五台山西南尾根井階山〜五台山〜クロイシ山〜栗栖/栗住城・瑞雲寺城(仮)・穴裏峠城(仮)
丹波市 (五万図=福知山
T伊佐口〜井階山〜(五台山への道試登!!) 〜長尾谷林道 2001年04月29日
U伊佐口〜井階山〜五台山〜鴨内峠〜クロイシ山〜栗栖〜東芦田 2002.02.15

近畿の山城 :栗住城 瑞雲寺城 (仮称) 滝ノ奥砦(仮称) 穴裏峠城(仮称)
井階山からの尾根より375mピークと五台山 H13.4.29

井階山東のピークは昔話のおむすび山のような丸い無名ピーク (375m)の先に連なる尾根の行き着くところには五台山 (655m)がどっしりは構えて待っています。今回は雨の為に試登に終わってしまい、五台山手前の尾根から退却しましたが露岩・岩尾根・自然林の中で展望こそ余り恵まれませんが面白いコースです。
瑞雲寺(芦田館跡!!?)から望む小室城(東芦田城)

香良の独鈷の滝と五台山は、 多くの山のガイドで紹介され岩滝寺も古刹として有名ですので良く知られており、ご存知の方も多いでしょう。独鈷の滝の大きな看板を見て右折する登山者の幾人程が左手の小山・井階山に目を向けるでしょう。昨日は 栗栖〜吼子尾山に登り、 吼子尾山で一頻り展望を楽しんでいましたが、新しく尾根縦走コースを勘案します。一つは感触をつかんだ栗栖からクロイシ山〜鴨内峠〜五台山です。 この稜線の先に見え隠れする尾根が五台山から伸び末端が井階山です。

T 伊佐口〜井階山〜375m〜伊佐峠〜475m手前(雨で撤退)伊佐口  H13. 04.28

今日みどりの日は低山徘徊オフで段ヶ峰が企画されており、私も行きたかったが午前中所用で行けなかった。近場で未だ登っていない山をと・昨日のコースで霧山の山裾を走りながら五大山〜愛宕山 〜五台山の山並を望みながら昨日の井階山からの縦走を思いつきます。桟敷の交差点を過ぎれば直ぐ独鈷の滝の大きな看板がですが、通り過ぎて伊佐口の表示を見て右奥へ延びる車道を入ります。山裾に稲荷社と小さなグランドが在り、 此処から尾根に取り付きますが生憎今日は伊差口地区の運動会で駐車場所がありません。集落に入れば消防団伊佐口部があり車道脇の空きスペースに駐車して(AM11:40)西のグランドへ引き返して山道に入ります。グランドの西側に山道があり弧を描くように下りながら 稲荷神社へ通じて藪漕ぎは無いが、最高点から尾根筋に取り付く踏みみ跡は細く随分と傾斜の急なコースです。

南尾根上部に10分程度で辿り着きますが露岩も現れ斜面も急なさらに10分程度の尾根歩き!!!!で最後に少し藪っぽい部分を抜けると井階山 (326m 3等三角点 PM12:10)山頂に直接飛び出します。山頂は手入れされていない植林や雑木で展望は殆ど有りませんが、粟鹿山・岩屋山 ・カヤマチ〜水山が見え隠れしています。篠ヶ峰や石戸・五台方面が望めないのが残念です。共同アンテナの残骸が散乱する山頂を後に五台山への尾根縦走に入ります。幸い細いが踏み跡は続いています。東のピークに出ると (写真参照) 五台山へと辿る稜線が顔を出しますが下降が始まるとこの後殆ど展望皆無の縦走路となります。前方のマンガのおにぎり山の様な丸い山への登りは、何処にこんな??と想像も出来ないような露岩や岩稜が隠されています。 そして急坂を下って鴨内と伊佐を結ぶ(伊佐峠)に着きます(PM12:45)。既にポツリポツリと降り出したようですが、此処から先の状態を知ることが今回重要な課題です。五台山へは登り一辺倒の露岩の目立つ稜線歩きですが自然林もあり快適なコースです。 しかし展望は五台山へはほんの1頭足の500m程手前の広い尾根辺り来ても展望が効かないうえ雨足が強まる一方です。上の方で二匹の鹿が気配に驚いて走り去って行きます。この尾根で歩きやすそうな右よりを進んでいて気が着くと 五台山へのルートを外れかけています。此れから元に戻って五台山へ進んでも独鈷の滝へ下ったのでは帰りが遠くなります。今日の雨は振り出せば止む気配は無さそうですので、次回を改めることとして、尾根を間違えついでに、このまま下降します。

とはいっても踏み跡すら無い下降路です。ズリ落ちるのを支えてくれる木々を頼りの激降りで長尾谷に降立ちました (PM1:25)。兵庫県丹波県民局の[丹波森の径]ガイドブックではサブルートとして伊佐口から長尾谷を詰めて 五台山を結ぶコースが載っていますが荒れるに任せたこの谷ルートは迷うこと仕切りの難コースの様相です。が一度はトレースする必要が有るかもしれません。メインルートかエスケープルートとして使用出来るのかは後日の報告です。 伊佐口集落は奥へも短い集落で林道もごく短距離で墓地まで舗装、その奥へはダートな車道がほんの300m程で終点です。観音堂があり正面左には古い小さな梵字を彫りこんだ五輪塔が二基並んで建っています。 井階山の姿はポンプ車格納庫のある駐車位置まで見送ってくれました(PM1:40)。


U 井階山〜五台山〜 鴨内峠〜クロイシ山〜(栗栖)〜東芦田
  H14.02.15
 
休暇をとって帰ったが午前中に所要を済ませたので久方ぶりに、半日掛けての山歩きが出来るのですが急にコースも決め兼ねていたのですが、 昨年春に雨の為
(上記 そのT)中途で敗退の井階山〜五台山コースにリベンジです。 このコース年末には五台山からの下降でも猟師・猟犬の気配に少し焦って、尾根を違えて降ってしまいましたが、 それでなくても何箇所か尾根を迷い易いところが在ります。午後からは雪との予報どおり正午を待たずに小雪は舞い始めます。
氷上町・御油付近から五台山〜鷹取山(氷上槍)を望む


井階山への取付きは前回通りですが今回も集落入り口付近の道路工事です。 伊佐口の墓地の西側に鳥居が見えますので此処から稲荷神社に入ります(AM11:55)。 扁額がないので名前もわからない神社の石段の横に鎮座する狐像を撫ぜて本堂右手の細道を辿ります。グラウンド横へ通じる道の最高所からは尾根に向って踏み跡が続きます。 昨年は無かった鹿・猪除けフエンスの扉の部分を見定めて登れば自然と細い道を辿れます。サラサラと枯れ草を叩く雪の音が一頻り激しくなってきました。 短い登りですが急斜面がしばらく続くと足元も露岩混じりの尾根伝いに藪の尾根に到着します。井階山(3等三角点 326m 点名:新郷 PM12:30)は五台山からの西南尾根末端にあり展望も期待できる筈が雑木藪の中です。
五台山頂

下降点標識に付けていた黄色テープは色焦ることも無く残っていました。雑木を透かして見ても、尾根の縦走に入ってすぐ顔を出す 「おむすび山」の375mピークの先に姿を見せるはずの五台山も今日は、そぼ降る!!雪に霞んで何も見えません。375mピークからは尾根伝いに鴨内へ降る山道があるので注意。右手の尾根を急下降して最低鞍部に降り立ちます。 伊佐峠(PM12:55)からは登り返しは雑木藪の尾根道ですが山道は順調に踏み跡辿れます。 雪道なので、そう感じるだけかもしれません。 前回雨の為撤退した付近からは尾根の踏み跡も喪いがちになり、やっと475mピーク付近の稜線に出てくると幸世村XXの古い境界石を見受けますが、明確な道は香良集落へ降る道。 私も先日此処を降った時も井階山への稜線分岐が判らず香良への下降道を辿り、 大きく引き返してこの稜線が分からず鴨内への林道に降りましたので、
山頂五台山から鴨内峠へ

2〜3ヶ所の分岐部分には赤テープを付けました。 目印のテープを見て入り込むほど物好きな人もいないと思われますが、この尾根を辿るのは分かりにくいのでポイントにテーピングする(PM1:20)。五台の山頂が近づいて来ると積雪も深くなってきて (10〜17cm程)鴨内峠へ降るハイキング道に出て来ると、真っ白なバージン・ロードが真っ直ぐ五台山山頂(2等三角点 655m PM2:00)へと導いてくれますが 山頂の文殊菩薩と山名プレート以外何も見えない。長居は無用 ・踵を返して鴨内峠目指して広い林間のハイキング道を下ります。静か過ぎる平日の午後の雪道に人の気配は有りません。
鴨内峠・正面が親不知へ続くコース

鴨内峠(PM2:25)がこんなに広く明るい峠だったかと・・・!! 登山者と山仕事以外此処を通る人など無いと思うのだが 安全境界!!の道路標識も建てられています。親不知までは矢印や此処からは「大阪ベル会」の特徴ある太く赤いビニールテープが先導してくれます。このコースを 親不知まで辿ってクロイシ山へ引き返す予定だが、出発が遅くて行けそうにない。 鴨内峠からクロイシ山へは正面尾根道を辿ります。 植林帯の尾根筋は展望も無く急な登下降もなく境界石標のある小ピークに着きます。 此処から西へ延びる尾根上に今日の最終目的地栗栖だが、 主尾根の直ぐ前方にはクロイシ山(556m 4等三角点 PM2:40 点名:曼田良)もあり、
クロイシ山から栗栖への尾根分岐と井階山を望む

親不知方面へと穴裏峠・蓮根峠・塩久峠方面への京都 ・福知山市と氷上郡青垣町との県境尾根に続く分岐のピークです。吼子尾山山頂から望んだクロイシ山の素晴らしい山容も、此処に至れば雑木藪の中、展望も無い平凡な山上に三角点が埋もれているだけです。 北東の親不知に向って降る稜上に赤テープが続いていますが、北北西に進路をとっても穴裏峠へは藪っぽい。雪で足元が確認できないが「山であそぼっ」の島田さんが先日・親不知から鴨内峠へとMTBで走破され、今度は此処から穴裏峠への計画中ですのでルート確認されているようです。・・ということは、歩きでは楽々の山道が続いている様子。先の小ピークへと道を引き返す、この僅かの間に西や南面に展望があり、 出発点の井階山と終着予定の栗栖が望めます。
瑞雲寺の石垣は中央部に穴太積み工法も見られる H16.10.31

しかし栗栖に向う雑木の尾根筋は如何だろうか。 以前・栗栖に登った時は少し尾根を辿ってみて細いが踏み跡もあり 境界ポールもある尾根なので問題はないだろうと思っていました。小ピークをワザワザピークまで行くこともないので手前から 藪の中に捲こうと一歩踏み出した途端にズボット膝まで潜り込む。しかし稜上にはズット測量用の2m赤白ポールが続く境界で雪道で迷うことも無かった。栗須(450m 点名:東芦田)は展望の無い雑木の中の三角点ですが、 栗栖周辺と同じ様な稜上を辿っているうち、此処は来たこと有るぞ、 見たこと有るぞという雰囲気と薄暗い山中で、三角点を目前に(数10m手前!!)して遂に北への尾根道に入ってしまった。
鐘楼に細かな細工が施された欄間彫刻


元に戻って境界のポールを捜すこともせずに、そのまま降り続け東芦田への 前回と同じ林道に降り立った(PM3:30)。 正面には麓から山裾を一気に駆け上るように延びるスカイラインは山頂には芦田氏の山城の遺構を残す 吼子尾山(小室城跡)を望みます。林道から東芦田集落内の車道に出たところには元禄9年(1697)銘の「南無大悲観世音菩薩」を彫った石碑が建っています。 車道を右にとって北へ向えば近世城郭を思わせる高石垣と練塀に囲まれた:乾徳山瑞雲寺(曹洞宗)が建っています。
城主金猶の宝筐印塔?と小室城遠望

当地石工の野面積の重厚な石垣の一角(左部分)には、穴太(あのう)積の工法が見られます。石積は古いようですが1〜2度・時期は不明!!ですが石は積直されている様です。修験道場であった寺は慶長 2年(1597)幸世村井中の円通寺14世:武山栄文和尚により開山された曹洞宗円通寺の末寺です。山門の鐘楼は建物が老朽化している為か取り外され、 別に鐘楼が建てられています。この山門の欄間彫刻の一つ一つが素晴らしく、正面左右の阿吽の鳥と松は松葉一本一本まで細かく掘り出されています。 内部の透し彫の兎は雲(波?)に飛び跳ねる様子も躍動的で
栗住城(愛宕神社):鼻欠け天狗瓦は栗住城の真相を知ってるのだろうか?

大護神社 にある彫刻師・中井権治の作品を彷彿させる。小室城主芦田八郎金猶(かねなお)が主君の丹波守護・細川満元の供養のために嘉吉元年(1441)に建てたといわれ、 今も満元と金猶の位牌が祀られています。寺裏手高台の墓地参道に面して3基ばかりの宝筐印塔と小社が祀られており、小さいが他のとは違い、連座の基礎の上にはキリークの梵字(千手観音ではなく阿弥陀如来を守護神としている)を刻む塔身を置き、 笠石四隅も垂直に近い古い形の隅飾を持つのが城主:芦田金猶のものだろうか?
栗住城:土橋の先には武者溜の様な曲輪 ・狼煙場か?石列を廻す曲輪も有る!!?

県道を渡って正面の山裾には吼子尾山への登山口となる胎蔵寺が有りますが種々の詳細や由緒は吼子尾山 を参照ください。左にとって集落内を抜け県道に出ると特別老人養護施設と福祉施設の「もくせい」前に出ます。・・・・鴨内集落側へ降りれば後が楽なのに、ワザワザ遠回りの北側・東芦田集落へ下ったのには訳有りなのですが・・・・。 加古川(旧佐治川)沿いに日比宇口(109号線)に出て(PM4:20)駐車場所の伊佐口(PM4:35)までは、又も延々7km程の道程を引き返すことに成りました。



栗住城 瑞雲寺城(仮称) 滝ノ奥砦(仮称) 穴裏峠城(仮称)

栗住城    Ca230m   青垣町東芦田

台風23号 (H16.10)による豪雨の被害は此処・東芦田にも爪痕を残し、芦田川の流れは埋まった土砂の底で伏流となってか、渇いた白い川原が続いています。 芦田川に流れ出る谷川も氾濫して溝縁の民家の庭付近は散布された薬剤が残り、流れ込んだ土砂で埋まった田は更地状態の惨状を曝しています。
旧街道筋から栗住城遠望

その小川に沿って旧街道が通じ、穴裏峠(山仲間の”山あそさん”からは 尻の穴が見えるほど急な峠の意味だそうですが)を越えて榎原(福知山市)に出ます。榎原から福知山市街地へ向う途中には小野脇集落があり、小野小町が住んでいた伝説の地。此処に通った”東芦田の少将”が吼子尾山の小室城(東芦田城)芦田八郎金猶 (かねなお)>だとする伝承が残り、集落最北部に少将神社・少将石があります。
栗住城主郭部西北端から4段曲輪:最奥に主曲輪と櫓台跡?の愛宕社が建つ

旧街道筋は車道が通じる 穴裏峠トンネル側ではなく少将神社付近からの山道がホンとの?穴裏峠を越える道で、道祖神代わりの道標石仏が祀られています。 天橋立の成相寺や若狭冨士の青葉山麓 ・松尾寺への西国巡礼道としても利用されたとも思われます。さて行き過ぎた道を入口まで戻します。
主曲輪(愛宕神社)下の小曲輪から堀切に横矢が掛かる

氷上町から県道7号を青垣町に入る境目が沼で左手丘陵の先端に沼城があり、回り込んだ栗住野に芦田氏の平城 栗住野城があり、此処より先は足立氏の領地・佐治郷に入り但馬路へと旧山陰道が通じます。 沼地区から右折して芦田川に沿う当初の福知山から丹後へ越える街道筋に丹波でも最古級、鎌倉時代・保元3年(1158)とも
愛宕神社南東切岸下に竪堀・竪土塁・塹壕状の帯曲輪?

元徳年間(1329-31)とも定かではないが、芦田(葦田)氏の居城がありました。源満実の三男井上判官(芦田五郎大炊助)家光が信州信濃・芦田庄小室から来住し 、芦田姓に改め芦田氏の祖となっています。本拠城は小室城ですが、最初に築かれたのは此の栗住城ではなかったかと考え、 鎌倉・室町期以前の当初から険しい山上に城が築かれた事には疑問を感じます。
神社背後の堀切

東芦田城は二度落城したといわれ、 最初に攻められたのが南北朝期・明徳2年(1391明徳の乱)に始まった丹波守護職にあった山名氏清が、将軍足利義満に叛いた為、細川頼元を丹波守護に任じた勢力争いの中で、 城主芦田八郎金猶・弟の七郎金朝は、どちらにも附かず・成り行きを見ていて勝利した細川方に攻められ長享2年(1488)城を捨てたともいわれます。
堀切の尾根側に続く土橋付き堀切

低位置に有って防備に欠しく居館の感じの方が強い栗住城ですから、城を捨て尾根伝いに遁れたとしても山名氏と戦って落城し、金猶と弟・七郎金朝の代で滅びたのは本拠の山城 :小室城よりは居城:栗住城で様子を窺っていたものと思えてなりません!!?。しかし小室城主金猶が祀られる瑞雲寺の位牌に記された戒名からは合戦で討たれたものか、頭・胴が分かれた意味「骨へんの文字」があって遺体が持ち帰られて祀られたものという。
栗住城:主郭東尾根続きに有る曲輪切岸と狼煙台か?櫓台状マウンドに石材残存?

一族が滅亡するか・永続するかの厳しい選択には、勝者を見極める為の「洞ヶ峠」は許されなかったのでしょう。城を攻め落とされ金猶兄弟は討たれたのでしょう。東芦田城主には芦田六郎少将家次がいて延徳2年(1490)佐治城を攻めたといわれ、この時の細川方による落城説の行方は不明ですが、その後も続いた芦田一族は弘治元年(1555)「香良の戦い」の壊滅的な敗戦により、
同・・狼煙台かマウンドか?残存の石塁

黒井城主:赤井(荻野)氏傘下に組み入れられ、細川方に攻め取られた城も芦田氏の手に戻り、元亀〜天正7年(1570〜1579)頃にかけて・より堅固な城を吼子尾山に築いたのではないかと思えます。最後の城主芦田国住は黒井城・赤井直政に属し、信長の”丹波攻略”の時、足立氏が山陰街道の遠阪峠を押さえたように、芦田氏は福知山側からの侵攻に備えて穴裏峠を押さえる役割を負っていたと考えます。
長い土橋の先には土橋(土塁道)とした武者溜の様な曲輪 (平坦地形)がある

東芦田集落内の旧街道に沿う道は、芦田館跡?といわれる瑞雲寺(上記にレポート有り)に向います。瑞雲寺は芦田金猶が主君の細川満元供養に嘉吉元年 (1441)に建てたといわれ、満元と金猶の位牌が祀られ、境内からは西正面には祠を背にして聳える吼子尾山が見えます。 寺に小さな祠!?小室城主・芦田金猶を祀った小社なのかとも思ってみます?五台山〜鴨内峠〜クロイシ山へ氷上町と市島町を分ける境界尾根から北西の瑞雲寺東背後に延びる稜線途中から 西への枝尾根の先端部が東芦田集落の中央部へ落ち込む丘陵上に栗住城が在ります。
同・・土橋(土塁道)内側の曲輪は武者溜 ?

東芦田集落内からは車道に元禄9年(1697)銘の「南無大悲観世音菩薩」を彫った石碑を目印に、右折して墓参と神社参道を入っていくと愛宕宮の常夜燈が一基立ち、数段の曲輪段の先に愛宕神社が建っています。愛宕神社境内の尾根筋一帯が城域で、 愛宕社の建つ櫓台跡背後の大堀切を越え続く尾根側にも土塁・曲輪と土橋付き堀切があるが、先には単調な上り一辺倒のく山道があるだけ?。稜線に出てクロイシ山への稜線は、比較的広く緩やかな尾根で平坦地や竪堀・土橋らしいものを見るが錯覚でしょう!。段々急登となるので引き返す。以前歩いた時にも 山頂付近に城砦の遺構を感じるものは無かったと思う。
大堀切の先:尾根筋に土橋?

下りに5m程の土橋と緩くカーブする20m程先には、大石で囲われた自然地形の曲輪がある。土橋を渡ってくる敵を狙い討つには”横矢掛り”の絶妙の位置に在る。 考え過ぎだと此処を下った所で大きな堀切を見る。鹿避けネット・猪避けフェンスを潜って堀切を越えると愛宕神社が建っている。 祠の軒下に、霊力を失ったのか!!?鼻の欠けた天狗像や葺き瓦が数枚置かれている<H20年:再訪時には周囲は整理され何も無かった>。扁額等は無いが城域と言われる愛宕神社境内は、此の二社大明神なのか!! 
城域最高所は狼煙場?か

先程下って来た尾根上の明確では無い平坦地や土橋状は城遺構だったのか定かではないが、 この祠前に4〜5段の段差で並ぶ広い平坦地や背後の尾根を遮断する深い堀切(約高さ4mX幅7m程)は、境内にしては不自然。小室城の里城(城館)跡か!!。西方に旧胎蔵寺本堂付近の大銀杏や、その上に聳える吼子尾山山頂(小室城)を眺望するとき、 此の栗住城が芦田氏の最初の城ではなかったかと思えてくる。再訪(2008.04)探索で確認すると、西北端の四ノ曲輪下の小曲輪から北下へは一条の竪堀が走る。一ノ曲輪・主曲輪・愛宕社の建つ櫓台にかけて西南面の切岸下には、横堀か塹壕状の浅い溝状に見える帯曲輪が南端の堀切側の小曲輪に延びている。
北面(左)曲輪は南面(右)を土塁として氷上町側から峠越え侵攻に備えたものか?

堀切は祠の背後に有り、 西側下の小曲輪からは堀切に横矢が掛かる。帯曲輪西北端にも一条の竪堀が走り、竪堀に沿う上り土塁(竪土塁)は境内の一ノ曲輪に入る。祠裏手の尾根を大堀切が遮断し、堀切向いの土塁と二段程の曲輪先には土橋付き堀切が、 続く東への緩斜面の先に尾根の岸を切る細長い平坦地形があるが、露岩多く・曲輪を囲む様な石列があり、古墳のマウンド状に・石室の様な露岩の集積地は櫓台よりは狼煙場だったか?。此れより続く緩斜な土橋の上り尾根には土橋を土塁道として囲う・武者隠しとも思える広い平坦地形が有るが、後は緩やかな登りが主尾根筋まで続くだけ・・!!。しかし此の尾根筋が・下記の各 瑞雲寺城(仮称)・滝ノ奥砦(仮称)・裏峠城(仮称) へと京都府(福知山市)国境境を警護の城塞群に繋がる。永禄〜天正7年(1558〜1579)頃・黒井城主荻野(赤井)氏の傘下にあって、遺構からは中世期にも小室城と共に改修して使用されてきた様です。
主郭西北端曲輪から一直線に落ちる竪堀

天正7年(1579)但馬から 遠阪峠を越えて進攻してきた羽柴秀長軍により、其の日のうちに山垣城栗住野城と共に山室城(東芦田城)を攻め落とされます。栗栖城他の小さな城砦に籠もった城将達は、幾層倍もの明智軍の援軍として北方から丹波に侵攻した羽柴秀長軍、南は播磨から丹羽長秀等の大軍に挟み撃ちにあいながらも果敢に戦いながらも、 多勢に無勢・次々と落城していったのでしょう。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)


瑞雲寺城 (仮称)    Ca390m   青垣町東芦田
 瑞雲寺城A【380mピークの砦】??
 瑞雲寺城B【370m付近:尾根南北堀切間の長い平坦地】??
 瑞雲寺城C【瑞雲寺裏手230m付近の砦】

R175号(水分れ街道)から氷上「稲継交差点」を左折して、県道7号線(丹波の森街道・青垣柏原線)を佐治川(現:加古川 )沿いに北上して「道の駅あおがき」を目指して走りますが、舞鶴自動車道の春日ICから・または氷上ICから和田山豊岡自動車道(R427バイパス道)が通じてからは、此れを利用して青垣で降りる方が便利でよく使用します。
東芦田地区道から瑞雲寺(中央下部)とクロイシ山への尾根


目的地へは少し行き過ぎますので戻ることになります。左折して県道7号を南へ直ぐ「道の駅あおがき」、 先ほど通過してきた沼の自動車道トンネル(此の上部に沼城)が、右手手前に拡がる田園風景の西・民家との境付近には、山城の多い丹波には少ない平城:栗栖野城があったところです。 青垣町との町界尾根となっている丘陵東端を廻り込んで、 氷上町沼地区に入って手直ぐ「福知山方面」の案内標識を見て左折する県道109号線は蘆田氏の本拠:東芦田地区を抜け、
主尾根分岐最初のピークへの土橋状尾根筋?

穴裏峠で京都府県境尾根を越えて福知山市に入る。県道の西に目立つ丘陵の519m三角点峰山頂部一帯を城域として、蘆田(芦田)氏の 東芦田城(小室城)が在り、県道を挟んで東向かいには、栗栖(点名:東芦田 450m) と鴨内峠から北への尾根続きにあるクロイシ山(点名:曼田良4等 556m)の間にある511mピークから西へ延び出した丘陵先端部に在る栗住城と、
主郭北・東斜面3段程に腰曲輪と帯曲輪が見える

其の北方の集落最奥に瑞雲寺【当概ページ「近畿の山城」の上に関連の山行記事】があります。県Web遺跡地図には・これら三箇所付近以外には府県境にまたがっての広範囲な南・東・北の三方は空白地帯。そんな丘陵の尾根上に「堀切」と呼ばれるところがある・・・ (範囲は栗栖城〜瑞雲寺背後の丘陵へと広範囲で場所も不定!!?)と、以前の山行時に立ち話で、地元:東芦田の人から聞いた事があって・どうにも気懸かりで探してみることにした。
長い平坦地形北端の浅い堀切

”ほりきり”と聞いて山城の堀切と勝手に決めるのは危険かも知れない?。山越えの峠道が”切り通し”になっているのかも知れない・・・と。 ”ほりきり”の所在は不明でしたが此処は丹波の古領主:芦田氏の本拠地。 東芦田城(小室城)は丹波最古とされる城・其の城主:芦田金猶が祀られる瑞雲寺が在り居館【芦田館】跡との伝承もあります。居館と其の”詰めの城”が存在したのでは !!・・・背後の丘陵部をトレースしてみれば何か判るのかも・・・ ? 栗栖城から511mピークへは急登続きで、そのうえ栗栖(450m)への稜線は氷上町側!!。 芦田氏の沼城も香良合戦以後は氷上の赤井・荻野氏の城となっていますが、覇勢を競うことも無く・慎ましやかに領地内を護ってきた芦田氏が、
長い平坦地形北端の浅い堀切

小競り合いはあっても隣領地の足立氏や赤井氏境界に城を築いたとも思えない?。此の境界を越えた氷上町鴨内に最近:城遺構を発見して 鴨内城として紹介し、城主を芦田氏ではないかとしていますが、 縄張りからは赤井(荻野)氏配下となって以後、 黒井城砦群の一つとして築かれ芦田氏が入ったものか?。西の玄関口には沼城・栗栖野城 ・本拠小室城とは県道を挟んだ栗栖城が有り、もう一つの入口となる東北方は、 京都府側の榎原から嶮しい穴裏峠を越える道。本拠の城の東に芦田氏の城砦は無い?。
浅い堀切を越えると幅広く長い平坦地が続く


府県境峠尾根の城は足立氏が烏帽子山城を構えているが、芦田氏も府県境尾根監視の城砦があっても・・・良いのではないか?。
瑞雲寺城A【380mピークの砦】と瑞雲寺城B【370m付近:尾根南北堀切間の長い平坦地】城砦遺構に不確か部分有り!!?? 地図を見ていくと東芦田地区東方にはクロイシ山(556m)から北に延びる尾根があり、蓮根峠に向う道があり、 県道は 北を廻り込んで穴裏峠に向うが、府県境手前の此の尾根に穴裏峠側へ越える山道があり、大規模な採石場跡?前に出る様だ。一帯は東芦田の財産管理区域・採石場側の稜線が府県境尾根で、 山間の深い谷筋からは何処へも通じない ?袋小路のような谷に降りるだけ。
長い平坦地の南側に現れた大堀切(山道?)

そんな谷筋へと越える鞍部へと、 尾根筋を縫うように続く長い堀底道の様な山道・鞍部には尾根を遮断する大堀切が有った。山道も此処で途切れたように細道となって東へ下っていく。 此処まで延びてきた堀底状の道も・堀切も、地区管理の山道として整備されていたものか? しかし・堀切からの尾根筋に見る平坦地(曲輪か・・!!?)の先にみる小堀切は西側に竪堀となって落ち、東側には小曲輪跡らしい小場と、 谷筋は突然足下から切れ落ちる竪堀状の深い溝が下り落ちている。
大堀切は山道か)

小堀切は長い平坦地に対してではなく、北尾根側に対して築造されているらしい!!。其の北尾根直ぐ(150m程)先に有るピークは平坦地の北・東に腰曲輪・帯曲輪をみる砦跡が在った。築城等に利用される石材は普通5km以内の範囲から集められたと云われますので、此の採石場からなら僅か1.5km程、高利160m程の峠越えは大変ですが、瑞雲寺の大量の石材は此処から運ばれ積まれたものとも思えてきます。 県道沿い・東芦田最奥の民家先にも近年まで採石されていたと思える施設跡があるのですが。?
瑞雲寺城B:北堀切東下方の竪堀?・自然地形にしては崖状の落口が不自然!!

東芦田地区の瑞雲寺から九十九折れの道が、途中雑木藪や急な斜面に不明瞭な部分もあるが、尾根筋の堀切まで通じています。1〜1.5m幅の広い道なのに、国土地理院の2.5万図にさえ破線道は表示されていない。瑞雲寺の北尾根筋の北側から短い谷を、 395m峰から南へ延びる尾根筋の鞍部を越えて採石場前に出る山道が一本だけ地図に記されているが、此の道に方が前者に比べれば・格段に細くて急な山道なのですが・・!!?。【後日・このコースを歩いて、更に驚きの規模の大きな未知!!?の山城遺構を見つけ、 いま掲載の思案中です・・】

尾根上からは峠と東芦田地区を結ぶ通行監視が可能の様です。また瑞雲寺は芦田館跡とも云われますので、其の”詰め城”が寺の背後から直接連絡出切る尾根上に在ったとしても至極当然の様に思え、瑞雲寺北の地図上明確な道を探したが無い?。在る筈の峠越え道と、 瑞雲寺北・墓地から取付き其の尾根に向う枝尾根を辿ってみる。下草も藪も少なく歩き易い尾根道は比較的広く感じるが、随所に竪堀状の溝が尾根上に現れる?。
瑞雲寺城Aピーク:B(長い平坦地形部)の稜線

しかし此の先・急な斜面も有るが目的の尾根に乗るまで長距離なので、当地にも未曾有の洪水被害を与えた台風23号(H16.10)の”爪あと”だろうと思われます。瑞雲寺北方から東へ延び上がる枝尾根を経て、 クロイシ山の西側から北に延びる国土地理院2.5万地図では、511m〜401mピークから、395mピーク間の峠を越えて其の末端を、穴裏峠に向う県道109号線(旧穴裏峠への入口付近)に落とす尾根稜線に出た。北へ延びる稜線は地図上び実線・破線で示される東芦田から 150m以上に切り崩された採石場へ向う峠越えの尾根北に有る395mピークと標高も同じ 南側のピークまで100m程なので行ってみる。途中一つの平坦なピークを過ぎると直ぐ先にも 円形の頂部がみえる。何も城砦跡らしい遺構を此処まで見てこなかったが、頂部の主郭?東から北面にかけて3段程の腰曲輪が在る。 丁度現:穴裏峠(旧穴裏峠は府県境尾根を更に 700m程先!?)や蓮根峠を越えて東芦田に入る街道監視の位置には在る。
瑞雲寺裏山砦【瑞雲寺城C】堀切と土塁

芦田川を挟んで直線距離で真西2.5kmに本拠の東芦田城がある。 此れだけ?と登り着いた尾根分岐に戻って南へ進んで直ぐ、緩斜な尾根に浅い堀切が有る。南側に低土塁らしい高マリが有る?。395mピークを主郭に、やはり段曲輪 ・堀切は城域を区分けする程度としてもこの先は・・・!!。 予想は当たり自然地形ながら尾根幅一杯(藪っぽい )に平坦地が40m以上続く。
【瑞雲寺城C】堀切から西へ延びる曲輪末端!?は空掘後か?

其の平坦地が途切れた先に”これぞ堀切・・・”U字形の深く高い(幅・高さ共に約5m)切岸を持つ堀切が有った。此の堀切から西へは谷筋の中腹沿いを明確な山道が登ってきており、 九十九折れながら随所に堀底道状の凹角部がある。山林作業道かも?しかし材木を切り出すには屈曲が鋭角で多く、一部藪道となりトレース跡が判り辛いところも有り、また途切れて斜面をトラバースして繋がる。

瑞雲寺城C【瑞雲寺裏手230m付近の砦】尾根筋山腹を捲きながら殿谷谷川の谷筋へ降る山道と、瑞雲寺へ直接向う?山道の分岐点・8〜10m上の尾根筋に出て見て、 なんと此処に堀切を発見。 幅約5m・高さも5m程の切岸を越えると幅広の土塁・続く曲輪?は不整地で傾斜もあるが、その下方に緩斜面ながら約25m程の曲輪があり、西端下には瑞雲寺の屋根が見える。
瑞雲寺城Cの堀切

小曲輪(土橋付空掘だったかも?)と其の先にテラス状が有る。下方7〜8mに山道が見え今登ってきた道と合う。瑞雲寺城A・B・C共に堀切部を除いて、竪堀は見出せなかった。鹿避けフエンスを開閉して出ると瑞雲寺の屋根が見えた。幅1m以上の山道だが峠までは勿論・最新国土地理院の地形図にも、瑞雲寺から先に破線の道は記されていない。
瑞雲寺:城主金猶の宝筐印塔?と小社

地元で「堀切」と呼ばれているのは此処に違いは無さそうです。堀切から東へは道は消え・細い踏み跡が 401m峰下方の山腹と谷筋を周回するように付けられた山道に通じてはいるようです。大堀切を越えても行き場の無い地図にも無い峠道が生活道路ではないでしょうし、山仕事用にしては、木材や柴を切り出すのに九十九折れ道は有効では無いと思えますが、 此処まで整備されていることも疑問!!。なを瑞雲寺は芦田館跡とも云われ、小室城主芦田八郎金猶と主君:丹波守護職細川満元の位牌が祀られ、寺裏手に金猶を祀る宝筐印塔と小社が祀られています(伝承)。上記・瑞雲寺の説明部分を参照してください。


滝ノ奥砦(穴裏峠城出曲輪)と穴裏峠城<いずれも仮称>
滝ノ奥砦(穴裏峠城出曲輪<仮称>) Ca240m   丹波市青垣町東芦田字滝ノ奥

沼集落背後に迫る丘陵上には沼城跡が在り、其の尾根先の東末端部が県道7号線に落ち込むところ、 北近畿自動車道(豊岡・和田山道路)が丹波市氷上町と青垣町を境する栗栖野トンネルを抜ける位置。県道7号から福知山方面へと穴裏峠を 越える県道 109号線に右折して、東芦田地区の瑞雲寺を目指します。
滝ノ奥砦:北麓の平坦地形


地区内の車道沿い・瑞雲寺が見える谷間一帯は「殿谷」と呼ばれ、瑞雲寺は芦田館跡とも云われており ・小室城主芦田八郎金猶と主君:丹波守護職細川満元の位牌が祀られている菩提寺です。先に瑞雲寺の北方を東へ伸び上がる尾根筋をトレースしていて瑞雲寺城(仮称 )A/B/Cを発見し、更に気になっていた地図上の峠越え
滝ノ奥砦南麓:平坦地上部の井戸跡?

山道破線の北に位置する395mピークへ足を延ばしてみようと、 今度は瑞雲寺側から殿谷谷川沿いに瑞雲寺城Cから瑞雲寺城Bの城域南端部「ほりきり」(山道としての切通しか?)に出て瑞雲寺城Aの砦跡を抜け、其のまま尾根伝いに395mピークに向った。起伏も少なく比較的緩やかな尾根を進む。
滝ノ奥砦:南麓の平坦地形

尾根上の小さな頂部(コブ!)毎の平坦地形が気になるが、遺構らしさは先入観からの思い過しの様で特に何も無く、左手(西側)に竪堀かと思える堀切道を見る。此処が地図上の破線道は少し主尾根筋を辿って、尾根を越え東へ水平道が抜け少し先で植林帯へ下っていく様です。降りきった谷筋からは対岸の尾根上近くまで高離150m近い採石場の断崖壁面が毅立するのを見上げることになります。一帯は東芦田の財産管理区で、
滝ノ奥砦西端一段低く見張台?(正面には小室城と東芦田集落)

其の見上げる先の稜線は福知山市との府県境尾根。峠の鞍部から良く踏み込まれている山道を辿ると、 程なく尾根前方・樹の間隠れに穴裏峠城(仮称)【(当初は城跡遺構や規模から小室城 (東芦田城)の支城かと考え、東小室城と考えていたが、中世史・城郭研究家T氏・M氏の両氏を案内して再訪した結果・陣城らしい!!。当地の字名等が不明の為(仮称)穴裏峠城)】が見えてきます。
滝ノ奥砦:尾根側の土橋付空掘 ?

本命の穴裏峠城はこの後でご案内・・!!する事として、T氏・M氏を案内しての最後に此処滝ノ奥砦 (穴裏峠城付出曲輪!!??) の案内をと思っていたのですが、尾根筋を外れる地図上の山道(既に廃道?)さえ見誤り、行き着けなかった・・・。現行では等高線が詰る急斜面を避けて尾根ルートは大きく北に向っており、 其処から西南への尾根沿いに下るか西北への尾根末端へ顕著な山道が通じています。
滝ノ奥砦西端部:正面奥は物見台?

この西北の尾根先に土橋付空掘?と不整地な平坦地・其の西端には正面に小室城を望み、足下に東芦田の集落内とR109号線を望む約3m四方の見張台状?が有る城砦?穴裏峠城出曲輪(滝ノ奥砦)を見つけ・此の時は砂防堰提と思えたが、関電の送電線撤去済の台場が在って・この基檀の上方6〜7m程上に位置していますので、地理院2.5万図等で確認されれば直ぐ判る場所です。素人目には土橋付空掘?・約3m四方の見張台 ・不整地な曲輪と思える遺構が、 単に思い過ごしだとしても、
滝ノ奥砦:尾根側の土橋付空掘?

この尾根端平坦地からは北と南に降りきった谷筋に、池跡・井戸らしい跡や、広い数段の (果樹園・畑地に利用の為改変されているのかも?)削平地が残る。北側はR109号線沿いに集落奥の字「竹ノ内」の谷筋に在るが、 穴裏峠城への直登は距離的には近くとも、立木を利用しても厳しい激急登で、搦め手道としても先ず無理っぽいが、字南谷・字滝ノ奥へと関電巡視路跡を辿ると経塚等のお札が納められているコンクリート製の祠を経て送電線鉄塔跡地に着く。
樹間のスリットを透かして見えてきた穴裏峠城(仮称)西郭

斜面上6m程上部が滝ノ奥砦の曲輪見張台。南側からは :瑞雲寺西からR109号線に合流する手前・集落内市道の米留谷公民館!!?付近から谷筋に入ると、直ぐ溝谷沿いに段曲輪があり、曲輪上部の山道側には井戸?らしい手掘りの小さな水槽跡が有り、尾根筋へ・捲き道?二手の道が滝ノ奥砦?(出曲輪跡?)に通じます。
穴裏峠城(仮称):西郭の高い切岸(7m)を末端曲輪から

穴裏峠城が陣城の場合・二つの谷筋の平坦地形は軍将兵の駐屯地。 いずれからも此の曲輪部を通過して穴裏城に向う大手門・番所としての出曲輪、また足下に東芦田の領内監視・穴裏峠に通じる街道監視の砦としての機能が考えられます!!?。削平あまく・簡素な遺構は果たして単に思い過ごし?。 山頂部の遺構のみが穴裏峠監視の陣城として存在したものか?。
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穴裏峠城 (仮称)     Ca395m   青垣町東芦田

一過性ではあっても何時の時代の築城なのか?。織田信長の「丹波攻略」では天正7年(1579)但馬から遠阪峠を越えて侵攻してきた羽柴秀長の大軍によって足立氏の遠阪城 ・山垣城や芦田氏の栗住野城 ・山室城(東芦田城)等の諸城は、ほぼ其の日のうちに尽く攻め落とされていきます。
穴裏峠城 (仮称)西郭の西端曲輪

黒井城攻めに際し、遠阪峠とは別に穴裏峠を越えた一隊が有ったとして、竪堀や切岸・土塁によって防御性を高めているとも思えない山城に、 明智方の大軍を前に黒井方(芦田氏か?)が籠もって戦ったとは思えない。もし芦田氏なら此の城を捨て、本拠城の小室城(東芦田城)に拠った筈。 此の時の勢いに乗る明智軍なら、小室城の向城を築く余裕が有るくらいなら、 友軍と小室城を挟み撃ち・一挙に殲滅行動に向ったのかも?。
穴裏峠城:西郭東端の堀切(主郭側から)

其れ以前:黒井城赤井(荻野)氏が天田郡を領していた頃なら、但馬山名氏に対する備え?とも思いたいのですが、穴裏峠城主郭虎口の縄張り形態は兵庫丹波には例の無い?特異な構造!!。 黒井城主:赤井氏傘下にいた京都丹波側の客将が臨戦に際し急遽築いたものか・・?。多紀郡(篠山市)を領した八上城主波多野氏と同様、氷上郡(丹波市)・何鹿郡 (綾部市と福知山市一部)・天田郡(福知山市)に勢力をもっていた黒井城主・赤井(荻野)氏も、一時期は三好氏・内藤氏(南丹市・八木城)に丹波を追われていた時期があり、 三次・内藤氏の但馬山名氏の動向に対する穴裏峠監視の陣城か?
穴裏峠城(仮称)西郭の段曲輪

上記の滝ノ奥砦(穴裏峠城の大手門的!!出曲輪か?)からの尾根に続く山道は、 地図に一本だけ破線道が記されている旧道?(本来の麓から谷通しの道は不明確?)と合い、急斜面の山腹をトラバース、 竪堀の様な溝状の道を抜け出たところで尾根に乗る。 また瑞雲寺城C/B/Aを繋いで縦走しても此の山越え道の鞍部に着く。 鞍部からも尾根筋の溝状を抜け、北に延びる緩やかな尾根上に出る。樹間を透かして前方を塞ぐように東西に小高い稜線の影が見える。此処が穴裏峠城の西郭で南尾根側に高い切岸を落として 東西に拡がる尾根上に曲輪を並べています。
穴裏峠城:西郭最高所から堀切と主郭側

西郭は東端に堀切が一本あり、 西に二段の曲輪(約20m程)、更に6〜7mの切岸下の西端部に小曲輪(7mX10m程)を持つ。尾根筋は北に続くが激急斜面 ・西斜面は間隔の広い立木が無ければ、足場確保も出来ず危険な程で、広い城域(50mX120m程)周辺全体をみても、
穴裏峠城西郭から:堀切を渡り主郭へ延びる不整地な曲輪

竪堀は無く主郭(東郭)に向う尾根(10mX30m程)に、急拵えの突貫工事だったか、曲輪の一部には充分掘り切られず・堀残し途中で中断した様な堀切 ?と土橋状を残す部分や、其処から斜上して本丸に入る部分は、 片側(北側)半分が土塁状に削り残された!!?部分の他に、城砦施設としての土塁・堀切・櫓台らしい土壇等は見当たらない!!?。愈々主郭の本丸・城域で一番広い曲輪ですが、 低い段差(40cm程から高くて1m程)で曲輪が廻るだけ!!。本丸を低い帯曲輪が取り囲む。城郭研究家のT氏作成の実測図を見ると、正面(西)から北側の帯曲輪は本丸東へ廻り込むが曲輪は先端で行き止まり。
穴裏峠城:未完の土橋付堀切と削残しの土塁?を越えて主郭へ向う

帯曲輪の南側は東端で一折れして本丸東北部から入る、丹波では例を知らない渦巻き型の虎口を構成しています。 帯曲輪との段差も僅か4〜60cm程なので、 本丸周囲を陣幕で囲って使用された陣城と推察され、丹波戦史に新たな事実の究明探索が必要になりそうです・・・・?。日記(戦記)や古文書等資料皆無?の現状のなかで、新たな城遺構の発見に、城史を追う手立て無く不明・不詳・・・・で取り残される未決の問題点・疑問点ばかりが山積みとなった城郭探訪記です。瑞雲寺城A/B/Cと穴裏峠城とは築城時期も、目的も関連性は無さそうですが、 果たしてどうなのか・・?。最後に・・・・!!もう一つ?。
穴裏峠城:(仮称)堀切と西郭の切岸

御着城は赤家家臣団の小寺政隆が隠居城として築き、姫路城から御着に移り、姫路城第7代城主則職が二代目として入り本城とし、姫路城を支城として黒田満隆【羽柴秀吉の軍師:黒田如水(官兵衛)の父】か官兵衛の祖父 :重隆が城を預かっていたとされます!!。 黒田官兵衛が小寺氏の養子に入ったとする西脇市黒田庄町の黒田氏系図からは外れますが!!。 則職の嫡男政職が三代目:二男長職は広峰城主の養子となり、 三男主馬助則治は伊川谷(神戸市)の小寺城主となっていた。天正7〜8年の三木合戦に御着城は落城・三男則治は討死し、則治嫡男:太郎太夫が浪人となり東芦田に落ち延び、丹波小寺一族の祖となったと云う(小寺則治公略系図による)。
穴裏峠城(仮称)西郭の段曲輪

地区内の道から瑞雲寺に向う一帯は字名を「殿谷」と呼ばれ、 殿谷谷川沿いに瑞雲寺城(仮称)に向いましたが、殿谷の”殿”が小室城(東芦田城)芦田氏の、主君:細川満元を指すものか?城主:金猶を指すものか?。瑞雲寺城(仮称)として見てきた尾根上の堀切や広い平坦地が芦田館の詰め城遺構なのか ?全て思い過ごしの妄想なのか?、尾根上をもっと広範囲に見ていく必要は有りそうでうですが、今後の:城フアンの訪城感想・城郭研究者の調査報告に期待したいところです(誰も行かないかも?)。 殿谷には小寺姓が多く・殿谷を見通す丘陵部に小寺株の墓所がある。殿谷の字名が何時頃発生したのかは知らないが、
穴裏峠城(仮称)の本丸を囲う帯曲輪


「殿」が芦田氏を指すものか・天正期 (1573-92)以降の命名?なら小寺氏を指すものかも知れませんが・・・!!?。T氏・M氏を案内して降りてきた瑞雲寺北西の丘陵麓で見掛けた一基の宝筐印塔 【隅飾の装飾からは古くない(江戸時代中期か?)】も一族墓地に近く、小寺氏ゆかりのものなのか?、調査済かと思うが・刻銘等も含め某氏に確認してもらおう!!。
(Webウイキぺデイア・姫路城史 ・御着群誌(別冊)<御着史跡保存会>・「丹波の小寺一族」調査研究の小寺某資料を参照)

   丹波霧の里へ
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