百万岩~高砂峰~塩久峠/佐治神社~大箕山~点名:稲土/小和田城・稲土城
塩久~百万石~高砂峰~P374m~塩久峠 2001年01月02日
青垣・佐治神社(竹端橋)~大箕山 2000年01月17日
銚子ヶ水~大箕山(丹波富士)~点名:稲土 2002年03月16日
近畿の山城:中佐治代官屋敷/平岩氏代官屋敷(平岩家)
小和田城(寺内城)
沢野城とオオサルタ城稲土城
スカイパーク青垣付近からふるさと富士大箕山(丹波富士)

銚子の水 長屋門 旧朝倉家住宅 養徳寺の羅漢道
大燈寺と丹波佐吉の聖観世音像 
浄丸の滝

丹波市青垣町に入ってくるとパラグライダーで人気の岩屋山への登山口「丹波少年自然の家」の分岐を経て「道の駅あおがき」への車道前方にドーム状の大箕山が見えてくる。


初山行は縁起の良い 百万石~高砂峰へ
 H13.01.02

年頭の山は何処か!!御目出たい山を目指したいもの…選んだのが丹波市青町の高砂峰。「道の駅あおがき」から続く奥塩久谷川に沿って「スカイパーク青垣」の前へ、此処から遠坂川に沿って沢野方面へ北上すると白い岩場が見えてくる。沢野手前の集落入口に大神宮石碑と道標(右ふくちやま・左むら)があり塩久峠を福知山に越える街道(AM11:20)筋を”左むら”へとるが直ぐ舗装も切れ墓地です。畦道の様な道に 鹿避けゲート・その奥に小さな鳥居と苔むす産土神の大神宮に着く。右横の小道が岩下をかすめて延びています。
沢野集落から望む高砂峰):自動車道高架付近に沢野城があった!

岩場が上部に見えてくるので暗い谷筋の直上コースを外れ岩場突端下部に出る。南面は25-30m程の絶壁・岩場の西側へ回り込めば苔むした岩場と 立木と滑りやすい落葉に隠れた岩角を手掛かりに攀じ登ると百万岩の中央部に出る。テーブル状・岩のテラスは展望も良く快適。大箕山(丹波富士)が裾を広げて目だって大きく見せようとしている 青垣の森最高峰の岩屋山が微笑ましくそれを静かに見ているよう。せっかくの展望ですが先を急ぎ岩場の先に続く薮の細い尾根を辿る。どちらがピークなのか?二つの突起の奥が高砂峰(420m PM12:00)。展望のないダラダラ尾根は踏みあともはっきりしないまま続く。雨乞いの山だった様で?空も怪しくなりポッツと冷たいものが顔や手を濡らし、おかげで足早に行程は捗(ハカド)る。既に374mピークは通り越し府県境尾根分岐の広い鞍部は塩久峠。右へ下れば何事もなかったのだが塩久峠を榎峠とばかり思っているので左へ採って下り、すぐ林道となり気をよくして歩き出した
稲土から大箕山

福知山市栗樽浄水場脇を通る(PM12:40)。シマッタと思っても雨さえ振りだし引返すのに躊躇しそのまま下り続け樽水集落を抜けると 遠くに車道が見え429号線に出て正月早々、霙交じりの雨の中を車道歩き。これから榎峠を越え「青垣まで11km」の標識が恨めしい。福知山側最奥の法用では道路工事中のため迂回させられるが振り返ると綺麗な虹が法用の集落を跨いでいた。429号線は幅3m・回転半径6mの為大型車通行止め、行き交う車も少なく殆ど小型車か軽トラだった。中佐治集落(PM2:25)へ下りてきて427号線と平行に遠坂川沿いに塩久の登山口(大神宮と古い道しるべ)から50m程の所にある佐治小学校・児童集会所に戻ってきた(PM2:50)。


佐治神社(竹端橋)~大箕山~山垣 H12年01月17日

兵庫南部震災犠牲者追悼(1/17)西宮市満池谷記念碑前に記帳と献花を済ませた後,丹波市内の実家に墓参帰郷し午後から青垣町の大箕山(丹波富士:大深山とも大見山とも呼ばれる)に向かい427号線を北上。「丹波少年自然の家」の標識が見えてくると正面に大きな、おむすび状のズングリ・ムックリな山容が大箕山。今年始めに高砂峰に登ったが 百万岩からの大箕山の姿が忘れらず今回手短コースで登ってみる。427号の交差点を和田山方面ではなく加美・西脇方面に直進し佐地神社前を右折し加古川に架かる竹端橋を渡ると数台駐車可のスペースがある。
大箕山山頂から粟鹿山 H14.03.16

左折は名水銚子の水を経て丹波側から粟鹿山への登山コース(林道)。正面が大箕山で山頂に2つのアンテナ塔が見え肩の辺りへ一直線に送電線が稜を越えて向かいの山垣方面に延びています。取付き点を探して竹端橋を右折し送電線の延びる辺り・ログハウスを登路と考え進み小橋を渡った右手が尾根末端で工事用資材置き場があり三基の石碑が並ぶ。全て南無妙法連華経と彫られ中央石碑には「八大龍王」の文字が…小橋左に山の奥に向う林道が見え石碑前へは2分とかからない。左の林道から取り付くが工事用の道だった。しかし正面のトタンで延々続く猪垣の奥には凹角部に沿ってハッキリした道が続く。ただこの支尾根の稜線までは間伐や倒木が登路を塞ぎ歩きにくいうえ道に沿ってうらめしくも薮を漕ぐなんとも不合理なことである。
山垣からの万歳山

この枝尾根の稜線に出ると(PM1:35)右手からの踏み跡と出会う。427号の交差点一つ東の細い道(岩本集落)を竹端橋へ戻る時見かけた2つの石碑(これも南無妙法連華経)からと石の古い常夜灯(明かり窓は壊れてなかったが)脇から山へ向う細い道があり此処から繋がっているようだ。枝尾根からは5分程度の軽い行程で主尾根?に出る。中佐治の方からはハッキリした道で左手に少し下るが又急な登り一辺倒の道となるがモノレールの軌道が現れ急登の連続なので手掛かりとして利用させてもらう。日当たりの良い尾根は雪も殆どなく展望も開けて快適。送電線を潜る辺りが急斜だが露岩も多く岩屋山~竜王山の奥に水山や吼子尾山・五台山方面の展望が楽しめる休息地が随所にある(PM2:00)。
遠阪に向う旧山陰道(中佐治代官屋敷)

緩やかになり笹と雪 (約5cm程)の中にモノレールの軌道が山頂へと延びて行きます。2本のアンテナ塔が見えてきました。いつのまにか赤い布は見当たらなくなります。この先山頂にもその先もズッと…モノレールは奥のNHK青垣テレビ中継所先の薮へ消えていく。大箕山(丹波富士) 626mの3等三角点は 木々の陰で 福知山側の烏帽子山等の展望は望めないが粟鹿山・三国山・岩屋山・カヤマチ・五台山方面に眺望が拡がる。これより先下山に掛かっては雪で踏み跡の見当もつかず急な下降が尾根筋か谷向うかも判断出来ない。下方に尾根分岐も見出せず左よりにコースを採り稲土側へ下ったほうが駐車場への帰着が楽なのだが左への薮を避けた植林の中に下降路を見つけ赤プラ境界標識を追うが余りの急斜面と雪の為、木々を伝いも間隔が長くて手が届かない場合はズリ落ちながら下り続け気がつくと西の稲土ではなく東へ下っている。しかし踏み跡も現れ車の音も近く2度と登ることもない斜面を下り猪除けネット沿いに出口を探し墓地へ出たが扉が開かず乗り越えて墓地の下の報恩寺に出た(PM3:10)。
秋葉神社入口にある石燈籠と高石垣(中佐治代官屋敷)

「虎仮の庭」と書かれた石碑が庫裏の方に見えるが、どんな庭か意味はなにか、いつか訪ねてみたいものだ。寺の下はきた保育園で目の前は萬歳山と一段低い高台が山垣城だ。万歳山の後方は採石場で烏帽子山からの下山時、此処に降りて「いきものふれあいの里」へ戻っている。萬歳山から烏帽子山へも繋がる縦走コースがありそう。目の前の427号線を辿り途中429号線(此処は高砂峰からの帰りに通った)分岐(PM3:35)を経て427号線交差点手前を岩本地区を経由してPM4:00竹端橋に帰りついた。


銚子ヶ水~大箕山~点名:稲土  H14年03月16日
 
岩屋山頂を飛び出したパラグライダーが10数機舞っている青空を見上げながら427号線を和田山方面に右折せず青垣町方面に直進。佐地神社で右折し佐治川を渡り大箕山西北山麓を稲土集落に向かう。粟鹿山に通じる林道(NTT巡視用専用)への車道でもある。一休さんの水(銚子ヶ水)奇行で知られる室町時代の僧一休禅師【応永元年(1394)~文明13年(1481)】がこの地を訪れたのは京・大徳寺の復興にあたっていた頃のことでしょうか!?近くの大燈寺(稲土城3代目城主?足立馬之助政重が一休禅師を開山に招いて開創したとされる)に建立された薬師如来像の落慶法要に訪れた際、
隠し銚子ヶ水の取水場

山中の岩間から滾々と湧き出る清水を見て「銚子ヶ水」と名付けられて以後、稲土では涸れることのない此の水を「一休さんの銚子ヶ水」として大切にされています。東屋中の水汲み場からはトックン・トックンと湧き出す水の音が酒を注ぐ銚子の口から小気味良く聞こえてくるが、なかなか満杯にならないマドロっこしさはある。水質検査(平成5年3月18日)による1L当りの各含有量はカルシウム10mg・マグネシウム0.51mg・ナトリウム11mg・カリウム0.99mgとある。一休禅師は文明13年(1481)京田辺の酬恩庵「一休寺」で88才の生涯を終えた。
隠し銚子ヶ水の取水場

北摂のポンポン山(加茂瀬山)から出灰へ降れば一休が開創した草庵(尸陀寺)跡があり此処に居た事が丹波に足が向いたきっかけだったのかも。
車窓から見える尾根筋を3時間余り大箕山からの縦走偵察を兼ね登った。地理院地図上の山名は大箕山と粟鹿山だけ。破線の峠道と境界表示のみの空白地帯なので登山者には関心も殆どない山域だが”丹波富士”名で少しは足を進める登山者はいるのかも?。427号線に沿っての遠阪川と粟鹿山に端を発する稲土川(佐治川支流)に挟まれた山域で発端の大箕山から600m程のピークを連ねて粟鹿山へ伸びる尾根に破線表示はない。大箕山と北の542mピークの間に
隠し田跡からダンノ(点名:段ヶ谷)

稲土と山垣を結ぶ峠越えにしては不思議な破線表示がある。最低鞍部に向わずワザワザピーク近くの急斜面を採った杣道とも思えない。この道の取付き点も稜線上での通過の際も峠越え地点も確認していない。最低鞍部へは銚子ヶ水からと決めてたので民家前の開墾記念碑から小川に沿って谷間を目指す。直ぐに棚田跡のようなところを抜けていく。手入れされていない果樹園のようなところもあり石垣や境の畦を通って猪垣に行き当たる。小道は先に進んでいるようだが入っていける箇所がないので仕方なく谷寄りを伝い「銚子ヶ水」取水場側からの道と合流する所で垣根を割って這出る隙間があり此処で抜け出る。
大箕山三角点より岩屋山・カヤマチ・安全山方面

谷筋にはその両サイドにも古い石垣が 累々と続き大規模な治山・治水工事がされているなと感心して眺めながら進む。谷筋から明るく広い尾根筋に出ると此処にも幾段かの石垣を連ね段々畑のような段差があって開墾地の跡のようです。辺り一面にはミツマタが黄色っぽい花を咲かせています。ミツマタの林の奥には稲土川対岸(西側)にコバサマ~ダンノから粟鹿山への稜線が見えています。此処からは段々畑跡を稜線通しに行こうと思ったが 光背の片側が欠けた古い石仏一体を見つけたので地図にもない峠越えの道を辿ってみたくなり谷寄りに続く踏跡を追って見る。倒木や土砂で崩れたところもあるが鞍部は山垣への明確な峠道(PM1:45)。此処まで来て大箕山に登らない手はない。
踏み跡も残っていない明るい稲土山頂

縦走路確認の意味も含め大箕山へ逆走してみるが流石は富士の山…山頂まで急登に次ぐ急登が続く。山頂に近付くにつれ東面の枝尾根が競り上がってきます。注意していないと前回のように雪道でなくても、此方の尾根に踏み込んでしまい山垣集落へ降りてしまう。東からの枝尾根に出ると鉄塔を載せた三国境の無名峰から烏帽子山・万歳山と遠阪川に沿って点在する山垣の集落を見下ろす。植林帯を抜け出ると西面に展望が広がる大箕山(丹波富士3等三角点626mPM2:05)の山頂はNHK青垣テレビ中継放送所があり向かいの(岩屋山には10数機のパラグライダがテイクオフして舞っておりパラを開いてランディングを待っているハンググライダーも望まれます。
稲土(415m)とムカエ山中間点から三国境~烏帽子山

時々は大箕山を掠めて 飛んで来るフライヤーもいます。カヤマチ山・安全山・五台山へと展望が拡がります。北方には倒木と 雑木の先にダンノ(段ヶ谷)~粟鹿山や 今回走破したいと思っていたオオジャレ~ムカエ山の 緩やかな稜線が望めます。さて元の峠へ(15分程)引き返しますが急斜面の下降で 尾根筋を取り違えやすいので2~3箇所テープでマーキングしておく。峠からの雑木と植林の混在する尾根道は有るか無いかの薄い踏み跡も気にならない快適なコースです。
土(415m)とムカエ山中間・鉄塔から稲土と大箕山のピーク

稲土(543m)手前ピークからは左下の稲土集落へ降れそうだが踏み跡なく、此の先にあるはずの?不思議な地図上破線の峠越えを気付かづ、 鹿の楽園のような明るい笹と潅木の緩やかな尾根を辿って杉の植林と自然林の境に建つ三角点:稲土(4等三角点 543m PM3:00)に出てくる。此処からは稲土集落が直ぐ下方に見えるが少し先へ進むが次のピークを過ぎてからは尾根の様子が見えなくなりドンドン降り始め谷筋を遠阪方向に進んでいるようです。取って返すよりは一旦谷に降って谷沿いの道(踏み跡PM3:30)を見つける方が得策です。谷筋を詰めても方向違いの尾根に出る様なので北の枝尾根に向って藪を漕ぐと前方に鉄塔の稜線が見える。雑木と植林の尾根筋に展望はないが 幸か不幸か鉄塔に着くと切り開きがあり周辺の展望が効きます。送電線鉄塔No67大河内線(PM3:50)とあるので峰山高原へと 延びているようです。
稲土の長屋門

鉄塔の先には三国境ピークと烏帽子山が辿ってきた稲土の先に尖頭を覗かせた大箕山が親不知五台山が競って姿を見せてくれる。 此処からは巡視路とも境界とも付かないが明確な道が続く。尾根筋を間違えてしまったことが嘘のよう。帰りを急ぐので尾根を辿ってばかりもおられません。途中から雑木藪の薄い部分を駆け下りて山道に降立つ。こちらの道は明確で地図にある遠阪へ越える道のようで、 稲土の民家の間を抜けて日南橋を渡り粟鹿山へ向う車道に出てきた。逆コースでは山道への取付きが判りにくいうえ、こんな所から無名の山に向う登山者もいない。稲土川に沿って集落を南下していくと大箕山だけが冨士形の山容を広げて見える。 稲土集落の中程・稲土川に架かる日向橋!!を渡った東の山裾に陽をうけて白壁が白く目立つ長屋門(青垣町稲土)を構える大きな民家が見えます。丹波市では柏原陣屋に代表される長屋門だが大名や武家の階級・格式によって様式に厳しい制約があったなかで茅葺の母屋の前には道路沿いに板張り・格子窓を設けた江戸時代中期の庄屋屋敷は町家にあっては数少ない遺構で青垣町の文化財(昭和48年(1973)7月26日)指定:足立xx邸長屋門に向かう。
稲土の長屋門

車道へ戻る向かい八幡社の鳥居の上(厳密には谷を挟んだ北側丘陵先端ピーク)に稲土城があり後日に訪城するつもり。銚子ヶ水取水場近くの駐車地点に戻ってきたが何時までも周辺を汚すことなく綺麗にして利用していきたいもの。アマゴの里の釣堀には未だ多くの客が竿を垂れ釣りに興じています。


青垣町歴史民俗資料館(旧朝倉家住宅)  青垣町佐治114  県指定文化財(昭和48年3月9日)

青垣住民センタに県指定文化財”旧朝倉家住宅”が移築され歴史資料館として江戸時代中期-明治中期までの生活形態を理解するため農具・養蚕道具を主に1000点余りの民俗資料が展示されている。昭和47年3月青垣町大名草一ノ瀬の朝倉家の旧宅を移築復元したもので江戸中期の養蚕農家のもの。
旧朝倉家住宅(青垣町歴史民俗資料館)

丹波地方における養蚕事業は青垣町の東芦田辺りで始められたとして蚕の宮の別名で呼ばれた高座神社がある。其の技術は安永年間(1772-81)以前から此処:青垣町より丹後・但馬へと発展していった。安永年間以降なら但馬の上垣守国が但馬から丹波・丹後へと養蚕を拡げたと云われ養父郡大屋町大屋市場に上垣守国養蚕記念館があるが享和2年(1802)上垣守国が蚕に関する沿革や飼育法等を「養蚕秘録」に著している。屋根の一方は入母屋反対の南側から見ると切妻造りの茅葺屋根として蚕室の採光を考慮されている事も特徴。
旧朝倉家住宅(青垣町歴史民俗資料館)

整形3間取りで、部屋は口の間・おもて・へやの3室に分かれ、おもて(座敷)とへや(納戸)の間は土壁で間仕切りされています。近年(十八世紀以後は)の民家は四間取りに移行しており、現在では殆ど見ることがなく民家史上及び当時の生活様式を知る上にも貴重な遺構です。入口左脇に「まや」があり天井裏は「たか」と云い蚕室として利用され、出入口上部の内側に中2階を設け「くちの間」から「まや」の上の中2階を経て「たか」に通じる構えとなっており、他に類例をみない珍しい形式だといわれます。
(現地・旧朝倉家住宅案内板 及び氷上郡の文化財 兵庫県教育委員会を参照)


養徳寺の羅漢道   青垣町沢野262

「道の駅あおがき」の東方小和田城の東山裾へ細い道を入って行くことはなかっが採土・採石で崩された墓地近くの山裾や北近畿(和田山・豊岡)自動車道が通り抜けていくポッカリ空いた山間部に新ヶ谷遺跡・新ヶ谷古墳を探しても既に消滅・壊滅!!。
北近畿自動車道に手を上げ?見送る第六尊者跋陀羅(ボダラ)

工業団地の池付近のブラ山古墳・ボラ山古墳も整地で消滅?。遺跡発掘調査報告書等に記録が残されているだけの様。何も得るところなく山裾を歩き北近畿(豊岡・和田山)自動車道の高架下を抜けた山裾に拓けた地:青垣町沢野に安龍山養徳寺(曹洞宗・もとは円通寺末で本尊に千手観音を祀る・恵心作とあるが平安時代の名僧:恵心僧都の事か?)があった。慶安2年(1649)石梯全卓和尚により開山され当時は現在の小和田寺屋敷?跡と呼ばれる場所にあったが此の場所では寺域狭隘で且つ人家に近く修行道場として不備であった為十一世:尊応教道和尚により真言宗浄土寺(廃寺)跡に寺を移転する事を計画し弟子楚雲和尚に委嘱され
33所観音には真横を向く像が多い?

師命を奉じて弘化2年(1845)移設に着手され11年後の安政3年 (1856)諸堂の建設を終え尊応和尚の遺志を全うされた。旧氷上郡観音霊場第22番札所で参道入口正面には流麗な衣紋、温和な相の地蔵尊坐像が建つ。地蔵菩薩は釈迦入滅の後、弥勒菩薩の出現をみる無明の間:六道に於いて人道の一切を済度し苦を除き・寿命を増益することから「延命地蔵」の名があるが賽の河原では子供を救ける子安地蔵としての信仰もある。此の像は天保7年(1836)の造立:初代難波金兵衛作とされ市指定文化財となっている。長い木橋の参道脇は 梅林と荒れ田・空地と思えた観音霊場・羅漢道入口間には紫陽花の若芽が息吹き始めている。”羅漢道”があり旧来より秋に”羅漢まつり”が行われていたが、いまは春に代わって行われる様です。尊応教道和尚は名僧の誉れも高く、
釈迦の子とされる第十一尊者羅怙羅(らこら)

人徳学識ともに優れ、その教化道風は三丹(丹波・但馬・丹後)に拡がり帰依する者教えを請う者が絶えなかったといわれ養徳寺中興の祖として崇敬される。背山に安置奉詞されていた釈迦三尊仏・十六羅漢・三十三体の観音像は尊応和尚の徳を慕う帰依者の寄進した信仰の結晶であるという。十六羅漢・五百羅漢等呼ばれる阿羅漢像だが十六羅漢・十八羅漢の場合・順序が決まっているよう。阿羅漢は「悟りを開いた功徳の備わった仏教修行者の尊称」で羅漢信仰は江戸時代:主に禅宗(曹洞・臨済・黄檗の三宗)で多数造られてきたようです。「羅漢道」の石段を上がって最初に第一尊者:賓度羅跋羅堕闍(びんどら)像が立つ。
第六尊者跋陀羅(ボダラ)

びんどら…>ビンズルさんの名で像と自身の患部を撫で擦る風習で知られる尊者)阿羅漢像の間には観音像が 立ち並んでいるのを見て廻るだけ!。観音像の多くが左右・いずれかを向き正対する像が 少ないのが気になった。第六尊者:跋陀羅は諸寺の浴室に尊者像が安置されることが多いという?。第十一尊者:羅ご(漢字が読めない?)羅眉と髭の描写がユニーク?釈迦の出家前に妊娠・釈迦出家して5年後に生まれたとされる?実子。これ等の石仏群は北近畿豊岡自動車道の開設に伴い養徳寺墓地と共に平成6年(1994)現在地に移されています。
(現地:養徳寺の説明案内板 及びWikipediaを参照)


中佐治代官屋敷・平岩氏代官屋敷 小和田城(寺内城) 沢野城とオオサルタ城 稲土城

中佐治代官屋敷と平岩家(平岩氏代官屋敷)
青垣町中佐治

旧山陰道(但馬道)の街道筋を通り丹波側最後の宿場町:佐治宿を北へ進み「但馬へ…」の古道標前を右折すると「道の駅あおがき」からの県道7号と427号線が合流する小倉交差点に出る。北方の大名草集落からは生野峠を但馬生野へ、また西の播州峠は
代官屋敷(秋葉社参道前の屋敷跡と旧山陰道)

北播磨の那珂郡や西脇方面交差点を右折するR427号が大箕山の南山裾を東方へ遠阪峠を越えて但馬朝来市へ向う山陰道(出雲道)は丹波守護:仁木氏が但馬へ・山名氏が足立氏の山垣城へ侵攻したが追い返され・反対に但馬へ攻入り竹田城を攻略した。また”丹波攻め”明智光秀の援軍:羽柴秀長軍が若狭方面から押し寄せたのも遠阪峠(福知山市夜久野町末からの千原峠(も京都府からは遠阪峠)を遠阪IC付近に出てくる…
代官屋敷:井戸跡や高石垣が遺る

延喜式山陰道(出雲道)は中世:丹波・但馬攻め軍道としても利用されてきた。 この山陰道(但馬道)の一部が中佐治代官屋敷跡に残っているのだが此処を知る人も・更には訪れる人も少ないと思われる…がR427号と並行して小倉交差点から150ー200m程進んだところで民家間の路地道を北へ30m程入っところに秋葉社への参道と大きな自然石の常夜燈が建ち、間に左右一直線に幅約2mほどの道が延び
代官屋敷前の旧街道(山陰道)

道沿いに2m程の高さで石積が続く嘗て一級国道?の旧山陰道。更に背後の山側には蔓草・蔦・雑草に覆われてはいるが大石も見かける高さ3m程の高石垣で取り囲まれ平坦地が確認出来、秋葉社への参道脇には石組みの小さな池(井戸跡?)や大きな自然石の常夜燈も残り、直ぐ奥地に小祠の二社が合祀されており、更に続く参道左右には幾段もの建物跡らしい平坦段もあり奥に
代官屋敷の高石垣と旧山陰道

秋葉神社が鎮まる。「丹波志」によると藩政時代:氷上郡の西半分(青垣町東芦田・田井縄を除く西芦田・大和田・佐治・山垣)が正保年間(1644-48)の頃は未だ前期柏原藩織田家の所領だったが三代で後嗣なく改易となった後:約50年程の天領期を経て後期織田家移封後の文化-天保(1804-44)の頃には約100ヶ村を約30程の大名・旗本・諸々の領主等が数ヶ村や一ヶ村を複数が領した。後期織田家9代:山城守信民の天保11年-安政元年(1840-54)頃には約170ヶ村、68,500石余り…を諸藩の領主が分領した。佐治は柏原藩領と牧氏が入組、
平岩家(中佐治の平岩氏代官所)

小倉村(約320石)を牧氏が佐治村(約682石)の市原・中佐治は能勢氏・平岩(平岩七之助)氏・市岡(市岡佐太夫)氏の入組で管轄していたようです。中佐治・岡見等を貞享8年(1691)市岡氏が300石加増され氷上郡を領有。平岩氏も元禄11年(1698)上総・相模の他氷上郡にも500石加増で此処を領し治めていた。中佐治の平岩家は市岡代官所(中佐治代官屋敷)と同時期(江戸時代中期ー幕末)に懸け中佐治・岡見・平野有河内を旗本平岩氏が代官所としていた場所で、
大歳神社御神燈と六地蔵:向いに平岩家

内庭には罪人を座らせた”裁きの石”や外塀には裁きを受けるための”罪人専用の潜り門(入口)”があるのだが…個人居住宅地なので画像は遠景のみ。平岩家への通りには六地蔵と自然石の大きな笠石を乗せる”大歳神社の御神燈”が立つ。建立は江戸時代後期:天保5年(1834)なので参道改修等で此処に移設されたものか?。R427号・遠阪川を挟む東方の丘陵麓に大歳神社の鳥居が見える。大歳神社祭神は大歳神(須佐之男命 の子)で
燈籠左に烏帽子山城・最高所は万歳山・手前麓低山に山垣城

”熊野大神”は五穀豊穣の神:大歳神社想起は不知だが…「熊野大神」石碑が立ち:出雲(松江市)の出雲大社・熊野大神(祭神:須佐之男命)は共に出雲国の一之宮。平岩家への地区道は集落東端で大きく折れR427号に出るが民家前の分岐点石垣前には旅人の水飲場があり、屋号は”てんや”(此処で”ところてん”を作り)冷やしていたと…云う古道井戸と ”卍 南無阿弥陀佛”石碑が立つ。R427号とは凡そ30m程の近距離で並ぶ
出雲道(旧山陰道・但馬道)の古道井戸

中佐治代官屋敷前の石積み脇の道と同様…遠阪峠に向かう山陰道(但馬道)。細分化された小領地なので諸家の分家より帰納していた在所の有力者が任命され代官を務めたものか・湯長屋藩丹波国陣屋(市島町前木戸)・佐野氏の大新屋代官所(柏原)…、 中佐治代官所も佐治郷地頭として来住した足立遠政を祖とする足立家一族の某氏?が代官を務めたか…。


小和田城(寺内城・沢野城) xxx Ca230m  青垣町寺内・沢野

佐治宿を発って但馬への旧山陰道に入ると程なく中佐治代官屋敷前を通り山垣城下を遠阪川に沿って峠に向かう。氷上町側から北上する県道7号線が佐治小倉交差点でR427号に合流します。近畿舞鶴自動車道春日ICからは
小和田橋から西南・東南尾根に曲輪を置く小和田城

青垣ICで降りると県道7号線に出てR429号小倉交差点の一つ手前南の信号を左折する角にJAと青垣町民センターが・右折すると正面左に小和田城のある丘陵を見て遠坂川の小和田橋を渡り、河川改修記念碑の立つ小広場前の分岐に着く。寺内・沢野の集落を囲い込むように背後に迫る丘陵上に曲輪・帯曲輪・二重堀切・堀切・土橋・片堀切の 遺構がある山垣城の支城小和田城がある。足立氏は武蔵国足立郡の
東南尾根(出曲輪)の主郭

豪族:藤原北家流遠兼の子久保田(足立)遠元を祖として武蔵国足立郡地頭職の遠元が足立姓を名乗った。遠阪谷中央部に位置し全国の足立姓の祖とされる足立遠元の孫足立左衛門尉遠政が鎌倉時代初期:承元3年(1209)武蔵国から新補地として丹波国佐治郷の地頭職に任ぜられて来住し当初は小倉の黒尾神社に居を構えた岩本城;足立館とされます。
(沢野城)二重堀切は大土塁ともに2002・3月頃の管理山道整備で半壊

遠政には政基・遠信・遠高…と子や孫は多く、これら足立一族が岩本城から遠坂川沿いに大和田城・田ノ口城から遠阪最奥の遠阪城へと粟鹿山の北を越え但馬へ通じる要衝の警備?…稲土城や加古川源流で粟鹿山の南を越える粟鹿峠入口に小碑城、京都府小牧との境界にも烏帽子山城等に山垣城の支城や砦を築いて佐治郷の一帯を固め北に但馬方面や天田郡(福知山市)から、南方には隣接する直近に芦田氏、栗作郷(山南町)に久下氏等・
小和田城(沢野城)東尾根側堀切

同様に関東御家人の新補地領主がおり要所に城を築き此れ等勢力に備えていたことでしょう。山垣城を築き本拠とした城主足立遠政の二男・左衛門遠信が築いた小和田城で前方には但馬に向う丹波で最終の国境の宿場町・佐治を望み、佐治郷の東部を押える要地に立地。小和田城は本拠の山垣城南約2.5kmの位置にあり此の山塊の最高所で
同:曲輪堀切側にL字状の低土塁!!(土塁や虎口は無いとされているが?)

点標名:中佐治(4等三角点295m)から南西へ派生した尾根上のピーク毎に平坦地形があり古い形態の山上曲輪群の存在が想定出来る?。西南端近くで東南へ尾根を分岐させて長く延び出す位置には尾根続きを堀切で遮断し西南の寺内側へ段曲輪を並べる西南尾根曲輪群(寺内城)と東南方の沢野側尾根先端部には二重堀切や東尾根側に堀切を挟んで曲輪を並べる出城の東南尾根曲輪群(沢野城)がある。
(沢野城)主郭北尾根続き・大土塁を挟む二重堀切は管理山道で半壊!!

山上部は領民等の逃げの曲輪か?は不明だが小和田城の尾根上・二ヶ所の 城砦遺構を 分けてレポートします。隣接する栗住野や芦田庄の芦田氏とは幾度か紛争があったが黒井城主赤井氏が台頭してくると其の傘下に組入れられ丹波国境の北面を固める佐治郷の護りに就くがやがて天下布武を称え天正3年(1575)に始まった信長の”丹波平定”に多紀郡 八上城主:波多野氏との共同作戦で一度は信長軍「丹波攻め」総大将の明智光秀を敗走させたが2回目丹波侵攻には大軍をもって但馬から遠阪峠を越えて進攻してきた羽柴秀長軍により天正7年(1579)5月
(寺内城)主郭切岸と背後の土橋付き堀切


東芦田城(芦田国住)や遠阪城(足立光永)・山垣城(足立弥三郎基助)・栗住野城【芦田(栗栖野)五郎左衛門治朝?】はじめ近在の城は尽く落城。小和田城も諸城と運命を伴にしたのでしょう。ここからは神社経由で右手側の急斜面に取付き、直登を敢行すれば南郭群の一角には10分内で到達出来る。沢野の幡神社【青垣翁三番叟で知られる】へ降る尾根と南へ下り・大和田橋の東方に末端を落とす二方に小さく分かれて寺内・沢野集落を囲い込むように背後に迫る丘陵上に曲輪・二重堀切を残す山垣城の支城小和田城がある。東南尾根末端部【沢野城】遠阪谷の咽喉元にあり佐治城・佐治宿とは 遠阪川を挟んで呼応する小和田城(寺内城)の登り口を捜しながら遠阪川の流れに沿って寺内橋から小和田橋まで下ってきた。この寺内地区には嘗て”条里制”の形跡が みられたようだが氾濫する川に分断され農耕条件は良好とはいえない為昭和62年完了の圃場整備・河川改修工事の記念碑と
八幡神社参道傍に続く 屋敷跡とも思える削平段

国の無形文化財指定された青垣翁三番叟の案内板が立てられている。 祭礼に「翁三番叟]が奉納される八幡神社側の西南尾根上に小和田城<寺内城>があり、出城<沢野城>からの尾根筋が此の主要郭部で合流する。記念碑前から丘陵の緩やかな尾根末端が落ち込む”JA丹波ひかみ・農協穀類等乾燥調整施設”に向って 車道を進むと住宅地前の尾根末端部に石碑と五輪塔の残欠が祀られる脇から東南側尾根先の崖状急斜面を上がりますが 幸いにも出曲輪下部の削平段に祠(愛宕社か?)が祀られ其の参道になっており、背後の尾根末端部に築かれた小和田城の出城の主郭にまで楽に着く。
小和田城・南西尾根上の曲輪は切岸無く広い

散歩中の数人のお年寄りに訪ねても”ヘエ~”という返事しか返ってこない 知られざる山城なんですが…!.。此処も対岸の中佐治代官屋敷裏と同様に秋葉社が祀られているのか!!? 此処からは緩やかな尾根上に切岸加工された曲輪が3-4程あるが曲輪の直ぐ脇を東北側から延びてきた作業林道が竪堀らしい跡を割って並行に延びてきているので、帯曲輪があったとしても破壊された可能性を感じます。林道は此処から続く尾根筋の急斜面に張られた ピンクのビニールテープに添って更に進んでいく勢いです。急斜面を登りきった狭い平坦な最高所(20x10m程)が主郭でしょう。
西南尾根末端の曲輪と一段下の帯曲輪

此処から南西へ延びる尾根上には4段程の曲輪があり最下段の曲輪は広い。二股の要に位置する主郭背後の尾根を高さ約4m・幅約8m程の大堀切で北の山側を遮断しそのまま竪堀となる。登りに採った五輪塔から主郭まで切岸や堀切等堅固な東南尾根と降りに採った広いが 切岸のない曲輪の続く西南部は別々の機能を持った施設か一城別郭の可能性を示唆されているようです。西南尾根末端部【寺内城】小和田橋を渡る正面へ北方から延び出してきた尾根が落ち込む先端部頂部には小和田城の出城的?(沢野城)があるが小和田城(寺内城)へは遠阪川の小和田橋の上流に寺内橋があるが石碑側から集落左手山麓を進めば集落内から八幡神社へ向う参道入口で
八幡神社裏の小社

「八幡宮」と彫られた石燈篭や神社内の舞台で演じられる「翁三番叟・兵庫県無形文化財指定の青垣翁三番叟石碑が立つ。集落に突き出してくる丘陵側は其の先端部は見上げるばかりに急峻で参道の左手には高い段差で広く平坦な屋敷跡を思わせる空地が数段続く。鳥居を潜る先には八幡神社に向う石段参道と横を直進して小祠に進む道がある。倒木で埋まる谷筋を詰めながら急斜面の南西尾根に向かう稜上へと トラバース気味に上部をうかがいながら伐採された倒木で埋まる障害物コースを進む。回避ルートもない!…尾根に乗ると緩斜面ながら下方へ・上方にも尾根上に曲輪が連なる。
西南尾根:西郭部?の堀切と土塁

先ずは尾根先まで進んでみる。先に進むほど倒木が多くなる。その倒木に埋まる浅い堀切がある。段差の低い曲輪を三段程降った広い曲輪が 末端部で半円形に帯曲輪が捲く真下には民家の屋根が。引返したが上方にも2-3段の平坦地があり、其の先に切岸を見せる3-4段の曲輪群が主郭部で1段目から2段目へは 竪堀上の虎口部土塁道を入る。稜線端に鹿避けネットが現れて主郭に着く。背後の尾根続きの急斜面下方の鞍部に土橋付の堀切を見る。
<寺内城>西南尾根側:下段曲輪から上り土塁横の竪掘(右手前)

土橋付堀切と小曲輪?を間に土橋が延び、土橋の端は片堀切となり 竪堀は斜面下方で合流する。やっと戦国の山城遺構に逢えた。鞍部からの登りは尾根沿いに堀底道状の溝が長く延び、途中には露岩・巨石群が見張台状に見える場所もある。尾根の溝は搬出先の谷筋まで切り出した材木を運ぶ・木ズラシか 木馬(柴や短く裁断した木材を運ぶ木橇)道だったのかも?溝が続く登り斜面の東方から登ってくる整備された山道がのぼってくる。鹿避けネット(関係者以外出入禁!?)を開閉して、
<寺内城>主郭背後の土橋付き堀切(手前)と竪堀(左奥)

この山道に入るが道は直ぐ反対側斜面に降りてゆく。山仕事様の小型トラクタやユンボが通る程の専用道なので一方の小和田城遺構が残る東南尾根から続く道を越えて少し踏み跡を進むと左(北)斜面下に井戸跡?(天水溜池の様な窪地をみる。突然の珍客に驚き・動きを止めていた鹿が逃げ去った先が広い平坦地。此処が二方行の尾根に
点名:中佐治295mへの尾根上瘤(ピーク)毎の平坦地形は山上郭跡?

遺構を残す 小和田城のジャンクションCa150m峰ピークは広いだけの平坦地!!。その尾根続きの下方にも物見台風の小さな曲輪が東に突き出している。更に点名:中佐治(4等三角点295m)迄の尾根筋は瘤(ピーク)毎に自然地形の平坦地がある。足立氏の本拠・山垣城から穴裏峠を越えれば福知山市の榎原へ降りるが、その榎原からR429号線(今も以前も林道然とした落葉で路面が見えないほどの細い道!!)が佐治へと通じています。
小和田城山塊最高所:点名:中佐治 (4等)

小和田城は此の福知山市榎原へ抜ける榎峠(注:峠越えの車道は城域の北方を中佐治へ降りてくるが、往時は峠からの山道は 小和田城からの尾根東先端裾を沢野へ下ったものと思えます。主目的は本拠の山垣城の東玄関口に在って、遠坂峠を但馬へ抜ける要衝監視と其の押さえとした足立一族の守備する重要拠点の支城となっていたのでしょう。
(青垣町志 及び氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)

沢野城とオオサルタ城
沢野城        Ca160m 青垣町沢野
オオサルタ城   Ca150m 青垣町沢野

青垣町遠阪にある二つの城【田の口城と湯落城 】とほぼ同じ運命に 遭った足立氏一族の、さらに二つの城を紹介します。これらの城はいずれも北近畿自動車道(和田山・豊岡線)施設造成工事により発見されたという。 高砂峰から西方に延び出す丘陵が青垣町民センターの北東・沢野集落から奥に延びていく谷間の東側を堅めています。この谷間の西側には小和田城(寺内城・沢野城)があり高砂峰から派生する枝尾根先の二箇所には小和田城と呼応して領内・間道監視?当った?と思われる沢野城とオオサルタ城がある。
沢野城(正面土砂空地と専用道間)!!?付近

城砦が創築された動機・時代・城主等の城史は不明だが小和田城に従属した城砦には違いなさそうです!?。但馬街道の丹波側では最終地点・国境の宿場町佐治を望み、佐治郷の東部を押える要衝に立地している小和田城は山垣城主足立遠政の二男・左衛門遠信が築き本拠:山垣城の西玄関の押さえ、 宿場町佐治から青垣町大名草(おなざ)を通り、播州峠を播磨側の多可郡や西脇市、
オオサルタ城(下画像の低丘陵):中央左付近の藪中に2~3段の平坦地は屋敷跡?

生野峠を越えて黒川・銀山湖から朝来市生野・遠阪川沿いのR427号線が遠阪峠を越えて朝来市山東町・和田山町や福知山市 (旧天田郡)夜久野町への但馬街道の要衝監視と共に沢野から榎峠(現在は別ルートでR429号線が榎峠)か・塩久峠を監視したものか?。これ等の峠を越えれば福知山市側に降り、和久川沿いに出てR9号(山陰道)に繋がります。沢野集落は遠阪川沿いの東西・小和田城のある丘陵尾根が東南へ延びる末端部・谷の南入口に塊り、此処より北方の 谷奥に向かって約800m・狭い谷間に真直ぐに細長く延びる田園風景の中に宅地は無く,小和田城側の山裾に工場施設!!?が建っているだけです。
高砂峰とオオサルタ城(手前の低丘陵部)

真直ぐ延びる舗装道路は山裾の谷出合に向う。 此処に北近畿自動車が走っており、トンネル直前にある高架下を潜った所で終点。林道は先に通じているようだが関係者以外進入禁止のフエンス。地図では榎・塩久の両峠付近まで延びているのですが確認出来ず・もう一本の道は急カーブして別のフエンスの奥に延びる。自動車道工事整備の専用道と思われます。自動車道は 「道の駅あおがき」迄2kmの表示が見える。近畿自動車道は此処で、北方に向かい連続するトンネルを三つばかり抜けると足立氏本拠の・山垣城丘陵下部を・またトンネルで抜けて 但馬国境の遠阪トンネルに向かうが、其の間にも城跡があり、先に紹介した二つの城【田の口城と湯落城】があり湯落城と同様:
オオサルタ城:主郭部は自動車道で分断された此の先か・・?

城域が専用道路敷地内で消滅している沢野城は此処・谷間の田園地帯の最奥、トンネル手前の広い空地状の用地付近に位置していたようです。谷全域から沢野集落・遠阪川先の但馬街道:佐治宿まで見通せる。北近畿自動車道を走る車が見え隠れする東側丘陵部端の沿って沢野集落に帰り道・専用道路に分断され丘陵東端部だけが僅かに残された尾根先端部分?にオオサルタ城があり養徳寺から廻りこんだ西端丘陵部直ぐ北側に西南へ少し流れ出した尾根端の頂部に遺構?が見られた。尾根南東方に二本の竪堀(一本は登城の堀底道?)と土橋付の堀切だが、その先を期待して10数mも進まないうちにフエンス。その先は北近畿自動車道を見下ろし尾根筋は途絶えた。 オオサルタ城?:二本の竪堀も所詮は付け替えられた山道?

「道の駅あおがき」へ1kmの標識が見える。尾根筋の傾斜は緩やかだが自然地形のままの様で曲輪と呼べそうな区切られた平坦地形は見当たらない。主郭:いや城域さえも此の自動車道で消滅してしまったのでしょうか!!?。堀切・土橋と見えたのも僅か10数mの比高と比較的傾斜も弱い尾根筋までに付け替えられながら 残った林業作業用の山道だったのでしょう。小和田城を正面に沢野の谷を通って天田郡(福知山市)側へ抜ける間道監視の砦では有ったのでしょう!!。


稲土城     xxxx  Ca200m     青垣町稲土

丹波もみじ三山・高源寺バス停の先で右折し佐治川(現:加古川)を渡り粟鹿山(峰)に向って稲土川を遡る道は、粟鹿山山頂の放送無線施設へと専用道路が (一般車輌進入禁止)通じているので粟鹿山へのラクチン散歩コースですが名水銚子ヶ水を汲みに訪れる道でもあります。 町志では近くの大灯寺を建立した足立馬之助政重が本尊・薬師如来像の落慶法要に訪れた一休禅師を開山にしたといわれます。
稲土川から稲土城(中央民家の背山ピーク)

”銚子の水”表示を見て道なりに大灯寺参道前の西山公民館を過ぎると”八幡宮”の案内表示があります。 此処から250m程先、稲土川の左岸・日向橋!!を渡った先には青垣町指定文化財の 長屋門が残る民家があります。稲土集落からは大箕山と点名稲土を越えて降りついたところには、足立氏の本拠・山垣城があります。
稲土城よりも砦らしい八幡宮

この峠道が低い鞍部を通らず高い点名:稲土の山側を通る 不思議さもあるが要衝でもないこの地に城があることは小稗城以上に不思議に感じますが、本拠・山垣城への西の侵入口を守備する機能を持っていたにしては小さな単郭の砦で小稗城と同様に尾根に続く山側を彫り切っただけの城砦。 「八幡宮→」の標識を見て稲土川右岸の石鳥居に向かう。八幡神社とは足立氏の祖を祀る鎮守の諏訪八幡社だったのでしょうか?。
尾根続きから見た稲土城の堀切・土塁と単郭の曲輪

深い谷の間に迫り出す丘稜上の急斜面に建つ八幡社こそが砦のよう。 其の社前から尾根筋に出て上部へは鹿猪避けフエンスを越えて向うが下方の南側へ 短く突き出す細い小枝尾根の先端部にも削平された台地に小神社が建ち、見張りの出曲輪を思わせコンクリート製の祠が祀ってあります。城砦の遺構とするには不充分なので少し確認しようと八幡宮から背後に続く急斜面を西山?(562m)まで登ってしまい、
7-8年後の再訪ながら倒木の位置もそのまま!!の堀切

緩やかになった尾根を更にダンノ(3等三角点722m点名:段ヶ谷)まで足を延ばし久しぶりに山城探訪を忘れ!静かな秋の山旅を楽しんでしまう。稲土城を探せないままなので粟鹿山への縦走は止めて引き返すが台風で尾根筋も荒れているうえ、踏み跡も不明瞭・枝尾根が多く 且つ急峻な下降は枝尾根なのか谷への下降かもわかりません。
一本の堀切だけが 城砦を示す稲土城遺構

案の定・尾根を取り違えて少し手前の谷筋を降り西山の公民館前に出てきたので再度・八幡宮を訪れ今度は小谷を挟んだ北の枝尾根に一本の堀切を見てトラバースして移ります。堀切の状態を谷向かいの尾根筋から真横に見られる位置や状態は中々ないと思うが、小さな砦が大きく 堅固な城に見えてくるのも不思議です。ところが!!この城(砦)も小稗城同様に 6~7m程の尾根を削平し南北約30m程の平坦地形に主曲輪を一つ乗せるだけ。
稲土城主曲輪南端部 :露岩は目立つが切岸利用とも石列とも思えない?

此の曲輪の尾根続き(山側)を堀切(堀底幅約4m・高さ2m弱)で遮断しただけの防備です。主曲輪南端部には切岸もなく自然地形のままで低い段差も切岸も感じさせず石列とも思えないが巨石・石材が集積しているところがあるが何の遺構も感じられない。尾根筋はそのまま真直ぐに斜面を降るだけ。降りきった山麓の谷出口付近には足立姓ばかりが目立つ墓地がった。城主:足立政家を祖とする足立株の墓地だったか?
胸腹神社(惣持)


山垣から分家した足立修理大夫政家が 稲土谷を領して稲土城を築き足立牛之助(祐!!)・馬之助政重(3代目城主?は、一休禅師を開山に大燈寺を開基したとされる)・大和守正隆!!?・三太夫 …等と相続してきた足立氏一族の城なのでしょうが、要衝でも無く”詰め城”にしては小規模で、砦としての機能も山垣城の西口を守備するには力不足”知らせの城”とするにも一族・友軍の城を目視出来る場所でもなく、 在地土豪:足立氏の領内監視に当たった村の城なのか?。


大燈寺と聖観世音菩薩像

稲土城のコメントを戴いた地元の”ちかさん”から稲土からは尾根を隔てた西隣へのタワに20数mの平坦地がある…ヒヨの谷・相撲場…と呼ばれていると云う。三角点峰・ダンノ(722m)から南へ延び出す尾根は大稗地区への下降分岐を見送って尾根を辿って惣持地区への下降点峰から緩やかな尾根筋が東へ・更に南へと延びる先に562m峰があり、直ぐ東に小ピークがある。此の鞍部付近と検討をつけて惣持地区の名も珍しい鎮守社胸腹神社から562mを目指した。
大燈寺(稲土)

胸腹神社自体が高く急な石段の続く山腹に在るが、 途中に幾段も段曲輪状の小場がある。神社裏から続く登り一辺倒の山道・広く緩やかな尾根筋に出て562mm峰に向う。平坦な尾根筋の緩やかな鞍部【此処が相撲場タワ ・東側の谷側に相撲場と呼ばれる所が有り、大燈寺の背東から北に入り込む谷がヒヨの谷】となり、東への尾根伝いには・其の尾根先を八幡神社と稲土城へ落とす丘陵筋です。南へ急斜面を下って更に東端・鞍部より先の頂部に20数㎡の緩やかな傾斜を持つ自然地形の平地【セトタワ?】は有ったが、曲輪としての独立部も周囲に城域を区分する堀切等遺構はなく、此処まで降りてくると南や西へ尾根 ・谷を下っても惣持ではなく文室地区に降りてしまう。尾根は傾斜を増して北に延びる。
大燈寺:聖観世音菩薩坐像

山麓付近の谷筋(寺の奥谷)は広い範囲に石垣積みの平坦地が残っているが寺院跡の遺構だろうか?鹿・猪避けフエンスを開閉して大燈寺に降りてきた。恵照山大燈寺(臨済宗妙心寺派)は稲土城主:足立政重が京都大徳寺の一休(宗純)禅師を 開山に招いて応永年間(1394-1427)末頃に開創されたとも! 一休禅師が後小松天皇の勅により開創したものとも伝えられます。寺は永正6年(1509)の兵火で焼亡し室町時代末期の天文3年(1534)湘山玄澄和尚を中興に開山に城主:足立修理太夫安秀により復興、さらに江戸時代中期に寺は現在地に移され 15世寛海和尚の代に完成したという。相撲場タワから上文室の猿山?から寺ノ奥谷へ降って大燈寺に出てくる手前の谷筋にあった石積の広い平坦地が旧大燈寺跡か?。
宝冠部分には彩色が残る

「ふる里の寺(氷上郡)」丹波新聞社<昭和47年版>には初代:難波金兵衛とあるが、「旅の石工:丹波佐吉の生涯(法政大学出版局)」に丹波佐吉の作品とされる聖観音像が寺に有る。台座正面に刻まれた「勿疑(疑うことなかれ)」の二文字は寛海和尚の号で寛海和尚の供養塔として奈良県宇陀郡の大師山観音霊場の石仏製作期間中にも「日本一」の名声に請われ各所に佐吉の石仏像等が残されたように、此の時期に故郷氷上郡内の此処:青垣町大燈寺には丹波佐吉(村上照信)に依頼された聖観世音菩薩像《嘉永6年(1852)xxx刻銘》が小さなお堂に祀られます。永く堂内に安置されていた為は!!、風雨に因る風化・磨耗による欠損もなく、宝冠部分には彩色も残り保存状態は良好。
(青垣町志 氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会  氷上郡志・「旅の石工・丹波佐吉の生涯」を参照)


浄丸の滝      青垣町稲土

北近畿自動車道の青垣ICを降りる「道の駅あおがき」の北方:宿場町の面影を残す佐治宿からの道と交差するR427号は遠阪峠へと但馬街道が通じ尾根を越えるには徒歩による長く厳しい山道だけ。名水の里として取水場が小名草地区内(バス停付?)や稲土の一休さんの水(銚子の水) がよく知られているところですが、浄丸の滝も名水の仲間入り?。此の浄丸の滝への道は佐治神社側で大きくカーブして高源寺(丹波市紅葉三山の一つ)へ向かうR427号を外れて佐治川(加古川)を渡り山裾の分岐を右折し
浄丸神社と浄丸の滝

谷間の奥に続く稲土川沿いの道を直進するだけ。「銚子の水」分岐の直ぐ上付近は初夏には源氏ホタルやヒメボタルも観察できます。其の先で「大燈寺」への分岐を左に送り、なを直進すると左手山裾に桜木と石鳥居が見える。左側の丘陵上に稲土城が、 長屋門を残す民家も右方の橋を渡った奥にある。愈々最奥の民家先にコミュニティセンターか?「清流の里」看板を見る。都会住いの個人名札が立つオーナー制の棚田が拡がり、此処からは猪鹿除けフエンスを外して進む・細い林道が粟鹿山山頂無線中継移設への専用林道ゲートまで続く。数100m程先で林道側に鳥居を見て渓谷に滝音だけが響く浄丸神社の境内に入る。狭い落ち口に水を集め、社殿の足下から流れ落ちるため落差は7-8mだが大水で岩盤が崩れ今は2段滝となっているので高さを感じない。神社側にも鏡面を見せてそそり立つ岩壁が滝下まで廊下状に突出し滝壺と渕をつくって自然の中に荘厳さを演出している。
浄丸神社本殿前から落口を覗いてみる

この渕には本殿の祀られる主祭神豊玉姫命の化身とされる蛇が棲んでいるとか、社殿に渡る橋の下に小さな穴があり、其処から弁財天が今出の権現さん(遠阪の親水公園近く・裸祭りで知られます)に逢いに行く・女性が滝で髪を洗うと黒くなる等々の伝承が残るが古来より弁財天として信仰され、祈雨、止雨の神として崇敬されています。本殿脇には山ノ神・浦島ノ神・稲荷の三祭神の小社が祀られ本殿への橋を渡る手前にも不動明王像が立つ。【滝が崩された大水の際・首だけが流された。決壊防止のコンクリート壁が滝の上方に施行され・不動明王も新しく祀られた】(青垣町志参照)
  丹波霧の里HOME 

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