丹波青垣「空中散歩の径」 カブト鉢〜イゲ〜仁右エ門山(竜王山)〜岩屋山 |
(佐治郷小倉の十三人塚)
封建社会の世では豪族が割拠し・社寺は大いに領域を延し、そんな中にあつては小さくなって・生きる為に汗水たらし、
もがく農民の悲惨な生活など今の人々には想像もつかないことでしょう。生活のため、寒さを凌ぐ暖をとる為の薪をとっていた山さえ、
とり上げられた農民哀史です。青垣町は畿内でも人気の高いスカイスポーツの基地として初級〜上級向け、フライトゾーンが幾つか設定されていますが、岩屋山からのフライトがピカ一です。その山頂から岩屋観音〜大師野公園を経て
佐治の小倉に降って来ます。
岩屋観音・観音道の石像
山を所有する事が人々の 生活の
糧として最重要な位置にあった事は丹波柏原・石戸山の”山あらそい”でも知られ「丹波のお話」新井・石見神社の大囲碁でも紹介しています。
小倉村の大半は神楽の高源寺(三丹随一の紅葉の寺で有名)の寺領で占められ、辛うじて食う為の労働は出来たが最も困ったのは薪の問題。寺領から逃れ得た山を頼りに来る日の薪を貯えては、ささやかに細い煙をたてての生活を送っていた。
ところが困った問題が持ち上がった。 この地に大きな勢力を持つ富の豪大内氏が諏訪神社を小倉の地に移して祭ると言う。この地の人にとって
嬉しいことには相違なかったが山が社領になることを思えば絶望です・・・と云って力の無い彼等にはどうすることも出来ません。不安のうちにも諏訪神社は富豪大内氏によって祭祀されました。冬が近くなると 彼等にとって深刻な薪の問題が表面化してきます。
「自分達の薪を何処から取って来れば良いのか」「薪が無ければこの冬をどうして暮らすのか」毎日が悲痛な、この話しで明け暮れるが明暗など浮かんできません。
佐治宿から生野・丹後・大坂への道標
とうとう「オレの家では薪が無くなった」 「子供が凍え死にそうになってきた」 淋しく訴え合うようになり或る木枯らしの吹く 夜寒にちぢむ手足を擦りながら…
遂に決死的な方法を考えます。「オイ もう行くぞ 」…暗闇の中で抑えるような呼び声がして十三人の一行は山深く進んで行った。寺領と社領で占められた小倉の住民には堂々と薪をする処などありません。山奥へ行けば何とかなるだろうと辿り着いたのが
西芦田のクラマチ山。(丹波少年自然の家からカヤマチ山への林道沿いに倉町川が流れています。佐治から回り込んだ自然の家の背山・イゲ辺りの山のことだろうか!!?)耳を澄まして人の気配を気遣いながら薪を作る。ところが何処から現われたか
憤怒に満ちた鋭い声と共に山主が現われる。「ヤイッ薪泥棒」…驚いた彼らは悲しそうな面持ちで立ちすくんでしまった。悪いとは知りながらも犯さねばならなかったのですが、何の言い逃れも出来ないことは充分承知していたのです。十三人は他人の山へ入り薪を盗んだ罪により捕らえられます。隣郷・大原神社の神主で枝という学者が此れを聞きつけ、可哀想な事じゃと八方手を尽くしますが聞き入れられず
彼らは処刑されてしまいます。
佐治郷・小倉の十三人塚(中央は徳本上人顕彰碑)
悲しみ、寒さ、餓えに泣く小倉の遺留者達の手により佐治と芦田の境界の地に葬られ哀れな貧農哀史も茶飯事として 終末を告げられますが、枝氏も「私の力が至らなかった」と同所で割腹、永久彼等の守り神になったといいます。今も残る十三人塚の由緒は
わずかに土地の古者に云い伝わっているだけだということです。大きな三っの石碑の中央は天保年間建立の徳本上人名号碑。十三人塚前の車道を下ってくると、
生野/但馬・丹後/大坂を分け要衝の三叉路に古い石道標が立つ。街道筋は左折は兵庫丹波の北端に位置する国境の宿場町・佐治宿でした。(下記の記事も参照下さい)
(由緒を尋ねて 丹波叢書 第三集を 参照)
国境の宿場町・佐治
京都〜亀岡〜篠山へ通じる京街道や能勢・阪神等の摂津道から篠山を経て丹波氷上に入ってくると、北方遠くに望む峰々の向こうは但馬国です。国境に接した青垣町の峠を越えて生野や北播磨(中町や八千代町方面)へ、また最も多くの歴史を刻む但馬から出雲へ向う古代の山陰(出雲)道は
佐治宿の町並み
遠阪峠を越えて朝来郡和田山町へ千原峠(地図上では同じ峠名が近くにあるが、手掘りの小さなトンネルが残る)を越えて、
夜久野・福知山へ抜け丹後へ入る巡礼道と丹後道が交錯する交通の要衝に位置して佐治宿が有りました。古色蒼然とした道しるべの大きな石標(上記・十三塚に写真添付)ですが建てられたのは其れ程古くはなく、天保6年(1835)と刻まれており三叉路に立っています。一帯は旧佐治郷の宿場町の街道風情が残り、その狭い町並みを抜け石導標のある交差点を右折すると、
佐治宿の町並み
加古川(旧・佐治川)を渡り R427号線に出る。直進すると遠阪峠・左折すると大名草を経て播州峠を多可郡へ、山間のR429が銀山で知られ
た朝来郡の生野町へ通じます。篠山を発って丹波路で最後の宿場町となる国境の要衝に有った青垣町佐治は市が開かれ、物資の集散地として氷上郡一
(現・丹波市)の商業町として発展してきた名残が、町並みに其の風情を漂わせています。
佐治川(神楽川)板橋跡!!から佐治宿と佐治城(二つの低山)とカブト鉢
此の辺り(佐治〜遠阪)は奈良朝期(天平時代頃 ?)に佐治郷と呼ばれ平安時代には宿駅 ・佐治の名が文献上に表われてきます。
保元3年(1158)か?元徳年間(1329-31)頃に 信州信濃から 来住した芦田(葦田)氏が佐治の東方、吼子尾の峯に城を築き、遠阪の山垣には全国・足立氏の祖となる
足立遠政が領地を統括します。
佐冶城東郭:ニノ丸と西北面の切岸
いずれも丹波最古参の城館を築き、
幾度かは反目する両者間で小競り合いは有ったでしょうが、共に黒井城・赤井氏傘下に組み入れられながら明智の丹波攻めに滅ぼされるまで
400年の長い間領地を 支配してきました。天正7年 (1579)光秀に制された丹波は羽柴秀吉配下となり、慶長〜元禄年間(1596〜1704)頃にかけては村町を分割して柏原藩や幕府領となっているが、市が開かれ特産の丹波布や
佐治城西郭:東北尾根末端曲輪は佐治宿中央部を足下に監視出来る位置
佐治つむぎ・和紙
・養蚕も盛んだった様で、其の後も明治期の製糸業で隆盛を極めた頃の映画セットの様な商家が多く残り、更には間近に迫る丘陵上に山城が残されていました。(下記「近畿の山城」佐治城を参照してください)佐治の町並みの東
:県道沿い”道の駅あおがき”には丹波布伝承館がある。
佐治城(青梨城) 岩本城(足立館) 足立遠政下屋敷・上屋敷
佐治城(児島氏城・青梨城) 丸山・青梨山・城山 Ca190m 青垣町佐治字丸山
休日の「道の駅あおがき」から岩屋山頂を望めばサーマルを受けて
テイク・オフしたパラグライダーや時にはハンググライダーも空を舞うフライヤーの姿を 見るでしょう。
空の町・青垣は全国的に知られるフライト・エリアで、其の代表的な基地が岩屋山です。岩屋山から東北へ延びる尾根のジャンクション・ピークかぶと鉢から二股に分かれて北方に落ち込む尾根の末端に佐治城がありました。
二ノ丸:上部中央が土塁虎口
西尾根の末端部に西郭西郭・愛宕山への
主尾根側末端部に東郭の佐治城(青梨城)があり、旧宿場町の中央部を見下ろし監視出来る位置にあり、また短い小さな谷間を挟んで山裾・尾根筋をトラバース気味に短絡する通路を介して繋がる此の城を、一方を砦規模だが(土橋付き堀切あり)とみるよりは、呼応する東郭を本城とした一城別郭の佐治城として機能したものとして紹介しておきます。
在地土豪足立氏の霊が祀られる八柱神社背後の丸山!にあり
佐治城東郭:土塁虎口を二ノ丸に入る
「丹波少年自然の家 」が整備した”青垣の杜”のハイキングコースとして”かぶと鉢〜竜王山〜岩屋山”へ通じる尾根上に数段の曲輪を置く東郭(青梨城)と八柱神社・西往寺を囲う様に・突出すもう一方の尾根先には西郭(
児島氏城)が在って佐冶の宿場町を見下ろして・小さな谷を馬蹄形に囲む。西郭へは西往寺山門前からは西方に”日本イエスキリスト教団
・青垣教会”の屋根が見えるで、畑地の間の細い畦状?の路地を抜けたほうが分かり易いかも!!?。
青垣町役場・西往寺前から丸山(佐治城東郭)
此処から秋葉神社への参道が通じている。此の参道を挟んで古いが格式高そうな石垣のみが遺る広い屋敷跡がある。屋敷跡の敷地内には回遊式石組の池庭も残り、
秋葉社を祀る急斜面の丘陵部を取り込んだ石組の滝もあり、谷筋奥の貯水池から導水していたものか?。佐冶城の規模や縄張りからみて居館跡とも思えないが
代官(陣屋)跡?。れも町史・郡史・市史等郷土史に見当たらないが丹波聖人と謳われ儒者:小島省斎が
東郭(主郭):愛宕社跡の礎石と西〜北をL字状に囲う低土塁
柏原藩校 「崇廣館」を退いたあと、
生地の佐冶に戻り豪商中野某氏の別邸?を借りて塾を開いた”竹西亭”が旧佐冶役場の西に在ったという。 塾とは近い豪商の屋敷が此処だったか!!?。なを小島省斎は佐冶城主:児島(小島)伊豆守意種の末裔とも云われます。西郭(氷上郡志に八幡神社の西方…とあり、寧ろ西郭が佐治城<児島氏城>)。
急な石階段を登り詰めた15X20m程の削平段に祀られた秋葉社も出曲輪跡?。其の背後から枝尾根筋を登り始めると直ぐ上方に主曲輪へは低い段差の2-3の曲輪を越えて到着です。
西郭部の主郭と帯曲輪
南方に延びる尾根筋側を連絡道として 東郭に繋がっているのかもしれません。此の主尾根筋を土塁付きで高さ2m弱?・幅3m強程の
小さな空堀を廻して遮断する。土橋付き堀切が主郭に入る城域を分けるが極小規模の砦城。北下方へ延びる尾根先にも曲輪があり、
西教寺(覗き込んでも見えない手前)や中町の公民館(佐治来楽館)が足元に在る。山陰道要衝:丹波最後の宿場町佐治の中心部を監視できる好位置にある。急斜面を西下へ下ると西往寺東裏に降り立ち・斜向かいに竹西亭をみる。
西郭部の帯曲輪(中)と主郭(最上部)
八柱神社側の東郭は背後(山側)の鞍部から 長い土塁道(土橋?…途中に
片堀切らしいものもあるが自然地形かも!!・)防御施設は他になさそうだが尾根続き稜線を辿ればカブト鉢や竜王山にも曲輪らしい平坦地形や尾根筋に
土橋状の地形を見るので、尾根伝いの”逃げの城”構図を推察してみます!!。背後の備えは無防備近い?が北・東正面は急斜面・切岸高く、比較的後期まで使用されたと思われる広くて丁寧な削平地や、下方からの登城道は曲輪の切岸に割り込んで
付けられた城門を潜る土塁虎口が形成されています。
西郭部の土橋付き空堀
途中から谷詰めを捲く様に
東郭への連絡道が有ったと思われます。西郭の主曲輪から空堀北東尾根にも佐治の城下へ3〜4段の曲輪が連なり秋葉社が祀られる祠の前に下りてきます。火の神を祭神とし・守護神として祀られるのは、関西の在地豪族にとっては京都”愛宕社”なのだが・関東等から入部の領主にとっては”秋葉社”なのかも。児島(小島)伊豆守意種に関連する
丹波南朝方の拠城の一つだったのかも?。東郭と西郭の間・山麓中程に役場や西往寺が建ち、
西郭部の主郭と低土塁(左側に土橋付き空堀)
この西往寺は足立庄次郎持の庵だとも言われますので足立氏・小島氏が其々の郭部に拠ったものか、児島氏の後・足立氏の城となったものか!!?.。室町時代・足利尊氏が篠村での旗挙げに蘆田氏は尊氏に足立・児島氏
等が反尊氏軍として児島高徳に付いて若狭方面から京都へ攻め入っています。 信州から来住の芦田氏や武蔵(関東 )からの足立氏等が勢力を張ってくると、
其の歴史の陰に隠れ益々裏舞台にも登場しないので動向は不詳。
西郭部下の秋葉神社
文明2年(1470)但馬竹田第3代目城主となる<1479-1521>太田垣宗朝(新左衛門)?が丹波に侵攻し【山名氏方が細川方の内藤氏に圧勝した夜久野ヶ原合戦(1468)の際、山名氏が粟鹿山麓伝いに丹波街道に廻り込み細川方の兵量輸送路を
遮断しているが其の時の事か?】青梨山に布陣したといいますが経緯についても 同様に不詳です。児島(小島)氏が西郭に、児島(小島)氏に付いた在地土豪が
東郭に愛宕社を祀り、廃城後・この場所に移されたのかも…?西郭の愛宕社を下りると青垣教会の裏には,三方を総石垣で囲われた一角が有り、石段積みの内側(立入り禁止)には池庭を中央に配した広い宅地跡が有る。
佐治城・東郭の山側に続く土橋
立派過ぎる石囲いに台地は城主の居館跡の様相を呈しているが、江戸末期以降の豪商・豪農の邸宅跡の様。
中野某氏の別邸を借りて私塾を開設した小島省斎の竹西亭跡と思われます?。竹西亭は東郭側山麓の八柱神社鳥居近くに建つ
廃屋然とした古舎だが、石垣囲みの邸宅跡が私塾だったのでは、「氷上郡志」には足立氏!?の素渓園!?と共に名園とある。
(青垣町誌 及び氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)
岩本城(足立館) xxxm 青垣町小倉日ヶ谷
青垣中学校の南側からは「青垣の杜」ハイキングコースの岩屋観音に向う分岐がある。 直ぐ南下の車道横には上記の「小倉・十三人塚」の石碑が建てられているのが見えます
。宅地を抜けた西方の谷間には 山手に向って田畑が拡がっています。黒尾神社を訪ねるのが目的ですが此処は地理不案内。さらに下方から小川に沿って進むと左手奥に見える大きな寺院が妙法寺でしょうか!。
黒尾神社参道・神社は谷を跨いだ先の丘陵上に祀られる
源頼朝に仕えた足立遠元の孫で父:遠光の二男久保田(左衛門尉)遠政
(全国足立姓の祖となる山垣城主・足立遠政)が丹波佐治荘を拝領し地頭として承元3年(1209)武蔵国(東京・埼玉)から入部し最初に居を構えたのが現:青垣中学校西北裏手の 山際に在った光明寺跡付近と云われる上屋敷と
妙法寺(小島省斎の項を参照)境内が其の下屋敷だったされます。なお:佐治荘は佐治の地からR427・R483号の遠阪川沿いに
黒尾大明神と右手奥に諏訪大明神
但馬に向かう遠阪地区も荘内で岩本から本拠を移した山垣城を中央に、南玄関口の佐治に
小和田城・足立家菩提寺の報恩寺近くに八幡山段城<仮称>・
松倉城・遠阪峠下の北玄関口には遠阪城・田ノ口城…等々の城砦群が築かれて
いる。佐治宿から要衝但馬街道への分岐を右に直進し、妙法寺の先で川沿いを道なりに進んで行ったがもう少し先かと思っていたら何かの作業所の様な所に行当たり
?二匹の犬に吠え追い返えされたが其れが正解に繋がります?。
黒尾神社参道
集落内に
戻っ所で「黒尾さん」なら…と教えられた道は、引返し途中の橋を渡ると東側から谷寄りに舗装道が続いており”陣屋跡”(牧氏陣屋跡…詳細不詳)の地名の残る所もあると聞く。氷上郡(丹波市)を領した柏原藩織田家も江戸時代初期(正保1,644-48)頃には小倉・佐治・小和田・檜倉も全域が柏原藩のものだったが、前記柏原藩は3代続いて 後裔無く改易となり、天領地を経て貞亨4年
(1687)には武蔵国(東京・埼玉・神奈川県の川崎・横浜)より氷上郡に500石を加増された
牧氏の陣屋跡?を窺わせる台地!!
牧長高が佐治・小倉を領有している<兵庫県史>。全域の三分の一以下になり、亀山藩(亀岡市)松平・三田藩の九鬼・鶴牧藩の水野・湯長谷藩内藤市他…諸藩の水野・本田・本多・佐野氏等により細分化されている。経緯を知らないが
此等諸家のなかに牧氏が小倉と佐治の一部を所領としているのがみえる。陣屋跡と車道を挟む西側にも屋敷跡らしい?平坦地曲輪の外側は深く落ち込んで
水濠の様相を見せる谷川が流れる。 山手に向う畑地も傾斜は緩いが段差のある田畑は一つ一つが屋敷跡のような気がしてくる。
牧氏の陣屋跡?を窺わせる台地!!
舗装が切れる直前に黒尾大明神の石鳥居が建ち、左右に石積み囲いの参道があり、谷を跨ぐ石橋を渡ると右手奥には足立氏により勧進された諏訪大明神が
祀られているが諏訪神社境内に遷された黒尾神社が今は 主客が転倒し・産土神としての黒尾大明神が崇敬されています。佐治城の秋葉権現、
此処にも足立氏が黒尾大明神・諏訪大明神を 鎮守や守護神として勧進し共に関東来住を物語っているようですね。遠政が山垣城を築いて本拠を移したあとは、
黒尾神社参道左右に曲輪!!・
山側は低土塁囲みの二段曲輪
佐治郷周辺に築造された山垣城の支城や砦の一つとして機能してきた事でしょう。黒尾神社石鳥居からの参道左右(南北)の広い平坦段が続く。
参道山側は低土塁囲みの二段曲輪・西から北へは神社を隔てる深い谷川が自然の堀となって廻る。鳥居前から山側右手にも・より高い切岸を落とす段差の曲輪群があり、
其の東端曲輪は切岸下に空堀状貯水池と更に下方の谷川に落ちる。…が防御設備は強固とも思えず・神社背後や北に延びてきた丘陵上に砦城を設けたと思うが、
黒尾神社鳥居前から、植林帯のなかに下画像の曲輪がある!?
いずれにしても此処に足立氏の居城岩本城があり、鎌倉時代初期の遠政来住後約150年、南北朝の戦乱期に入った正平5年
(観応元年1350)頃は岩本城主足立宗次入道で佐治川(現 ・加古川)を挟んで佐治・小倉・市原を領有していたとあります。山名氏の但馬国境に近く
また鎌倉時代には関東から移ってきた芦田氏とは東に吼子尾の峰(小室城)に隣接し、南に拡がる氷上には丹波守護代の久下氏や赤井・荻野の諸豪族が勢力を張っていたので、
その侵攻の備えて周辺に多くの城を築いていきました。
画像上部中央右車道に鳥居。下の画像右手曲輪から望む…岩本城館跡?
遠政の次男足立遠信の小和田城や中佐治城 (足立氏持か?)は作業林道や北近畿自動車道トンネル工事、古墳発掘調査と埋め戻しで遺構残存も風前の灯火状態?。こんな所にも?と思える小稗城や稲土城にも城を築いて
足立一族を配したのでしょう。これらの城も何処かの山関連内で訪城レポートします。やがて黒井城・赤井(荻野)氏の台頭で久下・芦田・足立氏はじめ
丹波氷上の諸豪は、其の傘下に組み入れられたが、信長の”丹波平定”では八上城・波多野氏と共に抵抗していたが 天正5年(1577)遠阪峠から侵攻してきた
黒尾神社:鳥居前北(山側)に拡がる曲輪群!!
羽柴秀長軍によって遠阪城・山垣城や芦田氏の小室城・栗栖野城や、これらの支城は尽く落とされ城主と一族郎党の多くが
討死し諸氏が滅亡します。岩本城もこの時まで存在し落城したものでしょうか?!。時の城主:足立基則は香良合戦後赤井氏への遺恨!!あり足立一族から造反して光秀方に付いたとも・・!。佐治荘領主足立氏400年の長い歴史には終止符が打たれます。
(氷上郡志 青垣町誌 を参照)
遠政上屋敷と下屋敷
xxxm 青垣町小倉
遠政上屋敷(太夫殿屋敷) 光明寺廃寺跡(青垣中学校)
遠政下屋敷 妙法寺境内
承元3年(1209)源頼朝に仕えた
藤原遠元 (足立姓を名乗る)の孫足立遠政(足立遠光の子)が武蔵足立郡桶川郷(埼玉県桶川市)から、鎌倉幕府より氷上郡(丹波市)佐治荘の地頭職を拝領して入封、
最初に築いた居館が遠政上屋敷(太夫殿屋敷)【光明寺跡】とされています。市道沿いに立つ十三人塚と青垣中学校との中程に大師野公園の案内標識が立ち、
青垣の杜のハイキングコースの一つで、山間に入って行く「岩屋山・高源寺ハイキングコース入口」から50m程・青垣中学校の西側山裾残る 20mx30m程の藪の台地ですが、其の前に拡がる中学校敷地一帯に足立氏一族の武家屋敷が建っていたのでしょうか?。
光明寺跡?の台地:足立遠政上屋敷!!(中学校西裏手)
佐治川(加古川)を挟んで東側堤防に風向きを計る赤白の吹流しが立つ。
中学校裏山尾根は岩屋山へと延び、 山上をテイクオフしたパラグライダーが次々と此の休耕田?にランディリングしてくる。西側は圃場から7〜8m高い位置に市道が走り4〜5m高
い台地上に青垣中学校が建つ。学校敷地の西裏山裾の北側から東端(段ヶ端)を囲い込む様に 深い溝谷が佐治川(現:加古川)へ流れ込み天然の濠となり、
東面も2段の高い切岸を形成しているようです。市道を南に向うと先程の大師野公園への入口・十三人塚を過ぎ、
青垣中学校北東角(段ヶ端):上屋敷跡と堀?
橋は「大橋」ですが小さな溝谷を渡る。 橋の南下・溝谷に面して
妙法寺 【檀家であった丹波聖人:小島省斎の墓所でもあり省斎筆になる山号の
「立正山」扁額が掲げて有る。省斎は但馬聖人と呼ばれた 池田草庵とは古くより親交があったが、草庵の母が佐治郷岩本の足立家から池田家に嫁いでいる。また卵塔の中央に小さいながら石龕が置かれ中に五輪塔が納まり、当山創草xxxとある。妙法寺開山の智願院日?(山に元)上人と源勝院殿日法大居士とあるのは開基足立権太兵衛基則。此の基則について居館跡以上に興味を持った(後述)】が建つ。
妙法寺境内が遠政下屋敷とされている。
パラグライダーが中学校前の佐治川にランデイングしてくる
境内墓地側を北から東へ刻まれる此の溝谷もまた佐治川へ流れ出る。妙法寺は丹波路最北の宿場町・其の面影を残す旧但馬街道の”右・但馬 左・生野”を示す石道標の分岐を過ぎて
生野側へ少し入った所。下屋敷・上屋敷は生野への街道筋に在り、開山遠谿和尚(遠政の孫で足立光基の三男)の建立による高源寺(丹波紅葉三山の一)前から
大名草を経て朝来市黒川へ越え銀山湖沿いに生野町へ出る。遠政は万歳山に
山垣城を築いて本拠地を遷し岩本城(足立館)・遠阪城・
小和田城(遠政二男:左衛門遠信の築城)・小碑城・
稲土城・田ノ口城
・松倉城等、荘園内全域に城を築いて山垣城の支城として一族を分住させます。
下屋敷(妙法寺)から上屋敷(青垣中学校右上)を望む)
南北朝期の貞治・応安(1362-75)頃の山垣城・岩本城(足立館)の 足立宗次入道は 山名氏方に付いていた様で
但馬側黒川を領していたのでしょう。黒川温泉の側にある大明寺に黒川の所領地を正平22年(1367)寄進しています。妙法寺は法華宗真門流の開祖日真上人の直弟子で天文年間に丹波を巡り岩本の庵室で説法をしていたところ、岩本城主足立権太兵衛基則
(丹波志には足立左衛門太夫!!? )の帰依を得て寄進された其の下屋敷に 妙法寺が建立された【丹波史年表に天文22年(1553)】。丹波天正の乱では
明智光秀に属し本能寺の変:天正10年(1582)6月に参戦し弟宗直(宗立!?)・子息(養子!?)宗忠とともに翌1月18日亀山(亀岡市)で《秀吉軍の残党狩りによるものか!!》自害したと云う。
大橋!?から「遠政下屋敷」の
妙法寺墓所と溝谷
基則の妻女の実家は桑山家といわれ、天正10年6月に桑山修理亮重勝の制札を下付させ、妙法寺を外護させている。この桑山重勝(重晴)は
丹羽長秀・豊臣秀吉・秀長に仕えた武将で、天正8年但馬竹田城城主となり天正13年の紀州攻め後に秀吉から紀伊領主秀長の家老職を命ぜられ和歌山城代となり、
出家し慶長5年(1600)修理太夫の官位を嫡孫の一晴に譲った和歌山時代に海龍王寺(奈良市法華寺)より、南都絵仏師大法眼命尊筆の涅槃像を入手し妙法寺に寄進しています。さて織田信長「丹波攻略」が始まるのが天正3年(1575)で其の開始前:天文23年(1554)正月
・朝日城主荻野直正が
妙法寺:足立基則墓所(下屋敷)
黒井城主の 叔父秋清を刺殺して黒井城主となると
氷上郡内から京都天田・何鹿・但馬の一部をも支配下に押さえ勢力を拡大させていきます。翌:弘治元年(1555)山垣城主足立基則や隣領主の芦田氏(山室城・沼城・栗住野城主)等は、丹波守護代:内藤国貞や幕下にいた三好長慶を頼り、連合して一挙に
赤井一族を討とうと香良(こうら)に集結しこれを赤井・荻野一族が奇襲し内藤・三好軍は口丹波へ逃れ、沼城主芦田光遠は討たれ、 双方に多数に死傷者を出し、
赤井直正も傷を負ったが勝敗を決せないまま丹波史に残る香良合戦後、但馬側へも勢力を拡大していくなか足立氏 ・芦田氏は直正に服して黒井城傘下に加わります。
天正5年(1577)二度目の丹波攻めに・遠阪峠から侵攻してきた羽柴秀長軍によって【但馬山名氏は遠阪・秀長の大軍は、より短絡で低い峠越えの夜久野から千原峠を選んだと
思えます !!】
足立基則墓所後に二祖・三祖と中央に先祖・足立遠元(源勝院殿xx)を祀る
一挙に遠阪城 ・山垣城や芦田氏の
小室城・栗栖野城や、これらの支城は尽く落とされ寺々も焼かれ・城主と一族郎党の多くが討死し諸氏は滅亡しますが、妙法寺は被災を免れ 織田方の制札が立てられ、陣所ともなったようです。足立氏 ・芦田氏等の一部は赤井氏に付いたが天正7年黒井城落城の
三度目の丹波攻めの際は、其の多くは逃走・また帰農したと思われ直正も病死・籠城の兵に士気薄く・総攻撃には落城というより開城された様子。香良合戦後の岩本城・山垣城主:足立基則は直正には従わず敗走します。足立一族からは造反するが 黒井城赤井氏攻略の際には明智光秀の臣:斉藤利三配下にいて、天正10年(1582)6月に本能寺へも攻め入っています。
足立一族が領地に帰農・生き残る保障に尽力し、
岩屋山登山口:大師野の光明寺跡
明智謀反の「本能寺の変」による秀吉の詮索には足立一族へ 災禍が及ぶのを危惧して翌:天正11年亀山で自刃したものか…。妙法寺の基則の墓には覚悟の自刃前か?天正11年建立の足立氏元祖(遠元・戒名:源勝院殿xxx)の石碑と左右には二祖(遠光)・三祖
(遠政)を祀ったものと思える 石碑が歴代住職の卵塔?を前にして立つ。
(氷上郡志・青垣町誌・丹波志 ふる里の寺(丹波新聞)・Web百科Wikipediaを参照)
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