弘浪山(高山寺城)〜点名:長野奥〜東峰山・ 甲賀山・犬岡山・森山(南郷城)
丹波市(地図=但馬竹田・福知山・生野・篠山)
T柿柴西〜ぼうさん落としの岩〜弘浪山 2000年04月08日
U 柿柴公民館〜弘浪山〜柿柴集会所 2001年09月08日
V 本郷(黒田)〜高山寺跡〜本郷(四方) 2002年06月02日

W 弘浪山〜長野奥〜東峰山(笹ヶ峰への稜線) 2000年09月15日
X 達身寺〜夏坂への道〜東山の肩〜夏坂〜森山〜夏坂 2001年04月07日
Y 甲賀山(高岡山 170m)/愛宕社〜明治山(犬岡山153m) 2000年10月16日

新郷の四季采館 :展望台より望む弘浪山 H15.3.9
近畿の山城 : 高山寺城: 成松城  南郷城 丸山城下新庄城<仮称>

十二支の 山 犬岡山(明治山)
校歌故郷の山 氷上町中央小学校  ♪甲賀の山の麓なるxx・・♪
丹波のむかしばなし  鬼の担いできた二つの山概説)

T 柿柴西〜弘浪山〜「ぼうさん落しの岩」!!へ ・・H12. 04.08

氷上町成松商店街に入る手前の橋から左折し柿柴に入るが、そのまま達身寺方面へ進み2つ目の信号手前の交差点で谷垣ビルに寄ります。氷上の酒販店では大きな店・酒を買うためではないが、店で扱うオリジナル地酒もあるが目的は店で取扱いの種々佃煮の詰め合わせを買って帰ること。店前の交差点を入って柿柴の洋泉禅寺の先 :柿柴集会所を左折して墓地(PM2:00)に入ります。墓地下の道の西端に猪避けゲートを開閉して左に延びる林道を入ります。
私の撮影している方が「ぼうさん落としの岩 」H13.9.8

林道は墓地の上部へも延びているが100mも進まないうちに行き止まり。先に進むべき杣道は無く引返し・すぐ堰提に出て土砂崩れの先に出て谷筋の道らしき?あとを辿ります。谷は急激に険しく谷筋は岩場も多く顕われてルンゼ状になりますが岩が脆く崩れそうなので藪に逃れて尾根をめざす。枝尾根?に出ると何処からか道が現れ、帰路は此の道を辿るが周辺は 松茸山境界線の様で、残地ビニールテープに誘われ下ったが堰提近くの往路に辿った谷筋の 踏み跡に出てしまいました。さて道なりに進んで明るい尾根に出るとガラリと 景観が変わり弘浪山西北面の岩場が顔を出してきます。この尾根筋に延々と延びるのは 関西池田墓地公園の境界を示す鉄の鎖。
伐採で展望が良くなった弘浪山の三角点 H18.2.25

ここからが核心部(PM2:45)丹波修験の道です。覗き岩や展望岩・キレット10数mの岩場登り(鎖を利用すれば・但し鎖はあくまで境界用で錆びているし、上部の固定柱も安定しないので要注意)もあります。この岩場の先を登りきれば展望の良い岩場の上に着きます。安全山〜水山・竜ヶ岳〜篠ヶ峰・白山へと展望が広がる高さ数10mの岩壁の上は「ぼうさん落しの岩場」か。眼下には墓地公園の墓標が建ち並び、田植えを終えたばかりの田園風景を見ているようです。鎖に沿っての道は、いよいよ最高地点ですが三角点は此処から南尾根を少し下ったところ。 最高地点に引き返し鎖に沿っての道をしばらく辿ってみることにします。
高山寺・排水の石積溝?H18.2.25


急斜な岩場の横を下り登りなおして目前の尖がり山まで行ってみます。こちらの山頂のほうが平地もあり寺跡というより山城の見張り所・狼煙台に適地(PM3:25)。境界尾根の先には三角点のある点名:長野奥 ?や東峰山が待っていますので次回のチャレンジです。此れよりは岩尾根の降りが氷上ゴルフ場に向かって続いています。(最低鞍部へ出てもゴルフ場へは道無く墓地境界に沿っての道です)柿柴への下降を急ぎ帰着します。 (PM4:15)


U 柿柴公民館〜弘浪山〜「ぼうさん落としの岩」 H13. 09.08

上記Tとほぼ同じで 逆ルートを辿っているので参照してください。R175号と交差する稲継交差点付近まで来れば弘浪山と白山の両雄が並んで望めます。最近少し北側(本郷)に展望公園が出来たので其処の展望台へ向かう。加古川(旧佐治川)を隔てて弘浪山・白山や付近には安全山・先日の高見城山が、眠そうに曇った空の下に姿を見せています。弘浪山を正面に進む車道の右手には甲賀山と犬岡山(明治山)の小さな丘稜が見えています。
弘浪山不動尊

登山口近く・駐車予定地の柿柴東には地元の車で既にスペース無し。 集落で何かイベントがあるのか!!。もう一つの下山予定地点に近い駐車地に向いら引き返す。まだ下草も濡れているので雨具のままで出発(AM8:35)。元禄3年(1690)銘”南無大悲観世音菩薩”碑の側から溝状の山道に入っていたが石碑は山道左に移され目前の小滝を見る岩側を廻る山道を進む。 簡易水道跡の残る旧参道は谷に沿って延びており、右手の露岩を斜上すると岩壁下部の岩穴内部には弘浪山不動尊が祀られている。
北尾根からの弘浪山(中央) H18.02.25

もとに戻って荒れた旧参道を辿ると、山門跡と思われる石積みからは以前谷を直上に詰めて高山寺跡へ出たが 今回は連れがいるので余り勝手も出来ず左への山道を辿ります。直ぐに瓦の破片も残る石積みを見て明瞭な山道を進みいつしか 鞍部?(峠?)に着く。稜上に沿って大柿氏の赤布があり釣られて、この尾根を辿ったが、この鞍部を下れば数分(直ぐ下方)で高山寺跡に出て分かり辛いが黒田から登ってくる道に続く。
柿柴ルート・高山寺も近い参道に遺る宝篋印塔の残欠

今回は池田墓地公園に続く鎖の稜線に出てきます。三角点手前の最高地点から 西に延びる尾根を辿って展望の拡がる地点で暫らく休憩します(AM9:35)。前方のピークへは激降り登りだが次の白山展望台からは雄々しく見える岩を抱いたピークです。此処からは東峰山〜長野奥へ周回するルートもある。
引き返して最高地点から 少し降った所に弘浪山(4等三角点520m AM9:50)がある。
高山寺:七堂伽藍跡地

北へ延びる長野(おさの )や柿柴への尾根筋は左手一帯が池田墓地公園(創価学会)なので 遠々と鎖のチェーンが続きます。しかし此処から続く道筋の暫らくは岩尾根の登り降りでミニ大峰(丹波・修験道)の風情です。覗き岩や展望岩・キレット10数mの岩場降り(鎖を利用すれば・但し鎖はあくまで境界用で錆びており、 捲けば良いのですが 上部の固定柱も安定していないので安全確認・要注意しながら、鎖に負担をかけように利用してみた。 此の展望絶佳の岩場が「坊さん落し岩」(AM10:05〜10:15)。
「ぼうさん落としの岩」手前:西側はスッパリ切れ落ちています H13.9.8

安全山〜水山・竜ヶ岳〜篠ヶ峰・白山へと展望が拡がり, 眼下の池田墓地公園は建ち並ぶ墓標が田園風景の様に見え、その奥に東峰山の尖峰が聳えている。蜘蛛の巣を払いながら下山が続き、墓地公園へ降りるのかと思ったが道は荒れた右手の植林帯に向かい 柿柴の墓地の西へ伸びる 林道に出てきた(AM11:15)。安全山や秀麗富士型の水山を望みながら次の白山に向います。弘浪山登山コースとしては北方の柿柴からのルートだけを紹介したが山頂まで眺望も効かない谷筋と植林帯のコース。路駐になる為避けているが県道109号からの 黒田ルートが案内道標完備・整備された登山道と 展望の良さで推奨出来る尾根コースで山上・高山寺への参道。県道筋からも見える稜上の露岩帯に大雨の後に現れる二条程の”幻の滝”を見る。
弘浪山最高点西ピークからCa500m峰と白山-篠ヶ峰への稜線を望む

展望の岩尾根筋:岩場部に”盗人崩し <座頭崩し>”と呼ばれる場所があり昔:高山寺に押し入った盗人が捕らえられ、谷底へ投げ込まれたと云う。東六甲山系に有馬温泉に向かう座頭(盲目の按摩師か琵琶法師か?)が迷い込んだ座頭谷があるが危険な程の急斜面を 高山寺へ座頭も参詣していたかは…知らない。ただ此処から高山寺跡へは水平道が広い削平地形が奥へと拡がる仁王門跡の分岐標識へ続く。 直進は数段の削平段を越えて柿柴への下山コースだが尾根筋(峠)を弘浪山への登山口。
弘浪山南尾根の露岩帯”盗人崩し”

左の削平地は七堂伽藍の跡で 石垣積の堂宇跡には市指定(昭和60・6・28)天然記念物の大銀杏・西背後には歴代住職らの卵塔・石仏・宝篋印塔が並ぶ。昭和年代まで3-4列の卵塔群等墓地が他にも山中の谷奥 ・三方を囲まれた中にあり、其処にも大きな銀杏が有ったが所在を憶えていず再訪は未。高山寺跡(Ca400m)から弘浪山山頂(4等三角点520m)へは、寺跡を横切り比高120mを直上の厳しい急登最短ルートもあって山頂三角点前へ登り着く。■高山寺は下記高山寺城の項を参照願います。


V「太平記」に登場の鎌倉期の山城本郷黒田〜高山寺跡・弘浪山〜新郷 H14.06.02

氷上町成松の常楽交差点を左折して「かたくりの里・丹波の正倉院・達身寺」の清住に向います。現在の高山寺へは交差点左手に安全山をみて直進すると、高山寺の大きな看板を見て左折・安全山裾に向うと高山寺 の朱塗りの山門前に着きます。山門からは正面に弘浪山を望み、 元は此の山山頂近くにあったが昭和33年現在地に移設されました。弘浪山頂へは何度か登ったのに旧高山寺跡には未だ寄っていない。
黒田からの東尾根上に盗人崩し・鞍部に高山寺跡・左端に弘浪山

一般道は柿柴東の墓地から旧参道を辿り、山門跡と思われる石積みの残る地点から左上へ参道跡が通じており 峠状の尾根を少し降った所が旧高山寺跡で、尾根を辿れば弘浪山山頂です。以前この石積みの参道分岐から直接谷を詰めを登った時、歴代住職を祀る墓地があり14〜15程の墓石には明治XX年のものもあったと記憶しているのですが、偶然見つけた墓地が何処だったか今となっては良く覚えていません。踏み跡は急斜な山腹と絶壁で囲まれた袋小路のようなところで消え、 暗く陰気な広場で少し奥の高台に2〜3の碑と古木が有りました。
高山寺・仁王門跡 H18.02.25

此処が 寺跡だとばかり思っていたが今回は実際の旧高山寺跡に向かう。弘浪山高山寺は天平宝字5年(761)法道仙人開基の寺で、仁平3年(1153)に焼けたが俊乗坊重源(東大寺の再建でも有名)により再建された。 南北朝期荻野朝忠が此処に拠って寺を城砦化して幾度となく城としても機能しては焼亡している。岩場が西北面や東南面を 屏風のように側立たせる峻険な様相の弘浪山は低山ですが登行欲を掻き立てるに充分です。付近に駐車スペースが無いが田植えも終わった広い農道端に停めて出発です(PM1:30)。
伽藍の石垣が残る高山寺跡

海に浮ぶ船のように氷上盆地の水田に明治山(犬岡山)五大山へ続く霧山・権現山・城山 ・向山連山・譲葉山・金山・高見城山が顔を覗かせてきます。旧参道??!!の踏み跡は荒れた露岩帯を避けているのか何時とはなく消えてしまい、藪のない露岩部を直上して急斜な深い東面の谷上に切立つ一つの岩壁の頭に到達すると(PM2:00)弘浪山山頂を望み、その鞍部に旧高山寺跡の 場所が推察出来るが、其処へは未だ岩屋根を過ぎ露岩の点在する 山腹を捲くように谷よりに植林帯を進むと、整地された何段もの湿気た平坦地が谷を挟んで点在し苔むした倒木を越えて進むと石積みや茶碗・瓦類も散見する旧高山寺跡 (PM2:15)で思った以上に大きなお寺です。
旧高山寺跡の大銀杏

谷の 流れには立派な石造りの河岸設備が施され 隋道になっているところもあります。寺跡は植林された杉木で昼なを薄暗く静か過ぎる聖域です。法道仙人開基を伝える寺なので本尊は十一面観音。その観音堂等、堂宇が立ち並んでいたと思われる 一番広い平削地へは、階段を伴った左右に石積みの残る場所があります。この一角にある大きなイチョウの樹が目立ちます。麓の集落からも見えるといわれた弘浪山の大銀杏として(昭和60年6月28日)氷上町の指定を受けています。 少し離れて五輪塔や墓石が立ち並んでいて、樹木がなく木漏れ日を受けて其処だけが明るく浮かび上がってくる感じです。「大イチョウ 」と白い札が掛かっている【十一面観世音回向銀杏樹】は兵庫県史跡名勝天然記念物調査で幹周:9.5m高:27.5mと報告されています。
高山寺跡に残る歴代住職卵塔群

墓石群の背後から倒木を越えても行けるのですが大イチョウを挟んで右方向から、ホンの1頭足で柿柴からの旧参道に合流する鞍部に出ます。 今日は余りゆっくりもしていられないのでここで引き返します。
高山寺跡から下草薮の平坦地を抜けて、新郷(黒田)への尾根に取り付くルートは判り難く、同じコースのピストンでは面白く無いので、先行する赤テープを追って 正面の谷に向って 東に降っていきます。段々と谷に沿っての踏み跡は激降りに継ぐ激降りを繰り返します。 水量の少ない谷筋の滝は懸崖となって続く岩壁を伝い 流れ落ちていきます。右岸に沿って捲き道を探しながらやっと谷入り口の広い場所に(PM2:50)出てきましたが河原ではなく左右一面に平坦な杉林となって集落の民家裏まで拡がっています。
”盗人崩し”から:左端に明治山/正面は霧山〜城山/右奥に向山連山

余りにこのコースの緩急の差が大きく、時間に追われて急ぎ下山した為に観察不足 …最後に猪垣を開閉して民家裏から県道109号線に出てきた。新郷の旭光印刷・藍学園<学習熟>側、ロードミラーの設置されているところで北へ 50m程進めば喫茶「モンロー27」。弘浪山の高山寺跡の東面中腹に2〜3の岩壁が顔を覗かせています。往時に通った尾根筋や岩壁は 確認できないが、降してきた谷筋のコースの険しさは想像出来ると思いますよ(PM3:10)。


W 柿柴〜高山寺跡〜弘浪山〜長野奥 〜東峰山〜長野 2000年09月15日

白山の展望台からは山頂近くの稜線に岩を抱いた秀麗な山容が望まれる。上新庄の集落からは岩峰を屹立させる弘浪山から西に目を転じれば、端正な姿で聳え立つ東峰山への縦走は 柿柴公民館から出発(9:40)。成松側からは鹿野橋を渡ればすぐ目立つINAX看板の垣内建材店前を左折高山寺参道の石標を見て 正面のゲートの見える林道に直進すれば舗装も切れて墓地に着く(9:45)。墓地正面中央に南無阿見陀仏の大きな石碑があり 右手奥には磐神神社が鎮座している。
弘浪山高山寺(氷上町常楽)の紅葉 H22.11.14

墓地左奥へ続く山道はすぐ谷沿いのコンクリート(水道溝?)跡を辿る。右手の谷分岐に不動尊が祠ってある。 左俣谷に沿って道なりに進みかっての繁栄を?偲ばれる南無大悲観世音菩薩の石碑を見る。(元禄3年3月の年号)右手に石畳の跡も遺るが、 やがて急登と倒木で道は踏跡程度となる。なをも急登が続いて此処に、かって寺への参道が有ったのかと 疑問に思う頃、途中左から黒田(榊・シキミ屋から猪垣を経ての)コースと合って右手に平地が見え高山寺跡(10:25)へ着く。
弘浪山高山寺の紅葉 H15.11.15

高山寺跡境内とは別の場所?…寺跡への道?前後の急登とハッキリしない 藪の道の間にも歴代住職の卵塔が14〜15程2列に並んでいます。数段上にも2〜3の大きな石塔もあります。柿柴の集落からも見える?という大イチョウの木は後方段の石塔近くにあったような?余り長居出来る雰囲気の場所ではないので、 すッかり忘れていたが明治15年の新しい墓碑から寛文・正徳・延宝等の年号が見え、これだけで既に400年以前からの歴史が伺えます。 先のコースを少し戻り気味に寺跡の上方へ突き進んで稜線に出ます。高みに向かって軽い藪漕で関西池田記念墓地公園の境界沿い鎖のコースで最高地点より約30m程下った先端が弘浪山(520m)三角点。 最高地点に戻ってコースを西北に進むが急激な岩場混じりの上り・下りは覚悟してください。
弘浪山:柿柴コースの水道溝!?:右手岩場上に不動尊岩室祠あり

但し好展望は約束します。展望の岩尾根下降点(11:15)から氷上ゴルフ場を隔て白山〜赤井〜笹ヶ峰へ延々の稜線・安全山の露岩の山肌から水山方面 ・岩屋山・五台山方面、そしてこれより辿る東峰山への稜線…岩場・岩尾根を辿りながら振りかえれば 圧倒的なスケールの岩場を覗かせての弘浪山は大峯回峰の 風貌で迫ってきます。道は明瞭ですが蜘蛛の巣の攻撃凄まじく、また幾つものはっきりしないピークを越す長い長い 尾根歩きを強いられるが随所に岩場の展望所・休憩所もあり 飽きさせないコースでもあります。
谷筋から尾根筋に向かう参道分岐点の山門?跡

東峰山の長い登りの 始めに有る長野奥(オサノオク376m )ピークはどこが山頂かわからず通過していた(12:10頃)。東峰山は直下に露岩が目立つ急登で山頂にも岩を乗せています。が展望はなく木々の間に竜ヶ岳からの尾根が見える程度。 笹ヶ峰への縦走路は山頂からは見当たりません。すこし手前からのようですが展望・踏み跡もなく方向が定まりません。東峰山山頂三角点 (633m)鎖の境界尾根に沿って下ります。すぐに三原方面への尾根と分かれると途端に 藪っぽくなり鎖も藪の中に隠れたり、切れていたり…半ば藪こぎ状態でピーク 519mの岩場に登りつきます。展望は東峯山の陰で笹ヶ峰は見えません。
氷上町稲畑・泉山砦取付き付近から望む弘浪山


しかし休憩には最適の場所。 立派な角の鹿(5〜6才)が横切り 墓地公園側の藪に消えていきます。これよりは辿ってきた弘波山〜東峰山の尾根を展望しながらの下りですが随分荒れています。170m付近の峠?へ出てきました。左へは大谷集落へ出るようです。 (2:20)左へしばらく鎖に沿って下るとすぐ長かった境界鎖の道と離れ長野集落へ出てきます。池田記念墓地公園を結ぶ車道を離れ安全山方向に向かって集落内を歩き「伝統神楽の里 長野」の看板を見て葛野川に沿って柿柴へ戻りました(3:00)


X カタクリの里清住 :達身寺から夏坂を経て城山(南郷城) H13.04.07

カタクリとコスモスの里:達身寺周辺の田畑の道はツクシや花を摘みながら散策を楽しむ行楽客で賑わっているが少し離れれば静かな山里の風景が拡がります。 丹波の正倉院達身寺西国49薬師霊場(第25番)は 行基開基を伝え本尊・阿弥陀如来を祀る曹洞宗のお寺です。 山裾のクヌギ林の中に咲く兵庫では珍しい自生にカタクリ群生地で知られる清住の里は仏師の里でもあり、快慶の出身説もあり・多くの仏師がある時期此処に存住していた事実はこの寺の諸仏の特徴に在ります。
丹波の正倉院:達身寺

仏像は木彫仏で大半が一木造りです。概して腹部が異常に大きく豊満な達身寺様式で平安・鎌倉時代の80余体の仏像のうち 12体が国の重要文化財、34体が県の文化財に指定されています。一寺に一躯奉ればよいと言われている兜跋毘沙門天が 十六躯もあると言うこと、本尊仏になる仏像が多いこと、未完成の仏像があること等からも 仏師の集団や工房があったとされています。達身寺は僧兵を抱える山岳仏教の大寺院であったと伝えるが僧兵が保月城(黒井城)に加勢をした為、

中集落・葛野川上流から望む森山

信長の命を受けた明智光秀の「丹波攻め」で寺は焼かれたが仏像を守ろうと僧侶達が山や谷へ運び出して難を逃れたが長い年月、放置されていたため多くの寄木造りの仏像は 壊れ破片化してしまいました。 仏像を集め破損していた達身堂を現在地に下ろし修 復・仏像を安置しました。目前に東山からの尾根南端の高見が森山でかつての南郷城祉です。僅かの時間で登れる 丹波の正倉院・達身寺すぐ近くの森山(秋葉山 4等三角点324m)です。カタクリ花見学客の 大半は車道や田畑のなかの道を達身寺にも寄っているようです。田んぼの土手でツクシや 草花を摘んでいる子供や老女の姿も 見かけますが達身寺駐車場(PM1:35)からは今までとは逆に坂を登っていきます。
南郷城主曲輪と東面切岸(中央正面にサイレン塔)

坂の上・貯水池の上には休養施設で宿泊・お食事処の「やすら樹」と木工芸施設の「ときめ樹 」二つの建物が並んでいます。此処から山側への道は有りません。東よりに少し下れば広場がありゲートのある林道が延びています。この道は水山からの帰途に通った高井神社や 「ペンション・ヴァルト・スチューべ・モニカ」へ出てくる道の筈。 目指す森山へは、もっと南に夏坂があるのでルートを探してみます。東の端の道を寺から10分程で南に辿っていくと山へ向う林道に出会う。夏坂への正解ルートは右の道です。10mと進まないうちに左への谷間に向って進むが、登りに選ぶと踏み跡薄く・倒木が多くて分かりにくいが 程なく古い峠への道が現れます。直進ルートも良く踏まれた道の様だが直ぐに消えた谷筋は
南郷城主郭西面切岸(帯曲輪から)

倒木と落葉の積もった急登です。昨年秋に丹波のたぬきさん達が 小学生!達と森山に登ったとの話は聞いていたので此れはおかしい …が比高僅かで東山との稜線に出るので、 藪でも何でも来い・強引に稜線に這い上がります。稜線には細い踏み跡が現れるが途切れ途切れのようで歩きやすそうな枝尾根を下ると 夏坂か?・古いが広い(1m幅)道に出る。30m程坂を登ると鞍部に着き左右から稜線を辿る尾根道が合流。 堀切のような(堀切だったかも)鞍部の取り付きを1m程乗り越して南側の尾根に出ると展望の効かない平坦地だが一息入れるには 良い夏坂峠(PM2:05)。
西山〜方須張山稜線からの森山と弘浪山

急な登り坂もあるが此処からは 立派な登山道が山頂まで続く。少し下って鞍部東側には竪堀の跡かとおもわれる凹部があり 10分程で堀切・土橋の虎口を南郷城主郭(森山<秋葉山>)ピークに着く。主郭南側端にサイレン塔が見え数機の拡声器が備え付けられています。 その手前が森山山頂(324m 4等三角点 PM2:20)です。サイレン塔と左右を分けて南西側に数段の平地が見える。土塁で固められた曲輪跡のようです。三角点の近くには「秋葉山三尺坊奥之院」の石標が建っていました。 水山〜十九山〜カヤマチへの展望を期待していたのですが樹の間から水山〜十九山の影がわずかに存在位置を示しているだけです。山頂から先は踏み跡も無いように思えるので夏坂峠へ(PM2:30)引き返し今度は達身寺側へ下り、 最後は先ほどの猪除けゲートに出て駐車場(PM2:50)に帰る。


Y 鬼が担いできた 小さな二つの山 甲賀山と犬岡山(明治山) 2000/10.16

甲賀山(高岡山)と明治山(犬岡山)は平地の集落や田園風景が拡がる氷上町の中央部に忽然と急斜面の小さな丘陵が 盛り上がっています。”たかをかに 群れいる人も諸ともに 千代を契りし 若菜をぞ摘む”天仁元年 (1108)鳥羽天皇の大嘗会で大江匡房が高岡山を詠んでいます。築城・城史は不明ですが戦国末期・西の波多野氏関連の砦だったのでしょうか?氷上・甲賀の士が此処に拠ったことから甲賀山とも呼ばれる様です。
大護(おおもり)神社から甲賀山へ

山頂の貯水槽施設周囲を含め急斜な山腹の西面には 大正3年(1914)ジグザグに山道が付けられた四国八十八ヶ所の霊場大師道の参道となる信仰の山としても親しまれています。甲賀山と明治山(犬岡山)は 周辺を幾つもの集落と田園風景に囲まれた氷上盆地の中央付近に位置して、安全山から眺めると霧海のなかにぽっかり小島のように浮かんで見えます。 鬼が運んできた山として丹波のむかし話に載せてあるのではないでしょうか?。
中井権次作:社殿下羽目部!の兎の彫刻

この辺り,大昔は湿地帯で昔鬼が天秤で此処まで担いできた小さな二つの小山を泥田のため足が抜けず動けなくなり、諦めて島を置いていったという話。鬼は何に使う心算だったんでしょうか?。甲賀山は甲賀地方 (滋賀)の武士が築いた城が有ったと云い、犬岡山は柏原藩織田家が 最初に此の独立低丘陵上に陣屋を構えるべく視察したが諦め・場所を柏原に移したと云う。 (下記:犬岡山を参照)

甲賀山(高岡山)170m===> 成松商店街へ入って氷上町商工会館の駐車場を借ります。車道を挟んで山側が甲賀山(高岡山)公園で中央の忠魂碑の右から 九十九折の道が、左の遊戯機の所からは山頂まで真っ直ぐのコンクリート階段が続きます。其の左・西宮神社から明治23年(1890)分霊を迎え祀った蛭子(えびす)神社の西に立派な鳥居と大きな狛犬が立つ石段上には城の石垣と思えるほどの重厚な石積み白壁の内には平成元年9月に指定された氷上町指定文化財の 大護(おおもり)神社社殿があり、天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)を祀るが創建時期は不明です。元禄12年(1699)の再建/天保9年(1838)京都の長谷川佐多郎(棟梁)と柏原の彫刻師中井権次(橘)正貞により 改築されています【中井権治<言次>の名は、代々子孫が継いで権次正次・権次正胤と続く】 )の手になる 社殿全体の細部に施された欄間の透彫り・向拝 (ごはい)紅梁に配された篭彫り・向拝水引紅梁には蟇股を入れずに 老松の透彫りを全面に充当し、 屋根は入母屋造で軒先が出唐破風となり獅子面の彫刻が・天井には躍動的な龍の彫刻が施されている。 <氷上町現地説明板:平成4年3月を参考>本殿脇障子の唐獅子の彫刻も見事です。新井神社の木彫りの猿の他にも丹波の社寺を探せば中井権次の 彫刻は見られます。山頂は氷上町中央水道排水池で周囲に成松八十八ヶ所めぐり(観音・薬師・不動尊 )の像がずらりと取り囲んでいます。一段高いところにライオンズクラブ寄贈の ミュージックチャイムが設置されています。 西側(商店街側)に二本の山道があり、四国八十八ヶ所ミニ霊場の大師道には石仏の祠が参道の設置されています。 昼食と休憩に・近くの職場の人たちが利用しているようです。弘浪山の絶好の展望地と思ったのですが期待出来ませんでしたが、夏の川裾祭りの花火大会の展望所には良さそうです。愛宕祭りは商店街での地区毎の造り物も見逃せません。 東に向かっては草に隠れるように利用者の無いベンチが設置されていますが、ここからみる幻の氷上城:霧山がひときわ大きく見えてくる。 歴代城主の菩提寺等が無いので分からないが 麓に城主波多野宗高の彰徳碑があり山頂に立ったときの 印象とは結びつかないが…。 城・砦・居館としての遺構は 向山の ガンジュウジ城が明確ですが此方の方は名の通り、黒井城攻めの頃の光秀の向城だったのでしょう…甲賀山裾を東へ採ると氷上中学校にでる。
大護神社の重厚な”折れ”のある石垣

グラウンドの先に佐治川(現在は佐治川も加古川です )の堤防兼車道が通じ京橋に着きます。聳え立つ霧山の姿ばかりが目につくが、橋の西側に古代ギリシャの神殿を思わせ・外観は総花崗岩積みの建物が有ります。当時氷上町立植野記念美術館で収蔵品の大半は植野藤次郎氏個人のコレクションから寄付を受けたものといわれ、中国絵画や中国景徳鎮の磁器等を中心にパプア ・ニューギニアの民芸品(土器や布)やコンテンポラリィ・アートなどと幅広く蒐集されているようです。
甲賀山宗蓮寺(曹洞宗)の背後は甲賀山

美術館近くには赤レンガの風情ある洋館・植野物産商会の建物があり、此処を氷上町なり 丹波市発足後の地域開発・観光の発信基地として、丹波市文化文教地区として残す等、発展的な展開がされないものかと期待していたが何時の間にか消滅・更地になっていた。
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犬岡山(明治山)  153m 【城跡か・古戦場か・まぼろしの柏原藩織田家邸】

成松の南東外れ…正面に霧山を望みながら葛野川に架かる正尺橋を渡り、犬岡地区の愛宕社へ向かう入口の 左右は掘跡の様?。葛野川と佐治川(現・加古川)に挟まれた田園の中の極小独立丘陵だが、古城の切通し ・堀切跡にも見えるが 古墳の発掘調査の跡なのかも?。 燈籠左には黒い口を開けた坑口がある。左へ愛宕社右の踏跡から 犬岡山頂へ…どちらも展望はありません。山頂は15m4方の平坦地で東側は急斜面・古墳の墳丘を利用した主郭なのか ?其の古墳の発掘跡なのかも?。
植野記念美術館と霧山

「丹波志」 以外に知り得る資料も無いので 史実も築城時期等詳細は一切不詳ですが 松井久後兵衛なる人物の居城だったといわれます。後屋城主・荻野氏配下の城砦だったのかも。氷上盆地の平野の中に在って比高僅か2〜30mではあっても 周囲は二つの川に挟まれ、大水で河川が決壊すると湖のようになり、鬼伝説の様に泥田の中の舟の様な丘陵は要害だったのでしょう。南北朝期に宮将軍陸良親王を護って葛野庄の本庄平太らが戦い「応仁の乱には但馬の太田垣らが攻めて来て 一時は占領したこともある古戦場。 柏原藩主として後期織田家の近江守信休が元禄8年 (1695)家禄を20,000石に減封されての国替えで、大和宇陀郡松山城の藩主から 転封になってきます…が前期織田家三代の後は天領となり 幕府直轄が45年も続き、
甲賀山から犬岡山(明治山)を望む

嘗ての織田藩邸も無く井尻屋(土田)文七や亀屋 (田)忠助の屋敷を借りて仮の藩邸としていました。信休はいつまでも仮住まいというわけにもいかず、いずれ藩邸を建てる領内の適地を視察していたようです。氷上郡(現・丹波市)のほぼ 中央部の位置する犬岡山付近は、家臣からも 宇陀の松山城を思い起させる所として有望視されていたところが、水害により湖化した犬岡山周辺の様子を 見て諦められたとか。柏原藩邸建築の許可は移封後19年・ようやく幕府の許可を得て 正徳3年(1713)造営しされ、翌・正徳4年 (1714)完成しています。



成松商家群     氷上町成松

氷上町成松は播磨 ・多可郡加美町の篠ヶ峰や青垣町境のカヤマチ山から流れ出た葛野川と加古川(旧・佐治川)に挟まれ、 京・摂津から篠山を経て朝来郡和田山(但馬)へと、出雲(山陰)を結ぶ古代山陰道・但馬街道が通じ、古来より物資の集散地として三・八の日には市が開かれ、氷上郡一の商業地として発展してきた 名残を古い町並みが残り、宿場町の風情さえ漂います。
甲賀山の麓・成松商家群と成松町道路元標 (手前左)

甲賀山南裾の愛宕神社の例祭愛宕祭は、江戸時代中期・近郷で飢饉や大火が続き、これを憂えた有志により火難除けの神【京都・愛宕神社】の分社を設けて鎮火と 五穀豊穣を祈願したのを 起源として毎年8月23〜24日に行われ氷上町随一の大祭として知られます。佐治川縁での花火大会で賑わう成松愛宕祭では、 町内各所で展示される奉納の”造り物”が、愛宕信仰により元禄年間(1688-1704)頃より引き継がれ三百余年の伝統を誇るものといわれます。
愛宕祭の「造り物」・H20年の金賞作品:篤姫(天璋院)

ただ記録に残されれているのは、古いもので明治24年以降 …其の行事内容も不明と云う。この「造りもの」は其の材料には日用品の食器・金物・ 陶器や祝儀物の熨斗・扇子等用品を使用されるが一種類の材料だけを使って造られる伝統ある 独特の「造り物」は年毎の話題性を加味し創意工夫して町単位に製作されます。商家群が建ち並び・街道筋の面影を残す成松町内を散策しながら見て廻るのは楽しいものです。
祝儀物のお神酒・菰冠の顔、熨斗袋・扇子等で橋や松を表現

京都や篠山の祇園祭でも祭りの日には、 商家が自慢の屏風絵等を飾って見せる風習が有りましたね…?例年制作テーマを決めるのにNHK連続ドラマが圧倒的に多く人気の様ですが、昨年は話題性から「コウノトリの巣立ち」や「丹波竜」発見発掘があり其の作品が目立った。 今年(平成20年)は薩摩藩島津家から13代将軍徳川家定に嫁ぐが僅か1年10ヶ月程で家定は急死。天璋院を名乗った「篤姫」が目立ちます。




 高山寺城 成松城  南郷城 丸山城 下新庄城<仮称>

高山寺城
 弘浪山 520m(山頂近くの鞍部 Ca460m) 氷上町柿柴・沼貫

常楽の安全山山麓高山寺の山門に立つと正面に弘浪山を望みます。寺は昭和33年(1957)4月現在の地 (常楽)に移築されたが、今も歴代住職の卵塔が並ぶ高山寺跡が有り、南北朝期以降;城郭化され幾度も戦いの場となり其の都度 :焼かれ再建されてきました。元は弘浪山山頂近くに天平宝字5年(761)法道仙人開基を伝える真言宗:高山寺がありました。
弘浪山高山寺:伽藍跡(大銀杏側)に並ぶ卵塔群

葛野地区の内尾神社(丹治大明神)の別当で、神社を建立した法道仙人が霊夢による観音のお告げで 山中に霊地を発見して堂宇を建てたのが始まりとされます。 しかし戦乱や天災により焼失・再興を繰り返す不遇に見舞われます。仁平3年(1153)の源平の兵乱【保元・平治の乱】により焼失したが、 平安時代末期の文治5年(1189)源頼朝の勅願により東大寺再建で有名な俊乗坊重源上人(重源は丹波でも2ヶ寺を復興している)命じて再興された古刹。内尾神社の別当で信仰の寺として栄えたが建保・承久年間(1213-21)関東から 承久の乱等の戦功により新補地:葛野庄地頭職を得て荻野一族が来住。
旧高山寺跡の石垣

南北朝期には要害の地に在る寺は全山が城郭化され、籠る南朝方土豪らにより足利高氏軍と2度・3度にわたる交戦に焼かれます。葛野庄地頭で丹波守護仁木ョ章の信認篤かったものか?建武年代:丹波守護代を務めた荻野尾張守朝忠(ともただ)は赤井為家(和田範長??)の次男(幼名を彦六)として 新郷に生まれ、荻野姓を名乗り荻野一党の先祖とも云われ!!?此処、高山寺を城塁とし丹後・若狭にも勢力を張っていて、
現在の弘浪山高山寺H19.11.21

夜久野には龍ヶ城があり山麓の神通寺円満院は福知山の 伏見山(ぶくみやま)<富久貴山>山上にあった旧長勝寺【聖武天皇の命による行基菩薩開基の寺】の観世音菩薩像を移して建立しています。 元弘3年(正慶2_1333)後醍醐天皇が船上山の挙兵した際には参陣し千種(源)忠顕に従って幕府軍と戦い六波羅を攻めたが京都で破れ荻野 ・児島・本庄氏等敗軍約3000を集めて高山寺城に拠った。以来城砦となったことは「太平記」にも記述されています。その後足利尊氏が丹波国桑田郡篠村に入ると久下(「一番」旗の逸話で有名)・長澤・山内・葦田 ・余田・酒井・波賀野・小山・波々伯部等の近隣武士らは一人残らず足利尊氏の旗の下に馳せ参じてきたので、 篠村に布陣の足利軍の兵力は一気に23,000余にまで膨張した。
其処此処に遺る石垣 ・石積みと「観世音回向大銀杏」

荻野朝忠は・たまたま尊氏を恨む事があって葦田・余田等と行動を共にすることを快しとせず児島高徳から反足利連合軍の結成を持ち掛けられ誘いに乗った足立 ・和田・位田・本庄・小島らと丹波から若狭へ出て、北陸道から京都に攻め入ったが 尊氏が反旗を翻すに及んで仁木頼章を将として 推し此れに従った後その勢力を張ってきた。荻野朝忠は児島高徳と結び脇屋義治を迎え・日を期して事を挙げようと高山寺城に拠ったが計画は幕府に漏れてしまった。
高山寺跡の石積配水路!?

足利尊氏は山名時氏に命じて 3000余騎を率いて 丹波へ押し寄せてきた。時氏は俄かに 此れを攻めることの困難を知って、高山寺山麓を包囲し荻野側に対して兵糧攻めをかけた。荻野朝忠は遂に城を出て 降り尊氏に帰属します。康永2年(1343)高氏に叛いた朝忠の責任をとって辞任した仁木氏から 山名時氏が守護・守護代は荻野朝忠から山名の臣:小林左京亮国範に代わる。 守護:時氏のもとで小林氏の後(観応1-2年)僅か 1年程だが玉巻城の久下ョ直が守護代となっている。
仁王門跡付近柿柴コース側の土塁?と段曲輪五輪塔・宝篋印塔

その後朝忠は正平3年(貞和4_1348)高師直に従って出陣し四條畷の合戦に楠木正行軍 と戦い功を立て、文和2年(正平8_1353)九州で挙兵した足利直冬に呼応し、京都に入って足利義詮(尊氏の子)を攻め敗走させるが、山名時氏との再戦に大敗して丹波へ敗走しています。建武中興なった延元元年 (建武4_1336)仁木頼章が 丹波守護となって高山寺城郭を修復して以来 ・山悉く城塁となり、 その後も南北両軍が互いに占領したところです。為に住僧は四散して法道仙人開基の名刹で真言宗御室派の高山寺も荒廃に帰していたが、永正6年(1509)新郷 後屋城主赤井伊賀守忠家によって修復・再興され寺運は再び栄えて法灯が輝き出します。
高山寺跡の高石垣

しかし元亀・天正年間(1570-91)明智の丹波攻めの兵火に遭い焼失。 今に遺る伽藍跡は慶長5年(1600)田路村上田家の協力を得て、宮崎の僧:関長上人が再興しますが、またも享保9年(1724)と安永3年(1774)と度重なる火災で本堂、仁王門を残して寺坊を焼失しています。 5年後には復興したが厳しい山上への参詣者は少なくなり、昭和9年(1934)室戸台風による大被害もあって、昭和33年 (1958)常楽の地に弘浪山高山寺 (真言宗大覚寺派)が移築された。高山寺の梵鐘は柏原八幡神社に残されていますが、 天正期の丹波黒井攻めで神社は焼かれ、光秀の本陣とした際・徴収され鋳潰されるところを 八幡神社の別当が守ったといいます。
”盗人崩し”から赤井野(右端中央木陰部に後屋城が在った)

高山寺城は元亀・天正年代の初め、最後の城主は波多野氏一族の大舘左近将監氏忠で黒井城主 ・荻野直正に与して丹波攻めの明智軍に抗した雄将で後屋城・高見城・穂壷等諸城と連繋しながら戦っています。 天正3年(1575)城主氏忠が多紀郡(篠山市)に出陣中、僅かの守兵を残しての虚を突かれて光秀軍に攻められたといわれます。

【現地高山寺跡地の案内板を参照 町誌 ・郡誌や資料等によって年表が一致しないが参考に・・】



成松城(上ゲ成松城)   xxxm  氷上町上成松

成松城と西念寺(成松区):赤井氏の祖・荻野為家が白山の麓に住んで赤井姓を称した新郷の後谷城(後屋城)を通り高山寺城のあった弘浪山の北東山麓に向かう県道109号は葛野(かどの)川に架かる成松橋を渡ると、川に沿って大きく左へ廻り込むように迂回して進みます。直進する甲賀山の麓に建ち並ぶ成松商店街内の狭い道を抜けると、高山寺(元は弘浪山頂にあった 高山寺は常楽に移転している)への入口で、先程の県道と合流して青垣方面へ抜けて行きます。
西念寺の鐘楼門と大銀杏

目的の成松城は実は此の成松橋南詰め西側に位置して居城の遺構は無く跡地は旧字名と一部に雰囲気を残すが、葛野川を渡った成松市街地の西向山西念寺(浄土宗鎮西派)には成松城主勝田勘八郎の墓があると云い立寄ってみる。享禄年間 (1528-32)第7代祖感和尚の時代に植えられたと云われる 大銀杏と重厚鐘楼門の西念寺は、元は西へ約4.5kmの三原(篠ヶ峰東山腹)に在って、山の採掘が盛んだった頃は 鉱山師達の仏事を司っていたが、天正元年(1573)越後国柏崎笈念和尚が巡錫の際・和尚の高徳に帰依する人多く、田畑の寄進を受けて三原より 現在地に移されたといいます。寺内の石塔は姫路の本多家の井上氏の墓所で上ゲ成松城主
柿柴側から幻の氷上城(霧山)と成松城西端部?

勝田勘八郎と姻戚にあったが姫路に帰参して本多家に仕えた。本堂西横に並ぶ古い墓石の中に 成松城主勝田勘八郎の墓碑もあるの?戒名も知らず探索は中止。 葛野川に架かる成松橋へ戻って上ゲの集落に入ります。細い地区内の西端、山裾に突き当たる辺りの柿柴地区も昔は ”上ゲ成松”だったと聞いており、弘浪山への柿柴コースの登山口で 山頂付近の鞍部には高山寺城が在り、その高山寺への参道があった所です。成松橋から柿柴に向かう途中・今は宅地と田園地帯になっている約120m四方の僅かに高い ?位置が城域であったといわれます。
字名とうりの”城の堤”田畑と民家が城域で左手が正玄屋敷付近?

平城の少ない丹波なので戦国期 ・明智勢の「丹波侵攻」に此処で応戦した城が在った事が想像も出来ない程・水田地帯と田畑に民家が点在する位置にあります。四方を堀で囲まれた上ゲ成松城があって成松橋からは旧字名の”古市場”が葛野川と 県道筋側に、城の縄張り内には”城の堤・東堀・正玄屋敷、中地”や城域外に”荒堀・大門・垣端・南屋敷”等の字名がみえます。此処から東を望むと西波多野氏の”幻の氷上城 (霧山城 )”の麓に京口(植野美術館がある)があり、佐治川(現・加古川)が流れ、葛野川が流れ出る付近・本郷は江戸期に加古川水運の船座のあったところ。丹波の地に忽然と現われた波多野氏と 共に「氷上郡誌」には蘆田氏から南北朝期に分家したとされる荻野氏ですが、
上ゲ成松城 :左端は土橋を挟んだ濠跡か?

相模国愛甲郡荻野に住んだ荻野氏が「承久の乱」に功あって新補地領に葛野荘を賜って来住した尾張守定朝(荻野右衛門=朝忠)がその祖と思われますが、 足利尊氏につき ・又一時は尊氏に抗して高山寺城に籠ったり、丹波守護代ともなった朝忠の行動とはうらはらに、その人物像は丹波の霧につつまれた様に謎が多い。 成松の地が延喜式山陰道の要衝で但馬国境・丹波最北部、佐治駅から成松にかけては、氷上郡内の商業の中心として栄えたところです。
水田地帯は沼地となるので 上ゲ成松城も四方を土塁で囲み、葛野川の水を取り込んで現・水田地帯を沼地として 要害とした掻き揚げの方形館だったのでしょう?
上ゲ成松城

溝も川もない一直線の堤は柿柴地区まで延びているので上記画像で、農耕用の赤いコンバインが入っている辺りまでが城域だったのか?。 宅地・田圃の整備開拓で遺構は消え、 上ゲ地区への東入口の地蔵尊?の祠や、公民館付近の僅かな高みや側溝、南側の畑地と民家付近の谷間に堀跡のイメージを重ね想像するだけです。要衝・山陰道にあって郡内(丹波市)の商業中心地、 市場も栄え其の警護 ・監視の城砦として、 室町期には荻野氏配下の城として此処に築城された平城の様す。 上ゲ成松城や犬岡山にも ?(伝承や未調査で 城遺構の報告は無いが、成松の商業地南口を監視する位置に在って古戦場ともなったが頂部の古墳墳丘を利用した)砦があったのかも。
上ゲ成松城の南方:キリシマツツジで知られる一宮神社

成松城主勝田勘八郎も 荻野(赤井)氏配下となり「丹波攻め」天正7年(1579)5月・明智光秀軍の猛攻に討死したといいます。主城の黒井城周辺を明智光秀が攻め、加古川沿い”氷上回廊”の城砦群は、播磨から駆けつけた丹羽長秀の援軍が、 また若狭方面からは福知山側から羽柴秀長が援軍として攻め遠阪城・小室城・栗住野城等の諸城を落とし、後屋城・成松城を落として合流した長秀・秀長の連合軍が穂壷城等へ総攻撃をかけて迫っていったのでしょうか!。
(成松町史・氷上町史等を参照)



南郷城(森山城・長屋城・長尾城・新庄城)  森山(秋葉山)324m  丹波市氷上町上新庄・下新庄

「丹波志」によると鎌倉時代・平(平野か?)対馬守正国の嫡子・馬頭が平氏の姓をはばかって本庄氏と改め「平」をその名に冠して 本庄平馬頭正景と称して保元の(1156〜59)始め頃、この地の領主を攻めて森山の尾根上に南郷城(長尾城・*長屋城・森山城)を築いたと伝えられるが、 また寿永3年(1184)平家一門が一の谷の戦いで源義経の軍に敗れてからは落陽の運命にあったが平氏(平野氏か?後に本庄氏 )は今までの功によって、
南郷城主郭:西面帯曲輪側の切岸(中央にサイレン塔)

征夷大将軍源頼朝から 葛野庄を賜りその子・平次郎正景、その孫・平次(三?)郎右京亮正家と代々この地を領したとも。 建保の頃(1213〜19)から豪族荻野氏と戦いを交え、その領有を争ったが後に和睦して各々分領したといいます。森山(4等三角点324m)山頂部に 35X25m規模の削平地を主郭として西面から南面に掛けて二段の帯曲輪と腰曲輪・主曲輪南下から 南尾根側に2段ばかりの曲輪がある。森山三角点峰は ”秋葉山三尺坊奥の院”の石標があって、地元では秋葉山が馴染みの山名の様です。 山頂が奥の院なので東山麓の天満神社が秋葉社元来の場所か、天満神社境内に遷移・合祀されているのかは知らないが・・・。
南郷城:北尾根から空堀状・上り土塁を主郭に入る

緩やかな南尾根筋端にも二段程の低い段差の平坦地形がある。樹木の間からは成松 〜清住を結ぶ街道筋を足元に望まれる。 主郭からの緩斜面に何もないだろうと思っていた。此の曲輪から南東下へは傾斜も急となる。しかも東面には尾根近くから長い竪堀が落ちる。堀切・竪堀のない古い時代の城と思っていたが東斜面下方の遊歩道?(林道)を越えて落ちる長大な竪堀もある。 堀部を越える歩道が、ここ何年も自然の谷筋として決壊されることもなく、 損傷が無いのは自然の溝ではない!!?と思われる。しかも長い溝(竪堀)は未確認ながら南郷城主郭北端付近に達しているようです。
南郷城:帯曲輪から主郭のサイレン塔を見る

北の尾根筋にみる切岸高い小曲輪を捲くように斜上する虎口を抜け、更にそのまま続いて上り土塁虎口となり、空堀の端の土橋状を主郭に入る。主郭東斜面を粗一直線に落ちる長い竪堀状(未確認)が、遊歩林道で見掛けた竪堀状に繋がるものか!!。帯曲輪・腰曲輪を持ち、無いと思っていた竪堀状遺構からみても時代は更に下って中世末期頃まで 長期使用されてきたものでしょう。南側からの直登は急なので登路は有っても中腹からは北へ廻りこむ事になりそうです。 以前は達身寺側の西面から、以後は東面の西小学校側・天満神社から登山遊歩道整備工事中らしい道が利用できる。どちらのコースも城跡下部で合流する。
空堀端の土橋状上り 土塁虎口を主郭に入る

(この項:当初レポートのまま・・・)防禦施設が強固と云う事もなく切岸加工された曲輪段以外に 遺構らしいものを見ない。ただ登山・遊歩道は城跡の在る森山中腹を捲いてカタクリの花やコスモスの清住や達身寺へ延長中(道路は捲き道最高地点 ?付近で中断)らしいが、歩道途中から城跡への尾根筋までも木の階段等で整備されている。城への尾根筋は未整備だが丹波市でも未だ城跡意識の浅い、知られざる山城だけに遺構保存に留意して 欲しいものです。
南郷城:主曲輪近くから落ちる長い竪堀?

山頂に残されているサイレン塔の復旧と単に山頂部を削平しての公園化だけは 避けてもらいたいものです。正平7年(1352)頃は赤松師則祐に属した本庄平太・平三兄弟:先祖の右馬介平忠正は氷上郡葛野庄を領し本庄の森山に拠る。本庄氏兄弟は一族を率いて久下・荻野・足立・余田・小島等と共に氷上郡の豪族として 上新庄に本拠を定めて、葛野庄総社の内尾神社の別当である高山寺城(弘浪山)を陣営として時には南朝として又北朝の何れかに属して戦いを続け 繁栄を続けたが荻野・赤井氏の勃興と共に衰退を続ける。
南郷城:南尾根先の二段曲輪(見張り所!?)

文亀年間(1501-04)城主は 本庄長尾で城名に残ります。天正年間(1573-91)本庄平馬頭(兵庫頭!?)正桓は八上城主 ・波多野秀治に付いていたため 明智光秀に攻められ落城し自刃しています。其の子兵庫頭は豊臣方に付き大坂の役に出陣したが戦死したと云う。豪族・本庄の流れは今もこの地に残っており、南麓には平次郎正景、平次郎正家の墓碑がありその子孫が建てた経塚もあるといいます(未訪)。
南郷城南尾根先ピークの曲輪側の竪堀

森山(南郷城)再訪 :森山へ丘陵東からの登山コースは二箇所。一つは「森山登山東側コース」で山頂まで約1km:氷上町西小学校の西北角に鎮まる天満神社【境内に内尾神社・広高稲荷神社・秋葉大明神・若宮神社・高井神社・山之神が合祀されている】背後から、 もう一つは神社の先から車輌幅の林道 が延びており、共に猪鹿避けゲートを開閉して林道を進む。遊歩道として整備中の様で広い登山道は森山 (秋葉山)山頂近く (7合目付近)で双方の山道が合流し、木階段の山道は山腹を廻り込んで城址へ続く。この先・西山麓の清住に下っていく。
柿芝側の葛野川沿いから森山城遠望

山上の錆びたサイレン塔のサイレンも音響を長年閉ざしているが、再び活躍の場を得て氷上町西部に響き渡る事でしょう。此処は知る人も少ないのでしょうが山城で、サイレン塔の建つ主曲輪付近には曲輪 ・帯曲輪等の遺構が残ります。文化財指定を受けていなくとも地元の貴重な文化遺産です。たんに削平・整地して公園化!!?だけは止め城跡公園として・より良き整備計画の推進に期待したいですね。


丸山城と下新庄城(仮称)
丸山城
 xxx Ca100m   丹波市氷上町下新庄・常楽

佐治川右岸の県道109号沿い:白山の麓・赤井氏発祥地の新郷【赤井氏の祖・荻野為家が此処に居を構えて赤井姓を名乗った荻野 (赤井)氏発祥の地で、黒井城主:赤鬼の異名で知られた赤井直正生誕の後谷城(後屋城)が在ったところ】新郷の後屋城や弘浪山 (高山寺城)【南朝方として荻野朝忠(山名氏のもと 丹波守護代ともなった)が児島高徳等と高山寺を城郭化して籠もった】の東麓を抜け、嘗ては氷上郡(丹波市)の中心地:氷上町成松に入ってくる。
安全山への林道ゲート道から望む丸山城(末端の丸い森)

葛野(かどの)川に架かる成松橋を渡る手前の集落内を左方約 200m程進むと田圃となっているが平城の成松城(上ヶ成松城)の跡。落城時には黒井城:赤井直正配下に在った城主勝田勘八郎がいたが織田信長の「丹波攻略」により 天正7年(1579)5月・明智光秀軍の猛攻に討死したといいます。此の成松城の真北約1.2kmには一寸変わった山名の安全山(点名:絹山)が有る。雲海「丹波の霧海」のスポットとして少しは知られる名所です。山頂に無線中継所や以前はハンググライダー基地ともなっていて林道脇にランチャー台も有った?。パラグライダーが全盛の現在では青垣町の岩屋山に「お株を奪われ」此処から テイクオフするフライヤーを見る事はまず無さそうです?。
丸山城山頂:10uの平坦地:こう藪では何が何だか判らない?


山上へ通じる林道が上記丸山城の左側を抜けて 林道ゲートに向かう。丸山城は砦かどうかさえ細不明ながら分布地図には位置標示されている。兵庫県の埋蔵文化財行政地区マップにはコメントに 「砦か?・・」一切城史不明ながら丸山城と記されている。安全山への林道に入っていく山裾を縫って深い溝谷が流れていく。城域の南面を囲む濠 ・山?低けれど・・・と期待して山麓東側の車道から入ってみる。鹿猪避けフエンス沿いの山側は藪・山頂部は倒木と鬱蒼とした 下草の蔽われ状況は判らないが10m四方の方形平坦地が一つ有るだけです。
高山寺に向う安全山南山麓への林道?からの丸山城(比高20m弱)

斜面は急斜でもなく平坦地は曲輪を意識できる程の切岸・段差も無く?、 遺構?と思えるものは他に無く ・城とも・居館とも呼べるほどのものではない。旧山陰道・佐治宿に向かう街道を監視するには距離は近いが、見通しの効く砦でも無さそうです。成松城の真北に位置して、 成松城の死角となる南方を正面に監視を補佐するなら、東600m程の位置にある185m峰の方が遥かに眺望監視には有利・佐治川(現:加古川)沿いに氷上盆地の中央を一望出来る。丸山城(砦)は荻野氏が「承久の乱」に功あって新補地領に葛野荘を賜って 来住した尾張守定朝(荻野右衛門=荻野朝忠か?)の、 領有地葛野荘を監視する砦だったか?。
下新庄交差点と正面に城山下新庄城

また成松市内の西念寺は銅の採掘が 盛んだった頃は葛野川の上流・三原地区にあって鉱山師達の仏事を司っていたといわれます。葛野川の搬出路出口付近に位置して鉱石管理の代官所だったのかも?安全山から南へ派生する尾根の399m峰から別れて東南へと延び出す尾根の末端部が落ち込む先に比高僅か15m程だが僅かに盛り上がり、富士型の美しい姿を見せる半独立丘陵状の小さな峰が有る。
下新庄城主郭西下の腰曲輪端から切れ落ちる採石場?跡

丸山城のある 常楽交差点から西約400m程の下新庄交差点側には 下新庄城<仮称>が在りと、更に西方:三原の中程・上新庄には此処を本拠とした土豪:本庄氏の南郷城(森山城・長尾城)が在る。ほんの一時期・多紀郡(篠山市 )八上城主:波多野氏が氷上郡(丹波市)をも勢力下とした頃、其の傘下に入ったともされるが、いずれにしても明智の「丹波攻め」に落城したが、葛野荘の南郷城への東玄関口に位置して、其の出曲輪としてまた見張台「知らせの城」として 任にあたっていたのかも・・・!!?
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下新庄城(内山砦)<仮称>    内山 ? Ca140m   丹波市氷上町下新庄

R175号線「稲継」交差点から直進する県道7号線「氷上北」三叉路交差点を左折して直進しても高山寺近く 安全山南麓の「常楽」交差点に出る。常楽交差点の西北・安全山へ向かう林道東側に 上記の丸山城(城砦かどうかも不明 ?)が在るが、山域の西方(丸山城の西約400m程)には北方から南へ延び出した丘陵先端が富士型の姿を見せる小さな峰が在る。
最下段の帯曲輪から大歳大明神を祀る主郭切岸と、腰曲輪

清住の達身寺(丹波の正倉院)を目指して常楽交差点で左折するか、手前の郵便局 ・警察派出所側の交差点を左折して県道78号線
(旧・篠ヶ峰を越えて多可郡丹治へ通じていた林道だが、道路決壊で内尾神社付近までは入れるが‥)の下新庄交差点。北側目前に迫る丘陵上が城址!?で、農耕作業倉庫?脇から急斜面を辿り山上の祠まで参道が続く。
主郭西下の腰曲輪端から切れ落ちる採石場?跡

所在地は市町別地図にも空白地帯で山名や字名も無い 空白地帯、地籍図・字限地図等で確認する術もなく、住所範囲内の氷上町下新庄にあって下新庄城<仮称>か主郭の山頂部には露岩をも削平された平坦地に大歳大明神が祀られるが山麓:下新庄字内山の大歳神社に遷移されている元の 社が奥社として祀られている存在と推察して内山砦?<仮称>としておきます。
街道筋の常楽にある 丸山城からは約400m程の距離にあり、丸山城の現状から比較すれば格段に城砦遺構を遺していると思われます。
主郭東側切岸下:帯曲輪は細い犬走り状となり北尾根筋に延びる

安全山に向かう谷を挟む西方の丘陵ピーク277m峰から南へ延び出す尾根がの南端で半独立状に盛り上がり、高差30m程を一気に下新庄の県道78号線側に落とす。此の下新庄城<仮称>は丘陵尾根沿い東山麓に下新庄古墳群の点在が示されるが、それ以外・周辺に遺構の記述を示す記号や標示は無い。 しかし成松城とは佐治川(現:加古川)河口に近い葛野川を挟んで、丸山城(砦)と共に成松から佐冶へ向かう街道の宿場町と佐治川の京口(霧山の西山麓)から甲賀山と明治山の間を葛野川沿いに侵入して来る、
主郭北東側下:堀底道を土塁虎口?へ

森本城への東口を監視する位置に在り、弘浪山(高山寺城)から北方へ延びる丘陵尾根山麓からは 葛野川を挟んで盆地の東入口が約750m程と狭まる位置。露岩を削平してまで 山上部を造成して祀られれる大歳神社の祠が、往時の城遺構を利用したものか 改修されているかは不明。参道からは見えないが、 主郭切岸したの腰曲輪と・更に一段下の帯曲輪の南端から東下方へ、自然地形なのか?竪堀状が一条落ちる。主郭から北への 東斜面下に延びる帯曲輪は細い犬走り状(山道)となり、主郭北斜面下の尾根筋に合流する地点に小曲輪がある。
北尾根側曲輪から主郭・犬走状が主郭下の左手へ、

東側の斜面下は、帯曲輪から犬走り状の細い通路が抜け出たところに土塁(竪土塁状)?があり、 緩斜な空堀状は比較的緩斜面を山裾から登ってくる城裏手(搦め手)への登城の木戸門!!?・土塁虎口の様?。丹波の山城に虎口形状を見ることは少ない?ので、思い過しの見誤まりなのかも?。虎口にしては・主尾根筋は緩斜面3〜40m程降って鹿除けフエンスが遮断する鞍部となり、防備強化の虎口とも思えない?。此の尾根が南郷城(森山城)に続いていれば 277m峰や更に上方の三角点峰山頂に 関連の城遺跡が有るとも思えたが、東方の丸山城同様に何も無さそうです。
主郭南東角から腰曲輪と最下段に帯曲輪:右端

主郭の祠裏手を西に一段小曲輪を降りてみると足元がスパッと切れ落ちている。周囲を高さ約10m程の岩場で囲まれた、幅約30u程のクレータ状窪地が現れ, 山麓の県道78号線は途中「カタクリの里」や達身寺への道を分け氷上町三原の内尾神社に向かう。付近には平安時代の永承年間 (1046-53)に銀を産出したといい、近代:昭和中頃までは選鉱場〜採石場となっていた里見鉱山跡がある。篠ヶ峰の主稜線を南へ追って行けば多可郡妙見山も10km圏内…生野鉱脈が走り周辺に古い鉱口が遺る。
主郭北東側下の土塁虎口?

此処は更に古い時代の露天掘による採鉱場だったのでしょうか?。単に採石・ 土取場では無さそうです?。山城遺構内に此の様な天涯の?要害は、福知山市上六人部の三俣城に見たが、 築城以前の採鉱跡なら・小規模な砦にはこれ以上を望むに不要の過大・完璧防禦施設。無論・城史不明ながら丸山城に記した様に南北朝期〜中世にかけて幾度かの合戦場に程近く 成松城南郷城に関わった 砦とは思われます。

本誌丹波霧の里へ
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