天々宇知栗と尊氏の伝説の里山 頭光嶽〜岩屋山〜石戸山
丹波市(五万図=篠山)
TJR谷川〜頭光嶽〜石戸山(549m)〜岩屋山・石龕寺城 2000年03月20日
U奥の院+頭光嶽〜岩屋山〜石戸山〜八の瀬〜玉巻城 2004年05月02日
V石龕寺〜岩屋山(506m)〜石戸山〜頭光嶽(439m)〜岩屋大師堂
 2001年11月18日
池ノ谷主計屋敷の堀切と主郭への上り土塁

ふるさと兵庫の50山 : 石戸山
兵庫の山城 石龕寺城(岩屋城)玉巻城久下弥三郎時重屋敷
  池ノ谷主計屋敷 高瀬氏屋敷(高瀬城)  谷川織田家陣屋
丹波の由緒
  天々宇知栗の伝説 金屋の十三塚 金屋不動尊 金屋流紋岩質凝灰岩

T里山は歴史と伝説の地 頭光嶽 〜岩屋山〜石戸山   H12.03.20

玉巻城城主居館跡(久下館)とされる伝承地久下弥三郎時重屋敷から西北の山間の裾を目指して 集落内を歩き岡本薬師堂・加茂神社側から石龕寺・岩屋山・石戸山に通じる寺坂コースの林道コチモン寺線に入っていくと 金屋の十三塚(全国的に貴重な室町以降の庶民信仰の遺跡です)・金屋不動尊と 不動滝があり足利尊氏父子縁の地でもある(但し現在地の不動尊は別の場所より遷座されたものです!!)。
頭光嶽から望む岩屋山と石戸山 H16.5.2

この先数10mも谷筋を辿れば金屋岩脈と呼ばれるが金屋流紋岩質凝灰岩を見ることができる。 流紋岩を抱き込んだ珍しい露出岩脈は丸い斑点や草履状に見える模様が岩の中に埋め込まれているのが伺えます。加茂神社から登山口の林道コチモン寺線に入ります。石龕寺1.9K三ッ塚0.5Kと案内表示は教えてくれます。 直ぐに二つの貯水池があり間に古い道標(左いわや右ふどう)があり小道が左に延びています。輪切りの木を乗せた山の神も祀って有ります。此処には町石(6町)があります。久下氏の全盛の中世期の石龕寺への裏参道で尾根の途中にも 5町石が残っています。加茂神社の先で(十三塚)寺坂道と不動尊への分岐で、右手の不動尊は近く 流紋岩質凝灰岩がある。非常に特殊で丸い斑点の岩が金屋川源流部にあるので探してみてください。この林道終点の壊れた建物の裏手から丸木橋を渡ってしっかりした山道が現れ金屋鉱山跡からは頭光嶽へ出て 奥の院や岩屋山や石戸山〜高見城山へと縦走路は続きます。
金屋鉱山跡

寺坂コースの分岐に戻って来れば左手・桧林の中に南北一直線に並んだ大小13基の塚が等間隔で並んだ十三塚がある。室町時代より行われた庶民信仰の遺跡で全国に200ヶ所、 県内では3ヶ所が残っているそうですが石造りの遺構として貴重な存在。金屋の十三塚については 足利尊氏が京都を逃れ此の地に来たが追っ手が迫り、 いまは此れまでと部下13名が尊氏の影武者となり 追っ手を引き受け奮戦して果てた。その間に石龕寺へ逃れ後13名の冥福を祈って塚を作ったのが十三塚だとも伝えています。井原集落には今も 井原の二重川(旧井原バス停付近)があり、尊氏が隠れて難を逃れ追っ手が去った後、 石龕寺へ逃れた伝説もあります。十三塚の先で道は分かれるように見えますが左はカケジ山への伐採された境界を倒木と薮漕ぎで尾根到達の杣道ですぐ消えます。谷が荒れて石・土砂で 分かりつらいですが右手へ谷を越せば対岸に旧裏参道の道が続きます。この先山道を道なりに尾根に辿りつけば 円応教本部に続く尾根の分岐に東向地蔵で(東向きは珍しい)坂を下れば石龕寺へ降りる。
金屋川源流:不動尊コースには流紋岩質凝灰岩が見られる

また戦時には兵隊除けに此処に詣り縄で地蔵を縛ったともいわれ親しまれた峠の地蔵です)尾根を辿れば鉄塔下が頭光嶽(439m)です。此処は聖徳太子が自分の兜の毘沙門天像を探してこの地へ来られた時、 この山よりまばゆい光を発していたので一寺を建て名付けられたのが山名の起こりです。石龕寺城の砦・出丸としての機能は十分果せる地形です。奥の院への下降点と金屋鉱山跡を経て岩屋山・石戸山への三叉路です。 鉱山跡の崖上が岩屋山(506m 石龕寺城)で、右手の金屋・谷川へは登ってきた不動尊に続きます。ここはロウセキ山と呼んでいた鉱山跡で 切り立った岩肌は大正期から昭和50年代に輸入に押されて廃山になるまでの僅かな歴史と自然崩壊の爪痕が残る。平坦な広場の中ほどにブルドーザ2台。 トラック1台が残置され朽ちるのを待っています。
池ノ谷主計屋敷の尾根上部:送電線鉄塔から篠山川と久下城

輝緑岩の岩脈は断層面の割れ目に マグマが入り冷えて固まったもの。ここで採取されていたのはサヌカイトの一種(カオリナイト)でタイルや陶磁器の原料になりました。子供の頃の私達には黒板に落書きするかの様にロウセキで石板にイタズラ書きをしたものです。 鉱山跡からは崖を登るような急登でくびれた尾根に出てきます。此処は石龕寺城(岩屋城)堀切跡で岩屋山頂までに後二つ堀切を渡ります。山頂は僅かのスペースを残し南側は採掘後の絶壁です。ここには石室があり、かつて丹波修験の根拠地として 熊野・白山の両権現が祀られています。周辺はともかくここに城の遺構は殆ど見当たりません。元の堀切へ引き返し登り返せば直ぐに石戸山山頂です。八の瀬〜玉巻城址〜谷川及び東向地蔵〜円応教本部又は貴布禰神社へ抜けるコースを検討しています。


金屋の十三塚・金屋不動尊と流紋岩質凝灰岩を再掲
金屋の十三塚

金屋のカケジ山の麓ハイキング道分岐を左の寺坂コース(石龕寺・頭光嶽に通じる)に入った所、緩傾斜地の林道左手植林の中には南北に一直線上に一定間隔を置いて整然と並ぶ大小十三個のほぼ同一規模の円形石積の塚が見えます。 一番大きな親塚(東西3.7m・南北3.8m・高さ0.9m)を中心として、その南北両側には其々に6個の小塚(東西約1.8m南北1.8m・高さ0.4m程度)で構成されています。塚の中心間隔は約6.0m・全長は約73.0mあるが、何の目的で造られたかは不明という。 この道は石龕寺へ向う小川地区からの表参道の他、久下地区金屋から向う裏参道でもあり町石も5基が残されています。不動・釈迦・文殊…と続く十三仏信仰に由来するとされ、築造時期は中世:室町時代頃に成立したと推定される 民間信仰の遺跡で、日本列島各地に分布していた十三塚は全国に約200ヶ所・兵庫県内に三ヶ所が残っているといいます。造成開発等により多くが消滅していくなかで、完全な形態で保存されている十三塚は全国でも数少なく貴重だが、 古墳と比べても歴史的価値が認められることが少ないという。生駒十三峠の十三塚(奈良県、大阪府)と共に金屋十三塚が民俗芸能・民俗技術などの 有形の民俗文化財のうち、特に重要なものとして国指定重要有形民俗文化財の指定(1986年3月31日)を受けています。築塚の経緯は不明ですが、多聞に漏れず此処にも戦国時代:戦死者・落武者ら13人の供養塚とする伝承が残ります。
十三塚(寺坂コース・不動尊分岐点)

元弘年間(1331-34)六波羅の北条氏との戦いに敗れて京都を追われた足利尊氏が将兵僅か 数10騎で丹波路を金屋の地にまで逃れてきたものの 追討軍が迫ってくる。今は此れまでと覚悟は出来ていたが「此の向こうの石龕寺には久下氏が一族を率いてお待ち申し上げている由、一刻も早く引き揚げよ」「殿・つきましては御鎧 ・御衣装等を拝借仕りたく…」と具足等を借り受ける部将達の一念に動かされ、手勢の13人を残して尊氏は寺坂越えの道を石龕寺へ無事逃れます。13人は具足を身に付けた尊氏の影武者を中心として、追っ手を引き受け討死覚悟の奮戦は 手強く敵陣を散々に悩まします。13人の将士はやがて・潔い最期をを飾れと石龕寺登山口まで一端逃げ延び此処に一列に並んで自刃します。後に身代わりとなった13人の部下の冥福を祈って塚を建て懇(ねんご)ろに葬ったのが十三塚だとの伝承です。 此の京都六波羅を攻める為丹波・篠村八幡宮(亀岡市)で挙兵した際にも1番に馳せ参じたのも「一番」旗で知られた久下氏(下記石龕寺城(岩屋城)・ 玉巻城)で観応2年(1351)足利尊氏が京都を追われて再び丹波石龕寺に逃れますが、この時も久下氏を頼ってのものか!!足利尊氏が隠れて九死に一生を得た伝承を 井原の二重川「足利橋」に残す。
(山南町・文化財のすがた 丹波叢書 「由緒を尋ねて」を参照)

金屋不動尊

金屋のカケジ山の麓・ハイキング道標識のある 分岐を右手に延びる金屋不動尊・流紋岩コース(石切場跡から岩屋城〜石龕寺・石戸山〜高見城山へ通じる)は金屋川沿いに林道(車道)が金屋不動明王参道下へと続いています。石戸山から玉巻城 (久下城)に続く尾根筋に 鉄塔を載せる八の瀬(423m)の峰を望みながら林道を進むこと15分程で 「不動明王参道」の石標をみる。金屋川も谷筋は狭まり細くなった 谷幅は累々と岩棚となって埋め尽されてきます。此の先・蜘蛛の巣払いながらの谷筋には金屋岩脈(流紋岩質凝灰岩)が見られますので後述します。
金屋:近滂寺不動明王尊

不動尊は近滂寺(こちほうじ)不動明王尊と云い祭礼は毎年7月28日に金屋・岡本の集落で行われてきたが、近年毎月28日の不動尊日に・当番により祀られています。 観応2年(1351)足利尊氏が京を追われて二度目丹波石龕寺に逃れ、尊氏が九州へ・子の義詮が此処に籠もっていた時の伝承が残ります。義詮が石龕寺の毘沙門天に詣で祈誓したところ「山上にある清滝の不動明王尊像に行き 祈誓せよ」とのお告げがあり、其処で一心に念じ後:戦運を好転させたと云われます。 旱魃のとき農民が不動尊に雨乞いをすると、 忽ち涼を呼び雨が滂(なが)れたといわれ彦涼山(げんりょうざん)近滂寺と名付けられ、古来より石龕寺の一坊として共に栄え石龕寺の祈祷所とされた。
金屋岩脈(流紋岩質凝灰岩)の噴気孔化石

応永8年(1401)頃には寺坂道(裏参道)の町石が建てられたが、足利氏の覇権・勢力を失うと石龕寺も荒廃し天正7年(1579)明智光秀の丹波攻略により 奥丹波の諸城共に岩屋城・玉巻城も落城、兵火により石龕寺は 山門を残して焼失・不動尊も荒廃していたが江戸時代中期:明和2年(1765)太田慧日寺(山南三山の一)の竜洲和尚により再興され、文化9年(1812)には役行者尊像・弘法大師像が建立され、 不動尊信仰・行者信仰として村民達に崇尊されてきました。大正8年(1919)蝋石採掘の区域拡大に伴い、不動尊境内にも廃石が飛散するようになり、昭和47年(1972)岡本。金屋両集落と鉱山側により現在の場所に遷座されました。
身近な郷土の良さを見直し育てようと自治会の手による郷土史「金屋」が発刊され不動尊も奉仕により参道整備・休憩所造営、遷座10周年記念には法要が営まれました。
(現地 近滂寺不動明王尊像由来案内板(平成9年元旦)金屋・岡本部落 及び山南町・文化財のすがた を参照)

金屋流紋岩質凝灰岩
金屋不動尊前の不動明王参道を示す石標の足下に「金屋岩脈」と書かれた朽ちた案内標識が落ちている。不動尊の祀られる前には金屋川源流部の狭いが累々と岩が積み、細い流れの小さな谷川があります。 此処では殆ど目立たないが少し上流に向うと、画像に見るような岩肌に斑紋も鮮やかな露岩が現れます。乾いた岩では写真に撮りにくいかも?知れないがこの日・午前中の雨を吸った岩は鮮明に此の紋々を際立たせる。「金屋岩脈は7000万年前の岩脈で流紋岩質凝灰岩が流紋岩を抱き込んだ珍しい露出岩脈」…流紋岩質凝灰岩とはいっても種々雑多で違いや正式名称?等が判る筈も無いが?
金屋岩脈(流紋岩質凝灰岩)の噴気孔化石

火山岩の一種:火山灰によって生じた 噴気孔化石(吹き抜けパイプ様構造)が見られる珍しい現象で兵庫県レッドデータブックの地質の部には分類区分は化成構造、概要説明では・特徴として生野層群下部の流紋デイサイト質ガラス質溶結凝灰岩中の2次噴気孔、閃緑ひん岩とあり、 火山噴火による火山灰や火砕流が降り積もって水を覆ったとき高温のために水が気化し、その体積が増大して水蒸気爆発を起こして形成されたものといい金屋の流紋岩質凝灰岩はAランク(25箇所)のうち一つに挙げられています。
(山南町・文化財のすがた を参照)


U里山は歴史と伝説の地 石戸山〜八の瀬〜玉巻城 H16.5.2

JR谷川駅から福知山線と加古川線が山裾を分けて分岐します。その分岐する山の頂が久下城のある八幡山241mで鉄塔が越す八の瀬423mへの尾根は石戸山へと延びています。八の瀬へは巡視路が延びていますが 玉巻城址への直接の登路は有りません。最短距離は玉巻踏切りを渡り小さなお社 (稲荷社?)から続く石畳を墓地へ詰め手前から尾根に取り付き稜線の最低鞍部を目指します。久下氏一族の菩提寺・長慶院の裏庭から登れるかも??寺坂コースを石戸山までは先述通りで見所多く、寺・城址・石仏/町石・展望・由緒・鉱石 ・静寂の小道…とミニオフには最適コースです。
町石・岩屋公民館にて

石戸山までのは前記Tと重複します。 石戸山は丹波に少ない一等三角点ですが私の展望所は鉄平石採石場跡(賽の河原)手前の高所です。狭いので立ったままですが360度近い展望です。元は久下氏の栗作郷の山だったが次第に勢力も衰え一帯の山林を 新井村に売り渡しているが 古くは石童山の名で新井の石見神社には日本一の岩の囲碁盤があり石見守と駿河守の囲碁勝負で新屋庄の持山となった話もあり、入会権では何度も山騒動を起こしています。鉄平石の河原で一息(AM10:35)入れて 無線中継所 (加古川流域の災害に備え建設省が設置)の山頂に戻り此処より、夏場は薮となり辿るのに二の足を踏みそうなコースを南下します(AM10:40)。 しかし直ぐに快適なコースは鉄塔のある八の瀬まで続いています。このルートはロールアウト大柿氏が走破したルートです。彼は石戸山からの最初の鞍部から大新屋〜奥野々へ向う谷筋を選んでいます。
石龕寺もみじまつり・足利尊氏一行が町石前を通過?岩屋公民館にて〉

536mピークからは90度右折して下る 緩斜面の明るい尾根は鉄塔に続き火の用心No59の側に4等三角点八の瀬(423m AM11:30)に着きます。テープは此処で消えますが登山コースはこの先の巡視路左折です。城址へ向うため直進していきますが道は荒れ、 細くなりやがて消え薮交じりの急下降が続きます。それでも赤テープが黄や白に変わっても続きます。??地図にある露岩記号付近(AM11:45)までは 境界のポールが薮の中に見え隠れしているが 切り開きになっていても避ける程の篠竹と棘の薮中道です。露岩帯を下りきってホット一息入れます。
玉巻城主郭と堀切

踏み跡が顕われ緩やかな植林の尾根となり突端付近のピークと思われる辺りは台地状の場所を通過するとすぐその下の鞍部に幅2m・高さ2m・長さ10数mの小規模の溝が現れます。 玉巻城址の唯一の証でしょうか。この小さな堀切を隔てて両サイドの台地が曲輪跡です。此処が八幡山・久下城(玉巻城 241m PM12:00)です。東の曲輪から先は薮。もし突っ切っても大きな地崩れのあたりへ出ると思いますので引き返します。 堀切跡付近より北の高所の台地付近に石積みの残石らしいものが多く散乱しています。本丸付近に散乱している岩石は磁鉄鉱を含んでおり、方位が狂うかどうか?コンパス(磁石)で確認して見られたらどうでしょう!!。鞍部からの植林帯は下草も少なく動作無く小さな稲荷社に出て玉巻踏切りを渡る。八の瀬へは奥野々への車道を行き送電線をくぐってその先・左の集落に 第二平井踏切を渡り公民館右の坂道を直進していきます。
池ノ谷主計屋敷:主郭西端(上部)から西尾根に続く 段曲輪

簡易舗装の道が大きく 左に曲がりますが(舗装の切れる直進の林道は間違いです)墓地を過ぎると巡視路No62を見て右への階段道を進みます。岩場と書かれた標識の上に鉄塔があり次の山頂の鉄塔迄殆ど 一直線の急斜面を辿れば三角点の八の瀬山頂です。福知山線と加古川線の踏切を渡り玉巻の集落を寺坂コースの案内板に沿って進み加茂神社に戻りました(PM12:40)。加茂神社手前100mの岡本・薬師堂は法道仙人開祖の伝承で行基菩薩が自作の像を 背負ってこの堂を一夜の宿とした時、霊夢により本尊を移した上岡寺を号とした薬師堂の本尊 ・木造薬師如来坐像は藤原時代のもの国の重要文化財となっているが秘仏(33年毎の開帳)です。


V 岩屋山〜石戸山〜頭光嶽〜岩屋大師堂 H13.11.18

足利尊氏ゆかりのもみじ祭りで 静かな山里も今日ばかりは石龕寺 に向う人の波が絶えません。無料の送迎マイクロバスが頻繁にピストンしていますが、 紅葉に染まる山々や眺めながらの散策が良いですよ。村森集落から 石龕寺に至る約3kmの道筋には 石龕寺町石(県指定史跡)があり岩屋道には25基、JR谷川駅から金屋を通り奥の院に至る寺坂道には5基の町石が残っています。 一つ一つを訪ねながら寺域に近づいてくると正面上方に金屋鉱山跡の白い岩の断崖が間近に迫ってきます。
石龕寺の紅葉観賞は上部から見下ろして…が最高!

道筋に栗林が続く山南町岩屋は丹波栗のルーツだが今ではその主生産地を能勢・亀岡・八木等に譲っています。山門(仁王門)の金剛力士像は鎌倉期の仏師定慶作の国宝で 山南町のシンボルです。山門を潜ると左手には 多くの室町期以降の石仏が立ち並んでいます。いろいろ案内したい処も多いので道草してしまいます。 先ずは登山口に案内いたしましょう。庫裏に沿って石段が続きます。正面左手に県下最大の「コウヨウザン 」の木を見て本堂の毘沙門堂に出ます。
山南三山の一・岩屋石龕寺

右端には奥の院に続く参道があり一般ハイキングルートとしては此処より奥の院(石龕寺の名の起こりの石窟有り)や屋敷跡を頭光嶽へ出て鉱山跡〜岩屋・石戸へ向かうが本堂左から (AM8:50)谷筋を採ります。コースはスッカリ整備され「滑らの谷広場/石戸山・岩屋山」道標も完備されています。本堂裏手を巻き上がるように尾根に沿って道が続きます。尾根途中からも「滑らの谷」へのルートが有り此処から右へ水谷(150m)へ寄るコースも有ります。本コース!!は10分程で2箇所の岩場(鎖もセットされました)を過ぎて送電線鉄塔に出ます(AM9:15)。深い水谷を挟んで向かいに 奥の院の屋根が見えています。
金屋鉱山跡から竪堀を抜け出た稜上は堀切

霧の消えかかった笠形山・千ヶ峰・竜ヶ岳が見えてくると重ね岩への尾根分岐(AM9:30)です。此方へのルートは小寺山〜高見城山〜観音寺 レポートを御覧下さい。5分程で岩屋山山頂(506m AM9:35)石龕寺城(岩屋城)跡で熊野権現と白山権現を祀る祠があります。南側はスッパリと切れ落ちた金屋鉱 山跡です。昨日登った 天狗山猿藪〜高山から六甲の山並も望めます。石戸山(1等三角点 549m AM9:45)へは 直ぐだが展望は何時もの鉄平石で埋る賽の河原(AM9:50)の高みで、ほぼ360度の展望を楽しんだら金屋鉱山跡(AM10:05)まで戻ってきます。
石戸山頂は無線中継所も撤去されて…H16.5.2


頭光嶽(439m AM10:15)からは奥の院へ下る一般ルートと別れて鉄塔下を抜けて尾根を辿ります。此処から東向地蔵を経て 金屋へ下る寺坂道東向地蔵(AM10:25)から右手へ下れば奥の院へ左へは金屋・JR谷川へ出る 寺坂コースです。 尾根直進は初めてですが、 思いのほか良い道が続いています。ナンと馴染みの赤布が現われます。 何のポイントになる山名のある山も展望も無いコースです。尾根伝いの道は 程なく尾根の東を捲きながら 下り小さな鞍部に出てくる。西側に少し開けて岩屋や奥の集落や至山〜石金山等が望めます。小さな石仏が一体祀ってあるが、ここを越える人など既に途絶えて…と思っていたが、利用者はいた…
休憩所・奥の院地蔵堂から鐘楼堂 H16.5.2

猟銃とトランシーバを持ったハンターが立っています。 彼らは単に[地蔵さんの峠]と呼んでいたが狩猟解日禁早々の出合いです。7〜8人で来て私の行くコースにも2人ほど居るとのこと。コースを説明して無線で連絡をとって貰おうと思っていたがバッテリー切れで連絡できないとのこと。 此方が先に見つけて声を掛けるか、目立つ行動をとるか注意するしかなさそうです…(^^; この峠から先はコースも荒れ、倒木でルートを右・左と変えるうちに大柿布を見ることなく、南尾根の最高ピーク地点に着きます(AM11:00)。東より尾根に沿えば トレース出来たかもしれないが此処より西に向って境界ポール沿いに藪漕ぎで下ります。
奥の院拝殿の石龕


ハンターが気になるところですが犬は連れていないようです。 やっと擦り傷だらけの藪から開放されると岩場の上に出てしまったが露岩を回り込むように降りると広場になっており岩場を背にして石仏が祀られています。 石段や檀まで用意されている立派なものですが何の像だったか未確認。 観音像だったかもしれません(AM11:20)。此処にも初老のハンターが一人手持ち無沙汰で立っており、突然後ろから現われた登山者にビックリしていたようです。 まさか、こんなところへ人が飛び出して来るとは想像もしていなかったようです。私も今後丹波の山では注意が肝要!!。この祭壇へは参道があり阿波23箇所巡りの石仏が並び、
毘沙門堂石段下から奥の院への道が続く

ほどなく峠越えの綺麗な山道となり四国八十八ヶ所巡り道となります。東へ向えば金屋側へ降りられそうです。また忠実に稜線を辿れば 円応教本部の後ろの山や村森集落へ完遂出来たかもしれません。途中には「うずまき明王」等の石仏もあります。岩屋集落の大師堂に出てきました(AM11:35)。貴布禰(神社)ハイキングコースが霊場巡りコースも含めて大師堂前から 山麓を辿り石龕寺へと延びています。


石龕寺城久下城(玉巻城) 久下弥三郎時重屋敷 池ノ谷主計屋敷
 高瀬氏屋敷(高瀬城)  谷川織田家陣屋


石龕寺城(岩屋城・三輪城)   岩屋山 506m    丹波市山南町岩屋

城趾は権現堂の祠が有る石龕寺の裏山 (岩屋山 標高506m)の山頂に在って南に山南町・西に氷上町・北に柏原町の境界で遠望が効けば瀬戸内海も望める要害の地です。 西北への尾根を辿れば石戸山を経て約2kmで高見城に、 東南に下ると玉巻城や金屋に、西に下ると和田・草部に通じており、播磨から加古川伝いの"丹波攻め"を敵を防ぐため・播磨への前進基地の役目もあったようです。 室町期から西丹波では 名を知られた山城ですが築城の記録は定かではありません。
石龕寺もみじまつり:足利尊氏が城麓の毘沙門堂へ必勝祈願に向かう

南北朝初期の建武3年(1336)に後醍醐天皇方に敗れ京都を追われた足利尊氏は丹波に逃れ石龕寺城に入っているが観応2年(正平6年 1351)にも 足利尊氏が弟の直義と勢力争い(桃井直常との合戦 )に負け再起を図って嫡子・義詮と丹波へ逃れ石龕寺城に立て篭もって約2ヶ月此処に留まったことは「太平記」にも記述があって「一番」旗印(下記の玉巻城 参照)で知られた久下氏をはじめ荻野・波々伯部・長沢等西丹波の武士団が尊氏を守っており、 尊氏が九州へ出兵のとき、息子・義詮は仁木左京太夫頼章(後の丹波守護・高見城主)と弟・右京太夫義長に2000余騎を付けて此処に滞めたといいます。
足利将軍屋敷跡(奥の院石龕の北側に復元?)

「将軍屋敷・御所の裏・陣屋」と呼ばれている処があり足利尊氏/義詮親子ゆかりの地です。この時のエピソードとして 天々宇知栗の逸話が残っています。織田信長による丹波攻めの天正年間(1573-92)の石龕寺最後の城主広沢綱忠(広瀬隼人行綱)は 丹波防衛の一翼を担って立て籠るが丹羽長秀軍に攻められ、久下の玉巻城(久下重治)や援軍の氷上・霧山城(波多野宗貞)等は 共に戦い玉巻城で討死にして滅びます。丹羽長秀・細川藤孝等の軍はその足で石龕寺城にも攻め入ります。十数倍もの大軍に対して良く奮戦したが天正7年 (1579)5月19日に落城し約250年の歴史を閉じ、 麓の石龕寺も仁王門を残して兵火により焼失しました。石龕寺は丹波では最も古い寺といわれ聖徳太子の開基による古刹です。
石龕寺城・本丸側の堀切

用明天皇の時代・丁未(ひのとひつじ)の年(587)曽我馬子と物部守屋が対立していた頃、 聖徳太子が毘沙門天像をつくり兜に付けていたが、何時の間にか無くなっていた。その仏像の一部が岩屋山の洞穴に祠ってあることが分かり、聖徳太子はお堂を建て毘沙門天を作って祠ったのが寺の起こりです。「石龕」とは 石窟=岩屋の事で石窟内に仏を祀ることを意味し 此処・奥の院にその石窟があり石龕寺の発祥です。村上天皇の時代には多くの伽藍僧坊が建てられ、 小野道風の「石龕寺」寺額(町指定文化財)を賜り、鎌倉時代の仏師・湛慶の仁王像は(国の重要文化財)谷川から寺坂コースや村森から井原を経て石龕寺に至る道端には 仏像が彫られた町(丁)石が残り 県の重要文化財に指定されています。
池ノ谷主計屋敷から玉巻城(久下城)を遠望

平成6年此の岩窟(奥の院)が復興され足利尊氏が京都東寺に寄進の梵鐘を模して鐘楼堂が建立され、復興で寄進の献灯された石灯篭も並んでいます。寺坂道(旧裏参道)と合流するこの場所には 休憩所が建てられていますが内部は「奥の院地蔵堂」で、中世石龕寺の僧坊の一つで増福寺和田坂地蔵堂に因んで同時期(平成6年)に建てられました。兜の在処がわかったのは 西光寺山の机峠からとの話もある。


久下城(玉巻城)  八幡山(寺山) 241m  丹波市山南町玉巻・長野・金屋

JR谷川駅から奥野々峠を越えて 柏原町へ向う県道86号は、直ぐに玉巻の加古川線と福知山線の二重踏切にさしかかります。福知山線側踏切りの手前左に”玉巻城”標識があり、その奥には久下氏一族代々の菩提所の長慶院が建つ。丹波久下氏の先祖”久下時重”の顕彰碑 :”東竹院殿”菩提の五輪塔が祀られます。背後の八幡山241mの山頂に久下氏16代の居城玉巻城(久下城)が在りました。
丹波久下氏先祖:時重の顕彰碑


足利尊氏が二度も此処に逃れ子の義詮が、後に丹波守護となった仁木頼章や久下氏に護られ逗留した石龕寺城から 高見城への稜線上にある石戸山から南へ延びる尾根筋の八の瀬(423m)から一気に高度を下げる稜線南端に半独立丘陵を形つくる山頂部に 一本の堀切だけが唯一城跡で有る事を認めさせる玉巻城ですが、東面から南面にかけて崖状の急斜面を山裾に落とし東麓を玉巻川が流れる。 明確な曲輪を確認出来ないが本丸の西側に一本の堀切 (高さ約1m程)が残り、周辺には石積みの跡が僅かに残っており 三の丸附近にも残石が散乱していますが、
東竹院殿菩提の五輪塔(遠祖重光のものか?)

城の遺構かどうかは即断出来ない状況ですが…山頂に至る明確な山道はありませんが、長慶院の北方200mのJR玉巻踏切りを渡り、小さな社(稲荷社?)から続く 石畳を墓地へ詰め手前から尾根に取り付き稜線の最低鞍部を目指します。久下氏は舒明天皇の皇子・磯部親王の末流で多田満仲の子を養子とし、 武蔵国大里郡久下保(埼玉県熊谷市)を本貫地とし武蔵7党に属した豪族です。治承4年(1180)伊豆国で平氏打倒の兵を挙げた源頼朝が大庭景親・河村義国らにより石橋山の合戦(箱根)で敗北し、
玉巻城山麓:菩提所からJ池ノ谷主計屋敷(中央左)と鍋倉城(右の山)遠望

再起を図って土肥の杉山(!!?)で挙兵した際・大庭氏に属していた 久下次郎重光(熊谷次郎直実の兄)が手兵を率いて真っ先に頼朝の陣営に馳せ参じたので、その忠誠を賞賛し「一番」旗と家紋を賜って後に栗作郷 (久下・上久下地区)の地頭職と美作国印庄と伊豆国玉川庄の領家職に 任ぜられています。久下軍の旗印 「一番」について足利尊氏も高師直(こうのもろなお)に理由を聞いています。源平合戦に戦功を挙げ ・承久の乱後に重光の孫久下中務丞直高が承久3年(1221)新補地頭として武蔵国より一族挙げて此処栗作郷(後:久下庄)の玉巻に移住します。
玉巻城(久下城)の堀切越に主郭を望む

南北朝期久下弥三郎時重のときには足利氏に属し、元弘3年(1333)4月後醍醐天皇の令旨を受けた足利尊氏が北条氏の六波羅軍 (京都)を攻めるため丹波・篠村八幡宮(亀岡市)での旗揚げ(参陣の呼びかけ)にも1番に馳せ参じた。足利尊氏が建武3年(1336)新田義貞らに敗れて 丹波に逃げたとき、および観応2年(1351)弟直義との争い孤立し嫡子義詮と丹波に逃れたとき、久下時重は尊氏をよく防護した。
玉巻城:堀切と主曲輪南から西下に落ちる竪堀

尊氏が義詮を井原庄(丹波市山南町)岩屋の石龕寺に留めて播磨に赴いた後は、仁木頼章(後丹波守護 高見城主)と義詮をよく護ってその危機を凌いだ。尊氏父子の危難を救った功績は大きく、時重・子の貞重 ・頼直・幸興ら久下一族は丹波(現:丹波市山南・柏原・氷上町)や、和泉大鳥(鳳!)庄・飛騨石浦郷、武蔵久下郷・丹後国河守庄の代官・宮津庄の地頭職等:所領10数ヶ所を与えられ丹波国の有力国人領主となった。
玉巻城二ノ曲輪:主曲輪東下へ自然地形の緩斜面が続く!!?

一時は丹波守護代【守護:山名時氏のとき久下頼直(観応元〜2年 (1350‐51)】ともなり、此の頃:時重・貞重父子の代が久下氏が隆盛を極めた最盛期で、以来久下氏16代360年に渡り玉巻城を本拠地として一帯に勢力を振るってきました。 山名時氏が再度・守護職となるが死去し、山名氏清が継いでいたが明徳の乱(1392)に守護代小林修理亮に属し、丹波国人領主らと将軍方の 軍勢と対陣した。しかし丹波軍が将軍方に寝返ったことで敗戦を免れ、重元は将軍義満から所領を安堵されている。 その後も代々の将軍に所領を安堵されたが、戦国時代に至って全く状況は変化した。
玉巻城三ノ曲輪:周辺に石材が散在する・・!礎石か?

応仁の乱(1467−77)以後衰退し栗作郷の久下谷一帯を領有するに留まった様。明応年中(1492-1501)河内国 :畠山氏の内紛に久下政光は将軍義材に従い河内畠山義豊討伐に出陣したが、義材の留守中に管領で丹波守護職の細川政元が新将軍として義澄を擁立してクーデターを起こし、義材らを攻めるため大軍を河内に進軍。将軍方は大敗し義材は降参し、政光は逃走したが丹波守護:細川氏・守護代(上原氏〜内藤氏)はもとより、近隣の国人らも全て敵方となって孤立した政光は 所領を横領され衰え以後文亀・永正の頃まで流浪していた様?ですが、
玉巻城三ノ曲輪東面の石材

丹波黒井城 :赤井・荻野氏の覇勢に久下氏も其の麾下に入らざるを得ない状況となってきます。古文書等には多紀郡
(篠山市)八上城主波多野氏七頭の筆頭に名を連ねてもいますが!!?。天正期に織田信長の全国平定が進み、丹波攻めの将 ・明智光秀が黒井城を攻撃した折、その防衛の最前線として久下越後守重治(三郎左衛門太夫源30歳)は 氷上城の波多野宗貞と玉巻城に立て籠り、播磨から侵攻してきた丹羽長秀軍の総攻撃により奮戦したが天正7年(1579)5月に落城し久下一門は城と運命を共にしました。
玉巻城主曲輪南下部の竪堀


天正期まで 残った城なのに主曲輪と堀切・竪堀一本を除いては緩やかな広い尾根上に削平されている曲輪や其の切岸はむろん ・曲輪の段差さえ不明確、土塁や遺るとされる石積さえも其の施設が明確ではありません。谷間を埋めるように散在するおびただしい石や、山裾に長く延びる猪垣の石垣に、久下城も同じ町内にある岩尾城の様な石垣造りの堅城ではなかったかと想像してみます 。しかし「一番旗」を掲げ勢力を誇った久下氏も黒井城主・赤井氏傘下にあって、石戸山から高見城山への尾根筋に残る城塞群の守備を任されただけとなり、 戦乱の続くなかでは力関係もあってか改修する事も適わず高見城 黒井城の城塞の一つとして
玉巻城登城口に延々続く猪垣の石積

玉巻城は独自の城郭を持てなかったのでしょうか。明智の丹波攻めが長引くなか・播磨国境の守備につく山南の玉巻城は、片瀬近江守の鍋倉城(山南町太田)と共に播磨側から攻める丹羽長秀軍により落城します。室町時代中期・応永8年(1401)玉巻城主・重元の娘が祖先の菩提を弔う為に庵(長慶庵)をむすんだのが始まりといわれ、恵日寺の万拙和尚により中興され玉巻護国山 長慶院(臨済宗妙心寺派)と名を改め、久下時重の顕彰碑があり久下次郎重光初め一族代々の城主や将士の菩提寺となっています。
玉巻城:三ノ曲輪東面の石材

久下重治の奥方と二人の子供が市島町の段に落ち延び隠れ住み、一族を弔った逸話は 前山(さきやま)の手向塚を御覧下さい。久下重治の二男・五郎正治は大阪城に入り夏の陣で討死したといわれます。
(山南町文化財のすがた・兵庫県中世城館荘園遺跡 等を参照)

久下弥三郎時重屋敷(久下館) xxx Ca320m 丹波市山南町金屋字カマエ

JR谷川駅の西北には岩屋山から八ノ瀬(423m)へと南へ延び出した丘陵の末端部に位置する玉巻城(久下城)が見えています。武蔵7党に属した豪族・久下氏(埼玉県大里郡久下郷)は源頼朝の挙兵に”一番”に 駆けつけた事で名を挙げ承久の乱:承久3年(1221)の後久下中務丞直高が地頭として 武蔵国より来住した栗作郷で、東北方の約1.2kmには本拠の玉巻城(久下城)が、周辺には鍋倉城・大河城・西山城・太田氏屋敷大谷城・至山城や大森山城等々の久下氏一族の城砦群が篠山川を挟んで南北に築かれます。
久下時重屋敷(南側から比定地)

元弘3年(1333)久下弥三郎時重のときには丹波・篠村八幡宮 (亀岡市)に旗揚げした足利尊氏の元へも一番に駆けつけ、其の後・尊氏が2度も京都を追われ丹波に逃れたときにも、よくこれを護りその危機を支えた。その功により今の山南・柏原・氷上町や飛騨石浦郷、武蔵久下郷等、所領20ヶ所を与えられ、 此の地を拠点として一帯に勢力を振るってきました。観応年間(1350-52)には丹波守護代となり氷上郡の大半を領有し隆盛を極めた時もあった。 其の後の詳細?等は上記の玉巻城を参照願います。此の玉巻城の南裾を廻り込むと西側に金屋の集落と田園風景が広がります。金屋の谷を詰めると岩屋山に至るハイキング道 寺坂コースとなり足利尊氏が逃れた石龕寺 ・尊氏の子・
久下時重屋敷

義詮が仁木氏を後見人として逗留した石龕寺奥の院には屋敷跡や、岩屋山山頂には中世山城が有ります。篠山川を渡り石龕寺への南口を護る位置・集落の高みに金屋公民館が建つ辺り、 字カマエと呼ばれる所で東西約35m・南北約70m四方に掻き上げの堀・高さ約2m・幅約5mの土塁が残っていたといいます。カマエには外堀もあり裏木戸・西木戸もあったといいます。土塁の内側には時重を祀る八幡社の小祠があったが、 明治42年加茂神社に合祀されました。此処には古井戸が有って時を決めて、日に二度水が濁るといわれていた。 久下時重の来住以前には土豪森田駿河守 (丹後守!?)が居を構えていたともいわれます。カマエの竹・木・土等を村人が盗れば祟りがあるといわれます。また弥三郎と名付けると障 (さわ)りがあるともいわれていました。
石龕寺もみじまつり:足利尊氏父子に従う久下氏!!

検地のとき、地主の六兵衛は久下時重の 屋敷跡のいわれを説明して免租を願い出て、八幡社の境内として一部分が免租地になったといいます。また・こんな話も…北の山の頂上に遠見の跡らしい”栂の丸”と呼ばれるところがあり、 此処に久下氏の家老・南五郎兵衛が立て篭もったとき、竹田七郎という落武者が馬で栂の丸へ駆け上るところを五郎兵衛が矢を放って七郎を射落としたといい七郎塚があり、また臼挽き歌に「いとしや竹田七郎殿の死骸は金谷の栂の丸…」とあります。
<山南町誌 参照>

池ノ谷主計屋敷  xxx山 Ca320m  丹波市山南町池谷

JR福知山線谷川駅のホームに立っと丘陵の山裾を北方から西面へと廻り込んで大阪方面行きの列車が 滑り込んできます。西陽を受けて照く丘陵南端の峰上には足利尊氏が元弘3年(1333)丹波篠村八幡宮(亀岡市)で挙兵した際、 一番に馳せ参じた久下弥三郎時重の玉巻城があります。
玉巻地区から池ノ谷主計屋敷(丘陵上)

久下氏は武蔵国(埼玉県)大里郡久下郷の豪族で、源頼朝が平氏打倒の兵を挙げた時久下次郎重光(熊谷次郎直実の兄 )が真っ先に馳せ参じた忠誠に対し後に栗作郷(久下・上久下地区)他3カ所の地頭職と久下軍の旗印 一番旗と家紋を賜っています。重光の孫久下中務丞直高が承久3年(1221)武蔵国より一族挙げて栗作郷に来住する。
池ノ谷主計屋敷の城域を大きく外れた北尾根上にも堀切 ・土塁を見る ?

池ノ谷主計屋敷は玉巻城(久下城)とは県道86号線(奥野々峠を越えてR176号・柏原町に至る)を隔てて僅か 500m程の位置に有るが城主や城史について殆ど何も判らない城館跡です。しかし玉巻城より明確な城郭遺構がある。 奥野々峠の南から西南に延びる丘陵に沿って石戸川 と福知山線が此の山麓を通っています。八幡山(久下城跡)からの尾根が高度を上げて、石戸山へ向かう丘陵上の八ノ瀬(4等三角点423m)から延びる
池ノ谷主計屋敷の城域を大きく外れた北尾根先の曲輪段?


送電線高圧鉄塔が建つ尾根上のピークと南側のピークから 南端へ突き出してきた丘陵が、谷川駅ホームの北側150m程に迫ります。急斜な丘陵上に池ノ谷主計(かずえ?)屋敷と呼ばれる屋敷跡があり高い切岸を持つ曲輪と堀切の遺構が残ります。 丹波守護代・久下弾正忠頼直(池谷)が池ノ谷主計屋敷の主か?其の頃・播磨大志野城主だった久下清雄が康安元年(1361)池谷に来住して大志野氏を称したとされます。 此処を城館としたか、其の末裔なのかも不明ですが!?。
池ノ谷主計屋敷・細長い平坦地

取付き点がわからないので 県道86号のJR福知山線玉巻の踏切を渡り「玉巻城址」の案内標識を見て久下氏一族の菩提所・長慶院と道を隔てた玉巻地区の松ヶ端集落から、送電線鉄塔の建つ峰南下方の鞍部を目指し、民家裏手にある”猪垣”の石積みを越えると山道に出た。 山仕事用の木場に着いたら道は消え厄介な棘の目立つ雑木藪に細々と付いた獣道?を鉄塔峰下の鞍部へと 身体を捩りながらの藪漕ぎと雪が解けヌカるむ尾根に出る。 JR谷川駅北側が池谷地区なので本来は此方に大手登城口があったのでしょう。
池ノ谷主計屋敷・主郭堀切側切岸と上り土塁

狭いが尾根幅一杯に削平の粗い平坦地が続き少し広い曲輪に着く。浅い堀切だが主郭部に高い切岸(4-5m)を立て山側に続く尾根を遮断し、曲輪南端に斜上して入る登り土塁があり、削平された広い曲輪に入る。 注意散漫で土塁には気付かなかったが、 防禦を補強する必要がありそうな西南の斜面上に並ぶ曲輪も段差は小さく、防備や城域を区分する土塁等による 改修や補強の跡は見られなかった。
池ノ谷主計屋敷:主曲輪西端付近より南斜面に落ちる竪堀?

南北朝期・足利尊氏に仕え、 細川氏の元で丹波守護代にもなった久下氏だが、赤井氏の台頭で勢力を弱め天正期には黒田城主赤井氏配下となった。久下氏本拠の城に残る顕著な遺構が浅い堀切一本だけは寂しい限り。それに反し:池ノ谷主計屋敷は曲輪や堀切遺構が 比較的明確に残されている事。嘗て短期ながら丹波守護代を努めた久下氏勢力に対し、 其の勢力強化を恐れて城の修築 ・補強さえ許されなかったのかもしれない。徹底的な”城割り”が行われたとも思われないだけに虚しさが倍化します。 池ノ谷主計屋敷主郭南端から主曲輪(上方)の北端をみる

此処には竪堀・空掘・帯曲輪に石積まで残った戦国期後期の城ですが同様に遺構の残る 大田城(鍋倉城)の太田美濃守か片瀬近江守に関連の家臣の城だったのでしょうか?。丘陵周辺地形からも谷名が付く程の谷筋や池も無い。遺構状態や位置、それに伝承とはいえ”池ノ谷”の姓が有る事からも 名主の居館とは思えず、武家の居城だったと思えます。忽然と消えた鍋倉城の太田氏(?片瀬氏)とともに、いつか丹波の無名の城・砦・居館の位置や城主・城史等の歴史に光が射せば…その調査や歴史家の研鑽と成果に期待しています!。

高瀬氏屋敷(高瀬城)
  xxx Ca98m  丹波市山南町谷川四区

JR福知山線谷川駅を発車した下り列車は西方約200m程で県道86号に出て、西へJR加古川線を分け福知山線は北方へと石戸川沿いに奥野々坂をJR柏原駅に向かいます。 2本のJR線が分岐する地点・加古川線側は崖状の丘陵先端部直下を抜けていくが、此の丘陵頂部に玉巻城(久下城)があり、福知山線・県道86号線の東方の丘陵上に 池ノ谷主計屋敷(久下氏支城群の一つ!?)がある。
高瀬城址(本丸稲荷社と谷川4区公民館)

石戸川が篠山川に流れ出し、更に約1km程では北からは金屋川の水を集める。此の金屋集落内に久下弥三郎時重屋敷がある。 承久の乱後に久下氏が武蔵国より地頭として栗作郷(久下地区)に来住し居館を構えた所。金屋公民館の辺りの字カマエと呼ばれる所があった。 金屋地区から背後の丘陵部を越えれば、久下氏を頼り二度も丹波へ逃れた足利尊氏や嫡子の義詮が逗留した岩屋の石龕寺に至る
高瀬城(北方丘陵麓:久下氏本拠!?の金屋地区)

。金屋地区から篠山川を越え真南約400mの平地に位置する高瀬氏屋敷(高瀬城)だがJR加古川線沿いの篠山川は谷川駅南〜久下村駅西に掛けて南部を除き「コノ字状に城域を囲むが、 南東から篠山川に流れ出る山田川は城域の西を深い溝谷となって南面も大きくカバーする。さらに県道77号(延喜式の山陰道が通じ、篠山川が加古川に合流すると 加古川上流へと氷上回廊を但馬・丹後方面に向かう)が側を抜ける。県道77号は播磨路へも連絡するが山田川の上流【鍋倉城の西山麓】も 笛路から西脇市門柳や荘厳寺へ、首なし地蔵からは大呂峠を西脇市住吉町や黒石ダムから篠山・今田や三田方面へも峠越えで通じる。
本丸稲荷社:高瀬氏屋敷の主は狐だったと…!!の伝承

川と街道のスクランブル交差点となる要衝位置するのが高瀬城(高瀬氏屋敷)。約60m程先には近世の柏原範織田家の谷川陣屋(推定地)があって「谷川4区公民館」 ・正一位本丸稲荷大明神の扁額が掛かる鳥居・大法山正覚寺(臨済宗妙心寺派)の建つ台地一帯が城屋敷といわれ高瀬氏屋敷 (高瀬城)があったところ。正覚寺の南側山門前の旧道・四つ辻南西側に建つデイサービスセンター(旧信金跡!?)を挟んで建つ現:XX信金前の狭い通りを南へ抜ける谷川中央公民館の東約100m程の田圃。
高瀬城(神社側に枡形状台地や更に西民家付近には深い空掘も!!

民家が散存する辺り(本丸稲荷からは南東に約300m程)は字名カマエと呼ばれ 下屋敷や武家屋敷群があった処か?。北東方に玉巻城(久下城)其の東隣り丘陵には久下氏一族の支城か?池ノ谷主計屋敷 が望まれる。荷社の北は一段低く小字:城の下、城藪の字名もあるが場所不詳…県道側北正面は篠山川を隔て金谷地区。 高瀬城も久下氏配下(一族?)の此等支城群の一つとして街道監視の任に当たっていたものか?。稲荷社の北正面に金屋地区・北東方に玉巻城が望まれる。
下屋敷が在った!?付近・・正面小山が玉巻城、右端が池ノ谷主計屋敷

公民館北側と小さな本丸稲荷社の西面は枡形状になった高低差1m程の台地にある。四方は掘が廻っていたといわれる名残だろうか?。結構深い空堀だったようだが、 公民館や宅地整備で消滅。北と東はバイパスや車道整備で石垣積にとなり旧状は不明。何時の頃までだかわからないが東口には門柱二本が残っていたといいます。また此の屋敷の主は吉之丞という狐だったといい、人情味ある話の多い狐の伝承を是非知りたいものです。
(久下村史・山南町史 参照)

谷川織田家陣屋跡   xxx Ca100m  丹波市山南町谷川

山田川がJR谷川駅西約1.3km程の地点にある久下地区中央部と、南西方に位置する丹波市役所山南支所・山南公民館を隔て深い溝を刻んで篠山川へ流れ出る。交通の要衝にあって上記 高瀬氏屋敷(高瀬城)と直近に 柏原織田藩谷川出張所の谷川織田家陣屋があった。旧○信金跡は現:養老ケアセンタの位置か ?其の西の民家付近に在ったと思えるが、今となっては遺構なく当時の様子から推定する事も不可…!!?。
中央の曲りくねった変則四辻の正面奥が正覚寺

谷川織田家は慶長3年(1598)転封となった 前期柏原藩織田家初代信包の四男信当(三代信勝の叔父)が分家として遺領の一部:丹波谷川3000石を領して陣屋を置いたが其の時代は不明です。前期織田家を記した織田三代記 (織田家家臣:太田牛一<祐筆>)によると 信包(のぶかね)の二男:柏原藩二代目信則の弟信尚が谷川生田坪の陣代を(在任時期や其の真為等不詳だが)務めている。 信包の頃は 直轄の柏原に陣屋を建てる事も出来なかったし、前期織田家三代以後の45年間は幕府天領となっており、
旧街道筋?左手奥が変則四辻付近に陣屋跡

後期織田家・信休(のぶやす)が元禄8年(1695)大和宇陀から移封されて以後の谷川陣屋の動向も不明だが佐治川(現・加古川)同様に篠山川の岡本に船場が設けられ船運が通じていた頃も代官職に就いていたか?。 谷川陣屋は織田信当・其の三男信相に…現在:谷川織田家のみが織田の血脈を継いでいるとされます!? 。
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