弘浪山(高山寺城)〜点名:長野奥〜東峰山・ 甲賀山・犬岡山・森山(南郷城)
丹波市(地図=但馬竹田・福知山・生野・篠山)
T柿柴西〜ぼうさん落としの岩〜弘浪山 2000年04月08日
U 柿柴公民館〜弘浪山〜柿柴集会所 2001年09月08日
V 本郷(黒田)〜高山寺跡〜本郷(四方) 2002年06月02日

W 弘浪山〜長野奥〜東峰山(笹ヶ峰への稜線) 2000年09月15日
X 達身寺〜夏坂への道〜東山の肩〜夏坂〜森山〜夏坂  2001年04月07日
新郷の四季采館 :展望台より望む弘浪山 H15.3.9
Y 甲賀山(高岡山 170m)/愛宕社〜明治山(犬岡山153m) 2000年10月16日

近畿の山城: 高山寺城 成松城 南郷城 丸山城 長野城 三原城
下新庄城(内山砦) 犬岡城 常楽砦

十二支の 山 犬岡山(明治山)
校歌故郷の山 氷上町中央小学校 ♪甲賀の山の麓なるxxx♪
丹波のむかしばなし  鬼の担いできた二つの山概説)

T柿柴西〜弘浪山〜「ぼうさん落しの岩」!!へ ・・H12. 04.08

県道09号沿いに氷上町成松商店街手前の橋を左折し達身寺方面へ進みJA丹波ひかみ西の信号交差点側 谷垣ビルに寄ります。氷上の酒販店では大きな店・店で扱うオリジナル地酒もあるが 目的は店で取扱いの種々佃煮の詰め合わせを土産に買って帰ること。店前の交差点を西に折れ柿柴・洋泉禅寺先の柿柴集会所を左折して墓地(PM2:00)に入り墓地下の道の西端に猪避けゲートを開閉し
私の撮影している方が「ぼうさん落としの岩」H13.9.8

左に延びる林道は墓地の上部へも延びているが100mも進まないうちに行き止まり。先に進むべき杣道はなく引返し・堰提に出て土砂崩れの先に出て 谷筋の道らしき?あとを辿ります。谷は急激に険しく谷筋は岩場も多く顕われてルンゼ状になりますが 岩が脆く崩れそうなので藪に逃れて尾根をめざす。枝尾根?に出ると何処からか道が現れ帰路は此の道を辿るが周辺は松茸山境界線…
伐採で展望が良くなった弘浪山の三角点 H18.2.25

残置ビニールテープに誘われ下ったが堰提近くの往路に辿った谷筋の踏み跡に出てしまいました。さて道なりに進んで明るい尾根に出るとガラリと景観が変わり弘浪山西北面の岩場が顔を出す。この尾根筋に延々と延びる関西池田墓地公園境界を示す鉄の鎖 ・ここからが核心部(PM2:45)丹波修験の道です。覗き岩や展望岩・キレット10数mの岩場登り(鎖を利用すれば ・但し鎖はあくまで境界用で錆び・上部の固定柱も 安定しないので要注意)もあります。この岩場の先を登りきれば展望の良い岩場の上に着きます。
高山寺・排水の石積溝?H18.2.25

安全山〜水山・竜ヶ岳〜篠ヶ峰・白山へと展望が広がる高さ数10mの岩壁の上は「ぼうさん落しの岩場」。眼下には墓地公園の墓標が建ち並び、田植えを終えたばかりの 田園風景を見ているようです。鎖に沿っての道は、いよいよ最高地点だが三角点は南尾根を少し下ったところ。最高地点に引き返し鎖に沿っての道をしばらく辿ってみることにします。
植野記念美術館と霧山

急斜な岩場の横を下って目前の尖がり山まで行ってみると、この山頂のほうが平地もあり寺跡というより山城の見張り所 ・狼煙台に適地(PM3:25)。境界尾根の先には三角点のある点名:長野奥 ?や東峰山が待っていますので次回のチャレンジです。此れよりは岩尾根の降りが氷上ゴルフ場に向かって続いています。(最低鞍部へ出てもゴルフ場へは道なく 墓地境界に沿っての道です)柿柴への下降を急ぎ帰着(PM4:15)。


U 柿柴公民館〜弘浪山〜「ぼうさん落としの岩」 H13. 09.08

上記Tとほぼ同じの逆ルート。R175号と交差する稲継交差点付近まで来れば弘浪山と白山の両雄が並んで望めます。 最近少し北側(本郷)に展望公園が出来たので其処の展望台へ向かう。加古川(旧佐治川)を隔てて弘浪山・白山や付近には安全山・先日の高見城山が、
弘浪山不動尊

眠そうに曇った空の下に姿を見せています。弘浪山を正面に進む車道右手には甲賀山と犬岡山(明治山)の小さな丘稜が見えています。 登山口近く・駐車予定地の柿柴東には地元の車で既にスペースなく、もう一つの下山予定地点に近い駐車位置に引返す。まだ下草も濡れているので雨具のままで出発(AM8:35)。 元禄3年(1690)銘”南無大悲観世音菩薩”碑の側から溝状の山道に入っていたが石碑は山道左に移され目前の小滝を見る岩側を廻る山道を進む。
北尾根からの弘浪山(中央) H18.02.25

簡易水道跡の旧参道は谷に沿って延び、右手の露岩を斜上すると岩壁下部の岩穴内部に弘浪山不動尊が祀られる。 もとに戻って荒れた旧参道を辿ると山門跡と思われる石積みからは以前谷を直上に詰めて高山寺跡へ出たが今回は連れがいるので余り勝手も出来ず左への山道を辿ります。 直ぐに瓦の破片も残る石積みを見て明瞭な山道を進みいつしか鞍部?(峠?)に着く。
柿柴ルート・高山寺も近い参道に遺る宝篋印塔の残欠

尾根を辿ったが鞍部を下れば数分で高山寺跡に出て黒田から登ってくる道に続く。今回は池田墓地公園に続く鎖の稜線に出てきます。三角点手前の最高地点から西に延びる尾根を辿って展望の拡がる地点で暫らく休憩(AM9:35)。前方のピークへは激降り登りだが次の白山展望台からは雄々しく見える岩を抱いたピークです。此処からは 東峰山〜長野奥へ周回するルートもある。引き返して最高地点から少し降った所に弘浪山(4等三角点520m AM9:50)がある。
高山寺:七堂伽藍跡地

北へ延びる長野や柿柴への尾根筋は左手一帯が池田墓地公園(創価学会)なので延々と鎖チェーンが続きます。しかし此処から続く道筋の暫らくは岩尾根の登り降りでミニ大峰(丹波・修験道)の風情です。覗き岩や展望岩・キレット10数mの岩場降り(鎖は境界用で錆びており捲く。上部の固定柱も安定していないので利用するには安全確認・要注意!!。 此の展望絶佳の岩場が「坊さん落し岩」(AM10:05〜10:15)。
「ぼうさん落としの岩」手前:西側はスッパリ切れ落ちています H13.9.8

安全山〜水山・竜ヶ岳〜篠ヶ峰・白山へと展望が拡がり,眼下の池田墓地公園は建ち並ぶ墓標が田園風景の様に見え、その奥に東峰山の尖峰が聳えている。蜘蛛の巣を払いながら下山が続き、墓地公園へ降りるのかと思ったが道は荒れた右手の植林帯に向かい 柿柴の墓地の西へ伸びる林道に出てきた(AM11:15)。安全山や秀麗富士型の水山を望みながら次の白山に向います。弘浪山登山コースとしては 北方の柿柴からのルートだけを紹介したが山頂まで眺望も効かない谷筋と植林帯のコース。路駐になる為避けているが県道109号からの黒田ルートが 案内道標完備・整備された登山道と展望の良さで推奨出来る尾根コースで山上・高山寺への参道。県道筋からも見える稜上の露岩帯に大雨の後に現れる二条程の”幻の滝”を見る。
弘浪山最高点西ピークからCa500m峰と白山-篠ヶ峰への稜線を望む

展望の岩尾根筋:岩場部に”盗人崩し<座頭崩し>”と呼ばれる場所があり昔:高山寺に押し入った盗人が捕らえられ、谷底へ投げ込まれたと云う。危険な程の急斜面を高山寺へ座頭も参詣していたかは…知らない。 ただ此処から高山寺跡へは 水平道が広い削平地形が奥へと拡がる仁王門跡の分岐標識へ続く。直進は数段の削平段を越えて 柿柴への下山コースだが尾根筋(峠)を弘浪山への登山口。
弘浪山南尾根の露岩帯”盗人崩し”

左の削平地は七堂伽藍の跡で 石垣積の堂宇跡には市指定(昭和60・6・28)天然記念物の大銀杏・西背後には歴代住職らの卵塔・石仏・宝篋印塔が並ぶ。昭和年代まで3-4列の卵塔群等墓地が他にも山中の谷奥・三方を囲まれた中にあり、 其処にも大きな銀杏が有ったが所在を憶えていず再訪は未。高山寺跡(Ca400m)から弘浪山山頂(4等三角点520m)へは寺跡を横切り比高120mを直上の厳しい急登最短ルートもあって山頂三角点前へ登り着く。


V「太平記」に登場の鎌倉期の山城 本郷黒田〜高山寺跡・弘浪山〜新郷 H14.06.02

現在の高山寺へは氷上町成松の常楽交差点を斜め左に直進すると高山寺の大きな看板を見て左折・安全山裾に向うと高山寺朱塗りの山門前に着く。山門からは正面に弘浪山を望み、元は此の山山頂近くにあったが昭和33年現在地に移設。弘浪山頂へは何度か登ったのに旧高山寺跡には未だ寄っていない。
黒田からの東尾根上に盗人崩し・鞍部に高山寺跡・左端に弘浪山

一般道は柿柴東墓地から旧参道を辿り山門跡と思われる石積みの残る地点から左上へ参道跡が通じており 峠状の尾根を少し降った所が旧高山寺跡で尾根を辿れば弘浪山頂です。以前この石積みの参道分岐から直接谷を詰めを登った時、歴代住職を祀る墓地があり14〜15程の墓石には明治xx年のものもあったと記憶しているが偶然見つけた墓地が何処だったか今となってはよく覚えていない。
高山寺・仁王門跡 H18.02.25

踏み跡は急斜な山腹と絶壁で囲まれた袋小路のようなところで消え暗く陰気な広場で少し奥の高台に2〜3の碑と古木がある。此処が寺跡だとばかり思っていたが今回は実際の旧高山寺跡に向かう。弘浪山高山寺は天平宝字5年(761)法道仙人開基の寺で 仁平3年(1153)に焼けたが俊乗坊重源(東大寺の再建でも有名)により再建された。 南北朝期荻野朝忠が此処に拠って寺を城砦化して幾度となく城として機能しては焼亡している。岩場が西北面や東南面を屏風のように側立たせる
伽藍の石垣が残る高山寺跡

峻険な様相の弘浪山は低山ですが登行欲を掻き立てるに充分です。付近に駐車スペースがないが田植えも終わった広い農道端に停めて出発です(PM1:30)。 海に浮ぶ船のように氷上盆地の水田に犬岡山五大山へ続く霧山・権現山・城山 ・向山連山・譲葉山 ・金山・高見城山が顔を覗かせてきます。 旧参道??!!の踏み跡は荒れた露岩帯を避けているのか何時とはなく消えてしまい藪のない露岩部を直上して急斜な深い東面の谷上に切立つ一つの岩壁の頭に到達すると(PM2:00)弘浪山山頂を望み、その鞍部に旧高山寺跡の場所が推察出来るが其処へは
旧高山寺跡の大銀杏

未だ岩屋根を過ぎ露岩の点在する山腹を捲くように谷よりに植林帯を進むと整地された何段もの湿気た平坦地が谷を挟んで点在し苔むした倒木を越えて進むと石積みや茶碗・瓦類も散見する旧高山寺跡(PM2:15)で思った以上に大きなお寺です。 谷の流れには立派な石造りの河岸設備が施され 隋道になっているところもあります。寺跡は植林された杉木で昼なを薄暗く静か過ぎる聖域です。 法道仙人開基を伝える寺なので本尊は十一面観音。その観音堂等、堂宇が立ち並んでいたと思われる一番広い平削地へは階段を伴った左右に石積みの残る場所があります。
高山寺跡に残る歴代住職卵塔群

この一角にある大きなイチョウの樹が目立ちます。麓の集落からも見えるといわれた弘浪山の大銀杏として (昭和60年6月28日)氷上町の指定を受けています。少し離れて五輪塔や墓石が立ち並び、樹木がなく木漏れ日を受けて其処だけが明るく浮かび上がってくる感じです。「大イチョウ」と白い札が掛かっている【十一面観世音回向銀杏樹】は兵庫県史跡名勝天然記念物調査で幹周:9.5m高:27.5mと報告されています。墓石群の背後から倒木を越えても行けるのですが大イチョウを挟んで右方向からホンの1頭足で 柿柴からの旧参道に合流する鞍部に出る。高山寺跡から下草薮の平坦地を抜け
”盗人崩し”から:左端に明治山/正面は霧山〜城山/右奥に向山連山

新郷(黒田)への尾根に取り付くルートは判り難く、同じコースのピストンでは面白くないので先行する赤テープを追って正面の谷に向って東に降っていきます。段々と谷に沿っての踏み跡は激降りに継ぐ激降りを 繰り返します。水量の少ない谷筋の滝は懸崖となって続く岩壁を伝い流れ落ちていきます。右岸に沿って捲き道を探しながらやっと谷入り口の広い場所に出てきたが 河原ではなく左右一面に平坦な杉林となって集落の民家裏まで拡がっています。
三原城から弘浪山(高山寺城)山塊

余りにこのコースの緩急の差が大きく、時間に追われて急ぎ下山した為に観察不足…最後に猪垣を開閉して民家裏から県道109号線に出てきた。新郷の旭光印刷・藍学園<学習熟>側、ロードミラーの設置されているところで北へ50m程進めば喫茶「モンロー27」。 弘浪山の高山寺跡の東面中腹に2〜3の岩壁が顔を覗かせています。往時に通った尾根筋や岩壁は確認できないが降りてきた谷筋のコースの険しさは想像出来ると思いますよ(PM3:10)。


W 柿柴〜高山寺跡〜弘浪山〜長野奥〜東峰山〜長野 2000年09月15日

白山の展望台からは山頂近くの稜線に岩を抱いた秀麗な山容が望まれる。上新庄の集落からは岩峰を屹立させる弘浪山から西に目を転じれば端正な姿で聳え立つ 東峰山への縦走は柿柴公民館から出発(9:40)。成松側からは鹿野橋を渡ればすぐ目立つINAX看板の垣内建材店前を左折高山寺参道の石標を見て正面のゲートの見える林道に直進すれば舗装も切れて墓地に着く(9:45)。
弘浪山高山寺(氷上町常楽)の紅葉 H22.11.14

墓地正面中央に南無阿見陀仏の大きな石碑があり右手奥には磐神神社が鎮座している。墓地左奥へ続く山道はすぐ谷沿いのコンクリート(水道溝?)跡を辿る。右手の谷分岐に不動尊が祠ってある。左俣谷に沿って道なりに進みかっての 繁栄を?偲ばれる南無大悲観世音菩薩の石碑を見る。(元禄3年3月の年号)右手に石畳の跡も遺るが、やがて急登と倒木で道は踏跡程度となる。 なをも急登が続いて此処に、かって寺への参道が有ったのかと疑問に思う頃、途中左から黒田(榊・シキミ屋から猪垣を経ての)コースと合って右手に平地が見え高山寺跡(10:25)へ着く。
弘浪山高山寺の紅葉 H15.11.15

高山寺跡境内とは別の場所?…寺跡への道?前後の急登とハッキリしない藪の道の間にも 歴代住職の卵塔が14〜15程2列に並んでいます。数段上にも2〜3の大きな石塔もある。柿柴の集落からも見える?という大イチョウの木は 後方段の石塔近くにあったような?余り長居出来る雰囲気の場所ではないのですッかり忘れていたが明治15年の新しい墓碑から寛文・正徳・延宝等の年号も見られ、 既に400年以前からの歴史が伺える。先のコースを少し戻り気味に寺跡の上方へ突き進んで稜線に出ます。高みに向かって軽い藪漕で関西池田記念墓地公園の境界沿い鎖のコースで最高地点より約30m程下った先端が弘浪山(520m)三角点。
弘浪山:柿柴コースの水道溝!?:右手岩場上に不動尊岩室祠あり

最高地点に戻ってコースを西北に進むが急激な岩場混じりの上り・下りは覚悟してください。展望の岩尾根下降点(11:15)から氷上ゴルフ場を隔て白山・点名赤井・笹ヶ峰への稜線・安全山の露岩の山肌から水山方面・岩屋山・五台山方面、 此れより辿る東峰山への稜線…岩場・岩尾根を辿りながら振りかえれば圧倒的なスケールの岩場を覗かせて弘浪山は丹波修験道の回峰風貌で迫る。道は明瞭だが蜘蛛の巣の攻撃凄まじく、また幾つものはっきりしないピークを越す長い長い尾根歩きを強いられるが随所に岩場の展望所・休憩所もあり飽きさせないコースでもある。東峰山への長い登り始めの長野奥 (オサノオク376m)はどこが頂部かわからず通過。
谷筋から尾根筋に向かう参道分岐点の山門?跡

東峰山は直下に露岩が目立つ急登で山頂にも岩を乗せているが展望はなく木々の間に竜ヶ岳からの尾根が見える程度。笹ヶ峰への縦走路は山頂からは見当たらない。すこし手前からのようだが展望・踏み跡もなく方向が定まらない。 東峰山山頂三角点(633m)鎖の境界尾根に沿って下る。すぐに三原方面への尾根と分かれると途端に藪っぽくなり鎖も藪の中に隠れたり切れていたり…半ば藪こぎ状態でピーク519mの岩場に登りつきます。展望は東峯山の陰で笹ヶ峰は見えないが休憩には最適の場所。立派な角の鹿(5〜6才)が横切り墓地公園側の藪に消えていきます。
氷上町稲畑・泉山砦取付き付近から望む弘浪山


これよりは辿ってきた弘波山〜東峰山の尾根を展望しながらの下りですが 随分荒れています。170m付近の峠?へ出る。左は大谷集落・鎖に沿って下るとすぐ長かった境界鎖の道と離れ長野集落へ出てきます。 池田記念墓地公園を結ぶ車道を離れ安全山方向に向かって集落内を歩き「伝統神楽の里長野」の看板を見て葛野川に沿い柿柴へ戻る(3:00)


X カタクリの里清住:達身寺から夏坂を経て城山(南郷城) H13.04.07

カタクリとコスモスの里:達身寺周辺の田畑の道はツクシや花を摘みながら散策を楽しむ行楽客で賑わうが少し離れると静かな山里の風景が拡がります。丹波の正倉院達身寺西国49薬師霊場(第25番)は行基開基を伝え本尊・阿弥陀如来を祀る曹洞宗のお寺です。山裾のクヌギ林の中に咲く兵庫では珍しい自生にカタクリ群生地で知られる清住の里は仏師の里でもあり快慶の出身説もあり・多くの仏師が ある時期此処に存住していた事実はこの寺の諸仏の特徴に在ります。
丹波の正倉院:達身寺

仏像の大半が一木造りの木彫仏で腹部が異常に大きく豊満な達身寺様式で平安・鎌倉時代の80余体の仏像のうち12体が国の重要文化財・県の文化財指定34体。一寺に一躯奉ればよいといわれる兜跋毘沙門天が16躯もあると云うこと・本尊仏になる仏像が多く・未完成の仏像があること等からも仏師の集団や工房があったとされています。 達身寺は僧兵を抱える山岳仏教の大寺院であったと伝えるが僧兵が保月城(黒井城)に加勢をした為、

中集落・葛野川上流から望む森山

信長の命を受けた明智光秀「丹波攻め」で寺は焼かれたが仏像を守ろうと僧侶達が山や谷へ運び出して難を逃れたが長い年月放置されていたため多くの寄木造りの仏像は壊れ破片化してしまう。仏像を集め破損していた達身堂を現在地に下ろし修復・仏像を安置しました。 目前に東山からの尾根南端の高見が森山でかつての南郷城祉です。僅かの時間で登れる丹波の正倉院・達身寺すぐ近 の森山(秋葉山 4等三角点324m)です。カタクリ花見学客の大半は車道や田畑のなかの道を達身寺にも寄っているようです。田んぼの土手でツクシや草花を摘んでいる子供や老女の姿も見かけるが 達身寺駐車場(PM1:35)からは今までとは逆に坂を登っていきます。
南郷城主曲輪と東面切岸(中央正面にサイレン塔)

坂の上・貯水池の上には休養施設で宿泊・お食事処の「やすら樹」と木工芸施設の「ときめ樹」二つの建物が並んでいます。此処から山側への道はない。東よりに少し下れば広場がありゲートのある林道が延びています。 この道は水山からの帰途に通った高井神社や 「ペンション・ヴァルト・スチューべ・モニカ」へ 出てくる道の筈。目指す森山へはもっと南に夏坂があるのでルートを探してみます。 東の端の道を寺から10分程で南に辿っていくと山へ向う林道に出会う。夏坂への正解ルートは右の道です。 10mと進まないうちに左への谷間に向って進むが登りに選ぶと踏み跡薄く・倒木が多くて分かりにくいが程なく古い峠への道が現れます。直進ルートも良く踏まれた道の様だが直ぐに消えた谷筋は
南郷城主郭西面切岸(帯曲輪から)

倒木と落葉の積もった急登だが比高僅かで東山との稜線に出るので藪でも何でも来い・強引に稜線に這い上がります。稜線には細い踏み跡が現れるが途切れ途切れのようで歩きやすそうな枝尾根を下ると夏坂か?・古いが広い(1m幅)道に出る。 30m程坂を登ると鞍部に着き左右から稜線を辿る尾根道が合流。堀切のような(堀切だったかも)鞍部の取り付きを1m程乗り越して南側の尾根に出ると展望の効かない平坦地だが一息入れるには良い夏坂峠(PM2:05)。急な登り坂もあるが此処からは立派な登山道が山頂まで続く。少し下って鞍部東側には竪堀の跡かとおもわれる凹部があり10分程で堀切・土橋の虎口を南郷城主郭 (森山<秋葉山>)ピークに着く。
西山〜方須張山稜線からの森山と弘浪山

主郭南側端にサイレン塔が見え数機の拡声器も備え付けられてる。その手前が森山山頂(324m 4等三角点 PM2:20)です。サイレン塔と左右を分けて南西側に数段の平地が見える。土塁で固められた曲輪跡のようです。三角点の近くには 「秋葉山三尺坊奥之院」の石標が建っていました。水山〜十九山〜カヤマチへの展望を期待していたのですが樹の間から水山〜十九山の影が僅かに存在位置を示しているだけです。山頂から先は踏み跡も無いように思えるので 夏坂峠へ(PM2:30)引き返し今度は達身寺側へ下り最後は先ほどの猪除けゲートに出て駐車場(PM2:50)に帰る。


成松商家群    氷上町成松

氷上町成松は京・摂津から篠山を経て朝来郡和田山(但馬)へと出雲(山陰)を結ぶ古代山陰道・但馬街道が通じ、 古来より物資の集散地として三・八の日には市が開かれ、氷上郡一の商業地として発展してきた名残を古い町並みが残り宿場町の風情さえ漂います。甲賀山南裾の愛宕神社例祭の愛宕祭は江戸時代中期・近郷で飢饉や大火が続き
甲賀山の麓・成松商家群と成松町道路元標(手前左)

これを憂えた有志により火難除けの神【京都・愛宕神社】の分社を設けて 鎮火と五穀豊穣を祈願したのを起源として毎年8月23‐24日に行われ氷上町随一の大祭として知られます。 佐治川縁での花火大会で賑わう成松愛宕祭では町内各所で展示される奉納の”造り物”が愛宕信仰により元禄年間(1688-1704)頃より引き継がれ 三百余年の伝統を誇るものといわれます。
愛宕祭の「造り物」・H20年の金賞作品:篤姫(天璋院)

ただ記録に残されれているのは古いもので明治24年以降…其の行事内容も不明と云う。この「造りもの」は其の材料には日用品の食器・金物・陶器や祝儀物の熨斗・扇子等用品を使用されるが一種類の材料だけを使って造られる伝統ある独特の「造り物」は年毎の話題性を加味し創意工夫して町単位に製作されます。商家群が建ち並び街道筋の面影を残す成松町内を散策しながら見て廻るのは楽しいものです。 京都や篠山の祇園祭でも祭りの日には、
祝儀物のお神酒・菰冠の顔、熨斗袋・扇子等で橋や松を表現

商家が自慢の屏風絵等を飾って見せる風習もありましたね…?例年制作テーマを決めるのに NHK連続ドラマが圧倒的に多く人気の様ですが昨年は話題性から「コウノトリの巣立ち」や「丹波竜」発見発掘があり其の作品が目立った。 今年(平成20年)は薩摩藩島津家から13代将軍徳川家定に嫁ぐが僅か1年10ヶ月程で家定は急死。天璋院を名乗った「篤姫」が目立ちます。



Y 鬼が担いできた小さな二つの山 甲賀山と犬岡山(明治山) 2000/10.16

甲賀山(高岡山)と明治山(犬岡山) 犬岡城は平地の集落や田園風景が拡がる氷上町の 中央部に忽然と急斜面の小さな独立丘陵が盛り上がっています。”たかをかに 群れいる人も 諸ともに代を契りし 若菜をぞ摘む”天仁元年(1108)鳥羽天皇の大嘗会で大江匡房が高岡山を詠んでいます。築城・城史は不明ですが戦国末期・西の波多野氏関連の砦だったのでしょうか?氷上・甲賀の士が此処に拠ったことから 甲賀山とも呼ばれる様です。
大護(おおもり)神社から甲賀山へ

山頂の貯水槽施設周囲を含め急斜な山腹の西面には大正3年(1914)ジグザグに山道が付けられた四国八十八ヶ所の霊場大師道の参道となる信仰の山としても親しまれています。安全山や弘浪山(高山寺城)から望む二つの山は霧海のなかにぽっかり小島のように浮かんで見え丹波のむかし話にも”鬼が運んできた山”として載せてあるのではないでしょうか?。
中井権次作:社殿下羽目部!の兎の彫刻

この辺り大昔は湿地帯で昔鬼が天秤で此処まで担いできた小さな二つの小山を泥田のため足が抜けず動けなくなり、諦めて島を置いていったという話。 鬼は何に使う心算だったんでしょうか?。甲賀山は甲賀地方(滋賀)の武士が築いた城があったと云い、犬岡山は柏原藩(後期)織田家が最初に此の独立低丘陵上に陣屋を構えるべく視察したが諦め・場所を柏原に移したと云う。(下記:犬岡城を参照)

甲賀山(高岡山)170m===>成松商店街へ入って氷上町商工会館の駐車場を借ります。車道を挟んで山側が甲賀山(高岡山)公園で中央の忠魂碑の右から九十九折の道が左の遊戯機の所からは山頂まで 真っ直ぐのコンクリート階段が続きます。西宮神社から明治23年(1890)分霊を迎え祀った蛭子(えびす)神社の西に立派な鳥居と大きな狛犬が立つ石段上には 城の石垣と思えるほどの重厚な石積み白壁の内には平成元年9月に指定された氷上町指定文化財の大護(おおもり)神社社殿があり天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)を祀るが創建時期は不明です。 元禄12年(1699)の再建/天保9年(1838)京都の長谷川佐多郎(棟梁)と柏原の彫刻師中井権次(橘)正貞により改築されています 【中井権治<言次>の名は代々子孫が継いで権次正次・権次正胤と続く】)の手になる社殿全 体の細部に施された欄間の透彫り・向拝(ごはい)紅梁に配された篭彫り・向拝水引紅梁には蟇股を入れずに老松の透彫りを全面に充当し屋根は 入母屋造で軒先が出唐破風となり獅子面の彫刻が・天井には躍動的な龍の彫刻が施されている。本殿脇障子の唐獅子の彫刻も見事です。新井神社の木彫りの猿の他にも 丹波の社寺を探せば中井権次の彫刻は見られます。山頂は氷上町中央水道排水池で周囲に成松八十八ヶ所めぐり(観音・薬師・不動尊)の像がずらりと取り囲んでいます。一段高いところにライオンズクラブ寄贈のミュージックチャイムが設置され ています。西側(商店街側)に二本の山道があり四国八十八ヶ所ミニ霊場の大師道には石仏の祠が 参道の設置されています。 昼食と休憩に近くの職場の人たちが利用しているようです。
甲賀山宗蓮寺(曹洞宗)の背後は甲賀山

弘浪山の絶好の展望地と思えたが期待出来ない。夏の川裾祭りの花火大会の展望所には良さそうです。愛宕祭りは商店街での地区毎の造り物も見逃せない。東に向かっては草に隠れるように利用者もないベンチが設置されており霧山城がひときわ大きく見えてくる。 …甲賀山裾を東へ採ると氷上中学校にでる。グラウンドの先に佐治川 (現在は佐治川も加古川です)の堤防兼車道が通じ京橋に着きます。聳え立つ霧山の姿ばかりが目につくが橋の西側に古代ギリシャの神殿を思わせ・外観は総花崗岩積みの建物がある。 当時氷上町立植野記念美術館で収蔵品の大半は植野藤次郎氏個人のコレクションから寄付を受けたものといわれ、中国絵画や中国景徳鎮の磁器等を中心に
パプア・ニューギニアの民芸品(土器や布)や コンテンポラリィ・アートなどと幅広く蒐集されているようです。美術館近くには赤レンガの風情ある洋館・植野物産商会の建物があり、此処を氷上町なり丹波市発足後の地域開発・観光の発信基地として、丹波市文化文教地区として残す等、 発展的な展開がされないものかと期待していたが何時の間にか消滅・更地になっていた。


犬岡城 高山寺城 成松城南郷城 丸山城 下新庄城 常楽砦 長野城 三原城

犬岡城  明治山153m(4等3角点) *城跡か・古戦場か?まぼろしの柏原藩織田家邸

成松の南東外れ・霧山を望みながら葛野川に架かる正尺橋を渡り犬岡地区の愛宕社へ向かう入口の左右は掘跡の様?。葛野川と佐治川(現・加古川)に挟まれた 田園の中の極小独立丘陵だが尾根上には古墳があり山城跡でもあったよう?。古城への切通し道・空堀跡にも見えるところもある。
犬岡橋からの犬岡山(明治山)

【古墳】明治山石棺古墳は昭和44年6月国土地理院の三角点設置の際発見されたが県教委による詳しい調査はできていない。箱式石棺で中には人骨の一部(女性…!!)がある頭骸骨は砕けていた…副葬品は 長さ11pほどの鉈(槍鉋らしい)1本のみが発見されたとあり盗掘に遭ったものか?…時代は明確でないが古墳時代中期末か後期の6世紀頃(500年代)のものとされる…。
<甲賀山から犬岡山(明治山)を望む

犬岡(いぬか)城へは現在;地元犬岡地区により案内標識完備の 「犬岡子ども会:里山の道」ルートが西中の箱森稲荷神社・西端の愛宕神社・南中の大歳神社・南東の普門寺からの4ルートが整備されているが 丘陵南東の普門寺ルートか丘陵西端の犬岡愛宕神社ルートが取付き点も分かり易い。犬岡愛宕神社コースの登り始め・燈籠左手前に立って入れる程の抗道が黒い口を開けている。一個人の手により長期間掘鑿された防空壕で
箱森稲荷神社・中央立木後ろに箱籠岩

朝鮮式?古墳の様に5m程奥で左右に延びるT字型。丹波では少ない戦争遺跡だが幸いなことに一度も使用されなかった様。また右手(南)民家直ぐ上までの平坦地形・民家側に一文字土塁状があり、城址なら居館跡とも推定するが…?。直ぐ上部稜上西端峰に愛宕社が祀られるが、背後(西)の削り残し土塁状は物見櫓台か?。東へ向かう鞍部の先が城山(主郭)で3−4段程の平坦段(小曲輪)も?。 其の山頂部は地元案内板に城山とある。
普門寺背後:残置ベンチの在る展望所後

城山から最高地点の明治山(153m)古墳のある4等三角点までの尾根筋の大歳神社下山分岐の近くに展望台がある。…とはいえ現状では樹の間越しに・僅かに北正面に甲賀山・丹波市役所・北東に霧山の山影がちらっと望めるのが精一杯。普門寺背後の2-3曲輪?を経て尾根筋に出て右手上方に明治山山頂古墳をみて山頂直ぐ東下部の緩斜面には残置ベンチがあり・嘗て展望休憩所だったらしい形跡を残す。 普門寺を真下に見る南側一段下に帯曲輪状・更に
明治山古墳と三角点標石

東下方の急斜面手前・尾根最東端部にも曲輪状?(眼下は佐治川を望む)はある。北へは6-7m程の切岸状と急斜面の短い枝尾根を下ると箱森稲荷神社東端に降り立つ。 西寄りは社が見えるが断崖上で高さ7m程の箱籠岩もある。「丹波志」(旧:氷上・多紀・天田版)以外に知り得る資料も少なく、此の丹波志や兵庫県埋蔵文化財保護の行政地区マップに古墳・城砦遺構としても載せられていない。
城山から愛宕山への西尾根上曲輪!?

築城事由や其の時期・城主や等の詳細は一切不明。松井久後兵衛・鑑内氏なる人物の居城だったとも云われるが時代的には豊臣秀吉の時代の人物で朝鮮出兵に参戦しているが?、城遺構とすれば中世末期の築城とも思えず、 また領主であったか?、どのような勢力であったかも不明。【天正年中:久後兵衛次郎秀安の城山・兵衛に女子一人あり…播磨野村(西脇市)の落ちて 松井権右衛門と改め…との記述を収集するが古文書等からの史実・真意は不知】近隣には勝田勘八郎の成松城・赤井氏の後屋城・
城山東切岸下部の土塁・空堀

南北朝期に度々篭城戦となった高山寺城や南郷城…等赤井・荻野氏配下の城砦だったのかも。氷上盆地の平野の中に在って比高僅か2〜30mではあっても周囲は二つの川に挟まれて洪水で河川が決壊すると湖のようになり、鬼伝説の様に泥田の中の舟の様な丘陵は要害だったのでしょう。南北朝期に宮将軍陸良親王を護って 葛野庄の本庄平太らが戦い「応仁の乱には
犬岡城東面切岸

但馬の太田垣らが攻めて来て 一時は占領したこともある古戦場?。普門寺からの登山口の祠内に”久後兵衛xxx守”を祀る石碑があった。柏原藩は織田信長の弟:信包(伊勢国津城主)が慶長3年(1598)丹波三郡 (丹波<丹波市>・天田<福知山市>・何鹿<綾部市>)36,000石で国替で移り立藩した藩祖<前期織田家>。 其後45年間の天領(幕府直轄領)を経て後期織田家の近江守信休が元禄8年(1695)家禄を20,000石に減封され大和宇陀郡松山城から転封。嘗ての織田家も藩邸は建てられず、
犬岡愛宕神社

井尻屋(土田)文七や亀屋(田)忠助の屋敷を借り仮藩邸としていた。信休はいつまでも仮住まいというわけにもいかず、いずれ藩邸を建てる領内の適地を視察していた。氷上郡(現・丹波市)のほぼ中央部に位置する犬岡山付近 は、家臣からも宇陀の松山城を思い起させる所として有望視されていたが、二つの川の氾濫に湖化した犬岡山周辺の様子を見て諦められたとか。 柏原藩邸建築の許可は移封後19年・ようやく幕府の許可を得て正徳3年(1713)造営しされ翌・正徳4年 (1714)完成しています。
普門寺の登山口にある「久後兵衛守」石碑

明治山(犬岡山)山上には愛宕山を祀り・犬岡山の「犬」の名からは前期柏原藩織田家・信包の筆頭家老の佐治(譽九郎)一成の母(織田信長の娘で、 父信方の夫人)でもあり、佐治川の名も:尾張佐治氏(因幡国八上郡佐治郷)に起因するのでは…?。また北方には甲賀山があり、此方は近江国甲賀郡佐治庄の佐治氏…?とも思ったが時代的にも遡る様?で考え過ぎ!!。 足立氏族の佐治氏【旧丹波国佐治郷】なら佐治川も此の氷上町北方上流にある。


高山寺城
 弘浪山 520m(山頂近くの鞍部 Ca460m) 氷上町柿柴・沼貫

常楽の安全山山麓高山寺の山門に立つと正面に弘浪山を望みます。 寺は昭和33年(1957)4月現在の地(常楽)に移築されたが、今も歴代住職の卵塔が並ぶ高山寺跡があり南北朝期以降;城郭化され幾度も戦いの場となり 其の都度焼かれ再建されてきた。元は弘浪山山頂近くに天平宝字5年(761)法道仙人開基を伝える真言宗:高山寺がありました。
弘浪山高山寺:伽藍跡(大銀杏側)に並ぶ卵塔群

葛野地区の内尾神社(丹治大明神)の別当で、神社を建立した法道仙人が霊夢による観音のお告げで山中に霊地を発見して堂宇を建てたのが始まりとされます。 しかし戦乱や天災により焼失・再興を繰り返す不遇に見舞われます。仁平3年(1153)の源平の兵乱【保元・平治の乱】により焼失したが平安時代末期の文治5年(1189)源頼朝の勅願により東大寺再建で有名な俊乗坊重源上人 (重源は丹波でも2ヶ寺を復興している)命じて再興された古刹。
旧高山寺跡の石垣

内尾神社の別当で信仰の寺として栄えたが建保・承久年間(1213-21)関東から承久の乱等の戦功により新補地:葛野庄地頭職を得て荻野一族が来住。 南北朝期には要害の地に在る寺は全山が城郭化され、籠る南朝方土豪らにより足利高氏軍と2度・3度にわたる交戦に焼かれます。葛野庄地頭で丹波守護仁木ョ章の信認篤かったものか?建武年代:丹波守護代を務めた荻野尾張守朝忠(ともただ)は 赤井為家(和田範長??)の次男(幼名を彦六)として新郷に生まれ、
現在の弘浪山高山寺H19.11.21

荻野姓を名乗り荻野一党の先祖とも云われ !!?高山寺を城塁とし丹後・若狭にも勢力を張っていて夜久野には龍ヶ城があり 山麓の神通寺円満院は福知山の伏見山(ぶくみやま)<富久貴山>山上にあった旧長勝寺【聖武天皇の命による行基菩薩開基の寺】の観世音菩薩像を移して建立しています。 元弘3年(正慶2_1333)後醍醐天皇が船上山の挙兵した際には参陣し千種(源)忠顕に従って幕府軍と戦い六波羅を攻めたが京都で破れ荻野・児島 ・本庄氏等敗軍約3000を集めて高山寺城に拠った。以来城砦となったことは「太平記」にも記述されています。その後足利尊氏が丹波国桑田郡篠村に入ると 久下(「一番」旗の逸話で有名)・長澤・山内・葦田・余田・酒井・波賀野・小山・波々伯部等の 近隣武士らは一人残らず足利尊氏の旗の下に馳せ参じてきたので篠村に布陣の足利軍の兵力は一気に23,000余にまで膨張した。
其処此処に遺る石垣・石積みと「観世音回向大銀杏」

荻野朝忠は・たまたま尊氏を恨む事があって葦田・余田等と行動を共にすることを 快しとせず児島高徳から反足利連合軍の結成を持ち掛けられ誘いに乗った足立・和田・位田・本庄・小島らと丹波から若狭へ出て北陸道から京都に攻め入ったが尊氏が反旗を翻すに及んで仁木頼章を将として推し此れに従った後その勢力を張ってきた。荻野朝忠は児島高徳と結び脇屋義治を迎え・日を期して事を挙げようと高山寺城に拠ったが計画は幕府に漏れてしまった。
高山寺跡の石積配水路!?

足利尊氏は山名時氏に命じ3000余騎を率いて丹波へ押し寄せてきた。時氏は俄かに此れを攻めることの困難を知って高山寺山麓を包囲し荻野側に対し兵糧攻めをかけた。荻野朝忠は遂に城を出て降り尊氏に帰属します。康永2年(1343)高氏に叛いた朝忠の責任をとって辞任した仁木氏から 山名時氏が守護・守護代は荻野朝忠から山名の臣:小林左京亮国範に代わる。 守護:時氏のもとで小林氏の後(観応1-2年)僅か1年程だが玉巻城の久下ョ直が守護代となっている。
仁王門跡付近柿柴コース側の土塁?と段曲輪五輪塔・宝篋印塔

その後朝忠は正平3年(貞和4_1348)高師直に従って出陣し四條畷の合戦に 楠木正行軍と戦い功を立て文和2年(正平8_1353)九州で挙兵した足利直冬に呼応し京都に入って足利義詮(尊氏の子)を攻め敗走させるが山名時氏との再戦に大敗して丹波へ敗走しています。建武中興なった延元元年 (建武4_1336)仁木頼章が丹波守護となって高山寺城郭を修復して以来・山悉く城塁となり、その後も南北両軍が互いに占領したところです。 為に住僧は四散して法道仙人開基の名刹で真言宗御室派の高山寺も荒廃に帰していたが永正6年(1509)後屋城主 赤井伊賀守忠家によって修復・
高山寺跡の高石垣

再興され寺運は再び栄えて法灯が輝き出します。しかし元亀・天正年間(1570-91)明智の丹波攻めの兵火に焼失。 今に遺る伽藍跡は慶長5年(1600)田路村上田家の協力を得て 宮崎の僧:関長上人が再興するが享保9年(1724)と安永3年(1774)にと度重なる火災で本堂、仁王門を残して寺坊を焼失。5年後には復興したが厳しい山上への参詣者は少なくなり昭和9年(1934)室戸台風による大被害もあって昭和33年(1958)常楽の地に弘浪山高山寺(真言宗大覚寺派)が移築された。高山寺の梵鐘は柏原八幡神社に残されているが天正期の丹波黒井攻めで神社は焼かれ、 光秀の本陣とした際・徴収され鋳潰されるところを
”盗人崩し”から赤井野(右端中央木陰部に後屋城が在った)

八幡神社の別当が守ったといいます。高山寺城は元亀・天正の初め、最後の城主は波多野氏一族の大舘左近将監氏忠で黒井城主・荻野直正に与して丹波攻めの明智軍に抗した雄将で後屋城・高見城・穂壷等諸城と連繋しながら戦っています。 天正3年(1575)城主氏忠が多紀郡(篠山市)に出陣中、僅かの守兵を残しての虚を突かれて光秀軍に攻められたといわれます。

【現地高山寺跡地の案内板を参照 町誌・郡誌や資料等によって年表が一致しないが参考に・・】


成松城(上ゲ成松城) xxxm 氷上町上成松

成松城と西念寺(成松区):赤井氏の祖・荻野為家が白山の麓に住んで赤井姓を称した 後谷城(後屋城)を通り高山寺城のあった弘浪山の北東山麓に向かう県道109号は葛野(かどの)川に架かる成松橋を渡ると川に沿って大きく左へ廻り込むように迂回して進みます。直進する甲賀山の麓に建ち並ぶ成松商店街内の狭い道を抜けると高山寺(元は弘浪山頂にあった高山寺は常楽に移転している)への入口で、 先程の県道と合流して青垣方面へ抜けて行きます。
西念寺の鐘楼門と大銀杏

目的の成松城は実は此の成松橋南詰め西側に位置して居城の遺構は無く跡地は旧字名と一部に雰囲気を残すが、葛野川を渡った成松市街地の西向山西念寺(浄土宗鎮西派)には成松城主勝田勘八郎の墓があると云い立寄ってみる。 享禄年間(1528-32)第7代祖感和尚の時代に植えられたと云われる大銀杏と重厚鐘楼門の西念寺は元は西へ約4.5kmの三原(篠ヶ峰東山腹)にあって、山の採掘が盛んだった頃は鉱山師達の仏事を司っていたが天正元年(1573)越後国柏崎笈念和尚が巡錫の際・和尚の高徳に帰依する人多く、田畑の寄進を受けて三原より現在地に移されたといいます。 寺内の石塔は姫路の本多家の井上氏の墓所で上ゲ成松城主
柿柴側から幻の氷上城(霧山)と成松城西端部?

勝田勘八郎と姻戚にあったが姫路に帰参して本多家に仕えた。本堂西横に並ぶ古い墓石の中に成松城主勝田勘八郎の墓碑もあるの?戒名も知らず探索は中止。葛野川に架かる成松橋へ戻って上ゲの集落に入る。 細い地区内の西端、山裾に突き当たる辺りの柿柴地区も昔は”上ゲ成松”だったと聞いており弘浪山への柿柴コースの登山口で山頂付近の鞍部には高山寺城が在り、 その高山寺への参道があった所です。成松橋から柿柴に向かう途中・今は宅地と田園地帯になっている約120m四方の僅かに高い?位置が城域であったといわれます。
字名とうりの”城の堤”田畑と民家が城域で左手が正玄屋敷付近?

平城の少ない丹波なので戦国期・明智勢の「丹波侵攻」に此処で応戦した城が在った事が想像も出来ない程・水田地帯と田畑に民家が点在する位置にあります。四方を堀で囲まれた上ゲ成松城があって成松橋からは 旧字名の”古市場”が葛野川と県道筋側に、城の縄張り内には”城の堤・東堀・正玄屋敷、中地”や城域外に”荒堀・大門・垣端・南屋敷”等の字名がみえます。此処から東を望むと西波多野氏?の霧山城の麓に京口(植野美術館がある)があり佐治川(現・加古川)が流れ、葛野川が流れ出る付近・本郷は江戸期に加古川水運の船座があった。丹波の地に忽然と現われた波多野氏と共に 「氷上郡誌」には蘆田氏から南北朝期に分家したとされる荻野氏ですが、
上ゲ成松城:左端は土橋を挟んだ濠跡か?

相模国愛甲郡荻野に住んだ荻野氏が「承久の乱」に功あって新補地領に葛野荘を賜って来住した尾張守定朝(荻野右衛門=朝忠)がその祖と思われますが足利尊氏につき ・又一時は尊氏に抗して高山寺城に籠ったり、丹波守護代ともなった朝忠の行動とはうらはらに、その人物像は丹波の霧につつまれ謎が多い。成松の地が 延喜式山陰道の要衝で但馬国境・丹波最北部、佐治駅から成松にかけては氷上郡内の商業の中心として栄えたところです。水田地帯は沼地となるので上ゲ成松城も四方を土塁で囲み、葛野川の水を取り込んで現・水田地帯を沼地として要害とした 掻き揚げの方形館だったのでしょう?
上ゲ成松城

溝も川もない一直線の堤は柿柴地区まで延びているので上記画像で農耕用の赤いコンバインが入っている辺りまでが城域だったのか?。宅地・田圃の整備開拓で遺構は消え、上ゲ地区への東入口の地蔵尊の祠や公民館付近の僅かな高みや側溝、 南側の畑地と民家付近の谷間に堀跡のイメージを重ね想像するだけ。要衝・山陰道にあって郡内(丹波市)の商業中心地、市場も栄え其の警護・監視の城砦として、室町期には荻野氏配下の城として此処に築造された平城。上ゲ成松城や犬岡山にも?(伝承や未調査で城遺構の報告はないが成松の商業地南口を監視する位置に在って古戦場ともなったが頂部の古墳墳丘を利用した)砦があったのかも。
上ゲ成松城の南方:キリシマツツジで知られる一宮神社

成松城主勝田勘八郎も荻野(赤井)氏配下となり天正7年(1579)5月「丹波攻め」明智光秀軍の猛攻に討死したといいます。主城の黒井城周辺を明智光秀が攻め、加古川沿い”氷上回廊”の城砦群は播磨から駆けつけた丹羽長秀の援軍が、 また若狭方面から羽柴秀長が援軍として攻め遠阪城・小室城・栗住野城等の諸城を落とし後屋城・成松城を落として合流した長秀・秀長の連合軍が穂壷城等へ総攻撃をかけて迫っていったのでしょうか!。
(成松町史・氷上町史等を参照)


南郷城 (森山城・長屋城・長尾城・新庄城)  森山(秋葉山)324m  氷上町上新庄・下新庄

「丹波志」によると鎌倉時代・平(平野か?)対馬守正国の嫡子・馬頭が平氏の姓をはばかって本庄氏と改め「平」をその名に冠して本庄平馬頭正景と称して保元の(1156〜59)始め頃、この地の領主を攻めて森山の尾根上に南郷城(長尾城・*長屋城・森山城)を築いたと伝えられるが、また寿永3年(1184)平家一門が一の谷の戦いで源義経の軍に敗れてからは落陽の運命にあったが 平氏(平野氏か?後に本庄氏 )は今までの功によって、
南郷城主郭:西面帯曲輪側の切岸(中央にサイレン塔)

征夷大将軍源頼朝から葛野庄を賜りその子・平次郎正景、その孫・平次(三?)郎右京亮正家と代々この地を領したとも。建保の頃(1213〜19)から豪族荻野氏と戦いを交え、その領有を争ったが後に和睦して各々分領したといいます。 森山(4等三角点324m)山頂部に 35X25m規模の削平地を主郭として西面から南面に掛けて二段の帯曲輪と腰曲輪・主曲輪南下から南尾根側に2段ばかりの曲輪がある。森山三角点峰は”秋葉山三尺坊奥の院”の石標があって地元では秋葉山が馴染みの山名の様です。山頂が奥の院なので東山麓の天満神社が秋葉社元来の場所か天満神社境内に遷移・合祀されているのかは知らないが…。
南郷城:北尾根から空堀状・上り土塁を主郭に入る

緩やかな南尾根筋端にも二段程の低い段差の平坦地形がある。樹木の間からは成松〜清住を結ぶ街道筋を足元に望まれる。主郭からの緩斜面に何もないだろうと思っていた。此の曲輪から南東下へは傾斜も急となる。 しかも東面には尾根近くから長い竪堀が落ちる。堀切・竪堀のない古い時代の城と思っていたが東斜面下方の遊歩道?(林道)を越えて落ちる長大な竪堀もある。 堀部を越える歩道が、ここ何年も自然の谷筋として決壊されることもなく損傷が無いのは自然の溝ではない!!?と思われる。しかも長い溝(竪堀)は未確認ながら南郷城主郭北端付近に達しているようです。
南郷城:帯曲輪から主郭のサイレン塔を見る

北の尾根筋にみる切岸高い小曲輪を捲くように斜上する虎口を抜け、更にそのまま続いて上り土塁虎口となり、空堀の端の土橋状を主郭に入る。主郭東斜面を粗一直線に落ちる長い竪堀状(未確認)が 遊歩林道で見掛けた竪堀状に繋がるものか!!。帯曲輪・腰曲輪をもち、無いと思っていた竪堀状遺構からみても時代は更に下って中世末期頃まで長期使用されてきたものでしょう。南側からの直登は急なので登路はあっても中腹からは 北へ廻りこむ事になりそうです。以前は達身寺側の西面から、以後は東面の西小学校側・天満神社から登山遊歩道整備工事中らしい道が利用できる。 どちらのコースも城跡下部で合流する。
空堀端の土橋状上り土塁虎口を主郭に入る

(この項:当初レポートのまま…)防禦施設が強固と云う事もなく切岸加工された曲輪段以外に遺構らしいものを見ない。ただ登山・遊歩道は城跡の在る森山中腹を捲いてカタクリの花やコスモスの清住や達身寺へ延長中(道路は捲き道最高地点?付近で中断)らしいが歩道途中から城跡への尾根筋までも木の階段等で整備されている。城への尾根筋は未整備だが丹波市でも未だ城跡意識の浅い、 知られざる山城だけに遺構保存に留意して欲しいものです。
南郷城:主曲輪近くから落ちる長い竪堀?

山頂に残されているサイレン塔の復旧と単に山頂部を削平しての公園化だけは避けてもらいたいものです。正平7年(1352)頃は赤松師則祐に属した本庄平太・平三兄弟:先祖の右馬介平忠正は氷上郡葛野庄を領し本庄の森山に拠る。本庄氏兄弟は一族を率いて久下・荻野・足立・余田・小島等と共に氷上郡の豪族として上新庄に本拠を定めて、葛野庄総社の内尾神社の別当である高山寺城(弘浪山)を 陣営として時には南朝として又北朝の何れかに属して戦いを続け繁栄を続けたが
南郷城:南尾根先の二段曲輪(見張り所!?)

荻野・赤井氏の勃興と共に衰退を続ける。文亀年間(1501-04)城主は 本庄長尾で城名に残ります。天正年間(1573-91)本庄平馬頭(兵庫頭!?)正桓は 八上城主・波多野秀治に付いていたため明智光秀に攻められ落城し自刃しています。其の子兵庫頭は豊臣方に付き大坂の役に出陣したが戦死したと云う。 豪族・本庄の流れは今もこの地に残っており南麓には平次郎正景・平次郎正家の墓碑がありその子孫が建てた経塚もあると云う(未訪)。
南郷城南尾根先ピークの曲輪側の竪堀

森山(南郷城)再訪:森山へ丘陵東からの登山コースは二箇所。一つは「森山登山東側コース」で山頂まで約1km:氷上町西小学校の西北角に鎮まる天満神社 【境内に内尾神社・広高稲荷神社・秋葉大明神・若宮神社・高井神社・山之神が合祀されている】背後から、もう一つは神社の先から車輌幅の林道が延びており、共に猪鹿避けゲートを開閉して林道を進む。遊歩道として整備中の様で 広い登山道は森山(秋葉山)山頂近く(7合目付近)で双方の山道が合流し、木階段の山道は山腹を廻り込んで城址へ続く。この先・西山麓の清住に下っていく。
柿芝側の葛野川沿いから森山城遠望

山上の錆びたサイレン塔のサイレンも音響を長年閉ざしているが再び活躍の場を得て氷上町西部に響き渡る事でしょう。此処は知る人も少ないのでしょうが山城でサイレン塔の建つ主曲輪付近には曲輪・帯曲輪等の遺構が残ります。 文化財指定を受けていなくとも地元の貴重な文化遺産です。城跡公園としてのより良き整備計画の推進に期待したいですね。


丸山城と下新庄城(内山砦)<仮称>
丸山城
 xxx Ca100m   丹波市氷上町下新庄・常楽

佐治川右岸の県道109号沿い白山の麓・赤井氏発祥地の新郷【赤井氏の祖・荻野為家が此処に居を構えて 赤井姓を名乗った荻野 (赤井)氏発祥の地で黒井城主:赤鬼の異名で知られた赤井直正生誕の後谷城(後屋城)が在ったところ】新郷の後屋城や 弘浪山(高山寺城)【南朝方として
安全山への林道ゲート道から望む丸山城(末端の丸い森)

荻野朝忠(山名氏のもと丹波守護代ともなった)が児島高徳等と高山寺を城郭化して籠もった】の東麓を抜け、嘗ては氷上郡(丹波市)の中心地:氷上町成松に入ってくる。葛野(かどの)川に架かる成松橋を渡る手前の集落内を 左方約200m程進むと田圃となっているが平城の成松城(上ヶ成松城)の跡。落城時には黒井城:赤井直正配下に在った城主勝田勘八郎がいたが 織田信長の「丹波攻略」により 天正7年(1579)5月・明智光秀軍の猛攻に討死したといいます。此の成松城の真北約1.2kmには一寸変わった山名の安全山(点名:絹山)がある。
丸山城山頂:10uの平坦地:こう藪では何が何だか判らない?


山上へ通じる林道が丸山城の左を抜けて 林道ゲートに向かう。丸山城は砦かどうかさえ細不明ながら分布地図には位置標示されている。兵庫県の埋蔵文化財行政地区マップにはコメントに 「砦か?…」一切城史不明ながら丸山城と記されている。安全山への林道に入っていく山裾を縫って深い溝谷が流れていく。城域の南面を囲む濠・山?低けれど…と期待して山麓東側の車道から入ってみる。鹿猪避けフエンス沿いの山側は藪 ・山頂部は倒木と鬱蒼とした 下草の蔽われ状況は判らないが10m四方の方形平坦地が一つあるだけです。
高山寺に向う安全山南山麓への林道?からの丸山城(比高20m弱)

斜面は急斜でもなく平坦地は曲輪を意識できる程の切岸・段差もなく?遺構?と思えるものは他になく城とも・居館とも呼べるものもない?。旧山陰道・佐治宿に向かう街道を監視するには距離は近いが見通しの効く砦でも無さそうです。 成松城の真北に位置し成松城の死角となる南方を正面に監視を補佐するなら東600m程の位置にある185m峰の方が 遥かに眺望監視には有利・佐治川(現:加古川)沿いに氷上盆地の中央を一望出来る。丸山城(砦)は荻野氏が「承久の乱」に功あって新補地領に葛野荘を賜って来住した
下新庄交差点と正面に城山下新庄城

尾張守定朝(荻野右衛門=荻野朝忠か?)の領有地葛野荘を監視する砦か?。また成松市内の西念寺は銅の採掘が盛んだった頃は葛野川の上流・三原地区にあって 鉱山師達の仏事を司っていたといわれます。葛野川の搬出路出口付近に位置して鉱石管理の代官所だったのかも?安全山から南へ派生する尾根の 399m峰から別れて東南へと延び出す尾根の末端部が落ち込む先に比高僅か15m程だが僅かに盛り上がり、富士型の美しい姿を見せる半独立丘陵状の小さな峰が有る。
下新庄城主郭西腰曲輪の足下より切れ落ちる採石場?跡

丸山城のある常楽交差点から西約400m程の 下新庄交差点側には下新庄城<仮称>があり更に西方:三原の中程・上新庄には此処を本拠とした土豪本庄氏の南郷城(長尾城)がある。 ほんの一時期・多紀郡(篠山市)八上城主:波多野氏が氷上郡(丹波市)をも勢力下とした頃、其の傘下に入ったともされるが、いずれにしても明智の「丹波攻め」に落城したが葛野荘の南郷城への東玄関口に位置して、 其の出曲輪としてまた見張台「知らせの城」として任にあたっていたのかも・・・!!?

下新庄城(内山砦)<仮称>   内山 ? Ca140m   丹波市氷上町下新庄

R175号線「稲継」交差点から直進する県道7号線氷上北」三叉路交差点を左折して直進しても高山寺近く 安全山南麓の「常楽」交差点に出る。 常楽交差点の西北・安全山へ向かう林道東側に上記の丸山城(城砦かどうかも不明?)が在るが山域の西方(丸山城の西約400m程)には北方から南へ延び出した丘陵先端が富士型の姿を見せる小さな峰が在る。
最下段の帯曲輪から大歳大明神を祀る主郭切岸と、腰曲輪

清住の達身寺(丹波の正倉院)を目指して常楽交差点で左折するか手前の郵便局・警察派出所側の交差点を左折し県道78号線(旧・篠ヶ峰を越えて多可郡丹治へ通じていた林道だが、 道路決壊で内尾神社付近までは入れるが‥)の下新庄交差点。北側目前に迫る丘陵上が城址!?で農耕作業倉庫?脇から急斜面を辿り山上の祠まで参道が続く。
主郭西下の腰曲輪端から切れ落ちる採石場?跡

所在地は市町別地図にも空白地帯で山名や字名もない空白地帯、地籍図・字限地図等で確認する術もなく、 住所範囲内の氷上町下新庄にあって下新庄城<仮称>か主郭の山頂部には露岩をも削平された平坦地に大歳大明神が祀られるが山麓:下新庄字内山の大歳神社に遷移されている元の社が奥社として祀られている存在と推察して内山砦?<仮称>としておきます。

主郭東側切岸下:帯曲輪は細い犬走り状となり北尾根筋に延びる

街道筋の常楽にある丸山城からは約400m程の距離にあり丸山城の現状から比較すれば格段に城砦遺構を遺していると思われます。安全山に向かう 谷を挟む西方の丘陵277mピークから南へ延び出す尾根が南端で半独立状に盛り上がり、高差30m程を一気に下新庄の県道78号線側に落とす。此の下新庄城<仮称>は丘陵尾根沿い
主郭北西 :藪の斜面足下に竪堀がほぼ平行に二本落ちる

東山麓に下新庄古墳群の点在が示されるが、 それ以外・周辺に遺構の記述を示す記号や標示はない。しかし成松城とは佐治川(現:加古川)河口に近い葛野川を挟んで丸山城(砦)と共に成松から佐冶へ向かう街道の宿場町と佐治川の京口(霧山の西山麓)から甲賀山と明治山の間を葛野川沿いに侵入して来る、森山(南郷)城への東口を監視する位置にあり、弘浪山(高山寺城)から北方へ延びる丘陵尾根山麓からは 葛野川を挟んで盆地の東入口が約750m程と狭まる位置。
主郭北麺:作業林道に挟まれて遺る二段の小曲輪

露岩を削平してまで 山上部を造成して祀られれる大歳神社(再度遷され・現在は別所から金之神社が移設されている!!)の祠が往時の城遺構を利用したものか改修されているかは不明。参道からは見えないが主郭東切岸下の腰曲輪と・更に一段下の帯曲輪の南端から東下方へ自然地形なのか?竪堀状が一条落ちる。西面同様の珪石採取跡か?。主郭から北への東斜面下に延びる帯曲輪は細い犬走り状(山道)となり 主郭北斜面下の尾根筋に合流する地点に2段の小曲輪がある。東側の斜面下は、
北尾根側曲輪から主郭・犬走状が主郭下の左手へ

帯曲輪から犬走り状の細い通路が抜け出たところに土塁(竪土塁状)?があり緩斜な空堀状は比較的緩斜な城裏手からの登城口(土塁虎口)。丹波の山城に虎口形状を見ることは少ないので思い過し?。尾根筋は緩斜面50m程降って鹿除けフエンスが遮断する鞍部となり、 防備強化の虎口とも思えない?。此の尾根が南郷城(森山城)に続いていれば 277m峰や更に上方の三角点峰山頂に関連の城遺跡があるのではないか?とも思えたが 主郭北二腰曲輪・其の下・作業道を挟んで二段の小曲輪があり小曲輪・林道の西から採石場跡に廻り込む藪に覆われた北斜面に
主郭南東角から腰曲輪と最下段に帯曲輪:右端

二本の竪堀(幅2.5‐3mx長さ25-35m程)が落ちるが、尾根続き北ピーク側に竪堀…や曲輪等砦遺構を見掛けないので東方の丸山城同様に此方の山頂部を目指しても何もなさそうに思えた。主郭の祠裏手を西に一段小曲輪を降りてみると足元がスパッと切れ落ちている。 周囲を高さ約10m程の岩場で囲まれた幅約30u程のクレータ状窪地が現れ山麓の県道78号線は途中「カタクリの里」や達身寺への道を分け氷上町三原の内尾神社に向かう。付近には平安時代の永承年間(1046-53)に銀を産出したと云い近代:昭和中頃までは選鉱場〜採石場となっていた里見鉱山跡がある。篠ヶ峰の主稜線を南へ追って行けば多可郡妙見山も10km圏内…生野鉱脈が走り周辺に古い鉱口が遺る。
主郭北東側下の土塁虎口?

此処は更に古い時代の露天掘による採鉱場だったのでしょうか?。単に採石・土取場では無さそうです?。 山城遺構内に此の様な天涯の?要害は、福知山市上六人部の三俣城に見たが築城以前の採鉱跡なら ・小規模な砦にはこれ以上を望むに不要の過大・完璧防禦施設。無論・城史不明ながら丸山城に記した様に南北朝期〜中世にかけて幾度かの合戦場に程近く成松城 南郷城に関わった砦とは思われます。


長野城<仮称> 点名:長野3等 196m 丹波市氷上町長野

白山(後谷山城)東山麓の赤井氏本拠(後屋城)の赤井野を抜け、 北播磨から山陰道へ繋がる丹波街道(県道109号)を成松から常楽交差点へ向かう。此れより葛野川沿いに県道78号【小春ロードの愛称もある「森安小春」 (多可のこはる公園を参照)について当地(下新庄が生誕地か?)以外で知る人も少ないが先日(9/16)の敬老の日の発祥地多可町に関わりをもつ大正時代の日本三孝女の一】を西方に走る。
主郭西端の土橋付空堀

尤も此の県道氷上町側は内尾神社から先は林道 しかも直ぐ行き止りだが…「小春」らが越えた街道筋。篠ヶ峰に至る旧車道林道も今では徒歩でも通行苦難な荒れた山道!?。篠ヶ峰山上には関電・放送等各社中継無線施設があり 以前数コースで山頂を踏んだ頃は中町側から四駆で登ってこれたが現状は不知。波加美線「清水坂トンネル」開通で78号が加美区側78号と繋がった「小春ロード」ですが此処は省略。
主曲輪の現状

常楽交差点北方には常楽砦<仮称>があり、西麓側には元弘浪山上に在った高山寺が移されてある。常楽から西へ走ると下新庄(内山砦)<仮称>がある。 葛野(かどの)川沿い上新庄には南郷城(長尾城)があるが下新庄・上新庄境から南(関西池田記念墓地公園)へ進む途中の長野(おさの)八坂神社が今回の目標地点。八坂神社は氷上町長野(おさの)に慶長年中鎮座し、
主郭北帯曲輪から落ちる竪堀側には小曲輪が付く

明治6年村社として素戔嗚尊を祀る産土神の大歳神社が合祀されている。柿柴の貴船神社・常楽(常楽砦<仮称>)の大崎神社や三方犬岡の大歳神社・成松の大護神社…等々の各所鎮守社が内尾神社の末社とされている。 氷上町成松の北:丹波国葛野荘は古くより荻野・本荘(本庄)氏らの根拠地。南北朝期:建武4−康永2年(1336ー43)足利幕府初代丹波守護仁木頼章 ・守護代荻野尾張守朝忠の時、葛野荘地頭として知行しているが康永3年(興国4年)尊氏に背き小島高徳と結び高山寺城に籠るが山名時氏に攻められ降伏した。
土橋付空堀の北西角から竪堀を落とす

葛野荘は後村上天皇の興国5年:南朝に寝返った朝忠に知行させているが北朝方に降伏した荻野氏の領有時期は短命だった筈…?!。南郷城を居城として上新庄以西を領有していた土豪:本庄氏の動向は知らず。 南朝方として荻野氏らと高山寺城(弘浪山)に立て籠もっている。葛野荘は応永年間石清水八幡の寄進され本庄氏が代官職を請けている。 弘浪山の北麓を県道78号沿いに葛野川が流れ、県道を挟んで北の南郷城と呼応する位置”八坂神社背後の丘陵上”に長野(おさの)城<仮称>があった。
主曲輪北・帯曲輪上に張出す土塁造出し!?

葛野川を挟んで北西に南郷城(本庄氏)・北東方の下新庄は荻野氏領だった頃?は、新庄城(内山砦)≪仮称≫が荻野氏の城か?。荻野氏が北朝へ・また南朝へと寝返っているが荻野氏が退いたあと、山城に居たという勝田勘八郎が平城の上ゲ成松城に移るまで居城していた小城が新庄城だったのかも?。南郷城と内山砦の中間点・南側に位置して人知れず隠されていた長野城≪仮称 三等三角点196m≫は城域約100m足らず?の中規模城砦遺構ながら砦規模を逸脱している。
主郭西端の土橋付空堀側の土塁痕

登路とした八坂神社からの東斜面に切岸を立てる2段曲輪の縁を竪堀が落ちている。主郭西南の尾根続きは土橋付き空堀を廻し、堀端は西北へ竪堀を落している。緩斜面が続く西尾根は低鞍部(160m)の峠に至るまで 緩斜面・城遺構らしいものはないが長野城への大手筋か?。しかし山頂部は確りした遺構だけに光秀の付城かとも思えたが目前の南郷城・下新庄城が近過ぎる!!?。 庄氏による築城で南側の弘浪山尾根筋からの侵攻は先ず考えられない?が葛野川東方の南郷・下新庄城と呼応して播州側(多可町加美区)から清水坂を越えて来る敵方の侵攻に備えたものか…?。
主郭東北端の堀切

高山寺城から笹ヶ峰に至る尾根上に尖峰の東峰山があり、此の北尾根先端峰に長野城があるが嘗て山の仲間のWeb山行記録には東峰山からの尾根途中にも堀切を伴う曲輪があるらしい?。平成12年(2000)一度は長野までとレースしているが気付かなかった藪尾根も、 少し歩き易くなっている?ようだが・其処が城趾なら時々の臨戦城(高山寺城)攻防にも関連していたことも視野に考察する要があるのかも…

三原城<仮称>
 点名:? 4等 359m 丹波市氷上町三原・大谷

高山寺城(弘浪山)から-長野奥-東峰山へ:一度は篠ヶ峰への縦走・一度は時雨混じりと時間切れのうえ、岩稜の下りと藪山トレースに疲れ・東峰山頂から 北尾根伝いを長野集落へ降った事があった。此の尾根筋先端に長野城<仮称>があり、三原城<仮称>へは長野城取付点とした八坂神社から
4等三角点付近から三原城<仮称>を望む

東峰山を経て弘浪山(高山寺城)への縦走記録「たんばのたぬき」さん・「山であそぼっ」【共に登山ポータルサイトやメールを通じての山仲間だった…】を読み返してみたが、 以前に通過したはずの記憶も希薄。急ぎ下る尾根斜面に・気づかなかった山城遺構の確認探索のため、今度は尾根筋を山麓から登り辿ってみようと再度出掛けてきた。弘浪山から北尾根を氷上町柿柴・長野や、
4等 359m 番小屋跡出曲輪か?

西へは東峰山からの北尾根を359m4等三角点…を経て長野城<仮称>手前の鞍部まで…広大な丘陵部一帯が某宗教団体記念墓地公園の私有地のため、 城砦趾?らしい519m峰に向かうダイレクトルートを採りたいが公園内から谷筋?や尾根筋に取付点を探すわけにもいかず、集落端民家の先:藪の中に獣避けフエンスを見つけ、其処から尾根筋に至るルート・自治区境?だが
三角点-三原城中間部の広い平坦地と池跡!?鞍部

細い踏み跡を探し辿ることに始まる…。尾根に出るまでも・やっと尾根に出てからも「私有地立入り禁止」…の境界を示す某墓地公園管理の鎖フェンスが延々と続く。 尾根コースを踏み誤ることはないが鎖フェンスに倒れ塞ぐ倒木を避け・踏み跡も雑木の繁茂で迂回/錆びた薬莢を見てさえホッとする程。尾根筋にドーム(猪が殊に子育ての巣)を観るほどなので、
猪ドーム(猪が殊に子育ての巣)

山仕事に入る人は此処何年なさそうな尾根筋だが、三角点359mを過ぎると東面に圃場の様に広大な墓地公園が樹々の間に見えてくる。4等三角点359m標柱が埋まる 小場が此の先519m峰に位置する三原城<仮称>の砦か?番所なり大手虎口?かとも思える出曲輪か?、ただ眺望は僅かに長野・大谷…等葛野川流域の集落一部が見通せる程度。
三原城唯一の堀切と主郭側切岸

およそ300m程の緩斜な尾根筋を進んだ先に、切岸はないが幅広い(25-30m程)3段ほどの平坦段、最上部も40u程に広く、続く平坦地形との高低差も低い箱堀状鞍部は^のヌタ場となっているところも…あるが清水を湛えた窪地もあり、天水受け池と広い平坦地は兵溜まりというより・相当数の兵の駐屯基地としても充分機能可能?。 ただ此処でさえ急斜面を含み随分と麓から離れた高所に位置するが、
堀切上部の曲輪段

更に250-300m程の緩衝帯?の先には土塁(堀切り残土を盛ったもの?)と堀切があり、城域唯一の高い切岸(6m)程をみる。堀切から上部に2段ほど。西斜面(三原側)に掛けて3-4段程の小曲輪を見る519m地点が三原城<仮称>の 主郭!!?。南尾根城域先端の小平地は櫓台曲輪か?、此れより激上り下りで東峰山へ、遠く感じる弘浪山(高山寺城)手前の露岩ピークへは幅狭い岩稜 (リッジ)なりカンテ(凸部)を熟して登る個所もある。南北朝期以来・度重なる高山寺城合戦関連も考えられるが向城?・防御の砦?。
三原城主曲輪(519m)

高山寺城への城攻めに遠く険しい此のルートは無理か!!?。主郭周りの曲輪は東面(公園墓地側)になく・北面の三原側に数段みるが土塁・堀切・縦堀等の防御施設はなさそう?。 旧氷上郡から旧多可郡中町杉原谷へ越える国境監視にしても街道!?清水坂(現:清水トンネル)往来は見通せない?。葛野川対岸の南郷城を監視・または南郷城出城と考えても、 イザ出撃…は麓までは遠く・高所過ぎる此の砦郭遺構の時代・築城主は不明。氷上郡志(上)?昭和47年>には山垣城の足立廣成・政成兄弟(庶流か?)が三原に来住・東方の山上に築いた城砦跡ありとも記されるが、「丹波志」姓名の部三原村に
三原城南端曲輪(3x4m程)は櫓台?

足立姓はあるが古城の部に砦の記載は見当たらない?。足立氏の砦?とも思えないが、主勢力の荻野氏/本庄氏/新庄氏?等と相拮抗(あいきっこう)した・いずれかの陣城であった可能性も棄てきれない。足立氏来住による三原の居館なり城砦が築かれているとすれば 善福寺の背後の尾根筋末端部とも思えるが未走査。

常楽砦<仮称>   xxx山 Ca185m   丹波市氷上町常楽

R176号多田バイパスがR175号線に合流する「稲継」交差点を北へ直進する県道7号線「氷上北」三叉路交差 点を左折して西へ直進すると沼で県道7号に合流する県道109号「常楽」交差点に出る。西へ約700m程で県道78号に合流する「下新庄」交差点北の低丘陵上に 下新庄城(内山砦)<仮称>がある。
大崎神社と常楽寺砦

佐治川(現:加古川上流域)右岸の県道109号を赤井氏発祥地【黒井城主:荻野直政(幼名:才丸)生誕の後谷城】や 弘浪山【南朝方の荻野朝忠や児島高徳等が高山寺を城郭化して籠もった】の東麓を抜け、道なりに進んでも「常楽」交差点に出る。北正面に安全山【無線・TV送受信施設があり、山上まで巡視作業道が延びているが、水害被害による土砂崩壊傷跡が残る上部はハンググライダーのテイクオフ基地で ・ランチャー台があったところ】、
秋葉社跡の上方に常楽砦主郭

常楽交差点の西方山裾先端部に見える富士型の小山が内山砦。「常楽」交差点を右北へ直進する 県道109号は山際を氷上町御油で県道7号に合流して 青垣町佐治に向かう佐治街道。氷上町成松の旧成松商家街(街道筋?)を抜け出て県道109号を渡り直進すると高山寺【元:弘浪山にあった高山寺が昭和30年代に此処に遷された】がある。
高山寺の手前・東側丘陵部の南裾に鎮まる
常楽寺砦主郭

大崎神社丹波佐吉(村上源照信)とは兄弟弟子 初代難波金兵衛の子・二代目義継の狛犬がある】背後の低丘陵南端の185m頂部に常楽砦<仮称>はある。周辺に南北朝期や中世明智軍の「丹波攻」の際…等に合戦なり小競合程度の抗争 (対戦規模詳細は知らない)は極・周辺にあったようだが此の城趾存在ともに内容一切不詳!!?。大崎神社背後から正一位大崎稲荷社・秋葉山大牛王社へ、 さらに上方には・広い石積みの平坦段や石組の上に石碑が立つ旧稲荷社跡か秋葉社跡を巻き上がると露岩が目立つ丘陵頂部に着く。其の手前(大崎神社側の主郭南)には1-2段腰曲輪を廻しているが、
常楽砦堀切

露岩部は曲輪域確保・切岸保全の 為の土留石列にも思える。凡そ20x25m程の主郭の東西を巻く帯曲輪・腰曲輪群は主郭から北へ傾斜を落とす尾根筋に 曲輪段を落としながら東西・殊に瑣事街道側の東斜面にも小曲輪群を重ねて尾根筋左右にも拡がる。主郭からの北尾根筋約50m程で左右に拡がる小曲輪群は尾根筋の 一曲輪の前で纏まり?、尾根上に4-5段の曲輪が続くが、此処で獣避けフエンスが現われ :倒木や雑木が重なり確認し辛い。曲輪は切岸を高くするためか?空堀状があって東斜面に竪堀として落としているよう?。 さらに1段?程先に一本の堀切があり・城域を分けているようで、
常楽寺砦(段曲輪)下部の空堀?

此の先は30m程の平坦段(曲輪か緩衝帯か、単に尾根筋の山道)?に移り城域を外れる様。幅(東西約50m)x長さ(南北約100m)規模の縄張りをもつ城郭だが 所在位置からは佐治街道を北方の青垣町から氷上町沼・加茂から常楽へと入ってくる街道監視の砦。(中世:氷上郡の中心地は柏原より寧ろ此処:氷上町成松)赤井氏本拠 (黒井城主:荻野<幼名:赤井才丸>直正生誕地)の新郷がある。
常楽砦(土塁曲輪?)

下新庄は先のブログ内山砦で紹介した南郷城主:本庄氏の領地。常楽・成松は成松城勝田勘八郎が領主であったか?。遺跡分布地図にある丸山城が其の位置からは砦規模とも思えぬ不信!!?から …天正7年明智軍の猛攻に討死したと云われるが平城の成松城関連砦か。砦規模とはいえ城域規模は広い!!?。曲輪の段差も小さく・曲輪の数も多い独立性のなさ?からも落城迫る黒井城攻めに包囲の兵を留めた明智方の駐屯地!?とも思えるが…?
本誌丹波霧の里へ
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