丹波青垣「空中散歩の径」  カブト鉢〜イゲ〜仁右エ門山(竜王山)〜岩屋山
佐治〜カブト鉢481m〜竜王山568m〜岩屋山718m H14年01月06日
近畿の山城: 佐治城(児島氏城と青梨城)岩本城(足立館)
 国境の宿場町・佐治 足立遠政下屋敷・上屋敷
佐治・八柱神社登山口

丹波のお話: 佐治の十三人塚   干支の山 竜王山
校歌の山佐治小学校♪…青垣山の霊をとり・・・♪
  
青垣中学校♪…青垣めぐる この丘に♪
  氷上西高校♪…青垣山も真澄の空も♪

前日から降り出したミゾレも夜半には雪になったが積もることもなく県道7号線に雪は殆どない正面に大箕山 を見る.。「丹波少年自然の家:岩屋山ハンググライダ基地」看板を左に見送って程なく 「道の駅あおがき」手前の中佐治分岐を左折して青垣町役場を目指します。
八柱神社

青々とした山並も今日ばかりは水墨画の世界。青々とした山々の重状とした「青垣」が青垣町の名の由来。岩屋山も青垣の杜・青垣山の名で親しまれる。 岩屋山へは高源寺(氷上の紅葉の名所)から高源寺尾根コースでハンググライダー基地のランチャー台から山頂・降り冒険コースは岩場の多いルートで 高源寺へ戻ったり丹波少年自然の家から子午線コースでイゲ(4等三角点)・カブト鉢〜竜王山(仁右衛門山・やまびこ山)の 展望コースを経て裏山コースや岩屋山」のハンググライダーやパラグライダー基地へ通じる
カブト鉢〜竜王山コースからの岩屋山

車道沿いの岩屋山山頂コースや倉町川を挟んで並走するセセラギコース・竜王不動コースから竜王山へと多くのコースが整備されている。 但し尾根に向うコースは急斜で荒れた登り、不動コースは特に崩れたり深い落ち葉に踏み跡も隠され整備された往時のコースを見失いがち。谷筋の滝場やガレ場のフィックスロープ等は古いので使用には注意が寛容です!。



佐治〜イゲ4等〜カブト鉢〜竜王山〜岩屋山3等  2002年01月06日

岩屋山周辺の山を繋ぐ展望尾根縦走ではスカイスポーツのハンググライダー基地の テイクオフ見学も兼ね、下山は山腹にある岩屋観音に寄り 石仏道を大師野公園に下りてくる周回。旧宿場町の佇まいを残す落着いた佐治の家並が続き”左生野・右福知山”の古い石道標も町内の角に残っている。
八柱神社 H16.10.31

道路の雪は溶けかかっているが青垣町役場付近の閑散とした駐車場は雪に覆われて白一色。西往寺前から町内の細い路地の奥に鳥居の見える八柱神社が登山口。 鳥居の左手に「青垣の杜丹波少年自然の家」カブト鉢〜竜王山〜岩屋山への岩屋・佐治公園コース案内板はあるが折角のガイドも築地垣に隠れて 肝心の出発地点等確認出来ない。しかし良く整備された道なのでメインコースを外すことはないでしょう。
キツネ岩

鳥居の石段を登リ終えると石灯篭と狛犬のところに道標があり神社へ直進「シルバー登山道・万葉の杜」と左折して登り坂の「あたご山展望台登山道」に分かれる。尾根を辿る展望台コースを採って 左折し雪道に入って行く愛宕公園一帯が佐治城(児島氏城)。広い平坦地へ程なく到着石積みの残る上部が愛宕社跡らしいが祠跡の石積みと壊れたベンチのほか何もなく折角の展望台も 樹林に囲まれて展望なし。
竜王山からカブト鉢(左)・イゲ(右)を望む

祠跡の後ろへ回り込むと山道は一旦降り上り直して傘堂と落書き?された休憩所に着く。相変わらず展望はないがコースは整備されていて 植林帯の樹間に続く白い尾根道は気持良い。5分程で露岩の目立つ場所がキツネ岩。山道は段々傾斜を増してくると細くなり積雪に消えるジグザグ道を追って汗ばみながら登る。
松茸山の表示を巻きつけた杉の木と青垣町の「缶・ゴミ捨て禁止」標識から山道は鞍部から尾根筋を辿れば程なくカブト鉢山頂だが山頂への道を捲いて溝状の広い登り道を進み稜線に出る。
カブト鉢付近からの水山(オハヤシ) H14.01.06

右手上にカブト鉢・左手の水平道はイゲ(469m4等三角点峰)へ向うが 何れも藪っぽく踏み跡も薄く樹間を縫って展望のない雑木藪の中の進んで緩斜面に三角点標石を確認して直ぐ分岐点に引返す。此処から直進するハイキングコースから丹波少年自然の家からの子午線コースと合流して竜王山に向う前に尾根筋コースから戻り気味にカブト鉢山頂481mに到達するが広く切り開かれた緩斜面の藪っぽい場所は展望もない。
奥に親不知・吼子尾山(中央)と栗栖(右端)

分岐からの道も此処で途切れるが尾根に沿い少し降ると先ほど通過した私の靴跡が松茸山表示のある 杉の木側の雪と藪の枝尾根に入り通過出来そうな樹間を縫って進む。尾根の雑木藪の間からは雪田の中に点在する青垣町口塩久地区を背に吼子尾山と栗栖 その奥に親不知が横たわっている。 此れから向う竜王山や対峙するカヤマチ-水山は見えない。素晴らしい尾根・山の展望が期待出来るのに残念。子午線コース分岐付近から水山(オハヤシ)が堂々とした姿を見せます。オハヤシとは旧柏原(織田)藩の御用山(御林)で此の名がある。 子午線コースと合流する東面は伐採されて一気に開け雪稜の快適な道。
カブト鉢:竜王山側へ土橋状尾根道

赤い中継塔を頭に載せる岩屋山・大箕山 烏帽子山が顔を出す。比較的緩やかな尾根を辿って分岐尾根に着く。左方10M程の処には植林に竜王山山頂(568m)の山名プレートが掲っている。竜王山は「青垣の杜案内板」に"やまびこ山"とか仁右エ門(によもん)山と 呼ばれる山頂から南尾根を降り「丹波少年自然の家」へ戻る裏山コース・西方の急斜な竜王コースを倉町川へ下るコース・北へは尾根伝いに岩屋山ピーク手前で 岩屋山パラグライダー・ハンググライダー基地に向う車道を辿る岩屋山頂コースに分かれる。
竜王山山頂:北東の休憩所の平坦地先は断崖状

イゲ-カブト鉢から竜王山の分岐鞍部に着くとまるで山城二つの曲輪間に出て来た様な感じで左手曲輪からは裏山コースへ、右は10mで展望休憩所のある曲輪。岩屋山へ向う北尾根の東斜面に沿って三段の小曲輪があり末端の展望曲輪には木製のテーブルと長イスが備えて在るが殆ど此処による登山者はいない様。 目前に登ってきた旧宿場町佐治を眼下に見下す断崖上に迫り出した場所。展望は良く五台山から延びるクロイシから親不知・穴裏峠近くで吼子尾山(小室城)や
「岩屋山〜佐治公園コース」竜王山から岩屋山へに岩尾根

小室城に呼応する無名の瑞雲寺城(仮称)や北方の395m峰(此処も城跡)・小和田城・烏帽子山・大箕山等の眺望が効く。此の尾根先の愛宕山公園・八柱神社一帯は 佐治城跡で此処に至るまでの尾根上に見る竪堀状堀底道やカブト鉢の山名と広く平坦な山頂・此の山稜線の前後の尾根上には土塁道?通路があり?佐治城の詰城 ?の様にも 思えるが?郷土史誌等資料に一切記述はない。竜王山からは北尾根の辿り始める雪道に露岩や岩場を縫って進む快適な登山道で西方には水山〜十九山の峰々〜カヤマチ山から岩屋山へと主要な山々が望める筈。
岩屋山山頂中継所の手前下が三角点

背後の樹林だけでなく霧で周囲の景観が閉ざされ先を急ぐだけ。空模様が気になるが又激しく雪が降り始める。 下降路が階段道になると程なく岩屋林道に降り立つ。少年自然の家からハンググライダー基地へ続く林道は煉瓦色のカラー舗装されているが雪の白い林道にフライヤー送迎用4駆のタイヤ跡だけが雪道を裂くように続く。深い轍を辿って林道を辿り下降予定地点の避難所に着く。此処から高源寺や岩屋観音を経て大師野公園へ下りるコースがあるが此のパラグライダー基地にテイクオフを待つキャノピーは
竜王山への尾根から望む岩屋山

一機も見当らないが先には二基のランチャー台を持つティクオフ場があり風を選んで全員此方からテイクオフしている。 最近ハンググライダーのフライヤーを殆ど見かけないので二ケ所のフライト(ランチャー台?)場はどちらとも決まってはいないよう!?。あれッと吃驚するほど多くのフライヤーが順番待ちで次々とキャノピーを拡げて準備中。先ほどまで雪が激しく降っていたのでタイミング待ちだったのか、次々とテイクオフし大空に舞い上がり佐治川(加古川)のランディングポイントに舞い下りていく。
岩屋観音・正面の灯篭へ降りてくる

見学は後でユックリするつもりで林道終点の中継所施設ゲート前の広場の左端から尾根に取付く。 雪がなければガレた崖だが上部から細い踏跡が山頂まで続くが雪でしな垂れかかった枝の雪を頭から被ってはたまらないので適当に迂回しながら進む。積雪は約30cm。膝が隠れる程だと大変(疲れる)だがこの程度だと返って快適。藪ッぽい樹林を抜けて赤い鉄塔前の切開きの 端に岩屋山(718m 3等三角点)があるが山頂にドッカと居座る中継施設の一等地占拠の意味に疑問も感じます。
雪上のティクオフ・岩屋山山頂

本来の三角点位置を変えることなく設置しても大勢に影響ないように思えるのですが? しかし施設の入口(林道終点の崩れた尾根末端)には以前「立ち入り禁止」標識が あった様な?三角点を踏んでからティクオフを待つフライヤーで賑わうパラグライダー基地へ戻ってきた。吹き上げてくる風にキャノピーは楽に立ち上がるが飛び出すタイミングがむつかしいのか?!三人に一人はキャノピーを傾けてしまいリトライされていたようです。暫らく見学させてもらってから下のテイクオフ場へ向かう。避難小屋の分岐点で高源寺への尾根コースや冒険コース(共に高源寺付近では 道が荒れて要注意!!?)とテイクオフ場の先から佐治の岩屋観音へ降るコースを採ります。誰も居ない雪原の広場(テイクオフ場)から飛び出してくるフライヤーを眺めていると雪も収まり岩屋山頂の鉄塔が灰色の霧の間に
「不動コース」岩壁に竜王不動尊の祠

一寸姿を現わしたりするものだから、フライヤーと浮かび上がる鉄塔の幻想的な景色を狙っているが中々チャンスがなく結局諦める。 残念だが写真が目的ではなく午前中の軽ハイクなので好い加減で引き揚げなければ.。広い道が青垣中学校へと下るが岩屋観音で合流するので 細い雪道の階段ルートを採り程なくして大きな露岩が目立ち始め小さな岩小屋もあり此れが名の起こりか!!直ぐ下方に石段道が続き寶筺印塔や石仏が並ぶ岩屋観音堂の前に出る。堂前に殆ど読めない説明板があり「高源寺」へのの文字が見えます。
不動コース」大龍・黒龍を祀る滝と堂?跡

岩屋観音は遠坂の万歳山に城を築いた足立遠政(山垣城主)の孫遠谿祖雄(高源寺の開祖)が眠る霊光殿とも奥の院とも呼ばれ、先ほど見かけた観音堂上部の大岩に不動明王が祀られていたそうです。此処より石灯篭から続く旧参道を沢山の観音石像に見送られながら下ることになる。 参道で最初に出会うお堂の中の三体の石仏は興味深い。中央の坐像は片足を伸ばした像で天保9年の銘がある。脇侍のような2体の石仏も詳細は石仏研究会の調査を待ちましょうか。 途中壊れた社務所?と屋根だけは残っているが釣鐘のない鐘楼?を潜って観音石仏の続く参道を下る。
「不動コース」竜王不動尊と八大龍王の岩窟

「右くわんのん堂」の古い石標があり谷沿いの林道終点近くに出る。植林に囲まれた林道を僅かに下って左手に斎場を見て広い道に合流する。青垣ロイヤル広場に記念石標がたつ。 谷筋に沿って芝生の平坦地が広がってくる。大師道公園は此処周辺の総称なのでしょう。雪霞みの大箕山をバックに一機パラグライダーが滑るように目前を掠めて降りていきます。 四国霊場巡りの山道が小尾根に向って延び入口には第一番札所の石標や石仏がある。大師道公園は霊場巡りと岩屋観音への観音道がある。
スタート地点は桜満開の「丹波少年自然の家」

猪鹿除けの大きな林道ゲートを過ぎると青垣中学校の側を通り小倉集落に出てくる。車道の分岐にも岩屋山への案内板や標識がある。車道は429号線で福知山や427号線を生野へ、加美町から西脇へ通じる播磨街道筋でもあり小倉には古い石の供養塔が建っており、かつて佐治郷小倉村百姓の悲劇が語り継がれている。(佐治の十三人塚)岩屋山や大箕山(丹波富士)を背にして播磨街道沿い宿場町の佐治町内を通って役場前に帰着する。岩屋山-竜王山周辺の山域を巡るハイキングコースが「青垣の杜・丹波少年自然の家」により整備されています。
イゲ(4等)を望む丹波少年自然の家と倉町川の桜

岩屋山への車道沿いに「山の神」案内板と東屋が建つ側から「丹波少年自然の家」に戻る”一方通行”の車道があり倉町川を渡った所から「竜王不動コース」入口まで川沿いに「せせらぎコース」が通じ入口から直ぐ大岩が現われ、其の基部に船形に穿かれた岩祠の内に石仏が祀られる。民間信仰の”山の神”は地方風土により多種多様な性格と機能を有しており、春には里に下って"田の神"ともなり、一方では一眼一本足(一本タタラ!!)の怪物や天狗と同一視され、神隠し等種々伝説を生んでいます。倉町川上流にも・直ぐ西方のカヤマチ山側にも木地師が住み木地屋屋敷跡があり、木地屋の娘と里の若者との伝説がある。山の神は女神で一年に十二人の子を産んだ…山で働く狩猟民たちの仲には其々の元祖が山の神の出産を助けるために特権を与えられた伝承がある(現地
「せせらぎコース」入口の大岩と石仏

八大龍王説明板)平凡だが古道歩きの趣きがあり倉町川花見(桜)ついでの周回散策に良さそうです。竜王不動コースは渓谷の急斜面・石積み炭焼き窯跡が随所に残るが踏み跡さえ 見失いがちの谷コース。滝の行場?には自然石に「大龍龍王・黒龍龍王」と彫られた石碑が立ち、其の手前に二段の石積の残る平場がある。上段には祠か行のお篭り堂でもあったものか倒壊したまま建材が無残な状況で残る。水量は少ないが次々現れる滝場・岩場を抜けて進むと前方を塞ぐ大岩壁の最上方にあって細い水流が落ちる側に祠が見えるコースの最大ポイント!!。
「竜王不動尊コース」入口

直ぐ左下に岩の空洞部があり「南無八大龍王」の石碑が立てられる。難陀・跋難陀・婆羯羅・和修吉・徳叉迦・阿難婆達多・摩那斯・優鉢羅の八体の龍神を云い古来より龍は雨を司る神として崇められた。此のコースは崩れたり積もった落ち葉に埋もれて・踏み跡さえ判らない程に荒れ、谷通しに滝場・岩場・ガレ場の急登となる「竜王不動コース」は軽いハイキングと考えるには危険な程で再整備が必要と思えますので画像紹介のみとしルート説明は控えます。


(佐治郷小倉の十三人塚)



封建社会の世では豪族が割拠し・社寺は大いに領域を延し、そんな中にあつては小さくなって・生きる為に汗水たらし、もがく農民の悲惨な生活など今の人々には想像もつかないことでしょう。生活のため、寒さを凌ぐ暖をとる為の薪をとっていた山さえ、とり上げられた農民哀史です。
岩屋観音・観音道の石像

青垣町は畿内でも人気の高いスカイスポーツの基地として初級〜上級向けフライトゾーンが 幾つか設定されているが岩屋山からのフライトがピカ一です。山頂から岩屋観音〜大師野公園を経て佐治の小倉に降って来る。山を所有する事が人々の生活の糧として最重要な位置にあった。小倉村の大半は神楽の高源寺の寺領で占められ、辛うじて食う為の労働は出来たが最も困ったのは薪の問題。寺領から逃れ得た山を頼りに来る日の薪を貯えては、ささやかに細い煙をたてての生活を送っていた。ところが困った問題が持ち上がる。
佐治宿から生野・丹後・大坂への道標

この地に勢力を持つ富豪大内氏が諏訪神社を小倉の地に移して祭るという。この地の人にとって 嬉しいことには相違なかったが山が社領になることを思えば絶望だが、といって無力な彼等にはどうすることもできない。不安のうちにも諏訪神社は富豪大内氏により祭祀された。冬が近くなると彼等にとって深刻な薪の問題が表面化してくる。「自分達の薪を何処から取って来れば良いのか」「薪がなければこの冬をどうして暮らすのか」毎日が悲痛な、この話しで明け暮れるが明暗など浮かんでこない。とうとう「オレの家では薪がなくなった」「子供が凍え死にそうになってきた」淋しく 訴え合うようになり或る木枯らしの吹く夜寒にちぢむ手足を擦りながら…遂に決死的な方法を考えます。「オイ もう行くぞ」…暗闇の中で抑えるような呼び声がして十三人の一行は山深く進んで行った。
佐治郷・小倉の十三人塚(中央は徳本上人顕彰碑)

寺領と社領で占められた小倉の住民には堂々と薪をする処などありません。山奥へ行けば何とかなるだろうと辿り着いたのが西芦田のクラマチ山。(丹波少年自然の家からカヤマチ山への林道沿いに倉町川が流れています。佐治から回り込んだ自然の家の背山・イゲ辺りの山のことだろうか!!?)耳を澄まして人の気配を気遣いながら薪を作る。ところが何処から現われたか憤怒に満ちた鋭い声と共に山主が現われる。「ヤイッ薪泥棒」…驚いた彼らは悲しそうな面持ちで立ちすくんでしまった。
佐治城展望台から大箕山(丹波富士)と佐治宿城下

悪いとは知りながらも犯さねばならなかったので、何の言い逃れも出来ないことは充分承知していた。十三人は他人の山に入り薪を盗んだ罪により捕らえらた。隣郷:大原神社の神主で枝という学者が此れを聞きつけ可哀想な事じゃと八方手を尽くすが聞き入れられず彼らは処刑された。悲しみ/寒さ/餓えに泣く小倉の遺留者達の手により佐治と芦田の境界地に葬られ哀れな貧農哀史も茶飯事として終末を告げられるが枝氏も「私の力が至らなかった」と同所で割腹、
佐治城展望台から佐治宿俯瞰

永久彼等の守り神になったといいます。今も残る十三人塚の由緒は わずかに土地の古者に云い伝わっているだけだということです。大きな三っの石碑の中央は天保年間建立の徳本上人名号碑。十三人塚前の車道を下ってくると生野/但馬・丹後/大坂を分け要衝の三叉路に古い石道標が立つ。街道筋は左折は兵庫丹波の北端に位置する国境の宿場町・佐治宿でした。
(由緒を尋ねて 丹波叢書 第三集を 参照)


国境の宿場町・佐治

京都〜亀岡〜篠山へ通じる京街道や能勢・阪神等の 摂津道から篠山を経て丹波氷上に入ってくると北方遠くに望む峰々の向こうは但馬国です。国境に接した青垣町の峠を越えて生野や北播磨(中町や八千代町方面)へ、また最も多くの歴史を刻む但馬から出雲へ向う古代の山陰(出雲)道は
佐治宿の町並み

遠阪峠を越えて朝来郡和田山町へ千原峠(地図上では同じ峠名が近くにあるが、手掘りの小さなトンネルが残る)を越えて夜久野・福知山へ抜け丹後へ入る巡礼道と丹後道が交錯する交通の要衝に佐治宿がある。古色蒼然とした道しるべの大きな石標だが其れ程古くはなく天保6年(1835)と刻まれ三叉路に立っています。一帯は旧佐治郷の宿場町の街道風情が残り、狭い町並みを抜け石導標のある交差点を右折すると加古川(旧・佐治川)を渡り R427号線に出る。
佐治宿の町並み

直進すると遠阪峠・左折すると大名草を経て播州峠を多可郡へ、山間のR429が銀山で知られた朝来郡の生野町へ通じます。篠山を発って丹波路で最後の宿場町となる国境の要衝にあった青垣町佐治は市が開かれ物資の集散地として氷上郡一(現・丹波市)の商業町として発展してきた名残が町並みに其の風情を漂わせています。
佐治川(神楽川)板橋跡!!から佐治宿と佐治城(二つの低山)とカブト鉢

此の辺り(佐治〜遠阪)は奈良朝期(天平時代頃?)に佐治郷と呼ばれ平安時代には宿駅佐治の名が文献上に表われる。保元3年(1158)か?元徳年間(1329-31)頃に信州信濃から来住した芦田(葦田)氏が佐治の東方吼子尾の峯に城を築き、遠阪の山垣には全国・足立氏の祖となる 足立遠政が領地を統括します。
佐冶城東郭:ニノ丸と西北面の切岸

いずれも丹波最古参の城館を築き、幾度か反目する両者間で小競り合いはあったようだが共に黒井城赤井氏傘下に組入れられ明智の丹波攻めに滅ぼされるまで 400年の長い間領地を支配した。天正7年(1579)光秀に制された丹波は羽柴秀吉配下となり慶長〜元禄年間(1596〜1704)頃にかけては村町を分割して柏原藩や幕府領と
佐治城西郭:東北尾根末端曲輪は佐治宿中央部を足下に監視出来る位置

になっているが市が開かれ特産の丹波布や佐治つむぎ・和紙・養蚕も盛んだった様で、其の後も明治期の製糸業で隆盛を極めた頃の映画セットの様な商家が多く残り、更には間近に迫る丘陵上に佐治城があり、 佐治の町並みの東:県道沿い”道の駅あおがき”には丹波布伝承館がある。


佐治城(児島氏城と青梨城) 岩本城(足立館) 足立遠政下屋敷・上屋敷

佐治城(東郭:児島氏城)丸山 200m 青垣町佐治字丸山
佐治城(西郭 青梨城) 青梨山190m 青垣町佐治

「道の駅あおがき」から岩屋山頂を望めば サーマルを受けてテイク・オフしたパラグライダーが空に舞う姿を見るでしょう。空の町・青垣は全国的に知られるフライト・エリアで其の代表的な基地が岩屋山です。
堀底道(手前)と土塁を挟み主郭から八柱神社側に落ちる竪堀

岩屋山から東北へ延びる尾根のジャンクション・ピークかぶと鉢から二股に分かれて北方に落ち込む尾根の末端に佐治城がありました。 西尾根の末端部に西郭西郭・愛宕山への主尾根側末端部に東郭の佐治城(青梨城)があり旧宿場町の中央部を見下ろし監視出来る位置にあり、短い小さな谷間を挟んで山裾・尾根筋をトラバース気味に短絡する通路を介して繋がる此の城を一方を砦規模?だが(土橋付き堀切あり)とみるよりは呼応する東郭を本城とした
佐治城東郭:土塁虎口を二ノ丸に入る


一城別郭の佐治城として機能したものか?。在地土豪足立氏の霊が祀られる八柱神社背後の丸山!にあり「丹波少年自然の家」の整備した”青垣の杜”のハイキングコースとして”かぶと鉢〜竜王山〜岩屋山”へ通じる尾根 上に数段の曲輪を置く東郭(児島氏城)と八柱神社・西往寺を囲う様に突出すもう一方の尾根先には西郭 (青梨城)が在って佐冶の宿場町を見下ろして
青垣町役場・西往寺前から 丸山(佐治城東郭)

・小さな谷を馬蹄形に囲む。西郭へは西往寺山門前からは西方に”日本イエスキリスト教団・青垣教会”の屋根が見えるで畑地の間の細い畦状?の路地を抜けたほうが分かり易いかも!?。 此処から秋葉神社へ参道が通じる。此の参道を挟んで古いが格式高そうな石垣のみが遺る広い屋敷跡があり屋敷跡には回遊式石組の 池庭も残り秋葉社を祀る急斜面の丘陵部を取り込んだ石組の滝もあり谷筋奥の貯水池から導水していたものか?。
東郭(主郭):愛宕社跡の礎石と西〜北をL字状に囲う低土塁

佐冶城の規模や縄張りからみて居館跡とも思えないが代官(陣屋)跡?。町史・郡史・市史等郷土史に見当たらないが 丹波聖人と謳われ儒者:小島省斎が柏原藩校「崇廣館」を退いたあと生地の佐冶に戻り 豪商中野某氏の別邸?を借りて塾を開いた竹西亭が旧佐冶役場の西にあったという。
なを 小島省斎は佐冶城主:児島(小島)伊豆守意種の末裔とも云われます。
西郭部の主郭と帯曲輪

西郭(氷上郡志に八幡神社の西方…とあるが佐治城東郭が児島氏城)。急な石階段を登り詰めた15X20m程の削平段に祀られた秋葉社も出曲輪跡?。其の背後から枝尾根筋を登り始めると直ぐ上方に主曲輪へは低い段差の2-3の曲輪を越えて到着です。南方に延びる尾根筋を連絡道として東郭に繋がっているのかもしれない。此の主尾根筋を土塁付きで高さ2m弱・幅3m強程の小さな空堀を廻して遮断する。土橋付き堀切が主郭に入る城域を
西郭部の帯曲輪(中)と主郭(最上部)

分けるが極小規模の砦城。北下方へ延びる尾根先にも曲輪があり西教寺や中町の公民館(佐治来楽館)が足元にある。山陰道要衝:丹波最後の宿場町佐治の中心部を監視できる好位置にある。急斜面を西下へ下ると西往寺東裏に降り立ち・斜向かいに竹西亭をみる。八柱神社側の東郭は背後(山側)の鞍部から土橋と…途中に片堀切らしいものもあるが 自然地形かも!!・)防御施設は他になさそうだが
西郭部の土橋付き空堀

尾根続き稜線を辿ればカブト鉢や竜王山にも曲輪らしい平坦地形や尾根筋に土橋状の地形を見るので尾根伝いの”逃げの城”構図を推察してみます!!。背後の備えは無防備近い?が北・東正面は急斜面・切岸高く比較的後期まで使用されたと思われる広くて丁寧な削平地や、下方からの登城道は曲輪の切岸に割り込んで付けられた城門を潜る土塁虎口が形成されています。
西郭部の主郭と低土塁(左側に土橋付き空堀)

途中から谷詰めを捲く様に東郭への連絡道があったと思われる。西郭の主曲輪から空堀北東尾根にも佐治の城下へ3〜4段の曲輪が連なり秋葉社が祀られる祠の前に下りてくる。火の神を祭神を守護神として祀る関西の豪族にとって 京都”愛宕社”は関東等から入部の領主にとって”秋葉社”なのかも。児島(小島)伊豆守意種に関連する丹波南朝方拠城の一つだったのかも?。
西郭部下の秋葉神社

東郭と西郭の間・山麓中程に役場や西往寺が建ち足立庄次郎持の庵だともいわれるので 足立氏・小島氏が其々の郭に拠ったものか児島氏の後・足立氏の城となったものか?.。室町時代・足利尊氏が篠村での旗挙げに蘆田氏は尊氏に足立・児島氏等が反尊氏軍として児島高徳に付いて若狭方面から京都へ攻め入っています。信州から来住の芦田氏や武蔵(関東)からの足立氏等が勢力を張ってくると其の歴史の陰に隠れ益々裏舞台にも登場しないので動向は不詳。
佐治城・東郭の山側に続く土橋

文明2年(1470)但馬竹田第3代目城主(1479-152)太田垣宗朝(新左衛門)?が丹波に侵攻し【山名氏方が細川方の内藤氏に圧勝した夜久野ヶ原合戦(1468)の際、山名氏が粟鹿山麓伝いに丹波街道に廻り込み細川方の兵量輸送路を遮断しているが其の時の事か?】青梨山に布陣したというが経緯についても同様に不詳。児島(小島)氏が西郭に児島(小島)氏に付いた在地土豪が 東郭に愛宕社を祀り廃城後・この場所に移されたのかも?西郭の愛宕社を下りると青垣教会の裏には
東郭の二ノ丸に向かう堀底道(2023.3)

三方を総石垣で囲われた一角があり石段積みの内側(立入り禁止)には池庭を中央に配した広い宅地跡がある。立派過ぎる石囲いに台地は城主の居館跡の様相を呈しているが江戸末期以降の豪商・豪農の邸宅跡の様。中野某氏の別邸を借りて私塾を開設した小島省斎の竹西亭跡と思われます?。竹西亭は東郭側山麓の八柱神社鳥居近くに建つ廃屋然とした古舎だが石垣囲みの邸宅跡が私塾だったのでは「氷上郡志」には足立氏!?の素渓園!?と共に名園とある。
(青垣町誌 及び氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)

岩本城(足立館)  青垣町小倉日ヶ谷

青垣中学校南側からは「青垣の杜」の岩屋観音ハイキングコースに向う分岐直ぐ南下の車道横に「小倉・十三人塚」の石碑が建てられているのが見えます。宅地を抜けた西方の谷間には山手に向って田畑が拡がっている。黒尾神社を訪ねるのが目的だが此処は地理不案内。
黒尾神社参道・神社は谷を跨いだ先の丘陵上に祀られる

さらに下方から小川に沿って進むと左手奥に見える大きな寺院が妙法寺でしょうか!。源頼朝に仕えた足立遠元の孫で父:遠光の二男:久保田(左衛門尉)遠政(全国足立姓の祖となる山垣城主・足立遠政)が丹波佐治荘を拝領し地頭として承元3年(1209)武蔵国(東京・埼玉)から入部し最初に居を構えたのが現:青垣中学校西北裏手の山際に在った光明寺跡付近と云われる上屋敷と妙法寺(小島省斎の項を参照)境内が其の下屋敷だったされます。なお:佐治荘は佐治の地からR427・R483号の遠阪川沿いに
黒尾大明神と右手奥に諏訪大明神

但馬に向かう遠阪地区も荘内で岩本から本拠を移した山垣城を中央、南玄関口の佐治に小和田城・足立家菩提寺の報恩寺近くに八幡山段城仮称・松倉城・遠阪峠下の北玄関口に遠阪城・田ノ口城…等々の城砦群が築かれた。佐治宿から要衝但馬街道への分岐を右に直進し妙法寺の先で川沿いを道なりに進んで行ったがもう少し先かと思っていたら何かの作業所の様な所に行当たり?二匹の犬に 吠え追い返えされたが其れが正解に繋がります?。
黒尾神社参道

集落内に 戻っ所で「黒尾さん」なら…と教えられた道は、引返し途中の橋を渡ると東側から谷寄りに舗装道が続いており陣屋跡(牧氏陣屋跡)地名の残る所もあると聞く。氷上郡を領した柏原藩織田家も江戸時代初期(正保1,644-48)頃は小倉・佐治・小和田・檜倉も全域が柏原藩領だったが前記柏原藩は3代続いて後裔なく改易となり天領地を経て貞亨4年(1687)には武蔵国(東京・埼玉・川崎・横浜)より氷上郡に500石を加増された牧長高が佐治・小倉を
牧氏の陣屋跡?を窺わせる台地!!

領有している<兵庫県史>。全域の三分の一以下になり亀山藩(亀岡市)松平・三田藩の九鬼・鶴牧藩の水野・湯長谷藩内藤市他…諸藩の水野・本田・本多・佐野氏等により細分化されている。経緯を知らないが此等諸家のなかに牧氏が小倉と佐治の一部を所領している。陣屋跡と車道を挟む西側にも屋敷跡らしい?平坦地曲輪の外側は深く落ち込んで水濠の様相を見せる谷川が流れる。山手に向う畑地も傾斜は緩いが段差のある田畑は一つ一つが屋敷跡のような気がしてくる。
牧氏の陣屋跡?を窺わせる台地!!

舗装が切れる直前に黒尾大明神の石鳥居が建ち、左右に石積み囲いの参道があり、谷を跨ぐ石橋を渡ると右手奥には足立氏により勧進された諏訪大明神が祀られているが諏訪神社境内に遷された黒尾神社が今は 主客が転倒し産土神としての黒尾大明神が崇敬されている。佐治城の秋葉権現、此処にも足立氏が黒尾大明神・諏訪大明神を 鎮守や守護神として勧進し共に関東来住を物語っているようですね。遠政が山垣城を築いて本拠を移したあとは、
黒尾神社参道左右に曲輪!!・山側は低土塁囲みの二段曲輪

佐治郷周辺に築造された山垣城の支城や砦の一つとして機能してきた事でしょう。
黒尾神社石鳥居からの参道左右(南北)の広い平坦段が続く。 参道山側は低土塁囲みの二段曲輪・西から北へは神社を隔てる深い谷川が自然の堀となって廻る。鳥居前から山側右手に高い切岸を落とす段差の曲輪群があり、其の東端曲輪は切岸下に空堀状貯水池と更に下方の谷川に落ちる…が防御設備は強固とも思えず神社背後や北に延びてきた丘陵上に砦城を設けたと思うが、
黒尾神社鳥居前から、植林帯のなかに下画像の曲輪がある?

此処に足立氏の居城岩本城があり鎌倉時代初期の遠政来住後約150年南北朝の戦乱期に入った正平5年(観応元年1350)頃は 岩本城主足立宗次入道で佐治川(現・加古川)を挟んで佐治・小倉・市原を領有していたとあります。山名氏の但馬国境に近く また鎌倉時代関東から移ってきた芦田氏とは東に吼子尾の峰(小室城)に隣接し南に拡がる氷上には丹波守護代の久下氏や赤井・荻野の諸豪族が勢力を張っていたので、その侵攻の備えて周辺に多くの城を築いていきました。
画像上部中央右車道に鳥居。下の画像右手曲輪から望む…岩本城館跡?

遠政の次男足立遠信の小和田城や中佐治城(足立氏持か)は作業林道や北近畿自動車道トンネル工事、古墳発掘調査と埋め戻しで遺構残存も風前の灯火状態?。こんな所にも?と思える小稗城や稲土城にも城を築いて足立一族を配したのでしょう。やがて黒井城・赤井(荻野)氏の台頭で久下・芦田・足立氏はじめ丹波氷上の諸豪は 其の傘下に組み入れられたが信長の”丹波平定”では八上城・波多野氏と共に抵抗していたが天正5年(1577)遠阪峠から侵攻してきた
黒尾神社:鳥居前北(山側)に拡がる曲輪群!!

羽柴秀長軍により遠阪城・山垣城や芦田氏の小室城・栗栖野城とその支城は尽く落とされ城主と一族郎党の多くが 討死し諸氏が滅亡します。岩本城もこの時まで存在し落城したものでしょうか?。時の城主:足立基則は香良合戦後赤井氏への遺恨!!あり足立一族から造反し光秀方に付いたものか?。 佐治荘領主足立氏400年の長い歴史に終止符が打たれます。
(氷上郡志 青垣町誌 を参照)

遠政上屋敷と下屋敷  xxxm  青垣町小倉
遠政上屋敷(太夫殿屋敷) 光明寺廃寺跡(青垣中学校)
遠政下屋敷        妙法寺境内

承元3年(1209)源頼朝に仕えた 藤原遠元(足立姓を名乗る)の孫足立遠政(足立遠光の子)が武蔵足立郡桶川郷(埼玉県桶川市)から鎌倉幕府より氷上郡(丹波市)佐治荘の地頭職を拝領して入封、 最初に築いた居館が遠政上屋敷(太夫殿屋敷・光明寺跡)とされている。市道沿いの十三人塚と青垣中学校との中程に大師野公園案内標識が立ち、 青垣の杜のハイキングコースの一つ。山間に入って行く「岩屋山・高源寺ハイキングコース入口」から50m程・青垣中学校の西側山裾残る 20mx30m程の藪の台地ですが、
光明寺跡?の台地:足立遠政上屋敷!!(中学校西裏手)

其の前に拡がる中学校敷地一帯に足立氏一族の武家屋敷が建っていたのでしょうか?。 佐治川(加古川)を挟んで東側堤防に風向きを計る赤白の吹流しが立つ。中学校裏山尾根は岩屋山へと延び、山上をテイクオフしたパラグライダーが次々と此の休耕田?にランディリングしてくる。西側は圃場から7-8m高い位置に市道が走り4〜5m高い台地上に 青垣中学校が建つ。学校敷地西裏山裾の北側から東端(段ヶ端)を囲い込む様に深い溝谷が佐治川(加古川)へ流れ込み天然の濠となり東面も2段の高い切岸を 形成しているようです。市道を南に向うと先程の大師野公園への入口十三人塚を過ぎ、
青垣中学校北東角(段ヶ端):上屋敷跡と堀?

橋は「大橋」ですが小さな溝谷を渡る。橋の南下・溝谷に面して妙法寺【檀家であった丹波聖人:小島省斎の墓所でもあり省斎筆になる山号の 「立正山」扁額が掲げてある。省斎は但馬聖人と呼ばれた池田草庵とは古くより親交があったが草庵の母が佐治郷岩本の足立家から池田家に嫁いでいる。また卵塔の中央に小さいながら石龕が置かれ中に五輪塔が納まり当山創草xxxとある。 妙法寺開山の智願院日?(山に元)上人と源勝院殿日法大居士とあるのが開基足立権太兵衛基則。此の基則について居館跡以上に興味を持った(後述)】が建つ。妙法寺境内が遠政下屋敷とされている。
パラグライダーが中学校前の佐治川にランデイングしてくる

境内墓地側を北から東へ刻まれる此の溝谷もまた佐治川へ流れ出る。妙法寺は丹波路最北の宿場町・ 其の面影を残す旧但馬街道の”右・但馬 左・生野”を示す石道標の分岐を過ぎて生野側へ少し入った所。下屋敷・上屋敷は生野への街道筋にあり開山遠谿和尚(遠政の孫で足立光基の三男)の建立による高源寺(丹波紅葉三山の一)前から大名草を経て朝来市黒川へ越え銀山湖沿いに生野町へ出る。遠政は万歳山に 山垣城を築いて本拠地を遷し岩本城(足立館)・遠阪城・小和田城(遠政二男左衛門遠信の築城)・小碑城・稲土城・田ノ口城・松倉城等荘園内全域に城を築いて山垣城の支城として一族を分住させます。
下屋敷(妙法寺)から上屋敷(青垣中学校右上)を望む)

貞治・応安(1362-75)頃の山垣城・岩本城(足立館)足立宗次入道は山名氏方に付いていた様で但馬側黒川を領していたのでしょう。黒川温泉の側にある大明寺に黒川の所領地を正平22年(1367)寄進している。 妙法寺は法華宗真門流の開祖日真上人の直弟子で天文年間に丹波を巡り岩本の庵室で説法をしていたところ岩本城主足立権太兵衛基則(丹波志には足立左衛門太夫? )の帰依を得て寄進された下屋敷に妙法寺が建立された「丹波史年表に天文22年(1553)」天 正の乱では明智光秀に属し本能寺の変:天正10年(1582)6月参戦し弟宗直(宗立!?)・子息(養子!?)宗忠とともに翌1月18日亀山(亀岡市)で 《秀吉軍の残党狩りによるものか!》自害したと云う。
大橋!?から「遠政下屋敷」の妙法寺墓所と溝谷

基則の妻女の実家は桑山家といわれ天正10年6月桑山修理亮重勝の制札を下付させ、妙法寺を外護させている。桑山重勝(重晴)は丹羽長秀・豊臣秀吉・秀長に仕えた武将で天正8年但馬竹田城城主となり天正13年の紀州攻め後に秀吉から紀伊領主秀長の家老職を命ぜられ和歌山城代となり出家し慶長5年(1600)修理太夫の官位を嫡孫の一晴に譲った和歌山時代に海龍王寺(奈良市法華寺)より、 南都絵仏師大法眼命尊筆の涅槃像を入手し妙法寺に寄進しています。さて織田信長「丹波攻略」が始まるのが天正3年(1575)で其の開始前:天文23年(1554)正月・朝日城主荻野直正が黒井城主の叔父
妙法寺:足立基則墓所(下屋敷)

秋清を刺殺して黒井城主となると氷上郡内から天田・何鹿・但馬一部をも支配下に押さえ勢力を拡大させていきます。翌:弘治元年(1555)山垣城主足立基則や隣領主の芦田氏(山室城・沼城・栗住野城主)等は丹波守護代:内藤国貞や幕下にいた三好長慶を頼り、連合して一挙に赤井一族を討とうと香良に集結しこれを赤井・荻野一族が奇襲し内藤・三好軍は口丹波へ逃れ沼城主芦田光遠は討たれ、双方に多数に死傷者を出し荻野直正も傷を負ったが勝敗を決せないまま丹波史に残る香良合戦後、但馬側へも勢力を拡大していくなか足立氏 ・芦田氏は直正に服して黒井城傘下に加わる。天正5年(1577)二度目の丹波攻めに遠阪峠から侵攻してきた羽柴秀長軍によって【但馬山名氏は遠阪・秀長の大軍は、より短絡で低い峠越えの夜久野から千原峠を選んだ
足立基則墓所後に二祖・三祖と中央に先祖・足立遠元(源勝院殿xx)を祀る

と 思えます !!】一挙に遠阪城 ・山垣城や芦田氏の小室城・栗栖野城や、これらの支城は尽く落とされ寺々も焼かれ・城主と一族郎党の多くが討死し諸氏は滅亡。妙法寺は被災を免れ織田方の制札が立てられ陣所ともなったようです。足立氏・芦田氏等の一部は荻野氏に付いたが天正7年黒井城落城の三度目の丹波攻めの際に多くは逃走また帰農したと思われ直正も病死・籠城の兵に士気薄く総攻撃に落城というより開城された様子。香良合戦後の岩本城・山垣城主:足立基則は直正には従わず敗走します。足立一族からは造反するが黒井城攻略の際には明智光秀の臣斉藤利三につき天正10年(1582)6月に本能寺へも攻め入った。
岩屋山登山口:大師野の光明寺跡

足立一族が領地に帰農・生き残る保障に尽力し、明智謀反の「本能寺の変」による秀吉の詮索には足立一族へ災禍が及ぶのを危惧して翌:天正11年亀山で自刃したものか…。妙法寺の基則の墓には覚悟の自刃前か?天正11年建立の足立氏元祖(遠元・戒名:源勝院殿xx)の石碑と左右には 二祖(遠光)・三祖(遠政)を祀ったものと思える 石碑が歴代住職の卵塔?を前にして立つ。
(氷上郡志・青垣町誌・丹波志 ふる里の寺(丹波新聞)・Web百科Wikipediaを参照)

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