天々宇知栗と尊氏の伝説の里山 頭光嶽〜岩屋山〜石戸山
丹波市(五万図=篠山)
TJR谷川〜頭光嶽〜石戸山(549m)〜岩屋山・石龕寺城 2000年03月20日
U奥の院+頭光嶽〜岩屋山〜石戸山〜八の瀬〜玉巻城 2004年05月02日
V石龕寺〜岩屋山(506m)〜石戸山〜頭光嶽(439m)〜岩屋大師堂
2001年11月18日
石戸山

ふるさと兵庫の50山 :石戸山
兵庫の山城 石龕寺城(岩屋城)/岩屋城塞群 玉巻城 久下弥三郎時重屋敷
池ノ谷主計屋敷  高瀬氏屋敷(高瀬城) 谷川織田家陣屋
丹波の由緒
天々宇知栗の伝説 金屋の十三塚 金屋不動尊 金屋流紋岩質凝灰岩

T里山は歴史と伝説の地 頭光嶽〜岩屋山〜石戸山  H12.03.20

玉巻城 主居館とされる伝承地久下弥三郎時重屋敷から西北の山間の裾を目指して集落内を歩き岡本薬師堂・加茂神社側から石龕寺・岩屋山・石戸山に通じる寺坂コースの林道コチモン寺線に入ると金屋の十三塚 (全国的に貴重な室町以降の庶民信仰の遺跡)・金屋不動尊と不動滝があり足利尊氏父子縁の地でもあるが現在地の不動尊は別の場所より遷座されたもの!!)。
頭光嶽から望む岩屋山と石戸山 H16.5.2

この先数10mも谷筋を辿れば金屋岩脈の 金屋流紋岩質凝灰岩を見る。流紋岩を抱き込んだ珍しい露出岩脈は丸い斑点や草履状に見える模様が岩の中に埋め込まれているのが伺える。加茂神社から登山口の林道コチモン寺線 に入ります。石龕寺1.9K三ッ塚0.5Kと案内表示は教えてくれます。直ぐに二つの貯水池があり間に古い(左いわや右ふどう)道標があり 小道が左に延び輪切りの木を乗せた山の神が祀ってあり此処に町石(6町)もある。
金屋鉱山跡

久下氏全盛の中世期石龕寺への裏参道で尾根の途中にも5町石が残っている。加茂神社の先で(十三塚)寺坂道と不動尊への分岐で右手の不動尊は近くの流紋岩質凝灰岩は非常に特殊で丸い斑点の岩が金屋川源流部にあるので 探してみてください。この林道終点の壊れた建物の裏手から丸木橋を渡ってしっかりした山道が現れ金屋鉱山跡から頭光嶽へ出て奥の院や岩屋山や石戸山-高見城山へと縦走路は続く。十三塚の先で道は分かれるように見えるが左はカケジ山への伐採された境界を倒木と薮漕ぎで尾根到達の杣道ですぐ消え谷が荒れ石・土砂で分かりつらいが右手へ谷を越せば対岸に旧裏参道の道が続きます。
此の堀切から急斜面の堀底道を金屋鉱山跡に下る

この先山道を道なりに尾根に辿りつけば円応教本部に続く尾根の分岐に東向地蔵で (東向きは珍しい)坂を下れば石龕寺へ降りる。また戦時には兵隊除けに此処に詣り縄で地蔵を縛ったとも云われる峠の地蔵)尾根を辿れば鉄塔下頭光嶽。聖徳太子が自分で彫った兜の守護神:毘沙門天像が消え・像を探し此の地へ来られた時、この山よりまばゆい光を発していたので一寺を建て名付けられたのが山名の起こり。 石龕寺城の砦・出丸としての機能は十分果せる地形です。奥の院への下降点と金屋鉱山跡を経て岩屋山・石戸山への三叉路です。
金屋鉱山跡

鉱山跡の崖上が岩屋山(506m)で右手の金屋・谷川へは登ってきた不動尊に続く。ここはロウセキ山と呼んでいた鉱山跡で切り立った岩肌は大正-昭和50年代にかけ 輸入に押されて廃山になるまでの僅かな歴史と自然崩壊の爪痕が残る。平坦な広場の中ほどにブルドーザ2台。トラック1台が残置され朽ちるのを待っている。輝緑岩の岩脈は断層面の割れ目にマグマが入り冷えて固まったもの。 ここで採取されていたサヌカイトの一種(カオリナイト<ロウセキ>)はタイルや陶磁器の原料になる。 子供の頃の私達には黒板に落書きするかの様にロウセキで石板にイタズラ書きをしたものです。
池ノ谷主計屋敷の尾根上送電線鉄塔から篠山川と久下城(手前右)

鉱山跡からは崖を登るような急登でくびれた尾根に出てきます。此処は石龕寺城(岩屋城)堀切跡で岩屋山頂までに後二つ堀切を渡ります。 山頂は僅かのスペースを残し南側は採掘後の絶壁です。ここには石室があり嘗て丹波修験の根拠地として熊野・白山の両権現が祀られている。周辺はともかくここに城の遺構は殆ど見当たらない。 元の堀切へ引き返し登り返せば直ぐに石戸山山頂。八の瀬〜玉巻城址〜谷川及び東向地蔵〜貴布禰神社へ抜けるコースを検討しています。


金屋の十三塚・金屋不動尊と流紋岩質凝灰岩を再掲
金屋の十三塚
金屋カケジ山の麓ハイキングコースを寺坂道(石龕寺・頭光嶽に通じる)に入った所、緩傾斜地の林道左手植林の中に南北一直線に一定間隔で整然と並ぶ大小十三個のほぼ同一規模の円形石積の塚が見えます。
石龕寺裏参道(寺坂道)の町石基石

一番大きな親塚(東西3.7m・南北3.8m・高さ0.9m)を中心として、その南北両側には其々に6個の小塚(東西約1.8m南北1.8m・高さ0.4m程度)で構成されています。塚の中心間隔は約6.0m・全長は約73.0mあるが何の目的で造られたかは不明という。この道は石龕寺へ向う小川地区からの表参道のほか久下地区金屋から向う裏参道でもあり町石も5基が残されています。 不動・釈迦・文殊…と続く十三仏信仰に由来するとされ、築造時期は中世:室町時代頃に成立したと推定される民間信仰の遺跡で、
十三塚(寺坂コース・不動尊分岐点)

日本列島各地に分布していた十三塚は全国に約200ヶ所・兵庫県内に三ヶ所が残っているといいます。造成開発等により多くが消滅していくなか 完全な形態で保存されている十三塚は全国でも数少なく貴重だが古墳と比べても歴史的価値が認められることが少ないという。 生駒十三峠の十三塚(奈良・大阪)と共に金屋十三塚が民俗芸能・民俗技術などの有形の民俗文化財のうち特に重要なものとして国指定重要有形民俗文化財の指定(1986年3月31日)を受けています。 築塚の経緯は不明だが此処にも戦国時代:戦死者・落武者ら13人の供養塚伝承が残る。
十三塚(寺坂コース・不動尊分岐点)

元弘年間(1331-34)六波羅の北条氏との戦いに敗れ京都を追われた足利尊氏が将兵僅か数10騎で丹波路を金屋の地にまで逃れてきたものの追討軍が迫ってくる。今は此れまでと覚悟は出来ていたが「此の向こうの石龕寺には久下氏が一族を率いてお待ち申し上げている由、一刻も早く引き揚げよ」「殿・つきましては御鎧・御衣装等を拝借仕りたく…」と具足等を借受ける部将達の一念に動かされ手勢13人を残して尊氏は寺坂越えの道を石龕寺へ無事逃れます。尊氏の具足を身に付けた影武者を中心に追っ手を引受け討死覚悟の奮戦は手強く 敵陣を散々悩ませた13人の 将士だが今はこれまでと潔い最期を飾れと石龕寺登山口まで一端逃げ延び此処に一列に並んで自刃します。
通行途絶えた寺坂峠:東向地蔵を下る廃道を石龕寺奥の院へ

後に身代わりとなった13人の部下の冥福を祈って塚を建て懇ろに葬ったのが十三塚の伝承。此の京都六波羅を攻める為丹波・篠村八幡宮(亀岡市)で挙兵した際にも 1番に馳せ参じたのも「一番」旗で知られた久下氏(石龕寺城(岩屋城)・玉巻城)で観応2年(1351)足利尊氏が京都を追われて再び丹波石龕寺に逃れ際も久下氏を頼っている。足利尊氏が隠れて九死に一生を得た伝承を井原の二重川「足利橋」に残す。
(山南町・文化財のすがた 丹波叢書「由緒を尋ねて」を参照)

金屋不動尊

金屋のカケジ山の麓・ハイキング道標識のある分岐を右手に延びる金屋不動尊・流紋岩コース(石切場跡から岩屋城〜石龕寺・石戸山〜高見城山へ 通じる)は金屋川沿いに林道(車道)が金屋不動明王参道下へ延びる。石戸山から玉巻城に続く尾根筋に鉄塔を載せる八の瀬(423m)の峰を望みながら林道を進むこと15分程で「不動明王参道」の石標をみる。金屋川も谷筋は狭まり細くなった谷幅は累々と岩棚となって埋め尽されてきます。此の先・谷筋に金屋岩脈(流紋岩質凝灰岩)が見られますので後述します。
金屋:近滂寺不動明王尊

不動尊は近滂寺(こちほうじ)不動明王尊と云い 祭礼は毎年7月28日に金屋・岡本の集落で行われてきたが近年毎月28日の不動尊日に当番により祀られています。観応2年(1351)足利尊氏が京を追われて二度丹波石龕寺に逃れ尊氏が九州へ・子の義詮が此処に籠もっていた時の伝承が残ります。義詮が石龕寺の毘沙門天に詣で祈誓したところ「山上にある清滝の不動明王尊像に行き祈誓せよ」とのお告げがあり、其処で一心に念じ後:戦運を好転させたと云う。旱魃のとき農民が不動尊に雨乞いをすると忽ち涼を呼び雨が滂(なが)れたといわれ彦涼山(げんりょうざん)近滂寺と名付けられ、古来より石龕寺の一坊として共に栄え石龕寺の祈祷所とされた。
金屋岩脈(流紋岩質凝灰岩)の噴気孔化石

応永8年(1401)頃には寺坂道(裏参道)の町石が建てられたが足利氏の覇権・勢力を失うと石龕寺も荒廃し天正7年(1579)明智光秀の丹波攻略により奥丹波の諸城共に岩屋城・玉巻城も落城、兵火により石龕寺は山門を残して焼失・不動尊も荒廃していたが江戸時代中期:明和2年(1765)太田慧日寺 (山南三山の一)の竜洲和尚により再興され文化9年(1812)には役行者尊像・弘法大師像が建立され不動尊信仰・行者信仰として村民達に崇尊されてきました。大正8年(1919)蝋石採掘の区域拡大に伴い不動尊境内にも廃石が飛散するようになり 昭和47年(1972)岡本・金屋両集落と鉱山側により現在の場所に遷座された。身近な郷土の良さを見直し育てようと自治会の手による郷土史「金屋」が発刊され不動尊も奉仕により参道整備・休憩所造営、遷座10周年記念には法要が営まれました。
(現地 近滂寺不動明王尊像由来案内板(平成9年元旦)金屋・岡本部落 及び山南町・文化財のすがた を参照)

金屋流紋岩質凝灰岩
金屋不動尊前の不動明王参道を示す石標の足下に「金屋岩脈」と書かれた朽ちた案内標識が落ちている。 不動尊の祀られる前には金屋川源流部の狭いが累々と岩が積み、細い流れの小さな谷川があります。此処では殆ど目立たないが少し上流に向うと岩肌に斑紋も鮮やかな露岩が現れます。 乾いた岩では写真に撮りにくいかも?知れないが雨を吸った岩は鮮明に此の紋々を際立たせる。 「金屋岩脈は7000万年前の岩脈で流紋岩質凝灰岩が流紋岩を抱き込んだ珍しい露出岩脈」…流紋岩質凝灰岩とはいっても種々雑多で違いや正式名称?等が判る筈も無いが?
金屋岩脈(流紋岩質凝灰岩)の噴気孔化石

火山岩の一種:火山灰によって生じた噴気孔化石(吹き抜けパイプ様構造)が見られる珍しい現象で 兵庫県レッドデータブックの地質の部には分類区分は化成構造・概要説明では特徴として生野層群下部の流紋デイサイト質ガラス質溶結凝灰岩中の2次噴気孔・閃緑ひん岩とあり火山噴火による火山灰や火砕流が降り積もって水を覆ったとき高温のため水が気化し、その体積が増大して水蒸気爆発を起こして形成されたものといい金屋の流紋岩質凝灰岩はAランク(25箇所)のうち一つに挙げられている。
(山南町・文化財のすがた を参照)


U里山は歴史と伝説の地 石戸山〜八の瀬〜玉巻城 H16.5.2

JR谷川駅から福知山線と加古川線が山裾を分けて分岐します。その分岐する山の頂が久下城のある八幡山241mで鉄塔が越す八の瀬 423mへの尾根は 石戸山へと延びています。八の瀬へは巡視路が延びていますが 玉巻城址への直接の登路は有りません。 最短距離は玉巻踏切りを渡り小さなお社(稲荷社?)から続く石畳を墓地へ詰め手前から尾根に取り付き稜線の最低鞍部を目指します。久下氏一族の菩提寺・長慶院の裏庭から登れるかも??寺坂コースを石戸山までは先述通りで 見所多く寺・城址・石仏/町石・展望・由緒・鉱石・静寂の小道…とミニオフには最適コースです。
町石・岩屋公民館にて

石戸山は丹波に少ない一等三角点ですが私の展望所は鉄平石採石場跡(賽の河原)手前の高所です。狭いので立ったままですが360度近い展望です。元は久下氏の栗作郷の山だったが次第に勢力も衰え一帯の山林を新井村に売り渡しているが古くは石童山の名で新井の石見神社には日本一の岩の囲碁盤があり石見守と駿河守の囲碁勝負で新屋庄の持山となった話もあり、入会権では何度も山騒動を起こしています。鉄平石の河原で一息(AM10:35)入れて無線中継所(加古川流域の災害に備え建設省が設置)の山頂に戻り此処より夏場は薮となり 辿るのに二の足を踏みそうなコースを南下する。しかし直ぐに快適なコースは鉄塔のある八の瀬まで続く。536mピークからは90度右折して下る緩斜面の明るい尾根は 鉄塔に続き火の用心No59の側4等三角点八の瀬(423m AM11:30)に着く。
石龕寺もみじまつり・足利尊氏一行が町石前を通過?岩屋公民館にて〉

テープは此処で消えるが登山コースはこの先の巡視路左折です。城址へ向う道は荒れ、細くなりやがて消え薮交じりの急下降が続く。それでも赤テープが黄や白に変わっても続く。地図にある露岩記号付近までは 境界のポールが薮の中に見え隠れしているが切り開きになっていても避ける程の篠竹と棘の薮中道道です。露岩帯を下りきってホット一息入れます。 踏み跡が顕われ緩やかな植林の尾根となり突端付近のピークと思われる辺りは台地状の場所を通過するとすぐその下の鞍部に幅2m・高さ2m・長さ10数mの小規模の溝が現れます。
金屋鉱山跡

玉巻城址の唯一の証でしょうか。この小さな堀切を隔てて両サイドの台地が八幡山・久下城(玉巻城 241m PM12:00)です。 東の曲輪から先は薮・もし突っ切っても大きな地崩れのあたりへ出ると思いますので引き返します。堀切跡付近より北の高所の台地付近に石積みの残石らしいものが多く散乱している。本丸付近に散乱している岩石は磁鉄鉱が含まれ方位が狂うかどうか?コンパスを確認して見たらどうでしょう!!。鞍部からの植林帯は下草も少なく動作無く小さな稲荷社に出て玉巻踏切を渡る。八の瀬へは奥野々への車道を行き送電線をくぐってその先・左の集落に第二平井踏切を渡り公民館右の坂道を直進していきます。
玉巻城主郭と堀切

簡易舗装道が大きく 左に曲がりますが(舗装の切れる直進の林道は間違いです)墓地を過ぎると巡視路No62を見て右への階段道を進む。岩場と書かれた標識の上に鉄塔があり次の山頂の鉄塔迄殆ど一直線の急斜面を辿れば三角点の八の瀬。福知山線と加古川線の踏切を渡り玉巻集落を寺坂コースの案内板に沿って進み加茂神社に戻った。加茂神社手前100mの岡本・薬師堂は法道仙人開祖の伝承で行基菩薩が自作の像を背負ってこの堂を一夜の宿とした時、霊夢により本尊を移した上岡寺を号とした薬師堂の本尊・木造薬師如来坐像は藤原時代のもの国の重要文化財となっているが秘仏(33年毎の開帳)です。岩場と書かれた標識の上に鉄塔があり次の山頂の鉄塔迄殆ど一直線の急斜面を辿れば三角点の八の瀬山頂です。
池ノ谷主計屋敷:主郭西端(上部)から西尾根に続く段曲輪

福知山線と加古川線の踏切を渡り玉巻の集落を寺坂コースの案内板に沿って進み加茂神社に戻りました(PM12:40)。加茂神社手前100mの岡本・薬師堂は法道仙人開祖の伝承で行基菩薩が自作の像を背負ってこの堂を一夜の宿とした時、霊夢により本尊を移した上岡寺を号とした薬師堂の本尊・木造薬師如来坐像は藤原時代のもの国の重要文化財となっているが秘仏(33年毎の開帳)です。


V岩屋山〜石戸山〜頭光嶽〜岩屋大師堂 H13.11.18

足利尊氏ゆかりのもみじ祭りで静かな山里も今日ばかりは石龕寺に向う人の波が絶えない。無料送迎マイクロバスが頻繁にピストンしているが紅葉に染まる山々を眺めながらの散策が良い。村森集落から石龕寺に至る約3kmの道筋には石龕寺町石(県指定史跡)があり
石龕寺の紅葉観賞は上部から見下ろして…が最高!

岩屋道には25基・JR谷川駅から金屋を通り奥の院に至る寺坂道には5基の町石が残る。一つ一つを訪ねながら寺域に近づいてくると正面上方に金屋鉱山跡の白い岩の断崖が間近に迫ってくる。道筋に栗林が続く山南町岩屋は丹波栗のルーツだが今ではその主生産地を能勢・亀岡・八木等に譲っている。仁王門の金剛力士像は鎌倉期の仏師定慶作(仁治3年1242)の国宝で山南町のシンボルです。山門を潜ると左手には多くの室町期以降の石仏が立ち並ぶ。
石龕寺仁王門から岩屋山(中央)を望む

庫裏に沿って石段が続きます。正面左手に県下最大の「コウヨウザン」の木を見て 本堂の毘沙門堂に出る。右端には奥の院に続く参道があり一般ハイキングルートとしては此処より奥の院(石龕寺の名の起こりの石窟あり)や屋 敷跡を頭光嶽へ出て鉱山跡〜岩屋・石戸へ向かうが本堂左から谷筋を採ります。コースはスッカリ整備され「滑らの谷広場/石戸山・岩屋山」道標も完備されています。
金屋鉱山跡から竪堀を抜け出た稜上は堀切

本堂裏手を巻き上がるように尾根に沿って道が続きます。尾根途中からも「滑らの谷」へのルートから 右へ水谷(150m)へ寄るコースもある。本コースは10分程で2箇所の岩場(鎖もセットされた)を過ぎて送電線鉄塔にでる。深い水谷を挟んで向かいに奥の院の屋根が見える。霧の消えかかった笠形山・千ヶ峰・竜ヶ岳が見えてくると重ね岩への分岐。此処へは小寺山〜高見城山〜観音寺 レポートを御覧下さい。5分程で岩屋山山頂(506m AM9:35)石龕寺城(岩屋城)跡で熊野権現と白山権現を祀る祠があります。
石戸山頂は無線中継所も撤去されて…H16.5.2


南側はスッパリと切れ落ちた金屋鉱山跡。昨日登った天狗山猿藪〜高山から六甲の山並も望めます。石戸山(1等三角点549m)へは 直ぐだが展望は何時もの鉄平石で埋る賽の河原の高みでは360度の展望を楽しんで金屋鉱山跡まで戻る。光嶽(439m)からは奥の院へ下る一般ルートと別れて鉄塔下を抜けて尾根を辿り東向地蔵を経て金屋へ下る寺坂道。東向地蔵から右手へ下れば奥の院へ左へは金屋・JR谷川へ出る寺坂コースで稜線伝いに山道h続くが ポイントとなるピークも展望もないコース。
休憩所・奥の院地蔵堂から鐘楼堂 H16.5.2

尾根伝いの道は程なく尾根の東を捲きながら下り小さな鞍部に出る。西側に少し開けて岩屋・奥・井原集落や至山-石金山等が望める。小さな石仏が一基祀ってあるが、ここを越す人など既に途絶えて…と思っていたが利用者はいた…猟銃とトランシーバを持ったハンターらは単に[地蔵さんの峠]と呼んでいたが狩猟解日禁早々の出合です。7〜8人で来て私の行くコースにも2人ほど居るとのこと。
奥の院拝殿の石龕

コースを説明して 無線で連絡をとって貰おうと思っていたがバッテリー切れで連絡できないとのこと。此方が先に見つけて声を掛けるか・目立つ行動をとるか・注意するしかなさそう。この峠から先はコースも荒れ、倒木でルートを 右・左と変えるうちに南尾根の最高ピークに着く。東より尾根に沿えばトレース出来たかもしれないが此処より西に向って境界ポール沿いに藪漕ぎで下る。ハンターが気になるが犬は連れていないようです。
奥の院の岩窟(旧石龕寺本堂)

やっと擦り傷だらけの藪から開放されると岩場の上に出てしまったが露岩を回り込むように降りると広場になっており 岩場を背にして石仏が祀られています。石段や檀まで用意されている立派なものですが何の像だったか未確認。観音像だったかもしれない?。 此処にも初老のハンターが 一人手持ち無沙汰で立っており、突然後ろから現われた登山者にビックリしていたようです。
毘沙門堂石段下から奥の院への道が続く

こんなところへ人が飛び出して来るとは想像もしていなかったようで今後丹波の山でも注意が肝要!!。この祭壇へは参道があり阿波23箇所巡りの石仏が並び、ほどなく峠越えの綺麗な山道となり 四国八十八ヶ所巡り道となり途中には「うすさま明王」等の石仏をみて岩屋大師堂に出る。東へ向えば金屋側へ降りられそう。


石龕寺城 岩屋城塞群 久下城(玉巻城) 久下弥三郎時重屋敷 池ノ谷主計屋敷
 高瀬氏屋敷(高瀬城)  谷川織田家陣屋


石龕寺城(岩屋城・三輪城) 岩屋山 506m 丹波市山南町岩屋

「丹波志」や「氷上郡志」…等に記される「太平記」足利尊氏所縁の岩屋古城として載る城趾”石龕寺城(岩屋城・ 三輪城)”を此処にレポートしてきたが下記の4城(城砦遺構として未承認・仮称としているが)発見により南北朝期の砦や中世の黒井城支城・高見城との関連から岩屋城塞群(岩屋城(三輪城) 石龕寺城(奥の院)(仮称)頭光嶽城(仮称) 寺坂峠城(仮称)石戸山(仮称)を其の枝城として捉え下記に纏め後述する。
奥の院への参道口にて石龕寺信徒・住職による護摩供養

石龕寺城(三輪城)は石龕寺裏山(岩屋山 標高506m)の山頂にあって熊野権現・白山権現堂の祠を祀る。また石龕寺本堂(毘沙門堂)から頭光嶽へ通じる元:石龕寺本堂奥の院拝殿には毘沙門像を祀るが役行者像・蔵王権現像がある。鐘楼・梵鐘は足利尊氏が京・東寺に寄進したものを 模して、また南参道下の休憩所は地蔵堂(中世石龕寺僧坊の一:増福寺和田坂地蔵堂に因み建てられた)は平成6年開帳を記念して整備建立されたものだが南北朝中庸から室町期に入ると 修験の道場として修験者達の活動拠点ともなっており、
石龕寺もみじまつり:足利尊氏が城麓の毘沙門堂へ必勝祈願に向かう

熊野本宮詣の「石龕寺先達」として幾つもの坊名(講…の様なもの?)が遺される。石龕寺城(三輪城)山頂からは南に山南町・西に氷上町・北に柏原町の境界で遠望が効けば瀬戸内海も望める要所にあり要害の地でもある。 西北への尾根を辿れば石戸山を経て約2kmで高見城 ・東南に下ると玉巻城や金屋に、西に下ると和田・草部に通じ、播磨から加古川伝い"丹波攻め"敵を防ぐ播磨との前進基地。室町期から西丹波では名を知られた山城だが 築城の記録は定かではありません。
足利将軍屋敷跡(奥の院石龕の北側に復元?)

南北朝初期の建武3年(1336)後醍醐天皇方に敗れ京都を追われた足利尊氏は丹波に逃れ石龕寺城に入っているが観応の擾乱(観応2年 正平6年 1351)にも足利尊氏の弟直義と家臣高師直の勢力争い(桃井直常との合戦)に負け 再起を図り丹波へ逃れ嫡子・義詮が石龕寺城に立て篭もり約2ヶ月此処に逗留したことは「太平記」に記述があり其の跡が将軍屋敷として伝わる。「一番」旗印(玉巻城を参照)で知られた
関電巡視路(展望所)コース山頂手前に3段程小曲輪が

久下氏をはじめ荻野・波々伯部・長沢等西丹波の武士団が尊氏を守っており、中国地方に出陣中の高師泰・師夏兄弟の東上に合流するため、書写坂本城に落ちる尊氏は義詮に仁木左京太夫頼章 (後の丹波守護・高見城主)と弟・右京太夫義長に2000余騎を付け此処に滞めたといいます。「将軍屋敷・御所の裏・陣屋」と呼ばれている処があり 足利義詮ゆかりの地で当山の僧が献上した栗の一つに爪痕をつけ”都をば出て落ち栗の芽もあらば 世に勝ち栗とならぬものかは…”とよんだ天々宇知栗のエピソードを残す。織田信長による丹波攻めの天正年間(1573-92)の石龕寺最後の城主
岩屋山山頂主郭は丹波修験の白山・熊野権現祠を祀る

広沢綱忠(広瀬隼人行綱)は丹波防衛の一翼を担って立て籠るが天正7年(1579)5月19日播磨三木城包囲中の援軍丹羽長秀細川藤孝等:十数倍もの大軍に攻め入まれ久下の玉巻城久下重治)氷上の霧山城(波多野宗)等ともども石龕寺城も落城し約250年の歴史を閉じ ・麓の石龕寺も仁王門を残して兵火により焼失した。 城遺構は山頂を主郭約550uに平地があった様だが大部分が陶石(カオリナイト)の採掘で削り取られた断崖絶壁の外に消え、
石龕寺城・山頂祠下の空堀状残置採鉱用設備

祠東下部に空堀状?(尾根筋は上り土塁?状、南は空堀?状が採掘鉱山跡断崖に落ち込む (大岩を抱いたままの土砂ズレと積年の流水による割れ目か?)石戸山に向かう東尾根に遺る曲輪と3つの大堀切に悉(つ)きる。二つ目(中央部)の堀切の切岸西側曲輪端には石垣積みがあるが!?。3つ目(石戸山との鞍部)からは 長い堀底(竪堀)道を金屋鉱山跡に下るが主郭から南尾根は頭光獄へ延び、
東尾根二本目の堀切(石垣は残置採鉱用設備!)

直ぐ直下の奥の院(足利屋敷跡)への峠を久下氏本拠に直接繋がる。また石龕寺からの関電巡視路(展望台)を石龕寺城に至る要害の尾根は奥の院外壁・稜上にも 平安時代中期:村上天皇(在位946ー967)の崇敬厚く 多く造立された堂宇(千軒寺)や修験道の僧坊等が有事の際の砦ともなったとは推定できます。石龕寺
は丹波では最も古い寺といわれ聖徳太子の開基による古刹。用明天皇の代(587年)曽我馬子と物部守屋が対立していた頃、聖徳太子が毘沙門天像をつくり兜に付けていたが何時の間にかなくなっていた。
鞍部(三本目)堀切を鉱山跡へ下る

その仏像の一部が岩屋山の洞穴に祠ってあることがわかり聖徳太子はお堂を建て毘沙門天を作って祠ったのが寺の起こり。
「石龕」とは石窟=岩屋の事で石窟内に仏を祀ることを意味し此処・奥の院にその石窟があり石龕寺の発祥です。小野道風の「石龕寺」寺額(町指定文化財)を賜り、鎌倉時代の仏師・湛慶の仁王像は(国の重要文化財)谷川から寺坂コースや村森から井原を経て石龕寺に至る道端には仏像が彫られた町(丁)石が残り県の重要文化財に指定されています。
奥の院参道側に見る曲輪!!石積みは仁王門側まで鉱石を運ぶ索道跡

平成6年此の岩窟(奥の院)が復興され足利尊氏が京都東寺に寄進の梵鐘を模して鐘楼堂が建立され、復興で寄進の献灯された石灯篭も並んでいます。寺坂道(旧裏参道)と合流するこの場所には 休憩所が建てられていますが内部は「奥の院地蔵堂」で中世石龕寺の僧坊の一つで増福寺和田坂地蔵堂に因んで同時期(平成6年)に建てられました。兜の在処がわかったのは西光寺山の机峠からとの話もある。


岩屋城/石龕寺城(奥の院)/頭光嶽城/寺坂峠城/石戸山城

石龕寺城(岩屋城・三輪城)について”丹波志(寛政年間)・丹波氷上郡志(昭和47年)…等地方誌”には岩屋山の山頂城郭遺構についてのみ記述はあるが石龕寺奥ノ院を廻る周辺に岩屋城(三輪城)のほか石戸山城・奥ノ院背後には頭光嶽城、其の南尾根を奥ノ院参道(寺坂道)に降りた処には 寺坂峠城<何れも仮称>がある。此らの石龕寺城塞群の発見からは石龕寺城=岩屋城(三輪城)とされている説明では!!?、
岩屋山山上の白山権現社

足利尊氏・義詮父子所縁とある岩屋山を岩屋城(石龕寺城)と呼称するには少し違うのでは?…。岩屋山が石龕寺城(殊に仁木頼章の築城を意識しても)の築城時期・築城目的・城主等城史が一切不明のため推測の域をでないが、仁木頼章が高見城(柏原町側)ではなく氷上町側に前期(旧)佐野城を嘉暦2年(1327)鎌倉時代末期)に創築?:南北朝期尊氏より丹波守護に任じられたのは建武3年(1336)-康永3年。それ以前来住の事由知らず!?:まして氷上・柏原・山南の境界尾根の岩屋山に築城できる とは…!!?)、更に佐野城を再建し(暦応2年 1339)高山寺城から移っているが佐野城再建する以前は丹波の南朝方が度々籠もった弘浪山の高山寺城。 岩屋城は丹波境にあって播磨方面と高山寺城監視砦とは考えられるが
北谷参道(廃道?)奥の院下部から展望所?と岩屋山

佐野城の方がより弘浪山には近距離で警戒・臨戦対応が迅速にとれる。元弘3年(1333)後醍醐天皇が船上山の挙兵した際、千種忠顕に従い幕府軍と戦い六波羅を攻めるが京で破れた荻野朝忠(赤井から荻野に改姓し荻野氏の祖とされる!?)・児島高徳 ・本庄氏等敗軍約3000が高山寺を城郭化して拠っ高山寺城と同様、僧兵らが籠もる大山岳寺院だったと推察。石龕寺城(奥の院)も 桃井の合戦正平6年(観応2年 1351)にも足利氏の支族:桃井直常(ただつね)・尊氏の弟直義(ただよし)と対立し争いに京を逐われ西国に下る際にも足利尊氏・義詮父子が久下氏を頼って丹波に遁れ
石龕寺:仁王門から続く石畳参道

:岩屋山石龕寺(奥の院)を城郭化して入り、周辺の尾根筋に警戒・見張りの砦が築かれたものか…観応2年(1351)足利尊氏が石龕寺に入った時期の丹波守護は山名時氏。頼章が再び守護となるのは此の年の夏以降。南朝の但馬山名氏や葛野荘(氷上町新庄)の本庄氏ら丹波の南朝方が幾度も籠もる弘浪山の高山寺城の動向監視なら岩屋城より佐野城(現:高見城か馬背山城(仮称)が適地。そのうえ南面からは天険だが北面からの攻撃は比較的楽なのも気掛かり。丹波守護としては播磨口の監視も重要。頼章は弟義長(高見城ー穂壷城間の城塞群:萱仮坂近く:鴨野城<谷屋砦>城主)や
石龕寺奥の院の将軍屋敷跡

石龕寺の衆徒・久下・荻野・波々伯部・中澤(長澤)等丹波の土豪2000余騎が石龕寺に集結:警護したとある。尊氏が再挙して九州から京へと東上してくる2ヶ月程を義詮が逗留した将軍屋敷跡がある。 丹波守護は仁木氏(建武3年1336-)から山名時氏 (康永2年 1342-)・観応2年(1351)に再度仁木氏-(文和1年 1352-)高師詮・文和4年(1355-)には 三度仁木頼章が就く…と目まぐるしい。山名時氏が丹波守護の丹波守護代(観応1年 1350-)久下頼直(時重の二男 池ノ谷主計屋敷?)が高見城主となっており、 明徳3年(1392)以後丹波守護が細川氏になってからも?
岩屋山直登ルートの展望所?鉄塔から奥の院(中央部の尾根)

玉巻城の久下氏が高見城を預かっていた様なので高見城から石戸山更に此処からは 尾根続きに玉巻城や久下氏本拠の金屋に至る一帯の古城の岩屋城(三輪城)・頭光嶽城と寺坂峠城を改修、中世戦国期には黒井城支城高見城の城塞群として、 高見城に繋がる石戸山城が石戸坂や奥野々峠へ短絡できるので警備・守備にと、城塞群が築かれ石戸山城・岩屋山城(三輪城)・頭光嶽城と寺坂峠城(仮)が機能したのでしょう。 岩屋山石龕寺は天正5年(1577)明智光秀「丹波攻め」に遭い僅かに兵火を遁れた石龕寺山門(南大門:仁王門)だけが唯一遺り再建され仁王像も修復されているが
頭光嶽城東面に5条程竪堀あり

岩屋城の落城がこの時の兵火によるものかは記録なく!?不詳。岩屋城(三輪城)現状は狭い山頂主郭の南面は大正-昭和に掛けて切出された金屋鉱石採石場跡で分断された断崖絶壁:空中に消えた山城遺構の南尾根続き城域は不明。空白の城域は採石場跡続き南尾根にのって約200m程?に土橋付堀切が敷設されさらに30m程で頭光嶽城(北面の曲輪に達し複数の竪堀を観る。頭光嶽城は送電線鉄塔南の広い2-3段曲輪からの下降尾根にも延びる緩斜な尾根上200m程?に堀切と土壇?を背にする小曲輪がある。堀切の西面は石龕寺奥ノ院を結ぶ寺坂道側に落ちる。
頭光嶽城主郭南東面(下部に竪堀あり)

南尾根続きに奥の院【石龕寺城(岩屋城)】背後には頭光嶽城(仮称)があり中世:三輪城(岩屋城)の南出曲輪と思える。中世:氷上郡内を勢覇した赤井・荻野氏による築城なら解るが…丹波国氷上郡の井原荘・栗作荘(山南町):沼貫荘(氷上町):新屋荘(現:柏原町)…等の各領主境界三方(別称:三輪城の起りか?)に通じる位置にある。足利尊氏父子が拠った二ヶ月ほどの逗留期間に氷上・柏原・山南の三方(別称:三輪城の起りか?)に通じるが険しい山上部に詰城が築かれたとも思えず石龕寺城(岩屋城)の詰城?的存在は頭光嶽城(仮称)。此の南尾根を下る寺坂峠には寺坂峠城(仮称)がある。
頭光嶽城東面の竪堀

久下氏本拠の山南町久下の金屋から通じる奥の院への寺坂峠の二城は久下氏が石龕寺城の南大戸(表門)を守備する監視の城砦だったか?。 石龕寺城(奥の院)自体は将軍屋敷跡等…広くはないが地蔵堂に至る周辺に数多の僧坊跡・屋敷跡からも修験の講堂か?「御所の裏」の名もある。奥の院を取り巻く周囲の細く険しい露岩の尾根筋にも岩屋城(三輪城)や頭光嶽城(仮称)が臨戦的な城砦が築かれ、石戸山城(仮称)西面の谷筋(金屋鉱山跡を見ても)に水場もあり、:石龕寺毘沙門堂の西に祀られる焼尾神社(仁治2年(1241)創建を伝える石龕寺の鎮守)も 既にあって周辺に多くの将兵の駐屯・兵糧集積貯蔵も可能。
寺坂峠城北端の空堀土橋

頭光嶽城(仮称)・寺坂峠城(仮称) 頭光獄は聖徳太子兜の毘沙門天像発見と石龕寺開創に起因する山で、直近にある石龕寺城(奥の院)【足利義詮が石龕寺奥の院に二ヶ月余籠った際は現:毘沙門堂や境内社の焼尾神社(仁治2年 1241創建)周辺、北谷道(行者道か?直接:将軍屋敷横に到達する)谷筋や左岸斜面上の石積み堂宇跡】奥の院登山口にも 奥の院周囲の僧堂を城塞化し周辺に砦を築き城塞とした。久下氏本拠地の山南町久下金屋からは聖徳太子想基の石龕寺奥の院に通じる寺坂道があり、高野山町石の様に:其の以前から木や板柱等で標した参詣道があったのかも?。
寺坂峠城::空堀中央部の上り土塁道

寺坂峠城(仮称)が大手に充る南口の表木戸(番所)を堅固する関所砦と峠からは 丘陵頂部:奥の院直ぐ背後の頭光嶽を詰城とする頭光嶽城(仮称)と共に義詮逗留中の数ヶ月は稼働していたか?。石龕寺城(奥の院)の鐘楼側から続く急斜面を2-300m程登ると送電線鉄塔を乗せる頭光嶽(439m)山頂。山上からは鉄塔越の北尾根先の鉱山跡崖上に 岩屋城(三輪城)と東へ延びる尾根上に 石戸山(石戸山城)を望む。鉱山跡で分断される岩屋城(三輪城)との間には 城域を分けるかのような”土橋付堀切”が二本ある。頭光嶽城(仮称)は鉄塔の北下部に二段程の小曲輪と東面にも削平段があるが此の曲輪から主郭東斜面に掛けて3本ばかり竪堀が落ちる。
寺坂峠城:空堀底(高さ1.5ー2m程・塹壕?)

主郭の南側に広い2-3段の曲輪があり主郭部南端は自然地形ながら岩を抱く切岸状。深いU字状の竪堀が一本落ちる。此れよりは比較的緩斜面の尾根上に間隔は空くが削平段が現われ浅い堀切上の瘤と見えるが土塁?と小曲輪が一つ。5-60m程下方には石龕寺奥の院に通じる寺坂峠(廃道)が見える。小曲輪の約50m程下方が寺坂峠で峠の東向き地蔵と説明板が立つが日想観(西国浄土の信仰?)によるものか!?「東向き地蔵」は珍しいと云う。
寺坂峠城南端の堀切土橋(西面に一条竪堀?が付く)

戦時には兵隊除けに此処に詣り縄で地蔵を縛ったとも伝わるが踏跡も消えかけ藪道となって久しい?寺坂道を 奥の院へ向かう途中・峠の地蔵に手を合わせる人はいるのだろうか?。寺坂峠城(仮称)は寺坂峠にあり久下氏を頼り石龕寺に入った足利義詮(尊氏の嫡男)が二ヶ月余り逗留した(将軍屋敷跡がある)石龕寺城 (奥の院)からみて南大戸(表門にあたる!?)南門は久下氏本拠地:金屋から直接奥の院に通じる寺坂峠への道。”寺坂峠城”を奥の院出入監視の木戸門、頭光嶽城も石龕寺城(奥の院)の詰城ともなる。仁木頼章による指示の有無は知らず、
寺坂峠城主曲輪から北面に2段の袖曲輪

久下氏により築かれた城砦と思われるが 高見城主久下氏は 観応元年(1350)のみ?で翌年には仁木氏が再び丹波守護職に就く。仁木氏が去った後は赤井・荻野氏が勢力を持ち衰退する久下氏は其の傘下に入ることになる…頭光嶽城(<仮称>奥の院からの詰城 ・岩屋城の南郭としてか?)や、久下氏居館の金屋に下る寺坂峠の奥ノ院南口(表門?)の寺坂峠城(仮称)改修されたものか、頭光嶽城の土橋付堀切や複数の竪堀、寺坂峠城虎口部の土橋付空堀・南口の土橋付二重堀切(片堀)・奥の院側斜面には上り土塁を挟む二つの空堀(塹壕?)…等改修は高見城主によるものか?。久下氏本拠の玉巻城(久下城)さえ高見城砦群の一城塞として氷上郡南端の守備を任されただけの存在。
石戸山山頂西面の曲輪群

石戸山城(仮称)
久下氏本拠の金屋から寺坂道や鉱石搬出ルートを頭光嶽-岩屋山へ、此処からは石戸山を経て高見城山への縦走コースが一般的だが八幡山(玉巻城)から八の瀬(423m)を経て石戸山城に繋がり玉巻城の詰城とも思っていたが三木城包囲中の播磨からの援軍:丹羽長秀の大軍に無勢の玉巻城は落城。その際岩屋城(三輪城)守将:広沢氏は石戸山から尾根続きに1時間ほどの距離に救援の動向が見えない?。岩屋城は高見城支城・石戸山城はその岩屋城の城砦の一。岩屋城から石戸山城へは近く、中程からは右手に竪堀状(堀底道?)の溝が登山道沿いに続く。
石戸山登山道に平行する竪堀(堀底道か?)

既に城域!!其の手前:土橋状通路となる左手に小曲輪(木戸口でもあるが水場監視を兼ねた曲輪?)をみて右手へ脇道を入ると水場・其処から下方へ溝谷が落ち、水場の上には18x25m程の広い井戸曲輪?があり、此処から石戸山頂に出る手前にも2段ほど鉄平石の石片が散存する曲輪がある石戸山(一等三角点)無線中継所(加古川流域災害に備え)施設跡を含め西に3段程・南側に2段、縦走路沿いに賽の河原(鉄平石採石場跡)から高見へ延びる北斜面にも3段程の小曲輪をみる。取水に苦労する山城だが石龕寺城(奥の院)や寺坂峠城は大槽谷があり石戸山城・岩屋城・頭光嶽城の三城とも水場は確保出来る。

久下城(玉巻城) 八幡山(寺山) 241m  丹波市山南町玉巻・長野・金屋

JR谷川駅から奥野々峠を越えて柏原町へ向う県道86号は直ぐに玉巻の加古川線と福知山線の二重踏切にさしかかる。福知山線側踏切側に”玉巻城”標識があり、その奥には久下氏一族代々の菩提所の長慶院が建つ。丹波久下氏の先祖”久下時重”の顕彰碑”東竹院殿”菩提の五輪塔が祀られます。背後の八幡山241mの山頂に久下氏16代の居城玉巻城(久下城)がある。足利尊氏が二度も此処に逃れ子の義詮が後に丹波守護となった仁木頼章や久下氏に護られ逗留した石龕寺城から高見城への稜線上にある
丹波久下氏先祖:時重の顕彰碑


石戸山から南へ延びる尾根筋の八の瀬(423m)から一気に高度を下げる稜線南端に半独立丘陵を形つくる山頂部に一本の堀切だけが唯一城跡である事を認めさせる玉巻城だが東面から南面にかけて崖状の急斜面を山裾に落とし東麓を玉巻川が流れる。明確な曲輪を確認出来ないが本丸の西側に一本の堀切 (高さ約1m程)が残り、周辺には石積みの跡が僅かに残っており三の丸附近にも残石が散乱しているが城の遺構かどうかは即断出来ない状況ですが…山頂に至る明確な山道はないが長慶院の北方200mのJR玉巻踏切りを渡り小さな社(稲荷社?)から続く石畳を墓地へ詰め
東竹院殿菩提の五輪塔(遠祖重光のものか?)

手前から尾根に取付き稜線の最低鞍部を目指す。久下氏は舒明天皇の皇子・磯部親王の末流で多田満仲の子を養子とし武蔵国大里郡久下保(埼玉県熊谷市)を本貫地とし武蔵7党に属した豪族です。治承4年(1180)伊豆国で平氏打倒の兵を挙げた源頼朝が 大庭景親・河村義国らにより石橋山の合戦(箱根)で敗北し再起を図って土肥の杉山(!!?)で挙兵した際・大庭氏に属していた久下次郎重光
玉巻城山麓:菩提所からJ池ノ谷主計屋敷(中央左)と 鍋倉城(右の山)遠望

(熊谷次郎直実の兄)が手兵を率いて真っ先に頼朝の陣営に馳せ参じたので、その忠誠を賞賛し一番旗と家紋を賜って後に 栗作郷(久下・上久下地区)の地頭職と美作国印庄と伊豆国玉川庄の領家職に任ぜられ 久下軍の旗印一番旗と家紋を賜っています。久下氏「一番」旗印について足利尊氏も高師直(こうのもろなお)に理由を聞いています。源平合戦に戦功を挙げ・承久の乱後に重光の孫久下中務丞直高が承久3年(1221)新補地頭として武蔵国より一族挙げて此処栗作郷(後:久下庄)の玉巻に移住します。 久下城(玉巻城)を築かれたのは直高の4代:
玉巻城の堀切越に主郭を望む

南北朝期久下弥三郎時重のとき。足利氏に属し元弘3年(1333)4月後醍醐天皇の令旨を受けた足利尊氏が北条氏の六波羅軍 (京都)を攻めるため丹波・篠村八幡宮(亀岡市)での旗揚げ(参陣の呼びかけ)にも1番に馳せ参じた。足利尊氏が建武3年(1336)新田義貞らに敗れて丹波に逃げたとき、および観応2年(1351)弟直義と争った観応の攪乱に孤立し嫡子義詮と丹波に逃れたとき、
玉巻城:堀切と主曲輪南から西下に落ちる竪堀

久下時重は尊氏をよく防護した。尊氏が義詮を井原庄(丹波市山南町)岩屋の石龕寺に留めて播磨に赴いた後は仁木頼章(後丹波守護高見城主)と義詮をよく護ってその危機を凌いだ。尊氏父子の危難を救った功績は大きく時重・子の貞重・頼直・幸興ら久下一族は丹波(現:丹波市山南・柏原・氷上町)や和泉大鳥庄・飛騨石浦郷、武蔵久下郷・丹後国河守庄の代官・宮津庄の地頭職等所領10数ヶ所を与えられ丹波国の有力国人領主となった。守護:山名時氏のとき細川氏清から 丹波守護代を命ぜられたのが久下頼直(観応元-2年(1350‐51)。
玉巻城二ノ曲輪:主曲輪東下へ自然地形の緩斜面が続く!!?

此の頃が久下時重・貞重父子の代が久下氏が隆盛を極めた最盛期で時重二男が池谷を称した。玉巻城支城池ノ谷主計屋敷の主か。以来久下氏16代360年に渡り玉巻城を本拠地として一帯に勢力を振るってきた。山名時氏が再度・守護職となるが 死去し山名氏清が継いでいたが明徳の乱(1392)に守護代小林修理亮に属し、丹波国人領主らと将軍方の軍勢と対陣した。しかし丹波軍が将軍方に寝返ったことで敗戦を免れ、重元は将軍義満から所領を安堵されている。その後も代々の将軍に所領を安堵されたが戦国時代に至って全く状況は変化した。応仁の乱(1467−77)以後衰退し栗作郷の久下谷一帯を領有するに留まった。
玉巻城三ノ曲輪:周辺に石材が散在する・・!礎石か?

明応年中(1492-1501)河内国:畠山氏の内紛に久下政光は将軍義材に従い河内畠山義豊討伐に出陣したが義材の留守中に管領で丹波守護職の細川政元が新将軍として義澄を擁立してクーデターを起こし、義材らを攻めるため大軍を河内に進軍。将軍方は大敗し義材は降参し政光は逃走したが丹波守護:細川氏・守護代(上原氏〜内藤氏)はもとより、近隣の国人らも全て敵方となって孤立した政光は 所領を横領され衰え以後文亀・永正の頃まで流浪していた様?だが黒井城:赤井・荻野氏の覇勢に久下氏も其の麾下に入らざるを得ない状況となってきます。
玉巻城三ノ曲輪東面の石材

古文書等には多紀郡(篠山市)八上城主波多野氏七頭の筆頭に名を連ねてもいますが!!?。天正期に織田信長の全国平定が進み、丹波攻めの将 ・明智光秀が黒井城を攻撃した折、その防衛の最前線として久下越後守重治(三郎左衛門太夫源30歳)は氷上城の波多野宗貞と玉巻城に立て籠り、播磨から侵攻してきた丹羽長秀軍の総攻撃により奮戦したが天正7年(1579)5月に落城し久下一門は城と運命を共にしました。天正期まで残った城なのに主曲輪と堀切・竪堀一本を除いては緩やかな広い尾根上に削平されている曲輪や其の切岸は曲輪の段差さえ不明確、
玉巻城主曲輪南下部の竪堀


土塁や遺るとされる石積さえも其の施設が明確ではありません。谷間を埋めるように散在するおびただしい石や、山裾に長く延びる猪垣の石垣に、久下城も同じ町内にある岩尾城の様な石垣造りの堅城ではなかったかと想像してみる。 しかし「一番旗」を掲げ勢力を誇った久下氏も黒井城主・赤井氏傘下にあって、石戸山から高見城山への尾根筋に残る城塞群の守備を任されただけとなり、戦乱の続くなかでは力関係もあってか改修する事も適わず高見城黒井城の城塞の一つとして玉巻城は独自の城郭を持てなかったのでしょうか。
玉巻城:三ノ曲輪東面の石材

明智の丹波攻めが長引くなか・播磨国境の守備につく山南の玉巻城は片瀬近江守の鍋倉城(山南町太田)と共に播磨側から攻める丹羽長秀軍により落城します。玉巻城を築いた時重の孫娘で城主:重元(重之?)の妻が室町時代中期・応永8年(1401)祖先の菩提を弔う為に 庵(長慶庵)をむすんだのが始まりといわれ、長慶庵を再興した恵日寺の満拙和尚の高弟:華翁玄栄和尚により中興された。玉巻の護国山長慶院 (天台宗から臨済宗妙心寺派に改宗)に名を改めて恵日寺末寺となる。
池ノ谷主計屋敷から玉巻城(久下城)を遠望

久下時重の顕彰碑があり久下次郎重光初め一族代々の城主や将士の菩提寺となっています。久下重治の奥方と二人の子供が市島町の段に落ち延び隠れ住み、一族を弔った逸話は前山(さきやま)の手向塚を御覧下さい。久下重治の二男・五郎正治は大阪城に入り夏の陣で討死したといわれます。
(山南町史・山南町文化財のすがた・兵庫県中世城館荘園遺跡 等を参照)

久下弥三郎時重屋敷(久下館) xxx Ca320m 丹波市山南町金屋字カマエ

JR谷川駅の西北には岩屋山から八ノ瀬(423m)へと南へ延び出した丘陵の末端部に位置する玉巻城(久下城)が見えています。武蔵7党に属した豪族・久下氏(埼玉県大里郡久下郷)は源頼朝の挙兵に”一番”に駆けつ けた事で名を挙げ承久3年(1221承久の乱)後久下中務丞直高が地頭として武蔵国より来住した栗作郷で、東北方の約1.2kmには本拠の玉巻城(久下城)が、周辺には鍋倉城・大河城・西山城・太田氏屋敷大谷城・至山城や 大森山城等々の久下氏一族の城砦群が篠山川を挟んで南北に築かれます。
久下時重屋敷(南側から比定地)

元弘3年(1333)久下弥三郎時重のときには丹波・篠村八幡宮(亀岡市)に旗揚げした足利尊氏の元へも一番に駆けつけ、其の後・尊氏が2度も京都を追われ丹波に逃れたときにも、よくこれを護りその危機を支えた功により今の山南・柏原・氷上町や飛騨石浦郷、武蔵久下郷等、所領20ヶ所を与えられ、此の地を拠点として一帯に勢力を振るってきました。観応年間(1350-52)には丹波守護代となり氷上郡の大半を領有し隆盛を極めたときもあった。其の後の詳細?等は上記の玉巻城を参照願います。此の玉巻城の南裾を廻り込むと 西側に金屋の集落と田園風景が広がります。金屋の谷を詰めると岩屋山に至るハイキング道寺坂コースとなり足利尊氏が逃れた石龕寺 ・尊氏の子・
久下時重屋敷

義詮が仁木氏を後見人として逗留した石龕寺奥の院には屋敷跡や岩屋山山頂には中世山城がある。篠山川を渡り石龕寺への南口を護る位置・集落の高みに金屋公民館が建つ辺り、字カマエと呼ばれる所で東西約35m・南北約70m四方に 掻き上げの堀・高さ約2m・幅約5mの土塁が残っていたといいます。カマエには外堀もあり裏木戸・西木戸もあったといいます。土塁の内側には時重を祀る八幡社の小祠があったが、明治42年加茂神社に合祀されました。此処には古井戸が有って時を決めて日に二度水が濁るといわれていた。久下時重の来住以前には土豪森田駿河守(丹後守!?)が居を構えていたともいわれます。カマエの竹・木・土等を村人が盗れば祟りがあるといわれます。また弥三郎と名付けると障 (さわ)りがあるともいわれていました。
石龕寺もみじまつり:足利尊氏父子に従う久下氏!!

検地のとき地主の六兵衛は久下時重の屋敷跡のいわれを説明して免租を願いでて八幡社の境内として一部分が免租地になったといいます。また・こんな話も…北の山の頂上に遠見の跡らしい”栂の丸”と呼ばれるところがあり、此処に久下氏の家老・南五郎兵衛が立て篭もったとき、竹田七郎という落武者が馬で栂の丸へ駆け上るところを五郎兵衛が矢を放って七郎を射落としたといい七郎塚があり、また臼挽き歌に「いとしや竹田七郎殿の死骸は金谷の栂の丸…」とあります。
<山南町誌 参照>

池ノ谷主計屋敷 xxx山 227m   丹波市山南町池谷

送電線高圧鉄塔が建つ尾根上のピークと南側のピークから南端へ突き出してきた丘陵が谷川駅ホームの北側150m程に迫ります。急斜な丘陵上に池ノ谷主計(かずえ)屋敷と呼ばれる屋敷跡があり高い切岸を持つ曲輪と堀切の遺構が残ります。丹波守護代・久下弾正忠頼直(池谷)が池ノ谷主計屋敷の主か?其の頃・播磨大志野城主だった
玉巻地区から池ノ谷主計屋敷(丘陵上)

久下清雄が康安元年(1361)池谷に来住して大志野氏を称したとされます。此処を城館としたか其の末裔なのかも不明ですが!?。JR福知山線谷川駅のホームに立っと丘陵の山裾を北方から南面へと廻り込んで 大阪方面行きの列車が滑り込んできます。西陽を受けて照く丘陵南端の峰上には元弘3年(1333)丹波篠村八幡宮(亀岡市)で挙兵した際一番に馳せ参じた久下弥三郎時重の玉巻城があります。
池ノ谷主計屋敷の城域を大きく外れた北尾根上にも堀切・土塁を見る ?

JR福知山線谷川駅西方の玉巻から県道86号(奥野々峠を越えてR176号)柏原町下小倉へ抜ける山峡の東側を街道に沿って延びる低丘陵の南先端部に位置する。街道を挟む西に久下氏本拠の玉巻城 (久下城):東にはJR谷川駅に山麓が迫る丘陵上の城山227mに”池ノ谷主計(いけのやかずえ?)屋敷”があったと云う!?が城主や城史については殆ど判らない城館ながら玉巻城より明確な城郭遺構がある。
池ノ谷主計屋敷・主郭堀切側切岸と上り土塁

池ノ谷主計屋敷へは奥野々峠に向かう 県道86号「玉巻」や「松ヶ端付近」の車輌休憩スペースからも可能だが南正面の「池谷公民館」背後から。登り口に先祖供養:法華経の一石一字供養塔が建ち、谷寄りの山道を詰めても大堀切に行き着くが右手麓に点在する墓地の脇道から簡易舗装の参道を奥の福??稲荷に向かう。稲荷社では今も?地区民により例祭が執り行われているようで、前の広場では最近まで?子供相撲が奉納されていたよう!?。
池ノ谷主計屋敷の城域を大きく外れた北尾根上にも堀切・土塁を見る ?

福吉稲荷曲輪!?此の社殿を含めた?一帯に数段の福吉稲荷曲輪<仮称>遺構があり池ノ谷主計屋敷への大手門なり木戸口(番所)に充る東出郭だったか?。福吉稲荷曲輪はJR谷川駅前を通る?嘗ての延喜式旧山陰道(県道77)が篠山川に最も近接して併走する位置にあり旧街道筋監視の砦としても適地。「池ノ谷主計屋敷」程の広い城域を持つが低い曲輪段だけ?。稲荷社側に大きな空堀状・主郭?北背後に片堀切状の崩壊地形を観るだけだが是も思い過しか!!?他に防御施設を見ない。尾根伝いを西寄りに進んで池ノ谷主計屋敷一番の見所:
池ノ谷主計屋敷主郭から西斜面の曲輪

高低差4−5mの高い切岸下部に着く。埋もれた堀切(尾根幅が広い平坦地形なので堀切りというより空堀状?!!)に出る。切岸上の主郭部へ斜上する「上り土塁」が荒れた主郭内の小さな曲輪に入る。小規模城郭だが主郭の大堀切南斜面に沿って平行に落ちる竪堀が一本・更には主郭西南曲輪段端にも南斜面にと、都合二本の竪堀が確認出来たことで城縄張遺構として少しは格が上がるのかも?…。段曲輪群の段差は曖昧で距離もあるが西斜面を少し下った位置にも県道(奥野々峠越え)と 西正面にを玉巻城を望み呼応する曲輪段がある。
池ノ谷主計屋敷・細長い平坦地

丹波守護代:久下(池谷)頼直の居た南北朝時代:此の城に拠ったか?は不詳。荻野・赤井氏に降りて以後、城主も代わり城も改修されてきたか…等の城史も不明…。南北朝期・足利尊氏に仕え、細川氏の元で丹波守護代を務めた久下氏だが赤井氏の台頭で 勢力を弱め天正期には赤井氏配下にあった久下氏本拠の城に残る顕著な遺構が堀切一本だけは寂しい限りだが嘗ての 久下氏の勢力強化を恐れて城の修築・補強さえ許されなかったのかも知れないが、
池ノ谷主計屋敷:主曲輪西端付近より南斜面に落ちる竪堀?

池ノ谷主計屋敷の方は曲輪や堀切遺構が比較的明確に残されている。JR谷川駅北側が池谷地区なので本来は此方に大手登城口があったのでしょう。狭いが尾根幅一杯に削平の粗い平坦地が続き少し広い曲輪に着く。浅い堀切だが主郭部に高い切岸(4-5m)を立て山側に続く尾根を遮断し、曲輪南端に斜上して入る登り土塁があり削平された広い曲輪に入る。注意散漫で土塁には気付かなかったが防禦を補強する必要がありそうな西南の斜面上に並ぶ曲輪も段差は小さく、防備や城域を区分する土塁等による改修補強の跡は見られなかった。
池ノ谷城北砦(仮称):北尾根先の平坦地?

南北朝期・足利尊氏に仕え、細川氏の元で丹波守護代にもなった久下氏だが赤井氏の台頭で勢力を弱め天正期には黒田城主赤井氏配下となった。久下氏本拠の城に残る顕著な遺構が浅い堀切一本だけは寂しい限り。それに反し:池ノ谷主計屋敷は曲輪や堀切遺構が比較的明確に残されている事。嘗て短期ながら丹波守護代を努めた久下氏勢力に対し其の勢力強化を恐れて城の修築・補強さえ許されなかったのかもしれない。徹底的な”城割り”が行われたとも思われないだけに虚しさが倍化します。
池ノ谷城北砦(仮称):北尾根先の曲輪段?

守護代として”池ノ谷”を名乗る山上遺構が居館を構えた主計屋敷とも思えず城史(時代や城主の変遷…等々)も一切不明?。玉巻城支城群の一つであったとは思えます。忽然と消えた鍋倉城の太田氏(?片瀬氏)とともに、いつか丹波の無名の城・砦・居館の位置や城主・城史等の歴史に光が射せば…その調査や歴史家の研鑽と成果に期待したいと!。池谷の地には其の後荻野氏子孫?、播州大志野城(黒田庄町岡桂松山城?か 極楽寺構居か?)の後裔久下清雄?が来住したと!!。
池ノ谷城北砦(仮称):北尾根先の堀切

「池ノ谷主計屋敷」については丹波志(寛政年間?)や氷上郡志・「丹波戦国史」…等に古城としての名もない城の一つだが、山南町誌:昭和63年版)には「北の城山の峰に屋敷跡があり城主:池谷主計がいた」と云う。遺跡分布調査報告書・山南町(旧郡教育委員会)に「…屋敷」として記載される城砦遺構だが関連ある曲輪遺構としては主計屋敷背後の北尾根続き:関電送電線(No.63)鉄塔から更に北へと延びる尾根が、県道86号奥野々集落を望む丘陵上にも2-3段曲輪と堀切がある。
福吉稲荷曲輪(仮称):主曲輪?から…社殿も曲輪か?

此の堀切を伴う小規模な城郭遺構は久下氏一族の最盛期を迎えていた南北朝期:奥野々峠を越えた柏原町下小倉も拝領地で久下氏本拠の玉巻城へ繋がる街道監視の砦であったかとは推察するが…「池ノ谷主計屋敷」からは尾根続きとはいえ3km程離れた出曲輪?。ただ城砦名に窮するため直接関係するものではなくとも
池ノ谷城北砦(仮称)とする。奥野々入口部から石戸坂を越え高見城への大手口(現:悠々の森)に
福吉稲荷曲輪(仮称):池ノ谷主計屋敷側の堀切?

至る道は新井ー稲継城ー本郷…へ通じる要衝の街道筋監視にも当たっていたものか?。広い平坦段の北端に浅い堀切と100m程下方に三段ほどの小曲輪をみる。池ノ谷主計屋敷からの北尾根続きにある池ノ谷城北砦(仮称)や南麓の大河・更に北大田集落側低位置の尾根上の
福吉稲荷曲輪(仮称)は何れもが山麓に点在する玉巻・長野・池谷・大河・北大田・奥野々…等の村人が戦乱に逃げ込んで避難した「逃げの城」だろうか?。


高瀬氏屋敷(高瀬城)
 xxx Ca98m  丹波市山南町谷川四区

JR福知山線谷川駅を発車した下り列車は西方約200m程で県道86号に出て、西へJR加古川線を分け福知山線は北方へと石戸川沿いに奥野々坂をJR柏原駅に向かいます。2本のJR線が分岐する地点・加古川線側は崖状の丘陵先端部直下を抜けていくが此の丘陵頂部に玉巻城(久下城)があり、福知山線・県道86号線の東方の丘陵上に池ノ谷主計屋敷(久下氏支城群の一つ!?)がある。
高瀬城址(本丸稲荷社と谷川4区公民館)

石戸川が篠山川に流れ出し、更に約1km程では北からは金屋川の水を集める。此の金屋集落内に久下弥三郎時重屋敷がある。承久の乱後に久下氏が武蔵国より地頭として栗作郷(久下地区)に来住し居館を構えた所。金屋公民館の辺りの字カマエと呼ばれる所があった。金屋地区から背後の丘陵部を越えれば久下氏を頼り二度も丹波へ逃れた足利尊氏や嫡子の義詮が逗留した岩屋の石龕寺に至る。
高瀬城(北方丘陵麓:久下氏本拠!?の金屋地区)

金屋地区から篠山川を越え真南約400mの平地に位置する高瀬氏屋敷(高瀬城)だがJR加古川線沿いの篠山川は谷川駅南〜久下村駅西に掛けて南部を除きコノ字状に城域を囲むが南東から篠山川に流れ出る山田川は城域の西を深い溝谷となって南面も大きくカバーする。さらに県道77号(延喜式の山陰道が通じ、篠山川が加古川に合流すると加古川上流へと氷上回廊を但馬・丹後方面に向かう)が側を抜ける。県道77号は播磨路へも連絡するが山田川の上流【鍋倉城の西山麓】も笛路から西脇市門柳や荘厳寺へ、首なし地蔵からは大呂峠を西脇市住吉町や黒石ダムから篠山・今田や三田方面へ峠越えで通じる。
本丸稲荷社:高瀬氏屋敷の主は狐だったと…!!の伝承

複数の川と街道のスクランブル交差する要衝に位置する高瀬城(高瀬氏屋敷)。 約60m程先には近世の柏原範織田家の谷川陣屋(推定地)があって「谷川4区公民館」・正一位本丸稲荷大明神の扁額が掛かる鳥居・大法山正覚寺 (臨済宗妙心寺派)の建つ台地一帯。城屋敷・城藪の字名の地名があったところが高瀬氏屋敷(高瀬城)の主要部?。正覚寺の南側山門前の旧道・四つ辻南西側に建つデイサービスセンター(旧信金跡!?)とxx信金前の狭い通りを 南へ抜ける谷川中央公民館の東約100m程の田圃。
高瀬城(神社側に枡形状台地や更に西民家付近には深い空掘も!!

民家が散存する辺り(本丸稲荷からは南東に約300m程)は字名カマエと呼ばれ下屋敷や武家屋敷群があった処か?。北東方に玉巻城(久下城)其の東隣り丘陵には 久下氏一族の支城か?池ノ谷主計屋敷が望まれる。稲荷社の北は一段低く 小字:城の下、城藪の字名もあるが場所不詳…県道側北正面は篠山川を隔て金谷地区。高瀬城も久下氏配下(一族?)の此等支城群の一つとして街道監視の任に当たっていたものか?。稲荷社の北正面に金屋地区・北東方に玉巻城が望まれる。
下屋敷が在った!?付近…正面小山が玉巻城、右端が池ノ谷主計屋敷

公民館北側と小さな本丸稲荷社の西面は枡形状になった高低差1m程の台地にある。四方は掘が廻っていたといわれる名残だろうか?。結構深い空堀だったようだが、公民館や宅地整備で消滅。北と東はバイパスや車道整備で石垣積にとなり旧状は不明。何時の頃までだかわからないが東口には門柱二本が残っていたという。また此の屋敷の主は吉之丞という狐だったと云う。人情味ある話の多い狐の伝承を是非知りたいものです。
(久下村史・山南町史 参照)

谷川織田家陣屋跡 xxx Ca100m  丹波市山南町谷川

久下地区中央部・南西方の丹波市役所山南支所・山南公民館を隔て深い溝を刻んで山田川が 篠山川へ流れ出る。交通の要衝にあって高瀬氏屋敷(高瀬城)と直近に旗本織田氏【慶長3年(1598)転封となった前期柏原藩織田家初代信包の四男信当(三代信勝の叔父)が分家し遺領一部の丹波谷川3000石を領した】
中央の曲りくねった変則四辻の正面奥が正覚寺

谷川織田家陣屋を置いたが時代は不詳だが信当・其の三男信相に…明治維新に至るまで旗本の谷川織田家のみが織田の血脈を継いでいるとされます!?。旧○信金跡(現:養老ケアセンタ)付近に織田家菩提寺:臨済宗瑞照山や墓所のあったが!!?明治36年廃寺となり 織田氏位牌7基は正覚寺に安置されている。陣屋の位置や織田家の消息等は…?。正覚寺付近東に谷川代官所もあり宝永年間(1704-11)より明治維新まで山内一族の萬蔵・要助等が住み代官所所有の田畑もあったと云われ る。前期織田家を 記した織田三代記(織田家家臣:太田牛一<祐筆>)によると信包の二男:柏原藩二代目信則の弟信尚が谷川生田坪の陣代を(在任時期や其の真為等不詳だが)務めている。
旧街道筋?左手奥が変則四辻付近に陣屋跡

信包の頃は直轄の柏原に陣屋を建てる事も出来ず、前期織田家三代以後の45年間は幕府天領となっており後期織田家・信休(のぶやす)が元禄8年(1695)大和宇陀から移封されて以後の氷上郡44ヶ村は細分化され柏原藩領だった谷川・山崎・奥・村森も文化-天保頃(1800年代)には旗本織田家が領しているが其の時代等動向詳細は不詳。
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