となる 登りにかかるころからモノレールの軌道が現れ急登の連続なので手掛かりとして利用させてもらいます。 日当たりの良い尾根は雪も殆どなく 展望も開けて快適です。送電線を潜る辺りは急斜ですが露岩も多く岩屋山〜竜王山の奥に水山や年始めにミスコースで行けなかった吼子尾山や五台山方面の展望を楽しみながらの休息地が 随所に在ります(PM2:00)。
遠阪に向う旧山陰道(中佐治代官屋敷)

緩やかになり笹と雪 (約5cm程)の中にモノレールの軌道が山頂へと延びて行きます。 2本のアンテナ塔が見えてきました。いつのまにか赤い布は見当たらなくなります。この先山頂にもその先もズッと…モノレールは奥のNHK青垣テレビ中継所先の薮へ消えていく。 大箕山(丹波富士) 626mの3等三角点は 木々の陰で 福知山側の烏帽子山等の展望は望めないが粟鹿山・三国山・岩屋山 ・カヤマチ・五台山方面に眺望が拡がる。これより先下山に掛かっては雪で踏み跡の見当もつかず 急な下降が尾根筋か谷に向うかも判断出来ない。下方に尾根分岐も見出せないので左よりにコースを採り稲土側へ下ったほうが駐車場への帰着が楽なのだが左への薮を避けた植林の中に下降路を見つけ赤プラ境界標識を追うが 余りの急斜面と雪の為、木々を伝い間隔が長く手が届かない場合はズリ落ちながら下り続け気がつくと 西の稲土ではなく東へ下っている。 しかし踏み跡も現れ車の音も近く2度と登ることもない斜面を下り猪除けネット沿いに出口を探し墓地へ出たが扉が開かず乗り越えて墓地の下の報恩寺に出た(PM3:10)。
秋葉神社入口にある石燈籠と高石垣(中佐治代官屋敷)

「虎仮の庭」と書かれた石碑が庫裏の方に見える。(虎=キョにあたる漢字が無いが意味は同じか?)どんな庭か 意味はなにか、いつか尋ねてみたいものだ。寺の下はきた保育園で目の前は萬歳山と一段低い高台が山垣城だ。 此処からなら良くわかるがこの前は城址を素通りして万歳山に登った。写真では前景の薮で城址が不鮮明で申し訳ありません。後方は採石場で 烏帽子山からの下山時、此処に降りて「いきものふれあいの里」へ戻っている。萬歳山から烏帽子山へもナントカ繋がる縦走コースがありそうだ。目の前の427号線を辿り途中429号線 (此処は高砂峰からの帰りに通った)分岐(PM3:35)を経て427号線交差点手前を岩本地区を経由して竹端橋(PM4:00)に帰りついた。


V 銚子ヶ水〜大箕山〜点名:稲土 FONT>   H14年03月16日
 
岩屋山頂を飛び出したパラグライダーが10数機舞っている青空を見上げながら427号線を和田山方面に右折せず青垣町方面に直進。佐地神社で右折し佐治川を渡り大箕山西北山麓を稲土集落に向かう。粟鹿山に通じる林道(NTT巡視用専用)への車道でもある。一休さんの水(銚子ヶ水)奇行で知られる室町時代の僧・休禅師【応永元年(1394)〜文明13年(1481.11.21)】がこの地を訪れたのは京・大徳寺の復興にあたっていた頃のことでしょうか!!??近くの大燈寺稲土城3代目城主?足立馬之助政重が一休禅師を開山に招いて開創したとされる】に建立された薬師如来像の落慶法要に訪れた際、
隠し銚子ヶ水の取水場

山中の岩間から滾々と湧き出る清水を見て 「銚子ヶ水」と名付けられて以後、 稲土では涸れることのない此の水を「一休さんの銚子ヶ水」として大切にされています。東屋の中の水汲み場からはトックン・トックンと湧き出す水の音が、酒を注ぐ銚子の口からの小気味良く (水を汲みにきた人は・なかなか満杯にならないマドロっこしさもありますが)聞こえてきます。水質検査(平成5年3月18日)のよる 1g当りの 各含有量は カルシウム10mg・マグネシウム0.51mg・ナトリウム11mg ・カリウム0.99mgとなっています。一休禅師は文明13年(1481)京・田辺の酬恩庵 「一休寺」で88才の生涯を終えています。
隠し銚子ヶ水の取水場

北摂のポンポン山(加茂瀬山) から出灰へ降れば一休が開創した草庵(尸陀寺)跡があります。此処に居た事が丹波にも足が向いたきっかけだったのかもわかりません。
車窓から見える尾根筋を3時間余り大箕山からの縦走偵察を兼ねて登ってみた。 国土地理院地図上の山名は大箕山と粟鹿山だけ。破線の峠道と境界表示のみの空白地帯なので登山者には関心も殆ど無い山域ですが ”丹波富士”の名で少しは足を進める登山者はいるのかも?。427号線に沿っての遠阪川と粟鹿山に端を発する稲土川 (佐治川支流)に挟まれた山域で発端の大箕山から600m程のピークを連ねて粟鹿山へ伸びる尾根に破線表示はありません。
隠し田跡からダンノ(点名:段ヶ谷)

大箕山と北の542mピークの間に稲土と山垣を結ぶ峠越えにしては 不思議な破線表示があります。最低鞍部に向わずワザワザピーク近くの急斜面を採った杣道とも思えない道です。この道の取付き点も稜線上での通過の際も峠越え地点も確認しておりません。最低鞍部へは銚子ヶ水からと決めてたので 民家前の開墾記念碑 (PM1:20)から小川に沿って谷間を目指します。直ぐに 棚田跡の様なところを抜けて逝きます。手入れされていない果樹園のようなところもあり石垣や境の畦を通って猪垣に行き当たります。 小道は先に進んでいるようですが入っていける箇所がないので仕方なく谷寄りに伝って 「銚子ヶ水」取水場側からの道と合流する所で垣根を割って這出る隙間が開いていたので此処で抜け出る。
大箕山三角点より岩屋山・カヤマチ・安全山方面

谷筋にはその両サイドにも古い石垣が 累々と続き大規模な治山・治水工事がされているなと感心して眺めながら進みます。谷筋から明るく広い尾根筋に出ると此処にも幾段かの石垣を連ね段々畑のような段差があって開墾地の跡のようです。 辺り一面にはミツマタが黄色っぽい花を咲かせています。ミツマタの林の奥には稲土川対岸(西側)にコバサマ〜ダンノから粟鹿山への稜線が見えています。此処からは段々畑跡を稜線通しに行こうと思ったが 光背の片側が欠けた古い石仏一体を見つけたので地図にも無い峠越えの道を辿ってみたく思い、 谷寄りに続く九十九折の踏み跡を追って見ます。倒木や土砂で崩れたところもあったが鞍部は山垣への明確な峠道(PM1:45)でした。此処まで来て大箕山に登らない手は有りません。
踏み跡も残っていない明るい稲土山頂

以前間違った縦走路確認の 意味も含めて大箕山へ逆走してみるが ・流石は富士の山です。此処から山頂まで急登に次ぐ急登が続きます。山頂に近付くにつれて東面の枝尾根が競り上がってきます。 注意していないと前回のように雪道でなくても、 つい此方の尾根に踏み込んでしまって 山垣集落へ降りてしまいます。東からの枝尾根に出ると 鉄塔を載せた三国境の無名峰から烏帽子山、万歳山と遠阪川に沿って 点在する山垣の集落が見下ろせます。植林帯を抜け出ると西面に展望が広がる大箕山(丹波富士3等三角点626mPM2:05)の山頂です。NHK青垣テレビ中継放送所があり向かいの山(岩屋山周辺)には 10数機のパラグライダが テイクオフして舞っておりパラを開いてランディングを待っている枢機も望まれます。
稲土(415m)とムカエ山中間点から三国境〜烏帽子山

時々は大箕山を掠めて 飛んで来るフライヤーもいます。カヤマチ山・安全山・五台山へと展望が拡がります。北方には倒木と 雑木の先にダンノ(段ヶ谷)〜粟鹿山や 今回走破したいと思っていたオオジャレ〜ムカエ山の 緩やかな稜線が望めます。 さて元の峠へ(15分程)引き返しますが急斜面の下降で 尾根筋を取り違えやすいので2〜3箇所テープでマーキングしておきます。峠からの雑木と植林の混在する尾根道は有るか無いかの薄い踏み跡も気にならない快適なコースです。
土(415m)とムカエ山中間・鉄塔から稲土と大箕山のピーク

稲土(543m)手前の ピークからは左下の稲土集落へ降れそうだが踏み跡なく、此の先にあるはずの不思議な(稲土〜山垣はどう見ても私の通ってきた大箕山北側鞍部が妥当)地図上破線の峠越えは気付かづ、 鹿の楽園のような明るい笹と潅木の緩やかな尾根を辿って杉の植林と自然林の境に建つ三角点、点名:稲土(4等三角点 543m PM3:00)に出てきます。此処からは稲土集落が直ぐ下方に見えるが少し先へ進んでみます。しかし次のピークを過ぎてからは尾根の様子が見えなくなりドンドン降り始め谷筋を遠阪方向に進んでいるようです。 取って返すよりは一旦谷に降って谷沿いの道(踏み跡PM3:30)を見つける方が得策です。谷筋を詰めても方向違いの尾根に出る様なので北の枝尾根に向って藪を漕ぐと前方に鉄塔の稜線が見える。雑木と植林の尾根筋に展望はないが 幸か不幸か鉄塔に着くと切り開きがあり周辺の展望が効きます。送電線鉄塔No67大河内線(PM3:50)とあるので峰山高原へと 延びているようです。
稲土の長屋門

鉄塔の先には 三国境ピークと烏帽子山が辿ってきた稲土の先に尖り頭を覗かせた大箕山が親不知五台山が 競って姿を見せてくれます。此処からは巡視路とも境界とも付かないが明確な道が続く。尾根筋を間違えてしまったことが 嘘のよう。帰りを急ぐので尾根を辿ってばかりもおられません。途中から雑木藪の薄い部分を駆け下りて山道に降り立ちました。こちらの道は明確で地図にある遠阪へ越える道のようで、稲土の民家の間を抜けて 日南橋(PM4:15)を渡り粟鹿山へ向う車道に出てきました。逆コースでは山道への取付きが判りにくいでしょうが、こんな所から無名の山に向う登山者もいないでしょう。稲土川に沿って集落を南下していくと 大箕山だけが目立って冨士形の山容を広げて見えます。稲土集落の中程・稲土川に架かる日向橋!!を渡った東の山裾に陽をうけて白壁が白く目立つ長屋門を構える大きな民家が見えます。 長屋門(青垣町稲土)です。丹波市では柏原陣屋に代表される長屋門だが大名や武家の階級・格式によって様式に厳しい制約があったといわれます。そのような中で茅葺の母屋の前には道路沿いに板張り・格子窓を設けた江戸時代中期の庄屋屋敷は町家にあっては数少ない遺構で青垣町の文化財 (昭和48年(1973)7月26日)指定の足立xx邸長屋門に向かう。
稲土の長屋門

車道へ戻った 向かい・八幡社の鳥居が見えているが、この上(厳密には谷を挟んだ北側丘陵先端ピーク)に稲土城があり後日に訪城するつもりです。 銚子ヶ水「一休さんの水」取水場近くの駐車地点に戻ってきたが何時までも周辺を汚すことなく綺麗にして利用していきたいものです。 アマゴの里の釣堀には未だ多くの客が竿を垂れ釣りに興じています。


青垣町歴史民俗資料館(旧朝倉家住宅)  青垣町佐治114  県指定文化財(昭和48年3月9日)

青垣住民センタ図書館がオープン (H18.2.18)したのでオオアカウキクサを見た帰りに立ち寄ってみた。此処に県指定文化財 ”旧朝倉家住宅”が移築されており、青垣町歴史資料館として当時【江戸時代中期〜明治中期頃まで】の生活形態を 理解するため農具・養蚕道具を主に1000点余りの民俗資料が展示され活用されています。この建物は昭和47年3月青垣町大名草一ノ瀬の朝倉家の旧宅を移築復元したもので、江戸中期の養蚕農家のもの。
旧朝倉家住宅(青垣町歴史民俗資料館)

丹波地方における 養蚕事業は 青垣町の東芦田辺りで始められたとして蚕の宮の別名で呼ばれた高座神社があります。 其の技術は安永年間(1772-81)以前ならば此処:青垣町より丹後・但馬へと発展していったようです。安永年間以降なら但馬の上垣守国が但馬から丹波・丹後へと養蚕を拡げたと云われていますので? 【養父郡大屋町大屋市場に上垣守国養蚕記念館があるが享和2年(1802)上垣守国が蚕に関する 沿革や飼育法等を「養蚕秘録」に著しています】屋根は 一方は入母屋,写真とは反対の南側から見ると切妻造りの茅葺屋根として蚕室の採光を考慮されている事も特徴的です。
旧朝倉家住宅(青垣町歴史民俗資料館)

「整形3間取り」で、部屋は「口の間」「おもて」「へや」の3室に分かれ、「おもて(座敷)」と「へや(納戸)」の間は土壁で間仕切りされています。 近年(十八世紀以後は)の民家は四間取りに移行しており、現在では殆ど見ることが無く、民家史上及び当時の生活様式を知る上にも貴重な遺構です。入口左脇に「まや」があり、天井裏は「たか」と云い蚕室として利用され、 出入口上部の内側に中2階を設け 「くちの間」から「まや」の上の中2階を経て「たか」に通じる構えとなっていて、これは他に類例をみない珍しい形式だといわれます。
(現地・旧朝倉家住宅案内板 及び氷上郡の文化財 兵庫県教育委員会を参照)


養徳寺の羅漢道   青垣町沢野262

「道の駅あおがき」の東方山裾に向う遠阪川沿いの工業団地側の池には オオアカウキクサの群生を見に立寄ったり小和田城へも寄ってはいるが、 其の東山裾へ細い道を入って行く事が無かった。採土・採石で崩された墓地近くの山裾や北近畿(和田山・豊岡)自動車道が通り抜けていくポッカリ空いた山間部に新ヶ谷遺跡 ・新ヶ谷古墳を探しても既に消滅・壊滅・・!!。
北近畿自動車道に手を上げ?見送る第六尊者跋陀羅(ボダラ)

工業団地の 池付近のブラ山古墳・ボラ山古墳も整地され消滅?。遺跡発掘調査報告書等に記録が残されているだけの様です。何も得るところ無く山裾を歩き北近畿(豊岡・和田山)自動車道の高架下を抜けた山裾に拓けた地:青垣町沢野に 安龍山養徳寺(曹洞宗・もとは円通寺末で本尊に千手観音を祀る・恵心作とあるが平安時代の名僧:恵心僧都の事か?)があった。慶安2年(1649)石梯全卓和尚により開山され、当時は現在の小和田寺屋敷?跡と呼ばれる場所にあったが、 此の場所では寺域狭隘で且つ人家に近く、修行道場として不備であった為十一世:尊応教道和尚により真言宗浄土寺(廃寺)跡に寺を移転する事を計画し弟子楚雲和尚に委嘱され
33所観音には真横を向く像が多い?

師命を奉じて弘化2年(1845)移設に着手され11年後の安政3年 (1856)諸堂の建設を終え尊応和尚の遺志を全うされた。旧氷上郡(現:丹波市)観音霊場第22番札所で参道入口正面には流麗な衣紋、温和な相の地蔵尊坐像が建つ。地蔵菩薩は釈迦入滅の後、弥勒菩薩の出現をみる無明の間:六道に於いて 人道の一切を済度し、苦を除き・寿命を増益することから「延命地蔵」の名があるが、賽の河原では子供を救ける子安地蔵としての信仰ももある。 此の像は天保7年(1836)の造立:初代難波金兵衛作とされ市指定文化財となっている。長い木橋の参道脇は 梅林と荒れ田・空地と思えた観音霊場・羅漢道入口間には 紫陽花の若芽が息吹き始めている。”羅漢道”があり旧来より秋に”羅漢まつり”が行われていたが、いまは春に代わって行われる様です。尊応教道和尚は名僧の誉れも高く、
釈迦の子とされる第十一尊者羅怙羅(らこら)

人徳学識ともに優れ、その教化道風は三丹(丹波・但馬・丹後 )に拡がり帰依する者 ・教えを請う者が絶えなかったといわれ、養徳寺中興の祖として崇敬されます。背山に安置奉詞されていた釈迦三尊仏・十六羅漢・三十三体の観音像は尊応和尚の徳を慕う帰依者が寄進した信仰の結晶であるという。 十六羅漢・五百羅漢等呼ばれる阿羅漢像ですが十六羅漢・十八羅漢の場合・順序が決まっている様です。阿羅漢は「悟りを開いた功徳の備わった仏教修行者の尊称」 で羅漢信仰は江戸時代に入り主に禅宗 (曹洞・臨済・黄檗の三宗)で多数造られてきた様です。「羅漢道」の石段を上がって最初に 第一尊者:賓度羅跋羅堕闍(びんどら)像が立つ。
第六尊者跋陀羅(ボダラ)

びんどら… >ビンズルさんの名で像と自身の患部を撫で擦る風習で知られる尊者)阿羅漢像の間には観音像が 立ち並んでいるのを見て廻るだけ!!。観音像の多くが左右・いずれかを向き正対する像が 少ないのが気になった。第六尊者:跋陀羅は諸寺の浴室に尊者像が安置されることが多いという?。第十一尊者:羅ご(漢字が読めない?)羅眉と髭の描写がユニーク?釈迦の出家前に妊娠・釈迦出家して5年後に生まれたとされる?実子。 これ等の石仏群は北近畿(豊岡・和田山)自動車道の開設に伴い養徳寺墓地と共に平成6年(1994)現在地に移されています。
(現地:養徳寺の説明案内板 及びWikipediaを参照)


 中佐治代官屋敷 小和田城(寺内城・沢野城) 沢野城とオオサルタ城 稲土城

中佐治代官屋敷と
小和田城(寺内城)
【中佐治代官屋敷跡】  xxxm  青垣町中佐治字田辺

穴裏峠へ向う県道109線の分岐を過ぎると左手に沼城の丘陵の先端を廻り込んで氷上町から青垣町に入ります。「丹波少年自然の家」の岩屋山パラグライダー基地への大看板を見る頃には丹波冨士・大箕山の姿が正面に見えてきます。この大箕山の南山裾を遠阪峠を越えて 和田山へ抜ける427号線が旧山陰道(出雲道)で、南北朝期には足利尊氏・義詮親子が、丹波守護・仁木氏が但馬へ、
代官屋敷(秋葉社参道前の屋敷跡と旧山陰道)

また山名氏が勢力を張って丹波へ向い、戦国期には黒井城主・赤井氏が芦田氏等を先陣に 但馬へ攻め入り、其の主城・黒井城へは”丹波攻め”の明智軍が押し寄せたのも 此の遠阪峠から…古来からの主要な山陰・出雲街道は中世の丹波 ・但馬攻めの軍道としても利用されてきました。
(上記登山レポートのコースTの最終に中佐治代官所前を通る旧山陰道<但馬街道>の写真を添付しています)この国境を丹波側から但馬側へ向う遠阪峠への 玄関口にあたる要衝には佐治宿がありました。
代官屋敷:井戸跡や高石垣が遺る

旧街道筋を外れて「道の駅あおがき」側を直進する広いバイパスが小倉の交差点で旧街道と合流し、遠坂川に沿って和田山方面に向う R427号を200m程進んだ頃だろうか民家の裏手に苔むした石垣を見る。畑地にしては立派過ぎます…!地元の人でないと R427号線からは、この短い路地道が秋葉神社へ向う参道とは分からないが 民家の裏手を縦断する溝と細い道からは更に山手に向う参道があり入口に大きな自然石の常夜燈が建つ。
代官屋敷前の旧街道(山陰道)

其の左右は溝に沿って石積みの平坦地が延びており、参道の入口南側には石組みの小さな池(井戸跡?)があり 背後には 高さ約2.5m・幅は約30m程・三方を高石垣で取囲まれた平坦地がある。参道の奥には秋葉社の他に二社の祠が合祀されるが秋葉神社までは行かず確認していない。そして今立っている常夜燈前の民家の裏手で 行き止まりになってしまいそうな幅 2mにも満たない細い道が旧山陰道だったと云われています。中佐治代官屋敷跡からは東へ600m程の位置に望む丘陵の南方側に 山垣城(萬 歳城)城主で全国「足立」姓の元祖・足立左衛門尉遠政の次男足立左衛門遠信が築いた小和田城が望まれます。中佐治代官所は目前を旧山陰道が通る要害にあり通行監視や 領内統治の業務を行っていた事でしょう。
代官屋敷の高石垣と旧山陰道

「丹波志」によると藩政時代の領主は佐治村を柏原領・牧氏が入組、小倉村(約320石)は牧氏が、佐治村(約682石)は平岩氏・市岡氏の入組で管轄しており、 此処は中佐治・岡見・平野有河内は平岩氏が治めていた代官所か?。氷上郡(丹波市)内26ヶ村 (程?)を管轄する鶴牧藩 :水野壱岐守の和田代官所<和田村(約646石)>から推しても遺構は立派なもの。関所城のイメージもあるが資料未調査の為不明です。


小和田城(寺内城・沢野城) xxx Ca230m  青垣町寺内・沢野

佐治宿を発って但馬への旧山陰道に入ると程なく中佐治代官屋敷 前を通り山垣城下を、ひたすら遠阪川に沿って峠に向います。判り易く説明すると!!・・氷上町側から北上する県道 7号線が 佐治の小倉交差点でR427号に合流します。近畿舞鶴自動車道春日ICからは、氷上・和田山・豊岡へのバイパス道に入り青垣町で降りると県道7号線に出る。
小和田橋から西南 ・東南尾根に曲輪を置く小和田城

R429号小倉交差点の一つ手前(南)の信号は左折する角に JAと青垣町民センターが、右折すると正面左に小和田城のある丘陵を見て、遠坂川の小和田橋を渡り、 河川改修記念碑の立つ小広場前の分岐点に着きます。寺内・沢野の集落を囲い込むように背後に迫る丘陵上に曲輪・帯曲輪・二重堀切・堀切・土橋・片堀切の遺構がある山垣城の支城小和田(こわだ)城が在ります。
東南尾根(出曲輪)の主郭

足立氏は武蔵国足立郡の豪族:藤原北家流遠兼の子 久保田(足立)遠元を祖として武蔵国足立郡の地頭職となった遠元が足立姓を名乗ったとされます。遠阪谷の中央部に位置し全国の足立姓の祖とされる足立遠元の孫足立左衛門尉遠政が鎌倉時代初期:承元3年(1209)武蔵国から新補地として丹波国佐治郷の地頭職に任ぜられて来住し当初は小倉の 黒尾神社に居を構えた岩本城<足立館とされます。
<沢野城>二重堀切は大土塁ともに 2002・3月頃の管理山道整備で半壊

遠政には政基・遠信・遠高…と子や孫は多く、これら足立一族が岩本城から 遠坂川沿いに大和田城・田ノ口城から遠阪最奥の遠阪城へと粟鹿山の北を越えて但馬へ通じる要衝の警備?…稲土城や加古川源流で粟鹿山の南を越える粟鹿峠への入口に小碑城、京都府小牧との境界にも烏帽子山城等に山垣城の支城や砦を築いて 佐治郷の一帯を固めて、

小和田城<沢野城>東尾根側堀切

北に但馬方面や天田郡(福知山市)から、南方には隣接する直近に芦田氏、栗作郷(山南町)に久下氏等・同様に関東御家人の新補地領主がおり要所に城を築いて此れ等の勢力に備えていたことでしょう。山垣城を築いて此処を本拠とした山垣城主足立遠政の二男・左衛門遠信が築いたのが小和田城で、前方には但馬に向う丹波で最終の国境の宿場町・佐治を望み、佐治郷の東部を押える要地に立地しています。
同:曲輪堀切側にL字状の低土塁!!(土塁や虎口は無いとされているが?)

小和田城は本拠の山垣城南約2.5kmの位置にあり、此の山塊の最高所で点標名:中佐治 (4等三角点295m)から南西へ派生した 尾根上のピーク毎にも平坦地形が有り、古い形態の山上曲輪群の存在が想定出来ます?。西南端近くで東南へ尾根を分岐させて長く延び出す位置には尾根続きを堀切で遮断し西南方の寺内側へ段曲輪を並べる西南尾根曲輪群<寺内城>と、東南方の沢野側尾根先端部には二重堀切や東尾根側に堀切を挟んで曲輪を並べる 出城の東南尾根曲輪群<沢野城>が在る。
<沢野城>主郭北尾根続き・大土塁を挟む 二重堀切は管理山道で半壊!!

山上部は領民等の逃げの曲輪か?は不明だが小和田城の尾根上・二ヶ所の城砦遺構を分けてレポートします。隣接する栗住野や芦田庄の芦田氏とは幾度か紛争があったが後 :黒井城主赤井氏が台頭してくると其の傘下に組み入れられ丹波国境の北面を固める佐治郷の護りに就くが、やがて天下布武を称えて 天正3年(1575)に始まった信長の”丹波平定”に、多紀郡 (篠山市)八上城主 :波多野氏との共同作戦で一度は信長軍「丹波攻め」総大将の明智光秀を敗走させたが2回目の丹波侵攻には大軍をもって
<寺内城>主郭切岸と背後の土橋付き堀切


・但馬から遠阪峠を越えて進攻してきた羽柴秀長軍により天正7年(1579)5月 東芦田城(芦田国住)や遠阪城(足立光永)・山垣城(足立弥三郎基助)・栗住野城【芦田(栗栖野)五郎左衛門治朝?】 はじめ 近在の城は尽く落城していきます。小和田城もこの時・諸城と運命を伴にしたのでしょう。ここからは神社経由で右手側の急斜面に取り付き、直登を敢行すれば南郭群の一角には10分内で到達出来る。 沢野の幡神社【青垣翁三番叟で知られる】へ降る尾根と南へ下り・大和田橋の東方に末端を落とす 二方に小さく分かれて寺内・沢野の集落を囲い込むように背後に迫る丘陵上に曲輪・二重堀切を残す山垣城の支城小和田(こわだ)城が在ります。
東南尾根末端部【沢野城】 遠阪谷の咽喉元に有って佐治城・佐治宿とは遠阪川を挟んで呼応する小和田城(寺内城・沢野城)の登り口を捜しながら 遠阪川の流れに沿って寺内橋から小和田橋まで下ってきます。この寺内地区には嘗て”条里制”の形跡がみられた様ですが氾濫する川に分断され農耕条件は良好とはいえない為、昭和62年完了の圃場整備・河川改修工事の記念碑と
八幡神社参道傍に続く屋敷跡とも思える削平段

最近: 国の無形文化財の指定された青垣翁三番叟の案内板が立てられている。祭礼に「翁三番叟]が奉納される 八幡神社側の西南尾根上に小和田城<寺内城>が在り、出城<沢野城>からの尾根筋が此の主要郭部で合流する。記念碑前から丘陵の緩やかな尾根末端が落ち込む”JA丹波ひかみ・農協穀類等乾燥調整施設”に向って 車道を進むと、住宅地前の尾根末端部に石碑と五輪塔の残欠が祀られる脇から 東南側尾根先の崖状急斜面を上がりますが幸いにも出曲輪下部の削平段に祠(愛宕社か?)が祀られ其の参道になっており、背後の尾根末端部に築かれた小和田城の出城の主郭にまで楽に着く。
小和田城・南西尾根上の曲輪は切岸無く広い

散歩中の数人のお年寄りに訪ねても”ヘエ〜”という返事しか返ってこない 知られざる山城なんですが・・・!!.。此処も対岸の中佐治代官屋敷裏と同様に秋葉社が祀られているのか!!? 此処からは緩やかな尾根上に切岸加工された曲輪が3〜4程ありますが、ナンということか。曲輪の直ぐ脇を東北側から 延びてきた作業林道が、竪堀らしい跡を割って並行に延びてきているので、帯曲輪が有ったとしても破壊された可能性を感じます。 林道は此処から続く尾根筋の急斜面に張られた ピンクのビニールテープに添って更に進んでいく勢いです。 急斜面を登りきった狭い平坦な最高所(20x10m程)が主郭でしょう。
西南尾根末端の曲輪と一段下の帯曲輪

此処から南西へ延びる尾根上には4段程の曲輪があり、 最下段の曲輪は広い。二股の要に位置する主郭背後の尾根を高さ約4m・幅約8m程の大堀切で北の山側を遮断しそのまま竪堀となっています。登りに採った五輪塔から主郭まで切岸や堀切等堅固な東南尾根と、 降りに採った広いが切岸の無い曲輪の続く西南部は別々の機能を持った施設か一城別郭の可能性を示唆されているようです。
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西南尾根末端部【寺内城】小和田橋を渡る正面へ北方から延び出してきた尾根が落ち込む先端部頂部には小和田城の出城的?(沢野城)が有りますが、小和田城(寺内城)へは遠阪川の 小和田橋の上流に寺内橋が有るが、石碑側から集落左手山麓を進めば集落内から八幡神社へ向う参道入口で「八幡宮」と彫られた 石燈篭や神社内の舞台で演じられる「翁三番叟・兵庫県無形文化財指定の青垣翁三番叟石碑が立つ。
八幡神社裏の小社

集落に突き出してくる丘陵側は其の先端部は見上げるばかりに急峻で、 参道の左手には高い段差で広く平坦な屋敷跡を思わせる空地が数段続く。鳥居を潜る先には八幡神社に向う石段参道と、横を直進して小祠に進む道が有る。倒木で埋まる谷筋を詰めながら、急斜面の南西尾根に向かう稜上へと トラバース気味に上部をうかがいながら伐採された倒木で埋まる障害物コースを進む。 回避ルートも無い!!…尾根に乗ると緩斜面ながら下方へ・上方にも尾根上に曲輪が連なる。
西南尾根:西郭部?の堀切と土塁

先ずは尾根先まで進んでみる。先に進むほど倒木が多くなる。その倒木に埋まる浅い堀切が有る。段差の低い曲輪を三段程降った 広い曲輪が末端部で、半円形に帯曲輪が捲く真下には民家の屋根が。引き返しての上方にも2〜3段の平坦地があり、 其の先に切岸を見せる3〜4段の曲輪群が主郭部で、1段目から2段目へは竪堀上の虎口部土塁道を入る。稜線端に鹿避けネットが現れて主郭に着く。背後の尾根続きの急斜面下方の鞍部に土橋付の堀切を見る。
<寺内城>西南尾根側:下段曲輪から上り土塁横の竪掘(右手前)

土橋付堀切と小曲輪?を間に土橋が延びて、土橋の端は片堀切となり 竪堀は斜面下方で合流しています。やっと戦国の山城遺構に逢えた。 鞍部からの登りは尾根沿いに 堀底道状の溝が長く延びて、途中には露岩・巨石群が見張台状に見える場所も有る。尾根の溝は搬出先の谷筋まで切り出した 材木を運ぶ・木ズラシか木馬(柴や短く裁断した木材を運ぶ木橇)道だったのかも?溝が続く登り斜面の東方から登ってくる整備された山道がのぼってくる。鹿避けネット(関係者以外出入禁!!?)を開閉して、
<寺内城>主郭背後の土橋付き堀切(手前)と竪堀(左奥)

この山道に入るが道は直ぐ反対側斜面に降りてゆく。山仕事様の 小型トラクタやユンボが通る程の専用道なので、一方の小和田城遺構が残る東南尾根から続く道を越えて少し踏み跡を進むと左(北)斜面下に井戸跡?(天水溜池の様な窪地を見る。突然の珍客に驚き・動きを止めていた鹿が逃げ去った先が広い平坦地。
点名:中佐治295mへの尾根上瘤(ピーク)毎の平坦地形は山上郭跡?

此処が二方行の尾根に遺構を残す 小和田城のジャンクションCa150m峰ピークは広いだけの平坦地!!。その尾根続きの下方にも物見台風の小さな曲輪が東に突き出している。更に点名:中佐治 (4等三角点295m)迄の尾根筋は瘤(ピーク)毎に自然地形の平坦地がある。足立氏の本拠・山垣城から穴裏峠を越えれば福知山市の榎原へ降りるが、その榎原からR429号線(今も以前も林道然とした、 落葉で路面が見えないほどの細い道!!)が佐治へと通じています。
小和田城山塊最高所:点名:中佐治 (4等)

小和田城は此の福知山市榎原へ抜ける榎峠(注:峠越えの車道は城域の北方を中佐治へ降りてくるが、往時は峠からの山道は 小和田城からの尾根東先端裾を沢野へ下ったものと思えます。主目的は本拠の山垣城の東玄関口に在って、遠坂峠を但馬へ抜ける要衝監視と其の押さえとした、足立一族の守備する重要拠点の支城となっていたのでしょう。
(青垣町志 及び氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)

沢野城とオオサルタ城
沢野城        Ca160m  丹波市青垣町沢野
オオサルタ城   Ca150m  丹波市青垣町沢野


青垣町遠阪にある二つの城【田の口城と湯落城 】とほぼ同じ運命に 遭った足立氏一族の、さらに二つの城を紹介します。これらの城はいずれも北近畿自動車道(和田山・豊岡線)施設造成工事により発見されたという。 高砂峰から西方に延び出す丘陵が青垣町民センターの北東・沢野集落から奥に延びていく谷間の東側を堅めています。 この谷間の西側には小和田城(寺内城・沢野城)が在り、高砂峰から派生する枝尾根先の二箇所には小和田城と呼応して領内・間道監視?当った?と思われる砦 沢野城とオオサルタ城が在りました。
沢野城(正面土砂空地と専用道間)!!?付近

城砦が創築された動機・時代・城主等の城史は不明ですが、小和田城に従属した城砦には違い無さそうです・・!?。但馬街道の丹波側では最終地点・国境の宿場町佐治を望み、佐治郷の東部を押える要衝に立地している小和田城は、山垣城主足立遠政の二男・左衛門遠信が築いた城で、本拠:山垣城の西玄関口の押さえ、 宿場町佐治から青垣町大名草(おなざ)を通り、播州峠を播磨側の多可郡や西脇市、
オオサルタ城(下画像の低丘陵):中央左付近の藪中に2〜3段の平坦地は屋敷跡?

生野峠を越えて黒川・銀山湖から朝来市生野・遠阪川沿いのR427号線が遠阪峠を越えて朝来市山東町・和田山町や福知山市 (旧天田郡)夜久野町への但馬街道の要衝監視と共に沢野から榎峠(現在は別ルートでR429号線が榎峠)か・塩久峠を監視したものか?。これ等の峠を越えれば福知山市側に降り、和久川沿いに出てR9号(山陰道)に繋がります。 沢野集落は遠阪川沿いの東西・小和田城のある丘陵尾根が東南へ延びる末端部・谷の南入口に塊り、此処より北方の 谷奥に向かって約800m・狭い谷間に真直ぐに細長く延びる田園風景の中に宅地は無く,小和田城側の山裾に工場施設!!?が建っているだけです。
高砂峰とオオサルタ城(手前の低丘陵部)

真直ぐ延びる舗装道路は山裾の谷出合に向う。 此処に北近畿自動車が走っており、トンネル直前にある高架下を潜った所で終点。林道は先に通じているようですが、関係者以外進入禁止のフエンス。地図では榎・塩久の両峠付近まで延びているのですが確認出来ず・・!!?。 もう一本の道は急カーブして別のフエンスの奥に延びる。自動車道工事整備の専用道と思われます。自動車道は 「道の駅あおがき」迄2kmの表示が見える。近畿自動車道は此処で、北方に向かい連続するトンネルを三つばかり抜けると、足立氏の本拠城 ・山垣城の丘陵下部を・またトンネルで抜けて 但馬国境の遠阪トンネルに向かうが、其の間にも城跡があり、先に紹介した二つの城
オオサルタ城:主郭部は自動車道で分断された此の先か・・?

【田の口城と湯落城】があり、湯落城と同様:城域が専用道路敷地内で消滅している 沢野城は此処・谷間の田園地帯の最奥、トンネル手前の広い空地状の用地付近に位置していたようです。 谷全域から沢野集落・遠阪川先の但馬街道:佐治宿まで見通せます。北近畿自動車道を走る車が見え隠れする東側丘陵部端の沿って沢野集落に帰り道・専用道路に分断され、丘陵東端部だけが僅かに残された尾根先端部分 ?にオオサルタ城が在り養徳寺から廻りこんだ西端丘陵部の直ぐ北側に西南へ少し流れ出した尾根端の頂部に遺構?が見られた。尾根南東方に二本の竪堀(一本は登城の堀底道?)と土橋付の堀切だが、 その先を期待して10数mも進まないうちにフエンス。その先は北近畿自動車道を見下ろし尾根筋は途絶えた。 オオサルタ城?:二本の竪堀も所詮は付け替えられた山道?

「道の駅あおがき」へ1kmの標識が見える。尾根筋の傾斜は緩やかだが自然地形のままの様で、 曲輪と呼べそうな区切られた平坦地形は見当たらない。主郭:いや城域さえも此の自動車道で消滅してしまったのでしょうか!!?。堀切・土橋と見えたのも僅か10数mの比高と比較的傾斜も弱い尾根筋までに、付け替えられながら 残った林業作業用の山道だったのでしょう。小和田城を正面に、沢野の谷を通って天田郡(福知山市)側へ抜ける間道監視の砦では有ったのでしょう!!。


稲土城     xxxx  Ca200m     青垣町稲土

丹波もみじ三山・高源寺バス停の先で右折し 佐治川(現:加古川)を渡り粟鹿山(峰)に向って稲土川を遡る道は、粟鹿山山頂の放送無線施設へと専用道路が (一般車輌進入禁止)通じているので粟鹿山へのラクチン散歩コースですが名水銚子ヶ水を汲みに訪れる道でもあります。 町志では近くの大灯寺を建立した足立馬之助政重が本尊・薬師如来像の落慶法要に訪れた一休禅師を開山にしたといわれます。
稲土川から稲土城(中央民家の背山ピーク)

”銚子の水”表示を見て道なりに大灯寺参道前の西山公民館を過ぎると”八幡宮”の案内表示があります。 此処から250m程先、稲土川の左岸・日向橋!!を渡った先には青垣町指定文化財の 長屋門が残る民家があります。稲土集落からは大箕山と点名稲土を越えて降りついたところには、足立氏の本拠・山垣城があります。
稲土城よりも砦らしい八幡宮

この峠道が低い鞍部を通らず高い点名:稲土の山側を通る 不思議さもありますが、要衝でもないこの地に城があることは小稗城以上に不思議に感じますが、本拠・山垣城への西の侵入口を守備する 機能を持っていたにしては小さな単郭の砦で小稗城と同様に、尾根に続く山側を彫り切っただけの城砦です。 「八幡宮→」の標識を見て稲土川右岸の石鳥居に向います。八幡神社とは足立氏の祖を祀る鎮守の諏訪八幡社だったのでしょうか?。
尾根続きから見た稲土城の堀切・土塁と単郭の曲輪

深い谷の間に迫り出す丘稜上の急斜面に建つ八幡社こそが砦の様です。 其の社前から尾根筋に出て、上部へは鹿猪避けフエンスを越えて向うが、下方の南側へ 短く突き出す細い小枝尾根の先端部にも削平された台地に小神社が建ち、見張りの出曲輪を思わせコンクリート製の祠が祀ってあります。城砦の遺構とするには不充分なので少し確認しようと 八幡宮から背後に続く急斜面を西山?(562m)まで登ってしまい、
7-8年後の再訪ながら倒木の位置もそのまま!!の堀切

緩やかになった尾根を更にダンノ(3等三角点722m点名:段ヶ谷)まで足を延ばしてしまい、久しぶりに山城探訪を忘れ?!静かな秋の山旅を楽しんでしまいます。稲土城を探せないままなので粟鹿山への縦走は止めて引き返すますが、台風で尾根筋も荒れているうえ、踏み跡も不明瞭・枝尾根が多く 且つ急峻な下降は枝尾根なのか谷への下降かもわかりません。
一本の堀切だけが 城砦を示す稲土城遺構

案の定 ・尾根を取り違えて少し手前の谷筋を降り西山の公民館前に出てきたので、再度・八幡宮を訪れ今度は小谷を挟んだ北の枝尾根に一本の堀切を見てトラバースして移ります。 堀切の状態を谷向かいの尾根筋から真横に見られる位置や状態は中々無いと思いますが、小さな砦が大きく 堅固な城に見えてくるのも不思議です。ところが!!この城(砦)も小稗城同様に 6〜7m程の尾根を削平し南北約30m程の平坦地形に主曲輪を一つ乗せるだけ。
稲土城主曲輪南端部 :露岩は目立つが切岸利用とも石列とも思えない?

此の曲輪の尾根続き(山側)を堀切(堀底幅約4m・高さ2m弱)で遮断しただけの防備です。 主曲輪南端部には切岸も無く、自然地形のままで低い段差も切岸も感じさせず、石列とも思えないが巨石・石材が集積しているところがあるが、何の遺構も感じられないが、尾根筋はそのまま真直ぐに斜面を降るだけ。降りきった山麓の谷出口付近には足立姓ばかりが目立つ墓地がった。城主:足立政家を祖とする足立株の 墓地だったか?
胸腹神社(惣持)


山垣から分家した足立修理大夫政家が 稲土谷を領して稲土城を築き足立牛之助(祐!!)・馬之助政重(3代目城主?は、一休禅師を開山に大燈寺を開基したとされる)・大和守正隆!!?・三太夫 …等と相続してきた足立氏一族の城なのでしょうが、要衝でも無く”詰め城”にしては小規模で、砦としての機能も山垣城の西口を守備するには力不足”知らせの城”とするにも一族・友軍の城を目視出来る場所でもなく、 在地土豪:足立氏の領内監視に当たった村の城なのか?。


大燈寺と聖観世音菩薩像

稲土城のコメントを戴いた地元の”ちかさん”から、稲土からは尾根を隔てた西隣へのタワに20数mの平坦地がある…ヒヨの谷・相撲場…と呼ばれていると云う。 三角点峰・ダンノ(722m)から南へ延び出す尾根は大稗地区への下降分岐を見送って 尾根を辿って惣持地区への下降点峰から、 緩やかな尾根筋が東へ・更に南へと延びる先に562m峰があり、直ぐ東に小ピークがある。此の鞍部付近と検討をつけて惣持地区の名も珍しい鎮守社胸腹神社から562mを目指した。
大燈寺(稲土)

胸腹神社自体が高く急な石段の続く山腹に在るが、 途中に幾段も段曲輪状の小場が有る。 神社裏から続く登り一辺倒の山道・広く緩やかな尾根筋に出て562mm峰に向う。平坦な尾根筋の緩やかな鞍部【此処が相撲場タワ ・東側の谷側に相撲場と呼ばれる所が有り、大燈寺の背東から北に入り込む谷がヒヨの谷】となり、東への尾根伝いには・其の尾根先を八幡神社と稲土城へ落とす丘陵筋です。南へ急斜面を下って更に東端・鞍部より先の頂部に、 20数uの緩やかな傾斜を持つ自然地形の平地【セトタワ?】は有ったが、曲輪としての独立部も、周囲に城域を区分する堀切等遺構は無く、此処まで降りてくると南や西へ尾根 ・谷を下っても惣持ではなく文室地区に降りてしまう。 尾根は傾斜を増して北に延びる。
大燈寺:聖観世音菩薩坐像

山麓付近の谷筋(寺の奥谷)は 広い範囲に石垣積みの平坦地が残っているが、寺院跡の遺構だろうか?鹿・猪避けフエンスを開閉して大燈寺に降りてきた。恵照山大燈寺(臨済宗妙心寺派)は稲土城主:足立政重が京都大徳寺の一休(宗純)禅師を 開山に招いて室町時代:応永年間 (1394-1427)末頃に開創されたとも!! ・一休禅師が後小松天皇の勅により開創したものとも伝えられます。 寺は永正6年 (1509)の兵火で焼亡し、室町時代末期の天文3年(1534)湘山玄澄和尚を中興に開山に城主:足立修理太夫安秀により復興、さらに江戸時代中期に寺は現在地に移され 15世寛海和尚の代に完成したという。 相撲場タワから上文室の猿山?から寺ノ奥谷へ降って大燈寺に出てくる手前の谷筋に、石積の広い平坦地が在ったが旧大燈寺跡だったか・・?。
宝冠部分には彩色が残る

「ふる里の寺(氷上郡)」丹波新聞社<昭和47年版>には初代:難波金兵衛とあるが、「旅の石工:丹波佐吉の生涯(法政大学出版局)」に、 丹波佐吉の作品とされる聖観音像が寺に有る。台座正面に刻まれた「勿疑<疑うことなかれ>」の二文字は、寛海和尚の号で、寛海和尚の供養塔として、奈良県宇陀郡の大師山観音霊場の石仏製作期間中にも、 「日本一」の名声に請われ各所に佐吉の石仏像等が残されたように、此の時期に故郷氷上郡内の此処:青垣町大燈寺には丹波佐吉(村上照信)に依頼された聖観世音菩薩像《嘉永6年(1852)xxx刻銘》が小さなお堂に祀られます。 永く堂内に安置されていた為は!!、風雨に因る風化・磨耗による欠損もなく、宝冠部分には彩色も残り保存状態は良好です。
(青垣町志 氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会  氷上郡志・「旅の石工・丹波佐吉の生涯」を参照)


浄丸の滝      青垣町稲土

北近畿自動車道の青垣ICを降りる「道の駅あおがき」の北方を県道沿いに走ると、宿場町の面影を残す 佐治宿中心街からの道と交差するR427号。東へは遠阪峠へと但馬街道が通じ、直進は丹波市北西最奥の大名草 (おなざ)から播州峠を越えて多可郡・西脇市へ、また狭い林道然としたR429号が朝来市生野町に越える。これ等の車道以外は、丹波市最高峰:粟鹿峰(粟鹿山962m)から延びる尾根を越えるのは 徒歩による長く厳しい山道だけ。青垣町には:其の粟鹿山から南へ流れ出る佐治川や、佐治川枝流の稲土(いなづち)川【佐治川(現:加古川)の源流】に育まれて、神楽(しぐら)の郷【稲土・大名草・大稗・惣持等地区】は 天子魚(あまご)の養殖場・洪水でダメージを受けていた梅花藻も、流れの中に再び白い花を咲かせている様です。
浄丸神社と浄丸の滝

名水の里として取水場が小名草地区内(バス停付?)や稲土の一休さんの水(銚子の水) がよく知られているところですが、浄丸の滝も名水の仲間入り?。此の浄丸の滝への道は佐治神社側で大きくカーブして高源寺(丹波市紅葉三山の一つ)へ向かうR427号を外れて、佐治川(加古川)を渡り、 アマゴの看板が架かる店の前を通り、次の山裾の分岐を右折して谷間の奥に続く稲土川沿いの道を直進するだけ。「銚子の水」分岐の直ぐ上付近は、初夏には源氏ホタルやヒメボタルも観察できます。 其の先で「大燈寺」への分岐を左に送り、なを直進すると左手山裾に桜木と石鳥居が見える。左側の丘陵上に稲土城が、 長屋門を残す民家も右方の橋を渡った奥に有る。愈々最奥の民家先にコミュニティセンターか ?「清流の里」看板を見る。都会住いの個人名札が立つオーナー制の棚田が拡がり、此処からは猪鹿除けフエンスを外して進む・細い林道が粟鹿山山頂無線中継移設への専用林道ゲートまで続く。 数100m程先で林道側に鳥居を見て渓谷に滝音だけが響く浄丸神社の境内に入る。狭い落ち口に水を集めて、社殿の足下から流れ落ちるため落差は7〜8m程【大水で岩盤が崩れ今は2段滝となっている】と高さは感じないが、神社側にも鏡面を見せてそそり立つ岩壁が 滝下まで廊下状に突き出しており、滝壺と渕をつくって自然の中に荘厳さを演出しています。
浄丸神社本殿前から落口を覗いてみる

この渕には本殿の祀られる主祭神豊玉姫命の 化身とされる蛇が棲んでいるとか、社殿に渡る橋の下に小さな穴があり、其処から弁財天が今出の権現さん(遠阪の親水公園近く・裸祭りで知られます)に逢いに行く・女性が滝で髪を洗うと黒くなる等々の伝承が残りますが、 古来より弁財天として信仰され、祈雨、止雨の神として崇敬されています。本殿脇には山ノ神・浦島ノ神・稲荷の三祭神の小社が祀られ、本殿への橋を渡る手前にも不動明王像が立っています。 【滝が崩された大水の際・首だけが流された。決壊防止のコンクリート壁が滝の上方に施行された時、不動明王も新しく祀られています】(青垣町志を参照)

  丹波霧の里HOME 

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